梯子
【梯子】
そして藤棚も過日をはらって
うっとうしい繁茂となり
ゆめまぼろしだった
あの垂れをなくしている
それでもひらかれた囲いが
むこうへとさそう
ゆうわくをちらしつづける
あつい風の通路となったのだ
手の甲にオリーヴあぶらをぬり
かなしみ灼けるすがたで
たなうえへ手をのばすひと
たなにもたえず荷物があって
きっと天の暗色をしている
わたしのえらぶのは
きさくに果実をもごうとして
みえてしまう腋窩だが
くらさから冥さへとわたる
梯子がひとをはみだしている
桃
【桃】
あがなったうす色の桃に
さらにあがないをさせようと
いえぬちのところどころへ
おきかえてゆくまにまに
かおりがただよって
やがて桃がみえなくなる
ないことで室内がみちれば
ないこともまた桃となる
あるいは窓辺へさだまり
それはかたちをあまさにして
かすかなうしろのがらすを
やわらかくむごく透かす
かおりすれば何ごとか反る
桃の蜜はそのまなかにあって
おのれの漏刻を耐えてゆく
ないこととかおりとは
なみだしながら一致する
ロト
【ロト】
けれどからだじゅうを
潮路がめぐっているから
ねむるひとの、ねがえりも
たわんで届こうとする橋だし
それじたいをみちひきする
かたちのさだめ、盈ち虧けだ
うつわのなかを上下するものが
それでハマナスをみせている
ということは砂地でもあるのだ
ひとのほとりへしたがうように
そのからだを舟にして漕ぐ
あたまからは連接する岬だから
またがるだけで肌がしろむ
極東沿岸にありえないしろさを
ねむらせたひとへちかづくのは
いつだってぬすみのおこない
このかたちは水がつくった
ハスの沼でもかんじていただろう
やがて陰茎のすがたで
へちまの恥がみのりだす
ひれ
【ひれ】
ぎょたいに添う
ひれみたいなものが
詩の箇所を縦割り
そこを海峡がうるおす
はこだてではひとも
たちかたがほそい
もともと彎曲や坂が
にょたいをくびれさせた
めだつ場所に墓が多い
枕いてもそうなのだ
あえぎにさえ五稜が奔る
やけいから単位が減り
まちのする漏刻が
これからを欠けてゆく
めのまえを反る姉だ
かおのない夜がやさしい
うぇあらぶる
【うぇあらぶる】
草すうほんのはえている
まえをよこぎると
そのからだのおぼえが
うぇあらぶる、だ
それだけの画でいい
わたしはよこぎり
わかいおんなはかならず
草をまたいではきえる
かおりのこるそのあたり
ほかの国のくるぶしへ
ほんやくできないものを
ひくく這わせている
詩にしてそのまるさを
ころがすしかない
うぇあらぶるなものを
はぎおとしてわらい
ひろがり、さらばえる
よこぎる/またぐ(はだか)
なぜおんなの出没は
いつもちかくに起こり
しかもしずかなのだろう
たがいにまとったものは関係
おんなとわたしのまには
あかるい星間をしめす
草すうほんがゆれている
着衣
【着衣】
なみだいろをした腕が
そでをさがしている
いっぽんはそうしてあらわれ
やがてすうほんになって
おんなを着てゆく
うごきのなりゆきはしかし
たばねられたかたちを
ゆっくり本数にもばらす
わかち書きのひけつだ
いきている骨には
うすあおい漿がとおり
おこないをしるす
関節のまがりも
たまらなくうつくしい
まがりのはんいが
からだのくうかんを
かぎりをもって占める
これは蝶道さながら
みいだされたそでへと
いっぽんとともに
ひかりがはいる
ほうふつ
【ほうふつ】
あずまやというには
りるる、もうしわけの
ほそいやねがさえぎって
けさのこさめがわかる
かくて市電駅の真向いは
はだ寒くつまらない
もいわ山へ眼をやると
あんがい紺が立ちつくし
からだが二まい屏風になる
屏風のまま山へ這いずる
けさのじょうはつもあるだろう
マヒトゥでさいごの
歌詞のじゅぎょうでは
とうめいなからだを述べて
いちねんせいのからだを
さみしくさせるつもり
息そのものを開閉させて
屏風であるくのがつらくても
にぎれないこともないんだ
とうめいな手があれば
りり、ほのおだって
