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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

薄氷

 
 
【薄氷】
 
 
北大の2013年度出版助成金も受けた初の詩論集『換喩詩学』は、もう先週か先々週の段階で出来上がっていたはずだったのだけど、消費税引き上げまえの、各版元の印刷屋への駆け込みラッシュによる「待ち」、それにタイミングのわるいことに、トラブルによるカバーの刷りなおしまでもがかさなって、なんとギリギリの一昨日、三月二十八日金曜に見本が完成したのだった(ぼくはずっと前に著者校了していたのだけど…)
 
助成出版は大学当局に「年度末」、つまり三月三十一日(今年の日付でいえばあすの月曜)までに指定部数を書類ともども提出しなければならない。それに遅れたという前例を聞かないし、もしそうなれば大変なことになる。刊行期限が契約事項に入っているから助成取り消しになっても抗弁できないのだった。くりかえすが前例がない。「緊急異常事態」であるのはたしかで、当局も心配するメールをくりかえしていた。
 
むろん見本ができあがっても、こちらは札幌。通常郵便なら東京からの郵送→到着に中二日かかる。版元の思潮社は緊急事態だからとクロネコヤマトの特別航空便を奮発しようとした。ところがなんとクロネコも消費税アップまえの駆け込み需要が押し寄せて機能ストップ、時限特急郵送を断られてしまったという。
 
さあ困った。ともあれ次善の策としてかんがえていたゆうパック郵便に担当者がだした。昨日~本日・日曜午前までに届く手筈だったが、まんいち郵便事故があったばあいはすべてオジャンとなる…
 
昨日一日はやきもきしながらも、なしのつぶてだった。ゆうパックは民間とちがい、どこまで来ているかの追跡調査サーヴィスがない。もしも今日中に届かなかった場合は、急遽、編集の亀岡さんが明日、出来たての拙著を抱えて北海道行きの飛行機へ乗り込むという。いよいよ大変なことになった。こんな時限サスペンスは実人生で経験したのがはじめてだ。どうなる? どうなる?
 
むろんこのポストがあるということは、そう、ついにいまさっき、本が手許に届いたのだったァ!!!!!!!!!!(前置きが長くて大袈裟でしたねえ笑)。実人生でこれほど安心したことはない。亀岡さんの緊急出張もこれでなくなった。じつに、じつに、じつに、よかった。(もうほとんど泣いている…)
 
ということで、明日の年度末日に、当局へしずしず拙著を納めにまいります。三月三十一日が日曜でなくてホントよかった… 薄氷を踏むとは、まさにこのことでした。以上、ご報告まで
 
(とはいえ昨年度は同僚のM先生がことしのぼくとほぼおなじ経験をなさっている。まあぼくのばあいは、エラぶるわけではないが、「消費増税」がネックだったのだけど)
 
 

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2014年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

用事

 
 
【用事】


ながさきの音になみだをかんじてしまうのは、「な」の頭韻と坂道、かくれきりしたんと災禍もろもろをそこに聴くためだろう。池袋のさきには東長崎という地名があり、きっと長崎から東京にきたひとらがひらいた。大通りに拠ればきづかずとおりすぎてしまう町だったが、それゆえやなぎと洋子がゆれていた気がする。かち=徒歩が禹歩となる移りもぬれた。江古田へとりなおして傘をかたむける、かすてらのひと。すがたにわたる坂のおもかげに、さぐりゆく洋治(七〇年代)の偏りがあった。
 
 

2014年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

転換

 
 
【転換】
 
 
あまあし、たしかに脚をみた。報せおよぶということだろう葦原。
 
     ↓
 
葦原へ報せおとづれ雨脚も希みつくした悪〔あ〕しのひとつに
 
 

2014年03月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

錯文

 
 
【錯文】
 
 
錯文とは異種を交互に進展組織することだ。タトエバ――
 
もう陸蒸気は趨らずに中国の陣形をなしている。ワタシトイウ煤煙ノ青ビカリヲアゲル。海賊をさがしては福建の岸をゆくのだ。ニラノ花ヲミテイルト好色ノ風モフイテクル。どこが市隠だろう、苫屋ばかりでかくれる愉快がない。ダラシナイ輪郭ガ種ノ溶出ヲ生ム。そんな銀幕もあるだろう(眼から頽廃をまなんだ)。ダンダン水ガ円ニナッテユク。粗相せよと叫んだ。洲ノウエデ脚ヲヒラキ川ヲミチビク。胴と四肢とであらゆるかたちがおおまかにできているならあたまや指も付加物にすぎない。ダカラ物事ニムケテハ、ソノ芯デハナクホトリヲ抱ク。よみがえる歌、「空に棲む」。交響曲ガ絶頂ヘエガク極上ノ髪ノ要件ナラバ。にじむのは水面の裏、星のきえるあしただろう。閻王フウノ瞑目ノシカタガ役立ツ壇上ガアル。よこたわる処刑台でしょうか。イイエ、コダマ。
 
 

2014年03月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

深田晃司・ほとりの朔子

 
 
【深田晃司脚本・監督・編集『ほとりの朔子』】


夏のひかりのあかるみにうるむように電車のなかで眠る少女。田舎を走っている気配の電車。「着いたよ」の声で就眠がとかれる。年齢差から母娘のようにみえるふたりは田舎の暑い坂道を、木蔭をえらぶように、キャスターのついた旅行鞄をそれぞれひきながらのぼってゆく。八月ももう終わろうという日付。いかにもヴァカンス映画のはじまりのようにみえながら、やがてさまざまな「異調」が仕込まれているとわかってくる。

ヒロインのなまえは一日生まれなのだろう、伝統的な命名で「朔子」。すこし肥ったとおもわせる二階堂ふみが演じている。開放的なリゾート着。やがてたどりついた一軒家で、母親にみえた鶴田真由と、その妹の渡辺真起子の、肉親ならではの親密なやりとりがはじまる。朔子=二階堂ふみはその空気から疎外されているようにみえる。

二階堂ふみを基軸に、やがてわかってくることをつづってみよう。鶴田真由と渡辺真起子は叔母と伯母。二階堂とは血がつながっていない。映画に現れてこない二階堂の母、そのさらなる母親をAとしてみよう。鶴田と渡辺の父をB。AとBはともに連れ合いと離れて再婚し、その連れ子どうしも同居をはじめたことになる。複雑な布置は二階堂の母と鶴田が同齢で、ともに名前が「ミキエ」の同音だった点。鶴田の「ミキエ」は「海希江」という用字で、級友から二階堂の母とくべつされるため「海子」とよばれ、その反動で二階堂の母が「山子」とよばれた往年のエピソードがさらにくわわる。記号のたわむれがまず仕込まれるのだ。

つぎが不安定性。二階堂と鶴田がたどりついた渡辺の独居だが、渡辺じしんはヴァカンスの海外旅行でふたりの到着と入れ替えに家を離れる。その空位期に、二階堂・鶴田が住みこむという了解だった。ふくざつに仕込まれた「入れ替え」。二階堂は「ガリ勉」だったが滑り止めをふくめすべての大学受験に失敗、いまは受験勉強を放棄する浪人生で、リフレッシュがもとめられている。鶴田はインドネシア文学者で、落ち着ける(しかしそこは自分の育った実家ではない)妹・渡辺の家(それが海にほどちかいとやがてわかる)で、インドネシア小説の翻訳を完了させようとしている。その地に幼少時代の二階堂は来た記憶があるが、それもおぼろげでしかない。ともあれ、二階堂を基軸にすると「なぜその場所に」「なぜその者といる」のか、動機が稀薄な滞在といえるだろう。その家は家主すら不在、そこにいることは二階堂にとって何重もの「仮寓」なのだ。

設定ばかりを説明して恐縮なのだが、それがふくざつだからしかたがない。もうひとつ、迷彩がくわわる。「ウキチ」(劇場プログラムをみてそれが「兎吉」という用字なのにおどろいたが、「禹吉」の誤りでは?)という名の軽薄そうな中年男を古舘寛治が演じていて、それが長年「アッシー」として渡辺真起子に仕えているらしい。彼は渡辺が紛失したパスポートを見つけだし、海外旅行にむかう彼女をクルマで駅まで送ってゆく献身ぶりを発揮する。ということはふたりの「仲」もうたがわれるのだが、やがて「恋仲関係」がずれる。つまり往年、古舘と結婚寸前までちかづいたのは姉の鶴田のほうで、しかもインテリ女とヤクザ男というように均衡を欠いたふたりが結婚を成就できなかった理由が、できた子供の処理をめぐっての意見相違からだったとほかの人物から語られる。

語ったのは古舘の甥で、「北」からその地にながれてきた高校生。いまは登校拒否におちいり、叔父・古舘が支配人となるホテルのしごとを手伝っている。演じているのが太賀、この映画でもっとも素晴らしい存在感をもつ(といってもそれは意思伝達が曖昧であるゆえの茫洋たる哀しみの存在感なのだが)。つまり親子でない叔母-姪の鶴田-二階堂の斜行関係が、古舘―太賀の叔父―甥の斜行関係と対になっていることになる。その「対」構造に、さらに古舘の実娘・辰子を演じる杉野希妃(この映画のプロデューサーでもある)と、鶴田の現在の恋人らしく、この地の女子大の夏期講習に講師としておもむいた美術史学者・西田(大竹直・扮)がからんでくるのだが、そこでのおもしろい関係の交錯については後述しよう。

二階堂と鶴田が曇りながらも熱気をはらんだ海浜を同道するシーンがある(この映画では二人物の同道を後退や前進で追うショットが基本になっていて、成瀬巳喜男的なのだが、物侘びた海浜地方の地形連続、外延性が人物の移動にともなってその背後や周囲に、確実に画面定着されてゆく――しかもそれらが無名性・無指標性を手放さないで茫洋さを湛えきるのが驚異なのだった)。そこで二階堂が自分の小学校時代を回想してみせる。なまえのたわむれという点では、自分の「朔子〔サクコ〕」は級友から音の配列を転倒されて「クサコ」とよばれていた。「臭い子」の含意がある。いまからおもうとあれはイジメだったとおもうが、当時の自分は「バカ」でおっとりしていて悪意をかんじず、「クサコ」と呼ばれれば「ハーイ」とあかるく返事をしていた――と。

配列の転倒、あるいは対構造の転倒が反復されることによる記号性の点滅。この点でもさらにいくつもの設定が仕込まれている。たとえば古舘寛治は地元のチンピラだったが、娘・杉野希妃がうまれ妻が死んで、ヤクザ社会の伝手から古ホテルの支配人の座に収まった。そのホテルは一般ホテルだが内実はラブホテルとして運営されている。一般ホテルとラブホテルのあいだの記号点滅。そこの上客が地元の議員・志賀廣太郎で、彼はさまざまな女を買い、ホテルで年齢不相応の性愛を愉しんでいる。

彼には注文がある。ビートとひねりのきいた50年代風のとあるジャズ曲(曲名を特定できなかった)を「特攻伴奏曲」として屋内放送してほしいというのだ。とあるCDの四曲目のリピート再生が彼にサーヴィスされる。これものち転倒する。太賀がデートにおもむくつもりであるいているとき公園で学友にいじめられている地元女子高生をみる。詳細はわからないが納金を強要されているらしい。金策にせまられたその少女が志賀の相手となる。そのことをホテルで知って義憤に駆られた太賀は、予定された「特攻伴奏曲」を梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」に差し替えてしまう。裸身の志賀と裸身の少女のいる部屋にながれる「無意味」と「転覆可能性」。少女は自分たちの関係のもつ滑稽にわらいだしてしまう。ここでも記号性の転倒がある。

太賀はのち、福島からの原発事故難民だとわかる。ところが彼は事故前の福島の原発依存=貧困地帯を憎悪していた。だから彼は事故を機に解放されて「この地」にきていたのだ(だけどそれは「どこ」なのか――福島が「北」と呼ばれるのならそこは「南」だが、南北の直行関係のある太平洋岸沿いなら茨城か千葉かどちらかとなる――ところが画面から指標がたくみに隠されて、そこがどこかをほとんどのひとが確定できない)。ともあれこの太賀の「移動」には「転倒」の要素が仕組まれている。あるいは二階堂の「受験勉強」→「受験失敗」→「浪人(リゾート地への流謫)」も、「転倒」の色彩を加味された「移動」とよべないか。

一般ホテルとラブホテルとに機能的に点滅しても、そのホテルの実在は変わらない。それは福島在住時と現在の太賀にも、高校時代と浪人の現在の二階堂にもおなじだろう。あるときから別のときへむけ「転倒」をしるされたものが、実在的にはおなじ実質を維持されつづけるのだ。図式をつくってみる。【転倒+同一性維持→実質的な同定性の攪乱】。じつはこの映画の人物たちはすべて「同定性の攪乱」のなかに位置づけられていて、存在の輪郭が曖昧、そのことによって茫洋たる風景と存在感が中和しているのだ。見事に現実的・今日的な存在把握といえないだろうか。このときに二階堂ふみのやや肥ったすがた(とりわけ水着姿)、その腰つきのもどかしさが、画面に存在性の実質として拡散してくる。

力点の置かれない、日常会話・日常動作の連続とみえながら、監督・脚本・編集を担当した深田晃司の作劇はじつは周到をきわめている。たとえば太賀にほのみえた「移動」の主題。それは鶴田と二階堂のあいだで生じる海外渡航の話柄と対になる。インドネシアはおろかオランダにも留学した経験がある、と鶴田はいう。最初、二階堂はその意味がわからない。文献探索のため植民地ではなく宗主国にもゆく必要があったと鶴田は説明した。この話柄は作品の終わりのほうにも出てくる。海外渡航しても当地のひとにはなれないのじゃないか、と二階堂はいう(リゾート地でおぼえた二階堂の身体の違和感が反射されているのではないか)。鶴田の返答はこうだ――当人には自分自身がわからない、だからその地のひとを逆に確定するため他者がその地に赴く意義が生じる、と。この鶴田の答は、二階堂と太賀がひと晩の冒険ではじきだした結論、「どこにいってもおなじ」と離反する。カフカはつづった。《絶望する者は移動する》。稲川方人は書いた。《ひとはただ移動する》。

鶴田によるインドネシア小説の翻訳からこんなエピソードがでてくる。とある短篇に、弟が死んだあと、家に弟が夜ごと幽霊として出て、家の庭の花を食べるくだりがある。原典は花喰い人と幽霊とが化合した〔点滅した〕うつくしいはなしなのだろうが、鶴田はそのとき食用にされた花、節黒仙翁の花の実質をしらない。ところが地元民のスケッチ絵画から、その花がちかくの川の「ほとり」に自生していると知る。それで鶴田と二階堂が実地検分しようとリゾート散歩がてら目的地におもむく。

途中で、ともに自転車に乗った古舘―太賀の叔父―甥にゆきあう(このときが二階堂と太賀の初対面)。ふたりはそれぞれ自転車の後部に鶴田・二階堂をのせた。やがて岐路があって、どちらが捷径かで古舘・太賀の議論になる。それで目的地により早く着く競争となって、古舘・鶴田の自転車と、太賀・二階堂の自転車がべつべつの選択肢をとることになる。後者の自転車はあっさりと水辺のほとりについた。前者の自転車は大幅に遅れる。その理由としてのちに見事に短篇小説的な落ちがつくが、それはしるさない。

