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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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この連作をずっとかすめているのは、もちろんからだへのさまざまなかんがえだが、それほどからだでもないのだ。むしろあったのはうつわとひかりの関係だろうか。そのものよりも、そのものがめぐりとつくりあげる関係のほうがうつくしいと、ここのところずっとつづってきていて、うつわのおもてが照っていれば、そのなかにもひかりがみちているとおもうことを、わたむしにもみうけていた。
 
しら糸とも雪ともつかぬ蝋をかるくつつみ、みずからのすがたをうしなうそれらは、雪のようにはてのひらへのらない。それらは個別ではなくただの群飛で、からっぽをあふれさせるうつわへと松ばやしのひかりをかえる。ひとつの個体がうつわになれば、それら無限の浮遊も、おとのないうちがわをつくらずにはいない。
 
あるところがなんらかの霊気でとじられている。そのあかしのため、かすかであってもいつも反響が測られる。そうしてひとは耳をたてるのだが、その頭部のけはいが関係へのうつわになっているとは気づきにくい。きこえない。さわろうとするけどさわれない。どだい、ふわふわしていても、雪虫とひととでは、じかんの単位がちがい、ひとはただおくれる。そこをやがて雪がふりつむ。
 
かわりに雪虫はきえるが、しろうとではそのきえかたすらわからない。きえのなかになにかがのこり、松ばやしを背にしたわたしは、「ずっときみを自殺しつづける」。
 
そういううつわだ。だんだん痴愚になる。こんやは痴愚鍋で、とうふにもうらがわのあることにおどろいたりした。
 
 

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2014年11月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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したしさへの予感をおびながら、それをはばむ微妙な位置にふわふわしている、蛾のようなこどもだったとおもう。記憶はないが、家ぬちのくうきもいまよりずっと、蜜に似てねばっていたのではないか。うごきがたさのなかで、ゆれるもののぶきみをからだひとつで遅らせていた。
 
祖父母の家からもどってきて、つよい癇をひびかせた。うるさかったらしく、叔母によれば、これまた癇気のつよい父親だったひとが、ゆかに叩きつけたともいう。それでなにかを破損して、成長がおくれたかもしれない。
 
その父親は鎌倉に家を建ててから、帰宅がやがて疎になった。父にまつわる記憶がすくないのもそうしたわけだ。やがて父母の離婚が成り、会うことなく父は世を去り、葬儀にもゆかなかった。
 
真偽さだかでない妙な父の記憶ならある。床の間のあるくらい部屋。半紙を糊でつないだながい帯のうえに、父親の筆がちからをこまかく加減して這う。遅速の配分で結節ある竹がつぎつぎ林立してゆく。ひとふでから数本の縞がたわみ、それが竹群にひそむ不遜な虎ともなる。あんな魔法が理科系の身のどこにあったのか。おしあてた筆をふるわせて鯉の鱗をつくったり、筆勢をながして水面の皺を生みさえした。紙上の墨がこまい電気みたいに鳴りつづける。かたずをのみつつ一気呵成の刻々を追い、そんな背後の圧を父親が黙殺していた。
 
父がもういない中二のころ、ジャニスの「サマータイム」を聴いて震撼する。「泣くな」と唄う歌がむしろ号泣をみちびく。彼女の声と二本のギターのとりあわせ(ひとつが歌謡曲調、ひとつがサイケ・ディストーション)が音場をゆがませ、音楽そのものが危ない。直観的に父親のあの日本画もどきをおもった。父性一般にたいしてはずっと変な反射をしていたが、まさかジャニスから現実の父がよばれるなんて。
 
かえりみれば父からはふるえをずっと訓えられていたのかもしれない。それもまた生の要件だろう。
 
 

2014年11月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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かんがえるとは、はだかになることだ。まとった服飾を解き、ひだをひろげ、ずんぐりしたぜんたいになって、かんがえようとする対象の芯に、まるごと物質をおしあて、鼓動をわけあうことだ。あらわれてくる展開がみずからを折るのではない。かんがえはあらわにしたぜんたいのなかとうえとを、さいなむようにひびくだけだ。それは風にたわんでおわらない刑罰の刻々にも似る。
 
ならぶものみな裸木となって、それぞれのそのままがただかたちを生じ、枝のつながりが、さしかわしが、かんがえにあるだろう連絡をあおぐろく露出している。それは回路にみえて、しかしそのかたちのぜんたいなのだ。それでもそのかたちだけでしかかんがえられないのではなく、風にたわみ、やがては雪をいただき、おもさにあえぐことで、その場にあるみずからを、ならんでいる眷属を黙々とかんがえつづけるだろう。気温とはちがう熱をもつとは、そういうことだ。
 
おなじように、おもうことを澄ませるため、はだか身になれば、くびとうでの伸びているかたちが、目鼻の配剤が、ただかたちとしてかんがえはじめる。かんがえている部位の実際は、むしろ分け合われている関節どうしのひびきにある。はらわたが一丸となり、表面としかあらわれていないぜんたいのむごさをさらにおしだす。おおきくみえているあらわれが、ひりひりとちいさい。この凝縮がかんがえて、けれどもかんがえの一節一節がやはりかたちを分離している。やがてこのかんがえはもうろうまで得て、湯になじむ。じぶんのなまえとすら無縁になったかんがえが、ぜんたいであるもののなかを、ぶきみにしずくする。だれなのか。
 