ただれのみえないのが
雲をほうふつさせるけど
本木克英・超高速!参勤交代
【本木克英監督『超高速!参勤交代』】
松竹の俊英、本木克英監督による『超高速!参勤交代』は文字どおりの痛快時代劇だった。脚本は城戸賞を受けた土橋章宏のオリジナル。参加俳優が異口同音にスピーディだという、展開満載のその脚本のスピードを、本木演出がさらに倍加・緩急化することで、ユーモア、殺陣、意外性とメインテーマ回帰による音楽性、男女の艶のある場面などが次々に入れ替わる見事な娯楽作となった。
幕府の老中・陣内孝則の奸計により、参勤交代を終えた直後の磐城・湯長谷藩の面々に、ふたたび五日以内に参勤せよ、という無法な命がくだる。最短でも八日かかる旅程を、実質四日で参勤しなければならない。武道にすぐれた七人(主君・佐々木蔵之介をふくむ――したがって「七人の侍」構造ではない)が太刀を竹光にかえる軽装で山中の捷径を強行軍で「走破」、しかも高萩宿と取手宿では「大名行列」を、日雇いなどをつかって擬装する奇策の連続だ。素性の怪しい忍者・伊原剛志が案内を買って出たものの彼も裏切り含みだし、しかも隠密が彼らへの攻撃を執拗に画策する。途中は面々が散り散りになり、しかも「やつし」が加算されてゆく。そんななか四日で参勤を間に合わせる時限サスペンスがかたちよく作動している。
こう書いてわかるように、「走る」ことがまずは俳優たちの基本動作となる。ところがこのところ日本映画は「走ることの映画性」を女優たちに託してきたのだった。映画美学校作品『MAGMA』(渡辺あい監督)での五十嵐令子、吉田良子監督『受難』での岩佐真悠子、黒沢清監督『Seventh Code』での前田敦子。スポーティさと女性性との掛け合わせが、倒錯美をもたらすという確信によってだろう。ならば侍が走ることも倒錯性になる。
じっさい侍が走る傑作はマキノ正博監督『血煙高田の馬場』の阪東妻三郎、森一生監督『まらそん侍』の勝新太郎、伊藤大輔監督『下郎の首』の田崎潤など、伝説的に存在している。ところが街道筋を侍が走る着想は、現在の撮影環境では間が抜ける危惧がある。景色のバレを防ぐために選ばれた街道はつるんと平坦で、そこを躍動する身体が映画的に埋めることが至難なのだ。俳優にカメラが寄れば、むろん俳優の現代性が前面に出てきてしまう。
本木監督は、捷径選択ということで、伊原の案内のもと、まず七人の武士たちに森林を走らせた。ここでは木々が彼らの疾走を背景の流れとして支え、映画的な稠密感が出る。あるいは伊達藩の参勤交代と鉢合わすときには、無礼打ちを回避するため、全員が飛脚に化ける。飛脚――褌すがた。このときは侍たちの尻肉のほほえむような揺れが画面奥行へと滑りつつ、しかも奥行から前景化してくる大名行列と交錯することで、やはり動きの交錯が見事に設計されていた。
むろん街道を参勤の行列が浪々と歩むだけでも映画的な躍動をつくりえない。しかも湯長谷藩は小藩だから、五十名程度の行列でよく、それを縦に並ばせただけでは線型性は出るが量感が出ない。映画での実際の状況をしるすと、行列をデモンストレーションする使命を帯びた高萩宿では日雇い手配した擬装行列の面子が二十五人しか集まらず、そこで五十人以上の行列にみせるために、画面はクレーンショットでのロング俯瞰構図を選択する。そこで一旦宿場を通り抜けた行列の先が街道の裏筋を逆走して、列の最後へと順繰りに列入りする疾走の全貌が捉えられた。これはアニメの解説的な画面の転用といえるのではないか。それが笑いをともなうことで展開の弛緩が防がれたのだが、もうひとつ、街道には被差別者たちのゆく裏筋があるという歴史認識もがこの場面から覗いていた(これを衝撃的にしるしたのは西河克己監督、山口百恵版の『伊豆の踊子』だった)。
