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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

伊藤浩子・undefined

 
 
【伊藤浩子『undefined』】

伊藤浩子さんの思潮社オンデマンド『undefined』がきのう届き、未明に一気読みした。わずかな例外があるが、収録されている各篇は、ぼくの判断では完全に短篇小説――それもきわめてみごとな方法論をもったそれといえる。これを詩集とあつかうかどうかで、往年の伊藤比呂美『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』のようなもんだいが起こるのは回避したい。
 
詩的小説、掌篇小説、物語詩などの創作ジャンルの集合のなかで、小説と詩に分断線をきれいにひくのは意外とむずかしい。判断材料を叙法にたよるしかない。かといって、詩の創造原理を暗喩=類似、小説の創造原理を換喩=隣接とした、ロマン・ヤコブソンの見解は、拙著にしるしたように、とるところではない。ただし参考にはなる。
 
「詩の行」や「詩の一文」もまた空白を介しながら隣接的な相互として連続組成される。あるいは俳句などの短詩をかんがえれば、崩壊した構文のなかでの詞や辞も、切字にみられるように断絶をはらみながら、それでも連続的に組成されている。詩においてもすべてのことば、行単位、文単位は、見た目には連続性をつくりあげているのだった。
 
だから空間上の隣接がとおさの衝突である「詩の特有性」はその意味形成から判断されるしかない。いずれにせよ時間的継起、空間的な隣接連続により、説明すべきものを追って、キャラクターと物語とを、付帯的な要約可能性としてつくりあげてゆく小説は、詩の形成とは手段がちがうことになる。その手段のちがいがつよい商品性をうけもつばあいもある。
 
単純には要約可能性のあるものを小説、それ以外を詩としたいが、詩的なシュルレアリスム小説などではこのような判断に適さないものもある。あるいは伊藤比呂美でも叙法の崩壊や語調の突出の瞬間に、振れ幅が詩を指ししめすことがある。したがってこれらは区分不能をつくりあげるものとして、その叙述の一定時間を詩ととらえても構わない。「混淆」をみとめるということだ。ただし全体にかんしてはキャラクターと物語の形成力によって、詩と小説、どちらに帰属するかが判断されることになる。『とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起』のばあいは、それで最終的に全体が小説に帰属した。
 
気をつけなければならないのは、音韻意識によって意味が跳躍したり変型したりすることが詩の成立与件ではないということだ。平叙文でしるされている詩的時空もあるのだった。同時に「意味」成立の遅滞だけを判断材料にしてしまうと、暗喩にたいするよけいな構えまで浮上してきてしまう。フレーズじたいの玩味だけでいいはずだ。となると、「空白」「断絶」が叙法にいかに内属され、それでことばのつらなりがつくる容積が、知覚できる通常世界の時空といかにちがっているかだけを観察しなければならないだろう。
 
じつはこの点でも、伊藤浩子『undefined』に収められた各篇のなかで微妙なものがあるのだった。ポルノグラフィ、伝奇小説の叙法が参照された幻惑的にしてじつは伝統的な短篇のあるいっぽうで、たとえば集中「プレゼント」のクライマックスでは時空が崩壊して、作中の妻と夫のあいだに同調的な隣接が起こる。その部分は、説明的な前提を欠いた発語どうしの非連絡的な連絡になっていて、したがって「詩的」換喩の属性「ズレ」が高速機能している。「音韻」こそが相互にことなるものを接合している機微もある。その一連はたしかに詩とよぶしかないものが小説空間になだれこんでいるのだった。
 
ところができあがった全体をおもいかえすと、連続的に形成された物語とキャラクターがあった、としか判断できない。それでこの「プレゼント」も意欲的で「見事な短篇小説」という最終把握が成立してしまう。なによりも伊藤浩子の小説は主題がどんなに生存不安を抱えていても、どんなにキャラクターが客体化されていても、あるいはいかに異質性がモンタージュ=キメラ合体されていても、作者の場所から確立的に「語られ」ていて、作者の場所がことばによって「語らされ」結果的に流失しているわけではない。
 
完全に詩として発案された「アイホー」もあるが、詩性と小説性の含有が拮抗しているのは最後に収録された「歩く人」だろうか。これはことばのひびきが、詩的作用力を完全に維持している。すごく好きだ。
 
ただしいままで書いてきたことでわかるように、基準はすべて「含有率」なのだった。すぐれた短篇小説がいくつもならぶ『undefined』は、その「いくつもならぶ」点を尊重し敬意をはらえば、やはり短篇小説集とよぶほかなくなる。伊藤浩子さんの小説の才を強調すれば、それでいいのではないか。
 
 

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2014年10月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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まえにかかえてあるくしかないものがあって、それを、すすきたばとしよう。ものすごいゆうばえのあぜで、だきかかえたそれらにより、かおをぎんいろにけしたひとの、あるく無名がおそろしいとしよう。かかえるものの、うすいおもみにせすじがそって、あるくすがたのこころもとなさだけが、むねへただしくせまってくるはずだ。
 
ぐうぜんを待ちはしない。萩原さん、わたしは写真をとるために、じぶんのなにかを待機させ、ひそかにみがまえながらあるいたりできない。きっとゆききしている場処に、あらゆるものの出没をゆるす、よゆうがないのです。じぶんをのみこんだそらを採取する、瞬間の才覚すら欠いている。
 
ところが、すすきたばをかかえることがみがまえとなり、前方のみえなさをあるくひとは、とられたとわからないまま、からだのたましいを写真にとられてしまう。身の肌がうぶげでひかるやさしさ。だかれると手折られるとがひとしいと、ねどこでなげくだろうおくゆき。あれらが日へのびている。一生にかかれたもので、《うづゆるやかにわれを殺めよ》の下句だけが、おのれへの謎の訓戒として、ただ創造を縛りつくすことがありうる。
 