きみのかんがえもしりたい。はだかのぜんたいをつくりあげているかたちが膚接によってかんがえるそのまるごとを、このはだかへともらいうけたい。
 
 

2014年11月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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からだのどこかに脾臓があるが、それがどんなかたちかしらない。「うすいひしがただよ」とウソがいう。にくづきに卑の脾、にくづきに非の腓。からだにはからだにならぬものがなるほどひらめいて、うちがわもそとがわも心もとない。
 
詩集は連作をなして、間歇がどうひろがってゆくかがすべてだ。確たる着想がやがてうすまり、篇をこえてつながり、さいごにえられるとうめいが、そのままからだのまえともひとしさをつくる。二季ていどにまたがると、さらに生きてゆくからだが巻末へのこるだろう。むろん日々の連作がかんじん。ぐうぜんうまれた型をさらに追うからだが、それじたい獰悪な詩なのだ。それでもみつめあう肝腎の脇で、脾臓がくるくるまわる。まわるからそれも四角錐にみえて。
 
ただしくは免疫応答の場、と書いてある。そこでふるくなった赤血球を破壊するとも。犬は大量の血液をその脾臓にたくわえているそうだ。となると、ひとと犬のちがいは脾臓にもある。ちがいについてはいつもさわりたいのだから、犬をうらがえしてあばらをさすり、脾臓をみちびく魔法があってよい。
 
うしなわれれば、ほかの循環器が脾臓を代替するというのだから、もともとが痕跡のような内臓なのだ。ふるくは膵臓とのちがいすらわからなかった。くうきのなかへほそくカドをたてても、わたしたちには内蔵できないものがある、と脾臓のひかりがいっているのか。
 
それでも破壊された赤血球がこまかいひしがたをうかべて胆汁としてながれる。それがくろくなり、ゆううつをめぐらせる。ゆえに太古からある、ゆううつと犬のかんけいにも脾臓がおもわれているだろう。わたしたちのいるのは、内外のあいまいな、そんな星にすぎない。脾臓は臓器としての輪郭もよわい。それは脾索へとうすまってゆく。むろんこのかたちこそが自分への詩なのだ。詩は、あたまではなく、脾臓でつくる。
 
 

2014年11月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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からだと手とのかかわりがさみしくないか。じぶんのほとんどの部位を手はさわれる。毛髪も性器も、あるいは腰をおろせばかんたんに爪先も。そもそもその再帰性がさみしいのに、もっとも見た目にあわれな油断のばしょ、肩甲骨の真下にあるからだのぬりのこしを、肩越しに腕をまげてさわろうとすると、上体がはげしくひんまがるのだ。からだのつくりあげようとするYの字がこのときむざんに折れて、みずからへの祈りまでくずれてゆく。
 
かんがえてみれば、ポーズが残骸に似る身の置きかたがもっとあるかもしれない。しゃがんでいるすがただって傍からみればなにかの失敗のようだし、樹の幹にもたれる背が、さむさのほのおで皮をめくらせているかもしれない。おとこの排尿のたたずまいも、なにかへのあこがれがゆっくりとじてゆくあきらめと映る。
 
それでわびしいときには性愛の映像をみる。ふたりあるすがたこそ自足するのが、ひとのさだめだろう。騎乗位によっておんなの寺院が建ち、背後位によっておんなの後方が極彩の浪になり、正常位によっておんなのゆれが川水を掬う桶となる。ひとのあらわれをとおりこして、ついには秋の井戸のみえるそれら画像があるのだ。
 
背ははらわたを圧しせばめ、いのちの延びをがらす状に分光する。それが陽だまりのぬくもりをおびて、前屈も反りも、せなかのただの前後とおもう。からだのそとなのに中のつく部位「背中」は、そこだけがからだのなかではなく、めぐりのなかにただあるのだろう。Iの字をちぢめさせとおざかってゆくひとの、背の中央へは、そのひとみずからでは孫の手しかとどかない。そのはしらの節を、さしかわす枝のすきまからまいおりた、ちいさな手のようなものが押しつづけている。
 
 

2014年11月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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あらゆる表現や哲学にまたがり、無機的なもののもつ性的誘惑を目指して登攀してゆくペルニオーラの著作をよむ。サイボーグの美観が諸学にならびあって冷ややかな壮観だ。ところが著作と直面しているはずなのに、よむわたしが次第に作者からかぞえて三人目となっていった。わたしの直前を別の者が文脈となって、著作の文脈をたどっている。わたしはといえば麓だけをつづけざまによぎるだけで、べつの空をつねにみあげていた。
 
発声は吐く息をともなう。それにたいし書字行為では書字分節ごとにたぶん息がとめられる。それらがすべてではないか。性交でも吐く息が支配的とおもえそうだが、じぶんのからだにふれあう相手のからだを、じぶんのはだに書きとめつつさらに息をとめる、書字のすきまがかならずある。おもうことはえがくことなのだ。このみえない対極が性交の奥にある二元性をささえ、そこに生気論が脈打つ。むろんささえているのだから、ちからがあり、ちからというかぎり、それが特別だとわたしはおもう。生気論はいのちと同等に空間条件にもかかわる。
 
