傾度
【傾度】
本にむけひざしがとどまると
そこに坂道が透けてみえる
いれた付箋がなだらかに
かさなりゆく傾度をなして
やがて本のたくわえたひとが
うっすら紙背をはみだしてくる
ひとのうごきが磨きだすのは
ありそうな町「西日」
角度と目とをふくむ町名だ
おもいちらしてもふかしぎで
あの坂はどこだったかと
いやましに息があるいてゆく
いうなれば平坦の不在が
本ともいえる地をもりあがり
こもれびゆれる傾度にみえ
そのいきおいのまま往来もある
そこにわたしは息をころして
ひびきよぎる同類をながめ
なつかしさを死へとかたむける
不良
【不良】
まなこがけしきをぬすむおぼえで
しめるからだにも風をいれ
さらなるうえはけむりになりたい
果たしおえつらかったのは
みしらぬ館のひかりにはいり
財をかすめようとしながら
じぶんがけむりでしかなかったこと
すこしだけ隅でゆれてみた
どろぼうとけむりのかんけいさ
ゆれるのをきみはみただろう
こちらがけむりならそちらはくぼみ
そのようにそこにいただろう
あるものすらあるといえないのが
けむるまなざしや流刑のすべて
そのように黄金ときみは
しずかにくぼんでいただろう
あにまるながれるみしらぬ館で
余白派
【余白派】
いきものが交むすがたは
まいまいでもにんげんでも
二が一に減るぜつぼうをふくみ
みなおなじ空のしたにある
ちがうどうぶつへの眷恋でさえ
「おさえてもおさえても
心臓がはばたく百舌になって
とびだしてゆく」騎乗位
ゆれて、きもちわるい
ふだんのわたしらはならぶだけで
かんけいに余白をつくりあげる
余白派とよばれるこの優位は
ただならぶことのみにあり
空にはいたらないまなざしを
けずりあって隣りあわせている
さくさくと乱交によらず
めしいのまま二頭も
そのうち数頭となれる
モデル
【モデル】
くびれで体幹が
やさしくえぐられて
きづけばみだらな
まがりがあらわれている
とどまった水面の
そのしたを川がながれ
おごりは髪でかくす胸の
しろい双丘にわかれる
いつかこころにも
左右〔そう〕が裂けゆく
ささえる下草のかげり
いくすじかのおんなだから
すがたはむすばれない
ひとみの映したくうきが
ゆるやかに肌をうごき
けしきとのちぎりが
あふれかえるそのことで
ひるがえる布のように
じかんにあらわれている
楼閣
【楼閣】
みえがたく最上層の
かすんでいる壮麗な築を
わたしらの代表とする
その屋上からひかりつつ
はなたれてゆくために
楼をおもいさだめる画筆は
みずと色粉をまぜながら
そのあやういにじみで
まなこみなに建ちをみちびく
もえるものは水焔をなし
背と前もおんがくのように
ねじれかわってゆく
とすれば籠のかたちに
壮麗な閣のみえることもあり
それが巨歩をうごかして
わたしらがはこばれてゆく
きれいなのは自ではなく
関係といわんばかりに
事故
【事故】
そこへ自分が置けるよう
ふうけいの奥は鏡をふくむが
いつしか砕けちってしまう
ゆく自転車がながされるほどの
つよい風の十字路で
市電があおられ転倒する
死者のなかにわたしもいる
ほんとうは銀色へ接触したのだ
いろのもんだいであることが
めされるわらいをかえる
せつなの死が列聖となって
その秤にかけられた者は
火薬ペーストを着ていたと
もろはだにあかしされる
きえるまでレースをおもわす模様で
ただれきらめいてみえるのは
ふうけいの裏箔がくだける窓を
しずかに舞いわらったためだ
リラ冷え
【リラ冷え】
多年
まなこへ軟膏をいれ
もののなす集約が
いつもくろく欠けた
多年といえるほぼ十年
あのながい空をスイッチで
点けたり消したりした
手のばしょがたかい
あめの世もおそろしい
おなじあわい過密花でも
あじさいとちがい
らいらっくはかわき
