報告と伝達
【報告と伝達】
1)まずは三月六日、北大で開催される映画研究会についてのご案内を。同僚・応先生の名文をご堪能あれ。もちろん院生・研究生にはお誘いあわせのうえご来場を乞います。
「映画における「速さ」と「遅さ」―日中映画の場合」研究会(プログラム案内)
【趣旨】
映画論は、作品の鑑賞や物語の分析、映像表現技巧の確認、社会・時代の背景とのかかわりについての整理、あるいは映画作家がもつとされる美学的側面についての考察といったアプローチに満足しなくなって久しい。今日の映画研究は、研究対象や問題関心によっては程度の差こそあれ、「『シネマ』後」という課題に直面せざるをえない状況下にあるといってよいが、従来のアプローチに距離をとりつつ、研究の視野をより広く、そしてより深く開拓していくこと、これがわれわれの担うべき責務であろう。
本研究会は、新たな視座によって考察を加えられるべき数多くのテーマからひとつ取り出し、映画における速度の問題を取り扱う。映画イメージの回転速度が、一秒間18コマだったり、24コマだったりする。物語を記述する能力、思想・感情を表現する力を高めたとされるグリフィスの編集とエイゼンシュテインのモンタージュが、彼らの作品を構成するイメージたちが事物世界と精神世界を駆け巡る速さにかかわる事柄でもある。映画の歴史に新しい波が押し寄せるたびに、決まってわれわれが新たな相貌をもつ「速さ」と「遅さ」に遭遇する。映画は、発明された日から、速度の問題にかかわってきたが、これからも関わり続けていくものであろう。
日中の映画も、このテーマに無縁なはずはない。1920年代と30年代に、日本と中国の映画がそれぞれ近代化を迎えたとされているが、それはイメージが物事を表象するスピードが速まった事象でもあった。香港の新武侠もの、日本の松竹ヌーヴェル・ヴァーグ、中華圏のそれぞれの地域で起きるニュー・ウェーヴ、日本独特のリミティッド・アニメ……、速いイメージたち、遅いイメージたちを伴うそうした諸々の映画史的事象を前にして、われわれは速度にかかわる事柄について歴史的検証または理論的検討を加えてみようではないか。(科研基盤研究C、課題番号25370155)
【テーマ】 映画における「速さ」と「遅さ」―日中映画の場合
【スピーカー・タイトル】(日本語・中国語による発表は通訳付き、英語による発表は通訳無し)
・周 安華(南京大学)リズムの背後:時間とモダニティ―中国の「現象電影」の速度変奏
・阿部 嘉昭(北海道大学) 黒沢清、遅/速の攪乱者
・周 冬莹(浙江伝媒学院) 希薄と緩慢―賈樟柯映画における運動について
・井川 重乃(北海道大学) 加速/減速する日本映画―北野武『ソナチネ』を例にして
(総合司会 応 雄 〔北海道大学〕)
【質疑応答・総合討論】 発表者・聴講者全員。(使用言語は日本語と中国語、通訳付き)
【日時】2014年3月6日(木) 午後14:00~18:00
【場所】北海道大学人文社会科学総合教育研究棟(W棟) W408教室(〒060-0810 札幌市北区北10条西7丁目)
・問い合わせ:北海道大学文学研究科映像・表現文化論(応、tel:011-706-4020)
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2)斎藤久志監督の『なにもこわいことはない』の札幌興行がいよいよはじまります。
於:蠍座
3月4日(火)より公開
3/4(火)〜10(月)12:05、17:30
3/11(火)〜17(月)13:30、19:00
011-758-0501
ぼくが去年、心底惚れた映画。すべてのフレームがすばらしく、それに着目するとあらたなフレーム論にとみちびかれます。「室内」で映画を撮るということは、「内部」の場所に位階と展開をつくること。斎藤監督の緻密な演出は、そうした真実に、完全に行き届いています。
「層」次号では、この『なにもこわいことはない』とミヒャエル・ハネケ監督『愛、アムール』を並列させて、フレーム論をしるしています。ぼくの論考を読む「前提資料」としてもぜひこの傑作に劇場で接してください。ぼくじしんは3月8日(土)か9日(日)のどちらかに行こうかなとおもっています。一緒に鑑賞したいひと(ひさしぶりに飲みたいひと)はぜひご連絡を
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3)今号(三月号)の「現代詩手帖」の目次見返しに、ぼくの『換喩詩学』の刊行予告が載りました。編集部が書いてくれたコピーを以下、転記打ちしておきます。
「現在の詩を、文学的にではなく、詩固有の物質的な論理としてとらえる試みだった」(あとがき)。「暗喩詩」から「換喩詩」へ――これまで詳細に論じてこられなかった90年代以降の詩の趨勢を、「換喩」をキーワードに根源的に定義づける。詩の現在に対峙するための詩論集、待望の刊行!
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4)今日午前はぼくが顧問をつとめる「北大短歌」第二号のため、その創刊号の書評を書いていました。久石ソナ氏の依頼によるもの。乞うご期待
終結
【終結】
書きだしに存在しているものが、おどろきとゆるやかさの双方であるときには、その後の中間も期待されてゆく。いわば破壊が水面下にひそんでいる形式のエレガンスを、やがておとずれてくる中間すべてにもずっとあじわうことができると予測するのだ。けれども終わりについての期待はおなじ蓋然性からは測りだされない。終わりそのものに特有性があるためだ。まず終わりは書かれていたそれまですべての終息であるどころか可視的な破壊でもあって、同時にその流儀に、単位的に独立したあざやかさをつくりだすものだろう。しかもそれは「終わることそのものが哀しい」というメタレベルすらふくんでいる。ほかとちがう終わりの単位性はつぎのようにも換言できる。それは余韻を差しだすものだが、じっさいにはその余韻が書かれたもの、読む者、そのどちらから出来しているさえ不分明なことが特殊なのだと。眼のひきはがしは終わりでのみ、とくべつに起こる。だからすばらしい終わりを体験しすぎてはならないとおもう。
春
【春】
埒をつくるのではなく、棒をつくるように、一篇の詩を完成にむけ運ぶことがある。主語をのっぺらぼうにするのみか一人称省略でなおさら隠し、たくさんの動詞を一方向へゆかせ、入口から出口までのひかりの通路とするのだ。おどりまいあるきかがむ。きえた主体のむこうに草があり、朝などはなごりとなったからだのありどころを土手にすらながす。ひとが死ぬこと、それをおもいだすのはなんの洗浄なのか。ひとをのせるはこべに遅速の区別がない。ふかれるものはひかりにぬれて鎖でつながり、そのながい列を水にあるとみなし、やわらかくゆらす眼も発生する。かかげられる棒をかわりにもてと、詩を献る春がそうしておとずれる。
へび
【へび】
東京の「場所」は細部を人界的にくみたてられて、そこをあるくことは鱗をかすめるにもちかい。へびと同道しているおののきを、たまにおとずれてかんじる仕儀となるが、風光など鏡の部分が多く、すぎゆくにつれ無限回からだへシャッターをきられている疲れがたまる。こういうへびの覚醒は、雪ふかい地ではけしておぼえないもので、ひとごみをはずれてむつみあうにも冷血の流儀が要るのではないか。れんあいが流行るとか流行らないとかは、へび的なにしきもようがはだをいろどっている自覚にもとづくのだろうが、東京にあるからだは、風光の鏡にすいとられてきえかかるときがいちばんうつくしい。それらをみるために、なにももちよっていない。微光にとけることなく今日はへびとともにただあるき、「西へ」という方向をひさかたぶりにからだへいれるだけだ。
氷瀑
【氷瀑】
氷瀑やからだの涯の髪洗ふ
ふと口に出たフレーズ。季題が相互離反しているので、これは俳句ではないのかもしれない。氷瀑に洗い髪の凍結をみるのか、その像も判然としない。ここに意味があるとすれば分裂のみ、ということになるのか。
季題に好悪もないが、それでも「髪洗ふ」にはおんなの撓みがかんじられて惹かれる。廊下を突っ切ったところにある浴室では白鳥のようにくびを垂れただれかがいて、髪から滝水を爛々とこぼしているのではないか。むろんその髪はくずれつつある弦楽器でもある。
「髪洗ふ」が他動詞となる可能性はあるか。いや、洗礼者はいつもいないだろう。おとめごはひとりをきわめて、おのれの洗礼者となるのみだ。それが氷瀑ということかもしれない。
井口奈己・ニシノユキヒコの恋と冒険
【井口奈己監督・脚本・編集『ニシノユキヒコの恋と冒険』】
『犬猫』『人のセックスを笑うな』、そして新作『ニシノユキヒコの恋と冒険』と、井口奈己の脚本・監督作品を観てゆくと、ひとつの視界への収斂が起こるような気になる。すべてが恋愛劇なのだが、(モテ)男の「うすさ=稀薄さ」への異議申立がまずある。ところがそのうすさから語義矛盾だが、極薄=アンフラマンス(→デュシャン)な世界の「奥行」がひろがるのだ。そうして「世界」への肯定的な郷愁感覚といったものが出現してくる。
