ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

番犬

 
 
【番犬】


こまぎれ寝がすきだが
犬のようなねむりのあささで
じぶんがなにを警戒する
番犬になっているのかと可笑しい

ひとついえるのは
すぐさめてしまう夢のなかで
身体的なもののうごきが
つねはかなく追われていて
それこそが世界内位相を
こすれとずれであらしめる
換喩と知っていること

滝があって筏がおちれば
うつくしい滝も筏も身体で
うごきをささえあう
ふたつの近づきが換喩なのだ

ゆめでは構文のなかで仄ひかる
ふかい助詞の番をしている
 
 

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2014年06月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

めぐすり

 
 
【めぐすり】


からだのどこかに
へびのにおいがあると聞き
すこしくぬれている部位
ひとみをおもいえがく
こころに似たものはおおく
カーテンが暖色にもえる
朝の埒の薄いそこにも
均されたろうかんのような
みどりののべ棒を抱く
めつむりつつ以後の一日が
ならびあう縦や楯となる
ひとみのなかの鏡の数かず
さしためぐすりのつめたさで
かたちの紐までうしない
うごきからおもわれるへびが
十方をしみわたっても
脚の一対が鏡にふえつづける
この瞑で朝をはじめるため
 
 

2014年06月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【誰】


たがため
という
ことばから
ふていのひとが
ひとつのおと

であらわされるのに
うずをかんじる


がやってきて
その

がゆれている


のなかで
あふれるように
 
 

2014年06月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

列柱

 
 
【列柱】


もろ脚から肉やすじがおちて
ういてあるいているではないか
蜜あるものに飲食をかぎり
しだいにとうめいを得てゆけば
一体もかばしらを唸るではないか

はしらはみんな神がかりだが
ここにない水があるとおらぶのは
即身としてどうなのだろう
たとえばさ庭のリラ、幹など
おもわせず白をいただくあれも
ひろがりわかれあった、はしらか

すべて草木はひとのこころをあるく
おのれのうえへ割れるふるまいが
やがての時軸上では水平をなす
道がのびてまぶしいわたしも
ただ北ばしらの一介となり

はしらならぶ身の間歇をわたる
 
 

2014年06月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

暁闇

 
 
【暁闇】


あかつき闇から起きださねば
朝のおとずれのわからぬように

このまま逢わずに死ぬとして
あれがしまいのわかれだったと
おもいだせないなつかしさのように

内部もつね、そとをふるわせて
ゆえ悪のさみしさにかも似る
さやさやと幻肢をおもえば
そとのからだにかげうけてなお
うちへつづく乳白が、なづき

川の高いえぞつゆに川高の脳で
あるきを草丈のうえへながす
なぬかあまりの脳王朝さ
しめりあうこすれをわたる

川ならずとも身めぐりのしるべ
あかつき闇にもう袖網のある
 
 

2014年06月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

部屋のふくらみ

 
 
【部屋のふくらみ】


うちがわがなにかは
存外むずかしい

うすぎぬで部屋ぬちを
ふたつに割ったり
まるく両掌をあわせれば
じぶんのうちですぐわかる

ここからそこへのつなぎに
内の内があわくだまって
そこだけの色素が減っている
まるめあわせた両の掌のむこう
それもうすぎぬとの境目に
はだかの出現がおんなでいて
「宇」ならず「時」までぬらす

逆像のさらに逆像なのか
ひとりのみをうちがわにして

そのそとがわも内性でふくらむ
 
 

2014年06月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

むろ

 
 
【むろ】


三鷹にふりつもった雹をみて
つめたい天からの吐瀉とおそれた
氷室というべきが黒雲にあったなら
うえまでもむろに分割されていたのだ

みえるもののわけられる法則
けれどひとにより等個がおもわれて
ものみな五万などとかぞえられる

あぶない冷気がたまった反吐より生じた
なにもかも粒状なのは気絶しながら
おちていった途中に研磨があったから
それでも雹に出会っていない想像が
雹を輪郭のない穂とおもいかえ
にくむべき栗花のにおいをかぎだす

くさい町になったとなげいても
ゆれる花が雹をよんだにすぎない
どこまでも分割がすすみ栗花さえも
一里あたり五万むろの薄異変
 
 

2014年06月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

夢の網

 
 
