対幅
【対幅】
《なにかをえらぶときに手段をえらばないのは怖いことだ。えらびにおいて「なにか」と「手段」に、区別がなくなるから》
《眼をほそめひと日さくらの減じかた》
ギターラ
【ギターラ】
長衣にかくれていた脚があらわになって、その者が跛神とわかる。かたほうの足がおおきすぎ、しかもあなうらに踏んだ球もはずれないのだ。飛行のときはめぐみをふらすのみだが、とおい地上をつたいゆけば万物を片ゆれさせる。めしいていた樹木がめざめてゆく。つねに一対であるべきもののかたえに麦のようななびきをもつすがたは、身のぜんたいをおんがくでわずらうにも似て、春ごとに老いてゆくけしきの穴をしのばせる。そのようにこそ、ギターラのおんなは語られる。
sexy
【sexy】
セクシーが人間性と例外性との奇妙な混合配分だという点はあきらかだろうが、配分はかならず時間性へとずれる。それでいいかえると、セクシーとはいまありのままにあるものが次段階ではそれ自身を否定するものにすりかわる予感、潜勢だろうとおもう。そのため性的な魅惑を放つ対象はいつでも霧状にみえると同時に、それ自体からの架橋性をもかんじさせる。むろんこれらの二重性を確保した条件のもとで、知的なセクシーさとは架橋のようすにとりわけこころをやったときにわきあがる「消えゆくもの」への讃嘆にほかならないとわかり、その感慨のなかではいつのまにか対象の肉感すらきえているのだ。
声
【声】
声はみえない。声は聴える。眼の失効、その端緒とはこのことだ。ながめられる推移と、声の推移とはちがう。外在がありのままのものと、内在が架けられ、きしみが推移するものと。ながめにひかりがあるのにたいし、声は肉で、闇だ。それが聴える。それがうつくしい。声はいつも定点回帰をおこない、あるときの消しがたい日付となる。わだかまるそこには外延できないものもかさなっていて、ながめの日付とはちがう。
美貌
【美貌】
あるかたちにはそれなりのおおきさが予定されているものだが、その予定がくつがえされてバカげておおきいばあいには、これがおばけとなる。こうつづって、たとえばががんぼなどをおもうのだが、この北地ではついぞそんなばけものをみたことがない。ががんぼがはりつく柱すらいまの住まいになく、すでに幼年期を鉛直に建てあげていた柱のようなものがかぎりなくとおい。あらたな美貌をこねようと、さきの夏旅で眼をこらすと、むしろ名もしらぬ原初的な花のかたちが、ちいささとなって奥行をかすかにつらねているのにでくわした。かんたんなことだ、ちいさくなるためにはとおくなってゆけばよく、それがばけものからにんげんへとかえるときの法なのだった。ひとは加齢とともに水平になじんでゆく。
実験映画
【実験映画】
生物の自己進行が阻害されて形態がかわってゆく例は下等動物にもあるだろう。もともと自己保存のための神経が装填されて生物のかたちが成っているのだから、神経のなにかが逸脱と結託するそのことじたいを反性的とよべる。おそろしいことばが口をつく。「自己を自己対立とおもうことの罪」。むろんこの罪刑を内側から無事に突破できるのは、対立をわらう女性的な賢者だけだ。いるとすれば愚者のまわりでは、たえず例外、形態異常、塵芥、詩のようなもの、神経の悲痛などが限界をつくって、空間が檻にしかかんじられないはずだ。異常の土台そのものを消すべく、シルフになろうとするのも、それゆえ倫理的ではなく防衛的な対応だろう。ところが愚者のなかのただひとつの価値、変態的な崇高は、自己対立にみがきをかけて、ことさらうつくしい肌をシルクにしようとする。おおくの実験映画では、かくしてシルフとシルクのあいだで微視的な電気が起こっているのだ。このジャンルの生来的な怖さはこうした細部にこそ原因があるが、「いったんの対立が《対立への対立》まで即座に並立させて」層のうまれることは、それじたい形態のかわってゆく映像が、率先してしめしうる訓示的な権能に属している。
林立
【林立】
墓はない。かならず詣がゆきまよう。なぜだろう。もともとくらいけむりだったそのひとには骨を想定するのもむずかしく、ただ手さきがゆびとなって枝分かれをし、それなりに音のようなものがふえながら、けれどもめぐみがちいさくて、たばこを吸う手つきにかぎられていたのをおもいだすのみだ。のぞみどおり肉はだれしれぬ土地で腐っていっただろう。ある日はそれでも息のあったはずの方角へあたりをつけて、失調に似た詣をする。するとさきの枝についてのおもいがみちびきとなる。世界それじたいが墓といわないまでも、あらゆる林立がすでに墓のよすがとなっているのではないか。くうきにひとりのおもかげが埋まるとはおもえない。かぞえられないものとともにそのひともいる。これがのぞむかなたへほんとうにきざす林立だ。北へむかって逸れている並木をつたいあるいてゆく。
人乃湯
【人乃湯】
おんなのはだかへちかづく夢のかなわないときは、おとこのはだかに代えてでもと、ひとり人乃湯へゆく。もうもうたる湯けむりのなか、だれかれかまわぬ複数がうごめいて、髪をあらったり腕をあらったりしている。からだのほとんどはおとこめいた突兀をえがかない。しゃがむほおずきいろだけが処刑まえのようで、あれらはしゃがむうつくしさの、むしろおんなでもあるのではないか。そういう列なりからとりわけくぐもる穴やかなしい圧縮をみつけ、そのありさまをこわれたわたしとこころすれば、湯にいてとけかかっているだけ、みずからがすこしおんなとなれる。
運搬
【運搬】
個体が遺伝子を先ざきへ運びあわすための媒介にすぎないとすれば、その運搬においてうつろな身体がいつでも旅相をえがくようになる。荷台いっぱいに川芹を積んで、したたりを走る軽トラがよぎり、運転手はいない。運転席にもただ川がながれていたというべきかもしれない。それでもあらゆるものが逆光にみえる奥にたつと、からみつかれて芹をあるくひとらのいくらかが、遺伝子ではなくまさにことばを次代へ運ぶなかだちとおもえてくる。かれら彼女らのうつわのなかでべつの文法が白根になるそんな時が継がれ、その水にとおく芹がなびくのは、ことばを運ぶ川をねがう夢だろうか。しめったにおいの土手のまなかいにて、くさりなす水泡がゆききしている。