鶴田・古舘がそのほとりに現れてから、二階堂は確認していた節黒仙翁の自生地を指示する。しゃがみこんでその開花をスマホ写真に収めようとする鶴田に、二階堂が疑義の声をかける。「食べないの?」。たぶん小説を翻訳することは原典を「そのまま生きること」で、そこにこそ翻訳者という存在の変容が予定されている。だから二階堂は原典小説のディテールどおり鶴田が節黒仙翁を食べることを信じて疑わなかったのだ。その論理的飛躍に、鶴田が当惑するさまが一瞬みえた。

前言したように、「存在」は時間経過によって転倒を仕込まれる。ところが存在の同一性が「なぜか」維持される。このことはよくかんがえれば存在の同定性がもともと攪乱的だという事実しかあかさないだろう。じつはそれを端的にしめすディテールがこの一連にあった。太賀とともに二階堂が水辺にゆくと、二階堂は奇妙にあかるい緑色をはなつ水の空間連続そのものに魅せられたようだ。くろい上着を樹の枝にかけ(このことにものちに落ちがつく)、素足をほとりから水の奥へと踏み入れてゆく。

このときひかりの驚異=脅威が出現する。波紋がゆるやかにひろがるのだが、見た目、水面はみたこともないような緑光のあかるさで、しかも鏡面特有の肌理の稠密性を湛えているのだ。まちがいなく実景撮影だろうが、複雑なCG操作によって高度な実現にいたった画面のようにみえる。その効果は聖性と異教性との同時実現ではないか。画面はキリスト教的でもあり、仏教的でもあり、「ほとり」という境界域のもつ動悸性もそこに刻印される(このときの画面がこの映画のメイン・ヴィジュアルにつかわれている)。ところでこのほとりの波紋のひろがりこそが、「形状の転倒」と「水そのものの同一性」が同時的にあることで、水の同定性が攪乱されていると気づかされるディテールなのだった。しかも一旦の水紋はふたたび静穏へと復帰するだろう。

相互関係の攪乱という役割を一手にひきうけるのが、その涼しげなルックがいつも画面に際立つ杉野希妃だろう。地元女子大にかよい、喫茶店でバイトし、詩集を自費出版している挑発的な少女という設定。母親を死にいたらしめた父親・古舘寛治には恨みの筋がはいってもいいのだが、せめて娘だけには教養をと奮励する父の刻苦もあって、不思議と彼と相性の良い点もすでに攪乱的だ。その彼女が反撥と挑発を顕わにしながらも、女子大の夏期講習におもむいた「西田」=大竹直を誘惑する。大竹のがんらいもつ「好色」を自分のからだを贄にして浮上させる手管には老練という形容すら似合う。大竹の運転するクルマから杉野が「送られていった」先は「ふたりだけ」をわかちあう場所、父親が支配人をするホテルとはべつのホテルだった。しかも彼女はすでに大竹と鶴田のただならぬ関係を見抜いている。

作品中いちばんの笑劇が展開されるのはこうした前段があってのことだ。鶴田とのふたりだけの時間を切望していた大竹が、誕生日をむかえる古舘の祝いへの同席をしぶしぶ承認させられる。そこに杉野もいる。つまり鶴田を軸にしては大竹・古舘という新旧の恋人が呉越同舟し(しかもその事実は表面上あきらかになっていない)、そこに大竹が古舘の娘・杉野とすでに寝ているという事実の斜行線がはいるのだった。好きな女のタイプという凡庸な話柄で、肚のさぐりあいと建前復帰が交錯してゆくその場面は、杉野の卓抜な視線演技もあって、異様に可笑的だった。むろん似た達成は内田伸輝監督『ふゆの獣』などにある(そういえば杉野は、その内田監督の『おだやかな日常』をプロデュースし、その主演も果たしている)。

この光景を退屈そうに、ならべられた料理の「周縁」部分を頬ばりながら、二階堂ふみが傍観している。ときたま笑う。勘の良い彼女も、年長者たちのからまった恋愛模様を察知しているはずだ。察知している者が傍観を尽くす――その明察のようすからはいわば天使性といったものまで付帯されてくる。

劇場プログラムで大久保清朗さんが書くように、その彼女の位置はたしかにエリック・ロメールのヴァカンス映画『海辺のポーリーヌ』でのアマンダ・ラングレに似ている。ところがロメール映画の妙は、交わされる会話の現実的な緻密さによって、世界の混沌のなかに間接的にナラティヴの伸展をしるしづけることだ。けれども上述したすべてのことがらから、深田晃司監督『ほとりの朔子』がロメール映画とは微妙な偏差をえがいていると理解されるだろう。彼が描こうとしているのは、記号が転倒しつづける世界構造のなかで、「それでも」存在の同定性が攪乱的に維持され――それが茫洋なひかりを放ちつづけることなのだ。したがってナラティヴが一元的に信頼されるロメールの古典性にたいし、深田はナラティヴを加工可能な侵入領域として指向対象的に定位している。

福島からかたちとしては流謫してきた太賀と、都会から田舎のリゾート地に浪人生という根無し草の身でたどりついた二階堂とに、相同性があるかどうかが作品判断の軸となる。なるほど、自分の故郷をただ「北」と表現し、アルバイト内容についても、客が愛のいとなみによって乱雑にしたホテルの部屋をリセットする賤業性をあきらかにしない太賀の、伏在的な存在感を、二階堂は慎みぶかいと愛着しているように見受けられる。転落そのものを中間化するその身の置きかたに相同性をかんじているのではないだろうか。しかも節黒仙翁を見にいったくだりで、たまたま太賀の自転車の後部座席に腰をおろしてしまった偶有性をも珍重している。なぜなら同定性が攪乱性のまま維持される世界では、偶有的であることだけが価値となるからだ。

登校拒否をするまえのわずかなクラスメイトだった女子生徒「知佳」が太賀にさかんにモーションをかけてくる。その接近の一部始終を二階堂は見聞して、同級生同士のつきあいの微笑ましさを尊重、「デート」する自分の座を「知佳」に明け渡したりもするのだが、やがてその知佳の接近が、福島から避難してきた太賀の身の上の、「負の符牒」だけが目当てだったと判明してくる。

もともと原発反対集会開催のチラシを、杉野と二階堂のいる喫茶店にもちよったボランティアの起居が溌剌すぎて気味わるいという前提がしるされたあと。デートと誤解した太賀が、「知佳」の息のかかる原発反対集会にたどりつき、しかもその壇上で「悲劇経験者」として所感を語らされる羽目になる。通り一篇のことをいえば済むはずを、太賀は故郷の原発依存、故郷の貧困からの嬉しい離脱などを、「笑っているのか泣いているのかわからない」(のちの二階堂の言)混淆的な表情で訥々もしくは滅裂に語ってしまい、いたたまれなさに会場から逃走、ホテルへもどることになる(このホテルで前言した使用曲を「こんにちは赤ちゃん」へすりかえる「事件」が起こり、叔父・古舘から「正義を意識したからには仕事卒業」と暖かな馘首を言い渡される)。

集会での太賀のようすをネット中継で二階堂はみていた。ホテルからでてきた太賀を二階堂はつかまえようとする。太賀が懸命に逃げ、二階堂が懸命に追う。原発事故というとんでもない介在物はあるが、一挙に作品の感触が青春映画に似てくる。「ここではない場所anywhere out of the worldへと移りたい」気運が、やがて疲れて同道するようになったふたりに生じる。コーナーにたかく置かれた交通用の鏡面内が映る。それから画面が鉄路へと展かれる。この作品ではじつは人物の歩行をとらえるときガラス面での反射映像が転換に先だってとらえられる撮影作法が目立たないが連続していた(撮影は根岸憲一)。

ふたりは鉄路をあゆみだす。それで「映画みたい」という太賀の述懐がひきだされる。二階堂が先立つ。それは子供たちが死体を探しにゆく映画ではないか、と。ベン・E・キングの名曲の冒頭のベースランをくちずさみはじめる。スティーヴン・キング原作、ロブ・ライナー監督の『スタンド・バイ・ミー』だ。少年四人が鉄路をあるくシーンも印象的だった。

ちがう、モノクロ日本映画で、幼い子供ふたりが「ここからべつのところにゆこう」とちいさな冒険をしるす映画で、題名もこまかいディテールもわからないと太賀はいう。上述の大久保清朗さんの長論は該当する映画を成瀬巳喜男『秋立ちぬ』と推測しているが、あの映画には鉄路のシーンはなかった。むしろ正体を訊ねてもわからない、ということがこの映画での眼目ではないか。なぜなら土地の具体性の指標がたくみに隠され、茫洋とした哀しみの身体を茫洋とした夏がつつんでいることと、そこにいる人びとの記憶の質もが、同調しなければならないためだ。

ふたりの放浪は夜をむかえる。相当歩いて入った奇妙な飲食店では仮装パントマイムが来客の耳目をうばっている。やがてはどことも名指せない「夜そのもの」のなかでふたりは野宿する。かたわらに眠る二階堂のくちびるを奪おうとして断念してしまう太賀のすがたなど、ここにも青春映画的なディテールが組み込まれる。このひと晩の冒険が「どこへいってもおなじ」と最終的にふたりに総括されるのだが、「どこへもゆけない」ことが刻印されたのではない。むしろ「同一性のなかに偶有性が反響する」彷徨のゆたかさのほうが伝わってくる(このふたりの突然の行方不明のため、行方さがし-待機の行動をともにとった鶴田と古舘とが、ひさしぶりにひと晩をともにすごすことになる――ここでもこのふたりは、二階堂・太賀と「相同に」、片方がただ寝て、片方が無聊のまま覚醒している相互性をえがきだすことになる――世界は他者間でも変わりのなさとして基本的に分有される)。

このちいさなドラマの波が収束したあと、二階堂に母親から電話がかかる。この母親には、前述したように、同居することになった同齢・同音、鶴田真由の「ミキエ」のうつくしさと才媛ぶりにたいするコンプレックスがあったと説明がなされているから、だれが演じるのだろうと興味が湧くが、ついに画面には出現してこない。受話器のむこうの声すら割愛されている。地上連絡性の位置にあった二階堂の母親が画面から消去される構えは継続されたのだ。予備校講習の加入手続きをしたから帰ってきなさいという電話内容だとはわかる。二階堂は承諾し、以後は作品そのものが辞去へ向かうモードとなる。律義にテロップされてきた日付ももう九月の初旬に移行している。茫洋とした身体が茫洋とした季節(夏)、場所(リゾート地)に入って、ひかりや闇のなかにその身体をうつくしく延長させながら、さてなにが実質化されたのかというと心もとない。むろんそれが映画そのものの意図したことなのだった。

ところが二階堂がその地を離れるとき車中の杉野が、浜辺で撮られた一枚の集合写真をあげるという。自分と自分の親族と、近所に住む鶴田と渡辺真起子が映っていながら、だれだか判別しない童女がそこに混在している写真。その子がだれだかはあなたと会ってわかった――写っているのは幼いころのあなただ、と杉野が語る。その写真が二階堂の手許に渡ったときが、この映画の「解決」だとおもう。つまり茫洋とひろがる光景は、振り返られるときその茫洋さのなかにもかけがえのない具体性を刻印しているのだ。その写真には幼いころの「孝史」(のちの太賀)も映っていた。それが「世界は(当地の他者になるために)どこへでもゆける」ことの傍証だったのではないか。

監督・深田晃司は映画美学校の出身ながら、現在は平田オリザの主宰する「劇団青年団」の演出部に身を置いている。あきらかに汲みとれる意図がある。平田演劇=演出のナノ単位的なリアルの目盛を映画へと奪還しようとしているのだ。それで古舘寛治、志賀廣太郎など「青年団」ゆかりの俳優が出演している。平田オリザのドキュメンタリーを撮った想田和弘も端役で出演している。その「青年団」からの起用俳優でとても驚いたのが美術史講義の夏期講師「西田」役の大竹直と、節黒仙翁のスケッチを鶴田にみせにくる近所の「絵画おばさん」役の松田弘子だった。どちらも、既存の映画俳優とはまったく異質の、リアリティの目盛をもっている。「素人かな?」と感覚を脱臼させるような類型学がそこに実現されていたのだ。

三月二八日、札幌蠍座にて鑑賞。
 
 

2014年03月28日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

車椅子という主題

 
 
【車椅子という主題】


むかし、「陽光燦々たる日中に、日傘をさしてあるく女」という、吉田喜重作品の映像主題を、《家のなかにいることを外部にもちあるいている》、すなわち《内部性と外部性の撹拌がそこに出現している》と分析したことがあった。この伝でいうと、車椅子に乗る何者かが語る、あるいはなにかを視るその姿にも、今日的な「撹拌」の主題があらわれているととらえることができるかもしれない。

車椅子での外界の移動もまた「家のなかにいることを外部にもちあるいている」(とりわけ電動式)。それは座位が歩行してゆく二重性をもち、身体的な不如意がそれゆえ世界にたいする明察へとみちびかれてゆく潜勢をもしめしている。いわば生きてあることがそのまま潜勢性と同時化されるようにみえ、だから車椅子使用者は、映像内の特異点である以上に至高点であるかのように認識されるのではないか。この身体論的な主題は今後、映画やドラマでいよいよ活用されてゆくだろう。

1月クールドラマの白眉は橋部敦子脚本の『僕のいた時間』だった。三浦春馬が社会人一年目に指定難病のALS(筋委縮性側索硬化症=からだの筋肉が徐々におとろえ最後には嚥下や呼吸にともなう筋肉までうごかなくなる――治療法はまだみつかっていない)を発症する。そんな難病患者が、生や愛にかかわる葛藤をどう生きるのか――あるいはどんなに催涙的にこの世との別れを迎えるのかが「難病もの」ドラマの通例だろう。ところがこのドラマはそうした単純な興味からはおおきく離反していた。

清冽な映像展開のなかで、人物造形が最初から撹拌的だった。つまり対他性こそが即自性に変貌でき、そうした美徳を生きる人間には錯綜的な美が生ずる――そんな哲学性が一貫していたのだった。ヒロインとなる多部未華子が、やがてALSとなる三浦春馬になぜ好意をもったのか。それはおなじ大学・学部にかよいながら面識のなかったふたりが、たまたま入社試験の場を共有したとき、電源を切っていなかった多部のケータイが受信音を放ち、それを三浦が自分のミスと代理的に謝罪したからだった。ここでまず対他が即自に変転する主題系が露呈している。

彼らは氷河期にいて、就職もままならない。おなじ状態だった三浦の(さほど親しくない)学友もまたその状態に不安を昂進させ自死した。三浦が家具販社の試験に合格したのは、その衝撃を、そのまま入社試験の面接で語ってしまったためだった。受かった理由を採用担当者はのちにいう。「だれもが面接マニュアルに忠実な受け答えをするだけで自分がみえない。そのなかできみだけ、きみの自分がみえた。だから一緒に働いてみたいとおもった」。これも対他性から即自性が逆算された例といえるだろう。

清潔感とあかるさをもって付き合っていた三浦と多部だったが(たとえば多部の、セックスの翌朝の肩脱ぎの姿など、身体的な親密性が清潔でうつくしい)、三浦はALSの進行が加速してきたと自覚する(即自)。それで信じられないほど冷たいことばで、一方通告的に多部にたいし関係の終わりを宣言する。そこにはむろん自分の発症で迷惑をかけ多部の人生を犠牲にしない対他性が隠されていた。

