ひだ
【ひだ】
日々をゆかいにすごせばあれらひだまりもひだるまになる。ひだがらんまん。
本日四講、現代短歌講義の配布プリントのため、斉藤斎藤さんの『渡辺のわたし』から歌を拾っていま転記打ちしていたら、一首できた。記録しておきます。(札幌は連日猛暑だった。)
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昨日は道新のサブカルコラムの原稿作成ののち、貞久秀紀さんからご恵贈いただいたばかりの摩訶不思議な序数文集『雲の行方』を読んでいた。以下、傍点省略で二文ぬく。
三七一〔…〕「今あそこにすでに浮いているちぎれ雲が、今あそこに現れてくる」
三七六 ある文を読みとる体験とそこに書かれてある文が同じあり方をしていること。
自明性が脱自明性となるような、認識=想起の迂回、再帰、時間の微差。貞久さんの透明な文章はこの点をしずかにせりあげてゆく。結果、三七一では存在と生成がひとしいものになり、三七六では写生文の明示性が言及不能のフレームをひそめていることをあかす。
貞久『雲の行方』はスピノザ『エチカ』の認識論への転位のようにもみえる。同時に俳書の奥行もたたえる。貞久さんが肉薄した「貞久語による」俳句なら以下だ。
二五五 我去れば鶏頭も去りゆきにけり 松本たかし
二六八 なにも居ぬごときが時の金魚玉 阿波野青畝
それにしても序数のついている書物内空間がいつも好きだ。つぎの連作を、序数詩篇集にしようかなとおもいはじめる。けれど西脇『旅人かへらず』を意識するのが畏れ多い。
貞久さんのまえに読了したのは、これまた恵贈本の草森紳一『その先は永代橋』だった。なかに吐血体験のくだりがあって、凄絶だが、そこに意識のながれと身体様相がアフォーダンスのように記述されていて、「凄惨ゆえに」わらいがとまらなかった。「吐血しても読んでる。草の、森のひと」
開花予想
【開花予想】
家のそば、市電通り沿いの白木蓮の庭木が花をつけた。椿も蝋梅も本州北限だから、北海道では木の花の春が木蓮から幕をあける。花だけではない。葉の到来も歓迎される。摂氏20度台の気温も記録するようになって、冬枯れだった樹木が一挙に芽吹きをむかえた。キャンパスで目立つのは、あかい葉の芽をふきだした春紅葉。それから柳の葉も芽吹いて、やわらかくゆれだした。柳は葉をつけると枝がやわらかく、しなる。水分がとおるのだろう。さくらはといえばこれも粒状深紅の花芽が枝にみちて、みあげると色とかたちをたがえた銀河のようだ。くうきが錯誤の気配をだして好色にゆるんでいる。
今期は非常勤先もあわせ、授業が2コマふえた。おまけにそれらが週日に分散している。出席すべき委員会などがあると今週のように連日、登校をしいられる羽目となり、疲れる。なによりも連続した自由日のないことが読書量の減少をもたらす。あわてて自分にノルマの読書をしいると、睡眠不足となり、あたまの冴えた時間もすくなくなってしまう。循環がわるい。
いまはつぎの連作のために、共通するスタイルかひとつの概念かを模索中なのだが、ここ半年、行分け詩をあまり書いておらず、改行の呼吸がもどってこない。改行詩を書くならば呼吸に乗ってしまうのではなく、呻吟のうちに呼吸の折り返しを各行で加工的につくれ、ということかもしれない。なにかが憑依したように発想が展開していった詩作の洪水期など、とうにすぎているのだ。
ともあれ自分の改行神経がどんな形態をしていたかを確認するため、『頬杖のつきかた』を先夜とりだしてみた。三年ぶりくらいかもしれない。長篇詩「春ノ永遠」にとりくんでみたが、すっかり内容やそこにあったはずの身体性を忘れている。引用元はすぐに見当がつくのだから、評論家としての記憶力は減退していないのだが、自分についての記憶が薄弱稀薄なのだ。だから新鮮、逆にいうと馴染みのうすさに眼のなかが反りかえってしまう。読解が容易な詩作だという自己イメージだけのこっていたのだが、再読時の印象は「そうではない」。
自己イメージのいい加減さは措くとして、自分の書いた詩なのに自作のようにおもえない、というのは良いことだろう。それは書いたときすでに他者性が介在していたあかしとなるからだ。馴染みだけになる詩句の重畳が窒息をみちびくのなら、その窒息をくつがえしたのも、そのときの擬制的な自己愛でしかなかったはずだ。それでは他人につながらない。もんだいは難度の調整。読み返したときに自分自身まで読解にくるしむなら、書いたすべてが、この世との接続を欠いた妄想、ということになってしまう。
書いたときの日常些事が手にとるように蘇ってくるというような書き方をしていない以上、自分の作が自分のなかにやさしく再現できない。冴えているだとか、ながれがゆたかだとか、おどろきが多いだとか、語彙がひろがっているだとか、リズムが調整されているだとか、そういう判断ならむろん可能なのだが、どうも自分をふりかえることそのものが、こころもとないし、へんに緊張するのだ。ほかの詩作者は自作をどう振り返っているのだろう。よく朗読イベントなどで、自分の過去の詩篇を完全に記憶して、「暗誦」と「朗誦」が一致しているひとに接するとおどろいてしまう。むしろ自分とは「忘れるためにある」のではないか。
自分にかかわる記憶が散漫なのは、幸福なのか不幸なのか。ぼくは自分の著作にかぎらず、自分のことをよく忘れてしまう。女房など、ぼくの過去の代弁者として存在しているといっていいかもしれない。
小島きみ子さんからFBメールがきて、拙著『換喩詩学』がようやくお手もとにとどいたようだ。きょうにはさらに多くのかたから到着の報が舞いこむだろう。これも芽吹きか。アマゾンをみると書影掲載はまだだが、予約注文が開始された。五月二日発売予定、とある。なんと札幌のさくらの開花予想とおなじだった。あ、奥付の発行日付は変更なしで大丈夫だろうか。
何度めかのメモ2
【何度めかのメモ2】
枯れ枝が二本あり、右手左手にそれぞれをもっている状態が想像の端緒だろう。想像が創造にかわるのは、それらを地面に置いた瞬間からだ。交叉させて置くか並べて置くか。前者が暗喩をなし後者が換喩をなす。その後者のばあいについて――
二本の枝は並行状態にあるものの形象が微妙にずれている。隣接はふたつのちかさと同時にふたつの離れをそうしてあらわすのだ。しかもそこには自分の右手左手という、もともとの「身体庫」を分離させた直前が横たわっていて、地面にある二本の枝は、自分の分散であり時間の置換であり、部分が全体をなさないことのあられのなさをもしめしている。
二は最小限の林立でありながら「けっして林とは似ない」ものだ。形象や場所を厳密化してゆくと、類似の不可能がうまれ、その不可能が潜勢という貯蔵庫に、並立性を収蔵しかえる。このことが枯れ枝を置いた身体法則にまで再適用されて、「換喩のわたし」が遡及する。
枯れ枝をならべ地面に置いたひとびとのおこないを、たどってあるくことはこころ躍る。骨と邂逅できるためだ。けれども枯れ枝を右手左手それぞれにもち、そのため幽霊になっているひとびととすれちがうほうが、さらに壊滅と再規定のあしたを予感させる。枯れ枝がほんのすこし濡れていて、それがどこからの露かをかんがえることすら、ひとつの創造だった。
何度めかのメモ
【何度めかのメモ】
詩集単位をかんがえたばあい、形式と方法論をたがいにひびきあわせながら、統一的な連作として個々の詩篇がしるされてゆくのがぼくのこのみだ。けっして一詩集に一方法論という意気軒昂を前面化させるのではない。ほぼ日録的に詩作をおこなうとするなら、その「日々」を連作性のかこいのなかに充電させ、結果的に自分のからだやかんがえそのものを詩の形式にまでかえてゆく、そうしたひそかなよろこびこそが詩作動機になるということだ。身体の創造。このとき統一感はからだへ救済をみちびくたいせつな基準となる。からだを破片化させては生きられない。
一詩集をつくりあげたと自覚したあとの空白感、減退感は、「日々そのものの連作化」が破れてうまれてくる。からだが踏み迷いと、探りの空転にそめられてゆくこの体感は一般には不安とよばれるだろう。ただしほんとうの創造性は、停滞期を脱して連作にふたたび帰ってゆく充実にではなく、停滞期のなかにある何かの潜勢や萌芽のほうにあたえられる。書いていないことがひとを空白のひろがりに直面させる。その肌には一種の試練がひかりのようにながれだす。これらのことのなかに、すでに自分の「未知」が「連作」されていると捉えなおすべきなのだ。
諧和と瀰漫
【諧和と瀰漫】
本日の院生授業のために、岩井俊二監督『リリイ・シュシュのすべて』を未明からDVDで再見していた。2001年、新作としてこの作品をレビューしたとき(のち『日本映画の21世紀がはじまる』に所収)には、たしかそのすばらしさを説明するのに窮した記憶がある。それで
① サイトのスレッドへと打たれる文字(映画画面自体に刻々のテロップとしてその生成過程が表現される)、キーボードの打音と、小林武史作曲の「リリイ・シュシュ音楽」の複合が、観客の身体にもたらす同調性、
② 地方(舞台は足利)の逼塞(たとえば援交の沈潜)とひとの孤立といった社会学的な知見、