そうなると井口映画では、恋愛をえがくことと、空間をえがくこととが同義となる。空間を前提としない恋愛などありえないという信念がつらぬかれているといってもいい。それが恋愛描写に具体性、リアルをともす。くわえて8ミリ作品から出発した井口にとっては「話法」がサイレント映画的な推進をみせる局面もある。そこでは「空気」も召喚されている。
井口映画の技術は撮影と整音の双方に力量を発揮する鈴木昭彦に多くを負っていて、撮影はだれもが指摘するようにフィックス(固定撮影)が中心だ。このフィックスがフレーム内に「みえるもの」「みえないもの」の分離をつくりあげ、同時に「みえないフレーム外」を宙吊りにする。それら「みえないところ」への興味をめぐって「語り」が駆動する。こうしたことが井口作品特有のやわらかな質感をもたらし、鑑賞が「やめられなくなる」。
今回の『ニシノユキヒコの恋と冒険』の内容をまずひとことで要約するなら、女性の恋情をその徴候から詳細に読めるモテ男の、それでもほろにがかった恋愛遍歴だ。ところがモテ男は自分から積極的に相手にアプローチすることなく、立居振舞には端正な「待機」のうつくしさがある。そんな理想的な美男がなぜか生涯、相手から「振られ」つづけたというのだ。
映画は彼が振られる瞬間を描出しない。観客は「描写の外部」からモテ男の運命的な転換点と属性を想像しなければならなくなる。描写「内/外」のふしぎな均衡。ともあれ彼が恋愛対象を特化せず「世界」を等分にあつかうことが女からの不信(不審)をまねくのだと予想が立つが、問題の本質は彼の存在の感触が、おもたい事物が重畳している世界にあって、すがすがしいほど「うすい」点にこそあるのではないか。くりかえすが、その「うすさ」は非難対象なのではなく、郷愁の対象なのだった。
原作は川上弘美の同題小説(未読)。美男の恋愛が遍歴形になること、また恋愛対象に母-娘への架橋が暗示されること、最後には当人を死がつつむこと、これらによって川上の小説が紫式部『源氏物語』の現在的な翻案だとは容易につかめる。ひとつだけ違和を申し述べておくと、『真鶴』にしても『どこから行っても遠い町』にしても川上小説には地誌的に綿密な設計図が裏打ちされる系譜があるのだが、映画『ニシノユキヒコの恋と冒険』では撮影される土地が景観重視なので「つながっていない」。江ノ電車中のシーンがあって車内アナウンスに「次は七里ヶ浜」とながれるのだが、江ノ電に親炙したひとなら車窓風景が七里ヶ浜を過ぎて鎌倉高校前にむかっていることがすぐわかる。こうした鎌倉の設定に、さらにお茶の水の聖橋付近、横浜・馬車道までが混在してきて、だれの住居がどこにあるのか不確かになってしまう。それにしては人物たちの往き来が近すぎるのだ。
むろん上記はちいさな瑕疵だ。フィックスショットがもちうる「みえないもの」の意味化、それが「語り」をしずかに、抑制的に駆動させてゆく機微にこそ、極上の味のある美点はうごかない。
例でいえばタイトル表示(それ以前のアヴァンタイトルでは海辺の軽食ハウスのなかでのニシノユキヒコ=竹野内豊、夏美=麻生久美子、その娘・みなみ=子役のやりとりがつづられる――そこでニシノとみなみが食べつつもみなみじしんは注文していない「バナナパフェ」が重要な小道具となる。それから時間を置き、ニシノの交通事故の暗示が後続する)のあと、ニシノが画面に再出現する呼吸だ。まずは前提なしに、帰宅した女子高生の室内での日常が描かれてゆく。中身なし、白飯だけのデカい三角おにぎり(二合くらいありそうだ)を彼女が食べきれるか否かといった些末な興味。
ここに一匹の室内犬(テリア)がからむ。フィックスの引き画面が厨房でのセーラー服姿の女子高生の腰から上を捉えていたとおもう。床をカシャカシャ爪音を立ててひくくうごく犬は、椅子にのぼって上体を起こしたり、床から跳びあがったりしなければ画面に映ることができない。ほとんどが画面内の「爪音」である「気配」の犬が、予測不能の間歇性をもってチラチラ画面にからだの「部分」を出現させるのだった。これを犬であると同時に、犬の姿をした「徴候」とはいえないだろうか。井口映画では徴候はすべてうごきをともなっている。この点にこそ映画性が確保されているともいえる。
すべてフィックスカットの連続のなか、娘は庭に出て、植物に水をやる。画面外扇風機が使用されているのだろう、庭の草木がゆれてくる。なにかアニミニスティックな妖気が画面を領してきて、そのタイミングでリバースに切り返されると、室内に白を基調にパナマ帽までかぶった、リゾート・シック、冒頭とおなじ恰好のニシノ=竹野内がいる。おもいかえせばそれまでアヴァンタイトル部分、竹野内を襲った事故の予想がながく宙吊りされていたのだった。おまけに、そのまえの麻生とのシーンでは「自分が死んだら幽霊となって会いにゆく」と、彼は秋成『菊花の約』につうじるようなことをいっていたと記憶がよみがえってくる。
「判明」は竹野内の語りにより、ゆるやかに訪れる。なるほど竹野内は交通事故で死んでいまは幽霊で、女子高生は往年の童女「みなみ」の長じた姿だった。しかも彼女の実母・「夏美」=麻生久美子は現在、娘と離れている。そのあと娘がどこに逃げても竹野内がその眼前や脇に位置することができるという神出鬼没性が描出され、付帯的に邸内の空間が召喚されてゆくことにもなるが、美男子の井口映画的な要件=「うすさ」が、竹野内が幽霊となったこの初期段階で完璧な「うすさ」と縫合されてしまっていたのだと、のち気づかされることになる。こういった遅延の出し入れが井口奈己の「語り」の巧者ぶりなのだった。
洋館でもよおされる竹野内の葬式に、幽霊・竹野内とともに女子高生「みなみ」がおもむくことになる。竹野内の「ゆかり」の女たちが蝟集していて、そこに実母・麻生久美子も現れるのではないかと娘「みなみ」は期待するのだが、画面はそうしたドラマ導線どおりにはうごかない。なぜか魅入られたように画面は、庭で弔問客を迎える楽団演奏に固定されるのだった。音楽は黒沢清作品などのゲイリー芦屋(ついでにいうとエンディング曲は七尾旅人)が担当しているが、楽団演奏はゲイリー芦屋の作曲中、意表をつくものだ。オフノート系の古軍楽、あるいはチンドン系で、エンディングに出てくるスタッフクレジットで中尾勘二などがはいっているとわかった。それにしても小さな改造ギターでチマい、不協和音的なオブリガートを弾きつづけるサングラスの男は誰だったのだろう。最初は大友良英ではないかとおもったのだが、クレジットをみて、ちがうとわかった。
弔問客のなかに料理学校でニシノと知り合ったという「ササキサユリ」=阿川佐和子がいて、彼女が「みなみ」と出会い、その回想を契機に、ニシノの女性遍歴が画面展開をはじめる。時制が複雑になる。以下、一気にニシノの「相手」となる女性を紹介すればこうなる。
○「マナミ」=尾野真千子。ニシノの勤務先の上司で、逡巡の末にニシノへの愛着を顕わにする。びっくり時計のなかの蛙になりたいという述懐が彼女の生のポジションを表明しているだろう。
○「カノコ」=本田翼。コケティッシュで積極的、可愛さを鼻にかける無邪気(迷惑)キャラ。ニシノと別れたのちもニシノの至近に出没し(幽霊のニシノを端緒に、この作品では神出鬼没性がリレーされる――彼女ののちは、ニシノのマンション居宅の隣室の猫がその役柄を担うようになる)、ニシノとは温泉旅行(伊香保)におもむくことになる。井口演出は本田を「お子ちゃま」演技のまま放置させ、その素材性を前面化させている。
○「昴」=成海璃子、「タマ」=木村文乃。ふたりはニシノの隣室居住者で、猫がベランダ伝いにニシノの部屋へ迷い込んだことから知遇を得る。ふたりのルームシェアにはレスビアンの匂いがあるが、両刀づかいの積極性をもって意図的にも無意識的にもニシノへコケティッシュな「隙」をみせる成海にたいし、木村には当初「硬い」という描写分けがなされる。このふたりはそれぞれの画面出入りがおもしろく、やはり画面進展に「徴候」をつくりあげる。
尾野真千子の演技が圧巻だ。TVドラマでもずっと見聞してきた竹野内の演技がいわば90年代の美男子記号の域を離れないのにたいし、尾野はゼロ年代以降の演技革新者だ。竹野内と尾野との恋仲のなったタイミングで、同僚のいない昼休み前、ふたりがいちゃつくシーンがある。竹野内がキャスター付の回転椅子に坐ったまま尾野の隣へきて、そこでキスを迫り、尾野のお尻が冷たいなどとからかうのだが、恋愛適齢期を徒過しかかっている尾野が、竹野内の一挙一動に焦り、存在しない衆目に気を払いながら、もたげてゆく内心の淫蕩に自笑的に照れ、その照れによって拒絶と承認のあいだをゆれうごく逆説的なコケットリーを、こまかいリアルな密度で「展開」してゆく。笑いがとまらなかった。