孤独のきわみに立たされた多部は、三浦の先輩・斎藤工からの求愛をうべなう。斎藤は三浦のALS発症を知っていたが、そのことを三浦のもとめのまま多部に隠して、眼をつけていた「後輩の彼女」を頂戴した恰好で、道義的非難性があるだろう。多部はやがて介護の仕事に天職を見出すようになる。それで偶然、自分が介護するALS患者のもとめに応じて行った公立体育館で、車椅子サッカーに懸命な三浦の選手姿に出会ってしまう。それまでは一切連絡不通だった。三浦が徹底的な対他性で多部の人生を庇護してきたのだった。多部がいう。「会っちゃったね」。そうして流涕する。それはふたりが付き合っていた段階で、「出会うべきものはかならず出会う」と語っていた三浦のことばと反響していた。メロドラマ的な催涙性がまずこの段階で極まった。

橋部脚本はよく吟味すると過激な割愛をおこなっている。三浦・多部のあいだの「別れの真相」が露呈したとき斎藤工への非難がドラマ内人物のだれからもでないのだ。まるですべての「非難」をドラマが封じているかのように。

三浦と再会して斎藤との婚約を破棄した多部にたいし、三浦は「きみは同情や介護上の献身を愛情と勘違いしている」といった意味のことをいう。多部はいう、「ただ拓人〔三浦の役名〕のそばにいたいの」。それまで三浦-多部の相互親密性に、斎藤-多部の仲の窮屈な儀式性が対比されていたから、視聴者はこの多部の決意を体感的に納得するだろうが、ここにも割愛がある。「献身=愛」という図式を三浦は認めていない。ところが「献身=対他=即自=愛」という媒介項を組み入れた撹拌的な世界認識を多部は、あらためて三浦をまえに獲得したはずなのだった。これが明示的な科白ではかたられない。橋部脚本は峻厳だった。

呼吸にともなう筋肉が萎縮しつくせば即座の死を意味する。それを防ぐには人工呼吸器をつけなければならない。ところがそうなると発語機能の消滅という代償を支払わなければならない。それでも瞼やたとえば頬の筋肉などからだのどこかがうごけば、現在ではセンサーによって信号を感知、接続したパソコンの発話機能によって「意志」をつたえることができる。問題はそれだけではない。ついにからだすべての筋肉機能が消滅して意志を外部化できなくなっても、生命という「内部」が残存、いわば肉体の塊として人工呼吸器装填者は強制的な生命存続をしいられてしまう。それで生きているといえるのか。

ALSが進行する過程で「生きること」も「死ぬこと」もこわいというダブルバインドに発症者が陥ることになる。それで「人間らしく死にたい」希いをもった三浦のALS仲間(多部が介護していた)は人工呼吸器装着を拒み、「意志を明瞭に外化できる状態」のまま死んでいった。三浦はふかい葛藤に直面することになる。そう、ここでもこのドラマの葛藤は、対他性と即自性――つまり外部と内部とのそれなのだった。

息を呑むのは、車椅子をはじめとして書記補助器など、機械に介在されたALS発症者の身体空間と動作がいわばアフォーダンス的な分解性をもって映像に詳述される点だろう。医療ドキュメンタリーのようだ。三浦春馬も神業的な発症再現力を披露する。徐々に頬あたりの筋肉をよわめてゆき、患者の通例どおり、ほんとうに顔の縦幅が長くなってゆくようにみえたのだった。すべては難病の実際についての真摯な伝達精神によっている。対他性の発現だ。ところが演出や演技への満足という点ではやはり即自性と受けとられることになる。

先週放映された最終回はほんとうに見事だった。人工呼吸器を装着するか否かにつき三浦の「内部」が秘匿されたサスペンスフルな状態で、三浦のかつての家庭教師の教え子のもとめに応じ、その教え子の中学校で「講演」をおこなうのだった。車椅子の彼を壇上へはこぶのはとうぜん多部未華子。多部も三浦が生涯初めての講演で何を語るのか事前に知らず、三浦の一語一語を気にかけている。会場には三浦の家族、多部の母・浅田美代子、友人、そして斎藤工の姿もみえる。20分弱はあろうかというこの三浦の講演シーンが、「泣ける」だけではなく、テレビドラマ史上の達成だった。「外部(対他)/内部(即自)」という問題系のなかで、「外部性が外部性のまま内部化する」ひとのありようこそがみつめられたからだ。

三浦の講演はそれまでのドラマのながれを追う。「キャラ」を演じるだけで自分の追求をやりすごしていた学生時代。ALSの発症でからだの自由が順番にうしなわれてゆく絶望体験。それでも他人の愛情や介護精神につつまれて、やがては自分にのこっている意志発現の機能をかけがえのないものと思いいたったこと。それらが最終回らしく、ドラマのハイライトシーンの召喚をともなってゆく。三浦のことばを対他性として、ドラマが即自的にみずからを回想するかのようだ。三浦が人工呼吸器を装着するか否かの判断は講演のほぼ最終部分でしめされる。聴きとった内容を以下に起こしてみよう。

じゃあ、生きているだけの状態で、ぼくがぼくでありつづけるにはどうしたらいいんだろうか? そうなったときに、ぼくを支えてくれるのはそれまで生きた時間――「僕のいた時間」なんじゃないか。ぼくは覚悟を決めました。生きる覚悟です。〔…〕

発語の不自由を負って訥々と語られつつも、その初講演は成功した。感動を知己同士が祝ったのち、後日譚的に「三年後」のテロップが出、三浦-多部の「現状」が描写される。三浦は死んでいない。しかもそこで間接的に彼をとりまく環境変化がわかってゆく。たとえば室内に飾られた写真などで。ここでは映像「内部」が「外部」性を放散しているのだが、逆にいうと視聴者の内部性が映像の外部性を吸着できるという信念が、演出につらぬかれている。

人工呼吸器をつけた三浦にはもう発語能力がないが、顔にのこされたわずかな筋力により、センサー→パソコンの経路で多部と意思伝達ができている。やりとりはあかるい。三浦には講演依頼が舞い込んでいる。写真立ての画柄は三浦と多部の結婚の事実などを告げている。それらがひとつひとつわかることがふたりの生を応援してきた視聴者にとってはそのまま感涙にむすびつく。しかも難病もの的な期待もあっただろうこのドラマで、ついに主人公の死がえがかれずに終わると判明してゆくことで、あらためて感銘がきわまるのだ。それにしてもその三年後のラストシーンで、三浦の顔がリアルにALS発症者の顔貌変化をかたどっていて、息を呑む。

三浦の講演に接する感動は、身体的には車椅子に乗る者が語る姿にともなう、「内部/外部」の遠近法に起因しているとおもわれる。外部が語っているとおもわれる姿が同時に内部的なのだ。このことが話される内容の「内部/外部の遠近法」をも肉づけしているから、視聴者はただならない撹拌性の場に置かれる。むろんそこで最大に価値化されるのは、三浦春馬の「即自性」だろう。しかしそれは俳優のものなのか役柄のものなのか、あるいはALS発症者に普遍のものなのか。

1月クールドラマではもうひとつ、安定的な出来を誇った作品があった。『福家警部補の挨拶』、倒叙法による刑事ミステリーだ。論理進展が速くて緻密、演技アンサンブル全体の良さ(とくに柄本時生)からファンも多かったのではないか。黄色いコートをまとい、両腕を硬直させて戯画的な演技を披露する眼鏡着用の福家=檀れいの演技もいつしか自然化されていった。

その最終回でもまた「車椅子」が活用された。今週オンエアされたばかりだし、ミステリーでもあるのでまだネタバレをあるていど慎まなければならないが、車椅子姿をとおす容疑者役の八千草薫が画期的な演技を披露している。明察者特有の視線をもつというのが第一。第二は、執拗な推理力を発現してくる檀れいをまえに、八千草がスリルと歓喜とを「性的に」おぼえて、その視線が上気するのが見事だという点だ。こんなにエロチックな八千草薫にいまも出会えるとは。

爆弾をつかって銀行強盗を敢行した犯人たちを爆弾で死にいたらしめたのはだれかがミステリーの骨子になるのだが、このとき八千草が彼らの犯行計画をなぜ特定できたのかがポイントとなる。福家=檀は八千草の爆弾製造能力のみならず読唇能力をも見抜く。そのクライマックスシーン、夫・山本學とともにクルマのなかにいる八千草に、現場に駆けつけた檀れいが、可聴距離を超えた場所から必死に語りかける。読唇能力のある八千草に、自分の唇のうごきを懸命に読ませようとしているのだ。むろん音声は映像に刻印されない。

ともあれ八千草・山本の第二の犯行は未然に阻止された。ふたりの家に檀と、その上司・稲垣吾郎がやってくる。八千草は観念し(しかし表情の余裕は保たれている)、犯行の証拠物となるのに、壇の語りかけた「内容」をみずから語ってしまう。それも逼迫性において泪をさそう内容だった。《信じています――わたしは、信じています》。それは八千草の声=外部性によって語られていながら、視聴者は内部化により檀の必死の声と聴き換えたはずだ。ミステリーの結末にふれたようだが、謎解きの基本となるのは指紋なので、この書き方でもネタバレの禁則をぎりぎり犯していないだろう。

車椅子使用者は内部性を外部化させているようにみえる――遠近法をもつ「内/外」構図の至高点を、その身体から映像内につくりあげる――と書いた。ここでの八千草はこの問題にさらにあらたな視点をつけくわえる。「内/外」の折り合わさる場にある身体は、そこから何をみても視線が明視性へとみちびかれる、ということだ。もともと「よわい身体」と「つよい車椅子」が複合されて強弱が撹拌されているからこそ、視点が複合的になり、健常者には捉えられない世界の奥行が、その視界に舞い込むのだ。この問題は八千草の読唇能力によってドラマ上具体化されているが、もともと車椅子使用者の視界全体へも敷衍できるのではないだろうか。その傍証をおこなっているのが『僕のいた時間』の三浦春馬だった。
 
 

2014年03月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

つばさ

 
 
【つばさ】
 
 
あなたの寝るさくらはあなたのつばさ。土と背のあわいがあおいしろさで散り敷かれ、気絶はふかさに死斑する。障と瘴、あかるむ樹下はあかるくよどむ。九〇の台には素数ふたつ(九一、九七)、たしかめる間隔のそのまえに、あなたの瞑目のなかはやわらかく燐寸で林立してしまう。もう青梅線は復せない。内部のつばさがゆっくりと名の苑へ一致してゆく。
 
 

 
八高線の車窓からもみえるご自宅の桜桃の木や、母堂ゆかりの地の白木蓮につき、神山睦美さんがFBにうつくしい文章を書いていらした。そこに、往年読んだ中村苑子のエッセイについて書き込みをしたのだが、余韻がうえの詩篇になった。
 
その神山さんだが、あたらしい「現代詩手帖」(四月号)には、『希望のエートス』刊行記念として去年暮、池袋ジュンク堂で催された大澤真幸さんとの対談イベントの採録構成が掲載されている。全篇すばらしい対談なのだが、雰囲気の一端をつたえるために神山さんの金言をいくつか抜いておこう。
 
《希望はもつものではなく、あたえられる。誰にあたえられているのかというと、「いま、ここ」にはいない誰か。私たちを超えたもの。それは「未来の他者」というふうに言えないだろうか》
 
《伝染するように他人の苦しみに打たれるときには、「未来の他者」の悲しみや苦しみにも打たれている、それが共苦〔コンパッション〕ということじゃないか》
 
《待てないけれども待つことは私たちのモチーフであり、エートスなんだ〔…〕そのコアのようなものを失ったらもう小説だろうが詩だろうが、それは文学ではないんだということを内省しなければいけない》
 
《未来の他者ということを考えた場合、連帯する言葉があるとしたら、これはたぶん詩的なものだ》
 

 
おふたりの対談記事が終わった対抗頁には、松尾真由美さんによるぼくの詩集『ふる雪のむこう』の書評が掲載されている。適確で謙虚で、しかもそのことから読者を対象の繙読にさそうみごとな批評。ぼくの生涯でいただいた評のうち、一、二をあらそうほど嬉しい文章だった。書評じたいがうつくしい。松尾さん、ありがとう。
 
 

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シフター

 
 
【シフター】


なれ・いまし・なんぢと二人称をよびかえれば、わたしの座がうすまり、ともにいることがしずかにめぐる。ひとつの場所がべつの場所にとなりあうくりかえしでとおさへいたる遍在ができて、あふれかえる可能のそこでこそ位置の萌芽がひかるのだ。それがシフター=転換子。きみはみずからをみおろし、たとえばちぶさとへそのあいだにあるたがいの指示をほどく。春の水いろの黄金のように。むろんひとりあることはめぐりにむけ排中律をなすが、すでにからだに世界が映り入って、きみには部位の配置がきみじしんの範囲で、てきせつにながれているのみだ。なにも畏れる要がないかあるいは時を畏れつくすかのどちらかだろう。いいかえればシフターを攪乱できるゆいいつが時間中の心霊で、かたちのないこれが二人称や遠望のなかにも視えてしまう驚愕日がある。
 
 

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稲生+高橋・映画の生体解剖

 
 
【稲生平太郎+高橋洋『映画の生体解剖』書評】
 
眼もくらみ、脳髄が撹拌され、しかも官能によって統御までうしなってしまう映画本の大著を読んだ。ゴシック小説の研究家にして小説家の稲生平太郎と、ホラーとビザール映画の脚本家・映画監督として鳴る高橋洋との対談本、『映画の生体解剖』(洋泉社、二〇一四年四月刊)がそれだ。言及される映画作品はじつに八百本、それが四百頁超の二段組(詳細な註頁は三段組)のうえ凝縮した相互の語りにびっしりと息づいていて、蜂の巣の中身のように「こまかいもの特有の不気味さ」までかんじる。テーマごとにふたりが綿密な準備をしたこともあるだろうが、いったい彼らは映画(の〔ヤバい〕細部)をどこまで記憶し血肉化しているのだろうと恐怖すらわく。異様に映像特性をもつこの両者にはそれじたい「人外」のあやしさがあるのだった。
 
けっして個人名をだして揶揄するわけではないが、稲生が疑義をなげつけているのは中心化された映画史学における主題系設定にたいしてだろう(たとえばそこにはフォードのエプロン、ホークスの発明や男女倒錯、ウェルズの球といった既視感ある話題が徹底的に排除される――『ミスティック・リバー』後のイーストウッドも否定される)。かわりに冒頭三章で連打されるのが「手術台」「放電」「沼」という意表をつく主題系。これにより、雑多でぶあつい「映画集合」の影の奥行が蜘蛛の巣のようにつながって「量」が脅威をなす感覚がたちあがってくる。稲生の博覧強記ぶりは無辺際。サイレント古典、50年代フィルムノワール、70年代ホラーなどいちおうの多発帯はかんじられるものの、60年代テレフィーチャー作品から脱力的駄作、あるいはインド映画、ハリウッドの現在など、映画へのまなざしを脱中心性にむけてするどく鍛えあげている。映画への期待は映画がいわばズルっと自走して予期できない映画性を露呈してしまうことだから、C級-Z級映画を排除しない立脚も必然化されているのだ。
 
