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書く主題のよわいときには詩を書かない。それからすると投稿欄などでも、まずは技術ではなくモチーフで詩が判断されてよいとおもう。どうせ世の中は、どう書いたのではなく、なにを書いたのかのみで本の把握されてしまう時代だ。
ぼんやりと書きたい気分があって、書きだしてことばがみずからの組成をあやつってしまう、そんな詩の曲芸をとりわけきらう。単位のなかに平衡が舞って、かたちとしては天秤だらけにつらなっている。なにとなにを釣合わせようとするのだろう。むしろ比喩になれないかたちや音があって、ことばはそのまえに無力だという本質直観が要る。
書く主題のよわいときには詩を書かない。わたしはへってゆく動機で輪郭をあやうくし、さらにうちがわを掻きださないかぎり刻こく冥くなってゆく。いないわたしが納屋にいたかつての追放。檻から出るごとにひるまを泣いたあの反復すらとてもよわく、いまや食も動機をよわめてゆく衰頽をからだへ容れている。比喩ではなく、この二重性が今後の表現かもしれない。そのうえでひとつの地上を、とさらにねがうのだ。
片目をつむってみる。すると頭部のなかに階段ができる。二段のはずがかぞえられない段数にもなっていて、その段数から耳をのばしてみる。
「つか」と訓まれる塚・柄・束は、みなおなじではないだろうか。それぞれがそれぞれの厚みをしるしている。このかぎりでこれらはかたちではなく、おもいのぶきみなおもみだ。
朝食にも晩食にもしくじったきのうは無産で、ぼんやりと数週まえにみた画像をおもいだした。湿地にいる白鷺のたぐい。脚を一本だけにしてながく建て、飛ばずとも空中に盃のようにうかんでみえるそれらは、まるく屈しまるく反り、その長首をゆらす。瞬間ではとらえられないもの、気散じ。しかも翼の開閉が体形を増幅して、一身に百態もあるのではないか。このことが鷺をしろくする。あのうごきやまないすがたが、感覚天秤をうらぎりつづけるかたち、そう、「つか」ではないものだった。
それでも書く主題はそうした時空のひらけからやってくる。想像だけが、かたちでしかないものを「つか」にしてゆく。ひとにたいすることでもそうだ。無惨だとおもう。
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人体のデッサン力が手のえがきにとくべつにあらわれる、というはなしを講義でする。しかも少女マンガでは、魚喃キリコの登場までまるで満足をえなかったと。八手のように、おおくの手がむしろ手そのものではなく手袋に似ていた。デフォルメ、記号化と称して、認知の稚拙におおわれていたのだった。
手の甲からならびあやしくゆびがわかれ、しかも量感とかたちの中間にあり、はたまた自在にひるがえり、にぎり、ゆびを多彩に折る手は、そのほかにも掬う、振る、撫でる、爪弾く、掻く、つまむなど人体中もっともふくざつなうごきをする。これほどうごくからだの部位などない。白紙に線だけでえがかれた手がなぜかしろさまでつたえるのなら、すでにかたちの流線形と、いろのしろさにも経験上の相関がある。
手のデッサンのため、たとえばあれこれ向きを変えうごかしてじぶんの手をケータイに撮り、模写してみてもはじまらない。ほんとうなら手のポーズは直後と直後のあいだをうつろう。とらえられない中間にいつもあって、ひとたびは途上と未然にかかわり、ふたたびは事後や失敗もさししめす。手をえがくのに視角の無惨をかんじなければならない。手と眼の対峙は、再帰性の範疇をいつも超える。そうして「そこにある」をかがやかす。
手にもかなしみがたたえられるのではなく、かなしみが手のかたちをしている。
かかげられ夜空をさすっていた、星と同属の聖なる五芒が、しごとや知性によりうごきを複合されたとみえるが、あこがれの起源からすれば動物状態へ堕ちただけだ。このとき顔が手の影となった。それが、手が顔の影になったと偽られたにすぎない。
手の美貌は、エレガンスよりもさらに無為を散らす。うつくしい手を体験してみればわかる。掬ってもゆびの隙間からもれる水や、うすくひらいた手からふきとばされてゆく木の葉の強調、映画ならまずそんなものを視る。年齢別の展覧のうちに美貌の手が現れ、それが水や葉にふれ、なにかを掌上へのせる、そうしたことどもへ思いをふやせば、
手より手へ落橋のある秋日差
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じぶんをうらなうことをしなくなった、ひとから不吉にみえていようとも。かぞえるのすら、花びらをむしるようなやりかたではもうしない。あつみのないからだでは「裏綯う」のもまやかしとおもわれた。日のおわり、その日の見聞のうち数条をおもいだすまま糸にして、うすくまかれてはあかくねむる。
東京からのポストでは、金木犀がかおりだして、空間が二重化しているという。この木の北限は本州のどこかなので、その意味の「裏綯い」もこの北地にない。そのかわりだろうか、さっぽろの自販機にはマウンテンデューの缶がたかい比率ではいっていて、あれが金木犀の味だ。ただの共感覚かもしれないが。
ひとの鼻は三角錐をふくみもつ。それは都市の匂いが「あまい」「腐っている」「焦げている」に三分されるためだろうか。とりあえず味覚とちがい「鹹いかおり」といったものがない。ところが磯にゆけば、よっつめのかおりに鼻なども四角い布となって、おもざしから剥離してゆく。
剥離。蚊帳のなかにろうそくをともし、過去世からの愛憎がおぼろにもつれてゆく夏の三人芝居へ、大学のころ狩りだされた。最後、ぶきみな主人公のなかにおんなが塗りこめられ、恋敵のわたしが「形而上的にころされる」。もう記憶もさだかではないが、じぶんの屍臭をあらかじめ嗅ぐといったわたしの一節があって、稽古で小鼻をひくつかせたら、演出家の先輩から叱られた。嗅ぐ顔はただ世界にたいし鼻孔を正面化するため、すこし顎をもちあげるだけでいい、というのだった。
「鼻で息を吸え。小鼻のうごきは要らない」。それが顔の飛行機。表情は飛ぶ。
うらがわが感情や動物性に綯われている顔のうるささ。うすやみにただ白磁のうかんでいるようなひとの頭部の気配にもこがれる。ゆきのころ北地ではそんな物象が視界の隅へあふれてくる。こがれれば焦げたにおいがするのかこの髪も。
そういえば墨臭という精神のにおいもあった。それをまとう炭酸飲料が自販機にないか。あつみのないのどへそれをとおしたい。むかしのよすがに。
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たどりつくと、ひとつの池はひとつの音域だった。草のざわめきにかこまれて、こまかな皺をふるえてきざむ水面が、聴きとりがたいが、音の蒸気を発している。むろん繊細な耳へは、くうきのうごきだから音と蒸気にくべつなどない。
中学生のむかし、音楽の授業がときにくるしかった。じぶんの息のことなるいろが周囲にあらわになる気がしていた。笛による十六小節の作曲を披露する。なんとなく転調してしまう気散じの境に、うつろいがちな悲喜をよみとられる。「きみは草でできているね」「だからきみには苦痛もあるね」。
そらはくもっていて、くうきが大がかりに閉じている。閉じたもののなかに限界をもつ分布があるから音域もかんじられる。それが音階となるためには現象すべてを配列化しなければならない。そのスケールこそが、階梯状のなかでもっともあこがれるものだ。これをしない耳がかなしみのあまり蒸気を聴きだす。
ちまたをあるいていると、いかんなく人語も音域のなかにある。ところがよく聴くと人語の音階がはかりしれない。わたしたちの浴しているのはなんの池だろう。
「だからきみには苦痛もあるね」
芭蕉の古池句は、空間が音域をなすとして、それが単独性であらわされるさいの世界意味の脱色を突いている。ふかいあれはその芯がこわい。かぎられた音域を祝うなら、そこへ持続を導入しなればならない。おなじもののつづきが耳の神経をほぐしてゆく、それでもそれらを部分にしてゆく。
《古池や目高ながるる水の音》、――人語、人界。おとにかなしみのない詩なんて。
赤い殺意ほかメモ
詩が書けない。北大文学部二学期の授業準備のため、このところDVD漬けなのだった。じつは二学期はアニメ授業1、映画授業2、と映像論にかたよった構成になっていて、なかなか息をぬけない。具体的には「宮崎駿論」「50年代アメリカ映画作家論」「60年代日本映画論」の布陣。
60年代日本映画論のほうは、川島雄三(の大映作品)、増村保造、蔵原惟繕、成瀬巳喜男、吉田喜重、加藤泰などの、「女優とノワール感覚のからまった幻惑的な映画」を論題に乗せ、分析しようとおもっているのだが(大島渚は去年の授業でやったので割愛)、最後の一本がなかなか決まらないでいた。鈴木清順の『春婦伝』にしようかとおもっていたが、ヒロイン野川由美子は好きだけど、他の女優と較べ弱いし、作品が情感的で好感がもてても「清順調不連続」の点で異質だ。必然的に最後の切株が無時間性とどう関わるのかなどが、問題設定の中心になって、女優が語れない。どうも気乗りがしなかった。似たような映画ではやはり増村の『赤い天使』のほうが好きだ。
それで今朝の未明、今村昌平の『にっぽん昆虫記』(63)、『赤い殺意』(64)を立て続けに観る。女の土着性の強靭さを描いたいわば二部作だが(他の今村作品より女優中心性が高い)、それぞれ大学生のおり名画座で観た時には、重厚さ・アクのつよさ・部分的な隠喩性によって、傑作とは確信してもリズム的に敬遠してしまったのだった。たとえば『にっぽん昆虫記』の左幸子はうますぎた。「女の年代記」映画では、同時代の高峰秀子よりもさらに批評的な悪辣演技を披露している。けれどそのことに価値が見出せなかった。