気づいたのだが、尾野の演技的な祖型のひとつは藤山直美かもしれない。その藤山に上乗せされているのが尾野特有の可笑的なエロ気で、「自分のエロ気を自分のエロ気が笑う」そのメタ的な自己再帰性こそが、ネタとベタの見分けがつかない今日性なのだった。尾野は自分の素材性を一種の羊皮紙にして、そこに上書きを素早く重ねてゆく。変換力におどろく。目鼻口、手足の連関がこれほど面白く、表情と内心を要約不能にする女優は稀だ。記号性に終始してしまう竹野内にたいし、尾野は生成にひらかれて自らを複雑に類型化する。記号とはちがう実在性をも画面に刻印する。この尾野を起点にするなら、相手役もゼロ年代以降の、おなじ生成性をもつ男優にすべきだったかもしれない。たとえば綾野剛。むろんこの映画の配役は「研音」枠だった。
原作小説でどうなっているか確認できていないが、この映画では男女の相愛成立に法則のようなものがにじんでいる。女が手にあまるほど大量だったり重かったりする何かをはこぶことをしいられて、その「何か=荷物」から付属物がこぼれ落ち、傍観できなくなった親切なニシノ=竹野内がそれらを拾ううち、自然と「同道」が組織されるというのがそれだ。尾野と竹野内が社内で相互を意識しながら相愛に踏み切れない状態を「決壊」させたのも、会議前に大量の資料をはこぶことを強いられた尾野を、竹野内が手助けしたからだった。
井口演出では、恋愛に陥る人間が引きおこす「突発的な動作」を注視することで、人間性を突発性の域へ回復させるユーモアが眼目となる。ベランダを伝う猫の出没によってマンションの隣室同士に障壁がなくなってしまったような空間的な奇蹟が生じ、ニシノの隣室者のうち、むっちりして肌の露出が多く、振舞そのものにも挑発性があって、ニシノの至近に猫とともに身を横たえるようになる成海璃子が、ニシノとズブズブの恋仲になりそうな気色となる。ところがある晩、成海が泥酔して前後不覚になり、その「運搬」が迎えに出た木村文乃の手にあまっているところをニシノ=竹野内が支え、とりこぼすいろいろなものを拾い、成海を運び入れるうちに、竹野内と木村に性的な緊張が生じてしまう。そこで触媒・竹野内の刺戟を受けて、木村文乃がこれまでの演技歴では予想もできない「意外」を演じてしまうのだ。これもまた井口演出の功徳だろう。
寝室のベッドに成海を寝かしつけたあと、居間のソファー、向かって左に竹野内、右に木村がしどけなく坐り、一息つくというよりもすでに無聊にもどかしくなって並んでいる。そうなるのは、隣人関係では何事にも前面に出ていた成海にたいし、終始慎ましい影の位置にいた木村が「硬いコンサバ」にみえて正体を明かしていないためだ。男性を許容しないレスビアンなのではないかという予感もあり、ふたりの間合いに妙な緊張がある。やがてふたりのくちびるが相互に接近しようとする。ところが躊躇がそれをひき放す。この恋愛動作の齟齬が二回かさなったあと、木村がくちびるを向けてきた竹野内に、自ら積極的に接吻する。齟齬(遅延)が前提され、それが決壊することで木村の存在が一挙に切ないほど恋愛色に染まるのだ。
木村は竹野内を「押し倒し」、ふたりの頭部はフィックスフレームの外側にアウトする。あとは猫の全身を収めるフィックスショット。毛づくろいをする猫のすがたのフレーム外に、ふたりの生々しい接吻音、愛撫音がながくつづく。このフィックスショットの持続の長さ、その外側に実像がみえないまま「意味」が生成されるのが井口演出の真骨頂だし、ショットの持続的長さそのものが衝撃となるのが井口演出の新しさだ。つまり井口のあたらしさとは、描かれる俳優動作の定着とともに、フィックスショットのつなぎまでもが生気を帯びて「演技をおこなう」点にある。
某氏のポストでこの映画ではいちゃつきがつづきフィックスショットがただ逼塞を結果している、監督が影響源としている清水宏へのとんでもない誤解があるといった妄言があった。某氏は「うすさ」「ゆらめき」「持続」「人物」「世界」が分離不能になる井口演出の魔法に一切気づいていない。「世界の徴候」がどんな想定外を築くかを思慮する能力がもともとないのだ。
この映画では遍歴の相手として「列挙」される麻生久美子、(阿川佐和子)、尾野真千子、本田翼、成海璃子、木村文乃にたいし、(阿川からニシノの遍歴を聴かされる)女子高生「みなみ」がひとり系列外にいる。彼女だけがニシノの恋愛圏の外側に、恋愛者の熱っぽい「はかなさ」とはちがう冷ややかな「はかなさ」で身を置いているのだ。演じた新人・中村ゆりかは顔をおぼえにくい細身の美少女といえるだろうが、ニシノの行動類型にある「うすさ」、あるいは幽霊化したあとの存在のほんとうの「うすさ」を、不作為中心の起居からあらかじめ起ちあがらせ、それを世界化させている。「黙って聞いている」「黙ってみている」「黙って同道している」彼女が、「恋愛」に右往左往する女たちよりも、形容矛盾だが「実在性にとんだうすさ」を体現していて、それが今日的存在の実質をつたえてくる。
完璧なニシノがなぜ相手を手中にしながら「振られ」つづけるのか、具体的に展開されない映画の外部を想像しているうち、映画の終了間際、その「外部」が土台になったように、「みなみ」=中村ゆりかを見事に捉えるシーンがうまれる。この映画では竹野内が事故に遭うまえ女に呼ばれて呼び声の場所に向かうさい一回だけ手持ちパンショットがあって、あとはすべて長短、遠近のフィックスショットで展開が固定されてきた。この禁を破ったのが、中村へのショットだった。
海辺の堤防のうえを、回転も交えて画面向かって左へとあるく中村を移動ショット(レールによるトラベリング)で追い、そこでこそ清水宏映画の符牒=「非中枢的な移動」が鮮やかに画面へ生起したのだ。この鮮やかさは何に貢献しているのか。「恋愛圏外」にこそ本質的にある「世界のうすさ」のかがやきだろう。彼女の画面上の「移動」はニシノ=竹野内の「遍歴」と同質的でありながらそれを凌駕した。「ことば」なし、画面変転の「呼吸」だけで映画的な意味を生成する井口演出は、ここでも見事というほかない。
映画は最後に冒頭回帰する。テラスつき、海辺の瀟洒な軽食ハウス。「三人いる――もしくはふたりいる」。幽霊の竹野内、その葬式帰りで竹野内の幽霊がみえない麻生久美子、それがみえる中村ゆりかが成員だ。この場面、中村が幼女時代から竹野内の「圏外」にいたことが、中村-竹野内の会話からわかる細部が見事だった。「バナナパフェは好きじゃなかったの」「そうだろうとおもった」。三人芝居では、竹野内に対峙している椅子に誰が坐っているかで演出=空間のフェイクがあった。円卓の三方をオーシャンヴューするように椅子が囲んでいるのだが、つなぎでは三つの椅子のうちふたつが一致して、麻生もしくは中村がおなじ場所から竹野内に語りかけるよう目論まれるのだ。
そこでおもう――「三人いる――もしくはふたりいる」。あ、と気づく。この作品が描いた関係のうち「竹野内―本田翼―尾野真千子」(本田は竹野内と尾野のいる空間に何度も不躾に闖入した)、あるいは「竹野内―成海璃子―木村文乃」にも「三人いる――もしくはふたりいる」が適用できるのだった。この算えにまつわる不確かな感覚が、どうやらこの作品の「はかなさ」を高度化している。これは『源氏物語』から採取される感覚を変型したものではないか。
「はかなさ」といえば、この作品には食事用の空間が多くでてくるのだが、そこではパフェとアイスクリーム(「しろくまくん」)いがい口にされるのはすべて飲料(コーヒー、紅茶、牛乳)だという鉄則がある。固形物がないのだ。しかもコーヒーの注文が紅茶にすりかわったりする。これらも「はかなさ」の醸成に貢献しているのではないか。あるいは竹野内の葬式に現れた木村文乃のパートナーが、成海璃子とはちがう別人にすりかわっているのも。
井口奈己にはフィルモグラフィ上の自己言及性と自己展開がある。「うすい男」というテーマについては前言した。『人のセックスを笑うな』で多用されたロングフィックスは、立脚がさらにメジャーになった今作ではその使用が選択的になった。8ミリ-35ミリ版セルフリメイクという経緯をたどった『犬猫』では「犬猫より劣る」と、女子ふたりを憤慨させた(これも「三人いる――もしくはふたりいる」という映画だった――あるいは『人のセックスを笑うな』でも松山ケンイチ、永作博美、蒼井優の関係などがそうだった)忍成修吾がいるだけで、「犬猫」が具体画面的には存在しなかったのに、この『ニシノユキヒコの恋と冒険』では「犬」「猫」が見事な実在感で画面に存在している。
残念な自己言及性がひとつある。竹野内が書店にいる場面で、山田宏一の名著『映画 果てしなきベスト・テン』が手にとられていることがそれだ。むろんそこには8ミリ版『犬猫』を絶賛した山田宏一の文章が収録されている。これはしかし狭隘な「自画自賛」や傲りしか印象させないだろう。映画そのものはもっとおおきなものへひらかれている。