みると花尖がきみわるい
ゆびをなま焦げにしてふれた
それがスイッチをおしたのだ
またも集約がくずれて
たちまち空から打たれる
廃嫡
【廃嫡】
廃嫡になるとレールが除かれ
ようなき途が山野をめぐりだす
欠けているのに通路とみえて
いまだにこちらとあちらが
あおあおとむすばれているのは
列車のまぼろしをとおすため
やがては道のぜんたいが
ほぐした血管をおもわしめ
むげんにつながる車輛でとまると
斜面に自生していたカタクリの
わびしい淡紫もみられることなく
なびきよせる音となるだろう
ゆけない一線をゆくことが
風光のなかにのみ担保されて
海岸のみえだすカーヴまで
おもいのえがく推移がうつろ
かつて駅舎にあった蛇口も
装備ではなく天からさしだされ
みずをふくもうとかがむ背が
欠けていても通路とみえる
あまのがわの先、江差は
塩のとおさでしろくひかる
神話
【神話】
だって巨人には
巨世ともいうべき
ときがめぐる
あ
みずうみを干し
やまを擲げた
おもいでみたいで
バカだなあ
バルテュス2
【バルテュス2】
たてのすじ、というべきむすめだ
ひかりのなかでほそまっている
りんかくがぎやまんなのか
ネコの瞳孔のように時間化して
ほそまりがうごきつづける
なにものも盛らないその縦は
ながさとよぶにもこころもとなく
花ぬなわに体重をのせられぬ
ろくがつのほとりの加減だ
みえているのに、あんのうん
世界がむすめの開脚を秤に
なんのほそまりを釣りあわすのか
それが数の花ぶさだとすれば
あることはすでにしてそれらだ
ひかりのそとへ脱けながらも
ひかりを過剰してゆくその再帰を
性愛に組み敷けるものではない
いきているそれの水死は浮く
すじ裂けるウオの匂いのまわりを
ひらたくめつむる舟としながら
バルテュス
【バルテュス】
城にすむとながめがたかさをえて
まどがさらにひかりの通り道となる
ふもとへのびる丘をみおろせば
とおくしずむものが音をひびかせる
その韻のうちにもからだみながうかぶ
もっとたかさにしようと椅子へ坐らせ
股もあらわに片膝をまげてもらうと
おがくずのにおいのする身の材木性が
かたさの柔和をひろげることがある
ひみつはからだの芯などにない
おもさの変わってゆく境目に
そのものとちがうひみつだけ走る
推移とは身から出てゆく関節だ
これらをこの静止にこめねば
おのが落花をちり敷くポーズの
二頭立てでうつろう上下の可逆や
ろう引きされた顔のあかるさ
なみだぶくろがうすくきわだつ
ゆくてを落下傘がひきしめる要領で
窒息にスカートがゆらめいている
サブライム、ライム
せかいの陰裂は瀑布に属している
それ
【それ】
ひとのちかくで死ぬために
くらくおもたいばしょをぬけ
おもむろにここへたどりついて
しかもけはいすらみせてくれない
それもひとだろうか虫だろうか
もともと色のないきらめきの水に
ひとつであるはずのそれが
みえないままみちあふれている
あかるいまぶたをあげると
きらめいてみえるそれのまわり
だからそれも日のはじめの
まぶたのしたにひそんでいたと
ふとおもいこんでしまう
たちどまってもそれの名を
かたることなどできない
なまえそのものが声の穴を
こころなくくぐりぬけてしまい
かわりにやんでみせるのだ
ひかりの底をしめすつもりか
うすく後ろ姿もないそれの
たまに正面だけがくらむ
ワルツ
【ワルツ】
いわば錐がひつようで
まわすことが穿つことにもなる
効果のずれをゆめみるのだと
偏西風を知りつくした二者がいった
この星にそくした神学ではないか
「ふたつは即座にわけられるが
三つをふたつに分離するのは悲劇的で
ために最小単位でわだかまる三つは
わたしたちじしんをまもるべく
べつのかずには回収されない」
風がよりおおきな次元の
自転空へとふくれあがって