どこからがはだかなのかと、ずっとかんがえてきた。ひとりぐらしのへやへかえって、あかりの紐をひいたむかしなら、はだかだろうか。軟骨つきの柑橘類(蟹のことだ)をむしっていつもおなじ幾何学にまみれるゆびも、はだかだろうか。なした作用をみずからに反響させる無防備にこそ裸性があらわれるなら、すすきたばを嗅ぐようにまえへかかえ、かおをけされてあるくだれかれの秋も、みなはだかだろう。もういちどあるきの絵巻がすすきへはいってゆくためだ。
 
身の幅にのびている前方を道という。ならば前方をかかえているものでけされ、身の幅すら覚束なくなったあるきは、道のなさをゆくしかない。それなのに、足はゆくべきところを知っている。すすきとともに、すきまへのうつむきとともに、わかっている。そのはじらいがうつくしい。
 
 

2014年10月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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ねるまえに、めぐすりをさすのが日課で、ぶきようなので、ふとんにまっすぐ仰臥する姿勢でさす。脚までとじる。点眼ミスをふせぐコツは、近眼のひとみのまぢかに、めぐすりの差し口をみること。あなとあなとをせまく糸でつなぐ具合に、差し口と瞳孔とを緊張にみちて最接近させる。結果、眼はかくじつに点眼液をうけてさざなみだつ。その衝撃も、あかりのゆれとしてそのまま視ることになってしまう。これはなんの内側だ。ともあれそれで就寝前がかすかな吐気をおびる。みるものをはげしくみまちがえた罪障がのこったにちがいない。
 
もちろん「めぐすりのさしかた」がこんな自己法則にとどまれば、この世はおおむねやすらかだ。たとえば一定のかたちの石から視線をかんじる生のえらびもある。くうかんの内在視点を恣意的にふやそうと、石を掌上でまわしながら、めぐすりのさしどころをさがす。すると七孔のない渾沌が、そんなちいさな転がしから、妖怪をよみがえらせてくる。
 
しろめに浸食されて、虹彩の半径がちぢまっている。みないかわりに、みられないでもいたいと、眼いがいのからだすべてが憮然と外をながれる。排中律の論理とは、たぶん瞳孔意識からの直観だろう。そうでなければ隕石を、古人がかんがえつくした経緯によるだろう。
 
がんあつのたかまり。成長をやめている部位すべてのなかで、眼球だけがまぶたにおさめられていまも膨らもうとしている。それでも視野の欠落によって、眼はみずからの底へ枯葉までみようとしているのだ。ふゆまえのさいご、おのれを散り敷く落葉樹のように、とおくへ刺さってゆく二重を、たてながとなりゆくまなざしがまねる。
 
めぐすりは視ることに聴覚を容れる。それでモノの恍惚がさらに譜へ分布してゆく。中心の分岐。からだにある円が障られて、すべて楕円へかわろうとしている。そんなふうに生のいくらかがふえる。
 
 

2014年10月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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駅ではなく野なかに架かる、日本最北の跨線橋はどこだろうか。宗谷本線の北上途中にある気がするが、ネットでしらべてもたしかなこたえがでてこない。それでも線路上でさみしい籐のあみめが、うしろからの夕映えをきらきらこぼしているすがたがみえる。恋のおこなわれる空中として、いつもひそかに泣いているのだ。
 
川とからみあう鉄路。宗谷本線に身をまかせていると、ひらたさをめざしながら懶惰に蛇行してゆく天塩川との共鳴がなまなかでない。ねむりながらのたうつ臥龍を串刺してゆくように走路がほそくのされる。かわもから樹のつきでているなげきもかずおおくあって、たいくつな縦が横にひたされている。ひろがる水流とふれる葉がこまかくふるえつづけていて、ひとに俄然さわりたくなった。
 
それで跨線橋をかたどった首かざり、といってみる。そのとたん、闇をくりぬこうとするおんなの上体がスーパー宗谷となる。流線力学でつよめられたからだなら、よどみない性愛を鰭打つだろう。ねどこもまないたへかわって、とおいじんるいのにおいをはなつ。けれどどんな夜にだろう。おんなの奥ではなく雲丹の奥をみせてくれる小屋なら、むかし稚内にあったはずだ。発情するまなざしを昆布いろにしてやると語った面構えが塩に似ていた(とおもいだす)。
 
この北地ぜんたいに一定分布のあるもの。むすめの分布がきえた奥に、エゾシカやキツネよりもさらに、ひとのかおにみえる、しんぴてきな樹皮のひきつれがちらばっている。それらがあやしく樹からぬけでて、
 
縦に横を手かざした跨線橋で、朝までにはきえてしまう、からだの恋をした。
 
 

2014年10月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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ゆうべまずたべたのは、うすあおの蔦で、くきも葉もしなしなとほそく、すこし貝割れのあじがした。とおく天へとのぼってゆく、ふゆまえの経緯そのものを、さみしいくちにいれたともいえる。
 
たべることにともなうちいさな接吻は、ひとへなされるものとはちがう。たべることの劫火がかおを秋野にして、そのてりはえに、当人さえ不在のようにあるべきだ。ひとつひとつを数珠につなげて失望しながら噛んでゆくには、にがい野草のたぐいが良く、にくを腹にしないよるのおうごんは、よくじつの水にも映る。ゆれる燭光となって。
 
さらだにするため、いろんな豆を、茹で時間をかえつぎつぎ水煮にしていった。きいろと茶とみどりとむらさき。くろまめになるまえのえだまめが丹波をつくり、そんなとおい和音をたべようともしていた。料理の芯はいつも塩。岩塩にした。志郎康さんはさいごの朝顔の、しわだらけの開花を写真におさめている。くうきでながれるものにも、たべることのくちびるがまとめてふれる。おいゆく者のからだではそれでもいつも手が発端で、くちびるが終着となる。おのれのなみだもろとも、のみこむ。
 
かたちをたべたいのだとすれば、橋や梯子など、よりとおくへわたしてゆくなにかを舌へのせたい。くちびると歯であじわいすぎ、あじの探りに舌がわすれられていると、生を診られてしまう。ねむりながら草になかばきえている牛馬の裔だろうか。ことばをいわなくなって内側へめくれだしたかれらのくちびるにたずねてみるといい。こたえはでるだろう。おんがくとして、きのこが語られすぎている、水と胞子だけの密談のくせに、と。
 