稲生の教養は正しすぎてときに転覆的に作用する。たとえば『ある日どこかで』(80)の基層に未公開作『Berkeley Square』(33)があることを示唆したあと、20世紀前半当時のイギリスに時間論的な表現が沸騰していたとつげる。ヘンリー・ジェームスの未完の戯曲『過去の感覚』、ベストセラー『奇談』と『時間の実験』。それら相互影響の果てに『Berkeley Square』があり、しかもラヴクラフトがこの映画に魅せられて何度も劇場にかよったという。それで『超時間の影』ができあがったのではという推論が蠱惑的だが、よくかんがえると通例的な作家論が、間テキスト主義によって自壊されてゆく瞬間をもえがきだしている。「作家はいない」――この信念は稲生のほか、稲生とツインズというほどの同調性をもつ高橋洋にもむろん共有されている。
 
それでもこれらのながれにかかわってまったくぼくの知らない中篇小説『ヴィクトリア朝の寝椅子』の概要が註で以下のようにしめされると動悸がとまらなくなる。《結核の快復期にあるメラニーが、骨董屋で買ったヴィクトリア朝の寝椅子でうとうとと眠ったところ、目覚めたのは九十年前の別の女の体の中だった。ミリーというその女は結核の末期で瀕死である。メラニーは何とか「目覚めよう」と必死になるが…》。アングロサクソン特有の悪趣味な想像形式だと驚嘆する。いわばタイムトラベルものにポーの「ヴァルドマール氏の病症」「早すぎた埋葬」的なものが錯綜しているのだ。ふたつの身体の老若関係はどうなっているのだろう。註記の後段にあるような「水の腐敗」感覚は、すでにこの簡勁な梗概に伏在している。
 
想像における畸想の本質性、集団表現の憑依的な自走性、編集された映像と音にかかわる本源的な恐怖(たとえば明視性そのものの不可視性)と超言語性…稲生と高橋の嗜好はこれらの点で響きわたっているが、「光」を恍惚と見、その超言語性に傾斜してゆく稲生の官能にたいし、それを「恐怖」とみる高橋の、読者の首根っこをつかむような元も子もなさが微妙な偏差をえがく。まずは稲生の圧倒的な語りを引こう。《〇・一パーセントくらい、フィルムという媒体の中に、何らかのものが引き込まれる瞬間というものが存在すると思う。〔…〕何か、あってはならない、ありえないものが、かすかに痕跡を残しうると。僕を恍惚とさせる映画というのは、いわば、動く心霊写真、心霊動画みたいなもんだよね》。
 
それにしても映画の実作経験がかさねられるにしたがい、「映画王」時代&学生映画時代から萌芽していた映画にたいする高橋の「恐怖原理論」にはますます深遠感覚がやどってきた。名著『映画の魔』のなににも似ていない(ゆいいつ大和屋竺『悪魔にゆだねよ』とは係累関係の)「反教養性がそのまま教養として作用形成する」「反世界」的な映画論に魅了されたひとにとっては、この『映画の生体解剖』は高橋理論が稲生に触発されて異様な精度で各論化し、稲生のことばとともに読者の記憶容量を超える「聖なる逸脱」とまでなるだろう。高橋洋は怪物だ。それは嗜好性と哲学性が共存したがゆえのレクター的怪物性で、それが断言を繰り返すから(これが大和屋的ともいえるもの)、次第に稲生までもが高橋の憑依的な存在性に襟をあらためて正す気配にまでなってゆく。
 
高橋洋の金言は、「箴言」集化できる。以下はその一部を抜粋――
 

 
《僕は〔サミュエル・〕フラーの発想が分かるんです。一緒に仕事をした森﨑東監督にフラーにとても近いものを感じるんで。まず実際にあった生ネタを見つけるんです。UFO体験と同じで、どこまでが本当かという厳密さより、頭で考えたフィクションからは出てこない、ある歪さこそが重要で、この歪さがリアリティであって、フラーにとってのグッド・ストーリーなんですよ》
 
《あの世があるかもしれないと唯一思わせるのは霊媒が、その辺に立っているらしい幽霊とじゃなくて、ヴェール一枚距てた向こうの世界とコンタクトを取っている時。それ以外に霊的な意味での二重性を表現する手立てはないんじゃないか》
 
《霊界と通信していて「あの世はない」ってメッセージが来たら怖いだろうなあ》
 
《神話とは、物語そのものの現前というあり得ないことが起こっている感覚です》
 
《したたかに酔っ払っている三人組をよく見たら、真ん中の一人は死体だったという、ニューヨークの地下鉄ならではの都市伝説があるんです》
 
《姉妹の特徴のひとつが、同一性が不安定だというのは確か。ここがまさに映画の根源に関わるところで、映画は、映っているものが本当は何なのか不安定なメディアなんですね》
 
《監視カメラとか映画内映画とか、こういう類のものを見ると、映画は自分の正体を自分の中に取り込もうとしている、と感じる》
 
《頭のおかしい人たちがどこかに隔離されている〔…〕。で、彼らは映画を撮ったり撮られたりしているんだけど、自分たちが何をやっているか分かっていない。彼らにストーリーとか宣伝とかも分かるわけないんで、時々映画会社の人がやって来て、フィルムを回収して、何とか意味が通るように編集して商品にする。もちろん、A級の映画とかは初めからちゃんとした人たちが撮ってるんですよ。でも落ち目になったスターとかは、「撮られてこいや」って隔離された群れの中に突き落とされる……。そう考えると映画の謎の多くに説明がつくんじゃないか》
 
《恐ろしいことに、風景のショットでもフィクションだってバレる》
 
《映画の中に時間って流れていると思います? 映画の中の時間というのは、カットでバンバン飛ばされるので、僕たちは現実の時間を体感しようがないはずだと思うんですよ。映画の中の“時間”と僕たちの時間体験は全然同調しない。トータルで見たら、二時間の映画を見ましたとは言えるけど、それはあくまでもランニングタイムの話で、で、僕はそもそもひと続きのショットの中にも時間は流れていないと思うんですよ》
 
《ハリウッドの40年代くらいの映画――八十分九十分で効率よく物語を語ってしまう、そういう名人芸みたいな映画は、時間が流れていないショットによって構成されていた。これが僕の本来の映画の感覚なんです》
 

 
最後のふたつの「箴言」の、「きもち悪さ」と「衝撃性」はなにに由来しているのだろうか。作成物に本源的にある「催眠的な無時間性」が、「催眠的な無時間性」をもって再帰的に語られている同一律のおそろしさが、まずここにある。しかもあなたが愛着をもって抱いていたのは死体だという告発もひそんでいる。これを敷衍できるか。できるとしたらドゥルーズの「時間イメージ」すら吹っ飛んでしまう。すべては不自然さのなかにあり、その不自然さこそが魅惑をおこなうとするこうした世界観では、すでに「回帰」もなく、同質性の無限併置がたわむれに物語などを錯覚させるだけと秘言されているのだ。そのばあい、物語と映像とはともに区別されることなく「亀裂」となるしかない。
 
本書には稲生、高橋による意外な角度から読者に突き刺さってくる映画レビューがそれぞれ五つずつ頁の余白を消すように併載されているが、高橋洋が霊的に視てしまう映画表面の「亀裂」は、たとえばクルーゾーの体調悪化と主演男優の降板により中断してしまった未公開・未完成映画『L’Enfer』(そのフッテージを高橋はドキュメンタリーで観た)にまつわる以下のディテールから了解できる。《舞台となる観光名所の巨大な鉄橋(ガラビ橋)から響く汽笛が、夫の猜疑心を呼び覚まし、ハッと突き放した妻〔=ロミー・シュナイダー〕の顔に、顔貌の凹凸が作り出す影が目まぐるしく動き出す〔…〕。顔の皮一枚の下に潜む何ものかがうごめき浮上したような、まさに“デアボリック”〔クルーゾー『悪魔のような女』の原題〕が達成されている》。
 
映画のもつ本質的な恐怖に思考が向かうひとにはまさに必携の書物。うなされながらも睡眠のあいまの18時間ぐらいで、危険さに惹かれ、ぶっ通しに読みふけってしまった。
 
 

2014年03月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

対幅3

 
 
【対幅3】
 
 
そんなにのべつ炎えてもならぬのだが木橋の火事にはいちど遭ったことがある。あさぎりがあたりをこめていたが、川をいだく振袖がねじれてよわい紅蓮をおとすようだった。やがてみのもが映りとなる烈しさが音を帯びて、焔をわたれとそれが聴える。みのたけが劫火にほそまりながら、けしきの経文をうけてなびきつづけていた。おんがくがひっそりしずむまで。
 
犀群にゐて虹の根を顕たすかな
 
 

2014年03月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

歌謡

 
 
【歌謡】


かぐわしさゆえまぐわいは遊民のなかで神業とされ、土地や多神をうむもといともなったが、それら神由来へさらに歌のまざりこんだのは、まぐわいながらの口吸い、このせつなさからだった。くちびるとくちびるをあわせ舌が舌をなめ、かたみのうごきをほそくぬらしつつむとき、さきざきに鳥のかげが射す。これはことばと息とを溶かす気と水のからまりで、そのさがよりして歌となぞらえられるほかなかった。かくしどころをまじえれば多神が土をわりあらくもたげるが、それへ歌の川をながしたのはもれてしまうあえぎではなく、ことばにしてことばでないこの口のべつなるあそび、かたみからたましいを吸いだしもするくちよせだった。ひとらは枕く。閨よりもさらに木々のあいだにこそくりかえしがあるとおもい、やがては枕なしでもくちびるをひびかせて、とおい空間をつかみだす。
 
 

2014年03月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ファーブラ

 
 
【ファーブラ】


昨日と明日とがかならず同一になるファーブラでは、この今日はどのような可能世界をえがくのか。

・今日は圧力のない純白のままで、そこになにごともおこりうる。
・今日は時間の前後から接続をうけて、同一性への再帰着のためすべての起こりが禁じられる。糊で接着された二枚の紙の接合部のようにそれはしずかにとどまっている。

これらの択一をかんがえるための例文:
昨日わたしは左肩を脱臼した。あすも確実におなじ左肩を脱臼するだろう。その肩を今日みつめれば、それはもうわたしではなくファーブラのものだ。そこになんの観念もない。
 
 

2014年03月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

畳女

 
 
【畳女】


ちからをおびていちまいの畳をはこぶなら、うつくしさをなすため荷は肩へかつがれなくてはならない。じぶんの居どころを担い移すおんなを曙光があからめさせて、やどりが場所にあるのかからだにあるのかすらわからなくなる。おんなをとおく、くるしげにすべらせてゆく朝の浜辺が、ところでありはだかでさえある。ほんしつを受動とおもわせるべくすべてのひかりはただよっていて、そのなかを根のないおんなが草のようにうごいている。あたまが畳にみえてしまう異形が、あまりをこぼしていてさらにあわれだ。
 
 

2014年03月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三浦大輔・愛の渦

 
 
【三浦大輔原作・脚本・監督『愛の渦』】


セックスを商売にするさいの鉄則は、客の性欲を資本として肯定することだ。しかもそれが生成的な資本流動を迎えるためには、性交する者どうしに無名性の確保されることが条件となる。そのばあいの性交は欲望の発散が第一義だから、自己目的化のはてにスポーツ化の局面まで迎えようとする。あるいは売春婦などが想定されるばあいは、性器が特権化・局所化されることで、精神が温存され、たとえば客との接吻をみずから回避する心中立てなどもおこなわれてゆく。それでも性交へといたる表向きの口実は、例の「瞬間恋愛」だ。「瞬間恋愛」こそが精神を担保しながら性的なからだを前面化する。精神はからだによって隠され神秘化する。しかしこれをさらに逆にいえば、からだによって(からだとともに)精神がかき捨てられる自己疎外が性交者どうしに共有されるということでもある。

むろん売春やセックスにまつわる商売をえがく映画では、上記の売春鉄則、それが劇的に亀裂するすがたへせまるのが眼目となる。無名の他人どうしとしてセックスが開始され、その無名性が崩壊してゆく苦悩は、たとえばベルトルッチの『ラスト・タンゴ・イン・パリ』でえがかれた。性器の特権化はポルノグラフィ特有の疎外性をよぶ。正規の俳優を起用する映画では俳優はむろんその性器の所持性から保護されなければならない。やはり顔や仕種が映されるべきなのだ。ただし接吻は現在の経済的性愛に心中立てと離反せずに蔓延するようになった。AVを謁見すればわかる。それでピンク映画の七福神世代でも田尻裕司監督のように、性交時での精度のたかい接吻描写に、ドラマ性が組み込まれ、役柄のキャラクタライズにさらに貢献するようになった。ついでにいえば、性行為の純粋身体化に離反する「精神化」なら、変態性、特有の状況選択〔≒コスプレ〕などにその間口を連続させている。

演劇ユニット「ポツドール」の脚本家・演出家の三浦大輔が、演劇畑から越境してきた映画界の「ホット・スポット」なのはいうまでもない。「バカ」や「自己チュー」を多様に類型化しながら、その姑息な裏切りを、驚異のドラマ変転力で可笑性にかえていった『恋の渦』は、『モテキ』の大根仁監督が見事な精度の映画に仕立て上げた。渋谷ユーロスペースでの延長興行では女子高生世代が鈴なりで、複雑に変転するドラマに乗り遅れず、しかも俳優のごまかしの表情のしたに透けている浅はかな本心を見抜いて笑い、世界連続性をもつ類型学にも爆発的な自笑を繰り返していた。三浦大輔的なドラマは、観客を覚醒させ、同時に、変転を生きぬくための理知をもわかちあたえる。しかもそれらは結果として複雑すぎて要約できず、最後には情動の痕跡だけが抽象的にのこる仕掛けで、これが現在的な表現の理想形をかたどっている。

六本木の大通りから脇道にはいったところにあるマンション、その四階が入口で、五階もブチ抜きというかメゾネット式につかわれている乱交クラブ「ガンダーラ」。参加者が道に迷ったとのちに述懐し、また店長田中哲司が参加希望者にいうように、「乱交パーティ」とネット検索しなければ「ガンダーラ」の連絡先にゆきつかないことから、そこには伝統的なポルノグラフィ特有の「舞台の秘境性」が確保されている。導入部、前髪が眼を覆いそうで、おどおどしたその喋り方から暗い印象を受ける「ニート」池松壮亮が、親からの仕送り(蒲団購入費)をあてて参加、「ガンダーラ」への行き方を電話で訊く(10:00)。眼鏡をかけ、おかっぱ髪、しかも眼鏡の下には淫蕩そうな眼がひかり、性器に似た肉感のあるくちびるから参加への逡巡が述べられながらそれに離反する溜め息まで伝わってくるような「女子大生」門脇麦も描写される(11:00)。映画のえがく乱交参加者は基本的に男四人、女四人なのだが(原作舞台より男女それぞれひとりずつ少ないようだ)、池松と門脇麦はその前置性と弱さによって主役の位置へと単純に特権化される。

戯曲的な構成力とは、すべての時間を芝居に、さらには登場人物間に「配分」することだ。そこでは混在があっても整序的で、混在に通常ともなう錯綜と、運動の無方向性が回避される。舞台にかかわる者はだれでも現実とはちがい、「順番」を遵守しなければならない。とくに性交相手の交換劇であるはずの本作では、掟が最初から言明される必要がある。

店長田中哲司が託宣する。ここに蝟集した客はスケベゆえ来ているのだから限られた時間を愉しむためには遠慮が不要であること。それでも相互の安全と清潔が保たれなければならない。まず性交前(ちがう相手に乗り換える局面もふくむ)とトイレ使用後にはシャワーを励行すること。またコンドームも絶対使用すること。それには巨根用の黒いコンドームと、そうでない者用の白いコンドームとがあるが、自尊心を捨ててまずは白の装着を試してみること、などなど。