――シネマフロンティア札幌にて二月十九日、鑑賞。
near by
【near by】
そばnear byにだれかがいるのではなく、そのnear byじたいが人格をともなってみえる、ふしぎな刻がある。そのひとのあらゆる隣域がくうきだとして、それらがからだをつつみこむさいに縮率や露光がきめられ、そのさいわいが、こちらが内心のカメラをむけるまえに、いわばシャッターを切りつづけ、寸刻のかさなりがひとの簡潔な個別をまとめあげているのだ。ながさいがいはながれしかない髪の亡霊性、窓際にいる位置、ゆびのほそさが関連しているかもしれない。すくなくともふたりいる、そう讃美するこちらは、むろんそのふたりの員数外で、そこからみずからがみずからをかなでるしかない音楽、そうしたものの自充性などをおもうようになる。みえるものと音楽とはいったいどこがちがうのか。そのひとがふたりあることはかるい、あかるい。
枠
【枠】
まだこれからの作業だが、今週水曜までに書かなければならない「文學界」扉詩、その最大枠が、二十七字×二十五行に設定されているのが重い。設定にすでに改行詩創作の使嗾があるためだ。このごろは改行による呼吸の明示をきらい、呼吸を散文のなかに填めこんでいる。また雪中の鴉にならい、雪を詩作の糧にするのもやめている。こんなときあらためて改行詩をつくるなら自分のからだがはだかになるような気さえするのだ。できるだろうか。ともあれ余白をつくるべく一行を十五字前後にならべたいが、二十五行の幅だけはまもってみよう――そうかんがえてとつぜん枠の処女性のもんだいにも突きあたる。
短歌や俳句の定型とはことなり、自由詩では一回性の枠がその都度できる。みがきぬかれた定型ではないのだから、自由詩では枠そのものが呼吸しない。内側から呼吸させるのみだ。たしかにいきおいにまかせて書けば一回ごとに完成がみちびかれるが、ことは依頼詩稿で、それゆえ設定枠のもつ外延や潜勢を想像、そこに自由と拘束を暗闘させなければならない。自分はどこに立つか。たとえばそれで枠のかすませる林立性への距離と縮率をきめ、どのていど葉をしげらせるかが算段されることになる。音の像はうかぶのか。とうぜん依頼詩稿に字数枠組のあることの是非までもが創作の減退要因にもなってゆくだろう。
突破できる方法があるとすれば、それこそが枠内を歩行してゆく身体性だろうとおもう。処女性へはいってゆく不埒なからだがひつようなのだ。枠がおのれをゆらめかせてみせるもの聴かせるものが、そのまま換喩的なずれをつくりだすまで、ことばのなかに歩行がきえなければならない。ほんとうの事物のように音のように、「在ること」が遅れてあらわれなければならない。このずれが「ないもの」、たとえば蒼鶸を樹にやどらせ、事物をそれじたいにさせない線もうまれてゆく。しなること、もえること。最終的にはその線は書き手じしんへ適用され不明が放縦と豊饒にかわるのだ。遅れるために速さをつかって、きえとあらわれにも均衡ができるのだろうが、はじめから虚無であるものになんの橋渡しがあるのか。きょうの潜勢度ならゼロにすぎない。どこにも徴候のない心内にたちすくみ、ぼんやりとした内部ができているだけだ。もしかしてこれが枠なのだろうか。脳が脈打つ。
フランソワ・オゾン、17歳
【フランソワ・オゾン脚本・監督『17歳』】
売春を、欲望(性欲/物欲)の問題とも、都市の迷宮性とも、あるいは貧困による疎外態とも定位せずに、それじたいの真空状態に置く。どうなるか。その行為によって身を穢す少女の四肢と胴体が自動化する。そのなかで「顔」だけがやはり表情をもたない。
ただしこれらは往年のホテトル形式(この作品では中年から老人までの男性客に呼ばれる場所の多くがラブホテルではなく高級なシティホテル)のなかで起こる交合だけのことで、実際この作品でヒロインとして描かれるパリの17歳、裕福な家庭の少女イザベルは売春行為の前後で、意味化できない均衡さえつくりだしてしまう。客にたいしてソルボンヌ大学にかよう学生という体裁をつくりだすため、彼女の鞄にはシックなスーツや母親から拝借したグレーのブラウスや化粧道具などが着替え用にはいってそのおおきな鞄がふくらみ、すこぶる不恰好だし、つぎつぎに振舞われる売春の対価300ユーロは使用されずただ行為の累積的な痕跡としてクローゼットにしまわれたままとなるし、高校の親友には自分が処女だという前提を崩さない。周辺状況からは売春の動機が探れないくぼんだ緩衝帯のなかにこそイザベルの売春がある、ということだ。
フランソワ・オゾン『17歳』はツカミのわるい映画だとおもう。「夏」「秋」「冬」「春」と四季に章立てて四つの進展があるのだが、イザベルの一家が別荘で過ごす夏のヴァカンスで、(事後的に判明するように売春当事者の資格を得る目的で)イザベルがドイツ人の少年に処女を積極的に捨てるながれは、他人にも自己にも熱中を欠くため、たとえばマンディアルグの名篇『満潮』のような幻惑性をもたない。イザベルとその弟ヴィクトル(彼は小学生だろう)の間柄が、たがいの性的な冒険を逐一報告しあう共犯者的な紐帯にむすばれているとわかる点だけに新機軸がある。それでもイザベルとヴィクトルは、コクトーごのみの「恐るべき子供たち」へと昇華することもない。なにか不如意が陽光や景観にゆきわたっているだけだ。
季節が秋となり場面がパリ市内に移って、画面変転のリズムがアレグロ化する。化粧をほどこして大人びたイザベルがホテルに呼ばれ、さまざまな客と裸身を資本にした接触をくりかえしてゆくさまは、ときにフラッシュ編集とよばれるほど素っ気ない連打の速さとして叙述される。たぶんラインのようなケータイSNSにみずからを登録し(源氏名は祖母の名から借用した「レア」)、連絡を受け、指定の部屋番号のホテルの一室に入ってゆくのだが、そこでもドアマンの視線をないものとしてホテルのエントランスをくぐりぬけ、エレベータにのり、目的の部屋にはいってゆくまでの不安が、たとえば見た目ショットの継続性によって強調されることがない。少女性のもつ性的な価値が資本主義社会のなかで気味悪く増殖してゆく機微も、たとえば「援交天国」日本を土台にして渋谷そのものまで生物化させた庵野秀明『ラブ&ポップ』にとおくおよばないし、塩田明彦『害虫』のように初めての売春に傾斜してゆく少女の瞬間がふかさとしてとらえられることもない。
売春が密室で他者と無防備な邂逅をしいられる「危険な職業」(イザベルのばあいは恐れを知らぬ個人営業だから救援隊をもたない)だという点は簡潔に表現される。とくに接合を拒み、イザベルにポーズをとらせるだけで、自慰が辿りつく放精のみを目的とした客の変態性に「他者」との共約不能性が凝縮される。ただし背中にぶちまけられた精液をバスタオルで拭くだけでシャワーの使用をゆるさない客の「法則」に直面して不機嫌になったイザベルには、あわれな少女という見立て、主情的な共感が観客からうまれることもないだろう。自己放棄している対象に、自己運営をおこなっている観客が共感を起こさない、という原理的な「関係の問題」ではない。乳房をいくどもあらわにするイザベルは長い四肢をもち、ひとによっては大人びたふかい眼差しをもつと印象されるだろうが、みずからがみずからを蚕食してゆくような肉の実質、肉の影をもたないと、アジア人なら考えるのではないか。徒労のように自己展開してゆく売春。それは疎外態も、資本主義下における少女性の考察も蓄積しない。
ベンヤミンは娼婦(ストリートガール)を、都市の迷宮性を増殖させる媒介、迷彩として称賛した。彼の不器用な娼婦とのつきあいは散乱するみずからの固定行為だったかもしれないが、とうぜん古代ギリシャ、「思考の伝授者」である哲学者を相補した「身体の伝授者」高級娼婦にたいする憧憬へとプラトニックに昇華してゆく(『パサージュ論』)。田崎英明の論考がこのあたりを詳述している。砂を噛むような娼婦の疎外態についてはゴダールや大島渚の映画が社会学的に剔抉した。ところがこの作品のイザベルには、人気モデルの座から起用されたマリーヌ・ヴァクトの、眼と眉間と鬢のあいだの狭隘性、顎のゴツさも手伝って、不透明なものにたいして起こる戦慄が生じない。可視的にすぎる存在といっていいのではないか。
むしろ悲傷はイザベルを買う客の側に反照される。客のひとりとして出現した知性ある老人客、ジョルジュ(ヨハン・レイセン)の顔に刻まれたふかい皺がその極点だ。年齢をうえに詐称したイザベルと、したに詐称したジョルジュはいわば関係性の共犯だった。その彼が娘といるところを「普段の」イザベルに演劇会場でみられたことから、ジョルジュはイザベルの継続的な客となり、彼の存在が中心化してゆく。彼がバイアグラをもちいてみずからを励起しているとわかる間接描写があるが、老いた男とわかい女がつくりだす(非)対称性はつたわってこない。女が肉体の真実を捧げ、男が知性の真実を返還するという定式が強調されないのだ。