おさないときには、まむかう家族のくちびるがとおくひかって、それぞれの咀嚼がシンクロしていた。いまや咀嚼はひとりの粗食となり、ひとかみでのみこめる後悔めいたものを馳走にしようとしている。だからできるだけながいまぼろしの野草を、食事まえ、詩書から借りうけるのだ。たとえばきのうは森原智子を。
 
 

2014年10月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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手ブレをつくるしぐさからだけで、みたものをおさめる。のちにたしかめられる画では、光景と撮り手のあいだの、袋のような逼塞がみえる。たとえ手ブレがなくとも「撮影の袋」の内閉性によって、じしんの畸形的な容積を得てゆくのがほんとうだ。これを撮影の瘤、といってもいい。
 
それにつけても疎林のかたすみへわけいっている、曙光の「ほるん」を撮る、とかのじょはいった。
 
ほるんのかなしみは、内管をむきだしにして、バルブめいた結節がゆびをよぶ、かたちの華やかなくるしさにある。楽器ながら、蒸気機関や町工場にもっとも似る。迷路と円のふたえのまがり。ラッパ型にひらいた、そらへのスカート。はらわたと膀胱。それらをとおくからマウスピースが吸う約束にみえる。おとをころしてゆくそんなゴシック―バロックな形状なのに、くぐもった冬のふといひびきがそこからでる。あれが楽器のうつくしい瘤だとすると、撮影の瘤を添わせなくてはならない。
 
分解して収納しなくても済むホルンケースは、ぜんたいのかたちが不規則で、日にあたらなかった地下にひんまがってしまった柩とみえる。ひらくときに顔をだすホルンの形状が、じつはカメラの内構造にまで図解される。対象は内管を経由され、彎曲のなかで開花し、対象じたいのかたちを倍音にしているのだ。《あらゆる形象は、節足か吸盤か、それともひげ根である》。むろんかたちの倍音も手ブレとひとしい。
 
自主映画的なものには、スタッフがすべてばれても監督がひとりで撮った映像が混入しているくだりがおおい。そこでは世界いじょうに撮り手の孤独が映っている。映画のかなしさはそこにきわまるのだと壇上の七里圭へ話した。あなたは王兵とおなじだと。七里はべつのところで語っている。冬の朝には、みじかい朝焼けがみたびおとずれる奇蹟もある。地上をほそい血紅でそめるその三度を、おとの瘤に翻訳すれば、それはペテロへの鶏鳴ともなるのだろうか。
 
からだをみせてとカメラ女子にいうと、手ブレ写真をみせてくれた。「これがホルン」。
 
 

2014年10月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

七里圭監督・眠り姫

 
 
本日(10/25土)、CAI現代芸術研究所(円山)〔=中央区北1条西28丁目2-1〕で七里圭監督『眠り姫』(07)のアンコール上映があります。最終回は19時10分開場、19時30分上映。終了後、来札した七里監督と、ぼくの壇上対談があります。
 
俳優の実像が主演のつぐみのみ、わずかに捉えられるだけで、ヒロインの同僚教師・西島秀俊と、ヒロインの婚約者・山本浩司など、他のすべての俳優は、光景にその声が擦過するだけ、という実験的な手法。すべてが静謐にえがかれてゆきます。ひかりと、入ってくる音楽が超絶的にうつくしい。同時に、つぐみは西島の減退的な声とことばにみちびかれ、徐々に意気阻喪&死の欲動にはまりこんでゆく。その点ではすごく怖い映画です。
 
「声」のみの映画だし、時間軸が七里映画のしるしとして錯綜するのだけど、ドラマの核心へむかう経緯に、理解不能と遅滞はありません。見事な構成力です。そこが、多数性を旗印に、声のみのこして往年の『インディア・ソング』の画すべてを差し替えたマルグリッド・デュラスの『ヴェネツィア時代の彼女の名前』とのちがいです。
 
DVD未発売の伝説的傑作『眠り姫』。しかもスクリーンでの質感をみたい映像が満載です。北海道のみなさん、ぜひとも今夜の上映へ。
 
 

2014年10月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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さほど話題とならないが、すきな葛原妙子の歌に以下がある。《黄衣にてわれもゆきたり巨いなる硫黄となりし銀杏樹〔じゆ〕の下》。黄が黄へときえ、こどくな硫黄のみのこってゆく経緯に、はかない飴のあまみをかんじる。
 
ねむりにはいるまえ、季節は黄を炎やし、気のふれた発情を謳うようにみえる。ないじつはねむりにふさわしくなるため覚醒をうけもつ葉緑素を遮断し、葉を反故紙になるまで、かわかしているのだ。かるみをおびて樹影のゆれもおおきくなる。ないものまでなでながら、その輪郭を音楽的になだめる樹のおのれがいとおしい。それらがさらに一列にならぶと、いろがまさに実在に先験して、還元そのもののおそろしさすらおぼえる。
 
かわいてゆくものにのせられ、あぶらのかなしみもうかぶ。イエローの絵の具がひとつのあぶらなら、その溶剤のテレピンも淡黄のあぶらで、テレピンあぶらに諦念をにじませてまざり、二物の境を微細にふかめてゆくのはイエローだけなのだ。内在を分布にするのみの、黄のつかいかたがある。絵においてはひかりでなく、ひかりとまざったけむりへむしろ適用される。
 
するどい美感のひとでも黄を着るのがむずかしい。くうきのつめたさはむろんだが、黄じたいが発光する距離もえらばれなければならない。こまかくまざっているものが、とおさに置かれて統一される。ただ濁点をおもわすすがたへと、からだひとつをおとしめること。みやびさに乞食がひそんで、だれかれでもなくなる。たまに往路ばかりで帰路のない秋、往来の奥に黄衣のひとをみかける。硫黄と同調するからにはそのそんざいも発酵している。あのひとは樹のおのれでやがて死ぬのだ。
 
なんの作務だろう、おのれにまざりきるのが自殺とするなら、その自殺のすがたで、とおいひとの季節がよぎる。
 
 