気に入る猥映像どうしは、つねに相似性をもつ。脱精神的なはずのそれを、精神的にのみうけとめるズレへと魅入られてしまうのだ。ものじたいはつかめない。無機性にまたがる同一性と、この生きるズレのおくゆきにある同一性とは、むろん性質がちがう。前者は分布化されるが感情化がなされない。だから同一性が差異としても算出されるが、その算出がいつも傾向的になってしまう。後者はおなじものがつねにほのめかすゆううつをともなって、動物ではない性のいとなみを、精神や音楽、ついにはなみだのかがやきへとかえてゆく。
 
にんげんの性交で発見されたこの人間的なゆううつが、合目的のハーモニーをなして、それが植物へさえのびてゆくのだ。すべては、ほろびるがつづくもの。まなざしもこの指標のうえにこそゆれて、猥映像が侵犯的にもってしまった精神性を請け合う。まなざしにある傷の感触は生気あるもののみにあって、サイボーグがどれほどまばたきして乾き目を克服してもそこへはゆきつかない。動物の痕跡をこのむことが植物の痕跡までもほりあて、この深度のなかを精神が遡上してくる。かくして肉でなしうる感激の時はすべて和解に似てしまう。「ことばの肉」においてさえそうなのだ。
 
このとき、なににむかって息がとめられているのか。「すべての差異はおなじ」「すべての同一性はちがう」といった分裂は、ひとまず呼気と吸気とをまとめあげる。ところがまとめあげられて、ぜんたいがただちに呼吸へと生きもどされる。わたしたちの竹――栄えあるかなしさは根づきかえし、竿たることをいつもうしなう。
 
 

2014年11月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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鼎――鼎立が、立法・行政・司法のようなものだとはおもわない。その本性はむしろ出没だろう。
 
たとえば対談記事なら、かならずふたりの応酬となる。それがことのほか単調だ。いっぽう鼎談記事ではだれがどの順番でくちをひらくかで不測をおびる。いつもこころ惹かれるのは途中からまったく喋らなくなったひとりだ。のこりふたりを聴きいっているのか、「そうはおもわない」を言外の磁気で放っているのか。きえているのに居る、そのけはいに、空間そのもののうつくしさをかんじることもある。
 
三人でいると、うちのひとりがみえがたくなるのが、この世のさだめだ。ながめはいつもそのようにある。くうきと風と雪の三人。くうきのみえがたくなるのがわるい日で、風のみえがたくなるのが良い日だという法がつづくだろう。そこを眼のきょろっとしたむすめが、黒髪に雪のまだらをつくってとおりかかる。授業で見知ったひとだ。かなえさんとよぼう。かなえさん、のこりふたりがきみの背後をあるいてますよ。
 
三本脚の丸椅子のもどかしさ。すわるじぶんがみずからの両脚で安定をつくり、丸椅子をじぶんの一部にする参入までもとめられている。うごかない一輪車のようなもの。「そうはおもわない」が尻からはなれない。
 
むろん「そうはおもわない」はおおくの日常でいわれない。だまっている。バートルビーの「しないほうがいいのですが」に似て、ないものの潜勢力がひらめきだすのは、ふきつなのだ。「する」「しない」に先行され、「しないほうがいいのですが」がみっつめにひそむ発語だ。ことばはすぐにかわるだろう。「しなないほうがいいのですが」。
 
詩は書いたその場で、書いた時間とひとしい時間でととのえ、それでおわり。ととのえのないばあいすらある。後日にはもちこまない。推敲と、日の推移とをかさねるなんて、詩にたましいをとられるみたいで厭だ。みなおして駄目なら、いさぎよく捨てるだけ。
 
このときも「そうはおもわない」、その三人めがまなかいの奥へきえてゆく。四の機能する「こそあど」の例文みたいだが――あの消滅をにじみととらえて、なにかこの悔恨のようなものをどの次元かへみいだせないか、しなないほうがよかった、そのあかしに。
 
 

2014年11月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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五講目の授業がおわり、校外へでると、北十八条の路上は、すでに厚みをたたえた雪をつんでいた。その夜気にもしんしんと、雪がふりしきる。前方のひかりがぼやけながら割れた。下校する女子学生がともだちに耳打ちする「根雪になるね」の声が、ふる雪どうようにほそい。
 
雪の根があるのなら、さらに雪の幹があり、雪の枝があり、雪の葉もあるだろう。雪の幹がくうき、雪の枝が風のちからだとして、おそろしいのは雪の根と、それにふりつむ雪の葉が一見おなじものであることだ。そんなものはしょくぶつのぜんたいではない。根がただ葉を吸着して、やがてはすべておなじもののうずたかさへなってゆく。幹と枝はそのことのなかへきえている。これからの数か月、指標が同一性となり、そこで時間をつくりあげるために、降雪に減殺されたひとのからだが、ただみえがたさをゆきかうのだ。
 