みるごと野にこまかな穴があき
まばたきごと それも閉じられる
自転をなす基軸がどこかにあり
かんじられないものの多さを
かたわらのふたりといれている
からだをつらぬく錐のめぐりへ
陰であるみどり
【陰であるみどり】
万緑と緑陰とをかけあわせた
万緑陰を果てにかんじると
もともとみどりにもかげがあって
そこから反性が出入りし
その出入りそのものが色だと
からだがおぼえだすようになる
しきさいが穴だとすれば
へだたりの過積載されている
うすいながれこそ世界だ
かくれるものはあらわれている
たてよこの みおのみだれ
ゆれるやなぎの緑陰のうちに
ひとり三六〇度パンをして
ながれる光景のまなかに
じぶんの穴をつくりだすと
あらわれぬたかさが尊い
粥
【粥】
精虫がこわれ
およげなくなり
こぼれてゆくのは
そんざいの粥だ
あけがたにリラ咲き
粥をぬりつける
はこびをあやうくして
すがたではうらがわこそ
しられてゆくしるし
そこにななほしがいる
そのあかるい虫へ
ぼけた虫を貼ろうと
粥をぬりつける
あさごとの身に
紙がみを煮て
樋
【樋】
イヌでありうるうつわが
みればイヌのすがたをして
雨ふる庭にたぷたぷしている
どこまでがイヌで
どこからが雨か
わからなくなるのは
イヌでありうるうつわに
雨がどれだけみちているか
こちらの眼が測るためだ
たぷたぷとゆきながらする
うなりに雨音を聴いた
のどが樋となったんだな
そこからごぼごぼと
あふれだすみずがあり
眼があおくにじむ
ある日がきえそうだ
ぬれそぼる芝生へ腹這いになり
短寸の筧がしずかにうまれる
中二階
【中二階】
階はんぶんの段でたどりつく
部屋がひがしに出っぱって
そのがらすだらけの中二階が
きみの冬のからだだった
あけがたの魔には枯れ枝で
こすられてあかい眼をさまし
柱のあることにしみじみとする
へんに浮いてへんに役立たず
階下でも階上でもない半重力に
たとえば時計がくるいきり
ねむりだって中二階に吊られる
つれこむのは画帖だけだが
鵞鳥であっても一向かまわず
ひざのうえでみな風となる
まるぼうずに葱のにおい
きみの中二階を上下させてみな
ひとのからだにまたがって
整数ではかぞえられぬ中間に
きみの以下をつなげてみるんだ
延べればたたみ四まい半が
どれだけ縦のつなになるのか
きみじしんがきみの身頃
おどり場をぬう表皮の幅だ
奥原浩志・黒四角
【奥原浩志監督・脚本・編集『黒四角』】
現世においてなぜか惹かれあう男女が、じつは過去世において恋を成就できなかった仲だった――そのように、まぎれもなく苦手な「ファンタジー」にストーリーでは範疇づけされる映画なのに、奥原浩志監督の『黒四角』に魅せられてしまうのはなぜだろう。じっさいこの手のストーリーは90年代の香港映画や韓国映画、それにゼロ年代日本の東宝作品で食傷するほど観てきた。それらはカメラワークと映像の質に特徴がある。ファンタジーというジャンル内にあることを自己保証すべく、画質がやわらかいソフトフォーカスで統一され、しかも抒情性の分与を、ゆれによって情動化する手持ちカメラで多くうけもってきたのだった。
ところが奥原『黒四角』はフィックス中心で、画面にみなぎる現在/過去の中国の、ひきしまった冬の空気をなんらの粉飾もなしにつたえ、そのなかで俳優たちの顔やすがたを、そのまま物質性の域におさめている。情感による映画的な視覚の拡張ではなく、明視性の禁欲的な定着が本作の骨子なのだ。だがそれではファンタジーとは離反するリアリズムを身におびることになる。それを救っているのがいわば「明視性そのものが脱-明視性によって形成させている」というメタ次元の哲学だろう。その点にこそ惹かれたのだった。