ずっと観なおさないで細部を忘れていた『赤い殺意』は、いまノワール映画として観ると、ときにユーモアを盛り込まれながら、「おんなの行為」の連鎖(多くは非決断と突発的な英断の不均衡をえがく)がいかに具体的な場所=土地柄とからまったノワールへとみちびくかでするどい洞察に富む。出だしの重さがなければ――尺数があと20分ほど縮まれば、さらにぼくごのみだっただろう。
ヒロイン春川ますみは饅頭をつぶしたような顔、しかも肥満体で、60年代メジャーが展開した「美と悪」、あるいは「情念と不均衡」のノワールな連関を一見欠いているようにおもえる。春川の顔がしだいに「可愛く」「切なく」みえてくる展開の魔法が命だと往年はかんがえていた。ところがこの映画では非意味にちかいユーモアがノワールをつうじて、仙台を中心にした土地のなかで春川のからだを組み立ててゆく。この経緯に、『にっぽん昆虫記』や『エロ事師たち・人類学入門』(67)の艶笑性とはちがう独創があった。どういうことか。
一言でいうと、他の今村作品では身体が断言的なのだが、この作品ではそうではないのだった。このことが彼女との性愛の相手となる露口茂、西村晃の反射動作からもつたわってきて、となると、この作品の二時間半にちかい長さも、不透明性の厚みのためにひつようだったことになる。春川は「長さ」のなかでくらげのようにゆらぐ。くらげなす日本の、「国生み期」の原型イメージとして。
具体的な分析は授業にゆずるが、日本映画史のなかで特筆すべき点だけメモしておこう。藤原審爾の原作という点では吉田喜重の『秋津温泉』(62)が先行するが、吉田はたぶん今村『赤い殺意』の達成に衝撃をうけたはずだ。それでおなじ露口茂をつかい、しかもヒロインを美人の岡田茉莉子に変えて、男側からの一方的な懸想と暴力によって、崩壊してゆく女の身体をおなじくえがいた。
その『女のみづうみ』(66)は川端康成『みずうみ』が原作と知られているが、欲望対象を尾行する男の奇怪な心理が風景と溶解してゆく幻惑とはちがう、美学的なハイキートーンの幻惑が中心化される。それは、男と女の溶解が白光化するということではないだろうか。したがって川端の挿入的な一文が文脈のどこにも帰属できず、奇妙さの棒になる、原作の最大美点が無視されている。映画-小説の均衡では、たしかに原作が貶められていた。だから呪われていた。相手はのちのノーベル賞作家だ。
話をもどそう。驚くのは、ヒロイン春川ますみの居宅が線路際にあり、また仙台の市電の最寄にもあるという設定によって、さまざまな汽車・電車のシーンが『赤い殺意』に召喚される点だった。降りた市電の逆方向の市電にふたたび乗り込み、露口のいるストリップ小屋へ春川がむかうときの、掟破りのカメラワークに唖然とする。
あるいは春川の乗った機関車の客車輛に露口が乗り、春川を追うようすをホーム上のレールにしつらえられたカメラが車輛の窓ごしに追い、カメラがいつのまにか客車輛に乗る。リチャード・フライシャー『その女を殺せ』にも匹敵する、対・列車にかかわるカメラワークの創意。これにたいする対抗心が、吉田『女のみづうみ』で車輛を連続して露口が逃げる岡田を追う、ハイキートーンの縦構図・前進移動ショットの幻惑を呼んだのではないか。
つまり吉田『女のみづうみ』は川端原作の自由な翻案といわれるが、今村『赤い殺意』の自由な翻案でもありえたのだった。べつの言い方をすると、『女のみづうみ』から川端原作の痕跡が消滅したのは、今村『赤い殺意』の痕跡が代位されたためだった。夏・冬のちがいはあるが、「場所の移動」の幻惑も両作に共通している。むろん『赤い殺意』は汽車・列車映画として映画史上の白眉でもあった。走行する汽車にたいしてどこにカメラが設置されるかでも驚くべき達成がみられる。この点ではロバート・アルドリッチの『北国の帝王』とも、しのぎを削るだろう。
むろん「死ねない土着性のおんな」を描いた点では、大島渚『白昼の通り魔』(66)の影響元になったともみえる。ただし『白昼の通り魔』の川口小枝は「死の不可能性」によって自殺完遂から放逐される女だった。ところが『赤い殺意』の春川ますみは、ぼんやりした意志の不透明性によって「死ねない」。その代わりに、楠侑子が仙台駅前で突発的に「死んでみせる」。肥り肉のくらげは周囲こそを死の海にする――この見切りが、民俗的なものとノワールがからみあうことで生ずる新たな世界観だった。
50年代アメリカ映画作家論の準備では、『カモ』『静かについて来い』『その女を殺せ』と、リチャード・フライシャーの初期の三作を収めたDVDボックスに圧倒された。連続殺人鬼を追う『静かについて来い』は彼の後年のカルト作『絞殺魔』のあきらかな先駆。50年代アメリカ映画作家の面々は懐疑する知性とともに、かたちはことなれど共通して不吉な感覚がある。だから好きなのだ。
『静かについて来い』はラスト、工場を舞台にしての高低差を強調した追跡アクションも見事だが、とりわけモンタージュ写真のかわりにつくられた犯人の背格好・服装を再現した「のっぺらぼうの人形」が不気味だった。この一点で、大和屋竺『荒野のダッチワイフ』、押井守『イノセンス』などとならぶ「映画における人形史」の達成点とわかる。これも二学期授業であつかおう。
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ひとが前非を悔いあらためるため、そのために学問が要る、というのはしんじつだろうか。
たとえばうかぶ雲の刻々のかたちの変化に、刻々のかたちの悔悛をみとめ、みあげることそのものまで悔恨化してゆく。詩学への眼とはおよそそのようなもので、空間と連絡のないことばを自動的につむぎだした、わかい驕慢への怖気は、たんに変化しつづける空の層を眼底にうつすことで、なみだをたたえてゆく。かなしくてやりきれない。
いいかえるなら詩学は、直観による瞬時定立などではなく、時間の幅のなか不如意にゆらいでいて、そこではおのれを規定するものが静止したなにかでさえなく、範囲化の失敗というべき心情へいつもうつろってゆく。上下左右を弁別する傲岸な決めもこわく、だから悔恨する。(視点を基準にするなんて――それでも、)
みあげることが天空をみた。
さだめは、みたび否んだのちかならず鶏鳴がある、そんなかたちをとるだろう。けれどもわたしたちへ救いがさしのべられるのは、三度目の否定が鶏鳴によって脱色される夜明けにではなく、一度目と二度目が後知恵でかえりみられたときの夜にだった。救いは先験している。しかももうきえている一度目と二度目が天空でとうめいな腕をまださしのばしていると知り、過去がきえるなどなにかのまちがい、そのあかしにひとがからだを地上に建てていると力づくのだ。夜明けから斜めに萩がなだれてくれば、それにもふれるだろう。点がひろがるには、にじみとなるひつようがある。かなしくてやりきれない。
ゆびが萩にふれていれば、その萩もそのゆびへふれている。ゆびのない萩にゆびがでる。相互性はこうしてひとたび盤石だが、じぶんにかえれば、この萩によってゆびがふれる以外をけされている点に気づいてしまう。だから枝にふれながら、空をみあげる。ひとときの範囲化の失敗、つまり詩学として。
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数日まえのゆうがた、まったく真上に雲のない空から、はげしい天気雨がそそいだ。JRのガードをぬけたとき駅前の紀伊国屋のビルの脇からおびただしい雨の糸がななめに空気を切りつけてくる、それはしずかで不思議な数分だった。「光景」とよぶしかない眼前のひろがりは、西日に照らされて、ほかの通行人も雨糸を避けるのではなく、うつくしさに呑まれるために、ガード下をたちどまった。自然の理路がすごいことになっている、そのおどろきだけにつつまれて、ひとみなのことばないからだが共鳴していた。
いらい数日、空だけをみて、札幌のひるまをあるくことにした。学校の周辺も自宅ちかくも、みな平地で、あたまに地図がはいっているからできること、もし坂道があればのぼるときしぜん坂道が眼にもはいってしまう。
もちろんおなじような天候の神秘など体験できなかったが、危険といわれかねないこうした歩行での規則にみずから励んでみると、「空そのものをあるいている」幻惑が頭部をつつんでくる。
あおさへはいってゆく、あしもとをおきざりにして。
遠近のはかりがたい「空の光景」があるくはやさでちかづいてくるようにみえて、そこにもともと指標がないのだから、相手が底なしなのだとやはり寒気がしてくる。みえているのは時刻のようなものだ。電線がなければ、前方と上方のかけあわされた青のくぼみをさらにざんこくとおもえただろう。じぶんをみない、かんじない、そのことが空をみつめる眼の把持を純粋にしてゆく。あるきながらもからだが置き去りになってゆく、いままでおぼえたことのない不如意が刻々のこって、
まるで分離があるいているような戦慄に目覚めてゆく。
からだの部分化、段階化についてこのごろおもいめぐらせているのだが、あしもとを消したことで、平地ばかりの札幌の退屈に、ゆうれいをたちあげることができたとおもう。ただしじぶんと空のどちらがゆうれいなのかはかんがえないでおいたが。
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詩にたいする、しずかで確実な熱誠は、いつごろからわきあがったのだろう。記憶力がわるくて、そのときのじぶんに、図書室の窓辺のひかりのなか、石原吉郎の詩文庫を動悸しながらひもといたような像がうかんでこない。時制なしの像ならいまもおぼえる、たとえば水平線を屏風なす蒸気がとおくのぼってゆくようなけしきで。