③ 「14歳」を中心にしてえがかれる身体の痛ましさ(作品自体が『エヴァ』→酒鬼薔薇事件→〔それとこの作品のTV画面にモデル的に再現される〕西鉄バスのハイジャック事件の系譜を意識している)、
④ エドワード・ヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』との異同、
などを手掛かりに、作品を強引に「分析」したことがある。
いま観なおすと、むしろ説明=分析不可能性の概念をつかって、この作品をたたえるべきだったとおもう。まず篠田昇のショットが単位加算的でないので「憶えられない」。それらは手持ちで浮遊し、風景や構図の瞬間的きらめきや人物のアフォーダンス的な断面を、素早さをもって織り合わせてゆく。ちりばめられ、イメージにかさなってゆく生成的な「厚みのうすさ」。ショット単位そのものはむろん実写映画だから分離できるのだが、そのショットが狙っているのは説明のむずかしい「ニュアンス」のほうへ傾斜している。同時に編集はショットの継ぎ目を溶解させ、いわば音楽状態で「ながれ」を組織してゆく。MTV出身の岩井監督の面目躍如たる映画組成だ。
もんだいになっているのはショットをとけあわせるときに生じてくる「諧和」だろう。刻々の「部分」が代わるがわる「全体」を(不可能裡に)指向するとき、相互の部分性、その差異をなだめ、馴致させることで、観客の感覚に「分析しがたいもの」がむかってくる。これは多色のひかりがまざることで最終的に白光が成立するまえの、自己展開の微分性のようなものだ。わるい形容でいえば蠅の羽音にちかい。部分に他の部分からの「諧和」の切片が覗き、それこそが部分的単位のなかに飽和することで、ある瞬間がべつの瞬間からの痕跡にすりかわって、部分の自体性を軽減させてゆく。
これは古典時代からの映画の加算的な組成学に適用できる属性ではなく、音楽のみに適用できるものだ。「ひかりを中心とした原理」の伝播媒質、作品内でも自己言及的に「エーテル」とよばれているものは、いまのべたこととまさにリンクする。「諧和」は組成じたいにあふれるものを高次元化させる。的中不能性こそが瀰漫するのだ。したがって『リリイ・シュシュのすべて』で瀰漫しているものは意味ではない。むしろ瀰漫じたいが瀰漫している、ということになる。
映画史的には「10年の単位」は有効な設定だろうとおもう。ディケイドを代表する一本が「なぜか」設定できるのだ。それは、作品の出来のよさというよりも、他の作品群の趨勢を傾向づける作用性、偏差を計測させる原基性からこそ、一国の映画内に確定される。80年代なら相米慎二監督『ションベン・ライダー』(83)で、これは画面内のブラウン運動的な逸脱が物語=脚本を凌駕することの意義をしるしづけた傑作だった。90年代なら北野武監督『ソナチネ』(94)だろう。こちらはカットの断面に俳優身体の生々しさが予感されることで、映画が残酷と身体的孤立を掘り当てる真理を構築した。
その意味でいうと『リリイ・シュシュのすべて』は00年代の画期となった作品で、そこでは「瀰漫」状態を実質づける「諧和」によって、分析不能性そのものの快楽に観客をみちびく身体作用的な映画が確立された。
もんだいはディケイドのなかの最初の1年目(2001年)に作品が登場してしまったということではないか(83年の『ションベン・ライダー』、94年の『ソナチネ』は、出現までに予感的な助走期間が前置されていて、そのことで多くの並走作品をみずからにみちびいた)。『リリイ・シュシュのすべて』はこの点でいえば孤立的な影響源に「なってしまった」。カメラマン篠田昇は、この作品で完成させた浮遊する手持ち映像(それはデジタル編集される)をジャンプボードにして、やがて『世界の中心で、愛をさけぶ』の画像変転をつくりあげ、それが東宝ゼロ年代の「感動路線」「興収ひとりかぶり路線」のいしずえとなった。むろんその萌芽は岩井と篠田のコラボレーション『Love Letter』(95)にあった。
〔※余談だが、10年代日本映画を代表する作品は昨日のフェイスブックで暗示的にしるした熊切和嘉監督『私の男』(本年六月公開)だろう。そこでは地方-運命-性-残酷-衰退が、部分的には古典回帰的な組成でしるしづけられ、「震災後」の映画のありかたが過去作との交点のなかに模索されている。北海道・紋別の流氷接岸期に二階堂ふみと藤竜也のあいだで繰り広げられる氷上の「アクション」は、どこが現実でどこが合成要素か判別できないCGが活用されていて、しかも極寒の痛みをつたえる。これこそが「10年代的なもの」だ〕
このメモは個別作品の分析ではない。いいたいのは、「瀰漫」をみちびかれた組成に「諧和」のうごく作品空間では、内部/外部の弁別まで無効になるということだ。説明=分析不能性は個々の時片に連続的にきらめく。ひかりは聴かれるものとなり、音も視えるものとなる。映される身体は輪郭でありながら容積であり、思考であり、空間の余剰でもある。たとえば美少女(『リリイ・シュシュのすべて』でいえば伊藤歩、蒼井優)がその対象性を、要約いがいには記述させない無力さを、いわば幸福としてあたえる表現の特権。このことがあらゆる表現に内在されるべき「音楽の状態」を覚醒させる。
今期は「音楽性」にまつわる講義が偶然そろってしまった。学部授業の「現代短歌」。全学授業の「日本の歌詞」。藤女子大での「詩」。たとえば短歌を意味要約して鑑賞するほど不毛なアプローチはない。短歌はその形式のなかに音素の瀰漫をたたえ、語句連関が相互を諧和させている。だからそれが記憶と暗誦にあたいし、「歌」の要件を獲得するのだ。ところが音韻的な魅惑はけっして分析できない。母音と子音の分布分析は「あ行音」の音のあかるさ、k音のするどさなどをいうが、母音子音に自体性がないというのがぼくのかんがえだ。むしろそれは音分布上の隣接領域から自体性をうばわれた「時片の穴」としてあり、そこに瀰漫そのものが瀰漫する。だから音にかんする知覚は必然的に数十分の一秒ていど遅延せざるをえない。それはたとえばジャズなどを聴けばわかることだ。
このことゆえに、短歌の音素が分析不能だとすると、音楽をつくりなす諸物質や諸要件もまた分析ができない。たとえば声や音色を表現する語彙は、みな的中性がひくく、暗喩的なアプローチが代位されてゆくしかない。たとえばニール・ヤング「アラバマ」のサビ部分は、「Am7→C→D」のコード展開をもち、それが「F→G7→Em7」のメインテーマに復帰するのだが、一瞬の間隙をはさんでDからFにコードが変化するときの、不規則さゆえの抒情性というべきものは、徹底的に聴覚上の体験であって、それを意味還元することができない。音楽再現については採譜がになうことができるが、音色や和声、さらにはそれらを統御する上位次元は、あくまでも言語性の外側に瀰漫して、しかもそれが「内側」をも形成して、こうした空間逸脱性が分析を寄せつけないのだ。
はなしをもどすと、映画『リリイ・シュシュのすべて』はそうした細部によってこそ織り合わされている。多くきんいろでとらえられる校舎内のうつくしさは、校舎そのものの描写ではなく、「内部の内部」が諧和であふれていること「しか」告げていない。
詩においても、意味の逃走線を攪乱し、おおいつくす「瀰漫」面のようなものがあって、それこそが音素の結合運動でできていると微視される。この感覚のないものは詩ではないとすらいうべきかもしれない。ことばの「それ自体」あるいは他語との照合関係から意味を計測するのが暗喩にたいするアプローチだとすると、瀰漫するものがなおも瀰漫をあふれだしてくるときの運動性を、からだの分光器にかけて隣接のズレとして受けとるのが換喩にたいするアプローチだろう。ということでいうと、『リリイ・シュシュのすべて』は短歌、音楽、詩と、換喩性においてつながる。それらはいずれも「部分」の時間軸上の斡旋という、換喩の第一段階ではなく、その上位段階――部分に全体というべきものがあふれて、しかもそれが刻々のズレを起こして把捉できない、という幸福な不能状態を――あらわしている。とりあえずそれがこのメモの結論だ。
そういえば観なおして気づいたが、『リリイ・シュシュのすべて』で市原隼人の母親役をフジテレビのアナウンサーの阿部知代さんが演じていた。かつて在籍した「かいぶつ句会」のお仲間。懐かしかった。「アナウンサー演技」ではなく画面に人間として実在しているすがたに脱帽した。
北区
【北区】
土地になじむということは、交通手段をつかった点から点への移動ではなく、徒歩による線型の移動をして「面」にふれる自分のからだをやさしくおぼえることだとおもう。札幌に行った初年度は流謫の気分がつよく出不精というかひきこもりになり、北大、札幌駅、大通、狸小路、すすきの界隈と、あるくところもかぎられていた。「点」のあいだを用事しだいで移るのみ、札幌市内の空間連続性などほぼ手中にしない凄惨な日々だったわけだ。世界は分断されていた。