作品題名にもあり、主人公の仮称ともなる「黒四角」、その形而上学的な作用がおおきい。経緯を説明する。北京の芸術家村で売れない絵を描いているチャオピンは、日本人の妻ハナに同道し、あたらしくできた画廊へ、新進画家の個展を見にゆく。そこでただ画布全体を黒く塗りつぶしただけのようにみえる一枚の絵画が売却済で高値がついているのに衝撃をうける。それは前衛にありがちな反芸術絵画ともとれる。チャオピンは自分の自画像を黒く塗りつぶしてみて、「(自己と表象の)抹消」の意味を探りもする。
翌朝、起きぬけの窓から空をみやり、異変に気づく。なにもない中空のたかみを黒い四角がながれるように滑空しているのだ。黒四角の侵入により、異変をかたどっている空は、木立越しにみえたり、胡同の屋根のうえにあったりして、それらは移動ショットでとらえられる。カメラ自体の移動の運動よりも、黒四角の移動のほうがわずかに速い。あるいはそれは縦構図の奥行をゆるやかにうごいてもいる。それらのショットはサンガツの予感的な音楽に下支えされて、むしろ静謐のなかの変調と意識されるのだ。
明視性が脱-明視性を形成している鈍い衝撃がうまれる。なぜなら、その黒四角の実際の大きさを測りだす相対的な尺度が画面のすべてから奪われているために、モノ自体の指標が「黒四角」には欠落しているとおもわれるからだ。つまり空にはなにもない。またCGによって黒く刳り貫かれたその移動する「四角」も、その細部の質感をもたないために、細部がどれくらいの距離を介在してちいさくみえているか、そうした位置にかかわる手がかりをあたえないまま、空をながれている。「視えているのに視えていないこと」がそうして画面を予感化する。
黒四角はやがて草原に縦位置で垂直に立っているすがたで発見される。追ってきたチャオピンの背丈の倍ほどの高さだった。不審がるチャオピンは周囲から黒四角の探索をするが(それには厚みがない)、美術的=画面構成的にはディペイズマンの連続ととらえられる展開となる。そのなかから記憶と、衣服という「個別性」にかかわる属性を剥奪された、つまりははだかで「むきだし」の男が、非現実に現れてくる。その「だれでもない男」がやがて「黒四角」とチャオピンから偶発的に命名され、それがチャオピンの妹リーホワと淡い恋に落ちる。作品はふたりに、過去世からの紐帯がむすばれていると暗示をくりかえす。
途中、リーホワが執筆している小説の着想が話題となる。こんなはなしだ――禁じられているのに異部族の人間に恋をした者はやがてそのからだが透明化して実在性をうしなうことになる。それでも時空がゆらめいて、その者のすがたがわずかな間だけ、風景の片隅にみえることがある。彼らとは現世のひとは接触したり、ことばを交わしたりができない。過去に異部族の者に恋着した不幸な者とただ認識するだけだ。
中泉英雄(彼はデビュー作『PAIN』の時点からするとずいぶん精悍な顔つきになり、しかも中国映画への出演を経験して北京語がすごく流暢だ)によってえんじられる黒四角は当初、チャオピンから「宇宙人」とわらわれるほどの異部族性を刻印されている。リーホワは彼と恋に落ちてしまうことの危なさを本能的に察知する。それで「わたしたち、もう会ってはいけない」とじかに告げるが、そう告げることがじつは恋情の定着を意味する。薄明の時間、異変の気配に、窓際に立ち階下の道路を眺めた彼女は「黒四角」が佇んでいるのを知り、動顛する。そのとき彼女は自分の変異をたしかめずにはいられず、全身を部屋内の姿見に写す。自身の小説の構想どおり、リーホワのからだの半透明化がはじまっていた。