ふつうの根は縦横にからまり、編み籠や万指の型となって、なきながら地中をつかむ。そのつかみの一体が、さらに根の伸びを無限にかぞえて、根の国をかこう。このかこいのおくゆきが、くらくひかるようにうつくしい。
 
ところが根雪はたとえば路肩にへばりつく寝床のうつぶせであって、そのなげきの背中にあろうことか雪の葉を負う。はじめはきらきらしていても、すぐに重しの刑となる。雪のふるときは結晶形がおりるのだが、結晶がこわれても雪にみえるのはそんざいの刑罰だろう。よく観れば凍て雪と、そこへふりつむ雪はちがう。ちがうもののかさなりが即座におなじ堆積となるなら、婚というものがひろくしんでいることになる。
 
ふる雪が根雪をてらし死んでゆく須臾が、北のよるのかわらぬ楽章だ。それが数日つづくこともある。むろん音のないままに。ごくまれにしずくするときもあるが、降雪はけして音をもたず、ひとの耳には、ただ風――枝の雪がむなしく出没する。
 
 

2014年11月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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なかなか写真うつりがいいじゃないのと、新聞を東京でうけとったつれあいから、メールがとどく。そう、その掲載写真なら「じぶんに似ている」。
 
写真うつりのながいひとならニシワキさんだ。草食獣の脳髄がきらめいているそのすがたから、草木そのものにもながい情があるとおもわせて、此世ばなれしている。その顔がしずくしている決まりの一枚がないか。もっと木目がみたい。写真うつりのぴかぴかなひとは猥映像でのローションプレイのようで、ひとの美観、その未来がサイボーグへちかづくと不敵にしるす。その平面性は立体化する。美観にまつわる建築が可能性としてうつっているのだ。
 
写真うつりのあおいひとなら、たとえばジョン・レノン。煤煙のもとで育った幼年がおおくの楽想をあおくしている。そのそんざいの屏風がまるごとうつしとられて、だから眼鏡が顔の必然ともなる。かれの顔写真なら時間的なので箱のように「ひらく」。
 
わたしは知りあいのいくらかの女子とおなじで、写真うつりがさだまらない。ほんらいはふきつなのだ。代々の洗面鏡は、うぬぼれ鏡だった。そこからじぶんの映りもまたあおく、まなざしがふかいとおもっていたのだが、そんなふうに撮られた写真がほとんどない。『イマジン』のジャケットのような写真がないのだ。精悍に語る、とキャプションされそうな勢いで、語る手がうごいている瞬間をよくぬすまれる。撮影者が対象をみるうちにイメージを固定されるのだろう。こんどの写真も顔といっしょに手が語っていた。
 
「わたしでないこと」がわたしなのだと詩に説かれる者は、みずからの像をおもいえがかずに、目にするものの反照のなかに、じぶんの逆算がただあるとかんずるだけだ。樹木のもとに移ればそのすがたが樹木の欠性だし、ひかる窓辺へ移れば、そのすがたも窓辺の欠性だ。けれど、いっさいとともになびいてしまうとおもわせながら、そのそんざいだけが着色されていないとかんじさせる距離がかならずある。そこでは「似ること」「似ないこと」にもはや意味がなくなる。
 
わたしの写真でつたえられるものが、まだある。毛だ。頭髪が火事をおもわせてけぶり、くちひげが語りに迷彩をほどこしている。ところがそれらの毛はケダモノからもちだされたもので、だから不細工の質がふるい。それが、ふるいものを掬いとるまなざしによってのみ愛着される。この者はどこから来ているのか問いかけるものであれば、そしてその答が空間的になるだろうと予感させるものであれば、たぶんそれがわたしの良い写真だ。
 
 

2014年11月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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以下はまず嘘を書く。
 
中国で「福」とは、妖怪の一種で、そなえものほかにとりついて、まどろんでいるひかりなどを指すという。兄の「禍」とならべば、たちまちたがいのあいだに縄をあざなって、樹木の幹などをぐるぐる縛り、枯死にいたらしめる。それならば禍のみのしわざのようだが、枯死にむかう樹がげらげらわらうのが、福のくすぐりによるのだった。かれらの縄が風のなかに舞っているすがたがよく見られるのが、雲南あたりだともいう。
 
兄への執着でもおもわれるように、「福」はさかさになりたがる。「福倒了」と「福到了」とが同音だというのは、さかさまというありさまに、すでに福がやすらっているのをあかししている。図体がちいさいからそんな転倒まで起こるのだが、さて福は幽体にすぎないのだから、そのもののおおきさなど、はたして測りうるのだろうか。コロボックルほか小さ神ぜんぱんにもいえるもんだいだろう。
 
人体では福は結節点にあらわれる。じぶんの胸のまえでにぎりあった左右のこぶし、くるぶし、ひざなど。あくまでも伸びようとする人体に停止をかけているのが、そこにひそんでいる福だと気づく者はすくない。いっぽうで福はくぼみにもあらわれる。腋、ボンノクボ、おんなであれば秘処にも。もともと影のなかに場所をひそめているそれらだが、その色がことさら白く、触りがすべらかであるとき、福がこともあろうに、憂=うれいとからみあっていると気づかされる。もちろんおんなのうつくしさは、うれいがどれだけしたたっているかによるのだった。
 