一帯
【一帯】
わたしは美化する。なにもかもを美化する。けむりも藁も灰も枯川も風も。それがまなこの流儀で、わたしはじぶんの視を炎やしながら、拠らないことからのみ、拠ることをつくりあげてゆく。この倍数化のなかにきっとかがやく中途の断面があって、それでこそ美化も倍数化とさだまるのだろう。いいかえれば多いものがうつくしいのだが、倍数化をはずせばそれらはさみしく少なく、めぐりをふくむ一帯のくさむらにすぎない。視の操作は眼下の土、そのなにかの反射までたちのぼらせ、ふえるもののふきあげる湯のような地では、ひとつも浄土をふんでいる気がしない。
辛夷
【辛夷】
山裾へとなだらかにくだる斜面に辛夷があふれ咲きみだれるのを底までみおろした。とおくからあれらはぼやけ、けして山の輪郭にはみえぬだろうとかんがえた途端、輪郭のないものがすべて怖いとおもいいたった。その季節はおとめごのちくびのような早蕨につね張りつめていて、辛夷の白もまたかさねとなり裏に呻吟の青をひそめる。神がかる何ものかの滑り台だろうと斜面をとらえても、滑ればその者も白を散らしながら紺青にそまりゆくだろう。それがわらい死ぬことなのだ。あきらめた声をそう発しながら、そこで気味わるく眼がさめた。いったいあれはどこだったのか。
設問と人生
【設問と人生】
やさぐれた生活をしていたわかいころ、白夜書房の入社試験を受けて落ちたことがあった。《キャプションについておもうところをしるせ》という設問に、良いこたえがつむげなかったのだ。いまならどうしるすだろうか。例。《もんだいとなるのは、キャプションが状況説明や典拠示唆で済むストゥディウムではなく、プンクトゥムのほうだ。ぼんやりしつつなおある画像内容の幻惑的な攻撃性に、キャプションの文字連関が蟻のような行進をくわだて、しかもその写真のてまえで座礁するうごきが、かたどられなければならない。ひとつのヌードがあったとして、そこにあるはずもない内実を擬制する。写真の一枚性に拮抗すべく、文字のつくる意味とながれも同程度の量感とかがやきを、みじかく生きる。写真に規定されつつしかもその対偶にあることばだという間接性が表現されなければならない。隠喩的な照応ではなく(隠喩は写真を「おおって」しまう)、みずからが換喩になることで写真そのものの換喩性をえぐりだす、水中のことばのゆらめきも要るだろう。それらが乾いた写真に湿潤をあたえるのだ。詩的な写真にことばの詩性を投げかえせば同一物による相殺になるのだから、そのばあいはなにかべつの鋭利さで、ことばはみずからを裂開、画と文字の縫合関係へ脆い二次性をもたらし「平面の厚み」を陰謀するにしくはない。いずれにせよ時間性を覚醒させるため、「瞬間の敗北」と「数瞬の敗北」とを等価にする双対性=デュアリテこそを、世界の無意識にするのだ。それはちいさくても構造として中心紋となるだろう》。そういえばもうひとつ解けない設問があった。《キンアカの意味》。それは実生活上すぐのちに知識として得る。《印刷上、マゼンタ百%とイエロー百%のかけあわせを謂う》。
物語
【物語】
馬がりんごくへとわたしを曳いた。たいりくには国境がしろくながれ、そのとうめいな緩衝地で、むらさきの草を嗅いで憩った。きれいなおんがくがわいて、わたしをふくめなべてが馬のように、はだかだった。くにざかいは馬蹄形、つまり虹のかたち。彎曲した架橋などないとおもっていたのにそうみえたのは、ひそかに馬のひとみをじぶんに装填していたからか。川そのものも円周していたようだ。ゆあみと洗馬をしていたゆうぐれ、きれいなちぶさと旅人にいわれ、馬ともども髪を編んでもらった。
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年末、喪中が2012年と錯覚し、廿楽順治さんに賀状をだしてしまった。数日前、その廿楽さんから欠礼案内の封書が届く。一枚紙をひらくと「馬」と題された詩。《馬があった/からだじゅうに穴があり/走る町ができた》という魅惑的な書き出しだった。それにしても今年の賀状は干支の「馬」を主題にした詩歌がおおかった。巳年ならこうはいかないだろう。
今日は、ずっと積読だった江中直紀『ヌーヴォー・ロマンと日本文学』を読んだ。芳川泰久・渡部直巳・すが秀実・重松清が編んだ江中の遺稿集。ヌーヴォー・ロマンのみならず、中上健次論、石川淳論、柄谷行人の文体論などすばらしい考察がたくさんあった。テマティスムの功徳のようにみえるが、じつは緻密な文体で読ませる繊細な才能で、小説論で彼を代替するひとがいまいないのではないか。八〇年代評論の結晶ともいえる。巻末に書誌が載っていた。それをみるとおもう、全集とまではいわないが、遺稿集第二弾が編集されるべきだと。
黒沢清・Seventh Code
【黒沢清脚本・監督『Seventh Code』】
前田敦子の三月に発売される四枚目のシングル「セブンスコード」のPVが映画に発展したという、黒沢清監督の新作『Seventh Code』の最終回を、昨日、ユナイテッドシネマ札幌で観てきた。ローマ国際映画祭で最優秀監督賞と最優秀撮影技術賞をダブル受賞しての、一週間限定の凱旋興行。これは傑作だった。ちなみに撮影はいつもの芦澤明子ではなく、『ヒーローショー』『冷たい熱帯魚』などの木村信也。
かつて『カリスマ』で「世界の法則を回復せよ」という、カフカ的命法を発した黒沢清だが、その「法則」とは追走にまつわる運動線で世界をみたすことだといまならいうのではないか。それほど『Seventh Code』は追走的運動線の錯綜する、その意味ではドゥルーズ的な快作だった。劇中、山本浩司の中国人妻=アイシー(すごくきれいな女優で、彼女だけでも一見の価値がある)がヒロイン前田敦子に「伝授」する(この「伝授」という主題がかつて黒沢映画では『CURE』『カリスマ』に連続していた点に注意)、与謝野晶子の七五調定型詩篇「旅に立つ」がある。第一スタンザを転記しよう。