このこともまた「ファンタジー」のなかでの画像的な審級上昇の定番だが、問題はリーホワが鏡像を再帰的にみやる画面に複雑な審級分化がなされている点だろう。ピントは彼女の鏡像にあわされ、鏡面の周囲よりも濃度がうすくなっている。それはいい。ところが鏡像を視る彼女の後姿まで画面手前に入れ込まれ、それも半透明なのだが、ピントが外れていることでさらにその後姿が鏡像よりも朦朧感をたかめているのだった。図式はこうなる――「朦朧透明な自己像を見やる自分自身は、さらに朦朧透明だ」。ここで脱-明視性が諸審級に分与されつつ、その奥行が自分側に遡行するにつれ暗視性をたかめるという認識がうまれる。通常、こうした「哲学」は、共感を担保するために抒情性によって観客の身体を定位する「ファンタジー」ではありえないことだ。
これだけの指摘をすれば、『黒四角』のファンタジーにおける異質性の強調には充分だろう。ただし明視性と脱-明視性のからまった世界に、どのような視線を投げかければいいか、その処方箋がしめされていることは確認しておくべきだろう。「人類の進化」を「実験」するために無言パフォーマンスをつらぬいていた芸術家村の詩人=芸人が、禁をやぶり演技的な朗誦パフォーマンスをおこなうのを観たあと、チャオピン、ハナとはなれ、リーホワと黒四角だけが喫茶店で語りあっている。ハナがいう。むかしは珈琲が呑めなかった。こんな苦いものをこのむ西洋人は中国人とはおよそ味覚の土台がちがうのだとおもっていたが、ある日を境にこのむようになった――。
珈琲は味覚のみの反応によって口腔を通過するのではない。それは覚醒化と沈着化のまざりあった緩衝地帯、あらわれとしては液体である「黒い穴」を、味覚や嗅覚とともに体内に摂取することだから、珈琲の味もそのものから離れ、みずからの精神とこそわたりあうといえるのではないか。このことは作品の終盤、日中戦争下の僻村に舞台の時空が跳んで、チャオピンの前身と、黒四角の前身(彼は中国人の母をもった日本兵で、医師を目指していた前歴がある)が煙草を分与するときにも看取される。
体験の「精神化」は「似顔絵」描きに結実する。現在の北京でも、戦時下の僻村でも、ほんとうは画家志望だった黒四角は、リーホワの顔を描くことで愛のための営為を代替するのだった。現実の顔にたいし素描にあらわれるのは、対象の縮減、物量的な現実性を線に翻訳還元すること、そうしてしいられる矮小化を精神化によって逆転することなどだろう。慎ましい奥原演出は実際に黒四角が描いた顔の絵をごくわずかしかみせない。「良い絵だが、惜しむらくはデッサンがなっていない」と、画家である現在のチャオピンにいわせ、その出来を間接的につたえるだけだ。精神としてのみ線が脈打っているものは、表象不能だというかんがえがそこにあるのではないか(作品がファンタジーであれば俗化された素描を観客のまえに大々的に開陳するだろう)。明視性と脱-明視性が混在している領域は、視線ではよってではなく精神によってこそ、その質感が把握されるしかない。
異部族に恋した人間が透明化によりからだをうしなうというエピソードが出たのち、美大の定年間際の教授、といった風情の、コート姿の男が顕れる。まぼろしの文脈にある線路の際に立ち、まぼろしの汽車の走行音のつづくあいだだけ画面に出現している彼こそが、明視性と脱-明視性の境界を、そのすがたで体現している。最初の登場以後も間歇的にすがたをあらわす彼の風情がすばらしい。彼が異部族との恋によってからだを失ったとすれば、彼には発語能力などないだろう。ところが例外的に終盤ちかくで彼は、持続的にそのすがたを画面に定着され、リーホワと、あろうことか会話を応酬することになる。
「どこかでお会いしたことがありませんか」「わたしのおもいだせないだれかに似ている」と語りかけるリーホワにたいし、男はおよそ以下のようにいう。「ひとは個別で、そのことをつきつめればかけがえのない一個人がだれかに似ていることはありえない」「だからその者を見失えば、その追跡は地上を永遠に迷宮にするのみだ」。ここで気づく。存在のすべてが、非相似性にむけて口をひらいている、ただの黒い四角、黒い穴なのだと。相似概念によってみずからの組成を保証するファンタジーとの離反点が、この男のことばにあらわれたのだった。