図像的な協調もある。福が井戸のかたちをしている(福井)。福が島のかたちをしている(福島)。なりうるならば水ととけあって、おのれをうしなおうとするのが福かもしれない。だからさいわい=幸とも婚を成して、その幸福はすがたをなくし、くうきのように、たとえばならべた白菜のてまえをただようしかない。
 
白菜を立てて観音ほのかかな
 
 

2014年11月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

北海道新聞文学賞を受けました

 
 
本日の北海道新聞朝刊に、第48回北海道新聞文学賞の受賞結果が公表されました。ぼくは去年出した『ふる雪のむこう』(思潮社オンデマンド)で詩部門の本賞をうけました。1面に結果をつたえる囲み記事、22面にはぼくの写真付きで、受賞者インタビューがけっこう派手に載っています。
 
ぼくのインタビューは新聞記事らしく簡潔化され、すごく読みやすくアレンジされていますが、選者三人中、笠井嗣夫さん、松尾真由美さんおふたりの選評が見事にゆき届き、詩集の勘所をつかんで、たいへんに感謝しました。授賞式でおふたりに会えるのがたのしみです。
 
『ふる雪のむこう』の意義は、二行五聯の定型性をもつことで、それぞれの詩篇がみじかいという、この物理的な条件そのものだとおもいます。詩のみじかさこそが詩の強圧をほどく。いま読んでいる「現下」の、全体に占める部分性が、したしく身体に意識されるためです。
 
おなじ形式の詩篇が、余白たっぷりの見開き空間を単位に、淡々とならぶ。しかもことばの個々が雪の現象をひきよせながら、わかりやすい把握にむけては「的中」しない。ふる雪のゆれ。余韻。あいまい。換喩。「これはなに」という驚愕。これらが綜合されて再読誘惑性を発現するのだとおもいます。むろん雪の季節、空間が、身体を基盤に微分され、雪そのものの季節変化も微細にたどられてゆく。そこへ詩の作者の孤独がぼんやりと浮かぶ。
 
オンデマンド詩集は詩壇の鬼子とみられる面があるとおもいます。私家版の切実さもなく、なにかを「早上がり」におさめてしまった不埒さがにおう。それでも近藤弘文さんの『燐の犬』が第二回エルスール財団新人賞を受けたのにつづき、ぼくの『ふる雪のむこう』が今回の栄誉をいただいたことで、「賞をあたえてもよい」と、だんだん社会的(詩壇的)な認知ができあがってゆくのではないか。自分は今後もそんな呼び水になれればいい、とおもっています。
 
詩集一般は書店の詩書コーナーでは、一部の例外をのぞき、ほとんど売れません。みずからつくりあげた詩集が、ほぼ詩壇内でのみ、互酬というかたちで相互流通しているにすぎない。市場は極端に閉じています。書店で売れないのなら、ネット注文によって詩集がオンデマンド配本されるだけでも充分でないか。けれども、やはりこの見識には「詩の権能」にかかわるニヒリズムがまざっているかもしれません。
 
思潮社オンデマンドでのいまの最大の「事件」は、むろん宮尾節子さんの『明日戦争がはじまる』にたいし、ひろい層からの注目が生じたことです。しかもそのオンデマンド版オリジナルが再編集されて、このたび集英社からの詩集になるようです。これはむろん現象的には「昇格」ですが、そのことで、もともとのオンデマンド詩集の謙譲的な「呼び水」の性質が、逆にくっきり確定されるのかもしれません。この「呼び水」を可能性、潜勢力といってもいいでしょう。
 
「市場」にみえないもの。それでも、敬意と、愛着をしるすことばがあれば、ひとからひとへと、さらにひそかにわたってゆくもの。そうかんがえて、「オンデマンド詩集時代」への移行を、ぼくじしんはあらためて肯定的にとらえたいとおもっています。『ふる雪のむこう』ののちさらにオンデマンド刊行化となった、ぼくのあたらしい三部作『空気断章』『静思集』『陰であるみどり』にも、これを機に、アマゾンで注文するひとがふえればさいわいです。
 
 

2014年11月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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「い」と「ゐ」は上代においてはそれぞれべつの発音だった。ならば、「ず」と「づ」はどうなのだろうか。ほんとうは水を「みず」ではなく「みづ」と発音したい。かたりおえて舌のまるまった余韻から、とうめいがしたたってゆく。あかごの記憶。くちをひらくかぎりは、とりどりのモノをめぐりたく、みづならばそれをさらにじぶんたちの消去剤ともしたい。やがてみなでみづつくかばねの、
 
つよいかぜで黄葉がひといきに散り、木々のおおくがはだかをあらわしたかわりに、うごく落ち葉の絨毯が、妖怪めいてずるずる路上を這っている。かわいた音の、かわいた幽体。匍匐前進する一切にあわれみをおぼえるのだが、はだかになった木々は、なくなった過半のおのれへ、みづのようなものを充填させ、さっぽろのぜんたいが、いまやふしぎな湖上のようだ。ないみづがゆれて、ないみづあかりがひかりの縞をなげかける。すでにこな雪が舞ってしまったが、はつゆきまえは、からだにも前後のおぼえをつよく植えつけられる。まえがふえ、うしろのへるからだが、おもみを欠いてただ移ってゆく気がするのだ。と書いて、「うゑ」と発音したい、「まへ」と発音したい、ああ、
 