2014年10月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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いま住まう街区はすべてが茫漠とひらけていて、路地をおもえる一角がいっさいない。ふうけいには狭隘が荘厳をつくりあげる逆説もある。そこでは区分のハーモニカが鳴るのだ。それで、五階建てていどの木造家屋がせまく櫛比する、くらくまがったぬけ道を、気道確保されることになる。ゆめのなかで。
 
みあげれば、竿の洗濯ものが道の左右をたかくわたり、西日いろのそらがそれぞれのたかいがらす窓にうつっている。とじこめられた人影を、わけられた反映のうらに隠している豪奢。やりきれない。その豪奢はきゅうくつな仰角のなかにならんでいて、深秋のつれなさがそんなかたすみに憩っている。こども用の三輪車が、往年の失敗となってつぎつぎ隕ちてくる。しゃりん。けれどみたものは、ひとときにしてくだける。
 
路地はうたうのだ。うたいながら路地はわきあがり、ぬけ道の両端のたかさとなる。もようある板塀のなかに、月日の経過でますますしろくなる木材が、ひと肌のけはいを発している。そこにかすかな毛髪。
 
齢をとり、東京をはなれて、もうだれかにじぶんのつくった歌詞をうたってもらう生のめぐみもない。刻々きえる継起性を旨とする歌詞には、易度にかかわるじぶんなりの叙法があった。だれかののどをじぶんの流露がみたす。それが空間化して、ゆめの路地の左右へと、いまもりあがったにちがいない。
 
おんなのからだと声は両端のたかみからひかってくる。それがビルヂング構造の閉塞で否まれた。からだと声はいまや痕跡だ。そんなものはながめすぎてゆく看板にない。ひとみの底にはいまも「遊廓的狭隘」がゆれている。
 
はだかになるために、ひとはどんなこの世をもっているのだろう。そうおもうことが、だれかののどをじぶんの流露でぬらす。
 
 

2014年10月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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こどもは、こぶしがちいさく、眼がおおきいので、にぎりこぶしを両瞼にあてて泣かせる小津的な演出は、眼の二乗が盲目だという、こどものもんだいをほりおこす。あの定義はぶきみではないだろうか。
 
わたしはかんがえとおぼえの発育がおそく、ものごころの根づいたのは十歳時くらいだった。生来の左利きを右利きにされてしまった困惑がくわわって、たとえばおぼえはじめたカタカナに鏡文字を書いてしまう失態もつづけた。もっというと、外界の刺戟のなかで、みることと聴くことすら分離できず、その混乱が解消されないで、ずっと記憶に集約される能力をにごらせていた。
 
生を踏みはずしている往年のそうした例外をもう復元できないが、ただひとつ妙な徴候がのこっている。犬と通りすがったあと、じぶんがふりかえると、その犬もじぶんをふりかえっている符合がいまもつづいているのだった。犬がにおいを気にしているのではないだろう。わたしの感覚のしかたに動物性をかんじてびっくりしているのではないか。
 
おとなのからだからすると、こどものからだはその細部の縮率がくるっていて、混乱をよびこむ。頭蓋がおおきいにしても空気的で、尻のほうに円滑の中心性がある。
 
かれらは気配のようにその場にいて、「その場の沈思性」と同調してとけていることさえある。そんななか感覚の細部どうしの縮率もくるわせているのだ。かれらの拾った石や貝殻は実物よりもおおきい。ちかさをおおきさにしてしまう視覚が、とりわけ「とおさ」をひらめかせる聴覚に疎外される。ただしこの判断はじぶんの往年を基準にしているだけかもしれない。
 
すがた見のなかのおのれに見入るこどもも、十歳くらいだと風情がある。鏡像段階はとうにすぎているのだが、鏡は音を映さないから、支配的だった聴覚が「じぶんのすがたをつうじて」きえはじめる。感覚の連合にあらわれてきたそんなほころび、聾化にこそ、おそらくじぶんの将来めいたものをみるのだ。じぶんの鏡映りはちいさく、すがたへさきゆきをにじませてしまうかなしみだけがおおきい。それら大小がまざってにわかにとうめいがうまれたこわさを、十歳時にさだまった記憶のひとつとして、いまもおぼえている。
 
 

2014年10月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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こことあそこが空間的に、あるいは「いま」と「やがて」が時間的に、それぞれ連続していることにしかこの世の神性があらわれていない。なぜ、なにもかもが一挙に連続しているのだろう。あるくときさえ、とおくがとなりなのだ。あるくなかでゆれているのは、つづきあるくつづきそのもの。「この点」をわけられないなんて、ゆめのようなことではないか。
 
いちばんたいせつな坂は小学生時代の帰途にあった。まだ家のまばらに建つだけの分譲地では、傾斜の上縁が空白で、そらにつながってみえた。ななめがめくれたがっているとかんじて、坂であることをへらす。途中の原っぱでの道草も、ひと息でののぼりをさける、ちいさな野営だった。そういうばしょにむらさきづいたイノコヅチが、待つすがたでわだかまっていた。
 
わたしたちは途中だ。ちりとなるまえに、たねや胞子として、ひとのいないあいだをながれる。
 
途中をみぬかれて、なまなましいわたしたちは、途中どうしをあいさつさせるべく、からだを接しあう。あらゆる不可能が、あいてのばしょにじぶんを置けないこととかんがえれば、肌のふれあいもかなしいが、それはたがいにちかづきすぎているためだ。ここをあそこへつなげたい衝動ならもとからもちあわせていて、あいてにふさわしい距離もここからの三メートルていどととらえなおす。その三メートル四方を知るための、原っぱの道草だった。そこらへんの円周がなぜかいつもゆれていたのだ。
 
坂をみあげると、坂のてっぺんに接するそらのいちばん下も裾となってゆれている。とおくの正体とはあんな接触ではないか。ゆうがたの極限にはそのほそい境界が、一瞬コロナとなった。あおりをうけ、イノコヅチのばしょがまっくらにしかみえない。
 
 

2014年10月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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全身がきりとられた象牙にみえる構図やひかりが、露天湯でのはだかの、うるわしい定型のひとつだろう。とおいそれに雨がふっていた。
 