ところが札幌も三年目となると、空間の連続性が身体へ自然にひらけてくる。契機となったのが北大のだだっ広いキャンパスかもしれない。北大では一年次の教養過程として二年次へ進級するため32単位をとらなければならない全学部学生対象の「全学授業」というものがあり、これが俗にいうE棟で開講される。ふだんのぼくの根城・文学部棟からはあるいてなんと十五分もの距離にあるが、このE棟への歩行が健康維持のためだけでなく愉しみにもなる。紅葉時期の景観が圧巻なのはいうまでもないが、いまの季節だと徐々に春の兆しがあらわれ、それがやがて一挙に吹きだす交響曲的な展開となってゆく。きのう歩いたところではまだ落葉しきったあとの銀杏に、葉の芽がわずかに吹いてきたていどだったけれども。
落葉といえば、ひと冬の積雪が閉じ込めていた落葉が、雪がとけて解放され、日に乾いて、いまはつむじ風のなかなどですさまじく虚無的な音を掻き立てている。太宰治の戯曲題名のように「春の枯葉」というものはある。
札幌市北区は区内におおきな北大の専有地があり、かつては北区のすすきのとよばれた小繁華街・北24条があり、北大生の下宿に供されるコーポなどが櫛比している。ところが飲み会で北24条に行くときは、ほぼ地下鉄をつかうので、北区の空間的な連続性をつかむことがなかった。それでも院ゼミのうちあげに院生の下宿部屋で鍋パーティがあったときはふりしきる雪のなかをあるき、北大から北20条あたりまでの雪中距離をつかんだし、きのうなどは非常勤出講先=藤女子大(副務)へ行くときに、文学部棟→E棟→藤女子という経路を意図的に徒歩で確認し、飲食店分布などを記憶してみたりした。
そういえば札幌は古書店が壊滅的だとおもってきた(すすきのには閉店した古書店がシャッター状態でそのままのこっているし、かつては品揃えを誇った北大正門そばの南山堂などは本が入れ替わっている痕跡のほぼない不活性店だ)。ところが北12条、北大敷地の対面位置にある弘南堂(去年、木村哲也くんのみちびきで店主と知己になった)などは意のこもった品揃えをしていて、じつはこのあいだ井坂洋子『朝礼』第二刷をなんと千円でネット注文してしまった。藤女子大そばの北18条には北天堂という古書店もあり、ここは山岳本の所蔵が見事だが、寺山修司の本のならびも圧巻だったりする。
ぼくが東京23区内の空間連続性にあかるかったのは、学生時代より街から街へと古書店を徒歩で行脚していたためだ。いわば教養を古書購入で形成したたぐいだが、街にひそんでいる古書店のたたずまいそのものも好きなのだった。古書店は写真店とならぶ街の記憶のアルコーブであって、福岡や高知などでもそうだが、地方都市の古本屋は収蔵が朴訥なぶんだけ、入るとあたらしい本がなくて数十年前にタイムスリップしたような「うれしさ」をおぼえる。不活性店にはちがいないが、かつて読書人がいた街を保証するそうした店はかけがえがない。これらがブックオフなどに駆逐されてしまうのは、地場の飲食店がファミレスやファストフードのチェーンに置き換えられるのと同様、悲哀をともなう。
それでもネットで北区の古書店地図をみると、さほどそうした店が散在しているわけでもなかった。期待はずれといえば、中島みゆきを輩出した藤女子も街なかにある小ぶりきわまる大学で(北大の万分の一ていどしか敷地がないのではないか)、イメージしたような、藤のしだれ咲く幻惑的なキャンパスではないようだ(キャンパス内にいまは冬枝だけが這っているちいさな藤棚を視認しただけ)。
小ぶりなものが整然とした状態で潜勢している退屈なひろがりが北区なのかもしれない。じっさい授業で藤の文学部女子二年~四年生に接してみると、かわいいのだが、なにか存在感が小ぶりというかんじもする。それでも昨日は講師控室でいっしょになった北大の同僚から意外なことを聞く。十数年前の藤女子大生は「無頓着」で、ジャージ姿で教室にいる学生が多かった由。「女子版バンカラですね」と応ずると、「そのとおりです。いまの学生はファッションにおカネをつかい、本におカネをつかわないことがそれでよくわかります」と笑っていた。
札幌は自転車でつっきるべき街なのかもしれない。そのために雪のない季節と、平地の巨大なひろがりが保証されている。このあいだ中国人院生と狸小路そばのディノスシネマズで『アディ、ブルーは熱い色』を観たとき、ほぼ全員(みな北区在住)が自転車で映画館にやってきて、それが壮観だった。さすがに中国人と自転車の親和性はたかく、来日早々、彼らは闊達な自転車利用者になっている。ぼくだって自転車を利用すれば自宅から北大まで20分、E棟までは25分、藤女子までなら30分ていどだとおもうが、女房が「運動神経がわるいんだからやめておきなさい」と、自転車の購入をゆるしてくれない。
ふたたび横組縦組について
【ふたたび横組縦組について】
CDでの歌詞表記は日本語音楽にしても横組が主流だ。このことはLP時代からもかわらない。CD、LPどちらにとっても歌詞カードの判型が正方形なのだから、横位置の紙に縦組、縦位置の紙に横組といった、一行字数の多さを回避する効率性判断もそこでは成立しない。ロック全盛時代、洋楽のアルファベット歌詞がとうぜん横組だったとして、その趨勢が日本語歌詞の横組表記に反映したのだろうか。そうではないはずだ。横組にはたぶん情報提供→享受の経路に身体工学的な親しみやすさがあるとはやくから捉えられていたのだろう。権威化ではなく親密化を旨とするものでは横組が選択されるのだ。
くりかえすが横組は身体に親和的だ。じっさいノートに文字を書くとき文字を縦に書くのと、横に書くのとではスピードや疲労感がちがう。横書のほうがいつも円滑なのだ。漢字を使用する中国人でも留学生をみるといまは横書が主流になっているし、中国書籍も古典いがいの実利書や評論などは横組表記だ。眼球の運動も、鉛直方向の移動よりも、水平方向の移動のほうがどんな生物でも重要視されている。天敵が上からではなく横から来るという原始期からの経験の蓄積だろうか。しかも一行を読みつつ前後の数行がみえるという俯瞰視角にとっても、隣接可読範囲が横組のほうがおおきい気がする。よって探索もより容易だ。実利性をたっとぶ中国人なら、「より速い」「より探しやすい」横組/横書に親和してゆくのはとうぜんだろう。
横組のほうが許容性もいろいろある。たとえば字のちいささをゆるすのも横組だし、活字形としてうつくしい明朝体ではなく、記号還元性のたかいゴシック体が代用されても、横組ならそれが「意味伝達」を主眼とした字組である以上、遜色がない。字並びに可変的に付帯要素を拡大導入できるのも横組だと捉えるべきで(とうぜん最も単純なものに欧文や数式、化学式、楽譜などがある――この延長線上に写真や図版までもがあるのではないか)、だから横長のパソコン画面では横組がますます隆盛になってゆく。CDの歌詞表記も横組であってこそ歌唱画像の横組テロップと一致する。コミックのネームやバルーン内文字の縦組だけが奇異だ。これは書籍の右開き文化が現在も定着しているためだが、百年後くらいにはコミックも左開きになって横組が主流になっているのではないか。出版資本がコミックを速く読ませよう(消費させよう)とするなら、とうぜんそのように変化するだろう。
縦組・縦書の利点は以上の見解の「逆をとった位置」に顕れる。つまり遅読をうながし、権威化を強調したいときにこそ縦組がえらばれるのだ。先述のように、鉛直方向の眼球移動の煩わしさ、あるいは視野の狭窄性=他行への目移りのすくなさが縦組に保証されているものだ。この結果、縦組の本では、版面による視線の折り返し反復があったとしても、文字が記載されてゆくながれが、量感性ではなく線型性のほうへ誘導される。しかもそれを「ゆっくり読ます」使嗾もなされてゆく。むろん集中力はこの形式のほうに発揮される。
詩集の装幀に縦組がほとんどなのはこの点による。しかも詩作者は別途にゆっくり読ませる方策を個別的にもっている。ひとつは意味了解の難度をたかめることで、これは構文の複雑さ、飛躍、欠落、脱法則化のほか、つづられている「意味」が原理的だったり初発的だったりすることにもよるし、たたみかけから、いわば静かで目立たない脈打ちへとリズムを沈潜させることでも可能だ。詩は音楽状態を複合した発語だから遅速どちらがえらばれてもいいのだが、速いリズムの詩が読者の身体を覚醒させるのにたいし、透明なリズムのなかから発語がしずかにあふれてくる詩では読者の身体をあまく消去させる効能がある。さらには日本語の特質として漢字・かなまじりの表記があって、漢字の速読性にたいしひらがなの遅読性という二分もある。これらが綜合されて、たとえば詩の冒頭一行の読解速度が、詩作者側から付与される。こうした形成性がないとかんじられる詩が、ことばのひろがりにゆたかなすきまのない詩どうよう、冒頭一行で読む価値なしと、詩読の熟練者に捨てられるのではないか。
ワードの縦組レイアウトをつかって、詩を縦書で書くひとはほとんどいないとおもう。縦組は字数が多いとパソコン画面で上部もしくは下部が切れて不便だし、しかも隣接領域が俯瞰把握しにくく、たとえば助詞をはじめとした語かぶり防止のための探索にも適さない。だから横書的速成性に駆られるような詩作を一旦おこない(ところがそこで瞬間発想や類推を過信すると痛い目に遭う)、ワード横組で詩作を完了したあとに、レイアウトを縦組に換えて、詩作ノートのストックなどがなされているのではないだろうか。下手をすると、横書で書いた詩を縦組としておおやけにするのが詩集出版の意義とまでいえそうだ。