ずっと驕慢だった。わかさとよばれたころは、ことばをあやつるちからを独善的に自負していた。けれどほんとうの詩は、そうした自負こそを、自負ということばの醜さまで刻みつけて粉砕する。
鉤型で内部をえぐろうとしてその内部がどうしてもぼんやりしていること。
斧では不可能な伐採がはじめから予想されて、じぶんを森林とも定められずに、
書かないことと書けないことに挟撃された一回ごとのほそさが一行だった。そこから現勢化にはりついた否定がひろがりだす。だから詩への熱誠がしずかな破滅へかわる。このことを一大事とひとに気取らせないのが「詩の生」で、からだのなかへ段階を仕込まない「くもりなきもの」など詩とみとめられなくなった。
からだへの段階。男女いずれでもかまわない、たたずむはだかがあって、羞恥の両手でおおわれてその顔がみえない。ゆうぐれの図書室の窓辺でそのように懲罰されている。発語能力もひとつの顔だとすると、その顔すらない、縛れないポーズの謎のほうがむしろ詩ではないか。石原の「位置」を、往年そう読んだのはたしかだ。
たとえばなし。はじめての非人間と自覚した刹那、その直前にであった者が最後の人間となる、そんな相対法則が生きているとして、それゆえ詩を書く者のつどうのがたのしい。じぶんはどちらだろう。
その位置からのみ、往来する脚だけを見上げることのできるふかみもある。地中にはまってしまった非常階段でなければ、塹壕か。かずかずの脚はきっと朝市へむかっている。むろん詩は塹壕のなかに位置できない。だからみずからあるいて、朝市へむかうのだ、それも顔のないまま。
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なすことの多くがやりかけであるような気がしている。とりわけ手もとからうまれるものが、みだれるような書きかけだ。ゆえんはなにか。おそらく「最近」というものが、わたしの側面にたいして、つれなく人格化しているのだろう。離れたり、ちかづいたり。身のおきかた次第だが、横からのみ、からだをみられ終わった一日も、最近にあったはずだ。
他人をかんがえてみればいい。やわらかくひかるバスのなかに、ちぶさをわずかにとがらせた横のすがたがあって、ながい髪にかくれているから、横顔いがいもみたいのに、そのむすめがいつの間にか吊革をはなして、きえてしまった、そんな時空の無念を。
あれが書きかけだ。だが、だれの筆によって。
むろん最近というものがどんな幅や厚みをもつのかは一考にあたいする。きのう藤女子に出講してゆくとき、路傍の花の多くが花房のみのこして、しかも枯れ色の実になろうとふくらみだしていた。あれらも書きかけだが、正面からみおろされることができて、そのちいささには球形が遺漏ない。みちているものには、ちかづけるが、それも植物にたいしてだからだ。
しかるべく、みおろすひとになった。
いちにち外をあるきまわり、視界の移りに、ひかりや風や匂いの変化をまぜたい。北地らしくちいさな地の溝をわたりつくしたい。肺のふくらむことで、書かれつつある草中の書きかけがそのまま一対の肺となり、らでんをおびるだろう。とおい天秤形。ひとりだけでも、ひとりによって、きらきらしなければ。
けれども近代はとりわけ横顔を転写する。切手の思想だ。しられた子規の横向きも、上野の森をおもう顔だろうか。かれの正面顔はむちゃくちゃで、みだれた沢蟹をおもいだす。あの破綻なら遺漏だらけだ。
最近をかためるため、横をいなむため、すすきが相手でも、ひとときのからだをそのなかでまわす気まぐれ。
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高校時代は、ともだちとわかれ藤沢駅からひとり江ノ電に乗り、帰途についた。冬の夕陽があかあかとみだれているとたまらなくなって、鎌倉高校前で下車し、最寄りの稲村ヶ崎まで七里ヶ浜の波打ち際をゆっくりあるいた。風がつよく、波は牙をむいたが、
皺にくずれた詰襟の制服まではとどかなかった。
なぜあんな無駄をしたのか。きっと片頬だ。右頬だけがひかりに照らされることで、すでに捨て身のスリルをおぼえていた生きかたを、あやうくひかりへとつなぎとめていたのだとおもう。
横から引かれてあるくこと。右耳の奥が恥辱に炎えること。読む本にかすかに聖性のあっただけの日々とおもいだすが、耳孔からなされるあたまの分離には、礼拝時にみあげる円天井のもようをかんじた。「てらすな」と不機嫌になる、それがうつむいてあるく足もとの「すな」へかわった。
そういえばリーフェンシュタールは、跳躍者の瞬時の空中形が放つ、幻惑のコロナをみすえていた。ぐうぜんが幻惑をつくる。しかも記憶にしかのこらない。おなじようなすがたが、かさなる波のあいだをふくすう跳んでいた。傍若無人なそれらをじかに視ず、横とおくに予感しながら、
右頬がひかることで、耳孔奥へとひろがってゆく円天井をあかく閉じていた。
それでも糸の身をはこんでいた。奇異きわまりなく。
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詩をかくことをおそれる、まよなかの蒼ぐろいからだからはじめる。
インスタントコーヒーなどをマグカップにつくると、身のまわりの筒状のほとんどが筒抜けていない。生活とは池に似た溜めを点在させ、ときに放置して蒸発にまかせ、ときに果敢をもってのみこむことだ。それがしだいに筒へなってゆく生だろうか。
まよなかにも窓辺があり、そのそばにあるぐうぜんをからだにする。身を立てることをしなかったのだから、片膝を折って、半身の、そのまた半分を建ててみる。からだを建築の中途にすれば、かんがえのためにのむコーヒーが旨くなる。ふと、じぶんにもポーズがあるのかとおもう。
いつからだろうか、筆舌につくしがたい個別、というものがしんじられなくなった。たとえばだれもが、つらいとふつうにかんじる。面倒をよける。万人が感情なら、じつは感情も万人だといいかえてみる。そうしてひとがきえる。万人ごとのうつくしさが、それら万人にちがうかたちで「おなじく」あふれている、これとおなじだ。
きのうの帰途、水から市電への経路が、あるいは水をたたえる市電の車中が、そのように宵闇をたぷたぷはしっていた。
かどをまがって、けれども路上にわずかな火花。
ひかったものをおもいだす脚が片膝を建てている。この感触だ。記憶の片々を、すきまだらけの空間にしながら、以降、二十週ほどの音がつくられてゆくだろう。
大森立嗣・まほろ駅前狂騒曲
【大森立嗣監督『まほろ駅前狂騒曲』】
三浦しをんの小説「まほろ駅前多田便利軒」シリーズ。その標題にある「まほろ」のモデルが町田だとは知られているだろう。町田はJR横浜線と小田急線との交点で、明治初期は北関東で生産された生糸を横浜から輸出する「絹の道」、その街道中間点として交通の要衝にあった。
むろん近年は隣の相模原と併せてたぶん100万人の人口をかかえる大ベッドタウンながら、東京の中心地からは最速で30分ていどかかる微妙な位置にある。千葉、柏、大宮、立川などとともにそういった大規模の東京近郊地には何が共通しているのか。まずは日曜日の雑踏の混雑だろう。「地場」だけで生活と消費をのりきる地元民が急増しているのだ。そこには、古くからの老人居住者、若者層、さらには日本人ではない性産業従事者などが無秩序に混在していて、対・東京という方向性にたいし脱力的に距離をたもつ複雑な独立性がくりひろげられている。
三浦しをんの小説には、たぶんそんな町田のもつ精神性がなにかという見解が、伏流している。血道をあげない美徳があること。清濁併せのむ美学的な混淆があること。地元発信のちいさな流行に乗ってみせること。要点は、過干渉的でないクールな共生により、手軽に日々を愉しんでみせるチープな演劇性があるといったところだろうか。老若男女がやわらかくヤンキーな町。
となると、友人以上だか友人未満だかも知れない付き合いの表面性によって、たがいが複雑な相棒になるような関係が必然的にたっとばれることともなる。そういった精神性がひとつの映画ジャンルを召喚した。「バディ・ムービー」。しかも白・黒をはっきりつけない物語が、次への持続を予感させるふくみまでつくりあげる。映画のえがこうとしているものが、物語である以上に雰囲気なのだった。
町田の「ありものの」風景のなかで終始映画が徹底的に撮られ、そのなかで便利軒の代表・多田=瑛太、そこへの居候・行天=松田龍平のやりとりを、一種、微妙な中間性で提示してゆく、映画とTVドラマにわたる本『まほろ駅前』シリーズでは、この意味でバブル期以降の都市論が精緻な濃淡を肉付けされることになる。ここでは現在的な都市論が廃墟性の剔抉でない点に意味があるのだ。
たとえば映画としてのシリーズ第二作、この『まほろ駅前狂騒曲』での最初の案件は、地元の老人・麿赤児から舞い込んだものだった。いわく、バスの間引き運転疑惑が地元バス会社にあるから、それをバス停に詰めてチェックしてほしい、と。ボサーっと瑛太と松田龍平がバス停の椅子にならんで座っている。仕事をえらばない便利屋稼業だからその依頼に乗ったものの、なんともショボい=映画的感興に欠ける案件というしかない。
ところがバスの間引き運転には象徴性がある。それぞれのバスの運行が渋滞などで遅延してゆく。となると運行表どおりの運転が次第にうやむやになる。ガソリン代の節約、団子運転の無駄回避のために、バレなければ運行が間引かれるだろう。結果、眼に見えないかたちで地元民に保証されていたはずの生活の利便性が減殺される。