ようするに、コーラスに影までくわえて、ひびきをふくらませたいのか。
 
となるとルフランは強勢か褪色か。両方あると、小山伸二の詩集をよんでおもった。むしろルフランの本性とは、そうした二重性のなつかしさかもしれない。きえてゆくものが、つよくきえてゆくときのよわさ。きえてゆくものが、よわくきえてゆくときのつよさ。それまでのうたをささえながら。
 
わたしのくちは在りかたがあまく、くちづけにもたりない。ルフランもふくめよどみなく意味の影をながすが、鬼哭にはいたらないだろう。おおくのくちも、しずかにしんで、そのままルフランのなかへきえ、鬼哭にはいたらないだろう。わたしもおおくも、なにかにとなりするその他で、それぞれをふくみ、ふくまれる。地上のルフランさえ鬼哭に聴えても、鬼哭にかかわらない内部性なのだ。それがはだかの木々に似ている。(似ている、)
 
ルフランはきえさったものへの類似だろう。
 
 

2014年11月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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あたらしい感情を、まったく喜怒哀楽をはなれてつくることは、できないかもしれない。あるとすれば哀愁のあたらしい微分のしかた。まんなかにこそ、さけがたい必滅だってある。ひたいへ円盤をのせた最果タヒの詩集は、やわらかく足踏みしながら、そうつげる。
 
しおれてしまう系のひとらに、もう当面は紺青がやってこない。そらにも衣服にもひとみにも夜にさえも。雪上の碧空をおもうことなく、いまごろの当面はくらく予感させる。この「当面」というのは、ぼやけた時間の、ひとつの顔だ。それにちょくめんしている。おなじ息で。
 
だからへやぬちにちからの分散もひつようで、かかわりを断ってみせるとつみあげたその他おおくの詩集の塔が、寝床からの別方向を、ほそいゆびでさしている。さきに夜空があるのか。あそこへ行ったな。だが、ゆかなかった。
 
しおれてしまう系のひとらに、ものすごい青のとりかぶとが群生していた。ひとつまえの当面。去るしかないところが、たとえ眼前でも、それがかたわらなのだ。かたわらは、其処としてしめしえない、あらゆる過程。すごくふえていて、その数にはどきどきする。視たことを、視たじぶんではなく視た場所へただあずける。そんなあるきのよわめかたで、しおれてしまう系のひとらの「おそ秋」がきえかかっていた。その消滅の寸前は、けれど虹に似ていないだろう。
 
そうだ、寸前のくうきがけされて、顔へ当面の円形がふれてくる。そのひとつがいまも『しおれてしまう系のひとらに』。あたらしい感情はエッジをとがらすようにおもうが、まるくなじむものでむしろ全身をつつみたい。むろん顔だけの優位をくずせるのが全身だと、深夜の回廊でステップの練習をするのが、からだの形骸だった。ものかげから、みていた。
 
あのときは若さへ行ったな。だが、ゆかなかった。
 
 

2014年11月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

廃墟写真(的なもの)

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海泳ぐ」の第八回が掲載されています。串刺し見出しは、《「壇蜜古画」第2章→丸田祥三の廃墟写真→松江泰治「JP-01 SPK」》。写真、もしくは写真的なものについて考察・紹介しました。「壇蜜古画」は北海道オリジナル(HBC)、道内の廃墟探訪をテーマとした深夜ショート番組。タイトルどおり壇蜜がナヴィゲーターです。その番組にふかい影響をあたえたとおもわれるのが写真家・丸田祥三さんで、丸田さんについては今年の名著『東京幻風景』を中心的に記述しています。松江泰治『JP-01 SPK』は四季折々、さまざまな「部位」をとらえた札幌の空撮写真集。吉本さんの「世界視線」ではないですが、空撮写真の常として、地勢のながれと時間の堆積それぞれがうきあがって、廃墟写真とも共通性があります。現在、札幌で人気沸騰中。
 
 

2014年11月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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からだに傷のあるときは治りがおそくなるから、コンニャクを食べてはならないとむかしはつたえられたが、からだのなかまでは知るところでなく、かたちのうつくしさに惹かれて、しらたきを出汁で煮てみた。夢のようなわだかまりがもりつけにあらわれた。むろんおなじ眷属だが、糸コンニャクではかたちに恨みがあって、だめだ。
 
しらたきの旨さは、もとの芋からの出自すらさだかではなく、すがたが食べものに似ず、さらにそれじたい味のしない心もとなさにあるのではないか。食べた気にさせないものに舌がたわむれて、そのおもいを噛みつぶすと、糸のかたまりがこまかにほぐれて、出汁があふれてくる。しらたきそのものもすでに出汁をふくむのだが、およそ瀧を喫するとはこんな童女じみた箱庭なのだろうか。酒のすすみかたが、さくらいろになってゆく。
 