特異性の概念ならば、たとえばネグリがさまざまな著作でくりかえしている。他者と通約不能であるがゆえに他者領域を真に更新するのが特異性で、それは一見、個別性と混同されるが、個別性はだれにでもある局面だから、普遍性へと回収されなければならない。つまり特異性と個別性は対立する、と。
映画『黒四角』では個別性が非相似性の導入により、個別性を温存されたまま特異的にひろがっている現世がつづられている。過去世はそこに垣間みえた、実在性をたしかめられない「袋」めいた付加物ではないか。そのことと俳優の実在的な「顔のよさ」がつりあっている。黒四角役の中泉英雄については既述したが、新井浩文を疲弊させたようなチャオピン役のチェン・シューシュウ、清楚さを終始たもつリーホワ役の丹紅、それと明け方の建物のファサードにある階段で、チャオピンにもたれかかるとき聖画のなかのような視線をみせるハナ役の鈴木美妃、それぞれの顔がわすれがたい。
むろんこのことは静謐と関連している。『タイムレス・メロディ』『波』『16』など、静謐さと俳優身体の関係をこれまで追求して奥原浩志監督の感覚の緻密さは本作でも健在だった。
5月17日より、K’s cinemaほかで全国順次ロードショー。
木喰
【木喰】
ひとにあうときには
そのひとの家にむかうため
本をたずさえてゆく
あさぎいろした駅をおり
かならず竹林をよこぎるのなら
あのざわつきにおののくため
のびる竹のような本を
すでに車中のひざへのせたのだ
いまはぽぷら並木をバスでぬけ
あうべきさきのひかりにあう
そのひとが あるいはぽぷらが
雌雄同株なのかはとわず
もともとバス内のひざのうえが
きめられない雌雄となるよう
あめいろの本がえらばれた
もしかしたら性でないものは
バスもてはこばれるうつし身の
あさい木材性かもしれない
本をよみながらひとり木を喰う
あいて じぶん 旅程 もくじき
いずれかが本にさきどりされ
あきつ乞食をやわらかく筋ばらす
こがねのひび筋肉に似たものが
あたまの髄をひくくわらっている
それにつれ字も皺になって
あいするにあいてあるをあく
停止点
【停止点】
群青のただなかに
ひとつ紺があるという
くらくみえがたい配座では
とおさへひかれるように
まがつ星にしばられる
わすれた顔がそうして
遠点にうかぶこともある
うごきに記憶は沿うべきで
とまるものに拠るべきでない
それぎり死ぬのを厭うなら
すくいみちびくのは
まがつ星をかこむ
くさのゆれ、つながり
それらが円く紺をめぐるとき
たとえそらがまやみでも
しずかにあいだがひらかれ
そのうちがわふかく
うごきの群青がしたたる
ふくらみ
【ふくらみ】
ふくらんで
そとに立ったことが
あの日すべて
ではないか
ある樹がべつの樹に
ただとなりする
わだかまりのなさへ
その立ちを列ねた
一身のめぐりは
一身のおくで
まわりゆくつむじに
おそいかかわりがある
そうふくらんでみて
かいなだけがたれていた
一日花のけはいあって
まちわびる一列を
ゆるい風がさかせた
けしきにとおる
わけめがある
わけめは一線で
かたちなき曲りだから
ふくらみもやまない
さくら報告
【さくら報告】
女房との二泊三日のさくら見物旅行から、昨日深夜に帰ってきた。道南に行き、それから津軽海峡を渡るという、北上径路のさくら前線にたいし南下する逆行の旅程。