類型の境界線、虚実の境界線を、集団性のなかに複雑に内化してゆく「三浦ワールド」というべきものは、以上の前提からはじまる。あつまった男四人女四人を素描しておこう。役名(登場人物の本名にあたるもの)はこの時点ではいっさい存在しないし、男たちはバスローブを腰に、女たちは胴体に巻いて社会的な符牒もきえている。だからまず彼らの属性は外見だけから計測されるしかない。

前述した池松壮亮、門脇麦を措くなら、短髪(茶髪)で場馴れしたフランクさを装っている、それでもチンピラ風の自信家・新井浩文。見た目にもサラリーマン風、参加者のなかでは最も知性の高そうな(それゆえに計算高さも予想される)滝藤賢一(ドラマ『半沢直樹』の、あの「近藤」、彼はエレベータ内ですでに池松とゆきあっている)。相撲取りのような肥満体、知性もひくそうで反面、朴訥さが保証されているような駒木根隆介。プリティ・ルックス、プリティ・トークにそれなりに個性を包みながら、年増ブリっ子の不気味さも底知れず秘めている三津谷葉子。清楚でクールなルックスに勝気も窺えてその自尊心が取扱い注意とおもわせる中村映里子。眉、小鼻などにピアスをして自傷系・依存系の雰囲気を漂わす「危ない」痩身の赤澤セリ(彼女は即座にパーティの「常連」ぶりを、店員・窪塚洋介とのやりとりで厭味に披瀝する)。

窪塚が去り、バスローブを裸身にまとったままソファースペース(ゴージャスな居間風のつくりで側面にバーカウンターがある――また片側の上階への階段がシャワールームに、もう片側の階段が性交スペースにつうじている)に置き去りされた彼らは、凡庸にも職業上のアイデンティティをつうじおずおずと相互に自己紹介をはじめる。そこでは語りに積極的な者が相手の選択に積極的な者という法則が生まれる。

新井はフリーターで、しかもその職種がティッシュ配りという下流層。滝藤は食料品関係の営業サラリーマンで六本木界隈をテリトリーとしているらしい。駒木根は蒲田のケータイの製造工員。三津谷は美容関係の営業だが派遣社員だから安定性がない。中村は保育士(往年の言い方でいう保母)で、のちに保母はほとんどがスケベと、参加者の安心を買うような尾鰭をつける。赤澤の正体は常連客という以外に明かされず、布陣のいちばん奥にそれぞれ消極的にいるようにみえる池松、門脇にはその自己紹介から「ニート」「女子学生」という情報だけがあたえられる。

「値踏み」「品定め」が参加者のみならずこの映画の観客にも「反射的に」起こるだろう。観客も性愛資本主義の直中にいるためだ。駒木根と赤澤はまず選ばれない。女性陣ではルックスがいちばん整っている中村への興味が湧くかもしれないが、いったん主役位置に定位されながら画面の奥の伏在的な気配となっている門脇麦にこそ興味がむかうだろう。彼女の居場所の伏在感と、彼女が眼鏡の下に隠しもつ淫蕩さが二重化されているためだ。

『愛の渦』には社会学的なアプローチが見え隠れする。つまりここに蝟集した者たちは滝藤を除くとほぼ社会の下層に属していて、本来ならハイソが愉しむ乱交=秘密クラブ(これにはステイタス・カップルのスワッピングが付随する)に馴染まない。作品の前提としてこのパーティの参加費が明示されている。「男2万円、女千円、カップル5千円」。この廉価性は、危険性と境を接している。しかもハイソ特有の性的な欲望形式が下層に「模倣」されている現代的な早上がりもしめされているだろう。

言い落していたが、この映画の監督は、同題脚本を演出した三浦大輔自身だ。演劇的=配分的な整序性をもつ彼の個性はポルノグラフィとは無縁だし、実際にその世界に親炙していないようにもおもえる。えがかれるのはまずは役柄たちの計算と本音の小出しにすぎない。予想どおり新井-三津谷のカップルがまず成立し、つぎに滝藤と中村のカップルが成立する。それぞれが階上へゆき、やがて女の歓喜の声がのこされた者たちの耳に響く「順番」が遵守される。形骸化したポルノグラフィの本質もこの「順番」化にあるが、ポルノグラフィよりもこの局面の始末がわるいのは、劣情を組織しないことだ。もとが舞台劇だった余映もはっきりしている。女たちのよがり声は一定的な大声が継続されて含羞や波動がなく、これまた音声上の形骸的な「性」記号しかもたらさない。

三番目の成立カップルが駒木根と赤澤で、伏臥した赤澤を駒木根が後背位で突きつづけるそのありさまは性交描写としても声の発動としても意図的な低位に置かれている(書き忘れたが、階上の性交スペースではベッドが2×2の整序的な配置でならべられて、しかものちの品定めのため参加者は他人の性交を見学できる/見学されうる)。

けれども最後にのこった池松と門脇が性交におよぶと(ここではじめて女優の乳房が露呈される)、参加者の予想に反し池松の精力と門脇の歓喜とが他を圧していて、それでようやく、熱気が空間全体へ伝導するようになる。第二ラウンドの開始。新井-三津谷/滝藤-中村にキアスムが起こり、性の相性の良さを確認した池松と門脇が相手をかえずにふたたび交歓に挑み、はぐれた駒木根-赤澤がまた相互応答性のない後背位性交にふける。それらすべてが対象を移動させながら俯瞰する回転カメラでとらえられてゆく。むろん俳優たちは果敢だ。現象的には大橋仁の圧倒的な写真集、『そこにすわろうとおもう』の参加者に似ている。

監督三浦大輔にポルノグラフィの素養が(幸運にも?)ないというのは、乱交という場に整序的な分割線が引かれつづけるありさまをみてのことだ。フェリーニやパゾリーニの歴史描写を口実にした乱交ディテールの参照もない。だからフーリエ的なユートピアへの希求もない。端的にいえば――乱交は相互性の沸騰であり、そこでは「だれでもなくなること」と「何者かになること」とが等価だという倒錯が準備されるのだ。だから仮面も活用される。「だれでもなくなること」は性交上の一対一の関係を解かれることでとうぜん加速する。関係のリゾームが発生するのだ。

池松壮亮と門脇麦の熱の籠った身体的相愛にうたれたのなら、彼らの性交に参加し、彼らの圏域にはいり、自分たちの立脚を陶酔的にけしながら、さらに池松と門脇をたかめる利他性が発露されるべきだった。乱交の無方向性とはこのことのはずだが、それを演劇的な整序性が凌駕してしまっている。

だからこの作品は全員の性交を回転俯瞰カメラでとらえつづける局面になっても、じつは清潔にも劣情を喚起しないし、それでR18の条件下、アラサーで本質的にはコンサバ、興味本位ながら安全圏にいる女性二人客を多く呼び込むのみとなる。人間の浅ましさに大笑いしていた『恋の渦』の女子高生たちのほうがずっと過激だった(彼女たちはR18の条件下、『愛の渦』の客席から表面上は排除されている)。

このように書いてきて、説明したくだりまでにおぼえた筆者の不完全燃焼感もつたわっているかもしれない。ところがここから作品は、性愛ではなく「心情」に観察点を移し、芯がはいってゆくことになる。「三浦ワールド」らしい悪意ある真相の暴露。まずは駒木根の単調で様式的なセックスが相手の赤澤から非難され、駒木根の「童貞」が判明する(しかも彼はまちがえていつもアナルに挿入してしまっているというダメ押しがともなう――むろんこれは赤澤の身体のもつだらしなさにも直結していて寒気をさそう)。彼の本質的な「場違い」を、そんなに社会的な階層のちがいわない新井が悪しざまにいいそれで巨根自慢の彼は優位性を固めようとする。

その場でいちばんの女は誰かという暗闘の兆していた中村-三津谷では、三津谷の性器の悪臭が話題になり、いわば性的な選良として新井―滝藤―中村のトリアーデが成立しようとする。しょせん姑息な権力争いにすぎない。しかし余勢を駆った新井がのこる可能性の門脇を第三ラウンドの相手と宣言し、彼女を階上に連れてゆこうとしたときそれまでの相手だった池松からの諌止を食らう。

時間経過。新井と田中哲司・窪塚洋介が揉めている。店側がなした施策は、新たに飛び入りしてきた男女カップルによって選択肢をふやすことでしかなかった。ところがそれは選択できない選択肢だった。3:00。男のほうの柄本時生(彼の悪相が大好きだ)は下層、バカ、異常の三拍子が揃い、その連れ合いの信江勇は肥満体低能で、これまたまったく「そそらない」(「ブス」を微妙な可笑対象にするのも「三浦ワールド」)。

その柄本が積極的で三津谷を指名、三津谷が悪臭を気にしてシャワーをふたたび浴びるあいだに相手の信江が池松を指名、池松は門脇への執着を参加者から確定づけられないためその要求を呑むしかなかった。しかも柄本が三津谷不在のあいだに、門脇を階上に持ち去ってしまう。そこで信江-池松の悲惨な性交(信江は騎乗位で鯨のようなよがり声をあげる)、柄本による門脇への痛ましい前戯が「対」となる。そんな局面でも相互をつい見つめ合ってしまう池松と門脇――その「瞬間恋愛」ではない「継続恋愛の感触」のほうに観客の注意が向かうだろう。

その注意を突き破るように柄本の怒声が階下に響く。デブの信江は、スワッピングにより自分たちカップルの愛が真実のステージに入る、と相手の池松に誇らしく語っていたのだが、案に相違して、柄本は隣の信江にたいし「本気になってんじゃねーよ」と怒鳴りつけたのだった。のこりの参加者が階上にゆく。そこからが柄本の怪演の独壇場だ。「お前を試しただけ」「本気になったからには別れる」と激高の様子だが、すぐバカ特有に論理が腰砕けとなり、果てには自分のことばを担保にされていつの間にか信江を許す逸脱まで起こる。むろん『恋の渦』の「コウジ」と共通する造型だ。

怒涛のように押し寄せたこのバカップルはやがて引き波となって一瞬にして消え失せ、あとにのこった池松-門脇が、三度めの同一カップルの性交にいたる。ここで待望されていたことが起こる。性交渦中の接吻がそれで、このことによりふたりの情熱的な身体性交が心情化の局面までついに迎えたようにみえる。これが作品内唯一の接吻描写だった。

狂的な笑いの要素として柄本時生・信江勇の闖入があり、池松-門脇の純愛の兆しを観客のだれもがかんじただろうこの前後にはもうひとつ余禄がある。他の相手がえらべない不自由をかこった駒木根-赤澤のカップルにも逆転が生じていたのだ。赤澤の嬌声にそれまでの投げやりさとはちがった女性性と切なさとあかるさと強大化が灯って、おどろいたのこりの者が階上へようすをみにゆくと、童貞性を克服し性愛のコツをつかんだ駒木根が持前の怪力を活かし、座位で赤澤の腰からうえをはげしく上下させて彼女を法悦へと高めつくしていたのだった。

俳優につぎつぎに生じてくる役柄の見返り。のこりの参加者たちも真心をとりもどしたというか一晩の体験共有を意識したからというか、相互の言い過ぎを陳謝する。さらにのちに判明することもくわえれば、赤澤がだれなのかは窪塚から参加者に、店長・田中との逸話込みでかたられる。しかもその信憑性を混ぜ返す彼の口ぶりが良い。クールでなおかつ見事なやる気のなさをみせていたその窪塚のケータイ電話には、その画面から地上接続性が現れる。

なによりも監督・三浦のやさしさは、時限の午前五時が到来したとき居間のカーテンがあけられ、朝の清潔なひかりが差し込み、しかもTVがつけられてニュースがながれ、ひと晩の性的な狂奔に支配されたこのサークルに、地上連続性がふたたび灯されたときの措置でわかる。60年代欧米映画でなら、乱交の終わり=朝の到来は、参加者の肌の蒼褪めた不健康と荒廃をあかすだろう。ところがその朝のひかりのなかでこそ、バスローブにつつまれた彼らの裸身がいわば敬虔にかがやいていたのだった。

やがて参加者全員の着衣が完了する。それで裸身状態ではわからなかった彼らの存在の階層性、つまり具体性がさらに明瞭になってゆく。ストーカー対策のため、女性参加者に先に退場してもらい、時間を置いて男性参加者に帰ってもらう、と田中が託宣する。

このときあまりにも秀抜な設定が付加される。帰り仕度を整える門脇が、ケータイがない、と困惑していたのだった。ちかくのテーブルに置いてあるケータイをみつけた窪塚がいう、「それじゃないの?」。池松「ぼくのです」。窪塚は有無をいわさず、そのケータイをとりあげて、門脇から彼女のケータイ番号を聴き(ただしその音声は観客、つまり他の参加者には聴きとれない)、電話をかける。すると門脇の鞄の奥からくぐもったコール音がひびいた。その後、女性客全員が帰る。観客は動悸しているはずだ。「継続恋愛の予感」のある池松のケータイに、まさに門脇の番号がのこっている――。

このあとラストにいたる数分がどうなるのかは、ネタばれになるので書かない。逆転が連続するとだけ書いておこう。性愛にかかわるこの映画の結論なら抽象的に書けるかもしれない。「瞬間恋愛は持続恋愛とひとしく尊い」「たえず確認が連続する持続恋愛にたいし、その場ごとにきえる瞬間恋愛のほうが事後のなつかしさを喚起する点で関係性に純粋さがたもたれる」「そこから世界のなつかしさがひろがる」。最後の数分にある画面の基調(撮影・早坂伸)は悲哀のとけこんだ「なつかしさ」といえるだろう。ふとつげ義春「夏の想いで」のラストをおもいだした。ともあれ『愛の渦』は最後の20~30分で見事な逆転を果たしたのだった。

この映画の過激な「売り」は、《〔俳優の〕着衣時間は〔上映時間〕123分中18分半》というものだが、バスローブをまとっている場面はともかく、性交場面でも俳優の裸体感はさほどないとおもう。逆説的ないいかたになるが、裸体感とは裸体そのものにではなく心情にこそあらわれるのだ。池松壮亮と門脇麦が最後に一緒にいる場面(むろんふたりは着衣体)には逆説的な裸体感が濃厚にただよっていた。それが世界のひろがりへと接続されていったのだ。だから結論もこうなる――《世界は裸体だ》。これこそがすばらしい。

三月二〇日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

2014年03月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

対幅2

 
 
【対幅2】


ゆうげんをたずねるみちがむげん、と人体をなでまわす。そうするとそれも渾沌となるが、視聴食息のための七竅いがい、つぎなる八を、虹をこえるものとしてさらに肉へ鑿たなければならない。セックス、ひとは鳴るか。きっとつぎの朝へこそ鳴る。

辛夷かの田にあさ焼けてじかんの緒
 
 

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蒸発

 
 
【蒸発】


うたよ歌。さくらとかなでかけばとぶ。その日のそらにすきまおもほゆ。
 
 

2014年03月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

吉田恵輔・銀の匙

 
 