ところでいままでの記述はすべて効率的な観点からのもので、詩の縦組にかんする霊的な本質には達していない。諸家のいうように、縦書の本質は「重力」の不如意・宿命・尊厳を書記行為にからませて、自身の記載に畏怖を反射させることなのではないか。書字は組版に転化する。横組の水平進展がコミュニケーションを指向するとするなら、縦組の一行ごとの鉛直進展は単位的な断絶を指向し、文字の物質化をより顕わにする。この機能を微視状態で拡大させるのが「書かれたもの」としての詩なのだ。だからこそそれは静かなざわめきにみちる。あるいは日常語を孤立させつつ音韻でつなぎ、その点滅からありえない純粋言語をたちあげてゆく「翻訳」行為が詩だとすると、そのきしみと明瞭になじむのが、じつは不自由さをよりかこっている縦組なのだ。
改行詩の字数揃い=方形レイアウトは、字の分布域をまず知覚させる。それは図像性を翻訳する。あるいは尻揃えで各行が石筍状に上へとのびてゆく改行レイアウトは反重力を翻訳する。どちらも本質的ではないとおもう。それらは改行が第一義的には息だという詩文の単純法則に反していて人工的にしか捉えられない。本質的なものは字数のそろわない改行詩ではないか。そこでは詩の一行が他行の介在によって不安定に存立をゆらす魅惑が、黙読の進行のなかから林立状態で真に顕れる。林立は木木の同一性を保証しない。それでこそ人格ではなく、意味形成や修辞の多声性が、行の加算に代置されてゆく。字数の揃わない行分け詩は不明瞭な霊気をたちあげる植物の多彩な並立性を翻訳する。作者がそのなかできえる。このことが「再帰性の反射」を経由して、詩を読む読者を「あまく消す」効能を発揮するのではないか。これが個人的なこのみのもんだいなのか日本語で書かれる詩の普遍なのかはこんご検証されるべきだろう。
いずれにせよ、横組・横書が推奨されるネット時代の今日にあって、縦組が志向される詩は反時代的な愚挙、必要ない無駄と功利的には捉えられる。ところがSNSなどではかなり多くの形式的に半端な――つまり横組の詩篇が出現している。それはSNSが自分をかたる媒体として広範に認知されている以上とうぜんのことだが、その場所を詩のユートピア空間にするにはどうしたらいいか。書かれている横組を縦組へと心眼に変換することだ、とこれまでの文脈では捉えられるかもしれない。ところが唐突な見解だが、もんだいはべつのところにある。縦組を指向する詩作と、横組を指向するSNS空間が化合すれば、まずは横組に特化して魅力を発する詩篇が登場してくるはずなのだ。それでいいとおもう。反時代性を標榜した自分だけが、適当な時期の死の到来により、あたらしい趨勢から退場すればよいまでのことだ。
春分後
【春分後】
札幌に移って、日照時間の節目により敏感になった。なにしろ緯度がたかいので、東京にいたときとは感覚がかわる。日長の最大恩恵をうける夏至では朝日が午前四時にのぼり、夕陽が午後八時にしずむ。つまり春夏は異様に日照時間がながく、活動を推奨されたような、得した気分になる。からだもうすく、かるくなる。ぎゃくに冬至では朝日が七時前までのぼらず、夕陽も午前四時に早ばやとしずんでしまう。この「夜ばっかり」状態はたしかに刑罰のようで、からだそのものが重いさみしさを抱える要因となる。北大生は自殺比率がたかいので有名だが、夜の物量におしつぶされた下宿生が冬季に命をおとすパターンが多いのではないだろうか。むろん雪のつくりだす閉鎖性もおおきいだろうが。
高緯度地の日照時間にあって、いわば不幸から幸福への転回をはたすのが、春分なわけだ。じっさいに春分はからだの感覚にあかるい結節みたいなものを透明状態のままあたえる。ほんらいなら一年の循環性は春分日でことほがれ、祭などがあってもいいのかもしれないが、まだまだ空気がつめたい。四月なかばになって路肩に積み上げられた雪が完全にきえても、まだ札幌では植物の自然開花がいっさいない。いまは「花なしのヘンな温順時間」なのだが、さすがに日照時間の伸長を日々にかんじ、気分がすでに春めいている。宙吊りの春情。酒場に繰りだす動機がさみしさからうれしさにかわる。これで柳の枝などにさみどりが芽吹くと、一挙に眼底があかるい春色の歓喜でみちることになる。春分後の眼は「いま」ではなく「すこし先」へ向いて、その時間性でこそかがやく。そこでは奥行きが仄ひかっている。
換喩詩学いよいよ発送
【『換喩詩学』いよいよ発送】
表紙カバーの箔押しにトラブルがあってその直しが今週火曜に完成、いよいよ拙著『換喩詩学』が詩でお世話になったみなさんに送られます。見本ができて大学当局に献納してから時間も経ち、こころを痛めていましたが、ようやく一般にも陽の目をみる段階にはいりました。思潮社から発送され、今週中か来週はじめにはみなさんのお手もとに届くとおもいます。
概要をかんたんに――
四六判408頁 本体定価3800円
デザイン奥定泰之 編集亀岡大助
オビ文はシンプルに↓
表1:日本の詩の現在
その新たな脈動
詩集160冊、玩読
背 :暗喩的戦後から
換喩的現在へ
目次内容は以下↓
Ⅰ
換喩的現在
換喩の転位、転位の換喩
俳句、驚愕をつなぐ声の力
吉本隆明の「悔恨」
『スタンツェ』に導かれたいくつかの断章
・ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』
・中間性について
・小島数子、大辻隆弘
・石原吉郎とバートルビー
喩についてのいくつかの断章
・直喩・暗喩・換喩
・ポール・リクール『生きた隠喩』と詩の時空
・散喩・減喩
・接続詞と第三項
・濫喩と動詞
像と自己再帰性
自己像と不可能な換喩
音韻・気息・換喩
Ⅱ
ネット詩と改行詩のゆくえ
詩は終わるはずがない
複声性/変圧器/聴像性
詩作倫理
改行倫理
中堅の詩法こそが詩的世界を飽和している。
詩と空間について
あとがき
主要詩集索引
●
連絡してきた亀岡さんへの返信に、あたらしいオンデマンド詩集の原稿を添付した。このあいだ書いた「馬酔木」をしかるべき位置に組み込み、全体にフィニッシュ感が生じたので。題して「静思集」。散文と詩と批評、それらの中間態を、断章形で送りこんでいます。亀岡さんの感想待ち。これでオンデマンド詩集の潜行企画は、そのまえの、平出隆さんの『胡桃の戦意のために』を意識した『空気断章』につづき二冊目。夏ごろに同時刊行したいとおもっているのですが、どうなるか。
ともあれ詩集完成感がつよいので、当面ネットへの詩作ノートの発表はひと休み。よってここ二週ほどは連日アップもなくなるとおもいますが、ご海容を。
本日より北大の前期授業です。
アデル、ブルーは熱い色
【アブデラティフ・ケシシュ監督『アデル、ブルーは熱い色』】
倦怠と期待が共存し、そうして感知される二重性がうつくしいと錯視される瞳。ところがやわらかくまとめあげたうすいブルーネットの長髪は、そのやわらかさゆえに髪のすじを顎にまでたらすことが多く、いわばみずから中間の瞳に微妙な否定線をえがく。くちびるはといえば肉質のうつくしいゆたかさによって多くが「半開」だ。そのことで彼女はパスタなどの摂食のときに内臓ともいえる舌をひらめかせてしまう悪い癖をもつ。眠るときにもくちびるは開いたままで、そこから外界の悪夢が彼女のからだのなかへと浸潤してゆくだろう。
「半開性」をキリスト教下の希望の形象とむすびつけたのはジャンケレヴィッチだったが、それは外部をとりいれる家屋の窓についてだった。レスビアン・カップルの出会いと熱愛と関係破綻をえがく『アデル、ブルーは熱い色』、そのヒロインのひとり「アデル」(アデル・エクザルコルプス)では半開のくちびるは、相愛のひとと舌をからめあわすディープキスと、発語衝動の双方に分裂し、その分裂こそが最終的な希望となるかのようだ。そうなるにはよくかんがえればわかるが、霊肉相剋という二律背反的な主題、それじたいが「肉のささえ」をもっているという原理的な把握が要る。そのことに「肉」薄しえたこの映画は、そのアプローチによって、文化論的な側面はべつにして、レスビアン映画という限定性をきれいに内破している。それが魅了の原因となった。
約言すれば「カップル」が成立し終焉するだけの要約にさらされてしまう映画の細部をささえるのは、性交にかぎらない「愛の表情」の多彩な展開だ。アデルがいつから同性愛性向を自覚していたのかはわからない。『仮面の告白』的な葛藤が通り一遍にしるされる。高校の一年先輩、音楽好きにして理科系のトマからの求愛。映画館での手のつなぎあいが、そのままキスへと発展してゆく。それでも「その後」がない。性愛にかかわる若さゆえの焦燥をしめさないアデルに、トマが「自分を避けているのではないか」と詰問する。そんなことはないとしめすためアデルは人影の不意に途絶えた校舎内の階段でトマに接吻をほどこす。むろん足りない。やがてふたりはトマの部屋で性交におよぶ。そこそこの昂奮が画面からつたわってくる。それだけのこと。科白にしるされないことは、アデルの献身に犠牲の感触が伏在している点だ。いたましさが「半開」になっている。