一日目は札幌→五稜郭→木古内と電車を乗り継ぎ、そこから路線バスでたぶん北海道屈指のさくらスポットと呼ばれるだろう松前城公園へ。洗練されて瀟洒、しかも風景展開力のある城の空間のそこかしこに、見事にさくらが縦横していて、染井吉野も満開だったが、他の八重桜、山桜も見ごろで、染井吉野中心主義ではない北海道のさくらの野趣を満喫した。それにしても松前ぜんたいが綺麗な街。お昼は城内の茶屋ふうの店で、田楽みそをたらした淡い味のおでん。
往路を逆にたどる帰路で函館のホテルにチェックインしたのち、市電で市内を横切って五稜郭の夕桜見物。タワーにものぼった。女房が映画館の知り合いからゲットした情報で五稜郭近辺の「炭小屋」という店にゆく。燗で冷えたからだをあたためながら、山菜の天ぷら、戸井まぐろの赤身など。
二日目は5月11日に廃線になる江差線に、全国から来たテツとともに乗り込む。函館、木古内という経路は前日とおなじだが、ほかに選択肢がないのだから仕方がない。車窓を半開にして、たぶん両面テープで桟にくくりつけたデジタルカメラをずっと動画録画状態にして車窓からの風景流動をとらえていた、札幌から来たテツ氏に、「天の川」駅のエピソードなどを教えてもらう。山中を抜けて海岸線へ出たのち終点・江差、テツたちが沿線の撮影スポットを物色するため眼を血走らせてUターン移動するのを尻目に、こちらは江戸時代からの街をのんびりと見物。とはいえ江差は木造建築の価値に最近気づいたようでレトロな街づくりが「あたらしい」。昼に喰った「やまげん」の蕎麦が旨かった。
江差からまたも木古内にもどり、こんどは海底トンネルをくぐって青森へ。チェックイン後、女房とそれまで行ってなかった旧漁師町・色町の「本町」あたりをうろつき、夜は「浩庵」という焼き鳥屋の雰囲気に惹かれて中へ。廉価なのにすべての焼き鳥が旨く、サラダや煮込みなどは旨さに加えて分量がやたら多かった。この日も夕方が冷えて熱燗。
三日目、まずは青森の朝市で海鮮丼。ぼくは雲丹帆立、女房は鉄火で、たがいの具を交換する。この日は東北最大のさくらの名所のひとつ弘前城公園へ行くのが目的だったが、女房が前日、青森のグルメガイドブックで調べてチェックしていた「みんぱい」という中華料理屋にまず行ってしまう。「昼は混雑する」と駅前の観光案内所で聞いたためだ。陳建民の弟子筋の店らしいが、気取らない地元民のための店。ふたりしてエビ蕎麦、担担麺を食べたが、サイドメニューの油琳鶏の物量が凄い。おかげで夕飯が食べられないほど満腹になった。それにしても「食べてばかり」。
肝腎の弘前城公園は、染井吉野が散り、お濠の水面に白い花びらの絨毯をひろげていたが、遅咲きの八重桜、枝垂れ桜が満開。とくに本丸内は枝垂れ桜が延々とつづく、体験したことのない光景だった。枝垂れ桜は柳より藤に似てみえる。それにしても弘前方面の各駅列車、城内ともども、大混雑。染井吉野の花期が全国からの見物客を迎えるとすると、遅桜が力強く咲いた昨日(ピークの一週後)は地元民の見物が中心となっているようだった。ふと耳にする女子高生世代の東北弁がかなりディープ。帰りにアップルバイを買って、古本屋をひやかす。
青森空港から新千歳にむかう短距離飛行機で仲良くなったCAさんがすごく綺麗でしかも性格が良さげ。ひと目惚れしてしまった。それもふくめ、ともあれ、さくらにはいろいろ接することができた。まあ、札幌にいたままでも満開のさくらには接することができたのだが。
始源
【始源】
よくしるすのだが、「詩を書くことの恥しさ」という、現在では回避できないもんだいがある。事態はさらに入り組んで、どうやってその恥しさを自覚しつつ、たとえば文法破壊などで恥を回避しているのか、そのすがたに気づくのが共感の基準になったりさえする。つまり「ネタ」「ベタ」「メタ」でいうと、「メタ」を読みうるかどうかが、いまや詩の読解の中心なのだ。文明病とはいえ、詩の始源状態からいえば、やはりこれは甚だしい倒錯といえるだろう。