そういうことを町田の郊外性がゆるさない。田舎であればバスの本数がもともと少ないのでこういう問題が起こらない。都心部ならバスの代わりに地下鉄などの代替交通手段がある。つまりバスの間引き運転は、駅前ロータリーから分譲地などに複雑に路線が延びる町田的な場所にこそ特有に起こる不正なのだ。こういうものを放任すると、町田的な立脚に危機が生ずるというのが麿赤児の見解ではないだろうか。
あるいは、行天=松田龍平の不思議な個性。低体温のようにみえて義に厚い。冷静な視力をもつようで、ぼんやりとしている。キレると抜群の攻撃力を発揮しそう。子供ぎらいというが、子供に恐怖まで感じている趣もある。その彼は、同性愛者の本庄まなみに精子提供をしたうえで、本庄とは別れている。役に立ったようで立っていない人生の立ち位置がそうしてまず前提されたうえで、ドラマの背後に放浪癖を隠している。「まほろ」にいることが「見えて」、同時に「見えない」この松田によってこそ、白黒に振り分けられない奥行きが映画にもたらされている。
ところで本作で多田便利軒が預かる子供こそがじつは松田が精子提供をして生まれた「はるちゃん」だった。このことが松田に露見すると、松田がどうキレるかわからない。大森南朋などの「脅し」に瑛太がビビりまくるというのが、映画がまず繰り広げる微温ギャグだった。
映画のもたらす笑いは、本作とおなじく大森立嗣が撮った映画シリーズ前作や、大根仁が監督したTVシリーズ同様、瑛太のはっきりとした感情提示にたいし、オフビートの演技リズムをもつ松田龍平が感情不明のまま存在している、一種の不協和からもたらされる。「外し」によってドラマに「ゆれ」の生ずる異質が可笑しいのだ。
そうなると役得がいつも龍平のほうに流れそうなのに、サイトギャグまでふくめた表情の多彩さを実現する瑛太のほうにも「いい感じ」が反映されてゆくのが、大森立嗣監督の作劇術のすばらしさといえるだろう。瑛太のこの感触は、大ヒットドラマ『最高の離婚』とも共通している。それでも松田龍平の「受け」が低温だから、瑛太の感情振幅が相対的におおきくみえて、瑛太にも演技の効率性が確保されるのだった。
瑛太は案件とぶつかり、もがき、解決の道を探る。だから自転車で疾走するシーンなども用意される。たいして松田龍平には「いつの間にか」「そうなっている」美徳が付与される。どこかで存在の非連続性をたもつ松田龍平には、時間の間歇によって、次段階の表情を付与される魔術的な側面があるのだった。このふたりの偏差提示のために、「はるちゃん」に扮した名子役・岩崎未来が良い触媒となった。撮影時5歳でじつに可愛い。その「はるちゃん」に冷淡だった龍平が、便利軒事務所の長椅子に、いつの間にか一緒に寝ているのは、時間の間歇が龍平に幸福に作用するこの映画の法則を物語っている。
スロースターティングではじまったこの作品では、バスの間引き運転、龍平の出自、カルト宗教集団の教祖・永瀬正敏が表向き無農薬野菜の栽培集団を再組織したこと、その不正を、やくざから依頼を受けた瑛太・龍平が暴いたことなどが伏線としてちりばめられたのち、ついに伏流がすべてあつまるかたちで、手に汗を握らせながら、「しかも」ショボくて、そのショボさゆえに進展の読めない「事件」が見事に起こる。ここでも低温性と高温性の混淆が映画性のあたらしさをしめしていたのだった。
大森監督の演出はその場面で冴え返る(松尾スズキの扱いでそれを確信したあと、龍平と永瀬のぶつかりかた、さらには子役が意外な方向進展まで付与するにいたり、わくわく感がとまらなくなった)。とりわけ俳優たちの行動によって割られてゆくカットに遺漏がない。往年のプログラムピクチャー(メジャースタジオ製作のシリーズもの)にはありそうでなかった新機軸かもしれない。脱中心性があたらしいのだ。
町田=まほろが要約不能であるように、あれよあれよとディテールが積み重なってゆくこのクライマックスも、一筋縄では語れない。注意したいのが、この映画特有の低体温と高体温の混淆がこの場面に高次元で実現されている点だ。三浦しをんの仕掛けた「町田論」が映画のクライマックスの演出に見事に結実していて、だからこそ構成美をかんじる。
たとえばバディ・ムービーの古典、シャッツバーグの『スケアクロウ』に、刑期を終え、アル・パチーノの旅の相棒になったジーン・ハックマンに用意された名シーンがあった。粗暴犯の出自をもつハックマンが怒気を爆発させるのではと観客もアル・パチーノも心配したとき、ずっと厚着の謎を抱えていたハックマンが怒気を収めるため、自分の服を次々に脱ぎ出すのだが、異様な重ね着だから脱衣動作・行為が延々つづく。それが見事に観客の心をほどき、笑わせた。『まほろ駅前狂騒曲』のクライマックスシーンはそれとは逆の事態だった。ドラマ進展の不可逆性が、つぎつぎに「みえない運命」を「着衣」していって、その着衣過程がなかなか終わらないような印象をあたえるのだ。
ラストの処理もふくめ、とても気持ちのいい映画だった。10月18日より、全国公開される。
米林宏昌・思い出のマーニー
【米林宏昌脚本・監督『思い出のマーニー』】
「幻想」が小説にとって取扱い注意なのはいうまでもないだろう。文体と時間と空間を「創造」し、物語とキャラクターを「想像」する小説にとって、幻想性が小説本体の付加価値にそのままなるかというと、事態はかなり微妙なのだ。最良の幻想を作用させるには、小説の基軸をくりかえし侵犯してゆくような「展開」がひつようだ。そこにこそ夾雑的なディテールも付帯してゆく。
逆にいうと、現実と幻想の二元性のなかで、幻想を現実離反装置、現実を幻想からの復帰点とするような、たんなる「往還」は、二元性のみを物語の進展装置として確保する一種の自己弁明にすぎなくなる。この手の「幻想」小説が、幻想が皆無なのに幻惑的な小説よりも数段ひくくみられることには、創造性の見地からそれなりの理由があるだろう。もっとはっきりいうなら、幻想は小説性そのものの逃避材料にまでなりうるということだ。だからこそポオやリラダンやボルヘスや泉鏡花や川端康成や押井守が奇貨となる。
ジョーン・G・ロビンソンの英国児童文学を原作に仰いだジブリ製作、米林宏昌脚本・監督の『思い出のマーニー』を昨日スカラ座で観た。荷物の到着時刻が遅れ、観たかった試写に行けなかったためなのだが、二学期に全学授業で宮崎駿を講ずるので、必要な鑑賞でもあった。無敵のジブリだからはっきりしるすが、正直いうと、感銘に乏しかった。想像性のひくさを補完する現実-幻想の二元主義に辟易してしまったのだ。
小学校六年のヒロイン(黒髪に、青い瞳、目許の表情に翳りが仕込まれている)の「杏奈」には育て親への不信、引っ込み思案、喘息罹患、その療養のための流謫といった「負」の徴候がちりばめられる。ヒロインの精神にはシニシズムが浸透していて、それが陽気で向日性のつよいヒロインを一貫して造形してきたジブリアニメからするとたしかに新機軸かもしれない。彼女は、根室近郊の湿原地、潮がみちると水の向こうに鎖されてしまう洋館に住み、しかも厳格なばあやと双子のねえやに幽閉されているようすの同齢のマーニー(金髪で、西洋人形めいた造形)と知り合う。このマーニーの出現する時刻がかならず夕刻から深夜までの水辺だし、出現と消滅にも不連続が仕込まれているしで、だれもがマーニーを「幻想」の存在として、ほぼ始めから了解するだろう。
「ふたりだけの秘密」「会う日ごとに三つしか質問しないこと」「舟を漕ぐこと」「月下」「手をつなぐこと」「瞬時の懐かしさ」「ハグ」「ともに泣くこと」といった吉屋信子的な精神性がこのアニメでは顕揚される。それでも清水宏『港の日本娘』前半や高野文子『春ノ波止場デウマレタ鳥ハ』のような幻惑が一切ない。すべてが清澄の記号で退屈に統一されているためだ。それでもふたりのハグの頻繁な繰り返しにより、「百合」趣味だけは、物語の要請以上に猖獗してゆく。宮崎のロリコン趣味にたいし、米林の百合趣味も相当に病的だという印象のみが増強されることになる。
公開後だいぶ経っているので種明かしにちかい物言いをすると、杏奈にとってマーニーは結果的には同属だった。つまりふたりのハグは「自分が自身を抱く」再帰的仕種に終始したといえる。そうして他者がいない世界が展開されたと結論づけられるこのアニメ映画で、幻想は美的な価値顕揚に「悪用」されたのみにすぎないとわかる。この構造が基本的に駄目だった。このアニメに感銘したひとには自己愛しか保証されない。そう、作品の位置は岩井俊二の『Love Letter』に似ている。共苦がないのだ。
種田陽平デザインによる湖畔の洋館、あるいは杏奈が療養のために仮寓する家も「それなり」でしかない。おなじことは洋館から見つけられ、杏奈とマーニーの日々の行動を裏付けする古い日記にもいえる。
「それなり」以下なのは、まずパーティ場面でのダンス音楽演奏の覇気のなさだろう。くわえてこのアニメの造形上の肝となる「水」の表象が無策だ。透過性、波紋、反映、あるいは表面がみえないことで水底が露出しているような距離感の幻惑もない。しかも潮の満ち引きに干渉されるのなら、そこに顕れている水は汽水ではないだろうか。そうすると、浮島のあるようにみえる植生がおかしいし、ましてや釧路付近の夏は濃霧におおわれ極端に寒い――したがって水が清冽さを超えた残酷な冷たさまで湛えるといった現実性もない。間歇的に挟まれる鳥の描写が稚拙なのと同様、「その地の水」の「その地」性がいちじるしく欠落していて、こういうことはジブリアニメにあったか思い出そうとしたほどだ。「緑のベタ化」なら、あきらかに『風立ちぬ』の衣鉢を継いでいる。