ついに作品に決定性が舞い込む。騎乗位で烈しい性交をおこなっていたときジョルジュが心臓発作を起こしたのだった。マウストゥマウスによる酸素付与や心臓マッサージなど懸命な救命措置をイザベルがおこなう(これが愛着にみちた動作とは映らない)がむなしく、彼女は混乱しながらも対価300ユーロだけを受けとってその場から逃走する。それにしてもユーロ紙幣の安っぽさはなんだろう。その安っぽさによって売春に価値がなくなったようにさえおもえてしまう。
冬。イザベルの死体放置、秘密の二重性が、警察によって一家、とりわけみずからのわかいころの多情をなつかしみ、娘を開明的に放任してきた母親シルヴィ(ジェラルディン・ペラス)につたえられる。その彼女とて売春という自己放棄の「汚辱」が理解できない。それで娘を打擲する。その際の不徹底さがこの作品のつかみどころのなさに直結している。イザベルは、精神科医の治療を余儀なくされる。やりとりのなかで、売春の動機があきらかになったとおもえるくだりがあるにはある。ケータイに客からメールを受ける。客の声を聴く。それらから客の容姿や地位を想像する。指定の部屋にたどりつくまでの期待値の高揚。それでも客との出会いがときめきをもたらさない。ただし他者と出会った余韻がのこる。それで「ふたたび」客からの連絡を待つ。そのくりかえしだったとイザベルは精神科医に泣きながら語ったのだった。
ふたつのことがらがわかる。まずイザベルは娼婦の必須条件である冷感症のなかにいたということ。冷感症は男の側からみれば、坂口安吾の「私は海を抱きしめていたい」のように肉体の遠方に海を透視させるまでになる。ところが前言したようにイザベルは「ただの」可視性としてのみ画面に現れていて、彼女いがいの眺望を二重化させることがない。
もうひとつわかることは、イザベルの営為のすべてが「待つこと」に収斂されている点だ。「待つこと」が延期をかさねてゆけばついに訪れる出会いが、バルトのいうように恩寵となるが、イザベルには売春従事期に待つことの焦慮がなかったはずだ。あるいは「待つこと」はブランショのいうように必然的に自己再帰化されて、対象を待つのではなく「待つことを待つ」ことへ変位してゆく。イザベルの客待ちが自分自身を待機したことの変型だったという総括も容易にできるが、ではどんな感情なり身体なりが映画的にあたらしく定位されたかという点で、この作品はこころもとない。こころもとないということは、待たれる対象――イザベル自身や客そのものがこころもとなかったという中間結論が出る。それはむしろ名指せないもの――たとえば「霊魂」にちかいものだったのではないか。
「待つこと」にはなにかの到来が前提となる。たとえば赤児はなにも待たない。それを有資格化するのがわかさだというのも短絡的だがありうることだ。作品はランボーの詩篇「物語」にかかる高校でのクラス討論(ゼミ)を召喚する。このなかにイザベルもいる。その「物語」の最後の一節を転記してみよう。
おまえは恋している。8月までは予約済み。
おまえは恋している ── おまえのソネットは彼女を愉快がらせる。
友は皆去ってゆく、おまえの態度はけしからぬと。
── それから、ある晩、熱愛する彼女が手紙をしたためてくれた…!
まさしく今夜、…── おまえはまばゆいカフェというカフェに戻ってゆく、
ビールとレモネードを注文する…
── 17歳にもなれば、真面目一方でなどいられないし
散歩道は緑なす菩提樹を戴いている。
この詩篇が導入されたからといって、『17歳』イザベルの「自己実験」を、「わかさゆえの驕慢」と結論づけることができない。脚本も手掛けたフランソワ・オゾンは、なにかを欠性のままにたもつ選択を維持しているのだ。このままでは作品が不燃焼を結果する危惧の生じたその時点で、作品が劇的に収束する。この作品は「最後」におこなわれる抽象的な解決によって、それまで作品が描出していた次元を神秘的に跳びこえるのだった。
春。売春行為が発覚したイザベルは母親によってケータイをとりあげられ、門限を厳しく設定されたまま、精神科医のカウンセリングをうけるいがいは自由を拘束されている。彼女は客の死を眼前にしたことで売春に恐怖をおぼえたと述懐してもいる。ここで問題なのは第一幕の「夏」、処女喪失のまえに彼女が枕を股間に摩擦させておこなっていたような自慰(それは弟にみられた)が継続しているかどうかだった。つまり一回描写された自慰は、売春行為全体を「客をつかった自慰」に転位する可能性をひめてもいたということだ。
ところがそれが描かれない。逆に不純な要素が混入する。母親が出席を渋々みとめたパーティでイザベルはクラスメートからのキスの所望をみとめる。その彼はステディとなり、家族からイザベルの部屋でのセックスも承認されるようになる(不特定多数よりも特定個人のほうが安心というこの家族の選択には吐き気をもよおすが、それがイザベル自身にとってもそうだったとわかるくだりがある)。
イザベルは秘匿されていたかつてのケータイと、それとは別々に置かれていたチップを発見する。チップを装填すると、客ジョルジュの死後もさまざまな客からの伝言が陸続していた。なかのひとりと会うため、ふたたび彼女はホテルにむかった。彼女は「懲りてはいなかった」のだ。
以下、結末にふれる(「ネタバレ」拒否というかたは、ここでどうか読了を)。
ホテルのラウンジカフェに現れたのは、オゾン映画での中心的女優シャーロット・ランプリング(『まぼろし』『スイミング・プール』『エンジェル』)だった。老いに刻まれたその顔には冷静さと威厳がある。彼女こそが死んだジョルジュの老妻で、夫の死をみた女と出会いたかった、夫の最後に過ごした空間を知りたかったと語りだし、イザベルに敵意をもっていないことが判明してゆく。待ち合わせのラウンジカフェはまさにジョルジュの死んだホテルで、シャーロット=アリスが取っていた部屋も、ジョルジュの死んだ部屋だった。
「わたしもその部屋に行きたかった」というイザベルの科白に、はじめて奥行が現れる。「世界への違和」を最初にしるした特定の「場所」には再訪義務があるという決意がそこからみえる、ということだ。
前後でアリスは自分語りをする。――夫は浮気者で、結婚も数年経つとまだわかいとおもっていたわたしのからだに興味をしめさなくなった。決意があれば、性的な不充足をみたすため自分もあなたのように売春をして、対価までえたかもしれない。それはしなかったが、いまでもその気持ちがある。ところがご覧のように無惨に老い衰えて、もはや金銭を払うにしても自分のほうからになってしまったが。
いずれにせよ、ホテルの一室=密室で人間が別のひとりの人間と出会っていることは特別だ。状況再現にしても復讐にしても、あるいはレスビアンの代理欲求にしても、ジョルジュの死んだ部屋に老若を挟んだふたりの女がいることには尋常でない緊張感がはらまれる。このときのイザベルの発語がうつくしい。「服を脱ぎますか?」。なにか名状できないものにむかっての自己犠牲が裏打ちされているためだ。アリスは返す、「それにはおよばない」。
売春は「名状できる」が、ここでのアリスとイザベルの並立は「名状できない」。それどころか、彼女らはベッドのうえにならんで背もたれて、そこには、この作品が売春の描写で回避してきた「しずかな近距離」が息づいている。アリスはイザベルのわかさから、夫の最後の視野を類推し、そのわかさが正当なうつくしさをもつことでイザベルをふかく赦免している。この救済的な「寄り添い」とはなにか。売春においては身体と身体が「対峙」しかえがかない。それが身体関係の冷厳な法則というものだ。身体に寄り添うのはむしろ「魂」とよぶべきで、アリス=シャーロット・ランプリングはそのようにして方向失調をくりかえしてきたイザベルに寄り添っているのだ。ここがこの『17歳』の「売春論」の解決部分をなすのだが、解決はそれだけでは終わらない。
アリスを真似てラウンジで飲んだウィスキーが回ったのだろうか、時間経過のあと、イザベルはベッドのうえで眼をさます。隣にいたはずのアリスがいない。このときこの作品の法則、速い編集つなぎがまた復活する。イザベルの見た目で、部屋の別箇所が次々にフラッシュつなぎされ、「だれもいない光景」「空舞台」の本質的にひめる凄愴が加算されてゆく。ここで「寄り添う魂」とみえたアリス、そのむこうにあったはずの「世界の有意」が反転的に消去されてゆくのだ。それこそが世界の現実だというように。
なんとこのタイミングでカットアウトするように、この94分の「すばやさ」の映画が終わってしまう。これがどんな意味形成の作用をおよぼすかは観客それぞれだろうが、シャーロット・ランプリングの消滅と、イザベルの売春の動機とが、ふかい次元で連絡するのはたしかだろう。