時雨とよばれる、層をなす時の擦過が、つぎつぎにたずねてきては沈思をふかめてゆく。湯けむりのとおくに、ふたついじょう象牙のみえるばあいもあって、秋隣をおえた時節に、となりめいたところがまるでない。みやる眼すらほそくなってゆく。
 
したしいからだにはふつう嚢をおもう。内臓や血がびっしりつまっている不気味を逆転するのではなく、わたしたちがものをおもいめぐらすとき、内臓感覚が同調すると知って、これを遠人にもみとめ、いきものをかんじるのだろう。ところが象牙いろにひかる無魂の裸身は、そこだけの雨のように湯けむりに傷をつけている。以前もみたことがあった。望月遊馬の詩句をかりれば、《雨が雨に対峙しては見つめ合いながら降っている》。
 
ひとあめごとに吊り橋をぬらして冬をまねく、くうかんとは無縁な、よぎるだけの時雨だろう。ものがほそくみえる。
 
やがてつれあいとくだる坂道で、しらかばの黄葉がさみしい。黄金のかぶりをへらしながら支えに象牙のあらわれてくるすごさがある。日に照らされれば、黄葉としらほねの幹の相関が、それじしんの発色と縦のつよさで、まむかうまなざしをころしつくしてしまう。
 
そういえばしずかにあふれだす湯にも、あかりのあらわにするY字路がおおかった。
 
 

2014年10月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

アナホリッシュ國文學

 

 
現在発売中の「アナホリッシュ國文學」第7号(2014年夏号)に、拙稿「方法論としての日録 --岡井隆のメトニミー原理について」が掲載されています。九州流謫期の岡井さんの発想変化につき、ぼくなりの考察をめぐらせたもの。
 
今号の「アナホリッシュ國文學」の特集は「日記の力」。諸家が島尾敏雄、南方熊楠、秋山駿、中野重治、伊藤整、森鴎外の日記を精読しているほか、なんといってもぼくにとっての「目玉」は、畏友・田中宏輔さんが、「詩の日めくり」として(創作?)日記をなんと20頁もの長きにわたって公開していること。これから読みます。
 
昨日・一昨日は女房と住まいからちかい定山渓温泉に、紅葉狩にいってきました。おたがい体調不十分だったのでウォーキングは断念、「カッパバス」などで名所を案内されてきました。札幌市の紅葉は定山渓・豊平峡などは一週間前が見ごろ、現在は住まいと定山渓のあいだの川沿あたりが鮮やかです。北大の銀杏並木のピークは今週かなあ
 
  

2014年10月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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おうぎを水にくぐらせる山中智恵子の歌はどんな全貌をもっていたのだったか。ネットでしらべれば《水くぐる青き扇をわがことば創りたまへるかの夜へ献る》とある。じつにみごとな再帰性のうただった。とおさをはさんでいる。たしかに往年はその扇に、みずかきのある手を幻想していた。しかも「を」が二度にわたり黙語となっているとかんがえないようにしていた。
 
なまりをのみこんだ熱いのどで往生していると、鶴や鷺など、長頸の鳥のすがたがうかんでくる。それらつばさあるいきものが、さらに鰭あるいきものへと変成して、鳥と魚にくべつのなくなる岸辺すらみえてくる。あおいあれはどこだろう。かぜをひくとはそんなながめかもしれない。岸辺を念じて痛むからだのところどころをさすると、ゆびのまたにもうみずかきができている。幾川のゆめをおよいできたのだろう。
 
石原吉郎の奇怪句には以下もあった。《懐手蹼ありといつてみよ》。からだの部位のうち、内在するものは水の作用をうけている。針をちくりとやっても、腑ではなく、ただぼうぜんと水にふれるのだ。
 
ふだんなら、だれかの手をにぎると、からだの鍵を手渡している感慨がつきまとうが、ゆびのまたにできかかったみずかきは、やわらかすぎて、手をにぎりあうとこわれてしまう。それで「ふところで」の位置におちつくか、水にくぐらせたそれを青くみて、やがてきえゆくのを夜ぜんたいにひろげるしかない。ひとときにしてきえるみずからの部位を扇とみるたび、まなこへきらきらがのこる。あれがやまいを凝視した再帰。
 
あおいあれはどこだろう。とうぜん、ひとではない。
 
 

2014年10月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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かぜをひくと、正中線のながれのうち、もっともほそいのどが、瓢箪池のくびれ部分、あくたのよどみをもちはじめる。からだは、それでどうしようもない左右になり、どうじに、いかんともしがたい瓢箪となる。のどのなかに繊毛はあるのか。あるならそれも夢想になびく。そうして「りっぱにきちんとかぜを」ひくのだ。かぜでは、草のかさなる場所がからだに目立つ。
 
とけないかたまりをのんでずっと痛くただれつづけている厄介。くちをとざすまえに、すでにじぶんの中途が葡萄の種でふたがれている。体型はおなじだが意味のかわっているこのからだは、アナクレオンの恋に似ているから、ひとにばれてもならない。
 
ため息をつく。まどべにいる。肺から気管のあたりが呼吸ごとに喘鳴して、喘鳴のなか痰のうつりが微細なおとをともなう。のどが中央を割るから、からだの左右のわかれは、ぼやけたまま鮮明になって、正中線の下のふかみが湿地とかんじられる。その道をふみすすめられて、とりわけ左右のひととよばれ、そうして「りっぱにきちんとかぜを」ひくのだ。かぜでは、うるむ水たまりがからだに目立つ。
 
うすくひろがる汗。しんぴてきなはなしをするひとと誤解されるのは、咳の発作にえづきの発作がとなりあうからだ。そうだ、ひとりのなかに隣人がいる。のどが閂にとざされている。それで楽な姿勢をえらぶと、胎児型におのれ曲る。いずれにせよ、えらばれるすがたにいちじるしい後退があるから、のどを統べていた脳のようなものも、きのうのさゆよりうすくなってゆく。
 
ねてばかりいる呼吸困難からしずくがこぼれる。そうして「りっぱにきちんとかぜを」ひくのだ。こころぼそいのとはちがう。ほそくあるべきものがただ精確にほそくなっているだけだ。アナクレオンの、たてごとさながら。
 