《いざ、天の日は我がために/金の車を走らせよ/颶風〔ぐふう〕の風は東より/いざ、こころよく我を追へ。》パリにいる鉄幹に会いたさにウラジオストクに上陸した晶子の、日輪をも味方につける意気軒昂を詩はうたうのだが、結果的に詩篇はユーラシア大陸を貫通する追走線をしるしづける。この詩篇の碑はじっさいウラジオストクに建てられているという。そう、黒沢清自身も世界への追走線をしるすために、初の海外ロケ地としてウラジオストクがえらばれたのだった。なお前田のPVの撮影場所を直観でロシアと名指したのは、秋元康だったという。
冒頭のシーンはふたつの意味をもつ。まずはドラマ上。鈴木亮平ふんする「松永」を、六本木での一夜の偶発的な飲み会での好印象から追ってきた「秋子」(与謝野晶子の「晶子」とかけられている)=前田敦子、というヒロインの設定が、猪突猛進ゆえに相手を取り逃がすヒステリー類型として印象されるということだ。ひとはたった一回の偶発的な出会いで好感をもったとしても、ヒステリー類型でなければ、相手を調査して、ウラジオストクまで追うことなどしない。この奇異感は鈴木亮平にも伝わり、彼は、一旦は前田を「巻く」。このとき、「巻かれた者」が追走をおこなう動機ができるのだが、その追走の「線」の質をどう映画的に定位するのかが黒沢のたぶん着想だった。これについてはあとで詳述する。
黒沢清は『神田川淫乱戦争』と『叫』などをべつにすれば、映画に寓喩性を組織するため、作品舞台を「曖昧な東京」に限定してきた。ところが前田が鈴木をウラジオストクの路上でみつけるという設定の1stロングショットではクルマの進行回転、前田の回転状の走行を追うことで、カメラがパンをしながらその背景を確実な質感として捉えてゆく。「風景」の定着力はこれまでの黒沢映画とは位相がちがう。「六月」という季節設定が冒頭に入るが、そこでの北地ゆえの寒気、湿気、建物の石壁、建物や道路などの外延状況、道路の傾斜、彎曲といったすべてが志向的に把握され、「世界」の具体性を獲得、寓話出現の余地が封殺されるといってもいい。
この作品ではそうした「風景」の具体的な「肉」が、カッティングの「神経」(編集は高橋幸一)によって、筋肉状で連続組織されてゆく。「景観」がフォトジェニックな場所が巧みに選択されていつつそれでも観光地映画にならないのは、変哲のなさに「リアル」の基軸を置き、しかもあらゆる風景が「アリバイ=一次的な動機」にすぎず、実際は何度か繰り返される前田(それにウラジオストクの日本人レストラン経営者・山本浩司)による鈴木、あるいはその仲間(次第にそれは「青いクルマ」として符牒統一されてゆく)の「追走」のほうに描写の力点があるとわかってくるためだ。風景が副次的な場所に置かれることに反駁してむしろ反抗的に息づく――これもまた「世界法則」だろう。
鈴木亮平は最初、日本在住時は「六本木の遊び人」と印象づけられるが、彼の関係する「場所」が前田の追走によって展覧されてゆくにしたがい、胡散臭さを危機的に高めてゆく。これもじつは「場所」自体のもんだいなのだ。鈴木が前田とはいったカフェはまだいいのだが、前田が身体的に爆走して階段を急降下(ウラジオストクはシスコや釜山のように坂道だらけなのだった)してはいるのを見届けた、廃墟感ただよう集合住宅(前田が追ってそこに闖入すると廊下がフィルムノワール感をただよわせる)、さらには鈴木が前田を自ら招きいれた、椅子がいくつあるかもわからない空洞感のある部屋、しかも最初はその二階部分と階下の一階部分が秘匿される広大で古めかしい邸宅などに不気味な「異調」が仕込まれ、鈴木がとんでもない悪に手を染めている(これは「キャビアと蜂蜜」の野心的な輸入に失敗した山本浩司と対比的にえがかれる)コスモポリタンだとわかる。きわめつけは、山本と前田が青いクルマを追い切って「発見」にたどりついた、兵器秘匿場としてもちいられている廃墟(石壁が穿たれ、内部の列柱状が窺える)だろう。
前田による追走場面はいくつかあるが、そこに「世界法則」がある。彼女が追走に失敗するときは冒頭場面のように、円形の迂回運動をしいられるときだ。逆に九十九折の山道を青いクルマがのぼるときには前田のほうが「直行」「捷径」を選択(それを「神がかった」山本が一見逆方向に向けて「こっちだ」と指示するばあいもある)、そのほとんどで対象に「追いつく」のだった。この追走線には記憶がある。ショーン・ペンの『インディアン・ランナー』のナレーションで、パニックとなって角度変更を繰り返して逃げる鹿にたいし、「インディアン」は角度のばらつきの先を読み、直線で追うことで追いつくという意味のものがあった。いわば被追走者が三角形の二辺を錯綜するあいだに、地勢を読める賢明な追走者がのこりの一辺を神的に選択する、ということだ。これがおそろしい「追走の法則」を組織する。
この「追走の法則」の強度によって、風景が恣意的に選択され、場所もつながっていない速いテンポの追走シーンの数々が、虚構的に白熱する。白熱のなかには「肉状の実質」がある。前田敦子の鍛え抜かれたからだにより、「走り」そのものが狡猾なほど力感的に画面を充実させるのだ。「女の走り」は渡辺あい『MAGMA』しかり、吉田良子『受難』しかり、このごろの映画美学校系映画の主題だ。ところが走りの速さによって逃走犯を取り逃がした先ごろ川崎の地検支部で起きた脱走事件などをおもうと、走りの速さは英雄的であると同時に、その動物性によって不気味でもある点も銘記しておく必要がある。
集合住宅に廃墟感があったり、兵器隠匿場に廃墟性があったりする、と前言した。もうひとつ、前田敦子が鈴木の取引場所の集合住宅に闖入したとき屈強なガードマンにより「捕獲」される。その後のジャンプカットで彼女は海べりで迂回運動をえがくクルマから「廃棄」される。遠景にみえる水門がやはり黒沢ごのみの廃墟性にとんでいた(地面に転げていた、粗布につつまれた前田は、袋を内から破り、満身創痍の状態ながら脱出に成功するが、そこでは「蛹の羽化」が二重化されている)。