こう考えた。売春は自己再帰的であるかぎり、魂の問題とふれている。ところがその殺伐さは他人の魂と出会わせることをしない。だから四肢と胴体と性器はむなしい自己展開をするしかない。ほんとうに出会えるのは自己の魂にすぎない。当事者が人間であるならばそうだろう。ところが認識は残酷な逆順を用意する。他人の魂がきえたとわかる一瞬だけに、逆説的に自己の魂が現れるにすぎないのだ。なぜそんな逆説しかないのかというと、魂だけが不可視的、ひいては存在しないものだからだ。この認識が世界を空舞台に、静寂にする。この静寂を知れば、「無いものが充実して」、もはや貧困ではなく涸渇からの売春がその必要をなくす。――映画の最後に「みえた」のはそういった感慨で、じつはこのくだりでこそ、映画がにわかに可視性から離れたのだった。鮮やかだった。
円満
【円満】
保坂和志は『未明の闘争』五二二頁にふと《後悔は祈りのようなものだ》と書きつける。前後の文脈を捨象し、このフレーズだけかんがえざるをえなくなって、よもぎにみちた脳裡に草道の岐れがうかんでくる。後悔も祈りもY字型をしている。ふみまよった足、そのひと踏みまぎわ、あなうらにおぼえる電撃には、のちの後悔ではなく、事前の祈りも先験している。それで齟齬を緩和するうごきが祈りにまるく伏在しているとおもう。破戒はない。死にいたる猫の口内炎(まるい)が霊魂や並行性や持続そのものとおなじあらわれだとかなしむのみだ。語りがずれにずれ、それに沿い小説の本源、換喩を、詩からとりもどそうとする(非)詩的な試みをたどる。命題もまたとうぜんにずれる。《後悔は換喩のようなものだ》《換喩は祈りのようなものだ》。ちがうもののつくりだす円満が先験して、時間は保坂のからだにあたる場所へ多層のまま透視される。
飴
【飴】
ゆっくりと口腔からからだの奥へまねきいれても、胃の腑にはなにものこらない――そんな錯覚をもたらして体内をかげろうにかえてゆくのがその飴だった。それは口のなすことをくつがえすという意味では接吻や喫煙の代用品で、しかも形状にはこどもの玩具のようにおもえる華やぎがある。とりわけすきとおる球体がこのみで、あまみと気泡のある内宇宙がふしぎだった。さいごに球体は舌の天秤皿のうえでうすさをきわめた剃刀となる。もう載せても測れない。じきに口腔が血まみれになるこの盲目の予感こそが、眼にするものすべてをしたしい眷属へとかえた。みやれば夕陽だった。
呉美保・そこのみにて光輝く
【呉美保監督『そこのみにて光輝く』】
●四月十九日公開の佐藤泰志原作、呉美保監督『そこのみにて光輝く』を観る。公開がまだだいぶ先なので以下は「抽象的に」書く。
●「七〇年代のひかり」とはなにか。たとえばぼくは五八年生なので、七〇年代といえば十一歳時から二十二歳時までだ。まだ地上はひくかった。夏は暑く冷房もすくなく、ひとの顔にはいつも玉の汗がひかっていた。そんな懶惰をさそう体感もあって、ひかりはサマー・オヴ・ラヴの継続のようにいまだ痛かった記憶になる。それはハイキーで、しかも時代のあまさと接触してソフトフォーカスがかかっている。記憶のなかのひかりだから褪色もしている。それらはそのころ、とくににっかつの映画館で観たロマンポルノの画面の質感が影響しているのだろうか。
●そのような七〇年代のひかりをかんじる名曲として、かつて太陽肛門スパパーンの「うなぎ屋」を指摘したこともある。男はみな不細工な長髪で、Tシャツ/ネルシャツ&ジーンズだった。女には「かわいさ」の自己強調が蔓延しておらず、いまよりももっと逞しかった。気弱と不信の交錯するまなざし。愛によって果断的に開陳される「肉体」。それでもその開陳にともなう理屈っぽさ。黒髪はいまよりも黒髪の匂いを放った。そこから敷衍される夜も、いまよりも闇がふかかった。夏に代表されるひかりの眩暈と、ひとが織りなすひかりのかなしさ・まずしさによって、「七〇年代のひかり」が綜合されていた。
●佐藤泰志の小説を読むことは、第一に「七〇年代のひかり」に突如浸潤されることだろう。『そこのみにて光輝く』は「文藝」八五年一月号が初出だが、初出時期のひかりではなく、七〇年代のひかりを包含している。ひとはかんたんに彼の文学的な位置を「(中上健次+村上春樹)÷2」と要約するが、この要約では佐藤泰志的な「時間差のひかり」という問題には逢着できない。彼は往年を非年表的に憶えている。その記憶のなかでひとの肉体の周囲にもひかりが不如意に瀰漫していたのだ。ひかりは空間にみちるだけではない。場を往還し、その場でふるくなる。あるひかりと他のひかりの関係は、筒のなかに相互にあって、新旧や生滅を攪乱することのなかに現れる。それこそを佐藤は視ていたのだ。彼の文学の細部を精査すれば、その感覚をいくつも召喚できるとおもうが、いまはやめておく。とりあえず「いまあるもの」を追慕的に眺めるメランコリーの眼が佐藤の視線だった。「現在という過去」は小説執筆時には「過去の過去」となる。いずれもその状態にはひかりの衝突がはいっている。この衝突が、読者の側には浸潤と知覚されるのだ。
●佐藤泰志に似ているのは、マンガ家の安部慎一で、それも七〇年代初期のマンガだ。不安が似ているのだといっていい。むろん文学と筑豊と美代子(さらには阿佐ヶ谷)をもった安部にたいし、佐藤のばあい文学的に不安な者が鋭敏にもちうる多くの参照系があった。アメリカ小説、ハードボイルド、ビートニク、ロック、ジャズ、私小説、現代詩、中上、そして同時代映画。佐藤の小説は視覚的だが、それは時間が時間として現れるときの「視覚性」で、描写というよりは呼吸の問題といえる。それこそが佐藤小説の映画性なのだった。
●なのにその映画化が難しい。かんがえてみよう、佐藤の小説の美点は、短文がかさなってリズムをつくる「地の文」の連鎖にまずある。それがゆっくりと設定をひらきつつ、そこに物語生成がからんでゆく。ところがこの地の文はむろん映画化が不可能なのだ。映画は「一挙に」展覧する。つい最近、『大きなハードルと小さなハードル』を読み忘れていたと気づき読んだのだが、佐藤の小説の欠点は、映画化にさいしてはそのまま転用できるとおもわれがちな、会話文にある(連作第一作の初出は「文藝」八四年六月)。たとえば女性の会話語尾「――だわ」は翻訳アメリカ小説の影響だろうが、初出当時に多くの読者がもっただろうキャラクターにたいするリアル感を損なっている。それでも佐藤は「ちいさな擬古文」を会話文にしるした。これも「現在という過去」のもんだいに帰結するだろう。
●中上健次の小説時間は、その最良だったときにはまったく叙述の時間と一致してしまう。叙述をたどることによって、そのままえがかれる人物や自然や行動がすすむのだから、客体化される時間がないというべきかもしれない。客体化される時間をつくるのは、叙述される人物でいえば「ため息」、記述でいえばジャンプカットをふくむ「間」だろう。時間の加工性というもんだいだ。ナイーヴにそれを信じ、そこに綾ができるとかんがえたのが村上春樹なら、なんとかそれを不作法に不機嫌にしようとしたのが佐藤ではなかったか。それは佐藤の主題とも連関する。
●鬱屈と不安、不機嫌な不作為、あるいは不可能性をぬりこめられた佐藤的な男性主人公は、おんなと出会い、「家庭」をつくるか否かで逡巡し、アル中で壊滅寸前になったりする。ニコラス・レイの映画のようだ。そこで事物の存在が不安化し、あやうくなる。それをことばで語ってしまうのが八〇年代までの村上春樹だとすれば、佐藤では空間の「穴」は生得的に顕れる。ドゥルーズ的な概念「文学機械」でいえば、「穴」の生成が文の生成に反転してゆく佐藤のほうに、機械性判断における軍配をあげなければならない。佐藤の小説は出会いだけではなく、「家庭の継続」に辛苦する「事後」が繰り込まれる構造なのだ(これが安部慎一のマンガに似る)。なぜ「事後」が接続され、鮮やかさが回避されるのか。佐藤がえがくものは「身体」ではなく「肉体」だが、身体が関係によって更新されるのにたいし、肉体は第一相~第二相というゆるやかな移行しかしない。それがメランコリカーのながめるひとのからだだ。その肉体こそを「ひかり」といいかえてもよい。それで佐藤の小説時間は「事後」をふくむ筒状であることが必須となるのだ。村上春樹は二元性の点滅時間を多用するが、ひかりも身体もただの叙述の対象で、読者を裏切るような内在的な発光にいたることはないようにおもう。佐藤は機械工のように筒をえがき、そこに肉体とひかりを付帯させる。
●佐藤『そこのみにて光輝く』は、パチンコ屋でのライターの投げ渡しにより懇意となった達夫と拓児をきっかけにして、達夫が拓児の姉・千夏と出会うというのが初期設定だ。凄惨な細部がある。被差別地域の表象。姉弟の父が全身不随のまま性欲だけがのこり、それをその妻が、さらには娘・千夏が「処理」していること。保護観察下にある拓児のため千夏は拓児の引受先の植木業社長の愛人に甘んじている。それでも極貧は解消されない。だから彼女は生活のため売春に従事し、烏賊の塩辛工場でも働いている。いわばマイナス符牒を集約されても、なおも性的な魅惑の業火をゆらめかせるおんな。佐藤的な「現在という過去」は「過去の過去」へと即座にずれる。「おもいえがく映画を小説にする」と中上はいったが、それは佐藤のことばであるべきで、なるほど佐藤の小説性もまた即座に映画性にずれる。千夏の位置に「顔」がうまれる。ぼくならば野性的に眼のかがやく往年の沖山秀子あたりをおもう。声もハスキーなほうがいい。すると多くの小説読者は池脇千鶴の「千夏」への配役を不充分とおもうのではないだろうか。このあたりは後述する。