 

2014年10月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

19

 
 
19
 
おおきな川へ、いやに厚みのある橋がかかっている。橋の道そのものはひらたい屋根で、そのしたに長屋めく住居がつりさがっていたのだった。ぎゃくにいうと、住居のつながりが橋になって、平屋根に行人をとおしている。つりさがる住居には、ゆくすえをかえるひとたちが住む。
 
たてものの構造は石づくりで堅牢らしい。おもさをたたえながら数百年をながらえたようにみえる。もとの設計が緻密だったのだろう。川のうえに住むというありえなさがたしかに住人をとうめいにしている。往来にふまれるのもよろこびらしい。
 
そうした生をあかすように、部屋ぬちにはめぼしいものがない。竈と寝床、それに調理器具と食器のあるばかり。がらんどうのなかから川をみて、日々をすごしている。大水になれば住居のまどは川下向き、川上向きともにあけはなたれ、橋ぜんたいが川に沈下する火急に、水のながれをとおしてゆく。住人はどこにいるのだろう。そんなときも迅い水のうごきのうちで、かたることなくわらっているのではないか。
 
橋(住居群)はせかいが彎曲する箇所にかかっている。それがたまたま川の蛇行するくだりというだけだ。遠望では、橋の背景が暮色にそまる確率がたかい。
 
のみ水は縄でくくった桶をおろし、川から汲まれる。かれらが銅カップでうつくしい真水をのむすがたをみたことがある。精確にからだ半分でなしていた。からだののこり半分はどこかへ放ちやっている。だからそんざいのまんなかにはいつも境がみえて、かれらのこころに水がゆれているとかんじられる。
 
なんの寓話だろう。わからないが、かれらはじぶんを愛するために、ながい時間ではなく、ながい空間を生きている。
 
 

2014年10月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

18

 
 
18
 
時のながれに並行する身は、どうしてもしずかだ。きぬずれまで消すと、時のながれをほんとうに実質化する無音がさらに聴えてきて、それが未明などに詩作をうながす。
 
やっかいな詩のおと。どうしてとくべつなそれは、多彩なのに、多彩をしずめるような円滑さでぼんやりつながっているのだろう。概念語までそう聴えず、しかもたがいに溶けているのだから、なにかの息がいつもあいだへ作用しているとしかおもわれない。
 
同異のこともある。子音分布、母音頻度で、詩のおとが悲喜へとわけへだてられるのか。広範な分布とどうじに、おなじものの偏りだって詩なのだから、ちがうものと、おなじものとが、詩のおとのながれてゆくあいだにくべつをなくす不全を、たとえばここでかなしみというしかない。
 
したしみをもってちかいひとの、そこにひらめいている同異。
 
直前が直後とおなじであれば分節がとりだせない。それらがちがうのであれば分節だけがあり、前後の別が、おとのちがいと同程度へおとしめられる。そうしてわたしたちはなにも認識できなくなる。したしい詩のなかの刻々の同異は、おそろしいことがうつくしい。
 
むかし、二角形もんだいをほんとうに提起するのが喫煙だ、と書いた。そのもんだいはふえるか減るかのどちらかだ。たとえば詩中のことばひとつひとつは、一角形のしずけさ。
 
次元へと敷衍してもいい。点的な一次元をもたされて上位次元を想定できない詩作の刻々が、語りのなかにみいだされる人称再帰を四人称とまでしてしまうのは、なんの超越か(横光、藤井)。たしかにしずかがさらなるしずかへ微分されてゆくと、なぜか四にかかわるおとが聴えだす。
 
 

2014年10月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

17

 
 
17
 
ひとつの角度そのものがすきというのはありえないが(「わたしは三〇度をこのむ」とか)、角度の連鎖にひかれて息をのむことなら昨日の呑み屋でした。とはいえ角度の連鎖で鳥肌のたつのは、ふつうはドルフィ的な音形変化のほうだ。そんなぎざぎざからかんがえをひろげるためには、やはり弧がもんだいになる。
 
弧は角度変化をあたうかぎりこまかく連続させて、線の形成に円滑をなしたものだ。輪郭のうちがわから角度は無限数、つきささっている。どうじに、角度は輪郭のうすさのなかにちぢまってかぎりなくねむってもいる。なだらかさにある連続の保証が、たとえば横顔では、みじかい音楽の漏出にまでなる。丘よりもずっと単位のちいさい、それでも和音要素のおおい小曲として。
 
正面顔になれていると、横顔がとつぜんあらわれる。反転しあう弧のつづき。向かいの席の、みなみさんのそれだった。ひたいがまるい。下に視線をながしてゆくと、それが眉間でくぼみ、前方のくうきにつままれた鼻梁がなにかホイップクリームの、泡の錐のようにもみえる。形状そのもののほそさをかんじる。たしかに横顔の中心はそこなのだが、物量がなく弧の変転だけが、こころもとなくただよっている。
 
そうしたものを上あご、くちびる、下あごの順でうけとめるのだが、くちびるをうすくひらけば、うすいものをうけとめている印象がさらにうまれて、あどけないはかなさがひらく。リタルダンドからア・テンポへのながれ。色白のひとなので、連続線が内包を夢想する「落ちかかり」が、すべて白とくゆうの寵としてういていた。
 
線を肌理にすると弧となる。そうしてとつぜん横顔があらわれたのだ、といった。
 
みなで店をでると、でたところから夜がくらさの四方へほぐれていった。いちど横顔のなす線にひかれた感慨は、夜のたかい位置の髪の毛に、かたちをうしなったまま掲げられていた。
 
 

2014年10月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

16

 
 
16
 
わたしはふくざつな作曲のできる才能をとりわけうらやむ。ひとすじ縄ならぬ和音の推移で感情のかたちをつくりながら、しかもそれを天上化させて、聴くからだを置き去りにしてしまう冷静な頓着をいっている。そのひとからは「近接の遠望」がつむがれる。
 