黒沢清の既存映画の召喚は、構図、光、カメラ運動、カッティングの具体性までふくむものだから注意をしなければならないが、「ロシア的風土のなかに現れる」、列柱形がのこされている兵器秘匿用の「廃墟」が、タルコフスキーの『ノスタルジア』の細部と観客の記憶のなかで共鳴することはたしかだろう。あるいは窓のむこうにカウリスマキ的な夜の家並がみえる窓辺の前田に、カメラがしずかにズームアップしてゆく(そのズームアップのしずかさは、思索的であると同時に不気味だ)脱意味的なショットもあった。さらに終わりのほう軽トラックの荷台に乗った前田の背景が、クルマ発進後ながれてゆくときにはとうぜんかつてのヴェンダース的な画面との化合が起こる。ながれる草原。それでもそれが最終的にゆるやかなパンニングのロング光景で「復唱」されるときには、空間が映画性を凌駕する「脱臼」も起こるようにおもう。
この映画の組成はまずは筋肉状だ。きわだった「追走」があり、それが導火線となって、「カット割り」と「カットの割らなさ」が見事に複合した、マーシャルアーツ的な強度と速度にみちた肉対肉、蹴り対蹴り、拳対拳、肉感対肉感の格闘シーンがある。ネタバレになるので誰と誰が闘うとはいまは書けないが、そのシーンにいたるまでの映画の筋肉的な収縮を前提にして、三角筋の二辺を一辺に「捷径集約」するような身体上の爆発が、音楽的に起こる、とだけは示唆しておこう。
ともあれ「世界の法則」は「追走線」「風景反逆」それに「筋肉内部」にある。もうひとつ、これに「混淆」もかぞえるべきかもしれない。粗布=蛹から脱出した破れた翅の蝶=前田が確信犯的な無銭飲食をして(わずかな所持金はある――そうなったのは旅行鞄を鈴木一味に奪われたためだ)結果的にはコックにして店主の山本浩司と知遇を得るのだが、このとき日本語も話せる中国人女性(山本の一時の伴侶として設定される)としてアイシーが現れる。ここには「出現」そのものの衝撃がある。ただしこれは「世界現状」を告げている。周知のように、ロシアには中国人との共生地区や経済特区が叢生していて(逆も真)、日本人だけがその世界性を疎外されているのだ。
そうした日本的コスモポリタリズムの限界を突破する者として「松永」鈴木亮平がいて、突破線上の者として「斉藤」山本浩司がいる。ところが彼らにもまして胡散臭いのが、じつは恋愛妄想的なヒステリー類型と最初は印象された前田敦子自身だとわかってくる。彼女は東京からウラジオストクに舞い込んだ「トンデモ娘」だったはずなのに、黒沢映画的な無媒介性によって「いきなりロシア語が流暢」だし、「いきなり廃墟のセキュリティロックを一瞬にしてひらく能力が存在」していたりする。前田敦子は何者なのか――これが作品の中盤に生ずる興味となって、これを「世界法則」と接合できるかどうかに、黒沢ファンの「能力」が賭けられることになるだろう。
無媒介性は「それらしさの記号」ともむすびつく。鈴木亮平がかかわる「取引」は多くロング構図がもちいられ、具体性が省かれて、儀式的であることで意味脱臼へいたる、謎めいた仕種の応酬としてしか描写されない。ここにカフカ的寓意映画の作家としての、黒沢の個性、内実がある。これらが追走シーンや肉弾アクション・シーンの肉感、それでも存在する抽象性などとともに、映画的な展覧性のある、快感の「層」をなす。おもえばこういう自然な余裕が、「出現の驚異=脅威」のために「溜め」を利用しきった黒沢の前作『リアル』にはなかった。
「層」こそがたぶん「世界法則」なのだ。前田敦子もまた「筋」状だった。「走り」や「走りの方向感覚」のみならず、手さばきにも「層」が内包されている。ちいさなことだが、「松永」の再発見を期して山本のレストランで働くことになったあと、ソルト瓶に塩を入れる前田のシーンがあって、その手さばきが見事だった。事実かどうかファンではないので知らないが、前田の食事では「左利き」が設定されていて、ここでは黒沢のライバル万田邦敏の『接吻』の諸細部への目配せもある。
そういえば『接吻』でのヒロイン小池栄子の眼はくらく炎上していた。それにたいし、前田敦子の眼はどうだったのか。ここでもドゥルーズが導入されなければならない。前田を「マドンナ」型のヒロインにした山下敦弘『苦役列車』が描けなかったのはこの機微だ。前田の眼はおおきい。しかもその黒目は「塗られている」。前田の眉間は神経質だ。ときにヤクザな動性をかたどる。山下はそれらの運動連関を穏当性に塗りこめ、一瞬の好色性だけを観客の印象に転位した。
黒沢はこれら前田の眼にまつわる四要素を、時間内の葛藤として捉え切った。このとき「意味剥奪」と「深遠創造」そのものが点滅し、前田の貌が内側から「めくれ」つつ、同時に外部性が内部性へと回帰する「徒労のようなゆらめき」が起こる。好き嫌いは別として、これがドゥルーズ/ガタリの『千のプラトー』でしるした「顔貌性」の双価的な二極――「ホワイトウォール」「ブラックホール」の自体的な変転だろう。身体能力のみならず、この「貌」の質によっても、前田にアクション女優(それも世界放浪的な)の資格があるのは自明だ。
鈴木の居住空間、招かれた居間から離れ、前田が寝室のベッドに腰掛けているとき、秘密の命を帯びた鈴木が近づいてくる。前田の「貌」は斜め後ろの視角から捉えられる。前田は「危機をどこまで気づいているのか」。そこに極上のサスペンスがあったとすれば、まずは視角の設定と、語りの呼吸によるが、黒目が「塗られているようにみえる」、すなわち明視性と盲目性のどちらに傾いているかが文脈によって判断されなければならない前田の眼もそこで大きくものをいっている。その眼が斜め後ろからの視角によって画面から「減っている」こと――これこそが次の跳躍のための収縮だったのだ。