こうした異性愛への献身にたいし、もういっぽうで同性愛にかかわる伏線がひかれてゆく。校舎の非常階段で、真面目な女教師の文学授業に疲弊したていのアデルともうひとりの級友。とおりすぎた「アリス」という美少女の品定めをする。級友がふとレスビアン的な美意識を発露する。アリスはあるくときの尻が良い(アデル自身の「あるくときの尻」については、この作品の悲痛なラストで画廊からの帰途、街なかをあるくアデルのすがたで判断されるだろう――それが宿命的なレスビアンの尻なのか、人間の尻なのかを観客は自問することになる――正しい解答は「どちらでも」ということではないか)。
場面にもどると話のながれがふとアデル自身におよぶ。アリスよりもアデルのほうが魅力的かもしれない。あなたは自分の可愛さをわかっているはずよ。そんなことはない、と否定するが、アデルの頬が赤らむ。上気とは俳優に要求されるうちでもっとも難しい演技だ(アデルはカットを割られずに、つまり事前・事後というかたちでなく、「実際に」上気する――ここが「顔の映画」としてたかい決意が秘められていると信頼した一瞬だった)。それなりに少女として可愛い級友とのあいだで偶有的にたちこめるレスビアンの雰囲気。級友がアデルを可愛いといい、キスがなされる。そのようにひとが可変的に同性愛行為へとすすむばあいもあるだろう。
翌朝、アデルは級友を追う。級友がトイレにはいりひとりになった好機が訪れる。アデルは級友の顔に熱烈にキスを開始する。級友がやさしく拒絶する。「(昨日のことで)誤解させちゃったみたいね」。アデルは自分の暴走を反射的に悟らされる。泪がながれてゆく。同性愛にたいしては猛進してゆく自分が片側にいて、もう片側には異性愛を躊躇する自分がいる。
それはトマとの映画館デートのときにも自覚されたことだ。アデルは横断歩道で一瞬すれちがった青い短髪の、アーティスティックで跳ね返りの印象のある若い女と、すれちがいざま一瞬、視線を交わした(と感じる)。トマとのデートのあと、自室のベッドに横臥するアデルの「半開」のくちびるが印象づけられたのち、アデルの自慰描写がくりひろげられる。わかさをたたえつつ豊満な乳房。股間にのびるゆび。ところがちょうど『白昼の通り魔』で戸浦六宏の幽霊が現れる方式で、青髪の女が性的なせつなさにもだえるアデルの姿態のむこう、ピントをはずした場所に、顕れる。女の亡霊がいないカットと、いるカットが織り合わされ、その青髪の女が、アデルが自慰にもちいている「イメージ」だと意味のふりわけがなされてゆく。手法の俗っぽさもいとわないチュニジア生まれの監督アブデラティフ・ケシシュにこのあたりでまず好感をもった。
このアデルの自慰の場面では、手前にアデルの半裸身、ピンのはずれた奥行に青い髪の女というかたちで、余白を忌避して人体が充満している。あるいは手持ちカメラでわずかに浮遊する俳優の顔へのショットでも、映像は俳優の顔を頬の産毛がみえるほどのアップ構図を選択し、画面を「肉」で充満させる。それがエモーションの契機になっている。岡太地の知られざる傑作『トロイの欲情』ほどではないが、岡も参照しただろう増村保造的ではある(増村映画の符牒、エモーショナルな身体接写は、彼の強度の近視が原因だったともいわれる)。肉の画面充満とエモーションを完全に相即できたのは増村の時代、スコープサイズが主流だったからだ。増村の映画は半面で窒息恐怖に似る瞬間がある。もう半面でマスキングのように画面手前の遮蔽物が漆黒領域をつくりだし、構図の凝縮をくわだて、画面進展に内在的な変化が刻まれるのだ。
ケシシュ監督は、増村のレスビアン映画『卍』を観ているだろうか。岸田今日子の「いやらしさ」が絶品で、それが本能的な若尾文子の存在とハーモニーをなした。増村的なミソジニーは若尾にたいして発露された。岸田には「賛成」していたのだ。そういうエモーション特有のゆがみ(サミュエル・フラーにもつうじるもの)が、たしかにケシシュにはないようにおもう。
『アデル、ブルーは熱い色』は原作が文芸指向的なコミックだから、俗っぽさはアデルのリセ在学時代、文学授業での素材にもみられた。マリヴォー『マリアンヌの生涯』とラファイエット夫人『クレーヴの奥方』は「ひとめ惚れ」の運命性、人生に偶然はない、という哲学のために「援用」される。ソフォクレスの『アンティゴネ』は「幼年の克服」のために。そのなかでフランシス・ポンジュの『物の味方』も授業の素材となる。「水について」。不定形な水は重力のまま「低きへとながれる」悪癖がある。そのまえの授業のながれと化合して、この「悪」は偶然なのか必然なのかというもんだいが観客に生ずるはずだ。
ところでこの場面では『物の味方』でもうひとつよく話題になる詩篇「牡蠣」をおもっていた。その一部――《〔殻の〕内部に、私たちは飲みかつ食べる全世界をみる。真珠母の天空(適切にいえば)のもとに、上部の天が下部の天の上に垂れ下がり、そこにはもはや沼だけが、ねっとりとした緑っぽい小袋だけが形成されているにすぎない。そして、それは黒っぽいレースで縁取られ、匂いも見た目もまるで湖のように満ちひきしているのだ。》。やがて牡蠣は、アデルが真の恋人エマを得たのちに出てくる。魚介類を食べられない偏食者アデルが、極上の白ワインとともにながしこむことで、エマ(の一家)の好物、苦手の牡蠣を克服する場面があるのだ。しかも周到に、牡蠣の身が(形状、匂いともに)女性器とむすびつけられていることをエマがアデルに暗示する場面もあった。女たちの最深部は海に属するミルキィなやさしいもので形成されている。女たちの舌は発語とともに、それをたがいに味わうためにある――
「海の青」という羨望領域がある。アデルが横断歩道ですれちがった青髪の女は、ゲイソサエティがちいさく櫛比する、悪所というには文化的な夜の秘密の一角にいた。俗にいう発展場だが、性急さが機能的な日本のそれ、あるいはロウ・イエが『スプリング・フィーバー』でえがいた爛熟を謳歌する南京のゲイクラブともちがう。作品のカメラワークときれいに合致するように浮遊的なのだ。
『アデル、ブルーは熱い色』の舞台はパリそのものではなく、郊外だというが、それでもそういう恋愛可能性の場所がひらけているのはゲイ解放の先進国だからか(そういえばこの映画は人物の喫煙も忌避しない)。そのゲイクラブでも階上からアデルをみつめるエマの青い髪が、徴候のように仄光っている。やがてエマがしつこい中年レスビアンに難儀するアデルを救おうと彼女のいるカウンターに赴き、従姉を装う。その「従妹」という関係斜行性と合致するように、レア・セドゥ演じるエマの「青」が、染められた短髪とともに、その瞳の「青」に分岐・反映されているさまを観客はみる。たがい離れて反映しあうなにかとは、それじたいうごきの斜行をうながすのではないか。
英語ではout of blueは「とつぜんに」「だしぬけに」の意味をもつ。青空からなにかの徴候が無媒介・無前提・不可逆にあらわれた衝撃から生じた成語なのかもしれないが、out of blueがblueをふくんでいることが妙味だとおもう。青なき青は、青とのかかわりでしか想定できない。それじたいが色ではない色なのだ。そこから「狂気」の圏域がにじみだす。
くわえて「青」といえば角田清文という大阪の詩人のすばらしい詩篇「青」をいつもおもいだす。塚本邦雄の『詞華美術館』で知ったものだ。第一聯を転記しよう。《自然からの離反の強さが そのまま 青の中心へのあゆみとはならなかつた/そこには遠瀬があつたばかり/遠さの まがいものの青に斑〔はだ〕らに染められて 遠さへのおまえのむなしかつたさすらい/ ――/海溝が陸地から わずかのへだたりに息づいていたように/青の中心の深みは 自然から わずかばかりそれたところにあつたのだ/わずかに血のいろのまじるところに》。青は美学的には自然色ではなく人工色なのだ。むろんそれは色彩の斡旋が限定者には文明的となるからにほかならない。たとえばボードレールはダンディスムのために蓬髪を緑に染めた。
話をもどすと、憂さを晴らすためホモセクシャルっぽい男子のクラスメイトからゲイ領域の歓楽街にさそわれ、レズバーで眷恋の青髪の女エマと再会したアデルだったが、エマはレズ友にさそわれディスコに繰り出してしまう。ひとりのこったアデル。このときにはもう男性をふくめた観客にも、「アデルとともに」エマを追ってゆきたい心情が分与されているだろう。『アデル、ブルーは熱い色』の美点とは、級友によってレスビアン属性を刺戟されたうえで傷ついたり、男子との性愛を試行して虚無の地雷を踏むアデルにたいし自然と「弱い者」にかかわる同調や心情的ミメーシスを促され、男性もまたアデルに「なってしまう」点ではないか。肝腎の箇所に男性がきえて『アデル、ブルーは熱い色』がポルノグラフィの与件をとりくずすのではない。男性受容者が女性となって内破的にポルノグラフィが重層化することで、劣情ではなく共苦がもたげる点がうつくしいのだ。つまりシニシストにはこの作品が鑑賞できない。