【夢の網】


みじか夜のきわまるじせつは
ぐんじょうの着地がうすく
たやすく夜がおのれを手ばなす
すべてなべてひるがえるその

おどろきが山藤をゆらして見あげる

にがみふくむ樹の皮のやわらかを
いまのときにもくちにしあう
もうろうが網となった鹿の群れの
しろいとさえいえる早い四時を

それら肢の茎立ちにもぐりながら
しずかにえぞをゆく鹿狩の隊の
しめやかにも放つあさの網へ

ひとしく鹿とまぎれゆくのがゆめ
  
 

2014年06月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【笛】


たばこを禁じられれば
ストローを似たものにして
くちへはさみ
かるさをとおさにかえる

そうして架設中の橋にはなるが
そらをおりてくる
端からの藍の、ながいさびしさ

一身を佇てると(建てると)
樹に倚るたて笛にすら如かない

この木蔭にくらくなり
くうきのあふれではなく
みずからのあさいかたちを
ストローをなかだちにすった

こころまぢか、音孔のみえる
うつむきもまたおとずれて
 
 

2014年06月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

デュオ

 
 
【デュオ】


たがいにことなる両脚を
からませあうデュオは
「内」にしびれ入江となる

さしだされた一方の帆を
他方の針が繍うひと刻
おんなをつけられた帆には
つらい影がひろがりだす
「肉」であることにしびれた
とりかえしのつかぬ帆でも
ひだりからの悲とただよばれ
比類へとおさまってしまう

それでも月あかりする丸穴は
ならべばやぶにらみだから
耳だけがふかい摩擦を聴いて

たがいになるまで似せる異夢が
夜なぎのなかを並航してゆく
 
 

2014年06月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

南西

 
 
【南西】


あふれでる連続では
午が馬でなくなる
ことばさながら血管すら
ながれきってしまう

それぞれのたてがみが
それぞれの蹄を咬むくさり
このすべてが断ちきられると

はじかれたちぎりの隙で
瞬間の奔馬たちが決壊する

これが地平からわいた運
みえがたい流線きえて
はてしなく散弾される鼻孔に
接線(夕方)がきりたってゆく

もうすこし洗われてもいいな
みのなみ、身のきんいろの波に
 
 

2014年06月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

複観音

 
 
【複観音】


はださむい露の気がしずんで
ゆくべきところがしたたっている
鍵なくして樹間もひらかれ
そのままこころがまなざしとなる

あつまるのではなく点在する
おんなたちの蒼眉をこのむ
そのための樹間がひとつひとつ
なぜ四肢がきれいなすぼみで
ながれまとまっているのか
てのひらにあまる蕨束みたいだ

すうにんとまじわることが
さらにかすかなひとりをつくる
ふくすうをいつでも数珠にしたい
すれちがう露ならつなぐだろう

あゆみへのまれるまむかいが
すでに(おんなの時制だ、)
きえのあらわれる離反すらもつ
 
 

2014年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

原稿準備

 
 
昨日は岡井隆論の原稿準備のため、あとがきなどで「日録」によりつくられたと岡井自身が述懐する歌集、『二〇〇六年 水無月のころ』『ネフスキイ』と、それに日録的創作によるソネットのならぶ詩集『限られた時のための四十四の機会詩』を通読した。くわえて全歌が日録そのものにみえる歌集『静かな生活』も。これらすべては日記の亜種ともよべるものだ。

岡井歌集で秀歌率のとりわけたかいのが、『朝狩』『(旧編)天河庭園集』『鵞卵亭』『禁忌と好色』ではないかとおもう。岡井の前衛意識と「アララギ」直流の声が見事に融合して、結果的に暗喩ではくくれない収録歌が多いということだ。なにより一首三十一音の読み下し直行性に撓みやズレがはらまれていて、その細部こそが換喩にたいする崇敬的計測をしいる。

もともと岡井は若いころから方法論的連作を意欲的に展開したひとだが、そこに詞書の方法論が加算的に導入された。結果、連作が複雑なスパークと、聯想=換喩的な進展とを帯び、それらが擬日常のながれ、厚みまで呈してゆくのが『マニエリスムの旅』あたりで、最初の集大成が『人生の視える場所』だっただろう。

その詞書には岡井自製の短歌や俳句までもが混ざり、岡井は連句でいう平句的なものに覚醒してゆく。塚本邦雄は当惑を、『マニエリスムの旅』の解説ではやくも誌している。岡井はあらゆる着想や感慨を、五七五七七、三十一音五分節の短歌的発語にかえうる融通無碍によって、短歌的可能性の臨界をしめすことを野心していたのだろうが、それにより秀歌率の低下することをたぶん塚本は訝ったのだ。