夏のおわりに、秋海棠の群生がゆらめいて鳴った。鳴りつづけた。おとはいろを秘めているが、秋海棠の鳴りはその花色とかかわりなくしろい。群生だからまなかいにも遠近があり、とおさがちかさをひるがえしているように聴えた。
 
かんじつづけることは、刻々かんじることにさいなまれる。
 
とうぜん持続と継起にはすきまがあって、作曲のはいりこむ領域もそこだ。そこがうすものの裾に似てゆれるなら、おんなのようなものさえ、えがかれるのではなく、「そこはかとなく」作曲される。過去が現在としてうごく。
 
頬杖すがたのもっとも似合うのは作曲家の肖像だろう。腕のつくりあげる三角の空洞から耳ちかくへと、余人には聴えない、おとの風をとおしている。かならず上体がななめになる。まっすぐではあらわれない前方を、ななめになすことで、光景のずれから音の着想をみずから寄せているのだ。意外かもしれないが、波打ちぎわをポーズでしるすなら、前髪を垂らし、チョッキを着衣した半正装の、机前の頬杖がいい。すがたのまえには、きっとひらかれた窓がある。ひとのまえにある窓のかさなりもまた構成的に作曲される。
 
さいわいかどうかは一概にいえない。たとえば秋海棠をかんじつづけることだって、秋海棠を刻々かんじることにさいなまれたのだから。
 
 

2014年10月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

15

 
 
15
 
わたしはクルマの運転ができないので、できるひとのきもちや感覚を、いいかげんに想像することがある。
 
直線をはしっているときは、「ちかづいている」と「すぎさってゆく」の、どちらがまさるのだろうか。どちらのまさるともなく、距離という概念のなかみがさらさらこすれ、そこからぎんいろがあふれだすような錯覚をかんじるのではないか。せかいがフロントガラスのなか縦に伸縮して、それのみをクルマ本体のおもみが昂奮しながらはこんでいる。なにもかもが、すばやく、ぎんいろだ。とりわけ秋の野道をひとり驀進するときには。
 
円の軌道そのものを走ることは、そのようにしつらえられた軌道をゆく以外ふだん経験できない。それでも「いま走りぬけている」弧が、じっさいは途切れている円周のかなりの割合だと体感すると、せかいを変えてゆくいろが走路から湧きだすのではないか。視界ではなく、ドライバーのからだのいろを変えるように。
 
かんぜんに円形の島があり、そのすべての海岸線に道が敷かれクルマを走行させても、すべて円形を走りきったと自覚するためには、もとの場所にふたたびたどりつく時間がひつようだ。こういういとなみには達成の意識がからむから、ずいぶんとたいくつだろう。道のつながりもさして意味なく、海の東西南北をずっと横にできたことが一周の意味だったと気づくまでは夢想的にもなれないだろう。
 
そうではなく、弧上をまがりつづけているある持続が、フロントガラスごしの光景を横にながれさせ、その視界そのものが、せかいを構成している部分的な円になやまされることにつながっていると知れば、クルマの運転も孤立的になる。円をかんぜんとみなす世界観では弧が潜勢なのだから、おおきなカーヴを運転するのも時間内の潜勢にともされることで、まがっているうごきだってすすんでいるうごきに敵対的だ。進行が挫折する危機感がはしって、カーヴの終わるのが習いなら、せかいを変えるいろも光景ではなく、みえない縫合と関係がある。そういう嘘めいたゆらめきが、すぎさっている地勢なのだ。
 
それでいつも風向計が光景ではなく縫合をうみだしていると、泣きたいようなきもちでじぶんのからだに刻印する。それとともに、絶望的な円錐をきりだしてゆく。円錐状の島が走路に数々できる。とりわけうねうね蛇身をえがく、枯葉だらけの峠道をすぎてゆくときには。
 
 

2014年10月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

14

 
 
14
 
精密さのための労力を節約できないものか。
 
たとえばフルアニメ的なものの驚異は、作用主体と作用域が設定されたとき生ずる。作用が域に物理法則をこえた変型をうみだし、その変型が作用を再規定する。さらにアフォーダンスを導入すればこうなる――せかいが情報をもち、それに直面する主体の行動を順につくりあげるが、行動をつくりあげられる主体も情報だととらえかえせば、相互性の無限そのものが幻惑にゆきついてしまうのだと。むろんそれはフルアニメのなかばとるところだが、「物語」はそのいっぽうで間隔、跳びのある進展を志向してゆく。それがなければフルアニメはアクティヴな一場面のみで精密さを昂進しつくし、焼きついてしまう。
 
焼きついてしまうひとみを冷やすために地上がしていること。これも例をだせば、ある地点から三本の樹木が丘のうえ等間隔にならんでみえて、しかもそれを「三本」と要約できて、ようやく間隔を綜合する涼気がただよう。授業をしていて気づく。宮崎駿のしていたことは、「精密さの焼きつけ」「進展」「間隔の綜合」、これらの鼎立だったと。
 
詩は使用カードを減らし、後二者のみの複合によって、「精密さの焼きつけ」を幻想させるものかもしれない。そこでは展開された全体が最後になって現像の対象となる。それまではやはり生々しい。ところが最後、垂れている行の余白、聯間の空白が、川で傷つけられた地形のように詩の事後をかたちに焼きつける。詩はフルアニメよりも情報上はずっとかんたんなものでつくりあげうる。そういう詩ではたりなさが与件となる。
 
三を二にする。二を三にする。二角形を概念にする。
 
漢字三文字ながら二音であるもの、「山毛欅」「百舌鳥」「香具師」などのふしぎ。かずをおとが縮約してしまうそんなあらわれに、せかいの涼風がふきわたっている。お化け煙突のエピソードの功徳だってそれかもしれない。立ち位置に、なにかのみえなさがいつもふくまれている条件が、それじたい救済なのだろう。
 
《あるかないかもわからない わたしらの考えの中に/みしらぬ山毛欅の大木が入ってきて いっせいに若葉を鳴らす》と書いた佐々木安美が最大の思想家だ。若葉は鳴りにおいてふえているが、「鳴らす」と書かれ即座にそのかずを減らす。わたしたちは増減のリズムをもって、せかいへと没入する。
 
 

2014年10月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

13

 
 