ドゥルーズの『意味の論理学』がいうように、「出来事」が事前性と事後性の空虚な接線に生起しているとすれば、黒沢清の演出、木村信也の撮影はその接線を追走線として選択する叡智を実現している。そうして視覚とうごきが輻輳するのだ。あえて脈絡を外してしるすが、前田がフィルムノワール的な闇の同一的な増殖性をもつ屋内で、何者かからカネをもらう場面がある。その相手と前田の相反的な別れのうごきは、建物内にあるにしては奇異な、Y字路に錯覚される岐路で起こっているようにみえる。屋内でこんな分離運動が実現できるのだ。そのまえ鈴木の言い止めた場所(居間=食堂)に前田がおらず、鈴木が密命を帯びて前田を探すくだりでは(結果的には前田は寝室にいる)、鈴木の歩みにしたがって室内の空虚が、つぎつぎ奥行が前景に繰り込まれるかたちで展開されてゆく。そこでは「世界そのものの探索のありかた」が転写されている。
あるいは前言した「取引」場面や、粗布につつまれた前田の身体廃棄場面では、ロング位置が選択されることで、宿痾のように画面に寓喩性がしのびこむ。このとき「物語」に手なづけられまいと「具体的な」風景が呻吟する。「世界を計測する」撮影位置がこのようにしてヴァリエーションをもって(つまり「層」となって)編成されているのだ。ラストシーンで(意味的に)何が起こったかが特定できないのは(ここではスピルバーグ『激突!』の召喚もある)、映画に内包されていた抽象的な視覚位置の「層」が、具体的な映画的内実を凌駕してしまったからにすぎない。これもまた「世界法則」なのだった。「撮影行為」に現在的な潜勢力を付加する、叡智以上の陰謀性。この意味で『Seventh Code』がローマ国際映画祭で最優秀監督賞と最優秀技術貢献賞を「同時」受賞したのも首肯できる。六〇分のなかに詰め込まれていたのは安直なアクション映画素のようにみえて、実際は「線」と「層」の、今日的哲学的な進展なのだった。
前田敦子の「秋子」が別地に赴くかたちでの続篇を、秋元康=黒沢清=木村信也トリオに期待したい。このときこの『Seventh Code』の最大の謎がとける。この作品の風景は撮影現地で偶発的に選ばれた幸運の結果だったのか、それとも脚本も手掛けた黒沢の、綿密なシナリオハンティングの結果だったのかという、「鑑賞上の選択の謎」が。
なお、「Seventh Code」は、音楽理論上はブルージィな色合いを付加する黒人音楽的な和音だが、その哀感こそが、指令としての「七番目のコード」と掛けられているのではないか。黒沢清が着想を開始した秋元康作詞による前田のシングル曲「セブンスコード」の歌詞にどうやら秘密がありそうだが、秋元の歌詞を確かめられなかった(映画自体の終盤に、そのMTV場面が創造的なミスマッチで挿入され、歌詞も聴けたはずなのだが)。
浅瀬
【浅瀬】
みはるかすひろい水をうすすぎる浅瀬へ、いちまい張っただけのそこを、ゆきわたるひとりにおもいおよぶ。あなうらはたしかに底をふんでいるのだが、鏡上をあるくふぜいのように縹渺なのは、きっと泥のおよばないあなうらのしろさが、みずとみなそこをしずかに攪乱し、とうめいがいくえにもひらたさへわくためで、みえるもののわずかな紋をもってにじまされたそのひかりが泣けてしまう。うごきが断ち切られて前後のない記憶となる、すなわち時間そのもののわずかなしぐさとしてしかおもいうかべられないひとの移りには、貌にあたるものがなく、ただくうきととけあいながら、もともとのわたしたちが藻だったことをあけがたの瀞にささやくのみだ。けれどうまれるとおくの岸へといういがいは湛えにすぎない水の方向をきわだてながら、全身のどこかにあるだろう気疲れがどこへむかったのか、みすえたはずなのにその爾後ひとつすらおぼえていない。
手紙
【手紙】
「手紙はかならず届く」が死の到来を意味するというのは風説だろうか、むしろそれは受精の謂なのではないか。配達をながれまかせにする抹消がひとのなかにはあって、これが性愛をおそろしく組みたてている。けれど性愛がそれとはみえない魔刻がさらにもんだいなのだ。わたしたちはときに水媒花としてじぶんたちの手紙をぬらしながらゆれる。その藻のおおくが雌雄同株だとしたら、みなそこにゆれながら手紙は、わたしたちの内部にあって外部よりも絶望的におおきい。
先頭
【先頭】
おびただしい鳥が空をわたるとき、その移動をずらし容れている空をまぶしみ、ふかくおそれる。ずれは叫喚もなく鳥の、魚影へもどりゆく真鍮のかがやき、その野蛮をささえる。個体ではなく、音の羽毛を落としあうとおい群によって、晴天の雨になろうとする傲りが通過してゆく。通過して、なにもない。それでも列の先頭の一羽が、鳥ぜんたいにとって唯一の敵だったのではないかと地表の肌をたてる。
今クールのTVドラマ
14日朝、『換喩詩学』のゲラチェックが終わって投函。その後バクスイして、起きてからは録画溜めしていた今クールのTVドラマをチェックしていた。
継続録画を決めたもののみ、簡単にメモ。
「隠蔽捜査」=TBS月曜20時で、杉本哲太&古田新太の「あまちゃん」コンビ。同枠前ドラマの「刑事のまなざし」のようなスタチックなつくりではないが、事件の謎解きではなく、事件の「もみ消し」にかかわる警察庁キャリアの葛藤をえがく内幕物で、今後の経緯がうねりそうな気がする。大好きな鈴木砂羽が哲太の妻役で出ているものの、この枠はいつも女優費の予算がすくないなあ。原作=今野敏。
「福家警部補の挨拶」=火曜フジ21時。おまえはコロンボか、と劇中人物から突っ込みがはいるほど「刑事コロンボ」を意識した倒叙法の刑事ものなのだが、主役はもっさりとして、空気の読めない檀れい。基本的には演技の下手なひとなのだが、今回は役柄がはまって、しっくりくる。黄色いコートも似合う。大倉崇裕原作で推理進展の過程は、「コロンボ」や「古畑」よりさらに緻密。第一回は、普段はやる気のない反町隆史が犯人役で意欲をみせていたが、稲垣吾郎の役得がまだわからない。パシリ役の柄本時生が可愛い。