口語性も導入された岡井の日録的作歌は、詞書連作中、詞書部分の平俗短歌を、詞書の場所から解放したことにはじまる。そうしてたとえばしずかながらも不敵な達成『ネフスキイ』があるわけだ。

日録とは、一日一刻という「部分」が、生という「全体」のなかで統御不能に生成して、「根」の不動ではなく「茎」のなびきがそこに顕れることだろうが、もともとそれは岡井の散文=評論でも共通していた。

七〇年~七五年、岡井の九州流謫(歌作放棄)時代、着のみ着のままで逐電後の生活をはじめた岡井は、最初に書庫も蔵書もない不如意から、おのれをたもつ思考を余儀なくされた。手始めに岡井が分け入ったのが、これまた岡井の方法論となる「註釈」で、対象は岡井がとりわけ親炙した斎藤茂吉と塚本邦雄だった。論考は日付入りの断章連鎖、日記を継ぎ足してゆくように書かれ、筆先も厳密な展開に拘泥することなく、ときには前言訂正すら舞い込んで、エッセイと評論のやわらかい合金がそこに出現する。それがゆるされるのも、自画像的創作者・岡井が、自分の波瀾万丈の生が魅惑をあたえると知っているためだ。岡井は「私」表現のたえず尖端にいて、自写像的な換喩につき先駆をなしたひとでもあった。

当時の岡井の書き物は『茂吉の歌 私記』『辺境よりの註釈 塚本邦雄ノート』としてのちに刊行されるが、後者の細部では塚本の暗喩的=前衛的作歌からの離脱がすでに窺われるのが興味ぶかい。岡井は出張医師として当時九州を駆けまわっていて、たまたまできる思索用の寸暇はすべて夜だった。そこがその後の日録的創作とはちがう。

あまりいわれていないのは、いまの岡井が徹底的に「朝のひと」だという点だ。前夜までに生じた思考の澱が起床とともに昇華されて、しかもまだそれが茫洋としている一瞬に、岡井はおのれの身の奥を手探るように、再帰的な創作をはじめる。学殖と体験=記憶が、日常を二重化しているその「やわらかい部分」と、岡井の思考がまじわるのだが、そうして世界までもが朝の様相のうちに「狩られて」ゆく。往年の「朝狩」を岡井がいまも励行しているといえる。むろん朝は日々を継ぐひとの恩恵の刻だ。そのことは中日新聞に長年、「けさひらく言葉」を連載していた岡井にはとりわけ意識されていただろう。

いいことづくめのようだが、くりかえすと朝における日録は、マラルメ的深夜の熟考にたいし平俗化の危機をも同時にはらむ。作歌数が飛躍的に多くなったここ十数年の岡井に、往年の岡井ファンが背を向けた例もいくらか知っている。「ゆるい」というのだ。ここに換喩の効能のはきちがえがあるかどうかは、しかし微妙な問題だろう。換喩はおのれの隣接域から、そのなかに内在する隣接の層をつかみだす。しかも手は語義矛盾だが、「とおい隣接」をひきだしてこそ詩に染まる。むろん岡井の現在の穏やかな実験は、深刻さとは無縁の次元で、詩がべつの相貌を帯びだす胎動をしるしつづけている。それはたしかだろう。

詩は日録として書かれることで日常的に救抜される。このばあい飛躍は作者個人ではなく、天意に属する。

ぼくじしん、最近は日録的に比較的短い詩篇をネットアップしていて(長詩は日録に向かない)、岡井のいとなみが以後一世紀ほどの詩的未来を照らす先駆性をもつと仰視している。ただし秀作率は維持したい。このとき自己破壊にたいする捌きという点で、岡井と自分の径庭をかんじてしまうのだ。

むろん自己破壊の度合が、詩作品の価値をきめる。定型的常識を越境する岡井の英断に自己破壊性が窺えるのはむろんだが、スタチックで安定的なつくりのなかにこそ自己破壊性を胚胎させることができないか――それがいまの自分の着眼だとはっきりしている。近々書かれる原稿は、どこかで刺し違いの結果をよぶかもしれない。

以上、具体的な引例をはぶいた、現状での論考の骨格予想。むろん書き出せば換喩がはたらいて、原稿がまったくちがう貌になるはずだ。
 
 

2014年06月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

浮橋

 
 