詩の始源国では、いつでも詩は公然と誇らしくうたわれたとおもう。ラテン諸国のみならず、となりの漢詩の国でもこちらの和歌の国でも。
日本の明治以降、朗誦の慣習が徐々にうしなわれていったのは、まずは武張った精神が抒情を冷笑したからだとおもうが、難解を人の耳に強要しない遠慮も起因したはずだ。明治時期に確定する漢語和語の混淆状態が、耳でする詩の理解を困難にしたことは、詩の伝達にかかわるおおきな障害となった。おおきくいえばそれで詩の位置が流行歌にうばわれた。
詩の授業をしていると、みずからつくったプリントに詩の引用が満載されていて、説明の都合上、詩篇を部分的に読んでから解説をはじめることがほとんどだ。読みをしめし、詩に内在する律動やひびきをつたえる必要があって、これはもう、しようがない。むろん恥の意識がわだかまっているから、リズムはつたえるが高らかには声をあげず(つまりうたわず)、訥々としないていどにぼそぼそ読むのがぼくの流儀。授業での通常の解説や思考することばよりも声量を絞ったりもしている。なにしろぼくは朗読にかんしては「ミュージシャン読み」「俳優読み」「アナウンサー読み」を眼前の他人にみるのも苦手で、そうした蛮行を自身にも適用できないでいるのだった。
恥のかきすてを渡世の効用とおもうことがある。たとえば旅路の僻村での混浴などがその理想郷だが、意外や中国人留学生などとゆくカラオケもそれにちかい。カラオケは場の共有にあるていどの圧力があって、マイクをもっての歌唱をただ恥しがるだけのひとはその場から居ながらにして除外されてゆく。反対に「マイ・ウェイ」的なバラードを陶酔してうたうナルシズムとオッサン性のわだかまった「人格」などもとうぜんひと目で忌避される。カラオケにおけるパフォーマンスの批評内在性は、自分の声質と、文明批評、それに自爆精神をかけあわせた選曲センスが第一にものをいう。ところがやがて場が歌唱そのものへの称賛に移行する逆転が、カラオケの醍醐味だったりする。
昨日はGWの谷間だったが、しっかり全学授業「日本の歌詞をかんがえる」が、こよみどおり開講された。演目は「高田渡vs遠藤賢司」。じつは曲調と歌詞の関係をしめすために、やけっぱちで唄ってみせることがこのところ多くなっている。加齢で恥意識のタガがはずれたのだろう。昨日はそれで、ウディ・ガスリー「ドレミ」のサビ部分を英語で板書したのち、その部分と、高田渡「銭がなけりゃ」のサビ部分を唄いわけてみせた。そうでこそ、エデンの園たるカリフォルニアを皮肉たっぷりにとらえたガスリーを、東京・青山へと高田渡がいかに換骨奪胎し、ホーボーにとって冷ややかな都市を、海を越えてつないでみせたのかがわかろうというものだ。
昨日は必修ゼミが休講になってぼくの授業を覗き見にきた講座院生がちらほらいて、全学授業でのみしめされるぼくの「蛮行」にびっくりしていた。全学部生という講義対象のひろがり(彼らのほとんどは二年次以降、ぼくの授業をとらない)と、音楽というジャンルがぼくを開放的にさせるというしかない。恥意識の漸減が能産につながる過程は、このように詩の授業に発端し、音楽の授業で増大してゆく。授業を聴き終わった飛び入り院生の顔が上気していた。
高田渡ついでに山之口貘の詩集をめくっていて、素晴らしい短詩があったことを失念していたと気づいた。以下――
【夜景】
山之口貘
あの浮浪人の寝様ときたら
まるで地球に抱きついてゐるかのやうだとおもつたら
僕の足首が痛み出した
みると地球がぶらさがつてゐる
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あすからは女房と小旅行、旅先がつづくので、日録をやすみます。