「紙の月」=NHK火曜22時。日々不充足なアラフォー妻が、パート勤めをしていた銀行から一億円横領した経緯を倒叙法で語る。「女」にまつわる社会論的なアプローチを「物語」にするには原作の角田光代が当代随一。ヒロインの原田知世が汚れ役なのに清楚で素晴らしい。第二回、睫毛をふるわせて瞳を潤ませる「女優演技」も完璧だった。なぜかミッキー・カーチスのすがたが身につまされる。演出=黛りんたろう。
「僕のいた時間」=フジ水曜22時。橋部敦子の脚本で、全身の筋力が消滅してゆく三浦春馬の死までをえがくらしい。冒頭、雑踏のなか車椅子の三浦に雨が降るスローモーションから、すでに橋部脚本の映像設定力と抒情性が全開。往年の橋部作『僕の生きる道』などに較べると、寓話性から社会転写力にさらに基軸が移り、第一話では現今の大学生の就職難の様相が着実に描写されていた。相手役は多部未華子。このひと、20代ミドルになって、ますます少女=大学生演技が可愛くなってきている。就職面接でのケータイのコール音を春馬くんにかばってもらってから、彼を王子様のようにおもう設定は、ものすごく説得力があるのでは。
「Dr.DMAT」=TBS木曜21時。関ジャニ∞の大倉忠義が災害現場派遣チームの医師役で、彼には救命救急で実の妹を意識不明にしたトラウマがある。その彼が内科医に甘んじていた果てに今度はもっと熾烈な災害現場に派遣され…という設定は、「ブラックジャックによろしく」の妻夫木聡を襲ったよりも残酷かも。「非決断」キャラの「うじうじ」は「エヴァ」の碇シンジ以来の定番。やがて本作の主題が、観察力と愛にみちた「決断主義」にあるともわかってくる。第一回は荒々しくはじまったが、途中から作劇がにわかに緊密になり、息を呑ませた。看護師の麻生祐未が謎めいた黒幕で、彼女を大好きなだけにこれは嬉しい配役。國村隼がヘンな演技をしている。石黒賢がいい味。
「緊急取調室」=テレ朝木曜21時。大勝した米倉涼子主演&中園ミホ脚本「ドクターX」のあとは、これまたフェミニンハードボイルドの勝ちパターンとして、天海祐希主演&井上由美子脚本で臨んだ。可視化された取調室で専門の取り調べをおこなう「キントリ」に、立てこもり犯人を説得などする「交渉人」だった天海が左遷されてくる(じつは左遷ではない)。米倉十八番の「交渉人」をジャンプボートにして「取り調べのプロ」へと跳ぶ天海の武器が、米倉の決して見せない「泪」で、これにはドキッとした。長回しで肚から「情」演技を持続して泣かせる女優は、現在、真木よう子、尾野真千子、菅野美穂、小池栄子など花盛りだが、第一回、変態ルサンチマン犯人役の高島政伸をまえに、ついに母性にみちた「非難」をみせる天海さんの「肚」の力も泣けに泣けた。このドラマの主題は非難のない時代に「親身になってこそする非難」なのではないか。田中哲司、大杉漣、小日向文世、でんでんのキントリチーム、あるいは鈴木浩介、速水もこみちのバカ刑事コンビなど、この枠はいつでも俳優たちの演技アンサンブルが圧巻だ。
今週もまだあたらしいTVドラマのオンエアがあり、以後も報告するかもしれない。
燐
【燐】
引用したら助詞が化けていた――そう気づいて悄然とすることがある。詩の行などじつは書かれてはおらず、むしろそれはかずかずの樹間で、手許に筆記するときにはさながら燐を写していた、だからそうなったのだ。ひらがなが女影で、化けてたたったといういいかたもできる。それいがいになろうとするものが、こころひかれるおんなのふぜいだから、構文もくりかえし変成し、あおじろくみだらに炎えた。おもえば詩がながいことわたしをだめにしていた。ものがかんがえられなくなって、写す手と眼のれんかんが、注意が、ひらがなよりもやわらかにくずれていった。なるほどひらがなはすべてのあいだをつくりだすが、そのあいだこそを燐とおそれたのだった。
海鳴り
【海鳴り】
書くことがなければ滅んでしまう。
それほどの、ただの移ろいだ、わたしは――。
書き終わりにむけてうなされたゆびは、自己嵌入的ではあれ、性愛的なあかしを凹部のきわみからたぐりよせる。だれのゆびか問うことは漂白する。穴の内部のほうが先験的で、その影ではゆびの個別がおとろえるためだ。こういえばいい、ふたたびあらわれたときがゆびなのだ、そのふたたびでは書くこととゆびとが泣きわかれ、ゆびのみを事大視すれば、書いたこともひとたび穴をみたした、ただの浪にすぎないのだと。いつでも書くことと書いたこととが似ないのが移ろいだが、これも形状的には凹凸の弁別に帰結する。かくて洞穴だらけの磯を、船上からの視線がゆききした。
わたしは滅ぶ、けれどこの形式の穴は滅ばない。
海鳴りへの讃とうけとられてもいい。
手許
【手許】
書かれたものからあいまいに逆算されるだけで、手許という領域が可視化されることはない。それはわたしの、通約不能の孤独な眼下だ。いえることは三つだろう。一、手暗がりということばのふかさ。わたしの眼下はわたしの影と親和的だ。二、その領域は空間的というより時間的。これには分散運動がかかわっている。三、そこには秘密以上のこびとが、ひとりいる。むろんわたしの舞踏の伴侶だが、ホムンクルスというよりはもっと見知らぬエキゾチックなすがたをしている。
運針
【運針】
逐語的にとらえるには穴だらけの野があり、そこにたたえられているちいさなひろがりも、穴どうしの喘鳴とかんじなければもはやひろがりとすらならない。わなないている数々のくちがいつのまにかシューズを噛みくだくのだから、こちらはさかさにされ、なげくべきことが空気のように多いとじぶんを携えるのみだ。ふだんなら墜落するところ、そうもならないのは、A is BがA is not Bと、ささいなnotしかちがわず、あらわれているAとBとの網がたしかに降下をつかまえるためだろう。まるで低地の水で、うたがえという命法も、命法である以上うたがえない。これらはなにか。あたえられた前方が本質的に疲れていて、そこにきらめいている穴だけにむこうがあるというしめしだろう。それであるときは野を伏せて、すくなくみえる出発を背にした。
演奏
【演奏】