「行列は変化する」「しかもその変化した行列こそが正当の行列にみえる」というのがこの作品の法則だ。これはサウンドデモなどが漸増してきている都市部のうごきと連動している。二度目、取手宿での行列擬装は、磐城平藩の行列を湯長谷藩の行列に「飾り替えて」の急場しのぎだった。それは平藩の飢饉のときに湯長谷藩主の佐々木蔵之介が作物を進呈したことを平藩主・甲本雅裕が恩義に感じてのものだった。義は報われる――これも作品の主調音だ。同時に「磐城」の心意気、「磐城魂」の発露には、東日本大震災からの復興精神が二重写しになっている。大根の漬物が旨い土地柄にたいし、徳川吉宗の市川猿之助が「磐城の土をこれからも守れよ」と、佐々木蔵之介へ見事に被災地応援のメッセージをいうのを、たぶん笑いに心をほどきながら、すべての観客が聴きのがしていない。それは「とってつけた」メッセージではないからだ。
閉所恐怖症というマイナス札をあてがわれた佐々木蔵之介は表情も殺陣もきれいでびっくりしたが、のこる藩士のなかでの役得が財政緊縮をひごろ訴え、しかも「知恵者」で通る家老役の西村雅彦だろう。彼は実質四日間の参勤の方法のみならず、困難の局面局面で「知恵を出せ」と迫られる。この点で現状の日本経済の治療師のような役柄といっていい。その西村が井戸に落ちるサイトギャグは、「尻の展開」が絶品で、再見してカットとうごきを憶えたいくらいだった。彼はその後、亡者とみまごうほどに「やつれる」。それが吊り橋での高所恐怖に足を竦ませる七人のうちのひとり(弓つかい)知念侑希(Hey!Say!JUMP)を結果的に救う展開ともなるのだが、ここでは「危機の二乗は救済に転化する」というこの作品の野太いテーゼが出現している。
吊り橋――橋が、作品で強調されるトポスだ。つまり「中間性の場所」が選択されている。それは飯盛女として深田恭子が登場する遊女宿(しかもそこでは押し入れが隠れるための場所になる)もそうだし、殺陣シーンで伊原剛志が瓦屋根から敵もろとも窓を割り建物内部に闘いの場を移すときに屋根へ結果的にあたえられる「中間性」もあった。土橋章宏の脚本は重要な科白を、間歇的にではあれ二度繰りかえさせる奇妙な丁寧さをもつ。深田恭子の、身分の縛りを破砕させる宣言=啖呵もそうだが、あるときは百姓、あるときは武士という身分の遊撃性の自由を謳歌する科白が、行列の日雇いと、湯長谷藩士から、あいだを置いて別々に発せられたのが意味として大きい。ここでも中間性の優位が語られたのだった。むろん忍者の伊原剛志も献身と翻心との中間性にいて、最終的に献身を選択したのだった。
本木克英監督『超高速!参勤交代』は、たとえば宮藤官九郎監督『真夜中の弥次さん喜多さん』ができなかったことを実現している。それは「移動」する精神――「ノマド」が臭気にあふれ野蛮さと汚さを獲得することで強靭さを得るという事実提示だ。この強靭さによって、これまでこの文中にしめさなかった「七人」のメンバー――寺脇康文も上地雄輔も六角精児も柄本時生もTV性の印象を払拭され、野性的な見どころもユーモアも見事にあたえられている。アンサンブルが幸福なこの感触は、マキノ正博=雅弘の命脈を継ぐものだ。
とりわけ顔の造型そのものが時代劇の「情」に嵌るという意味で素晴らしかったのが前言した佐々木蔵之介と、飯盛女に姿をやつした深田恭子だった。深田が登場してくるのは、足を挫いた佐々木が馬で先行し一行を待ち受ける牛久宿。牛久といえば現在ではキッチュな「大仏」が著名だが、むろんそれは深田の出世作『下妻物語』の舞台ともなった場所だった。これは意図的な配剤かもしれない。
七月二十一日、札幌シネマフロンティアで女房と鑑賞。客席は嬉しいことに幅広い層で満員だった。
り
【り】
ひらがなの
ほそまりゆく
かたちだと
り
の字に陶然とする
ほそまりは
まり、あまりなど
女児名にもひろがり
りり、と啼いては
夜の草をみせる
すずのねの接尾辞が
ものへとりついて
ちがうあいだに
ひみつの柔弱がわたされる
ひぐれからのすべては
毬から魔をとった遠低の
り
うすまりゆく
おるふぇいす
【おるふぇいす】
おとのあふれるうつわが
おとのしずもるうつわ
おのれをとじる
声帯の貝のすがたが