【浮橋】


橋は道の浮くところ
ふだんは草へ牽かれる足の
ときならぬ、かるさに
ふとしもまどうしろいわたりだ

橋から橋へのつなぎのみで
あやめ底敷く仮定がひろがる
かげろうが微風とまざりつくす

ひとすらなみして浮橋は
おのれの浮きをまわりうごく
これが世界だとして
ゆきかいがあり挨拶がある
ひかりに壊されたあやめより
さらにちぢれたほほえみもある

けれどやつれるのだ
どこまでと問いかけられる
その橋情こそどこまでなのかと
 
 

2014年06月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

穴喰い



【穴喰い】


想像する

めつむりながら
スズメバチの巣を食べる
ぼろぼろのクマを

幾何こそ可食
じゃばらたたまれる
食べられる色欲の穴が甘い
そこをいりくんで
ぶんぶんめぐる音楽も

そんざいの隈が食べ
食べることがふくざつに
刺されてもゆくが
舌が色欲の穴だらけに
ならずながらえる
やさしみのようなものがある

てのひらと舌を似せるため
からだを映像がささめき
てのひらからひかっている
 
  
 

2014年06月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

眼熟

 
 
【眼熟】


ひと日にいくらかある
スローモーションの数瞬に
たとえば眼熟がきざしている

ものの総数をふくむ円環から
柱なしてのびる空のふた柱ほど
雲のしたにもまひかりあるを
はがれかかったヌードとみなす

みずあかりや虫らにゆれる羽衣
去るひとの去りつつ脱ぐのが
そのままに臆面の字づらだろう

風のてにをはが名詞を透かす
その情助詞のうごきに
たださわめきを旨とする
別のあやめ池がひかりだす

柱なしてのびる空のふた柱ほど
まなこのなかへ倒れて昂ぶる
 
 

2014年06月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

琴瑟

 
 
【琴瑟】


夢のなかでは
そらそのものを
あおいなどとみあげた
おぼえがない

球のうちにある夢みなが
関係の忌となっていて
ものごとのふちをみない

つきやぶってくる
天よりの者がいたとして
しらぬまにいるあらわれが
もはやしずかな突破で
ささえるのもたとえば丘だ

とおさへゆびさすことは
ゆびでこするにも似て
もういないばしょなのに
琴瑟が鳴りひびく
 
 

2014年06月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

中途

 
 
【中途】


はじめから点火されたさだめがあって
そののち渡河がふくざつにのびる
ゆくさきの刻々をも点火する
もののはじめに消されてあるから
その中途がおそろしさを得る

なあ、聴いただけでだれとわかるのか

はじめではなく中途がおもっている
みえない環界とのぶつかりには
ほんとうの世界内が漏刻している

むきだされたみごとな腰となって
いやらしい絵すがたを塵へ返す
だれであるか消された腰だけうかび
なかせるまでまやみをまどわせる
やがてほのかに肉がひらかれてゆく

なあ、中途を貫いてだれとわかるのか
 
 

2014年06月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

熊切和嘉・私の男

 
 
本日公開、熊切和嘉監督『私の男』は、本年度屈指の傑作であるのみならず、2010年代の日本映画をも画する重要作です。それにまた、『銀の匙』(吉田恵輔監督)、『そこのみにて光輝く』(呉美保監督)とつづいてきた北海道ロケ映画の勢いを当面締めくくる、素晴らしい掉尾のような作品でもあります。

浅野忠信と二階堂ふみの主演で、父娘(ほんとうは遠縁間の養子縁組)の、「禁断の愛」がえがかれます。注意したいのは15年ほどの長いレンジにわたる時間の表象です。出演俳優の経年変化も精確なのですが、それよりも主要人物が「土地」を流浪し、結果、土地そのものが流浪してみえる点が、時間の流動、その流動の厚みを換喩しているのです。この意味で『私の男』は、成瀬巳喜男監督『浮雲』、イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』、ロウ・イエ監督『天安門、恋人たち』などの系譜に伍する作品です。

なるほど、いまのべたそれぞれは後遺症映画です。成瀬作品が太平洋戦争の、イ作品が光州事件の、ロウ作品が天安門事件の「その後」をえがいているというのなら、『私の男』も奥尻島に甚大な津波被害をもたらした北海道南西沖地震の「その後」映画とよべそうです。ですが実際は、「日本という後遺症」「愛という後遺症」とでもいうべき「場所と人間」の主題にさらに分け入っていて、そこに唸りました。

それと、時間・空間の表象方式もちがいます。おおまかにいえば、成瀬作品は「編年」、イ作品は「逆編年」、ロウ作品は「多数性の氾濫と帰結」が表象されていますが、熊切作品ではほぼ「編年」のなかに、ちいさな散乱と、全体の縮減とが表象されているのです。このことが右肩下がり、何事も縮減へとむかう2010年代の時代意識に適合して、それゆえに本作がこのディケイドを代表する作品となったのです。