複数とは単数のとりうる最後のかたちで、きけば列すら列のととのえにふかく割れている。それら成員がみなおなじ存在なのは、じつにおどろくべき聴界だ。みぢかの葉もそんなおなじさとして、てのひらに砕けていて、なんだろうこれが声の粒を強圧的なルフランにかえた、おんがくのなれの果てか。ひとつひとつの縦にも横がのびていって、音のはじまりの充満するこれが、てのひらの割れてしまうことだ。はじまりがそうなら、音の中途もまたつかんでいない。複数の時代はながく、いったんあらわれた最後にすらその終点がないのだ。いつも終点のてまえにとりどりえがかれるよろこび、楽器にふれる手はもはやこれだけを慎重にゆらしている。
矛盾
【矛盾】
相互がうごかないとき、関係性は対峙をしるすのみではなく、なにもない空間を均衡の道具にしながら、むしろ拡大となってゆく。こちらの顔とあちらの顔、その双方を白い天秤皿にするのはこの意味からも簡単で、そこにはとおくのものをおおきくする作用がはたらいている。わたしたちは二脚の椅子にすぎず、そのありさまは速度そのものを加速状態から分離できなくなる、もはやすがたではない矛盾ととらえるべきではないか。はじめに出会ったときのことをおもいだそう、あなたとわたしはそうしていた。おそろしいのはその関係性が非関係性ともよびかえられることで、けっきょく瞑目してみると、からだの演じていたのも空間とのやるせない非関係性なのだった。
性交
【性交】
とどまるときのしずもりかたが、わたしらにもんだいなのだろう。よくきけばうかぶひかりをひるがえっている。からだはひとつの方向なのに、めぐりはそうではなく、すべてたしこめばくぼみとなるような、ねむたいしずもりがあるにすぎない。それらをとどまっているわたしらは、たしかに超えるまえの一滴だが、めぐりもまた数滴で済むのなら、ひかりこそが最少の結節にくりかえしあらわれるものだろう。かたちはつながっては、にじむ
賀状原稿
以下は今年の賀状原稿。例年どおり、女房との抱擁形の付合をしるした。
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恭喜發財
甲午元旦
笑ひさへまだ薄白し一日目 嘉
汝が人中に歯朶飾りある 律
初声はむしろ葉粥を経めぐりて 律
椀もつことも本懐とせり 嘉
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以下、簡単な解説――
発句中「一日目」は「元旦」をぼかした。それで季語化を逃れた。ちょっと翁じみているかもしれない。
脇句中「歯朶〔しだ〕飾り」は正月の鏡餅などにもちいるもので新年の季語。女房殿が、歯朶飾りをぼくの口髭に見立てた滑稽句のおもむき。発句-脇で、炬燵を囲んでいるような隣接的な空間性がある。「汝〔な〕が」の呼びかけが良いのかどうかはわからない。
第三句中「初声〔はつごゑ〕」は年が明け初めて聴く鳥の鳴き声の意で、これも新年の季語。雑煮とすべきところが葉粥となって七草粥の時期まで時節が延びたほか、白粥に散らした葉の緑そのものに、やがて来る春の林をみるよう。脇-第三はすごくきれいな付で、「て」止めで第四句の展開を窺っている。
その第四は無季。汁ものの椀を手で支え、その手もまた椀形で、めぐみをいただくすがたそのものに乞食の風情もあって…というように、新春の付合にしては釈教じみた辛気臭さが滲み出しそうだが、句意の朦朧がそれをとどめるとかんがえた。この第四句には、去年のぼくの詩集『ふる雪のむこう』の一節が反照している。
毎年、この手の賀状を出しているが、どの程度理解されているかはわからない。新年から謎かけされて迷惑なかたも大勢いらっしゃるだろう。とりあえず自註してみた
遊川和彦への挑戦状
小池栄子が好きだ。すべてのドラマの半分の主演が小池栄子でもいいとすらおもっている。ぼくはアタマの鉢の割れた大柄の頭蓋がもともと好きなのだが、小池栄子の場合は、そこから飛び出るようにおおきく輝くひとみと、スナフキンのような不可思議な抒情性を湛える横顔もあって、それらによってかたちづくられる演技の「情」がふかいのだ。「肚」が良い。この点では高峰秀子と若尾文子のきれいな上澄みを混ぜ合わせたようなかんじすらある。重量級のみでない繊細さ。それでも体型から印象されるストロング・スタイル。映画での名演は万田邦敏監督の『接吻』にとどめを刺すが、重要な脇役の『パーマネント野ばら』や『八日目の蝉』などもいまだにつよく印象にのこる。ゼロ年代後半、立教や日芸の映画好き少女たちは小池栄子のことをその迫力と貫禄から「お姐さん」と呼んでいたなあ。映画最新作の『許されざる者』、どうだったのだろうか。
その小池栄子主演の素晴らしいTVドラマを観た。『魔女の条件』『女王の教室』『曲げられない女』『家政婦のミタ』の脚本家・遊川和彦が、ドラマの「主人公の職種」「ジャンル」「色合い」を三回の回転ダーツで決められる。仕掛けられた偶然では「マッサージ師」「ラブストーリー」「泥沼に咲く花」の目が出た。これでドラマの枠組が決定、そのマッサージ師に小池栄子を呼びよせ、奇妙で、心迫るドラマがつくられた。一月二日深夜、日テレ系オンエア、『遊川和彦への挑戦状・30分だけの愛』がそれだ。読売テレビ開局55周年番組で、特筆すべきは脚本家の遊川が初めて演出にも挑戦したということ。カッティング、展開が意外性に富んで、スピーディな語り口が実現され、しかも俳優の内面を覗けるスリリングな撮影が差配されていた。相手役の小澤征悦を基軸にするとぽくの大好きな「悔悛」のドラマということにもなる。
小池栄子は派遣マッサージ師。職業はある意味ではデリバリーヘルス嬢に似ている。右半身不随となった証券会社の花形部長(たぶんデイトレーディングでヤングエグゼグティヴにも容易になれる)小澤征悦の自宅に、週一回、午後四時から四時半まで、不随箇所のリハビリマッサージにやってくる。小澤は孤独。ドラマの始まった当初には家族がおらず、やがて離婚して元妻のもとに手放した息子と、通いのハウスキーパーのみがいて、元同僚のおためごかしの見舞いが舞い込むだけの日々とわかってくる。