ひびきと消音とを
ふたつながらにする
オスとメスの声のちがいは
たかさの差ではなく
ききがたい二重性
その有無による
のみどへむすめが立って
おとそのものである波奥が
そこから島をふやすのだ
なぎさへながれついた楽器
竪のものを横抱きにして
からだがひらたくなる
餉
【餉】
肉でもなく殻でもなく
脈だけあって透いている
とんぼのうすい部分は
皿のどこにあるのか
きのうは駅舎の翅ごしに
とうめいのかさなりをみた
この住まいのつくりも
朝のさしこんでくる尖端を
へさきのかたちにして
視ることをふるわせながら
ながめをゆかすようだ
かんがえを半ばへとどめ
つれあいと餉にあれば
袖のない腕がかわされて
あかるさにひびきあう
石狩蛇
【石狩蛇】
海へと水を返すのが
川だとすれば
ながれには
いつも悔いがある
ちかくのよこすべり
川見にはそれしかなく
ならば空見もそうなのだろう
もう治水で
水路をわたされ
ますぐなる川にかわったが
蛇行のあとなら
わかる霊となれる
ふるい水門
しかも
あとなるものは
こえて西へむかう
珠
【珠】
掬うと
救うとが
おなじおとである
ゆらいをゆくと
みろ、ふかく
きんの水をすくいだす
みのもすぐの
手がみえる
じゅ
重力のない朝は
うるわしく
あいだに珠を
うかばせる
ふたつ手
だけがみえる
途中
【途中】
すべて体位は
途中だ
まぐわいも
半端におわる
放精すら
おこないの
断面だからだ
ふって舞う絮の
からだの恋に
はじまるふくすうは
いつ単数を
おさめるのか
産みなき交接は
ひととなるまでの
きれぎれの途中
筒
しかも
なれない
ほそいあたま
【ほそいあたま】
あとから神のおりた地では
かんがえの神垣がもとになく
ひとのあいだのかぎりすら
みなあやふやにすぎない
だから垣根があるなら
時間に属するものとなる
あたまを時へ容れているのだ
ながい列島弧のはて
星型の陸島にいるおもいも
みさきでなければ顕たず
ほそいあたまを時へ容れている
ほんとうは草であるまち
(ぽぷら並木の嘘)
ながれる脚の
遠方を身にしるされて
よわい夏の娘らがゆれる
魚返一真写真展・君のともだち
【魚返一真写真展『君のともだち』に寄せて】
魚返一真の写真を、「チラリズム」を利用した好色写真とするだけでは足りないと、だれもがかんじているはずだ。そこでまず導入されるのが、換喩=メトニミーの概念ではないだろうか。
風景のなかに配されたさまざまの姿態の少女たちからみえているのが、乳房や股間、あるいはそれらをおおう下着だとして、これらを少女の本来の正常性=顔から顕れた「ズレ」ということができる。ならば、少女性とは「意味」の豊饒な包含で、そこからなにかがひきだされたときには、少女性とは「べつのもの」が少女本体とかさなって、そこに「少女性=被喩辞」と「チラリズム=喩辞」との近接が生じているといえる。こうした構造こそが換喩なのだった。
ロラン・バルトの著作の端々に、写真が映画の換喩だとおもわせる知見があるが、これらはバルト一流の転倒したまなざしにすぎない。ところが魚返の写真はこうした転倒の累乗をさらに仕掛けて、現代人を撃つ。魚返は撮影日誌的なものを多く公開した写真に添えるが、そこでは対象の発見、交渉、撮影場所の探索、撮影中の対象の上気、名残惜しさなどがつづられる。企画ものアダルト映像にも似た一種のドキュメンタリーだが、ちがいは端的、かつ文学的であることだ。
ところがそうした撮影にまつわる背景をいったん知ってしまうと、撮影日誌など存在しなくても、成立した一枚の写真に、撮影日誌的なものの「厚み」が圧延され、しかもそれが写真を「はみだすように」ズレているとかんじられる。これもまた、部分と全体をめぐる――あるいは喩辞と被喩辞の近接をめぐる――換喩なのだった。