シニシストの苦手とするのが音楽性だという点も自明だろう。リセの校門にいるアデルとそのクラスメイトたちのまえでアデルがレズバーに行った点がかしましく議論されている。そのアデルの眼路とおくに、青髪のエマがとらえられる。アデルは躊躇せずにエマのもとへかけつける。エマは級友たちにもレズ記号を放つ異装者と即座に捉えられ、それがのちアデルと級友の喧嘩も呼び込む。そこで「あそこを舐める」ことの気味悪さが前面化されるのだが、それは後日のはなし。
その日は、アデルとエマとの初めてふたりだけの時間が穏やかにつくられる。公園のベンチ。美術専門学校生のエマは愛のあかしのようにエマの顔をスケッチする。素描とは、肉状の顔を線によって精神化することだ。そうして線と精神と「すきなもの」がエマの手許で合致してゆく(素描行為と愛情吐露の複合は、五月に公開される奥原浩志監督の傑作『黒四角』にもある)。それから文学談義。アデルは哲学が苦手と語り、エマはサルトルの『実存主義とは何か』が入門書として手頃、アンガージュマンの意義を語る。サルトル哲学にはほぼ無知だが、サルトルの戯曲『汚れた手』は好き、と語るアデルに「存在のふくみ」が付与されている点にも注意がいるだろう。疎外者に同調できる能力があるのだ。しかしその能力は映画の終わりにあきらかなように、ほぼ「自分のために」つかわれる。ここでもふたりは相互の同性愛傾斜を間接的なことばでひそかに探りあうのみ、肉体を交わさずに別れる。溜めとその後の爆発が仕掛けられているとかんじる。それは映画性に属するものである以上に、音楽性に属するものだ。
アデルとエマの性愛交歓はどう惹起するか。ゆるやかな斜面となる草原にならんで仰臥するふたり。アデルの顔が向かって左側のエマのほうに向く。アデルは上気し、その瞳は欲情に淀み、「あえぐ」といった形容が似合う。エマは謎を保持するように中間的な重力をたたえた笑みをくずさない。ふたりの顔はアップで切り返され音楽的なリズムを刻む。低きにながれる水の重力の悪――それを体現するのはポンジュの授業を受けたアデルのほうだ。仕種の細部変化それぞれが心情の徴候となるこの彼女は、のちの裏切り(それは烈しい慚愧の原因となる)がなければ、性格的にはすごくすばらしい。ひらめく音楽の蛇、舌。それがみずからの半開のくちびるを舐める。それから彼女はエマのくちびるをうばう。むさぼる。舌がからむ。果汁のような体液が顔の髄から交換されつくす。そこにいたるまでのうごきの遅延により、はげしさにむけた助走がそのまま心情化される。
そののちジャンプカットにより展開がはじまるふたりの性愛がはげしい。絵画のようにうつしいと多く形容されているようだがそうはおもわない。画面をふたりの肉色の肌が覆いつくす窒息恐怖が体位変化のなかにうまれるのだ。トマとのセックスとはアデルのあえぎの烈しさがちがう。しかも積極的で、はじめてのレスビアンセックスとおもえぬほど、舌と手をともにつかった性儀の複合性を知悉し、能動と受動を自己身体区分にわけあうことで相互の身体をともに定位するすべにもたけている。予想にはんしてネコ/タチのくべつがない。相互供与が音楽のように展開してゆくのだ。レスビアン性交が初体験とみえたアデルが、事前に相当の学習を積み、しかもその本能が躊躇すら超出していることがわかる。アデルの頬に滝なす泪がひかるのもうつくしい。それにしてもふたりの乳房と乳輪にボリュームがあって、からだ全体にやわらかいハムのかたまりの感触もあるから、じつは性欲よりも食欲を刺戟されてしまった。
日本公開版ではふたりのセックスシーンが再編集されている。はっきりわからないが、フランス原版では性器の接写カットが挿入されるらしい。それがしかも模型をもちいたものだという。それはたぶん牡蠣のようにむき身だったのではないか。つまり「ひらいている」。『アデル、ブルーは熱い色』がほどこした俳優政策はたぶん以下のようなものだった。1)俳優には舌があってもよい。2)性器があってはいけない。むろんスタジオシステム時代には女優はイメージ継続のために庇護されていたから、舌さえもがほんとうは忌避材料だったはずだ。だからたとえば成瀬『驟雨』でベーっと舌出ししてみせる香川京子が、隠されたスキャンダルとなった。
互いの家族への紹介では、エマの家でレスビアン・カップルが公認なのにたいし、コンサバなアデルの家でエマが哲学の勉強を手伝ってくれる女ともだちと虚言される。それにしてもアデルの父親は料理自慢ながら、ペスカトーレ系のトマトソースパスタばかりだ。むろんその「赤」は、エマの「この世の外」「血の横にあって青い」髪と瞳のいろに離反する。エマはエロチックなポーズをいとわないモデル役アデルを自分の絵画創作のミューズにして、創作上の躍進をとげてゆく(画商との軋轢があったにしても)。アデルは学校の先生となり、幼児教育に天職を見出している。エマがひらくガーデン・パーティではアデルは美神とエマ自身が、癖のある、同性愛者の多い参加者に凱歌をあげるように宣言する。ところがそれがふたりの関係、運命の絶頂点となった。
アデルのつぎに選択されるエマの相手(当時は臨月の知的なアーティスト)が、作品が初めて明瞭に使用する縦構図の強度でしめされ、献身的に料理づくりに精を出したアデルに孤独の予感が生じるのだが、そこで絵画にたいする話柄が再登場する。そのまえ、クリムトとシーレについてエマとその美術学校の友だちが議論する場面があった。友だちの熱烈なシーレ擁護にたいし、シーレのねじれを容認しながら、クリムトは装飾性だけではないと熱弁するエマ。文学とはことなり美術には暗く、ピカソくらいしか知らないと最初にエマに語ってしまったアデルがその圏域にはいらされる。シーレを知らず、話柄についてゆけないアデルにたいし、「以前おしえた」とちいさく憤ったエマのすがたが、その後の伏線となるだろう。
ガーデン・パーティでしだいに孤独感に陥ったアデルを、アメリカで映画ビジネスをやっている事業家の好色っぽい男が近づく。その前後で、たしか一瞬、絵画「世界の起源」が話題になる。それはクールベが好事家のもとめにおうじ、陰毛もあらわな女性のひらかれた股間(ただし陰唇は閉じられている)をリアリスティックに描写し、ラカンが秘蔵していたことでも評判となった作品だ。それはポルノグラフィではなく、絶望の絵だったのではないか。なぜなら見事に表層しかないためだ。すると逆にポルノグラフィの条件が理解されてくる。運動の付与による機械性の露呈、ということではないか。表層に離反する「内面」の提示はじつはポルノグラフィの問題ではなく文芸の問題に向かう。ということはクールベ「世界の起源」は表層でえがかれた表現の熾烈な分水嶺なのだった。
シーレを知らないアデルは、むろん「世界の起源」も知らないから、一瞬提供された話柄はスルーされる。ところが表層だった「世界の起源」の女性器と、日本版で秘匿された、模型をつかった性器接写カットの女性器は、実際は主題論的な対照をえがいていたのではなかったか。真相は不明だ。ただし内面提示はこの後、作品内でべつに「たしかな展開」をみせる。そのとき液の横溢という問題が、性交ではない場面で、「顔」に惹起され、作品冒頭が形成していた「顔の映画」という主題への復帰が目論まれるのだった。
言外に読みとれることもふくめ手短に経緯をしるせば、こうなる――。たぶんエマはミューズとしてのアデルを「つかいつくした」(「蕩尽」というベケット的な隠れた主題)。エマは文章上手のアデルに芸術家肌の異人となるようもとめる。アデルは自分の書くのは日常雑記であって作品ではないとし、たぶん「換喩」の問題に突き当たっていない近代文学主義者にすぎない。それで家事、さらには天職として見出した幼児相手の学校の先生に活路を見出すだけで、それがエマには飽き足らない。教養の差異は、ロウ・イエの『パリ、ただよう花』のカップルのようにいつでもサスペンスフルだ。その暗雲のもとわるいタイミングで、身体的な寂寥をかこったアデルが、自分に秋波をおくっていた同僚男性と、浮気をし、それがエマに露見する。虚言を弄したのがまずかった。最初「寝ていない」と強弁するが、それが数回寝たという真実吐露に変わる。男にフェラチオしたあとで自分にキスをしようとするのかと激昂するエマ。
責め立て、関係修復をみとめないエマの「容赦のなさ」「剣幕」演技も迫力があるが、泣いて弁明し、懇願するアデルの演技が、圧巻だった。顔が「物理的に」くずれ、長くなったような錯覚をよぶ。その肉のフランシス・ベーコン的なくずれのなかから、泪・鼻汁と「液」があふれてくる。露呈が徹底的に「液体」として表象されるのだ。むろん「愛の分量」を身体が分泌する液体の分量で計測してはならないのは常識だ。けれどもこの場面はその常識と抗い、唯物性が身体とかかわるさまを摘出している。
それで気づく。ふたりが接吻から性交で展開していた音楽性までもがはげしく流産していると。真の悲劇とは、音楽性の抹殺にかかわるのではないだろうか。劣情をふくめ表情の裏に伏在していた「感情」(それが音楽性の保証だった)が、この場面では「肉を離れて」むきだしになっている。性器の模型どころではない。アデル・エグザルコプロスは真の裸体だった。シニシストはこの衝迫の意義を見落とすだろう。顔の刻む異形にこそ、人間的な同感の関与する余地がある。