ものごとの眺めを食べるのが本懐なのだから、つぎはさらに束そのものをからだにくっきり容れるため、細切りの昆布もすこしあわせてみよう。華やかにするには、さいごの沸騰期に、ほぐしたタラコを落としていいかもしれない。出汁をのむ。それがおでん屋のひと碗にかなうだろう。
 
コンニャク問答では、問答そのものが妖怪的に人格化する。ひとは後景にしりぞくのだ。これがなつかしい。
 
休日の飲み屋。廣瀬純へ、ネグリのいう、革命含有率の指標「コモン」について訊く。独善でない詩をわたらせるために、公共財=図書館のレベルでない詩のコモンとは、(古典)詩にまつわる共通の教養なのか、倫理なのか生活なのかと。シネマのためにフィルムを撮ることをかたったかれは、即座にポエジーのためにポエムを書く長年の革命を同意したが、詩のコモンについては「むずかしいねえ」といって、したしくわらった。わたしはコモンとは場所や価値ではなく、いまや多島海のような形状イメージなのではないかと、ふとかんがえた。その「うかぶ多さ」がもつれて、しらたきが翌夕の眼底にあらわれたのだった。
 
しらたきは風呂場へもちこんで、それで肌をあらうものだ。子どもをひかるまであらってあげたい。できないから、食べるのだ。それでしらたきを食べる生の部分性に、すこし全体が覗く。
 
 

2014年11月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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生への意気阻喪が壊滅的にすすんでゆく、それでもひととひととがせつなく対照される、「ほぼ風景だけの」幻想譚の奇蹟が、七里圭監督『眠り姫』だった。視聴覚の清澄化をうながされながら、山本直樹―内田百閒と、オリジンの系譜もたどれる。そのなかでじぶんの「気配」にたいしてのみ「声優」をつとめた西島秀俊の、発語中の「咳のうまさ」にひときわおどろいたことだった。
 
円山のイベントで壇上の監督にいった。いつも主張するんですが、放哉の《咳をしても一人》、あれはウソです。ほんとうは《咳をすればふたり》がただしい。咳をすれば、そのときにじぶんのうえで作用主体と作用客体が分離するでしょう。じぶんがぶれるんだ、ぶきみに。映画『眠り姫』の離人感覚はだから、咳の必然なのです。
 
きのうは詩集を読みながら咳きこんで、中空へひかる水洟をとばした。《咳をすれば、ときに三人》。このひとりトリアーデにおもわずわらってしまう。へやのくうきは冬にはいった。
 
弁証法ではなく、暗示―明示―提喩のトリアーデこそが対人にさだまった謎だと、今年屈指の詩集『シアンの沼地』で高谷和幸がつづる。かれは「とける人世」を知っている。そのうちなにもかもが鳥籠ではなく、あずまやに似てゆくだろう。
 
しきりに気の合う三人であるいたときがおもいだされた。むかしは男ふたり女ひとりが主だったが、やがて女ふたり男ひとりへと逆転した。ワルツであれば「けっきょくはすすんでいない最少円環」がめまいをおこしてかさなる。四拍子系よりつよい、数のもんだいをのこす。といってもそれはとらえかえせば事後のひかりなのだ。だから一対一の誘惑関係ではなく、まわる均衡のまま三人であるくことも、たがいを順にみおろす観覧車の車輛のようなもの、ひいてはじぶんたちではないたかみをつくりだしていった。東京の、秋の午後に。
 
三拍子の後二拍をうすめて、ことさら一拍めのベース音の余韻へ歌をのせてゆく。ジェームス・テイラーの「スウィート・ベイビー・ジェームス」は三拍子に聴えない三拍子の傑作だった。その奏法は、月下の浪のみちひきのなかでほほえむ定常を目にしておもいつかれたのではないか。それでも手の範囲にあるあんな発明がみんな去ってしまった。
 
 

2014年11月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

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不足のほうが不満よりもことばとして断然うつくしいのはなぜだろう。不満が欲求の心情にかかり、不足がたんなる量示だから清潔なのはいうまでもないが、それだけでもない。
 
コップに半分ほどそそがれている真水をかんがえてみる。水面はとうめいな容積のなかのひらたい判別となって、みらいにむけての中断や諦念をしずかに水平化している。不足がまだ水のそそがれうる余地をさすのか、水がそれだけしか存在していないそこまでをさすのか、よくわからなくなる点が、いわば幻惑なのだろう。つねに状態は水銀柱のように、うごくべき推移の中途だけをしめして、そうした時間性が容積のなかに無色無魂で定着している。
 
不の接頭辞ある漢語とくゆうの魔術もある。不幸であれば幸の全否定ではなく、幸の字のあるぶんだけ幸をにじませてしまう原理だ。ところが不足では「足る」から文字どおりの「足」へと身体幻想がかたむきだして、足ではない足のうつくしさのようなものをおぼえ、こころがさわぐのだ。そのちいさな足はコップの真水をふんで、わずかに水面をゆらしているのではないか。西洋人ではないのでこういおう、天使性ではなく、いわば観音性が不足へおりて、ふれている。このときの量そのものがむしろ観音なのだった。
 