●八〇年代半ばにすら「七〇年代のひかり」を書いた佐藤には青春回顧とともに積極的なアナクロニズムがあった。「現在という過去」が筒状にひろがって、ある憂鬱な量感をつくりなし、そこにひかり=時間が往還して新規性がすぐにふるびる逆ユートピアが苦難のうちに定着されなければならない。だからこそ佐藤は『そこのみにて光輝く』を出会い編「そこのみにて光輝く」と、事後編「滴る陽のしずくにも」のふたつによって、筒状に延長しなければならなかった。呉美保監督、高田亮脚本の映画は英断をおこなう。まず事後編を映画化対象から切断した。それと高田の脚本は、佐藤小説の難点である、翻訳アメリカ小説の気取りにみちた会話文を、みじかさによって構文破壊された函館弁へと自然化してみせた。スタンスのたしかさは最初からはっきりしていたのだった。
●たとえば原作小説でえがかれた函館の被差別集落は、街区整理がなされた「いま」ではもう存在しない。佐藤が小説を執筆した時期にも存続していたかどうかあやしい。中上的なものへの接続を希求したがゆえの小説的な装置だったとすれば、それを「いま」映画化するとはどういうことなのか。映画では千夏=池脇、拓児=菅田将暉、姉弟の母親=伊佐山ひろ子の棲む、海辺にある汚辱の陋屋は、ロケセットの外景として直截的に描出される。とりたてて時代表示のないこの映画に、時制の迷彩がうまれる。登場人物が携帯電話をもっている設定があるいっぽうで、人物たちの煙草の吸いかた、酒の飲みかた、売春の運営方法などはどうみても七〇年代までの遺物だ。いったいこの映画は「いつ」をえがいているのか。佐藤泰志的な回答がでる。すべての時間は「現在という過去」「過去の過去」でしかない、ということだ。
●これを敢行したことで『そこのみにて光輝く』は理想的な佐藤小説の映画化となった。芥川賞を目前にしながら自死(憤死)した佐藤泰志の再評価の火付け役となった佐藤原作、熊切和嘉監督の秀作映画『海炭市叙景』は、短篇連作をその鎖状のまま映画化したもので、ひとつだけ選出短篇に疑問がのこったものの「鎖状」がシャープだった。ところが佐藤的もんだいとは前言したとおり「筒状」の作成なのだった。「筒状」は時間論的には「この筒内はいったいいつか」という疑問を「かならず」付随させる。逆にいえば時間性が多層になることが時空に筒状をつくりだすのだ。
●ヌードによる濡れ場シーンも辞さない果敢な池脇千鶴は、現代の顔をしていて、シーンの意味がつくりだす性器の所在に「筒状」を想定させるだけだ。書き落としていたが、主役の達夫には綾野剛が扮していて、彼こそが「筒状」の存在だった。綾野はTVドラマ『最高の離婚』でダメ男を好演したが(つい先ごろOAされたその二時間スペシャルは海外出張前の女房が録画予約したかどうか心もとないというのでいまだに観られないでいる)、彼はコミュニケーション下手だからこそその内面で無方向の恋情を熟成し、それが行為の突発を生む役柄が逸品だ(この綾野の傾向を予言したのが筒井武文監督『孤独な惑星』だろう)。綾野の俳優としての最高形態はこのようにして内情を蓄積する存在の筒状にある。この『そこのみにて光輝く』にもそれはある。ただしここでの綾野は自己了解が冷静で、筒の外表の堅さはかなり馴化されている。ところがそれを補うのが、綾野の風貌、行為の肌合いすべてにおいて、かれがいつの人間かわからない、ということだった。筒状は外貌のあいまいさとも連絡している。
●そのような無時間性の積極的な醸成によって、観客の平板な時間意識をゆるがすことが映画『そこのみにて光輝く』の主眼といってもいい。だから「いつの時代の話だ」という難詰はただしい視線のまえでは液状化されて吸収されてしまう。それが観客の眼の憂鬱を高度につくりあげるのだ。いまはない場所が「いまある」と映画で知覚されること。たとえばこの映画ではこのことのために開花しているアジサイが効果的につかわれていた。北海道ではアジサイは本土に大幅に遅れ、夏に開花する。萎れたり焼けたり枯れたりしないアジサイの開花状態は秋が来ても存続する。日陰に位置する可憐なアジサイを、ぼくじしん十一月に札幌の街なかに視たことがある。
●「いまあることのあやうさ」――このこととこの映画における函館のロケーションが関わっている。「函館」という地名が明示されず、「海炭市」で通した『海炭市叙景』では函館の地理的符牒は「函館山ロープウェイ」と「市電」でまずは定着された。煉瓦倉庫、教会、坂道、港、朝市は観光地映画化を避けるべく、つかわれていない。それはこの『そこのみにて光輝く』でもかわらないのだが、たとえばTVの観光地ガイドで強調されるのは、函館山や坂道がつくりだす地形の高低差だろう。ところが『海炭市叙景』よりもさらに徹底的に、映画『そこのみにて光輝く』では空間移動に水平軸が選択され、函館的な高低差が捨象される。被差別的な陋屋のまえにある「海」を召喚し、佐藤的な主題「水泳」を取り込むためだ。
●ところが一回だけ、高低差が『そこのみにて光輝く』では特権的に連鎖する。まず拓児=菅田が祭りの準備のため、神社の鳥居へむけて脚立を組んで提灯をつけている。現れた綾野がその脚立をゆらし、池脇の愛人(植木業社長)の居所を教えろとおどす。その次が、二人乗りの自転車で菅田・綾野が坂道を下るすがたをとらえる俯瞰気味のロングショット(それが作品に現れた初めての坂道だから歓喜の感触にみちている)。それで植木業社長・高橋和也と、池脇をあらゆる意味で苦界から救いだしたい綾野とが対峙する成行となる。体力にまさる綾野は高橋を倒し馬乗りになるが、高橋の下からの殴打をよけようとしない。やがて綾野の顔から滴る血が下の高橋の顔を濡らすがままとなり、高低差の強調はここで円満的な終幕をむかえる。むろん池脇を解放するため殴られるがままになる綾野の存在にも「筒状」をかんじなければならない。
●「垂直軸の上に位置する肉体の《筒状》」というもんだいは、どのように展開するのか(惜しいかなこの映画では騎乗位での池脇の性愛はえがかれなかった)。高橋和也の出てくるシーンはすべてすばらしいのだが、まずクルマ(これが移動する「筒」だ)をあるく池脇の至近に停めた高橋(この時点で、高橋-池脇の関係は切れている)が、池脇に弟・拓児の保護観察への不利をちらつかせて、池脇を無理やりクルマに同乗させる。筒状のクルマは海岸ちかくに移動され、座席がリクライニング状態になって、車内空間がさらに筒状に延引されたような恰好となる。そこで池脇を強姦ぎみに凌辱するのだが、高橋はくるしむ池脇を殴打、しかもその口に札束を挿し、池脇の存在的全体性へさらに「筒状」を加算する。
●そのことを知った拓児=菅田将暉は、臆病ながら高橋への報復を誓う。祭りの場で社員とともに「いい気」でいる高橋。その高橋に近づいた菅田は、罵倒と嘲弄と姉への侮辱と「血」のもんだいを浴びせられ、一旦は怯んでその場を退くかのようにみえる。出店のタコ焼き。しかしそこでタコ焼きを返す金属串を手中にして、菅田がふたたび姿を現す。この動作の「溜め」が筒状だ。しかも社員がはずみで菅田に刺され高橋が逃走、それに追いついて菅田が高橋を刺すながれでの「空間の流動」がやはり筒状だ。菅田は逃走する。ところが逃走したはずの菅田は綾野のアパートの部屋の玄関ドア前にいる。ふたり腰をおろしならんで吸うたばこ。このときライターのひかりは画面に二元的に配剤されるが、これを空間にして包み込んでいるのも「みえない筒」なのはいうまでもない。
●菅田の交番への自首を見届けたあと、それを報告するために、池脇のいる海辺の陋屋にむかう綾野。ネタバレになるので書かないが、そこでは池脇が手でつくる筒を、綾野・池脇が最終的につくりだす「筒状」の立ち位置が救済するとのみ抽象的にしるしておこう。このとき「筒」に物理的なひかりがみちる。河出文庫の小説を確認すると、ここも映画的な改変がおこなわれていた。この感動的な配剤ののち(撮影は山下敦弘、熊切和嘉〔『海炭市叙景』もそうだった〕、吉田大八、松江哲明作品などの名手・近藤龍人)、初めてタイトルが黒地に出る。「そこのみにて光輝く」。佐藤泰志のドキュメンタリー『書くことの重さ』(稲塚秀隆監督)で強調されたからわかるが、これは佐藤じしんの手になるクセ文字だった。
雨馬
【雨馬】
雨のせいか、あれらがいまの世の馬とはおもわれない。ならびそのものがしずくに透いて、一馬から他馬へと、うなだれが映りあう。銀箭の雨には一本ごとのほそさがあって、それに部分のおさまるのも蕭条というが、ならびがまきばとひとしくなるのは、とりわけふるい雨下での蕭条なのか。場所の耳尾。画筆にあらがうのか固有の色がみえず、まざりがしずかなのは、雨のほまちのゆえではなく、ふくすうがありきたりのまま異数となるためだ。いつまで強調からはなれて、そこにいる。ほしいまま全頭がかなでられる、うすい革の名器となるまでか。