魚返一真の近作シリーズは「君のともだち」と名づけられている。キャロル・キングの畢生の名曲と同題だが、ここでも魚返氏とくゆうの換喩的なズレ=生成がある。まず「君の妄想対象」が「君のともだち」にズレている。さらには少女ふたりが「ともだち」で、それらが(とくに手が)たがいの「性」に干渉している。そこではともだちの双対性(デュアリティ)が「たがいに他への」換喩を、性的に形成しているのだ。
たとえば、草はらにならんで坐るふたりの少女たちの、腰から剥き出された、しろくかがやくフルーティ、ミルキィな四つの腿をとらえた幻惑的な写真がある。頭部が構図上、切られ、少女性が部分化しているのがまずは換喩的だ。しかもかつて魚返写真で少女の股間をかくしていた観念の「林檎爆弾」が、この写真では「野イチゴを容れたちいさなバスケット」(そこからも野の風が吹く)にすがたを替え、横にズレている。少女たちのあやうくまとう、しろいうすぎぬは微風にまくれ、向かって右の少女の秘部があらわになっている――はずなのに、そこにはあるべきものがなく、「意味の白」が代置されている。ないものによって、あるべきものが換喩されていることに意味論上、動悸するが、これこそが換喩の最高形態だろう。
くりかえす。そこに写っているのはたんなる少女、もしくは少女性なのだろうか。ちがうとおもう。まずは「ひるがえり」と「ないこと」が写っている。これらの前提があったうえで、それらを内包する「ひかりのゆらめき」が、幻惑的なしろさで写しとられているのだ。換喩は意味ではなく、観念のうごきをとらえる――この点で魚返写真がまさに換喩的なのだった。
●
第26回魚返一真写真展『君のともだち』は
東京・渋谷、ギャラリー・ルデコにて開催
2014年7月22日(火)~7月27日(日)
連日11時~18時 ※ただし最終日は16時まで
うつぎ
【うつぎ】
ひとところで
いきつづけている
あかしが
植生のうつりを
しるすことのみで
かんがえののべたてで
ないのがさみしい
めぐりの白花と時
すべて身をかこむものは
うのはながきをおもわしめ
いのちふたつの
なかにいきたる隙よりも
いのちなかばの
うちへいきたる枝たろうと
そうあることもただ
気風にしおりする
アジサイ喰い
【アジサイ喰い】
たえず緯度の老齢で
紡錘の絞められる北地にも
ようやくいろづきだした
聖水たたえる球を
えらばずにほおばってゆく
ふとどきなやからがいて
しかも球型と淡色とを
もとのままのこすのだから
くれの秋その葉蔭までは
しずかな未遂の亡霊がうかぶ
くちをもやす花喰いびとにあり
ぼろまとうアジサイ喰いは
ふくみあやまる毒でくちを消し
かち色の身もしずめながら
ゆきかうだけをくりかえして
まぼろしなすその挙動から
不審な珠などあふれしめ
つながってゆくひかりみな
ひとしく狂れだすよう
よわさをそこへ火ともす
身塔
【身塔】
まやみへあたまをあずけ
くびなしとみえるひとがいる
てあしではなくほんしつの
かけていることがおそろしい
そういう慰安をみとめてと
さそうこころすらこわい
月齢のこよみをみると
まんげつの七月は十二日
かけているところから
塔になる身があると
月下にぬれてくれるまで
そのひとはうでをたらして
ながめの端にひそむのか
そこをさわってもなにもない
とは幼い陰裂のことだ
けれどとおさをさわっても
おなじぜつぼうがゆれる
テニスコーツ
昨日の夜は次の全学授業「日本の歌詞」のため、テニスコーツ『ぼくたちみんなだね』(04)に収録されている英語曲の歌詞を訳していた。2曲目「シーピーズ」と3曲目「テイクミーホーム」。ひさしぶりに聴くと、やっぱりウルッとくる。それにしても不思議な英語だ。今日の未明にアップした詩篇は、うち「テイクミーホーム」にインスパイアされたものだった。以下少々、意訳だが、そのテニスコーツの訳詞を録しておく。
●
【シーピーズ】作詞作曲・さや
ひつじたち、ひつじたち、どこへゆこうとしてる?
ひみつのあらしがあらわれ、すぐにすべてまっしろ。
まどはあけるのよ、いなびかりがノックしたら。
わたしたちのあたらしさは、いつもぐるぐるまわる。
ねむってばかりいて、いつ眼をひらくの?