【吉田恵輔監督『銀の匙』】


冒頭、ホームルームの開始時間に間に合うよう校舎内の廊下や階段を右往左往するとりどりのすがたの高校一年生たちの躍動が、すばやい編集でつながれる。その最初のホームルーム(担任は中村獅童、蝦夷農業高校の畜産科一年次クラス)で、無媒介に新入生徒たちの自己紹介がはじまる。三番目が眼鏡をかけたSexy Zoneの中島健人。彼の一瞬の放心に、彼の出自=過去=設定がフラッシュバックされてゆく。札幌在住のエリートの父親、吹越満が、進学校に行っても学業が伸びず、全寮制生活で親から離れる逃避だけの進学を決意した中島(役名は「八軒勇吾」)を、苛立ちながら見捨てたと、のちさらにはっきりする局面が挿入されるのだ。自己紹介の結果この時点でわかるのは、彼がエリート中学からの落伍者であることと、はいった学校に目標=希望をもっていないことだ。

すでに「速度」が装填されている。農業・牧畜とは無縁だった、しかもモチベーションのないモヤシっ子のような高校男児が、次第に農牧業の実際に習熟し、ひ弱なからだに芯を入れ、現実のくるしさと将来展望に覚醒してゆくビルドゥングス・ロマンの構造には、「速度」の芯がはいらなければならないというマニフェストがすでにひびいているのだ。そののち、中島=八軒の自己形成は、めまぐるしい展開でつづいてゆく。中心となる級友の個別化とともに、朝に弱い彼が早朝の牧舎での餌やりに精を出し、可愛い級友・広瀬アリス(役名「御影アキ」)に乞われるまま馬術部にはいり、しかも夏休みには彼女の家業の牧畜を手伝って逞しさと自覚を獲得してゆく姿がえがかれてゆく。

たとえば厳寒の季節に撮影がおこなわれながら少しも画面が寒くなかった『抱きしめたい』に較べ、この作品で設定された早朝には早朝の空気が見事にあふれている。帯広畜産大学が農業高校のロケーションにつかわれているが、そこでは空間の厖大さが実感されるよう撮影と編集が組織されている。北海道的な景勝もまた、観光映画的にオホーツクを召喚した『抱きしめたい』とちがい、ほとんどつかわれていない。体育マラソンなどで草原に起伏をかたどってのびる北海道的な直線状の一本道がわずかに強調されるだけだ。それでも相米慎二『風花』のように「なにもないこと」が虚無的に謳われるわけでもない。「あるものはある」――それで広漠な牧場があり、広漠な学校用地があり、草原がある。ない人情や、ない華やかさまでもちだそうとする、地方自治体協賛映画とは、空間の実在感というこの点で、おおきな径庭がしめされている。

農牧では小規模経営者の離脱が北海道でも連続している。大規模化による農牧地の集約、近隣農牧業者間の共同経営化、農業と牧畜の連関により自然堆肥を確保しつつ、農産物のほかベーコン、ハムやチーズといった加工品を生産、産地直送ネットワークをつくるなど経営逼迫の打開法はとくに北海道ではTPP問題の不安にゆれながらもしめされている。

『銀の匙』の原作は「少年サンデー」の、現在もつづく長丁場連載のコミックだが、映画では中島健人のコンピュータ並みの暗算能力が繰りかえし描写されていて、彼はもしかすると原作マンガでも未来型の農牧経営に活路をひらく逸材となるのかもしれない。原作の若い巻までを読んだ中国人留学生の話では、原作マンガは若年層読者にむけたエロギャグも満載されているらしいが、この映画ではトーンがずっと真摯だともいう。しかもその真摯さが方向づけられている。

アポロキャップ、サングラス、黒スパッツというスポーティだかSだかわからないセクシィな姿に身をかためた教師、吹石一恵によるブタの飼育実習がある。母ブタの複乳に出の良いものとそうでないものがあり、うまれたきょうだいたちは生命力により出の良い乳首から授乳できる順番=ヒエラルキーを決定されてしまう、と吹石は冷酷に宣言する。競争社会に負けかかっている中島健人には耳の痛いご託宣だが、彼はいちばん弱い子豚に愛着してしまう。即座に名前をつけようとするが、名前をつけると屠畜がつらくなるという級友たちの意見を容れ、屠畜をも含意した中間的な「豚丼」を命名する。幸い「豚丼」はその後順調な成長をたどり、「結果」、屠畜される運命にいたる。広瀬アリス=御影の実家でのバイト料を得ていた中島は「買い上げる」という。吹石が激怒する。「どこで飼うというのか。今後のエサ代はどうするんだ」。成長した中島の答はちがった。なんと「精肉した「豚丼」の肉」をすべて買い上げると宣言したのだった。

この映画では牛や鶏もふくめ家畜はすべて「愛玩動物」と区別する意味で「経済動物」と呼びならわされている。きちっとした設定とエンドクレジットでの註釈つきで、差別問題に配慮しながら、敢然とブタの屠畜シーン(生徒たちの実習見学によるもの)も省略的ながら導入される。経済動物は、あるいは競走馬も廃馬になれば食肉となる――それが畜産業者の第一の「自覚」だった。その「自覚」のために、中島健人は愛着するブタ「豚丼」を、加工食品科の先輩学生の指導のもと、みずから不眠不休でベーコンなどにして周囲に振る舞ったのだ。校庭の一隅に生徒や教員が蝟集する。ベーコンをまず燻製ままの状態で旨い旨いとみなが食したのちは、ベーコンをつかった炒め物やチャーハンなどが次々に手伝いの学生たちのもとでつくられてゆく。これがつまり作品のしめす「方向」なのだった。

かんがえられるのは、キリスト教の理念「愛餐=アガペー」だ。この語は敬虔な信徒たちが食卓を囲むことを一般に意味しているが、奥がふかい。イエスが「これはわが肉」と十二使徒へパンを差しだし、「これはわが血」と葡萄酒を差しだしたゲッセマネの夜=最後の晩餐に淵源をもつからだ。食べることは殺生戒をふくんでいて、それでも殺して食べることが人間の条件だからこそ、そこに生存への愛がたちあげられるのだ。この信念があるから作品がドキュメンタリー『ある精肉店のはなし』同様、差別問題からも毅然としていて、しかも北海道にふかく根づくアイヌからキリスト教への風土すら土台にできる。経済動物の飼育が生理的な困難をともなう点にはほかの描写もある。糞便のつまった馬の肛門へ拳を入れかきだすディテールまで動員されたのだから、描写の峻厳性は徹底している。

ヒロインとなった「御影アキ」役、広瀬アリスが良い。昨今の若手女優にしてはやや太めだが、そこから「大地に立つ少女」の安定感が生まれている。中島健人は彼女の豊満な胸の谷間などに魅せられ、それで馬術部にはいることも、彼女の実家での夏休みの手伝い(ヘルニアを患った父・竹内力の欠員を埋めるため)も承諾するのだが、西部劇以来の映画が期待することは、美少女が、巨大でながい馬の顔を撫で、少女-馬のやさしく夢幻的な配合が生じることだろう。それを映画は見事にやってのける。広瀬アリスの実家ではいずれは十勝「ばんえい競馬」用の出走が期待される「キング」がやってきていて、その世話をする彼女には、ひそかに「ばんえい」の騎手になりたい夢もあったのだった。

その他、眼を引く若手俳優には、最初、牧場の息子として、根無し草の中島と価値対立的になり、のちには広瀬アリスをめぐって恋敵の様相も呈する市川知宏(役名「駒場」)がいる。市川の実家は父親が欠損して母親・西田尚美が女手で切り盛りする、北海道にしては小規模牧場で、しかも乳の出のわるい牛を食用に回さない温情もたたって、ついに離農を余儀なくされる。広瀬の牧場から隣(しかし北海道だから10キロも離れている)の西田の牧場に中島が野菜の搬入を頼まれる巧みな誘導があって、市川知宏の家族が紹介されるのだが、市川の幼いきょうだいとして童女の双子が登場するのが素晴らしい。だいたい「映画の双子」はそのものが蠱惑なのだが、ダイアン・アーバスや牛腸茂雄の写真をもおもわせるその神秘的な双子は、そこからの反照作用によって北海道の風土を豊饒にさせる機能まで負う。これは監督・吉田恵輔の演出なのか、原作コミックからの設定なのか。

市川の一家の離農、そしてその一家にカネを貸していた広瀬の一家の経営悪化(代償が「キング」の売却となる)――そのつらい現実に主人公・中島健人は覚醒する。周囲の級友たちの「どうにもならない」「どうしようもない」という見解(これは中国語の「没法子」とおなじだ)にたいし、中島だけが困難に立ち向かうすがたを寓意としてみせることで現実突破力を獲得しようとしだす。それで蝦夷農の学園祭にばんえい競馬を小規模にした輓馬(ばんば=ひきうま)レースのコースをつくり、そこで女性騎手を目指す馬術部のホープ広瀬アリスと、彼女の中学時代からのライバル(競走馬の飼育をしている点でもライバル)、高ピーのお嬢さま・黒木華との競馬対決(むろん他の出走馬もいる)を目論む。

現実スケジュール的には馬場の敷設など不可能という常識を覆したのは、それまであらゆる局面で中島の周囲にシニカルかつやさしく存在していた(とりわけベーコンの饗応で借りをあたえた)仲間たちだった。彼らが「援軍」として決定的な困難の局面で西部劇の地平線からのように登場するありさまから、この作品の祖形がハワード・ホークスやマキノ正博(雅弘)的系譜だとわかる。むろんばんえい競走馬の操馬技術は、叔父・哀川翔から広瀬アリスに伝授されるのだから、そこにはばんえい競馬を題材にした先行作『雪に願うこと』(根岸吉太郎監督)への崇敬もある(出演者では吹石一恵が共通している)。しかもVシネ二大スターの竹内力と哀川翔が、牧場主とばんえい厩務員同士、親族同士として2ショットに収まりながら、急坂の第二障害直前、いつ鞭入れをさせるかでふたり口論させる粋な遊びもある。

ついに校舎裏に輓馬(ひきうま)馬場が完成し、広瀬アリス用の橇もミスマッチに化粧された。はじまった輓馬レースが圧巻だ。この作品では速さが組織されていると最初のほうでしるした。しかもそれはエピソードのフラッシュつなぎによる等重量配分ではなく、主人公中島健人の成長と、農牧業的な苦渋がそれぞれクレッシェンド状に織り合わされていた。

学内の輓馬レース開催はひとつの「寓意」だが、その寓意と連絡しているのは、「銀の匙をもって生まれた子には喰いっぱぐれがない」という校長・上島竜兵がしめす神話で、それを「農家の子は銀の匙をもっている」と中島はうつくしく曲解する(むろんこの作品の寓意の本質は、「希望することはすでに希望そのものの内部性だ。だから希望の外部にいることも希望の内部性だ」という点に極まっている――中村獅童と上島竜兵のこの「謎かけ」に応えるのが、中島健人や広瀬アリスなどの具体的な身体なのがすばらしい)。

そんな寓意性のうえのまぼろしとして学園祭での輓馬レースがある点に注意しよう(この見事な脚本は監督・吉田恵輔と高田亮の共作)。しかもクライマックスの競馬シーンでは「速さの質」が変わる。いわば説話論的な速さ(ハリウッド黄金期の理知につうじるもの)が、「交響楽的な構成」の速さ(一種の「時間イメージ」)へと有機的に変成するのだ。

通常、ばんえい競馬の実況はカメラが馬場にはいれないから、馬場にたいし横からのショットだけで撮影され、そこで位置と遠近、固定と移動さまざまな要素をつうじて複合構成がなされる。ところが学園祭の輓馬レースには公式性がないから、カメラはなんと馬場にじかに入り、①馬の間近から後退移動をしたり、②騎手の間近から横移動をしたりするのだ。この立脚の踏み越えが、主人公中島が望む「希望への踏み越え」と相似する。しかも荷重と騎手を乗せた橇をのっそりと輓くキングと、橇上の広瀬アリスのうごき③に伴って、中島が観客席を並行的に移動してゆく④。ここでも当然、応援と必死の競技のあいだでの切り返しが生じる。その移動規模はふと出征兵士の行進を田中絹代が追っていった木下恵介『陸軍』のラストをもおもわせる。

ともあれこの①②③④が交響楽的に織り込まれて、レースの描写は感涙必至の音楽状態となるのだった(編集は李英美)。広瀬アリスを挑発する乗馬服姿の黒木華の可笑しさもあって(黒木はいつも広瀬を「デブ差別」していて、電話の広瀬に、「あんた、声も肥ったね」というのも笑えた)、この白熱する長い一連に笑い泣きしない観客などいないだろう。しかもレースには中島健人のたっての望みで、離農が決定し退学してしまった市川知宏が招待されていて、「彼も客席に駆け込むか」という期待をはらみながら、彼の牧場が牛を手放してゆくやりとりが、さらに平行モンタージュとして上乗せされてもいたのだった。

この映画の速さは描写効率だけによらない。じつは何者かから連絡を受けた中島健人の父・吹越満は妻とこの学園祭での輓馬レースを見に来ていた。そこで彼はたしかに息子が困難な環境に打ち解け、しかも仲間から称賛されている晴れ姿をみたのだった。しかし父子和解の芝居が挿入されない。あるいはラストタイムミニッツ・レスキュー的に級友・市川知宏が学園祭に飛び込んでくることもない。東宝感動路線的な時限サスペンスは躱されるし、予定調和も躱され、それら割愛によってこそ速度が峻厳につくられていたのだった。ともあれ『さんかく』『麦子さんと』など吉田監督の旧作も観なくてはならない。

はなしをもどすと、このクライマックスシーンのあと、後日譚的なラストシチュエーションとなる。そこでタイトル副題「シルヴァー・スプーン」が感動的に登場するのだが、そこでも上述の割愛美学が頑固に貫徹されていた。凄いと唸った。東宝配給の製作委員会方式映画にある「発想のリスクヘッジ」が物の見事に消去され、感動の実質――つまり「うごきと空間と実在」だけが画面にみちていたのだった。主演ふたりのキスを拒んだラストからは続篇も期待されるだろう。

週日夕方前の上映には、中島健人くん目当てか女子高生がたくさんつめかけていた。札幌シネマフロンティアにて三月一八日鑑賞。
 
 

2014年03月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

盲目の自覚

 
 
【盲目の自覚】

エリック・クラプトン「ティアーズ・イン・ヘヴン」は、「盲目の自覚」という観念をおぎなうと、歌詞の把握がよりはっきりとするとおもう。以下のように――

【ティアーズ・イン・ヘヴン】

できれば〔盲目の〕ぼくに呼びかけてほしい
ヘヴンでまた会えるのなら
まえとおなじでいられるだろうか
ヘヴンでまた会えるのなら。
つよくなろう、生きとおそう
だってぼくはここにいて、まだヘヴンに属していない

手をにぎってくれるね
ヘヴンでまた会えるのなら
〔よろよろの〕ぼくを支えてくれるね
ヘヴンでまた会えるのなら。
ぼくはみずから道をもとめる、昼も夜もない
だってぼくは〔罪人で〕ヘヴンにはとどまれない

ながれてゆく時が〔幼く逝った〕きみを落胆させ
ながれてゆく時がきみを拝跪させる
ながれてゆく時がきみを悲嘆におとす。
乞うたっていいんだ、乞うたって

ドアをひらけば〔みえない〕上界に
きっと平安がひらけている
そこではもうきえているはず
ヘヴンをぬらしているだろうなみだも。




最後のワンラインで気づく。盲目の自覚は、なみだにみちたヘヴンの湿潤を、唄い手みずからが装填してはじまったのだと。それにしても死者は永劫に浄い。
 
 

2014年03月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

River Hymn

 
 