奄々
【奄々】
おくふかい山中に「島」や「浦」のつく地名のあるのはあわれだ。「縞」や「裏」からの転移ではなく、川のなすじっさいの形状からの由来だろうが、谷底をみおろす眼が、空にあやうくふれる水をとらえたうすい気配をかんじる。最少の海がそれでもとおさを経て網状に地のあいだを浸潤、気息奄々となっているとする見立てには、地上とはなにかという了解もある。それはべつの脳なのではないか。在るものをそれいがいへと変える地形連続、くぼんだことによるうつわ。だから水上をむれとぶあきつも、そこでは滅多にゆきあえないおんなの透きとおりをつたえる。それらがどこで死ぬのかは地名や水のはじまりとおなじく、ほとんどわからない。ゆうかげが中腹につかえて、島も浦もくらい。
内側と外貌
【内側と外貌】
おもうことがみずからに内側をつくりだした日は去った。外貌のないものとして、棒にすぎない無差異として、これからは物質をかんがえ、殺伐の身をあまねくひとつへとかためるだけだ。窓辺にかたむきながら、ただ距離をみあげる。鉄鎖一本がしずかに湖心へおりるときにも、関係の塔におぼえかえ、ただ感覚へと反響させてゆく。たしかに全聾者のなす記譜行為にも、そんざいしない聴覚の厚み、鳥影のうつりがあるだろう。全盲者が協力者とたどってゆく詩作のやりとりもまた並行性をもつ。ところがそれらにあこがれることにはなんの内側も外貌もいらないと、きのうだけはたしかめたのだった。
寓話
【寓話】
まんなかにあらゆる奥行からの白光が交錯する円形の舞台がある。とりわけうつくしいわかいおんなの「観客」が、そのきれいな板に載せられる。あぐらでいい、といった指示がなされる。ほかの観客は退場をうながされ、生じた空席には、たむたむや錫や銅板などをもった、てだれの「演者」十人ていどがおとずれてくる。かれら彼女らは法則なく音を不承不承鳴らしはじめるが、それらは間歇的だし、定期循環も強弱もないから、舞台中央、あぐらで無気力にうつむくおんなのからだを点火しない。さんまんで無関心な打音がおんなの肌をすれちがってゆく。
ところが数十分もしたろうか、やがて打音に共謀と意志と再帰とが生じ、強弱が脈打ちはじめると、おんなに潜勢していた脈打ちも同調、おんなの貌がもちあがり汗ばんでくる。リズムのひつぜんとよべるものだが、いやらしい。内側からつきあげるものにあらがえなくなったそのひとは、やがては上気を起ちあげきょくたんな前傾のまま、かかとを板に打ちださずにはいない。あわれにも彼女はかかとだった。それからが腕のしなりだった。そういうものが踊りだすときの統覚外の貌を、演者たちは楽器を打ち、ゆらしながら、待ちつづけていたのだった。すべての眼が彼女にそそがれていた。だいじなのは貌よりもかかとが先行してしまった彼女の起立のしかただった。それは演者よりも観客が先行してしまっているその場の性質ともかかわっている。
決定的なもの。それなのにそれがなにも喩えていない。逆転があっても、それは時間にとってなんの比喩でもなく、ただのながれとしかおぼえられない。はじまるただの瞬間が打音の暴力を調整しながら待望され、そこへ舞台にまねかれたほんとうの観客性が「ただ」はじまったのだった。これも寓意だろうか。そうだとするなら、舞台上のそのしろうとが気絶するまでまわりつづけ、処刑のような結末になったことも、追いだされていたおおくの観客が会場をさえぎるとびらにむさぼるように耳をつけていたことも、報ずるには蛇足という仕儀となる。
物語2
【物語2】
むかしは点燈夫のまま死んだものがすくなからず居て、かれらこそがあけがたまでの純粋な夜だった。かれらの夜そのものを数珠つなぎにしようとしたのに町のひろがりだけがそうなって(とおい田園などは放置された)、なさけないきまりしごとののち、かれらはひと晩をつめたく覚醒した。どこに臥したのかはともかく、貼りついて窓によこたわるさかさの感触があった。蛾が舞って住人はあるかなかった。それでも畦のように直交する辻ではたがいの分身の辞儀もおこたらなかった。一揖また一揖。きよわにもかたりあったのだ、(ここは打たれた田)(うでをのばせ)(車軸越しに)。まぼろしにたちこめている霧や、おんなのうすい背後へは眼をつむれないまま朝がしのんでくると、かれらのほそまる虹彩は、ぼやけるあかりの穴をただのくらさへもどすしかなかった。こうしてまつげの不眠がさだまり、ふたたび町には林立の棒ができた。あいだにはおおきな舫い船の錨ものこった。そんなしるしどもが眼の底でかたくなって、かれらは死んでいったのだ、やがてくる江礫の未来さえしらずに。
骨折
【骨折】
骨折したひとのギプスのかいなを天体みたいだとなであげる。連続した一本が二本になった刹那には、夜空が流星によってふえるのと似た視界があったのではと訊いてみる。それから損壊のかたちをたしかめるためわずかな放射能をあびたとき、北極上空を擦過したさむさがうまれたのではないかとも想像してみる。これらのことをおもえば骨折とは比喩、からだにうまれた俳句かもしれない。ほねは「しらほね」をあらわにするまえは、瞑目想像の自在をデザインするからだのなかの野道だった。まやみにてじぶんの左腕をそれとさわれる、からだの内向方位もそんざいしていた。そういう樹木にしげられた鍵盤がいっときくずれ軋轢音をかなでる楽器化が腕の思想に起こっている。もちおもりが荷物ではなくからだそのものからたれさがるのは炸裂が内部へひらかれたためだ。石膏の円筒が骨と肉との輪をまるくかためて、きみは香気ある宇宙図の断面をかかえた。なんという凍傷、蛍袋だろう。ひゆ、ひゆ、骨折はそのようにからだからとびたつ薄羽によってひえながら、そのめぐりを夢のうすむらさきにまでしてみせる。
井口奈己
昨日は一週間ぶりのリセットデイ。一日中、録画済の番組を観るなかで、一月三日にOAされた、山崎ナオコーラ原作、井口奈己監督の『人のセックスを笑うな』も観た。どことも明示されない北関東の「場所の停滞感」が逸品。ロングショットでは風景の奥行に山並みのせまる構図が多々使用される。それと「ひとがふたりいる構図」をどう撮るかが模索され、それが手前と奥行の同方向に顔を並べる構図へと完成されるときに唸った。いちおうは成瀬メソッド。
撮影は風間志織作品などの名手、鈴木昭彦。撮影と録音の双方を手掛ける測りがたい才能だ(鈴木はこの作品では撮影)。永作博美、松山ケンイチ、蒼井優、忍成修吾、それぞれに自由な発語をゆるしているようで、ロングによって聴こえない科白が数々仕込まれる録音設計も過激だった。
それにしても井口監督の「ぎりぎりの説明責任」と「うごきのとらえかた」が面白くてしかたがなかった。ラスト、忍成くんが蒼井優のくちびるを盗む前後でのふたりの俳優の立ち姿の生々しさも逸品だが、うしろに蒼井優を乗せた松ケンのバイクが駅前をぐるぐる走りまわるのを俯瞰気味のロングショットでとらえたのち(最後はロータリーでの回転をやめ、一定方向が選択される)、焼き鳥屋でガラス扉(引き戸)越しに酔いつぶれた松ケンの後姿がみえて、おかみと話す蒼井優がロングで捉えられる。そのあとは店の入り口手前に出て、おかみの指さす方向に蒼井優がうなづく姿(ラブホの所在確認とおもわれる)。さらにはそのラブホの廊下にジャンプカットされて、泥酔した松ケンを引きずる蒼井優となる。このふたりのうごきが異様に(映画的に)おもしろい。ついには部屋内。ダブルベッドに材木のように伏臥する松ケンのからだを踏まぬように、蒼井がベッド上でジャンプを繰り返し、それで切ない焦燥感が出てくる。なんという演出だろう。すばらしかった。
女房に確認すると、二時間三十五分の放映枠でも、松ケンと永作さんとのラヴシーンはカットされていたようだ。とりあえず二月八日からはじまる井口監督の新作、『ニシノユキヒコの恋と冒険』、大期待。こちらは原作が川上弘美です。
樹下
【樹下】
樹下に棲むという、置きどころの理想がある。「じゅか」とも「こじた」とも詠まれていい。そこではかたちの蔭の庇護下にはいり、かすむことが尊ばれる。同時に樹下のひとは枝を透かして樹上やそのさきの空をみあげ、まなざしのうつりによってさだまらない視差が、身どころか座そのものとも知るだろう。みあげが実や星をみいだしてまるくふくらみながら、はらわたのような内らに交錯がきざし、それで身のなかをゆくホムンクルスにしたしめるのだ。からだのなかの部分によって身のぜんたいもちいさくなる実在の法則。風雨をつうじて樹木に異なりのあるときには、身すら音や髪に化ける。やがてきえるものの蒸気ともなる。けれども枯枝が雪をいただくばかりの樹のいまでは、かたちの網をみあげる樹下が想定されても、その座にもはや再帰の名残などない。