ひみつのあらしがあらわれ、すぐにすべてまっしろ。
あけっぱなしの窓が音の呼吸になる。
此処とは其処、わたしたちはすべての時に出会える。
まだ知らぬ季節がせかいの音を消す。
まだ知らぬ季節がせかいの音を消す。
●
【テイクミーホーム】作詞作曲・さや
ウチへ連れてもどして
わたしのほんとうの家へ
そこで雪のなかに葬られたい
全身に灰色の空をかんじながら
音をたてず停まっているバスが待つ
乗客みなが降りだすのを。
その冬にわたしはあらわれる
それからみんなの家に遍在する
母なるコメ、母なるコメのひかり…
ウチへ連れてもどして
わたしのほんとうの家へ
そこで雪のなかに葬られたい
全身に灰色の空をかんじながら
ウチへ連れてもどして
知りたいの、場所とは自分にとって何なのか。
その冬にわたしはあらわれる
それからすべての家に遍在する
母なるコメ、母なるコメのひかり…
七月の肌
【七月の肌】
ゆびのすきまから
さらさらコメをこぼす
さっぽろのそらの
ためのひかりを
やがてはななつぼしが
そらのゆめぴりかが
ひとみの奥へあらわれて
ふっくらしたねばりが
日のおとろえをかざりだす
きれいななまえには
うすくねばるおとろえ
七月の肌がしめっていない
だきよせないまま
肩に日を炊いている
さらさらと擬音のみの
にくたいに似てゆく
ホテル
【ホテル】
ずっとだまっているから
はずかしいあえぎをきかせて
きみはぼくの消音装置
きえてゆくようにその傍らへいて
作用のふかさに再帰してにじむ
発音であるどこにいる、を
ここにいるにのみ替えるとき
ばしょじたいを諦めがふかめる
そうだてのひらはやわらかい
うたわれる誇りにもまして
だからおんなの同性愛の
傍流としてみずからが
寝床へ挿木されることがある
それが流行、不易などない
みていたことをすべてにする
そこホテル、チェルシー
ワン・ビン・収容病棟
【ワン・ビン監督・撮影・編集『収容病棟』】
ドキュメンタリー映画における、「ワン・ビンの距離」がよくいわれる。ドキュメンタリーにはとうぜん人間などの撮影対象があるのだが、ワン・ビンはカメラの存在を対象に意識させることなく、対象の間近にいて、対象の自然な行動を「ただ観察する」「呑みこむ」。対象のふところに分け入り、しかもカメラにたいする対象の反射行動(視線による意識化など)をほぼ消滅させさえする。『鉄西区』にしても、今回の『収容病棟』にしても、対象が丸裸で性器があらわになっていても、対象は恥辱の表情ひとつしない。つまりワン・ビンのカメラは対象にとって「消えている」。
TVドキュメンタリーを撮っていたかつての大島渚は、カメラの侵入によって対象がしめす変化をうつしとってこそ、ドキュメンタリーの真実がある、というテーゼをもっていた。カメラは加害者だというこの見解は、たとえば対象によって意識されたカメラがマゾヒスティックな窪に陥り、それでも逆転の契機を待つ、という待機のカメラをのちに原一男にもたらした。いっぽうカメラの自然化という点では『教室の子供たち』での羽仁進の神話がまずある。学童たちが自由な振舞にいたるまで、教室内に三脚で立てたカメラを一週間ほど回さなかったという、あれだ。
ワン・ビンはより小型で機動性のたかいハイヴィジョンカメラをつかっているはずで、閉塞的環境を対象と共有する自らが、対象に自然に認知されるまで撮影を控えることはとうぜんおこなっているだろう。それから撮影対象になんの挨拶もなく、カメラを回す。対象の移動を、前進移動で追いかける一方で、手持ち長回しショットに「解決」をもとめていない、通常性から外れたカメラの存在感が、対象自身に肩すかしをくらわすこともあるのではないか。あるいは、もしかしたら、カメラの接眼レンズに眼を接さずに、カメラをだらりともつなどして、「対象-撮影レンズ-接眼部分-撮影者の眼」という直線性を消すこともあるかもしれない。それでもカンパニー松尾のように、たくみな(回しっぱなしの)据え置きによって撮影の機械性を放任した気配は今回の『収容病棟』にはかんじられない(対話者=回答者を捉えつづけた『鳳鳴――中国の記憶』にはあったとおもわれる)。
気配を消すことのできるワン・ビンが二段ロケットではないかとおもうことがある。もともと「影の薄い」存在感を身にまとっている。そのうえで、ワン・ビンによる撮影が終わり、ワン・ビンを中心にした編集作業においては、かぎりなく創造的な主体へと変貌する。むろん前段にあるのは「影の薄さ」だ。となると「影の薄さ」こそが叡智の方法なのだ。「影が薄いから」対象への干渉力や作用力をもたない。ところがこのことが「内部から内部を把握する」、いわば「存在の内部系列化」を準備する。今回の『収容病棟』でも収容患者の男性ふたりがこう語りあう。「俺たち、もう幽霊になっていたとすると、どうする?」。幽霊はワン・ビン自身の別名だろう。