【River Hymn】


調えるに足ることばのながれをなしたこと。ひと日の川、あれはみんなも視たのではないか。彎曲にふくまれる蝕がせせらぎをくらくする。ほとりにある洪水のけはいも地上の天譴だろう。それでもまがりのかなしさは、機を織るみんなの腕から。ひと日の川などしごとの端々にあまねくある。されば無言こそがうたう。
 
 

2014年03月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

羽田

 
 
【羽田】


水上のゆめと水溶のゆめが似ているくらし。日々のきえてゆくのは感官の奥でだが、やがて魚が水上をゆきかうようになった。うすい舟居がみえるゆれる、それも下流の脈だろう。
 
 

2014年03月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

鴉片

 
 
【鴉片】


鴉片をつかっていた、B音からC音へのたどりつきをぼかすために。階段の最上にふみこんだ歴史をいれずみするために。おおかたは過誤があって水面がたいらをとりもどす。だからうすく視ることを励行した。それなりの経緯や樹影がじぶんにもあるとわかった。阿部芙蓉美のミルキィでねむたい声は輪郭のないものの内没、そらのうちがわをなでる。そこをつぼみの散弾状のみらいがみちたりようとする。いえるかもしれない、たどりつきはからださながら多く歴史にきえている。その代理人となるためにも鴉片をつかっていた。
 
 

2014年03月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ソング・フォー・ジ・アスキング

 
 
観るべき映像を観たあと、今日の暖かい夕方、ずっと音楽を聴いていた。それでふとサイモン&ガーファンクルの「ソング・フォー・ジ・アスキング」が聴きたくなった。創意的なアコギ伴奏の代表のような静謐曲で、あらためて原曲の歌詞に着目すると、これはガーファンクルにむけられたサイモンの訣別の歌ではないかとおもった。ガーファンクルの声が不在だからこそ、S&G解散にさきがけた、サイモンの最初のソロ音楽のようにも聴える(サイモンの楽曲としてもその後の「スティル・クレイジー・アフター・オール・ジーズ・イアーズ」と双璧ではないか)。方向性がビートルズの最終段階、ポールからジョンに未練のむけられた「ロング・アンド・ワインディング・ロード」とまったく逆だともとらえた。シニカルさこそが愛の本義だとあかしているのだ。簡単な語彙しかないがふくみの多いその歌詞を、ぼくにはこう聴えたという範囲もふくめ以下に訳してみよう。


【ソング・フォー・ジ・アスキング】

きみのリクエストに応じた歌がこれさ。
乞われればぼくは弾く
(きみのおもうよう)甘やかに。きみも微笑んでくれるだろ?

これが受け入れてくれるための曲。
ただからだに染ませて、反撥しないでほしい
こんな瞬間をずっと待ってきたんだ

ずっと思ってきた、ぼくはきみに届かなかったと。
さらにずっと思ってもきたんだ、リクエストに応じ
弾きかたを変えるよりぼくのよろこびなどないんだと。

だからただ求めてくれ、そうすればぼくは(きみのこのむように)弾く、
ぼくが内心に抱えるおもいすべてを(可変的に)。
 
 

2014年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

似てゆく

 
 
【似てゆく】


それがそれじしんに「似ている」ことが、ほんとうのところ暗喩での推進力や希望となっている。むろんそれじしんに似すぎているそれは忌避され、だから尖塔と帽子を併せる副次的な眼も、まさに眼のうえに創造される。だれかがとおくに立っているとみなすそのよろこびではしかし音によるみちびきがすくない。

じつは世界は、こことむこうが似るだろう仮定によって成る。すべての行人がひとに「似てゆく」往来にかんじるのも、ひとではなく往来じたいであり、かすかな足音といえないか。似てゆく万物をおぼえると、その運動により、じしんの類似が解かれる。なにかに準える前提のくずれた道では、界面を不断にわけてゆく換喩的な斜線が聴える。
 
 

2014年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

印象派

 
 
【印象派】


瞳孔がひらきっぱなしになる、まぶしい病気がある。それがじっさい「まぶしい病気」と呼びならわされているのは病者の光学と関連があるのかもしれない。その視野ではほそい形状がいよいよあやうくなって、ほとんど存在しないものに似てくる。似てくるが、そういう仏性が天上をささえている確信も逆につよまってくる。ひとがあるいて針金のゆれにおもえるのがすばらしく、ふといものは毛筆がしたたったあとの事後性をたたえるのみ、これにも存在しないかんじがある。ということはすべてのあるかなきかがまぶしいと気づく感覚のやまいが、眼はおろか眼前の野にもひろがっているのだ。なびきをむしろじぶんの本陣と錯認すれば、ごらん春野すら絲のからまりになっている。
 
 

2014年03月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

娑羅林

 
 
【娑羅林】


鳥カノがやってきて音階をささやく。みっつでしかないそれを肩にとめると、しだいに顔がへってゆく。こぼさないようあるかなくては。みつろうのつくりかたが春にみえていると、音階こそたてものにあるよりふるい階段で、けむりがのぼると覗かれる。まざりのふえているあかるさが暗数だろう。七音にて虹を吹く笛、それをかなでようと、鳥カノを肩へ置くまま、うつむきがちに口淫することもある。たして十が娑羅林をひろがってゆく。
 
 



お知らせいくつか。

1)現在店頭の「文學界」(四月号)の扉に、ぼくの詩篇「一本」が載っています。本屋さんで覗いていただければ

2)北大文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌「層」(七号)が公刊されました。ぼくはそこに長稿「フレームを、フレームへと書き(描き)入れる」を寄せています。東京でもジュンク堂などで入手できるようです

3)北海道新聞・月イチ掲載でぼくのサブカルコラムの連載が開始されます。新聞原稿はなかなかのプレッシャー。昨日はその第一弾を書いていました。原稿のわかりにくさにつき、チェック者の女房と、つい電話で口喧嘩。その女房が今日から来札、ふたたび詩作も読書もままならない日々がつづきそうです
 
 

2014年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

そらまめ

 
 
【そらまめ】


そらまめのつややかなヒスイいろのしたたりはかたちのしたたりでもあって、おのれの胚乳にまどろむ中途がそのちいさな胚芽へあらわれている。これが花びらのくろいまだらと時をはさみひびいているのだから、たたまれたすえやがてもつれてくる嫩葉なども、せいろんのおさないメオと似て、てのひらの夢にかるくあるだろう。そらまめをふたつ添わす対想が、うつむきをただやさしくする。さやからとりだしているのがひかりと音とのしめったにがみなのか、みっつめ以降を近眼のひとはその場のあまりとさだめ、あしもとの春へやわらかにながしてゆく。
 
 

2014年03月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

おぎゃあ

 
 
【おぎゃあ】


及川俊哉+高塚謙太郎+松本秀文+山田亮太による「一篇の詩を三人がそれぞれ修正する四通りのケース」を送ってもらった。もちまわりによる相互改作のこころみで、すごくおもしろかった。わけても、松本秀文の詩篇「その他(おぎゃあ」を山田亮太が修正したものがぼくにとっての圧巻だった。山田修正版の作者が松本か山田かをかんがえるだけで、あたまがくらくらしてくる。そのようにして詩では作者の弁別が無効化され、そこに伝承の豊饒が代理されるとおもった。それにしても山田亮太の修正にたいするかんがえが、ぼくの推敲原理とすごく似ている。

あそびで、山田亮太修正「その他(おぎゃあ」へ、さらにぼくの修正版を添わせてみよう。



【その他(おぎゃあ】
修正:山田亮太→阿部嘉昭
 
 
宿題のとびでている屋根で
きょうの永遠が呼ばれる
その他(おぎゃあ

馬車の馭者は
たてがみをなびかせながら
時のへらしかたを教える
その他(おぎゃあ

かつて蹄鉄であったものが
四つ足をそこに立たせる
その他(おぎゃあ

天上のうまやで
わらが馬の口に盗まれる
うまれる棘をバウンウニと呼ぶな
もろもろ雨(おぎゃあ
  
 

2014年03月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

冬眠

 
 
【冬眠】


かけぶとんと敷布団があるのだから、さむさをふせぐふゆのねむりでは、すきまに身を挿しいれるさまがとりわけふかくなる。まばたきのたびにあらわれてくるなみだや、自己性交のようだ。ふくよかなまぶたにくべつなくまざるからだは、いっぽうで神託をさまよう挿入句でありながら、他方その夢では植物の死にはさまれてすべてのにおう、底をもった地の枯野熱にすぎない。上下の中間であるねむりは、中間にあることでなにかの剽窃へうかびながら、ねあせのかわりにおびただしい星をながす。ねむりによりくるってゆく信憑と自同があり、ひと夜くるしむ。
 
 

2014年03月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

黒沢清、 遅/速の攪乱者

 
 
昨日は北大でひらかれた日中の映画研究者による「映画における速さと遅さ」の考究会で、発表をおこなった。事前にいうべきことの最大値をしるした講義メモのようなものをつくり、それを院生の張驍暁さんが中国語に全訳してくれた。これらふたつを日本人・中国人に配布した。ただししるしたことの半分ていどしか、はなしていない。講義草稿を準備するときのつねだ(パワーポイントでパンクチュアルな講演をすることができないのだ)。内容をその場その場で割愛・補足しながら、来場者の顔をみてかんがえをつたえた。わかりやすい、喋りがうまいと一応は好評だった。流暢で素早い通訳をしてくれた張驍暁さんに感謝します。

春休みで帰省している中国人学生や、バイト等で行けずに残念がっていた学部生のためにも、配布プリントを以下にアップしておく。なお昨日段階のものに若干の加筆訂正をおこなった。
 

 
 
 
 
 
黒沢清、 遅/速の攪乱者


●データ
『カリスマ』(2000)
スタッフ
監督/脚本=黒沢清、撮影=林淳一郎、美術=丸尾知行、音楽=ゲイリー芦屋、録音=井家眞紀夫
キャスト
薮池五郎=役所広司、桐山直人=池内博之、神保美津子=風吹ジュン、神保千鶴=洞口依子、中曽根敏=大杉漣、猫島=松重豊、坪井=大鷹明良、上司=塩野谷正幸

『LOFT』(2006)
スタッフ
監督/脚本=黒沢清、撮影=芦澤明子、美術=松本知恵、音楽=ゲイリー芦屋、録音=深田晃、照明=長田達也、編集=大永昌弘
キャスト
春名礼子=中谷美紀、吉岡誠=豊川悦司、木島幸一=西島秀俊、亜矢=安達祐実、野々村めぐみ=鈴木砂羽、村上=加藤晴彦
 
 
1
・ある映画を「速い」「遅い」と判断できる基準とはなにか。
→俳優動作、カッティング、物語の進展、俳優の発語、背景の進展など
・「ジャンル」が関わる。→アクション映画、コメディなどが速く、文学作品を映画化した文芸映画、ミニマルに日常をとらえた低予算映画などが遅い
・香港映画(たとえばジャッキー・チェンの『プロジェクトA』シリーズ、『ポリス・ストーリー』シリーズ)では香港の細い路地が作品舞台に活用されることで映画=背景移動のスピードが加速されている。→ 一般に、密度の高い都市を舞台にすると映画は速くなる
・突出した速さをもつコメディのジャンルがスクリュー・ボール・コメディ(セックス・ウォー・コメディ)。代表作がハワード・ホークスによる『ヒズ・ガール・フライデー』(40)で、新聞記者のスクープ合戦を題材にした舞台劇「フロント・ページ」の映画化。第一回目の映画化=ルイス・マイルストン『犯罪都市』(31)は男性記者たちの活躍を描く社会派コメディだったが、それをホークスは男女記者(ケーリー・グラント/ロザリンド・ラッセル)のスクープ合戦にし、当事者同士の「いがみあい」「発情」が高速で交錯するスクリュー・ボール・コメディへ仕立て直した。スクリュー・ボールは野球用語で「くせ球」とかんがえればいい
・ヘイズ・コードの検閲を逃れるためベッドサイド・シーンなどがとうぜん描かれなかったが、悪辣なほどのセックス・ギャグ(口頭によるもの)が逆に満載されている。ところが早口=速射砲のやりとりを消化できず観客はただ茫然と笑うがままになる(ヘイズ・コード下なのに不道徳性が逆に高い)
・この作品はそののちまた原作舞台どおり男同士の好敵手関係に差し戻されて『フロント・ページ』(74)として再々映画化された(ジャック・レモン/ウォルター・マッソー主演によるビリー・ワイルダー監督作品)〔→※バート・レイノルズ、キャスリーン・ターナー主演によるテッド・コッチェフ監督作品『スイッチング・チャンネル』(88)が四度目の映画化で、これは『ヒズ・ガール・フライデー』のほうを典拠にしている〕
・歴史的傑作の『ヒズ・ガール・フライデー』だが、日本公開は86年まで見送られた。漫才のやりとりをおもわせる発語の速さを字幕処理できなかったからという噂もある。ただしこの作品の速さはそれだけではない。元来の男の役に「女」が混入したこと、さらには社会派的な正義追求と艶笑譚的不道徳の「キメラ合体」そのものが速さを呼んでいる(どっちつかずの振り子運動)。となると速さの要件をさらに「混合」と訂正しなければならなくなる

2
・バスター・キートン的な速さは、速い俳優動作を追うショットやカッティングそのものが高速運動化される複合性をもつ。この着眼を成熟させたのがジル・ドゥルーズ『シネマ1』における「運動イメージ」にまつわる思考
・ところがドゥルーズ=ガタリは「遅速」にたいして「混合」的な見解を『千のプラトー』で展開している。「少女になること」の項がそれで、そこでは少女性が「速さによって遅れる」と規定されている(逆の「遅さによって速まる」でも構わないだろう)
・「混合」は映画組成の本質。だから観客を雰囲気(それはゆっくりさを基盤にしている)によって魅了する恋愛映画にさえも速さの導入が起こる。女優演技でそれをなしたのがたとえば成瀬巳喜男『浮雲』(55)でのヒロイン高峰秀子の視線演技だった(圧巻は本土で再会した高峰と森雅之が「待合旅館」に行き、ひさしぶりのキスを交わすシーン=拙著『成瀬巳喜男』参照)
・恋愛映画のカッティングが高速化する事例が最近は目立つ。→テレンス・マリック『トゥ・ザ・ワンダー』(13)、ロウ・イエ『パリ、ただよう花』(11)

3
●『カリスマ』0:00-5:04再生
みられるもの→・学生映画的な限定性による描写効率(・警察内の長椅子を左右の壁を挟んで奥行に臨む/・警察官たちの段取りめいた動き/・銃発砲とカッティングとその位置関係ではドラマ的な高揚と予測可能性を奪う(役所広司が部屋から退場した直後にアングルが横にずれ、発砲が窓越しのロングショットでしめされる)/・唐突さ+無方向性+何重もの「段取り」(「計画」を盛り込むことは通常は唐突さを解除するよう向かうのだが、黒沢映画ではそうならない)+・一種の失調+・「寓意的な突出」(犯人が手渡すメモ「世界の法則を回復せよ」)+・無表情
・速さが一方向へのドラマ的加算だとすると、バラバラの要素を盛り込まれたこの冒頭シーンでは「一方向性」が瓦解していて、それゆえに「遅速」の判断が不可能となる
・これを「混合」の結果ともいえる。※混合されているもの → 基本は「フィルム・ノワール」起源の刑事ドラマ+寓意映画。フィルム・ノワールは破産にみちびかれる「真実の探求」、寓意は描かれている「そのもの」から信憑を奪うこと。このふたつが「混合」すると、真実を計測する目盛そのものが失効して、それが付帯的に「速度」の判断を不可能にしてゆく。あるのは遅さと速さとの脱臼的な「混合」。このことが画面の推移ひとつひとつに真の驚愕をあたえることになる
・作品全体の説明:やがて役所はフィルム・ノワールの要件「都市」から放逐され、森林に活躍の舞台を移されることになり、「カリスマ」と名づけられた一本の樹木をめぐっての利権競争に「巻き込まれる」。全森林を枯死させる「カリスマ」一本を擁護するのか、「カリスマ」を破滅させ全森林を守るのか。このとき冒頭の代議士と犯人双方を活かそうとして失敗した役所は、「カリスマと全森林との共存」こそを「世界の法則の回復」と確信するようになる。高度に抽象的な思考テーマで、じつはそれはフィルム・ノワールのもつテーマ系とは離反する。それなのに画面には終始濃厚なフィルム・ノワールの雰囲気が保たれている