13
 
《くもりの日のほうが、モノがよくみえる》というクロード・モネのことばは、モノの明視性が明度ではなく、内発的な実在性にこそかかわっていることをよくしめしている。にじんでみえるもののほうがただしい。そんなふうにみえているひとをある日は美貌ととらえた。
 
関連して、《ポルノグラフィはみえない》とするラカン派のことばもおもいうかべる。「対象をみようとしても自分自身をみてしまうから」とオチがつくのだが、よくかんがえれば自分自身などみえないのではないか。
 
ポルノグラフィのなかにはたしかに絶対的な美貌がいきおいをしめすときがあり、そこでは精神を欠如させての内発的な感覚が、ひとの持続をうらがえすような消長をつづけている。実在のかたちをしていない驚異的な実在、クラインの壺。それが愛だけを作用にしてひたすらうごく。そうなると「みえない」がみえているとも、「みえる」がみえていないとも感覚してよいのだし、不可視が視を葛藤づけることにほんとうの視があると、じぶんの視覚の運命も収斂してくる。不吉だろうか。
 
選択がはたらかず、範囲のみ、みえているときもある。そこにあふれているのは多数、意味づけられない部分の関連、範囲がなおもみせようとする周囲、いっさいを還元してしまうひかりの質、たいするものにかならず奥行があるといった法則で、どこにもモノがないのだ。内発のけはいだけがさしせまってきて、
 
そんなふうにみえている特定できない全員を、ある日は美貌ととらえた。
 
「ひたすら」のみえる時間もある。湿地にうごく、丈のたかい葦むらなどにそれをかんじる。ゆれているのもかたちではなく声にちかい。それで理想的なポルノグラフィが現れている。どんなひとの貌のなかにも、おなじゆいいつの視線しかかんじなかったくもり日がおわって、それらをみた。眼はかわいていたのか。それとも逆だろうか。
 
 

2014年10月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

12

 
 
12
 
肌寒くなったので、今秋はじめてひとり鍋にする。具材はすくなめに、葉物、鶏、茸、豆腐。どこかはかない味を、酒でいわば順延してゆく。そんな順延の波にのると、鍋とはまったくべつのものがあらわれてきて、それがみずうみだったりする。不確かは、水禽の貌で食すのだ。
 
久保田万太郎の慨嘆句《湯豆腐やいのちのはてのうすあかり》はかれらしく達者だが、十七音でいいおおせたこと以上の余剰がない。たとえば十四音を下に足そうとしても受けつけない、それじたいの箱庭にすぎない。そういうものこそが俳句といえばそれまでだが、むろんはじめの直観をうらぎって、できあがっている内部がゆらめきやまない拉鬼句だってある。
 
即興演奏には楽想の発端があり、それが空間へ突き刺さって、できた傷が治療されてゆく。みたことのない傷にたいし、みたことのない治療。しかもそれが建築的にならないのは、直前のおぼろなものを、直後がべつのおぼろなものとしてとりかえす、そのやりとりの境に時間が溶けるためだ。中心のないことが中心になってゆくのにぼんやりとしていると、とつじょ切りつけられた音形におどろき、その解決に美をかんじる次段もある。やがてかたちの個性をおびてくる着想がどうおわるかをおもうだけで、動悸がつのってゆく。階段にある、こびとの死。このときは自他のからだのようなものをおもっている。
 
そんなふうに耳は展開にびんかんだが、ひとり鍋を半時間ほどあさる、この舌のこころもとなさはなんだろう。ひとつの原理しかない。なにかたりない味に、たりなさが「みちていて」、不足と充実とを同時にもたらすから、食が散文的にすすむということだ。ここにないを食べる。ないを飲酒がゆらす。ながい楽興に似たものに舌もこがれるのだが、演奏よりたんじゅんに食は終わる。食べるからだがあり具材がある食のほうに、世界性が明瞭だからだ。
 
うすあかりととりちがえる、食の個物ではなく、食の刻々がないか。
 
腹がみちれば、窓辺がひつようになる。酒のほかは最低限を容れたからだを、からだとしてみとめるためにすこし反らす場所。なにもかんがえなかったのに腹がてきとうにみちていることはグロテスクではないか。じぶんの現前のように。
 
 

2014年10月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

11

 
 
11
 
ふるいひかりを感覚することがある。というと、光年という、距離と時間のあわさった概念がもちだされ、アンドロメダ星雲から二三九万年前に発せられたひかりがいまにとどいているなどと、人界をこえた遥かさがつげられる。けれども眼のわるいわたしに、そんなものはみえない。
 
むしろ、かたちと質感から、ふるいひかりがもれでてくる。たとえば桃と梨では、食用の起源は桃のほうがふるそうなのに、梨にこそふるいひかりをおぼえる。きっと眼の底に梨色のまだらがわずかながらあって、それがたまたま実在の梨と反応して、梨の在る範囲に梨色を知覚している。梨に梨色を視ているのではなく、からだに仕組まれた梨色が劇的に梨と同期して、からだのなかに実在の範囲をかんじているのではないか。ゆうれいにたいするように。
 
水気と蜜がおおすぎて組織の稠密を欠き、そのしずかに在ることがしずかなくずれにあらがっているとまで不安にさせる梨は、だから想起にかかわるくだもので、わたしじしんに内在された梨色をぼんやりとゆらしている。ざらつきのあり光沢のない果皮が梨を範囲化して、わたしをつつむ肌に似ている。あらゆる相似がふるいとおもえば、梨のかたちと質感までふるい習いをつくる。桃なら傷みが華やかすぎて、この径路をうまくもてない。梨は径路にもかかわるくだものだ。その埴輪めく実が出口なく閉じているにせよ、
 
みえるものがくぼんでいる。そこに。
 
「うつつ」と「うつる(映る/移る)」がおなじ「うつ」を語幹にして、そこに「うつろ」までくわわったのなら、梨にも「無し」がふくまれるのかとおもうが、ちがうようだ。それは在り、てのひらにのせられる。梨はかたむきにもかかわるくだもので、のせたほうの半身がふるくなる。
 
 

2014年10月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)