「ワン・ビンの距離」があるとすれば、「ワン・ビンの運動」もある。次々と操業を停止した廃工場が癌のように巣食う、巨大製鉄コンビナート「鉄西区」を工場区ごと人ごとに、九時間にわたり多元的に捉える『鉄西区』では、開巻から延々と、コンビナート内鉄路を移動してゆく車輛運転席にカメラを置いた前進移動で、「工場萌え」の視覚的欲望に資するような工場地の展覧がおこなわれた。煙突、鉄錆、配管、工場間の空中連絡、迷路性。つまり、存在する空間の厖大な身体性にたいし、この場合は直進を中心にしたカメラ運動がさらなる身体性をなして、光景の展開を「設計」する。このときの第一の身体性(空間)と第二の身体性(カメラ運動)との関係が換喩なのだった。
認知言語学では、暗喩の意味確定にたいし、換喩は運動の方向性のみをしめして、空間を共有する者どうしの了解を得るとされる。むろん意味に落着しない空間の進展はそこで純粋化してさらなる驚異となる。現在のドキュメンタリーが、撮った現実の文脈付与から離れたことはさまざまに立証されるが、ワン・ビンはカメラの幽霊性と同時に、空間切開の純粋性=換喩性においても中心的な才能なのだった。
果てのない深部まで直進するトラッキングによって視野が展開され、眩暈をもたらしていった『鉄西区』のカメラにたいして、『収容病棟』でのカメラワークの基本は、巡回――同一箇所の四辺を反復的にすすみつづける運動といえるだろう。
「場所」を説明しておこう。エンドクレジットにより、局所にとどまって撮影されていたその場所が、雲南省に存在する精神病院だと知れるのだが、カメラは説明字幕なし、無前提にはじまって、収容者の氏名しか文字情報を観客にあたえない。アングルによってときたま窺える病院施設の全貌は巨大だが、カメラはその病棟部分を、ただ一回の例外においてしか離れることがない(一患者が〔一時〕退院をして、帰宅した家が撮影の舞台になる――ところがその退院者が深夜に路上を延々と徘徊してゆくのを一連の最後でカメラは捉える)。建物は三階建てで中庭がある。その三階部分での撮影が全体の九割を超えている。建物は中庭を囲む四辺で形成され、中庭側に渡り廊下=回廊があり、その回廊から建物の外側にむけて収容者が相部屋で暮らすスペースが櫛比している。三階部分は男性「患者」のためのもので、階下のスペースが女性患者に割かれている。
それにしても鉄格子の存在がこれほど印象的な映画はあまりない(筆者のとぼしい経験では、サミュエル・フラー『ホワイト・ドッグ』のラストに匹敵する)。静態的に捉えられるほか、移動撮影によって視界をかすめてゆく鉄格子は、いわば「運動する」アブストラクトを形成する。具体的にいうと、中庭を見下ろす三階や二階の四辺の回廊は、とうぜん落下事故や自殺を防ぐべく鉄格子が建てられている。収容者とその家族、あるいは三階の男性収容者と階下の女性収容者にとってもまた、階段につうじる回廊の一箇所のドアを鉄格子が区切っている。したがってそれぞれは鉄格子越しにしか会話や抱擁ができない。階段への鉄格子が解除されるのは食事や退院のときに限定される。鉄格子の存在は欺瞞的もしくは中間的といえる。空間を確定して収容者を幽閉する暴力的な限定であると同時に、その「向こう」を望見させ、部分的には接触をゆるす境界緩和装置でもあるのだった。
動作が粗暴で、兄への愛着がどこか統合失調症的なひとりの若い収容者が、なまったからだを鍛えようと深夜に回廊をランニングする。抜群の運動神経のワン・ビンの手持ちカメラは、彼の走行を前進移動で追いつづける。幾度、回廊の四辺を周回しただろう。このときカメラには、逼塞してもなお前進をかたどる「周回」運動が余儀なくされ、それが「収容病棟」を換喩的に身体化するカメラ運動だという点をあかす。この後、カメラは幾度となく回廊の周回運動を作品にしるしつづける。
たとえば円環と前進が複合されると螺旋運動になる。それは掘削であれ何であれ、「外部」を目指すことのできる運動へと転位できる。ところが同一の四辺の周回には出口がない。ただしそこで脱出を許されないエネルギーが充満してゆくのを観客はかんじとることができる。その第一は、貧富の格差が拡大して入院患者を覆いつくしている「貧」「不潔」「汚辱」の告発に転化するだろうが、問題は依然、「ひとつの場所」が「場所の全体=中国」に浸潤してゆく、身体のような、「運動=換喩の意味形成の不能性」のほうにある。ワン・ビンの映画は中国の恥部にいつもふれるが、けっして告発ドキュメンタリーなのではない。「運動」のなかにある身体性が「場所」をどのように編成するかという、換喩をめぐる純粋思考のほうにこそ、その本質がひそんでいる。