水平だけにむけてあるいていればさほどかんずることはないが、たかさをめざしてふみしめられてゆく「のぼり」には、よりふかい体感の、分布的途中がある。じぶんはおなじたかさのものから発せられる等高線の一部であり、気温ではないものを、ひろいのに柱とみなされた空間のなかでただ上昇させている。孤立ではなく、なにかをひきつれる相関となるのは、じっさいは水平から身をひきはがしてゆくこのときといっていい。こじきとはこんな体感だろうか。
 
丘をのぼりきるとくるしい。かなしいものが、それもことさらひくくみえて。
これがなんの優位性でもないことは、いちばんたかい位置にこそ不足があらわれると思料すればとける。
 
水洟の高まりゆくや藻岩行
 
 

2014年11月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

オンデマンド詩集三冊同時刊行

 
 
ぼくの思潮社オンデマンド詩集三冊が、アマゾンにて注文サーヴィス開始となりました。昨日深夜、亀岡さんから電話連絡があり、その後、未明の3時すぎまで、発送作業に追われました。思潮社オンデマンドの経験者、宮尾節子さんが発見してくれたのですが、アマゾンのオンデマンド・サーヴィスには「ギフト」という機能があって、アマゾンから届け先に直接、製本・発送できるのです。これでコンビニへ行く手間と自分の送料負担が省けることになりました。宮尾さんには大感謝。

三冊同時オンデマンド刊行(田中宏輔さんの偉業に倣った)の具体的内容は以下です。

●『空気断章』 収録詩篇作成時期2013.7~2013.11 100頁 1200円
比較的すっきりした詩的断章をノンタイトルで100篇収録、構成の透明性を目指しました。それぞれの断章もみじかく、余白が多いので、あんがい速く読めるとおもいます。往年の平出隆さんの『胡桃の戦意のために』を意識しました。

●『静思集』 収録詩篇作成時期2013.11~2014.4 163頁 2000円
これも断章集ですが、各篇は流し込みになっていて、三冊のなかで最も文字量が多いです。詩的散文と哲学的論文の混淆を当初もくろみながら、それが明瞭な詩性だけの断章へと崩壊してゆく「弱体化過程」が辿られてゆくはずです。小説性を断章で追求した保坂和志『カフカ的練習帳』を、詩性の側から逆照射した恰好です。奇書とよばれるかもしれない。

●『陰であるみどり』 収録詩篇作成時期 2014.5~2014.8 155頁 1800円
これは改行詩72篇の集成。各詩篇はすべて見開き単位に収められています。『ふる雪のむこう』の冬にたいし春以降の推移をとらえた続篇的な内容ですが、定型性は意識されていません。聯間空白のある詩篇と、詩行隣接連続の詩篇がまざりあっています。三冊中、最も了解性がたかいのではないかと予想しています。

すべてA4正方形変型、デザイン=中島浩さんで、版組も一頁25字詰18行で統一されています。字が大きく組まれているので、熟読にも馴染むとおもわれます。それと、どの詩集でも静寂を結果するのではないか。

11月にはいってのオンデマンド刊行となってしまいました。ご存じのようにこの時期には、年末の収穫アンケートの回答〆切が意識されて、ほとんど毎日のようにさまざまなひとから詩集が投函されてきます。応接にいとまなく、ふつうの勤め人ならすべて読むのを諦めるしかないでしょう。その意味ではせめて10月初旬に出したかったのですが、デザインの面で進行が遅滞してしまいました。

三冊全部をお送りしても、アンケートの回答〆切までに読み切れないだろうこと、また、三冊同時送付の自己負担が5400円にまで跳ねあがること、これらをかんがえ、最も手軽に読めるだろう『陰であるみどり』をお送りすることにしました。お送りするのは、詩集をふくむ拙著に何らかの好意的なコメントを雑誌公表したかた、今年具体的なやりとりのあったかた、ネットに馴染んでいないだろう畏敬する先達にかぎらせていただきました。ただしアマゾンのギフト送付は送り先の電話番号を記載する必要があり、それを把握できず、まだ送れないままのかたもいます。

オンデマンド詩集には、著者自身がアマゾンにオンデマンドすることで、買い上げ時の自己負担がおおきいというデメリットがあります。それで詩集恵贈先を絞り込むしかありませんでした。興味をおもちのかたは、アマゾンにご自身でご注文いただけると助かります。

なお、思潮社オンデマンド詩集の価格体系に、わずかな変化がありました。当初このシリーズは一頁10円相当と、格安の値づけだったのですが、現在は頁数×10倍よりもやや高い価格設定となりました。これまでのA5変型とはちがうA4正方形判ですし、文字数が以前より多くなっているものもある。それで頁数と文字数を勘案して、若干の値上げが敢行されたもようです。もともとオンデマンド詩集の廉価性は、通常の詩集出版の価格秩序を攪乱するかたむきのある点、重くみられた、ということでしょうか。

ともあれ、三冊のオンデマンド・サーヴィスが開始されました。ぼくの名をアマゾンで検索すると、頁トップに三冊が出てきます。とりあえず覗いてみていただければ。
 
 

2014年11月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)