そんな孤独な男に、健康恢復のため献身する女は、入院経験者ならわかるだろうが天使にみえるはずだ。けれども小澤はナルシストで運命の失墜からますます偏屈になって、しかも男運のわるい小池の傷口や人生の核心を勘の良さでサディスティックにえぐりだす。小池は商売スマイルで気弱にへらへら笑う。それを「笑うな」と顧客の立場から高圧的に命じる。
このとき小池栄子のこのドラマでのみチューニングされた設定の良さがつたわってくる。気弱でおどおどする大きな瞳が、それでもふかい情にゆれることで、まず中間性のゆらぎのようなものがうまれる。それがさらにドラマ進展によって振幅を微妙にふやしながらゆれてゆくながれでの、大爆発への予感が、サスペンスフルなのだ。通常、小池に似合うのは「確信」「孤独」「不幸」の三幅対なのだが、その第一要素「確信」が「気弱」に変化するだけで、まったく別のゆたかなニュアンスがうまれた。つくづく、懐ろに可変性をはらむ、現代の名女優だとおもう。
遊川和彦の脚本・演出は、瞬時瞬時の創造的な着想に富む。まず、ある箇所でストーリー進展にひと呼吸つけて、「妄想①」「妄想②」「妄想③」……とシミュレーション分けしてゆく遊戯的な展開など、どことなく川島雄三的だ。それでも地味な自宅派遣マッサージ師と右半身不随のヤンエグ風のイケメンとの恋愛が、不如意なリズムと変態性を刻んで意想外に進展することはドラマ好き、遊川好きになら予想がつく。そこでは「意想外」こそが「想定内」になるのだ。ところが小澤の手放した息子として中学生の子役・浦上晟周が登場するにおよび、ストーリーと人的紐帯の変化が完全に意想外となり、ドラマがみごとに躍動しはじめる。
勘気によって小池を解雇した小澤。小池が理由を質しに小澤の高級マンションにやってくると、小澤はセキュリティロックを解除しない。そこへ、浦上が訪ねてくる。「世間付き合いのために必要なカネ」を、親権を失っている父親へ無心しにきたのだ。この息子の言いぐさ、それと背丈のひくいひ弱な感じから、彼がふだんからいじめられている点は容易に想像がつく。この息子とともに小池がふたたび小澤の部屋にはいることで、小澤-小池-浦上の三角形ができ、それが万引きを犯した浦上を、小澤の要請で小池が継母のふりをして引き取りにゆく余禄までうみ、やがてひねくれた小澤が、小池にたいする真情を息子に知られてゆく展開までをも用意することになる。
その息子のもとに、バイクを運転する小池と後部座席の小澤がむかう、一旦は幸福感が最大振幅となる展開となる。ところがその二人乗りが事故に遭遇して、小池のほうに深甚な後遺症がのこる。このドラマ転調のタイミングがみごとだ。そこに小池の派遣事務所でのセクハラ上司、山崎樹範が再登場するタイミングも。かんがえてみれば、この遊川のドラマは、意想外が反復構造に繰り込まれてゆく数学的な厳密さに技術があるのだった。小池から小澤へのマンション玄関口からの呼びかけは、車椅子に乗る小澤から、安アパートの二階部屋の小池への呼びかけに「反転」する。終始使われる重要な小道具もある。ナイフ挿し人形がそれで(おもちゃのナイフを人形の胴体の穴に刺し、地雷箇所に刃先が触れると人形の首が跳躍するアレ)、その首がいつ跳び上がるかにも意想外とサスペンスが盛られるという意味では、ドラマ全体が入れ子構造、もしくはメタ構造となっている。
小池の見せ場はいくつかある。気弱で追従笑い、顧客への阿諛を慣いにしていた彼女が、リハビリを拒否した小澤を、真摯に説教する場面の「泪ながらの」熱意はまあ、小池の情のふかさからしてとうぜん心にひびくのだが、小池自身のバイク事故の深甚な骨折によって、小池の地味ながら献身的・利他的な人生設計がくるい、結局はやめた派遣所のセクハラ上司・山崎樹範と結婚を決意したのだと小澤に告白するときの、卑屈な哀しさがゾッとさせる。往年の女優での聯想でいうと、左幸子をおもった。
そのあと、小池が小澤の右半身をマッサージするのだが、骨折しているために踏ん張りが利かず、適切な力が小澤の身体へ降りない。このときのふたりの、「不随」×「不随」の交錯が、じつは美的+意味論的に見事で、遊川の着眼もまさにここにあると感銘した。再放送があるとおもうので、結末は書かない。むろん小池の気弱さをはらんだ笑いの質感、そこにある澄んだ眼の哀しさは、印象にのこりつづける。
もともとテーマが決まっていて、ダーツの結果を「あとづけ」したのかどうか、その判断はどうでもよく、ともあれ当代一の脚本家に、主人公の職業、ドラマジャンル、色合いを限定した脚本を自ら演出させるこの企画がおもしろかった。ふたたび遊川のためにダーツを試みて、『遊川和彦への挑戦状』第二弾をやってくれないだろうか。そのときももちろん小池栄子のヒロインで。
そういえば脚本家に自由に発想させる意欲作といえば、年末のBS(NHK)でOAされた一時間1セットドラマ『阿久悠を殺す』もあった。阿久が『瀬戸内少年野球団』で直木賞を取りのがした八一年冬の「空白の一夜」を、想像力ゆたかに仮構するもので、その後の「歌謡曲分業生産体制」時代の終焉と阿久の転機をも予言する。阿久のいいそうな気障な科白をちりばめたほとんど一幕物ともいえるこのドラマの脚本は、一色伸幸だった。
下着
微差がもっとも能産的な差異だというなら、もっとも質量のちいさい悪こそ、最大に心おどる悪なのだろう。たしかに巨悪とちがうそれは愛着とみわけがつかないし、高の括れる逸脱なのにそれでも効果や先行が予想できないし、その悪を踏み越えたときにも取り返しのつかなさがみえないところに痣のようにのこる。ふわふわのしろい下着につつまれているのか、あるいはその下着自体なのか。ともあれそんな下着がわかいおんなの姿態をかがやかせていることがある。もっとも質量のちいさい悪とは、香水などからはずっと遅れて近代の発明したもので、それはまとっているうちに身体そのものともなる、すがたに似た何かなのだ。