水に濡れる足は靴をぬぐ。それが水底をさぐりながら歩き、あるいは地上を裸足のまま歩く。このときの足音にのみ、繊細な感覚があった。それでも片方の靴の紛失というエピソードは、物語全体のなかで何の効果も発揮しないまま収束してしまう。それでいえば、手が何に触れ、どんな違和を察知し…といった「展開」も、サイロの場面や、「幽霊」マーニーに杏奈がふれる場面で創造的に加算されてゆかない。釧路近郊の夏の水が冷たいという触感が観客を打ってゆかないのと同様だ。触知の欠如。それと同列の、視覚の絵葉書的な平板。幽霊と自然の加算式で顕れる解答はアニミズムだとおもうが、それもない。ないから、作品トータルは現実と幻想間の単純な往還、しかもその世界観をことばによって事後説明することに終始してしまった。
なにが問題なのか。幻想をもちいても、「同一性」が打ち破れないということに尽きるのではないか。しかも前言のように作品は、作中で起こったハグが、自分が自身を抱く図式にまで陥落してゆく脱力まで決定づけてしまった(杏奈と養母のハグにしてもそれは変わらない)。物象の物質性に鈍感な感性が、自己愛のみを拾いだしてしまったとしかみえない――だからやりきれなくなるのだった。もっと行為を「展開」して、その深部で精霊とふれるひつようがあったのではないか。とりあえずはそれがジブリの商標だったのだから。しかし童心がわくわくしないジブリアニメがつづく。むろんこれは日本の「現在の問題」に属するだろう。
追悼・伊藤猛
今月七日、伊藤猛さんが肝不全で亡くなったらしい。享年52歳。近年は健康を害していたのが見た目にもわかっただけに、あるていど覚悟はしていたものの、やはり享年の若さが惜しまれてならない。
内田栄一の『きらい・じゃないよ』1・2からぼくは彼のことを意識したが、やはり瀬々敬久の90年代の傑作ピンク映画群でのすがたが心に強烈にのこる。ガリガリの長躯、くらい瞳、どことなく怪しいエロキューション、不器用さを隠さない演技と存在感。いつも僻地を希望なくさまよう「壊れた」亡霊のような印象があった。なににたいしても連絡をつくらないトリックスター。すべてにたいする「事後」。だからその孤影が縹渺としていた。
瀬々脚本、上野俊哉監督の『連続ONANIE・乱れっぱなし』ではそうして湯田中をさまよったし、瀬々敬久監督の『高級ソープテクニック4・悶絶秘儀』では不安定な時制シャッフル話法のなか、出所→狂気の徴候をしるす伊藤猛にゾッとするような凄味があった。ソープ嬢になっている旧知の栗原早記に「ひかるまで、俺を洗ってくれよお」と嘆願しながら、次第に失明の度合いをたかめてゆく。ちらりと語られる幼女殺しの暗示も怖かった。最後、伊藤猛は宮沢賢治の「よだか」よろしく絶望的な「飛翔」をしるす。瀬々のピンク映画が完全に一般に浸透した時期の『雷魚』では雷魚を川べりで「火葬」する伊藤猛のほそながい立居が、朝霧のゆらめきのなかにあって、うつくしかった。
そのように記憶をたどりなおしてみると、定住不能者にまつわる「絶望と美」の不分離が、ピンク映画では伊藤猛にずっとあてがわれてきたことがわかる。ピンク映画の身体・貌は女優中心にとらえられがちだが、伊藤猛は彼女たちにからむことで、暗闇のようなものをよりふかく分与した。とうぜん濡れ場のリードもうまかった。かといって、唯我独尊的な存在だったわけでもない。たとえば他の男優たちとのアンサンブルにも長けて、佐野和宏の倦怠的なダンディスム、小林節彦の破壊的な飄逸、下元史朗の洒脱とうつくしさ、川瀬陽太の暴走などとも、いつも見事な対をなしていた。
痩せたなあとびっくりしたのはいつごろだったか。それでもサトウトシキの青春Hシリーズの傑作『青二才』では痩せたことによって顔をふかく刻み始めた陰翳が息を呑ませた。あの作品では長回しがすばらしかったが、そのなかで――たとえば冷蔵庫の扉をひらいてあかりに照らされた伊藤猛が、嘔吐をくりかえしながら、うずくまって暴飲していた。そんなとき伊藤猛は、長回しであたえる緊張よりも、「何もなさ」を、身をもって体現する画面への自身の置き方で慄然とさせたものだった。無駄な演技をしないひと。加齢の仕方がイーストウッドに似るのかも、とおもったこともあった。
もっとキャリアをかさねてほしかった。ぼくにはとてもいいひとだった。変わった物書きと見込んで、ずっと敬意をしめしてくれたとおもう。狡猾さのない性格だった。どうか安らかに。合掌。
増村保造・夫が見た
増村保造『「女の小箱」より・夫が見た』(64)とひさしぶりに再会した。予定調和の「黒い」破滅ストーリー。株の買い占め、会社乗っ取りの経緯が物語を推進させてゆくが、原作・黒岩重吾、脚本・高岩肇+野上龍雄は、池井戸潤のいる現在からみれば、ディテールの積み重ね、精度がとてもひくい。わらってしまうような、薄っぺらな科白も多い。「女性」は決めつけられ蔑視される。女優の役柄じたいがそれを推進しているのだ。それなのに、若尾文子、岸田今日子、江波杏子など女優陣の幻惑力に魅了されてしまう。
若尾が本作で恋に落ちるのは、課長の夫・川崎敬三が社命で株の買い占めを阻止しようとしている当の相手・田宮二郎=悪辣な青年実業家だが、恋愛にまつわる紋切型のやりとりのかわされるなかで、「恋におちてゆく」若尾文子の身体表情、その「段階化」だけが異様に微細でしかも飛躍すら織りあげてしまう妙な不均衡がある。このことじたいが悪夢に似ている。つづめていえば、恋愛表象が悪夢化する酩酊を映画が冷笑的にさしだしているのだ。そのなかに「二者択一」にまつわる哲学的な命題も伏在している。
展開を盛り込むようにみえて、そのじつ物語が平板なのだが、その安直さこそが罠にほかならない。観客はストーリーの蜘蛛の巣から前景化されてくる若尾のからだに、いわば銀の糸をみる。からだに物語のからむこの感触が、いわば「からだ=ものがたり」の複合体を形成するのだが、それがむろん「現実」から問えば、キメラなのだ。それでも若尾はからだの(みえない)糸をほんとうにうつくしく、ゆらす。
伏目、横顔、不倫にかかわって文字どおりよろめく姿勢、着物姿、頭頂のたかさを驚愕するほどうわまわって幻惑を盛り上げる六〇年代的な、やがて「サイケ」の命脈を掘り当てるだろう髪型、平板で和風な、それでも現在から規定すればしろいアニメ顔である若尾の顔の画布を活気づけている、少女性、憤怒、淫蕩、諦念など、通常は同列化できないものが慌ただしく点滅しあう動物的な眼差し、下から対象をみあげるその貌にもっとも聖性が発揮される、そのことじたいが目論んでいる、若尾に充填されたサディスム誘発…
それでも若尾に張り巡らされているのは、撮影所の伝統にもとづいた美化であると同時に、なにか得体のしれないミソジニーなのだった。若尾に魅了されながら、その魅了の刻々を黒い冷笑へとかえてゆくこの暗冥な相反感情の発信源は、むろん監督の増村だが、その気配を知りながら自分を刻々とカメラのまえに展覧させてゆく若尾も、共苦の本来的にもつ外延拡張力で「増村=監督の場所」を獰猛につつみこんでゆく。もしかすると、悪夢のほんとうの正体はそうした対立価値の無効化かもしれない。かんたんにいえば、映ることだけで若尾がただ増村に勝利しているのだ。
「嘘ばっかりの映画」――それは作中に若尾を「吹き替えた」裸身が氾濫している点からとくに生ずるのだが、「氾濫」そのものに発情してしまう形而上的な倒錯も起こる。なにしろ観客は、「罠に直面している」意識からずっと離れることができないで、吹き替えられた裸身の、肌のくずれながらもそれでも保持している「顔のない」石膏性と、からだじゅうが眼になって身体表情にすばやい変化を起こしている、「顔と二重化された」若尾の、吹き替えよりはずっと華奢なからだ――これらの対比性に、幸福に引き裂かれてゆくのみだ。こういう分裂は、映画以外では美学化できない。そして「血がほしい」とおもった好機に、「若尾ではなく田宮二郎から」流血が起こるのだった。映画が嗤っている。
川崎敬三の印象づける、人格のいやしさが逸品。けれども最もフリーキーなのは、田宮二郎の右耳のかたちだったりする。そういうもののつくりあげる不吉さで大映のスタジオシステムが形成されていた。カメラマンが村井博から小林節雄への移行期だったのか、そのどちらでもないカメラマンは増村映画がモノクロからカラーになるときには艶笑性が不随意的に付帯してしまうとつげる。
美術がごちゃごちゃしている。俳優の肉だけで画面が充満してしまうフランシス・ベーコン的な事態も、作品の終幕でしか起こらない。これらが増村調を減殺している。科白も早くない(かわりに時間進展が異様に速い--全体が数日の物語で、しかも俳優たちは「夜に活躍する」)。『妻は告白する』や『赤い天使』のような、モノクロ画面ならかんたんに成し遂げる「集中」もない。むろん物語の予定調和は、じつは作品是非の判断基準とならないだろう。それが増村で、この点だけがフィルム・ノワールとちがう。フィルム・ノワールではむしろ物語の予定不調和が最も価値化されるのだから(ただし増村には予定不調和の傑作『偽大学生』がある)。
それでも「からだであることの同意」、それを最もふかく憂鬱な水準でしめすのが、にんげんのうちの女優だ。彼女は非人間性ととうぜんに接触する。若尾文子は眼前にみえながら、井戸の底の捕囚でもある。このことはなんら予定調和的ではない。
正方形
詩集というのは、なぜか通常の四六判などにすると、外見が詩集というかんじがしない。それを逆用する手も、このあいだの最果タヒさんの詩集のようにありえる。けれど実際に多いのは縦長変型だろう。判型の異質が、詩集という書物的異質を保証する恰好となっている。
ところが縦長判型で、一行字数のすくない改行詩を載せてゆくと、一頁行数のすくなさと下余白のおおきさが強調され、値頃感がひくくなる。下余白のおおきさには効率性の見地からどこか不器用な感じもある。この点、詩集造型のうまいのが、ふらんす堂かもしれない。判型を小型・瀟洒にすること――つまり「ちいささにすること」で、詩集的な異質をつつましく決定づけている。