4
・通常はフィルム・ノワールの舞台として選択されない「森」(「都市」にあるような「不可視性」「謎」「奥行」が「森」では表現できない)→黒沢清はそれを突然の倒木やキノコ、「トラップ」(とらばさみ)、さらには「カリスマ」擁護派⇔除去派の利権闘争のなかでの「カリスマ」規定の錯綜によって表現する
●『カリスマ』1:05:52-1:10:22再生
・対立組織の錯綜は、人物の出入り+その方向の交錯と素早い転換によって表される。シーン転換と時間の「跳ばしかた」も「速く」、めまぐるしい。ところがその速度は空洞的な印象をあたえる。人物のうごきが儀式的・段取り的・寓喩的で、あらかじめすべてが決められている感触もあり、結果、作り手の「決定説的な」手許に思慮が向かうことで、アクションがその場で生成してくる印象をあたえない
・流れを整理するとこうなる。・「カリスマ」擁護派(役所広司+池内博之)が「カリスマ」売却のために「カリスマ」生息地を占拠した部隊(リーダーが松重豊)を急襲するが、樹木引き抜き阻止に失敗する→・部隊は引き抜きを完了させ、「カリスマ」をトラックに積載した。ところがトラックごと池内・役所が強奪する。→再度、植樹をしようとしたところで「カリスマ」撲滅推進派の洞口依子が池内を殴打→抜かれた「カリスマ」を奪い、その焼却に姉・風吹ジュンとともに成功する(洞口と風吹の焼却シーン自体はえがかれていない)→「カリスマ」を炎上させたが、役所は中空に「カリスマ」が繁りだすのを幻視する(CGアニメによる合成で、宮崎駿『となりのトトロ』のイメージが借用されている)
・出入りと時間省略と場所の変転がはっきりしているのに「停滞」している(速さによって遅さがつくられている)ようにかんじられるのはなぜか。→・人物にたいする感情描写がなく、うごきに人間性=高揚感が奪われ、寓喩的な儀式性(→カフカ)が前面化されている
・音にも注意。洞口による殴打シーンはぶっきらぼうな全景で捉えられ、音が不気味に鈍い(のち『カリスマ』では部隊内処刑もある――うつ伏せに寝かせた隊員の後頭部を大槌で打って撲殺する真の恐怖シーン)。前提(フォロースルーなど)もなく、唐突(黒沢清の暴力シーンはうごきの「渦中」を丸ごと捉えながら、うごきそのものを宙吊りにする→ cf北野武の暴力描写の「事前」「事後」のつなぎと唐突さはおなじだが、描写される暴力時間の質が虚/実で異なる)。役所の発砲による拳銃音も軽い(ただしそれは、実際はリアリズムによっている――「ズキューン…!」とオノマトペされる発砲音は現実には存在しない)。映画的な暴力は通常、速さを志向するが、黒沢映画にあっては、「速さ」「遅さ」が、「重さ」「軽さ」と同様に弁別できない
 
5
・『カリスマ』はその後、意味をひとつには確定できない(内部にズレを孕んだ)「物語」を展開する。あたえられている物語が、べつの物語を内包しているこの二重の感触が寓喩的といえる。役所広司は「唐突に」巨大な切株状の枯れ木を「第二のカリスマ」と確信し、その処分権をめぐり「商売派=軍隊組織」「擁護派」「壊滅推進派」の攻防がおなじように起こり、権利売却金「一千万円」をめぐって洞口依子の「裏切り」(彼女は池内に日本刀で胴体を貫かれて死ぬ――その極め付きの暴力シーンをミスマッチのような「静謐」が支配しているのに注意)、池内博之の「裏切り」を呼び込んでゆく。恋仲のようにも見受けられる役所と植物学者(「カリスマ」撲滅推進派)の風吹ジュン。役所は第二のカリスマの爆薬による粉砕に「なぜか」協力し、しかもそこに芽吹いている「ひこばえ」こそが得られた次代の「カリスマ」だという信憑がドラマ上、成立してゆく。観客は混乱するしかない。この攻防で、役所は松重を撃ち彼を車椅子に載せて運ぶようになるが、そのまえ「カリスマ」の「ひこばえ」の処遇については風吹に一任、森を出る決意をする。物語の動静では「解決」の感触があるものの、物語そのものを吟味すれば「なにが解決されたのかわからない」解決だけがあったと結論づけられることになる。終わりちかくで「なぜか皆が森を抜け出せない」ブニュエル『皆殺しの天使』(62)的な寓喩がからむ
●『カリスマ』1:39:53-1:41:58再生
エンディング・ロールまでの映像伸展。夜の森から遠方を臨むと麓(町とおぼしい――しかしどこに「町」があったのか)がロマンチックに炎上している。夜空の雲の速い流れは微速度撮影。高速ヘリが通過してゆく。そこに役所の車椅子を支える役所の後姿が「合成」され、さらにハリウッド・エンディング特有のロマンチックな音楽(ゲイリー芦屋によるオーケストラ・ワルツ)が加算される。加算されるもの同士に実際は「連関」がないこのシーンに、「ゆるやかさ」が不気味にあふれている。つまり速度の面からいうと『カリスマ』は「遅速の弁別不能」→「内実を欠き現象としてのみ現れた遅さ」という経路をみずから辿ったことになる。この「狂った」作劇(それでも謎めいた感触が魅了してやまない)の土台になっているものとはなにか。ひとつは「寓喩」そのもののもつ多重性だろう。この多重性と、『カリスマ』が「映画ジャンル」の「記憶」を多重的にもっている点とが相即している。西部劇、フィルム・ノワール、アクション映画、怪獣映画、恋愛映画、議論映画、コーエン兄弟『ミラーズ・クロッシング』(90)etc.

6
・黒沢清は「ひとつ多いこと」「通常予定される布置にさらに別要素をミスマッチに繰り込むこと」が自分の脚本づくりの秘法だと語ったことがある。意味の閉域に葛藤を繰り込み、意味の内部性が強化される――これも寓喩の流儀だ。『カリスマ』では「ひとつ目のカリスマ」に、「ふたつ目の(さらに素性のあやしい)カリスマ」が物語上、接ぎ木されたことがそれだった。同様の問題はホラーに分類される『LOFT』にもいえる。「木乃伊」(肉体はのこっていても魂のないもの)と「幽霊」(魂はのこっていても肉体のないもの)という、「共存不能なもの同士のドラマ的な同在」がそれにあたる。この幽霊と木乃伊の同在は、青山真治『Helpless』(96)のラストに先例がある


7
・これら同在をつかさどるのは、ヒロイン中谷美紀にしつらえられる「複合」の作用だ。発見された「木乃伊」はとある有機的な泥によってその屍が腐敗することなく屍蝋化したという科学的な根拠が語られ、古代の女もまた不滅の肉体を得るため、その泥を服用までしたという逸話がさらに伝承される。その泥を「なぜか」中谷が嘔吐することで彼女はまず木乃伊と同位化される。同時に芥川賞作家の中谷は編集者・西島秀俊の斡旋により恋愛小説執筆用の一軒家を田舎に借りる。そこには前住者・安達祐実の幽霊が出没していると徐々に理解されてくるのだが、中谷・安達がともに小説執筆に携わる者であるほか、中谷の完全な背後から安達が出現することから、中谷は幽霊ともかさねられる
・「複合」はこの作品の人物関係を蝶番のようにむすびつける。曇りガラスのむこうに置かれた中谷の手に、こちら側から木乃伊学者・豊川悦司の手がかさねられる(豊川は中谷のいる居宅の向こう側の研究棟に出没する――とうぜん作品はヒッチコック『裏窓』〔54〕の空間を模倣している)。その豊川は、やがて殺人者と判明してゆく西島と背格好がとても似ていて、それもあり、安達の殺人が、西島の手になるものか豊川の手になるものかが不分明となる

8
・作品では「木乃伊にまつわる昭和初期くらいの古いフィルム」が「引用」される。映画の現在時に、べつの時代・べつの次元の映像が嵌りこんでくるというのは、『CURE』(97)いらい黒沢ホラーの定番となっている
●『LOFT』19:26-21:37再生
・微速度撮影(コマ落とし)で撮られた定点観察映像は、加藤晴彦の説明によると一日の撮影分を30秒ていどにまとめあげたもの、ということになるのだが、観察結果は何の異変もつたえない。なにも動かないのだ。それでもわずかな露光時間でとらえられたノイズのような人影が幽霊のように画面内を何度か跳梁するし、古いフィルムの質感をつたえるためのノイズ・ギミックも周到に施されている。まずはこの資料映像がコマ落としという点では速いのに、なにもうごきがないという点では遅く、結果、「遅速」の弁別ができない事態に注意がむかう。黒沢的恐怖の真髄とはこんな無時間性なのではないか。捉えられているのは、台座のうえに置かれた「布にくるまれた何か」で、それが木乃伊だろうと予想がつく。むろんここから、うごかない木乃伊が、禁則を破って作品内の実景として「うごきだす」瞬間が待望されてゆくことになる
●『LOFT』51:20-54:58再生
・安達祐実の幽霊(顔色を中心に「黒」が過剰使用されている)が前言したように中谷の真後ろに同位的に現れ、やがてはその幻影の出没場所がそのまま中谷を導く展開となり、中谷は沼の畔から突堤や埠頭のように突き出た先にある、用途不明、浚渫機械のような空間へ注意を促される。用途不明という点にカフカの「処刑機械」からの参照があるだろう。霧の中、安達の姿は、蚕食されてからだに空白部分がふえてゆく。からだそのものが空虚をかかえる枠組のようになり、それで突堤の浚渫機械の形状と同位化されてゆく。このとき「形状の減少」を徐々にしるしてゆく時間は速いのか遅いのか。あるいは浚渫機械そのものが意志をもったように、消えてしまった安達の先で沼の水に直面して茫然とする中谷の後頭部を、殴打して気絶に導くとき、その機械のうごきは速いのか遅いのか。いずれも人知を超えたそれらの超常的なうごきは、「速くもあり遅くもある」――つまりはドゥルーズ=ガタリのいう少女性のように「速さによって遅れている」。遅速の攪乱をえがくには寓話と同等に恐怖劇も有効だとこの点でわかるが、むろん安達は死体のある場所を指さしており、それがこの作品の皮肉で恐ろしい結末にやがてつながることになる。『LOFT』で気づくべきはすべての時間が意志化された予兆だという点だ

9
●『LOFT』1:14:43-1:23:22再生
・「時間の不安」、それは時間が個別的に所有できなくなる点とつうじている。いま再生したくだりは「生きている安達」が写し撮られることで回想シーンが無媒介に開始された事後理解を生ずるが、西島による安達の殺害、それを遠目に傍観していた豊川という関係式が崩れて、西島の殺人時間に豊川が「参与」させられてしまう魔法が駆使される。→作品全体の白眉。通常の鉛直軸が水平軸になった視界が挟み込まれる芦澤明子の撮影が不安で見事だ(照明では「点滅」も活用される)。西島による殺人までは段取りと省略にとんで西島-安達の葛藤と殺人が図式的にしるされ、西島が死体を詰める袋を物色する不在の「合間」を、危険に魅入られたように豊川が忍び込んでくる。夢幻性の感覚がつよい。救出者にみえていた豊川のまえで安達が息を吹き返しても一件が落着しない。安達はとつぜん木乃伊学者・豊川にとっての木乃伊に同位化され、対峙に緊張がたかまる。引き金になるのは「きみは誰だ?」という、『CURE』にもかたどられていた発語。やがてついに発せられた豊川の一言、「死人が口を利くんじゃない」によって、なんと安達は呪文が解けたように「ふたたび死んでしまう」。それが先の死とぴったりおなじ場所においてなのだった。このタイミングで西島が戻ってきて、安達の死体を袋詰めしはじめる(豊川は隠れている)。安達はだれによって死んだのか。ここではひとりの回想に別人が侵入して実現される「時間の他者性」がある。そこでは速さと遅さに弁別が消えるように、死をもたらした下手人の弁別すら無効になってしまう
・いずれにせよ、回想として作品にもうけられたこの袋状の時間のなかで、生きていた者―やがて幽霊となる者―木乃伊の三層に「重複」が起こる。とりわけ幽霊と木乃伊の重複が戦慄的な認知をもたらすだろう。これら「魂があって肉体のないもの」「肉体があって魂のないもの」が重複して生ずる事態とはなにか。魂と肉体の弁別不能性が第一。つぎに、「あらゆる死は決定できない」という主題だろう。これはじつはダニエル・シュミットの怪奇映画『ラ・パロマ』(74)の主題でもあった。結婚した歌姫イングリット・チューリンの心を得ることなく死なせてしまった大富豪ペーター・カーン。カーフェンは死後三年経過したら自分の墓を暴けと遺言をのこす。約束どおり暴くと、そこには瑞々しいほどに「生きている死体」があった…
●『LOFT』1:26:00-1:28:26再生
・ともあれ西島の記憶に混入してしまった豊川にとって、しかと視ていた西島による安達の埋葬が、じつは自分自身がおこなったものではないかという不安を取り去ることができない。それで豊川の再生に向け、恋仲になった中谷がその埋葬場所を(『ラ・パロマ』のように)掘り返してみようと励起する。結果、この時点では「死体は存在しなかった」。扇風機による大嵐、夜、豊川の哄笑、最後には歓喜にみちた豊川と中谷の接吻・抱擁。とうぜんこの「高揚感」は『ラ・パロマ』での相互得恋の瞬間(のようにみえた)、カーフェンとカーンによる伝説的な「山上のオペラ」に通底している
・むろん映画のなかに映画の引用が入れ子状態で伏在しているときにはべつの時間体系の支配が起こっていて、そこでも遅/速を弁別することができない。このことだけを強調して、『LOFT』の結末には具体的にふれないでおく
 
 

2014年03月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

あぐら

 
 
【あぐら】


あぐらは、椅子にしたみずからにみずからを坐らせる再帰的なかまえで、しずむことなくぜんたいが天上から引かれる。わかいあぐらには無理だが、老いゆく肉だるまはゆっくりと紡錘になり、時間の糸すらまきつけてゆく。出入りする息のかたちを身のかたまりであらわすのは、からだの不遜なのか。体幹に副わせた両脚がうすい翅になるまでの、丹田に由来する百年。けれどすべてをもちきれずにからだはあぐらのままあるき、活殺自在のもようになろうと虫のわく春を移る。
 
 

2014年03月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)