衰退をくわえてゆく浅野忠信の瞳にたいし、自己確信は好色だという直観にみちびく、この作品の二階堂ふみの瞳、それに舌、口が忘れられません。彼女の身体や表情の「部位」、その意味は、土地、とりわけオホーツク沿岸の紋別をおおう流氷と直結しています。だから戦慄せざるをえないのに、哀しい。

この映画で瞠目すべきはショットです。撮影は『そこのみにて光輝く』とおなじ近藤龍人。監督の演出を俳優の身体が具現化するとき、ショットの持続はそれじたいの時間をつくりながら、変化を中心にした運動を知性的な中枢=いわば「生き物」の知覚として収めます。『私の男』で奇蹟的なのは、決定的なショットそれぞれに発端と結果があるのに、そのあいだの経緯が冷静に意識化できず、ただ生々しさに呑まれてゆくということです。言い方をかえれば、「このショットのあいだにこういうことが起こらなければならない」という制約は多くが「段取り」を透けさせるものなのに、監督をはじめとしたスタッフ・ワークは「中途」をただ生成させるのです。なんと透明で崇高な細部なのでしょう。

「根」ではなく「中途=茎」こそが思考の発端だという、ドゥルーズの植物を考察したことばをおもいだしました。ほんとうは余裕があれば、作品のこの美点を具体的な場面に即して詳述したかったのですが、できませんでした。ともあれ時間進行にある「みえないものの宰領」をもたらした浅野、二階堂、それに藤竜也、河井青葉、モロ師岡、高良健吾などは、ぽくにとっては俳優というよりも「わざおぎ」という逆転神をおもわせました。この意味で神話的な映画です。むろんロトの娘の神話、心理学的にはエレクトラ・コンプレックスとも境を接していますが。

ぼくの生徒にはこのあたりにとくに留意して作品を観てもらいたいとおもいます。

なお、劇場プログラムは、俳優インタビュー、スタッフ・インタビュー、原作者&脚本家インタビュー、それに評論家の多様な論考が併載されて文字数と写真点数が多く、みごとに充実しています。ぼくは中村珍さん、佐々木敦さん、中条省平さんとともに、論考提供者の一角を担っています。2200字で依頼をうけた原稿ですが、凝縮のなかに、多様な発見を「展開的に」書いています。すべて画面から摘出した主題系にもとづき、しるしているのです。他の執筆者との個性のちがいがかんじられるとおもいます。劇場に行かれた際は、ぜひご購入を。
 
 

2014年06月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

浮子

 
 
【浮子】


みのもとみなそこのあいだの
あかるい幅をかすめてゆくのは
幼形や妖形とよばれる影で
それを稚魚とかぎるべきではない
と釣師はかんがえてみたのだ

ふかい沼からかたい大玉をぬくより
あさい川ゆくあきらめをながめ
地球を釣ったなどといわないよう
さらに糸をながしてはもどす

そのながしにいまさら妖形があり
これをしもわが草や葉じゃないかと
おんな好きがかんがえてみたのだ

白昼にねむるのは至福で、雌伏だが

みちたりてねむれば身のかがみも
みずからのうちに紡錘されて
くれがたへむかいあかるくなる
 
 

2014年06月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ヌード

 
 
【ヌード】


息をおもかげにちかづける
それのなしうるたたずみだった
みることがつくられながら
みおさめもひるがえってゆく

迅速をみせてといった

衣服のまえがほどかれる
むなぢのじかんがしろたえ
ぬげることがひとの封書だった

ぼたんひとつひとつの
みえがたさをおもいよせる

どうぶつをまなざすみたいに
はだか身にはしっている迅速を
とどきつつあるものの開封
即座への返信とたたえた
 
 

2014年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【沢】


身の奥にかんじられた
とうめいな胎児の
ぎんのようなものが
くれがたの沢に
幾筋もうごいているから
この日の溶暗がすごい

受胎も受洗ではなかったか

とおさはながく尾をひき
もはやながすぎて
ひとというふくろの
尺度にも似ない

けれど身の奥のくらさには
ぼんやりと沢水がひかる

はらみ馬の厩ちかくで
ぬれ髪のごうがんを梳く
たったひとりのときに
 
 