ペイパーバック、見返しなし、扉トモガミ、オビなしの思潮社オンデマンド詩集は、当初A5縦長変型シリーズとしてスタートした。詩集それぞれ字のおおきさも一頁行数も詩篇タイトルのたてかたも同程度で、萩原健次郎さんからは、著者ごとに個性的であるべき詩集の外観が、みなおなじ鋳型に嵌められているのではないかという心配も出された。まあ当初はネット詩誌「四囲」のメンバーが中心だったので、それもいいかとはかんがえたが。
このあいだの三冊同時刊行の田中宏輔さんがおなじ判型ながら変化への先鞭をつけた。字をちいさくして、しかも散文形を駆使して実質的な版面を縦に拡大、文字数が多くても詩集となれるよう挑発をおこなったのだった。詩篇間空白の処理にさまざまな工夫があった。詩集ごとに先鋭なデザイン意識を発揮する宏輔さんらしい意気込みだった。
そのつぎが出たばかりの高塚謙太郎さん『ハポン絹莢』。こんどは判型が横長(横位置判型)となった。ブリングルさんの思潮社詩集の影響かもしれない。横位置判型で縦組になれば、とうぜん一頁あたりの収録可能行数がふえる。しかも高塚さんは字を小さくして、頁数のわりにおおきな量感の詩集をつくりあげた。それとなぜか、書肆山田方式を採用して、聯間空白を二行ドリにしてある。これは字をちいさくしたことから生じやすい目詰まり感を回避したかったためかもしれない。ともあれその形式で、二行聯連続詩が冒頭から果敢にならんだ。
ぼくが今度の思潮社オンデマンドで採用するのは正方形判型だ。いわば縦位置と横位置の中間体で、どちらの感覚もとりいれようということだったが、オンデマンド製本され、手にとってみて、その感触を最終判断するしかない。むろん正方形のものを手でささえると「落ち着く」。これはLPジャケットに愛着してきた往年からの身体感覚だろう。ぼくにとっての正方形詩集の理想が書肆山田刊、藤井貞和さんの『神の子犬』だが、あれは表紙カバーの紙質も特殊だった。暗色の、どことなく毛布のような手触りのある、それでも厚さのさほどないやわらかな紙。ちなみに松浦寿輝『冬の本』の、完全に毛布的な灰色のカバー紙は、とても高価な紙なのだそうだ。
亀岡さんのたくらみにのって、自分のオンデマンド詩集に正方形判型をえらんでみて、ゲラが出るまでの経緯にすこし試行錯誤があった。詩集は1行25字詰、1頁18行の版面だ。そうなると、余白が縦方向におおきく生ずるのではないかとかんがえられるだろうが、じつは字と行間がこれまでのぼくの詩集に較べ、相当におおきい。それで頁ぜんたいに、字が均等にみちている効果が出ている。後知恵的にわかったのだが、ぼくのばあいは1字1字、1行1行をゆっくり読んでもらいたいのぞみがあって、展開する文体や難易度や喩法や驚愕付与とともに、字のおおきさによって「ゆっくり読んでもらう」効果をつくりだせた気がする。ともあれ宏輔さんや高塚さんの対極をねらう立脚となった。
宏輔さんは自分にまつわる粒子のあらい写真(ケータイ写真だろう)で表紙をつくりあげた。高塚さん、それから高塚さんと同時に刊行された宮尾節子さんのオンデマンド詩集は、表紙に絵画が使用されている。ぼくのこれまでの思潮社オンデマンド詩集では、デザイナー中島浩さんが用意した「よくわからない図版」に、文字をつつましく載せる体裁だった。ぼくはどうも表紙の著者名の字がおおきいのをきらう傾向がある。そのうえで中島さんのつかう図版がオブスキュアなのだ。むろんオンデマンド出版で書店には置かれないとはいえ、ネット上や広告上には書影がでる。書影はまあ本の「顔」なのだが、その顔が輪郭もはっきりせずにボーッとしていて、顔貌判別性がひくいというのがこれまでのパターンだった。
アマゾンでのオンデマンド造本では、表紙に絵や写真を使用しても費用がかわらないはずで、それなら詩集に「はっきりした顔」をあたえるため、なにか表紙にふさわしい絵や写真をさがしたり、使用許可をねがってもいいはずなのだが、どうも、画柄によって詩集イメージのぜんたいを拘束されてしまうのを、きらうようだ。もともと詩集タイトルの字面にイメージ形成力があるのなら、ほぼ字とその字組の綾によって、「詩集の顔」ができないだろうか。どうしても図版的なものをからませざるをえないのなら、方形や線の抽象的な分布で充分という気もする。モンドリアン的なものというのは、デザインの抽象性のみならず具象性にもわたっていて、それでも「それ自体」を押しつけず、じつはとてもすぐれている。
詩集の本文校正はさっき終わった。中身がそれで確定するとして、表紙デザインの決定がまだのこっている。そこで中島さんとどんな折衝過程が生ずるのか、たのしみにしている。十月中の刊行、実現するかなあ。
いろいろ
うっかりしていた。おととい9月2日(火)付北海道新聞の夕刊に、ぼくの月イチ連載コラム「サブカルの海泳ぐ」第6回が掲載されていました。見出しを拾うと、《アイス・バケツ・チャレンジ→ドラマ「僕のいた時間」→最果タヒ詩集》。ひじょうによく書けた原稿という気がしています。図書館やネットなどで探していただければ
うっかりしていたのは、このところ二学期の院ゼミ準備でDVD漬けになっていたため。今日未明からはニコラス・レイとサミュエル・フラーの連続だった。ひさしぶりに観た『夜の人々』はやっぱり聖なる犯罪メロドラマ。夜陰にうかぶしろい顔がこれほどうつくしい映画はない。それでも美にとなりあう「不安」をかならずもちこむ流儀がニックだ。アルトマンの『ボウイ&キーチ』とおなじ題材だが、ニック版のほうが好き。
サムの『拾った女』は恥かしながら初見参だった。ノワールな道具立て(そこには赤色スパイもふくまれる)を満載させながら、まるでクドカンドラマのような順列組合せでストーリーが展開し、円環が収斂してゆく。院生のRちゃん向き。クライマックス、地下鉄駅でのアクションがすごい。スリ、密告、謎のフィルム、拳銃、運び屋の女、熱病にうかされたような接吻、男気、水上生活、夜…
女性の音韻
とどいたばかりの長嶋南子さんの詩集をいま読み了えて、感銘がずっとからだをただよっている。『はじめに闇があった』(思潮社刊)。家庭崩壊、死、悲嘆、眷属史などがつぎつぎ主題的にうたわれているのに、音韻があかるくて、絶望をたかめられた気がしない。つまり詩においては、音韻がたぶん意味より先行するのだ。そこに「あたらしい感情」をつくりあげるヒントがある。そういうものと直面して、うたわれているものが虚構か現実かの判断すらつかない。作者の感覚の、ゆきとどいた注意が、ユーモアとからまっていることだけわかるのだ。
一篇のみ、転記させてもらう。
【眠れ】
長嶋南子
眠りかけると
じゃまするものがいて
わたしの胸を針でつつく
ハッとして目が覚める
つついたのは
死んだ父のようでもあり母のようでもあり
暗い目をした息子のようでもあり
わたしには息子がいないようでも
いるようでもあり
おまえが息子のお面をかぶって
自分の胸をつついているのだろう
と声がする
母が眠れないのはかわいそうといって
針をひき抜き
わたしをほどいて縫い直している
母だと思っていたら
おまえは母のお面をかぶっているのだろう
なにも縫えないくせに
手元を見ればすぐにわかる
と別の声がする
これらのことは
本当は眠っているのに
眠れない夢を見ているのだと
自分にいい聞かせる
眠れよ
わたし
●
悪夢的な詩なのに、ひめられている切実なひびきが、恐怖を解除してしまう逆転がある。これが哲学性だとすると、哲学性とはむしろ音韻なのだ。
おなじようなことは、このあいだ坂多瑩子さんからいただいた彼女の詩集でもかんじた。その第二詩集『スプーンと塩壺』(06年、詩学社刊)から、もう一篇、引く。うえとならべると、女性性こそが音韻の一形態なのだという気もしてくる。こちらも夢にかかわる。
【ぼうぼう生えて】
坂多瑩子
草っぱらだ
遠くにいると
芝生のように
静かだが
近づくと
背丈が
ぐんぐん伸びて
どうしてだか
きゅうりに似た
ちくちくする葉ばかりが
ぼうぼう生えて
花飾りを編んだ
あのクローバーの花
どこに咲いていたのか
夢まで
こんなに年よりになって
それにしても
なんて大きな声で
みんな
笑っていることだろう
木下こう歌集・体温と雨
【木下こう歌集『体温と雨』】
「未来」での大辻隆弘の選歌欄「夏韻集」で頭角をあらわしていった木下こうの第一歌集『体温と雨』が、今年五月に砂子屋書房より発刊された。みごとに清新ですばらしい。みずからの情をうたい、しかもそのことがみずからの才能を保証してゆく作歌のよろこびは、彼女自身の次の歌にもみえるだろう。
階段といふ定形をのぼりつめドアをひらくと風がひろがる
むろん階段そのものが定形だという発見が一首の中核なのだが、定形は短歌そのものをも二重化している。したがって建物内、屋上へいたる階段を昇り、屋上へのドアを開けはなって、開放されたその身体を風が吹き抜けてゆく爽快は、そのまま作歌の爽快とも比定されるはずだ。
岡井隆主宰の「未来」だが、女性歌人は盛田志保子など、葛原妙子を信奉する才能がままいる。木下こうもその例に漏れない。
誰かいま白い手紙を裂いてゐる 夜のカップのみづ揺れだして
初句が葛原《たれかいま眸を洗へる 夜の更に をとめごの黒き眸流れたり》と共通している。「たれか」という対象の曖昧=不安を前提として、その者の行為が理路を欠いてこの世の破れ目となっていることを予感する。この予感そのものが作者の幻想性を再帰的に保証する構造も、二首には共通している。葛原的な侵犯は、断言が事実ではなく幻想を転写する点にある。それで歌の感情が繚乱とゆらぐのだ。木下こうの「葛原調」をさらに『体温と雨』から列記してみよう。
路傍〔みちばた〕にしやがみて犬を撫づるとき秋をひとつの胡桃と思ふ
ダアリアを剪〔き〕りつつ邪悪ね、と言ひぬ けふこひびとに差し出すダアリア