ふたりの別れを決定づけたこの場面、カメラはショットを切り返しで徹底的に二分する。アデルはエマとの共同生活から放逐された。やがてはショットの質が変化する。思い出の公園のベンチを訪ねひとり寝てしまうアデルにはそれ以前よりもロングショットの孤独があたえられる。幼児たちを指導するアデルには幼児たちとの身長差が身体への罰としてあたえられる。アデルの「心ここにない」ながら仕事を取り繕う表情も見事だ。夏季休暇。相変わらず海岸で子供たちの世話をする水着姿のアデルは、その布からあふれる、かたちよく豊満な肉づきがやはり身体の罰となっている。ひとりになるには海に入るしかない。しかし海上に浮くアデルの顔では、やはり宿命のように、くちびるが半開になっている。
数年後のエマとの再会は、発展場とは無縁の一般のカフェでなされた。とっておきの白ワインを仕込んでいたアデルにたいし、エマは珈琲を所望。そこでまず期待をはぐらかされたアデルは、ふたりべつべつの時期の空白をありきたりな確認で埋めるうち、感極まって、エマのゆびをとり、みずから半開の口にくわえ、舐めはじめる。ほしいの。あなたしかいないの。嗚咽と性欲とで顔は泪とともにぼろぼろだ。平衡感覚をうしなったエマもぼろぼろになる。キスとフェチ舐めと発語が、口の亀裂のなかで分離している人種。そこでは顔も、亀裂の潜勢態でしかない。そのことの負の符牒。ところがその符牒はよくかんがえれば、ゲイのみならずヘテロにすら共有されているはずなのだ。エマとの最初のキスで幸福を付与されたアデルの口は、その後、知的な発語において、(えがかれなかった男性同僚へのフェラチオにおいて)、このカフェでのエマのゆびへのフェチ舐めにおいて、流産しつづける。「顔」が唯物的に長くなる数々。その痛ましさに、人間的に同調するほかない。
もう髪にアデルの愛の徴候である「青」をつけてさえいなかったエマが去って、そのカフェが閑散として一般客がもう一組ほどいたのみとわかる。それから波動をくりかえすように、画面がふたたび多数性を組織する。アデルの職場での子どもたちの遊戯発表会。さらには画家として成功したエマの画廊個展。そこに招待されたアデルは居心地のわるさにつらぬかれる。そこからの辞去のながれが作品の終景となる。性愛のもんだいが階級のもんだいに変化したのか、それともそのふたつがもともとおなじなのかは、観客自身が判断しなければならないだろう。社会学をつかってではないだろう。自分自身(の生)をつかって判断するのだ。
スピルバーグ審査委員長の2013年カンヌ映画祭で、パルムドールが前代未聞の監督ケシシュと、エマ役レア・セドゥと、アデル役アデル・エグザルコプロス三人に同時にあたえられたお墨付きの傑作。スピルバーグは「無理のないストーリーテリング」(実際、性愛シーンもあって、三時間の長丁場がまったく飽きない)を讃えたが、褒めるべきは別にある。「肉の可変性」の徴候が身体では口にひらけていること――その着眼の徹底によって反射的に観客の身体を抒情にみちびく啓蒙性がこの傑作の正体だったのではないか。むろんレスビアンと人間とには弁別がないという、この映画の付帯的な主題も見事に展開されていた。
4月12日、ディノスシネマズ札幌にて院生たちと鑑賞
馬酔木
【馬酔木】
こころをやむと、花から視線をかんじるだろうが、ちいさな白壺が房となってうつむく花あしびにならうれいとさいわいをおぼえるだろう。同一性によってさだまってゆく、くうきの澱のひくさがあって、そのひくさがさらに下部をしめすことで、むすうのしずけさが地面へひろがる。むかいつつ下をたたえる花あしびはおのれの二層の境に花ひらくのだ。かたちの細枝も花序も、草をはむ馬くびのちいさなまねだから、みるだけで馬がおのれを酔わすのかもしれない。まよなかの馬がくびで障子をひらかぬよう生垣にあしびを咲かす家。しろやむらさきで敷地はうつくしいほどあいまいだが、たしかに下部からくみたてられ奥が柱だつ。そのあしびの北限が本州なのがさみしく、画をたのしむと南の形態に酔わされる。酔わされるにあるよわさ。とりわけ花あしびの女人臭は、下部のとけあう盆地をささえるだろう。北人の眼だけが鹿となってのこされる。
ストロボスコープ
【ストロボスコープ】
ストロボスコープを焚かれるなか、よこたわってねむるしずかなからだはどうなるか。はげしいひかりの間歇にみちびかれ、まぶたのうらがそんざいの架空をあかす。この架空がゆめみされると、あたまからなづきのにじみでるような胚化もおこる。からだのかたほうが絮でも、もうかたほうがかわらず質量でできて、そのさい質量が絮を放つのなら、絮こそがかつての質量をおきざりにする。すすむものにたくわえられてゆく遅れも、うんどうの芯にではなく、くうかんの内外にひろがって、なかみの同一だけがのぞまれだす。たとえば会見を録画見しながら気絶しているそのひるに。
春感
【春感】
春情ほどつよくない春感といったものをかんがえる。ひとがうるんだりにじんだりするあいだを、若駒がやわらかくすりぬけてゆくようなおぼえだ。くべつがなにごとにもなくなってゆくさみどりをことばにもうばい、助詞をただの音素へおとしめて、かなたとこなたにはfor saleをたちあげる。瞑目と開眼、それらをともにうらがえすため、とうめいが林立してくる位置こそを越えて売りはらうのだ。うらがなしいの「うら」は心としるすが、からだの裏なのかこころの浦なのか。ひとの胸がみえなくなってくる。ひきつづきろうかんや柱もゆけ、すきまのかるい川面を。
小保方さん会見
【小保方さん会見】
夕方まで小保方晴子さんの記者会見にずっと釘づけになっていた。おんなの涙によわい、といわれるかもしれないが、真摯で緊張感のある会見だった。緊張感というのは、「ネイチャー」誌掲載論文の捏造・改竄を結論づけた理研にたいし、彼女が研究基盤としてこれからもそこへの所属を望んでいるがゆえの慎重さがあったためだ。つまり組織論のきしみのなかで、すべての発言がおこなわれていた。明言が避けられたいくつかの解答にはすべてそうした重圧が裏打ちされていた。ともあれ弁護士が会見に伴ったのは得策で、それで「怒らないひと」小保方さんが貫徹された。謝罪と悲嘆、それと「ゆるされるなら希望を」としか彼女がいわなかった点は注意されていいだろう。
STAP細胞の作成には200回以上成功している、それをインディペンデントの研究者も代理的に実現している、という彼女の事実吐露は、胸を打った。STAP現象の実現には「ちょっとしたコツ」「レシピ」がなるほどあるが、「ネイチャー」誌論文は現象報告であって、詳細な作成手順の公開は次段階に予定していたという。つまり理研が拙速で論文作成を彼女に命じ、彼女の整理能力がパンクしてしまいながら、あの晴れ晴れしい発表がおこなわれた裏事情がすけてみえてくる。性急さは罪だ、と箴言につづったカフカをおもう。
理研が抑圧組織であるのはまちがいない。もんだいは、もし実際にSTAP現象にたどりついたインディペンデントの研究者が彼女の証言どおりほかにいるとして、そのひとたちの証言能力までもが何かの圧力で現状、封殺されてしまっている点だろう。自己防衛から、要注意案件には再加入しないなどという個人的な判断がなされたのだろうか。年若くして世界的な窮地に陥った女性研究者にたいし、「侠気」が徹底的に欠落しているとかんじる。
そういう証言可能者がもし出なかったとしたら、つぎのような結論しかだせない。1)「証言はもともと不能で、証言の場所すらもともと不在である」。2)「小保方さんは妄想系である」。この2にかんして会見視聴者は読解能力を試されることになった。たとえば隠されている真実があるとして、それをひとの(身体)表情がかならずつたえるかどうか。これは人間観のもんだいであり、映画鑑賞の意義ともつうじる自己確認だろう。証言者が出てきて小保方さんを擁護すればむろんそれがひとつの「解決」にあたるが、証言者が今後おおやけになるか否かよりも、「証言の場」が論理的に存在するかどうかのほうが現在的な興味をかたちづくる。
ふりかえってみれば、小保方さんは特異性と「フロイライン」性の融合だった。マスコミもいちどは彼女の割烹着姿やトーベ・ヤンソン好きを「物語」にしてみせた(ヤンソンそのものがひとつの特異性だった)。ただし世界中のSTAP再現がともなわない時点で、論文の「マナー」のまずさがあきらかになると、彼女の「特異性+フロイライン」の「場所」がミソジニー的に蹂躙されてゆくことになった。現在的な魔女狩りのようにみえるが、天使性が「場所」をしめるような特異空間を、既存性維持をもとめる心性が容認しなかったようにもみえる。魔女なんてもういないのだ。その「場所」の特質に、「そこでは証言が不可能になる」という付帯条件がさらにくわわる。だからことは、掌を返すようにマスコミが陥っていったシニシズムだけに終始するのではない。ある性質(天使性)をおびた場所の承認のほうが重要なのだ。