相部屋のなかでの排尿、回廊での放尿、水を浴びるために回廊を素裸で歩く男、掛布団の下に隠されながら同性愛にちかいやりとりのなされていること、床に落ちたものの捕食、無気力、統合性の失調によることばのゆがみ、回教徒の祈祷、妻が面会に来ても家族愛の根拠を再創造できないまま自信喪失する男、壁に虫を幻視して靴でその壁を叩きつづける唖者……以上、登場順ではないが、患者のかかえる逸脱は多様だ。この多様性にある偏差がそのまま人間の正常な社会と相同だとわかる。
ワン・ビンは焦点の合った偶然だけを利用して、ひとりひとりの収容者の、ふところにまで分け入ってゆく。このときの「近接」が身体的なものを画面に充満させる。しかしそれらは重くもなく、軽くもない。緩衝的な中間体がそこに出現して、それがどんなにひしゃげていても、人間的なものへの郷愁を醸成するのだった。
たしかに「収容の契機はほとんどがケンカで、強制入院させられてから、収容者は精神病におちいる」といった告発ともとれる科白が一収容者から発せられる。いずれにせよ、拘禁反応は、回廊をまわりつづけるカメラ運動の磁力と均衡している。それは限界内では「みえる」のに、意味化の面では「なにもみえない」失調のなかに、両立的に存在しているのだ。
『鉄西区』でもそうだが、ワン・ビンは閉鎖された場所で暮らしたり労働したりする者を撮影して、そこから意味化できる時間だけをのこすのではない。声が発せられても字幕がでてこない箇所のつづくように、有意味化できない発声がそのまま画面に交響している。のこされるのは、「意味」ではなく、身体の「たたずまい」なのだろうか。そうかんがえてわかる。ワン・ビンの過激なのは、さらに「たたずまい」の手前にあるもの――「たたずまい未然」の身体の置きどころのなさが、画面に気配のように充満している点だ。この視覚的な特性こそが、ワン・ビンの真骨頂なのだった。
むろん観客はゆるやかに、フレデリック・ワイズマンのドキュメンタリーにたいしてそうするように、空間の意味、集団の特性を了解してゆく。その了解が上映時間の加圧を溶かす。今回も四時間ちかくの長尺がなんの苦痛でもなかった。むしろ快感につつまれた感触すらある。それは音響や光の変化にも秘密があるとおもうが、もういちど観たときに確認してみたい。
シアター・イメージフォーラムで上映中。札幌での公開は未定。
めろん
【めろん】
熟れきっためろんのような
みずみずしいふくろを
ひとの腑はしずかにもつ
小水をたたえた膀胱だ
そこに夕かげが的中する
きんのゆれる丹田のあたり
下草もえるからだの棚田
そのなかは房を吊っている
尿意にたえるひとのあるきは
とろとろ西日に煮られ
遠目にもすがたがあまい
そのなかは房を吊っている
とおいしずかさの逆さを
いいあてられるその的のため
ひとはめろんをおもくして
夢十字をたたえあふれている
即身鳥
【即身鳥】
ゆく鷲のはらわたは
ほかの鳥より乾いている
そうかんじるうしろがある
慈餌というものが
ながれをながれているとき
ただ天属であることは
羽をひろげ鷲掴む爪では
なんの埃臭い的なのか
空を海のようにして
あらくつかみだす空海に
ウオのそのかみがうろこする
それでもかたちが十字を延べて
ほかに架するものがない
くうきを呑み返すはらわたが
ゆすりがなでさらに乾く
翔びはみいらへむかう
掌炎
【掌炎】
おとことおなじもの
たとえばことばが
おんなからはなたれて
そこに火のちがいを
みいだすとゆれる
発語の性がきまるのは
やさしい語尾でなく
ことばどうしをつなぐ
くきのたわみによってだ
てのひらにイチゴをのせる
おんなの詩があれば
てのひらから白昼が炎える
いつのまにかイチゴもない
このとき自他のたわみを
おんなの火が奔りゆく
おんなみずからを逃れるような
うつくしいただの迅さで
はなぐみ
【はなぐみ】
はなぐみ、とは
帰属だろうか
ふくすうをこのむと
いつも銘打ってきたが
おんなのふくすうは
くうきに透ける
ほそい草影で
ならびが球をなせば
しぜん子午線を
しずかに測りだす
それらを祀り
はなぐみの員数に
まぎれてみたい
どろぼうだろうか
野窪
【野窪】
めぐりの音をけすと
ことばになれない
かずかずの発語直前が
ひえた夏野さながら
蒼白にひしめきはじめる
開花と繁茂のくべつが
みだれているのは
つるのなかばにこそ
花の白がゆれるためか
昼顔の見えるひるすぎ後ひるぜん
後百済などというときの
「後」が主題だ(いちめん以外は)
すて身の置きどころ夏野窪
ひるがおにかこまれながら
身の丈ではなく身の蝕が
くぼとあわさるひつぎ
そのことがしずかだ