2014年06月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【顔】


日々を
たくわえてゆくからだに
ちいさな日めくりの
ばしょがあって
そこからちりめんが
くずれてゆくのだ
顔のあやめは
すぐさまおとろえる
黄をきたなくする
むざんにも世の中へ咲き
うつむきに似たものとなる
そんなふきつな日めくりさえ
ふたなぬかほどできえる
風のたかぶりにはんし
なつをおとろえてゆく顔は
うたたねにゆれる溶銅
身のうちの鋳型へと
かくされてゆく
 
 

2014年06月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

混浴

 
 
【混浴】


かいなはおこないの部位だが
脚はあまりそうともいえず
ゆぶねへはいってゆくはじめに
しずみを折るみえなさにすぎない
ひとなりの腰高をなしていても
ゆのなかで両脚は湯を組んで
たしかにからだみなを中途にする
この過程でおとなびた園芸者の
灌木にふれる中腰があらわれ
ゆとともにとりどりの品種が
ふろばへあふれてくるのだから
からだの底をささえあげつつ
それでも幻肢とならぬ脚は
ゆにゆれてゆがむそんざいの
エポケーのもとをかまえる
けれどもうすいゆをでるまでだ
でればふたたび脚がはじまる
とじあわすたてすじよりまえに
 
 

2014年06月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

こだま

 
 
【こだま】


いただきに立つたかさは
四囲へと音声をなげかける
この世はかたい反射板でできていて
だから用字としても
木霊ではなく谺がただしい
あるものは噛まれて傷をふかめる

たとえば恩寵の字に
すでにかたちのあることが
かさなる山を籠や籠…にして

むすめがそこへ摘みいれたとて
ものみな声にすぎない
ただ消えが刻々であれば
とおさへのかさなりにもみえて
むすめはそのたびおかされている

うつし世を身に摘みながら
 
 

2014年06月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

閨事

 
 
【閨事】


まやみにほのひかり
らんぷとなった仰臥の
かさねられた肉片に
ひかりの奥をたずねる

身はなんのいみ
うれしさがきらきら
はくへんに変じて

燻製鴨肉と桃のさらだ
とくゆうの味がする

好色はあいまいな間色
ぬれどころがあわさって
たがいの色舌がくずれてゆく
どこの沼縄かはともかく
かさなってねむる漿がある

非日常をえるのもたやすい
あいだをたぐれば足りる
 
 

2014年06月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【夢】


草の用意まで
わかってきている

麩をかんで

かどの夏をまがり
山門をくぐったのちは

けしきにものがたりされ

こもり沼にて
おんなを舟へのせ
脚をひらかせたのちは

きんの酢がゆれる
そんな
かげろうの用意まで
わかってきている
 
 

2014年06月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ヘンドン

 
 
【ヘンドン】


いちまいの絵にも似た
つどいが森にあって
いまここがヘンドンだと
つどいをほそくする
まつげのようすで咲く花に
ゆくみちのゆびはふれた
まつげのえくすてが
めらめらもえるおんなにも
ゆくみちのゆびはふれた
あらゆるじかんの層をわたり
くうきのおりたつばしょが
草木ではなく紙へもどる
睛を点じられなかったひとらが
けっきょく龍のいろこなのか
青摺りのそでをひるがえしながら
盃をわたすうごきがとまり
ぜんたいの奥にしずくする悲が
ない睛の底へあかるんでゆく
部分たるをからだがえらぶ
いまここがヘンドンだと
 
 

2014年06月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

日傘女

 
 
【日傘女】


ひかりまで蒸散しているような
そらのしたいっさいの施条痕
まわる暑気へはいってゆく
ゆるやかさは汽車の進行形なのに
じかんの前後に挟撃されている

あふれを身幅ていどのつましさで
うけとめる家が日傘だとして
尾ばねのうしろ身へかくしつつ
しろくそれがたたまれると
なんとかんたんに
ひとも線になれるのか
気配にしたたるのは
日傘ではない、いつもひとだ

ひとつの閉じのかわりに
背後世界のまぶしさがひらかれる
きえるとはものみなのあらわれること
記憶すら終わってしまう
 
 

2014年06月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

支流

 
 
【支流】


支流地帯では
こまかく地に皺ができ
そこに水がたたえられる

すこしはなれた平地では
おおきな彎曲があり
いつかそれが円周となる
おそれもあって
たたえられた水のなか
すきとおる稚魚がみつめられる

はじまりはそのクイナだ
きみのなかに
わたしをたてよ
支流では鳥のすがたと
あやうい衝動が一致する
 
 

2014年06月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)