こめかみの熱をうつして臥す夜に なにゆゑ人は布に眠るか
掲出一首めで、「犬を撫づる」感触を読者は自問するだろう。体表が総毛でやわらかくつややかにおおわれていても、その下の皮膚のうすさ、肋のちかさなど「くずれやすく」「不安な」犬の撫で心地が、ぼくなどには記憶されている。かるく撫でれば犬なのに、ふかく撫でると同定できないものに触れた恐怖が生ずるといってもいい。下句で「犬」から「秋」へと触覚対象のずれる破格の構文だが、その「ずれ」が秋特有の犬の撫で心地に、これまたズレをはらんで、なんと胡桃を召喚するのだ。
胡桃とは何か。触覚としては縦横する筋のある堅さと、それにまるさ、油の艶だろうが、とうぜん「胡桃の中の世界」=「壺中天」の聯想からミクロのなかにマクロの閉じ込められたコスモスもそこに現出する。同時に胡桃はそのまま脳と形状が似ている。胡桃と脳の親近は、脳出血で半身麻痺した患者が胡桃を握りかえしつづけるかつてのリハビリテーションの存在からも来る。したがって一首は、じつは触覚の同定不能性と突き当たっている。それで感慨がふかいのだ。
掲出二首め「ダアリア」は反復が葛原的だ。そのうえで新機軸がある。気儘さ、独断、言い捨てはいわば葛原短歌の「紋章」だが、女性終助詞を付された「邪悪ね」に統一性を砕く乱調があるほか、一首全体の意味結節が意図的に不全で、結果、「言いさし」にちかい破天荒がさらに加わっている。
掲出三首めでも破天荒さが変わらない。上句と下句のあいだの一字空白によって、上句の「言いさし」がわずかにただよい、ここでは助詞の斡旋がみだれている疑義がかすかに生ずる。そのうえで一首内の因果関係がいわば「間歇的に再帰する」。(熱)病者が《こめかみの熱をうつ》すのは、彼女のくるまる(毛)布であって、ひとは病を得て、おのれの熱にこそくるまって繭籠る、神秘的な自己閉塞へいたるのだ。ここでの布には、聖書世界の放浪者が寝具につかう粗布の感覚も揺曳している。同時に、下句《なにゆゑ人は布に眠るか》の箴言調に葛原短歌の余映もある。
ここまでの指摘であきらかになっただろう。木下こうの歌はうつくしいが、美のみへ回収されない、ちいさな破格を志向するときに威力を発揮するのだ。それは木下の精神にすでに内在されている価値ともよべる。たとえば次の口語短歌もどうか。
でたらめに砕けたものがなめらかな水に浮かんで昼がきれいだ
「きれいだ」の乱暴な断定に味がある。散乱を恋いねがう同様の価値観は以下の一首にもみえる。
ぽつぽつと小径を雨が濡らし初むかきみだされた配置のやうに
ここには「きれいだ」の見惚れは作者のからだのなかに呑みこまれている。それでも「でたらめ」と「かきみだされた配置」が、同等の「散乱」を志向している点がかんじられるだろう。「散らばり」は次の家事詠の一首にもある。
おそなつの昼のひかりは散らばりて、散らばるままに檸檬洗ふみづ
注意したいのは第五句(結句)だ。すでに「檸檬洗ふみづ」は八音だが、潜在的には助詞「を」が省略されているので九音の印象まで投げかける。「散らばり」にたいし音律の破調がこのように対応しながら、危うく一首が立つから、感銘をあたえるのだ。
木下こうのすばらしさは、破格へのあわい欲望のある一方で、自己身体の把握が敬虔でつつましく、それゆえに外界との「あいだ」に入れ子的な身熱世界のうかびあがる点だ。ルオー絵画の人物の輪郭線とも共通するが、それをことさらもろく組織する点に彼女の真骨頂がある。身体と世界の「あいだ」が顕れる点には、メルロ=ポンティ的な現象把握もかんじる。
昏れやすきあなたの部屋の絵の中にすこし下がるとわたしが映る
まだ結婚で子供をなさぬ男との恋人時代がうたわれているようすがある。「昏れやすき」部屋には、アパートの東向きの一室をかんじた。掛けられている絵画はもともと暗い。しかもそれが硝子でおおわれている。絵は暮色のこめはじめた時刻でも、まぢかには筆触など細部がみえる。ところがやや絵から離れると、硝子のしたの暗色と相俟って鏡面化し、「わたし」の像をぼんやりと映すのみだ。表象とは可変的に自己像を反映させる仮象にすぎない――そうなったとき、世界の意味は、「わたし」そのものではなく、むろん「仮象」そのものでもなく、それらの「あいだ」に曖昧にながれているといえないだろうか。
丘の樹がけふこぼしゆく百枚の葉よまひるまのわたしがずれる
ここでも「百枚の葉」を「こぼしゆく」「丘の樹」と「わたし」の「あいだ」のほうが、「わたし」そのものよりも幻惑的に意識される。歌は「まひるま」の定められない正体に迫ろうとしている。結句「わたしがずれる」がすばらしい。「われがくづれる」ではないということだ。わたしにきざす異変の幅はちいさく、他者からほぼ感知できない。むろん女性的な内観が、その表層とずれているのだが、このずれがわたしの周囲からそのまま映された(移された)ものだと察知すると、一種ぶきみなアニミズムの感覚もつたわってくる。
サルビアの咲きてあかるむところまで晩夏の微温き水をはこびぬ
さきの「おそなつ」につづき、ここでも「晩夏」。むろん葛原の「晩夏光の酢」に、木下のこころが灼かれているのだろう。ここではサルビアの赤い花群は「あかるみ」と捉えられる。それに水をやるためか作者はあかるみへあゆむ。ところがその水は「おそなつのぬるきみづ」と表記されず、「晩夏の微温き水」と堅く重くされる。このときサルビアと真逆の、水の暗さが逆照されてくる。だから作者が水を何に盛ってはこぶかがぶれてくる。第一観は如雨露だろうが、作者が水のくらさを間近に見下ろしているとすると、それは胸もとにかかえる盥なのではないか。となると、作者の歩行も「水やり」という実務性から何か象徴的なものへずれる。こうして、ずれにむけてひろがるのが、木下こうの短歌だった。むろんここでもサルビアの花群の位置と、あるくわたしの現在地、その「あいだ」の把握が主眼になっている。
祈りかたさがせぬままの朝の身は石つむことも重たかりけり
「祈りかた」を「さがせぬ」――こうした「信ある不敬」も葛原妙子に先例がある。「重たかりけり」の慨嘆はなんと哀しいのか。「石つむ」に三途の川の気色がたしかにあるが、句は「みずからのからだ」の形而上的な「持ち重り」にも届いていて、どこかでグノーシス的だった。川原に身を屈して石を拾うことにはシジフォス的な無限、その恐ろしさもある。
うろくづをみづに洗へばしんとたつ藻のごとき香はわが裡のもの
この家事詠では理路のずれがある。ほんらい「藻のごとき香」を発するのはみずからの洗う「うろくづ=魚類」のはずなのに、魚と同調して、みずからの奥処が「藻」の匂いを放つと自覚されているのだ。ところが結句の「もの」止めからは、女性的な含羞よりも、みずからの起源のふるい神秘性をおもう自恃の念がただよってこないか。いずれにせよ、「ずれ」をかたどりつづける木下的身体は不埒なまでに同定性を欠落させている。そのことが抒情性に転化する点があたらしいのだ。
檸檬を洗い、うろくづをあらう。とうぜんここらあたりで「水」が木下短歌の特権的な物質と気づくだろう。ところが木下的な水はかならず微細さと化合してしか、歌の主題とならない。大仰な水、塊の水は回避されるのだ。
食卓のトマトつめたくしたたりぬ軽羅にあはく蔓をひろげて
トマトの表皮を「軽羅」とおもいつつ、作者はそこに散らばるこまかい水滴を視ている。やがてその水滴が連絡しあって、蔓状にくだる、こまかい水路をつくりあげてゆく。それはたぶん、恍惚と恐怖のあいまざる、微細世界のみにある光景なのだろう。むろん木下こうのような視力がなければ、そうしたものを眼にすることができない。それが「わたし」の周囲におよび、「わたし」が茫然となるのが《糠雨はわが傘の上〔へ〕でみづたまとなりてしづかに手提げへと落つ》だ。この水は「水ではない水」へも昇華する。そうして木下の絶唱ともいえる次の忘れられない一首が出現する。
身にふれて濡るるからだを覚えたりこの薄絹は雨にあらねど
この一首を噛みしめてほしい。薄絹のような雨に濡れて、体表に薄絹のような模様をつくっている作者の女体が一読意識されるが、雨は雨じたいであることを結句で否定され、遡行する意味がゆきまよってしまう。着衣の感慨がうたわれているとおもいかえすが、よく見ると、上句の理路も「周到に」くずれているのだ。換喩性を機能させきった、前代未聞の秀歌とよぶべきだろう。
「散らばり」と「微細」は連絡する。あるいは「水」と「水に作用をうけるもの」も連絡する。それをあかす一首。
はなびらの踏まれてあればすきとほり昼ふる雨の柩と思ふよ
雨の昼に散らばりながら、地面にへばりつき、そのしたの地面を透かしている、大量のさくらの花弁。しかも花びらと地面の密着は「踏まれてあれば」より緊密なのだ。ところで「柩」の範囲はどこまでなのだろうか。ひとつひとつの花びらなのか。あるいは花びらの散らばりが絨毯化している「眼前の一帯」なのか。いずれにせよそれらは表面だ。となると木下のかんがえる柩そのものが、箱的な立体感ではなく、表面性をあたえられているとみるべきだ。それでも「からだは収まる」。なぜならからだがいつも、意味的に「うすい」ためだ。
「微細」は花びらといった、季節的な物象にのみ特権的に現れるのではない。世界にはひかりがみちている。ひかりは粒子で形成されている――となると、ほんとうは世界そのものが「微細であるにすぎない」。
こまかくてとどけられない音だけを鈍いひかりが硝子にわたす
気をつけよう。ここでは「硝子の透過作用」が主題になりながら、第一観的な「ひかり」と「音」の「あいだ」で、それらの分離が拒まれている。くわえて「こまかくてとどけられない」の限定により、音そのものの可聴性についても判断がくだせないのだ。硝子は透過媒質のはずだったのに、同定不能性を上映する極薄板に「ずれて」いる。一見おとなしい作歌にみえるが、現象を全局面で否定しながら美へ辿りついている点で、哲学的な驚異ともよべる一首なのだった。