小保方さんには「神の手」をもつ者を主演にするアニメ的なストーリーがたしかに適用できる。しかしそのアニメは現実的な暗転をしいられるのがただしい。かつて東北地方で旧石器をつぎつぎに「発掘」していった「ゴッドハンド」考古学者も、発掘捏造が発覚してからは精神を変調させていった。ただし自分の論文の「マナー」には謝罪をくりかえしたが、STAP細胞という「マター」にかんしては一回も謝罪をしていない小保方さんには注意をすべきだろう(その点で例の「現代のベートーベン」はゴーストライター使用と自分の虚言を最初から謝罪していた)。小保方さんは「嘘つき」なのか。どうもそうとはおもえない。
それでのこるのは「妄想系か否か」だけということになる。しかしたとえそうだとしても、それはただの病気なのだから、糾弾可能性とはならない。今後マスコミはそういった責任の緩衝地帯を注意ぶかく対象にしてゆくことになる。どうするのだろう。
小保方さんは会見場に蝟集する記者のなかからかならず質問者を確認していた。それで質問を聴く場面で、視線が不安定に泳ぐことにもなった。あれはなにを意味しているのだろうか。「相手を視認できなければ応えられない」といういわば原始状態の貫徹。それともうひとつ気になったことがある。彼女は質問を聴いているあいだに、くちびるを無言のままちいさくうごかすことがあった。自分の解答をシミュレートしていたのだろうか。ただしそれは金魚の酸欠状態のようにもみえた。
ふっとおぼえた予感は、今後の彼女を救うのが海外かもしれないということ。弱酸性溶液を媒介させるだけで細胞初期化が起こるというのは、魔女といわれた老女が薬草を村はずれから調達してきた叡智に似ている。そういう女性的な知性を「狩ってしまった」ことに西欧はみずから戦慄した。この戦慄がいまだに西欧精神の最深部のひとつを規定している。共同研究者であるハーバード大学のバカンティ教授の存在がその意味で気になる。理研もそうだろう。こうした布置もまた、全体で選択肢の緩衝帯をつくりなしている。
「女」は、通常、「男」と同様に凡庸だ。ところが性差を超えることで、「特異性の領域に天使が存在しだす」。マスコミも一般人も、小保方さんに「女」を見て、特異性をみなくなってしまったようだ。ぼくはあの割烹着への熱狂は、深層では、女性性ではなく特異性への覚醒だったとおもっている。言い方はむずかしいが、小保方さんをつうじて「日本がうしなってしまったもの(神風のようなもの)」がいま賭けられているようだ。その賭けにシニシズムを介在させてはならない。
ほねまくら
【ほねまくら】
おうごとにやせていって、うでまくらがほねまくらになるのもいいことだ。たとえば林でねるにはいまもこごえるのだから、その構造を肌のささえにこそもとめなければならない。性愛はたがいに焼かれたあとをかんがえるのか。いや、まなざしも生物でないめぐりをとりいれるのだから、まずは光合成に似ている。けれど、それだけですまないものが骨にある。植物のようには溶けないものを羞恥にしてかためているのだ。涙骨ちかく(その位置そのものが泪みたいだ)、耳が心をあらわしたり、心が耳に近づくのが恥なのだから、恥のうごきもいわば換喩なのだが、ぜんしんの骨はそんな二項すらこえ、かすみひろがる。うでまくらはそのひとくさりをしずかに干し草のにおいや笹鳴りにするかざりだ。(もう死んでいるのか)ほねまくらがかたちの入江をなす環にしずみながら、ひともわたしもけだものも、かわいた抽象にみちたりてながくねむる。
水歌
【水歌】
たがいの語関係をなだめ、つながりをたたえ、しかもあいだのささえをふくめ有音にするのが、こころをぬらす歌だろう。ためにこころからは境がきえ、おもいかえすことがだれのものでもなくなる。ひとつひとつをうつわというなら、ひともそれぞれのうつわにほかなく、容れる容れられるは水にあってこそひとしい。のどと声に、そうしてこころではなく、ところをかんじるのだ。この「ところひとしさ」が分割を旨とする句になく、うたでは交換にまかれるとおなじく、計数までもが等価性にふるえる。しかも七七の対称相殺をもってみじかいながれがきられ、まぶたのうらをくらくさえしてしまう。ほんしつは無差異、これらをひとののどに知るうれいが水歌で、ほとをめぐるまぶたのおぼえに犯人のいないさまが、はんにんを問わず語りする泥句ともしずかにことなる。
椅子
【椅子】
めつむればきえる
ひとのありかたのように
あたりには境がみちて
だれもすわらない椅子が
しずかにならぶ
縦
横
それぞれに
十四五脚ずつほど
ふるい木製がひろがって
なだらかな丘にみえる
甲は乙に 乙は丙にと
ならびはそれぞれ
ならびをつくすのだから
ほんとうはへりがない
縦
横
十四五の
あいまいのなかに
ならびの椅子は
むげんにあふれる
めつむればきえる
位置からこぼれ
田水
【田水】
田に水をいれると
いれるの前後ができる
まえとうしろのあいだが
ひとみとなって
みつづける
田に水をいれると
まなざしをほそめるよう
さなえもうえられ
ほそさすべてで
うしろになってゆく
まえ うしろのさかい
おんなめくほそさは
やがて穂をゆらし
むすうをあらわすだろうが
うしろであるときには
みがわりの眼で
ただまえの田をみる
じぶんに水をいれ
花見
【花見】
すかしみると、奥行まで花が茫洋とひろがり、それがさきゆきとなるようなながめ。この世ははじめからながめにすぎないとあらためてあきらめてみせるのが花見のこころで、こじたをたずねゆくからだすらやわらかな樹の息になってゆく。あたまを先祖に似せすこしとがらせて花見びとみな、さくらの瘴気をあびて、壮大な往来をつくりあげてゆく。おんなもおとこもかおはちぶさになり、しろく咲くこまかさとひかりあう。そこに国とよばれるべきものがけしきのまぶたでめくれているのだからさらにめでたく、みおろすわたりや鬼の眼をおもえば、咲きあわすところと人波までもがゆるやかに北へ移っている。ぼうだいな花の蜜が川なして民族とともに地上をうごいているのだ。焦げて死ぬ者数名。あすはさいごの花見、とものみなかたり、いつもそれが最期とひびくのが、枝によるさくらの国のささえだろう。痙攣する北にいて、からだに花をまぜるよがりの刻をさきぬれて待つ。
三幅2
【三幅2】
あさどりがかたちになりてくちばしのつめのごときもとほく微光す
(ほんとうのあらわれはいつも捨て鐘ののちの暁鐘をおもわせる、二回目こそがふるえるのだ、)
あさごとの逢瀬かたみに髪あらひあたらしくして瀬をわかれゆく
からだの眼
【からだの眼】
からだの眼があって、じっさいの眼よりもさきに視ているのは、気体的なもの、面であってもそこにわずかにきざしているずれ、さらには聴覚がそれじたいのなかにくわだてている視の芽といったものだろう。想起するということはすでにみとめていることだが、そのばあいにからだの内側が外からとりこんだもののさらなる内側を知り、そこからからだの眼がかたちづくられるといってもいい。内外のあるものでは内外の反転こそが視られ、それがからだそのものに作用する。さくらがあってひそかに放電しているさい、どこまでがさくらで、どこまでがわたしなのだろうか。女性が横に添い息をしているみぎり、どこまでがおんなで、どこまでがむかしなのだろうか。からだの眼はそれら問をふるいわけ、ねじれにみちた空間につつませ瞑目させるが、なにごとをも視ることなしに視ているのは、もはやからだですらなく問の眼でもある。在ることはゆれるが、ゆれることが在るままなのは、からだの眼がめぐりをさだめずに彼我や因果をともにうけながすためだ。
草餅
【草餅】
類推は同一性にむけての架橋ではない。びみょうだが似ているたがいに橋をわたすことで事物を脈絡させるのだから、その本来の機能も、類似をわかって二物間に緩和や解決を灯すのではなく、あくまでも連絡付与にともなう想像域の空間化のほうにその眼目がある。むろんこの空間化はよくとらえてみるとその内実が分割のはずだ。おもいがけない遠点ふたつをまぜてキメラをつくりだしながら、じつは意味の怪物性を想像の褶曲へと給付している。ゆえに判決文の並置だけあって主文のささえのないまでに類推の速度をたかめてはならない。判決など二角形のようなもので、像を脱容積化してしまい、執着もってなでさするべき面を蒸発させてしまう。それでは単語にくるうだけのことで、助詞にみだれつくすことにもならない。やがて老化すれば類推は植物の総体をたずねゆくような段階化へかわる。あたまのなかに草餅のほとけができて、それはもうキメラにはない蓬香をはなつ。
三幅
【三幅】
龍媒もて咲かす常夜のぎんのはな、
ふた乳の谷あひにこまごまの実南天つぶれ、あかむらさきをしたゝらすぶらうすのひと。を筒のやうに小脇がゝへして地面の眼をまたぐと、わが女子変成のあたり、かすかにも春が生えてゐる。
わくら葉の散りはてしのち朝あさへほそきがらすの葉をおとす柳〔りう〕
〔※「わくら葉」については「ガニメデ」60号掲載、大津仁昭さんの歌を改作した〕
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拙稿「喩ではない詩の原理」の掲載された「ガニメデ」60号が、きのう10部とどいた。いわば拙著『換喩詩学』の次段階にある詩論。ただし論文の対象にしたひとにお送りすると、ほとんど手許にはのこらない…