月光は踏むとしづかな音をたてひかりはじめるふしぎなひかり
葛原妙子には《月光の中なるものら皆逃るさびしき燐寸をわが磨りしかば》という、途轍もない秀吟がある。「中なるもの」の「もの」は「魅〔もの〕」をふくんでいるだろう。それらは薄青の実質をもっているとみえながら、燐寸の焔ひとつで無に帰す。そう意味づけられたとき、逆に、そうなるまえの月光の、「悪」にもかよう気配が見消〔みせけち〕のように浮上してくるのだ。
たいする木下こうの「月光」吟は、まずは「踏めるもの」として定位される。それは葛原の歌のようには「のがれず」に、音を発し、ひかりを発する。というか、木下的な世界では、さきにみたように「ひかり」と「音」が分離不能なのだった。「たて」「はじめる」という動詞の斡旋によって、月光がここではまずは動物化されてみえる。ところがじつはそれは、「液体状の動物」なのではないか。動物的な痴愚がどこに現れているかといえば、意図的に用いられた「ひかりはじめる〔…〕ひかり」という冗語構造に、だろう。こういう瑕疵ともいえる逸脱を果敢にもちいられる木下の修辞能力は、換喩的で、かつひじょうに高度なものだった。
最後に「月光」否定の秀吟も歌集から付記しておこう。
自己愛〔エゴイズム〕かもしれなくて月光を隔つるためのカーテンを引く
最前線物語・再製作版
【『最前線物語・再製作版』】
二学期の院ゼミ授業準備のため、昨日はDVD漬け。アメリカ50年代映画作家の作品を、未見・再見あわせて丸一日、鑑賞していた。ニコラス・レイの『孤独な場所で』ではげしい不安に陥り(アンハッピー・エンディングの大傑作のひとつとおもう)、『危険な場所』でその不安が「治療」される(こちらはハッピー・エンディング)。「みずからの暴力衝動におびえる男」というのはニコラス・レイのフィルム・ノワールこそが精密化した主題で、それが夜の描写の繊細さ、女優を夢幻的に撮ることのできるレイの繊細な資質と理想的に化合する。これらはとうぜんゼミ授業で扱おう。
ずっと気になっていたサミュエル・フラー『最前線物語』の再製作版the reconstructionにもようやく接した。ディレクターズ・カットではない。なにしろフラーは97年に85歳で物故していて、「その後」、ワーナーのフィルム倉庫にのこっていたネガ・フィルムなどが、フラー狂のフィルム補修スタッフによって発見・検証されたのだ。むろんフラーがことあるごとに短縮を余儀なくされたオリジナル版の不十分さを嘆いていて、撮っているはずのシーンのすばらしさを生前、ずっと周囲につたえていたし、「四兵士」をはじめとする俳優たちもオリジナル版のひろがりのなさ、映像リズムの堅さに痛恨の念をもっていたためだった。
ネガ・フィルムに、さらにオリジナル版からカットされてしまったプロモーション映像フィルムの場面などを加え、綿密な検証を経て、再製作版が完成する。80年のオリジナル110分(116分?)にたいして、04年の再製作版は50分ほど長い163分。ほぼ1.5倍に「膨張」したのだった。
『最前線物語』の原題はThe Big Red One。第二次世界大戦でファシズム枢軸国と闘うため、ヨーロッパで転戦、大活躍をしるしたアメリカ「第一歩兵師団」の謂だ。フラーは当時、ジャーナリストから作家への転身を目していたが、第一歩兵師団に従軍、したがって脚本も手掛けた『最前線物語』はフラーの戦争映画の系譜中、最も自伝的な要素がつよい。『鬼軍曹ザック』などと同様、フラーらしいアクションとエモーションの、ケレンと衝撃にみちた加算もあるが、フラーとしては現場にいて見聞した「事実」を細大漏らさず構築した自負もある。
60年代、映画の演出でヨーロッパを流浪し、低予算映画の傑作をものしたのち(『ショック集団』『裸のキッス』)、70年代、ライフワークとして『最前線物語』の脚本を仕上げたフラーだったが、製作資金提供者がなかなか決まらずずっと難渋していた。それでもその脚本の生々しさが伝説的で、たとえば銃撃隊を束ねあげる「軍曹」役に生前のジョン・ウェインも色気をしめしたという。むろんご存じのように、ウェインを立派すぎると断ったフラーのオリジナル版では、フラー自身と同様の、熱情・寡黙・敗残の要素をもつリー・マーヴィンが起用され、作品は見事にフラーの映画として血肉化された。
見事とは書いたが、記憶でいうと、オリジナル版にはやはり「無理な圧縮」の気配があった。打った伏線が解決されず、従軍兵士の死と生き残りが、カット尻の余裕なく、進んでしまう感触があった。派手な爆撃シーンがあっても「淡々としている」ことが味だとおもっていた。
映画は北アフリカ・チュニジア、イタリア・シシリー島、ベルギー、ドイツ、最後にはチェコへの第一歩兵師団の転戦を描いてゆくが、再製作版ではドラマの進展リズムが鷹揚になり、サスペンスフルな戦闘シーンがよりまるごと投げ出され、しかも捕獲したヒットラーユーゲントの少年など、消えた人物がフラーの意図どおりに蘇っている。あるいはフランス女性の戦車内での出産を兵士たちが補助するシーンなどでも、不自然でない編集リズムが再獲得された。気づくのは、転戦地ごとに伏線と解決があって納得がかさなり、物語構造としてはオリジナル版が印象させるような拡散がなかったということだ。
転戦地ごとに観ている側の肚がぐっと締まると、反戦映画を結果する戦闘の悲惨さの描写、サスペンス、軍曹と四兵士の男気、次々と消えてゆく「補充兵」たちの運命的な無惨、恐怖、ユーモアなどが、大叙事詩的な悠揚さで迫ってくる。そうなると戦闘アクションの発明的な鮮やかさも自然とからだにみちてくる。
戦争の「大局」をつくる司令部などほとんど描かれず、戦地の兵士たちが死体と生きている戦友しかみない(つまり「敵」がつねに部分的にしか現れない)状況とは閉塞的なのだ。戦地が空間的にひらかれていても閉塞的。この血脈がのち、イーストウッドの『硫黄島』連作、マリックの『シン・レッド・ライン』などにもつながってゆくが、それらの描写の「現代性」にたいし、50年代的な熱気をものこしている『最前線物語』再製作版は、ぼくにとってはバランスが理想的な戦争映画となった(もともとは戦争映画というジャンルが結構苦手なのだが)。
第一次世界大戦にも従軍したリー・マーヴィンの「軍曹」。彼には停戦決定を信じずに、決定後に敵兵を刺殺した(つまりそれは戦闘による必然ではなく無意味な「殺人」だった)過去がある(冒頭シーン)。このトラウマがラストシーンでどう救済されるかが『最前線物語』全体をつらぬく基軸となる。その意味で、『最前線物語』は「渦中」と「事後」の哲学的な考察をもテーマに秘めている。五年以上前、黒沢清監督に四方田犬彦さんとインタビューをしたときにも、黒沢監督はジャンルとしてはホラー映画ではなく、戦争映画を撮ってみたいと語っていたが、彼の念頭にフラー『最前線物語』のあるのがわかった。やはり、「戦争は現場でどう終わるのか」を口にしていたためだ。情報アンテナのするどい黒沢監督は、『最前線物語』再製作版をすでに見聞していたにちがいない。
DVD『最前線物語・再製作版』には特典映像集が別巻で収められている。もともと本編が163分に大延長されていると既述したが、なんと特典映像のトータル時間は本編よりもさらに長い197分なのだった。これもすごい。未使用映像集、第一歩兵師団にかかわるニュース映画、プロモーション用のダイジェスト版(先にしるしたように、オリジナル版にないカットがある)なども貴重だが、四兵士役を中心にした俳優が現場の記憶を語り(とうぜんフラーとマーヴィンの男気が「伝説=神話」語りの中心となる)、再製作版のスタッフが作業経緯を細かく語る、トータル40分以上のインタビュー映像がまず圧巻だ。
再製作版がほどこしたデジタル補修の実際よりもさらに気をつけなければならないのは、いたずらに上映時間の拡大を目指さず、のこっているマスター・ショットと押さえショットの痕跡から、フラーがディレクターズ・カットを許されたとしてもNGとしただろう、シーンとカットにかかわる綿密な見極めがあったという点だ。スタッフたちのスタンスは、たとえばプルーストの草稿研究者のような、学究的なものだったことに感動してしまった。
もうひとつの特典映像の目玉は、生前のサミュエル・フラーのインタビューが収められていること。映像論的な質問に、映像論的に答える姿が、茶目っ気もあって、しかも矍鑠としている。最老齢にあって客気がぎらぎらしているのだ。過去作品の具体的な召喚も心憎い。むろん往年のリュミエール叢書『映画は戦場だ!』での昂奮が蘇った。こちらも60分ちかくある。
『最前線物語・再製作版』は、本編と特典映像集を併せると、6時間の長丁場ともなる。むろんそれは6時間の映画的至福、昂奮だ。これほどフラーがゴダール『気狂いピエロ』で語った、《映画とは、戦場のようなものだ。愛、憎しみ、アクション、暴力、死。つまり、エモーションだ》が合致するものはない。いまアマゾンでDVD価格を調べると、なんと1540円で買えるのだった。早いもの勝ち。気になったひとは、ぜひ。
ともあれシラバスを変更して二学期の院ゼミ・テーマは完全に「アメリカ50年代映画作家の検証」としてみよう。受講予定者におねがいするそれぞれの研究発表についても、だんだんイメージがわいてくる。きょうは、ロバート・アルドリッチ作品をいろいろ観る。
付言:「再製作版」が今後もいろいろ出ないか。むろんオーソン・ウェルズ作品などが筆頭候補だ。たとえばストーリーがはっきりわからないのに、映像が極度に幻惑的な『上海から来た女』の未使用ネガ・フィルムが倉庫に眠っていることを夢みてしまう。