疲労
「現代詩手帖」の年鑑号での拙稿の一節にこう書いた。《詩篇はその詩篇に出会う機会性ひとつで自足的に読まれればいい。ところがひとりの詩作者を継続的に読むためには、その詩作者の「変化」こそが読まれなければならない。詩篇内容よりも変化のほうにむしろ価値がある》(43頁)。乱暴さゆえに物議をかもす主張だとおもったのだが、なんの反応ももらっていない。みなさん、納得してくれたのだろうか。
ぼくのかんがえでは、「マイナー詩人」はひとつの詩法に収束する。素材がかわっても、いわゆる詩的文体が一定であるばあいをいっている。詩的文体が、「世界を詩的に分節する」方法ならびに外在であるとして、それが一定であるとは詩における世界分節そのものが同型に反復されるしかない不自由をかこつということだ。俳句ならそれでいい。なぜなら俳句は定型の枠組のなかで分節作用そのものが断絶的に伸縮し、それが俳句の俳句性を「ただ」保証するためだ。そもそも俳句はもとから老いにちかい。
ところが自由詩では、改行法則、一行字数、聯間空白の有無、リズム、飛躍、さらにむろん文節に意味をのせる叙法そのものが可変的に伸縮する余地がある。そうした伸縮が読者に了解されるありかたは詩篇にたいして一回的であり、一詩集単位でつづけば作者の個性をあとづけもするが、数詩集におよぶと、惰性をおぼえざるをえなくなる。一手法が一詩作者の生涯にわたってゆくなら、それは脳髄エネルギーのよわい「マイナー」の符牒にしかならない。「大詩人」(ということばは好きではないが)のしごとは、詩集ごとの変化をつくりあげる底面積のおおきさによって計測されるだろう。ひとりがひとりであることは詩の刑罰なのだ。たえず多数でなければならない。
ただしボブ・ディランが「マイ・バック・ページ」に掲げた理想、「昨日より若く」という「変化」の方向性は実質的ではない。叙法は疲労し、みずからの周囲をさがすことで、変化の空間を容積づけなければならない。これこそが「地上にある」ということだし、加齢に尊厳をあたえることだ。屈折や複雑化は二義的だろう。変化に期待されるのは、まず元も子もない弱体化だし、そのうえに自毒化や「ほぐれ」や「襞」の形成、斑点化、色相変化――すなわち「老体化」にまつわるさまざまな逆価値も刻印されてゆく。それが認識の深化と並行するかぎりで、一見の逆価値が真実=正価値へと反転するのだ。いいかえるなら、認識の深化とは、認識内認識がおのれを剋する内圧により、作品単位での照覧ではなく時間そのものを生成にひらくことなのではないか。この時間は非実質的であって、その非実質性がさらに実質化する。この意味で詩そのものに似る。
ぼくは『静思集』中の「秘められた生 7」の一節にこうしるした。《耐忍と記憶がまなざしの人間化まで保証するとすれば、ひとみに宿る重たい愛の正体もわかるし、みるもののなかでもっとも意義のあるのが時間や老いの兆しだとも得心がゆく》。ここでは「まなざし」とむすびつけられたが、「疲労論」は身体とともに時間にかかわる思念を付帯するのが必定だ。そこを「遅延」そのものの価値(時間を蜜のように濃くし、同時に水のように稀薄化するもの)が追跡する。したがって変化は方向の問題ではなく速度の問題であり、「より遅くなる」変化こそが本性的ということになる。松浦寿輝のなにかの本に秀抜な「疲労論」があったとおもうが、研究室にあるので確かめられない。
ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』の一節に、以下がある。映画の身体化を考察する導入部分に置かれているものだが、文脈を外して「それじたい」を引こう――《おそらく疲労は最初にして最後の態度である。なぜなら、それは同時に以前と以後を内包するからである》(265頁)。以前が以後に移行するだけでは時間は粘性をもたない。以前と以後、双方にまたがった身体や思念が、時間の拡張力によって亀裂をつくり、それが疲弊の皺を結果する。アンチエイジングが過去と現在を同質化することだとすれば、疲労は過去と現在を別のものとして体内に同在化させ、神聖な距離をつくりあげることといえる。その距離が智慧、変化をうみだす基底、宇宙線の交錯する容積などとなる。疲労や老いにみえるのは生である以上に宇宙であるはずだ。それも奇怪な。変化は思いつきや平板化や淡色化、さらには教訓化と関連づけられていいものではない。奇怪さにより向かってゆくものだけが胸をうつのだ。
詩作者の作風変化はそのままに複数性を呼びだすが、生の次元ではたんに複数となるものが、疲労という身体実質的な次元では奇怪さと宇宙をむすびつけるものとなる。連絡、またがり――「以後」から感知できるこうしたものが、「以前」を索引する。いま「以後」といえば「3・11以後」がよくいわれるが、「以前」との分岐点(つまり現在)が無限であるかぎり、もちろん「以後」(つまり現在の別の位相)の種類も無限でなければならないだろう。
記事
うっかりしていた。仕事がおわり、いまごろ夕刊チェックをしてみると、ぼくの書いた文章があった(もう連絡が遅すぎるか)。北海道新聞本日(12/17)夕刊4面。「北海道新聞文学賞(詩部門)を受賞して」という但し書きがサブになって、メイン見出し「真実に置き換える換喩」を付されたぼくの「詩論」が、ぼくの顔写真付きで掲載されている。1200字。要旨はネット時代において、換喩詩が必然的で、しかもそこに特有の価値があるというもの。これを一般人に向け、わかりやすくしるしてある。ぼくにしてはめずらしいタイプの文章だ。
連絡が遅れてしまったので、全7段落中、最初の1段落のみ、以下にペーストしておこう。これはまあ「サスペンス演出」です。全貌が知りたいとおもったぼくの学生さんは、どこかの図書館でぜひ確認を。
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ロラン・バルトは「愛するものを語ることに人はいつも失敗する」と綴った。畏敬する詩作者・松下育男も「とても好きなものは/詩にできない/そのものが言葉よりも近いから/そういう時は詩なんかいらない」としるした。そこでふと思うのは、「人ではなく、言葉そのものが最も好きだったら、詩はどうなる」ということだ。結論を先にいってしまおう。「そのとき、詩は失敗する」。
杉本真維子・川原
【杉本真維子「川原」】
「現代詩手帖」12月年鑑号で評価の集中した詩集のひとつに、杉本真維子『裾花』があった。ただしその詩集には、「詩の被災」「意味の破壊」など暴力的な解読不能性を強調する評価が主流をなした。ところがこの詩集が創造するのはむろん愛着であって拒否ではない。つまり解釈(暗喩にたいするもの)が不全をしいられても、味読(換喩にたいするもの)については組織化がおこなわれるということだ。たぶんそれは詩篇内部に生起する「方向」と「感情」を読者が分有することで起こる。そのことがぼくの書いたものをふくめ言明されていない。これを是正すべく、以下、詩集冒頭詩篇「川原」を、実験的に、聯ごとに味読してみる。ただし「川原」が集中もっとも親和性のたかい詩篇だという点も顧慮にいれておくべきだが。
通路、が塞がれ、身長ほどにしか、心がな
い、日のなかで恐怖の種がわれる。蛍光灯
で焼けしなないか、ソファで溺れないか、
窓で迷わないか、
わたしは、だれなのか
冒頭、「通路」のあとに、すでに息切れしたように読点「、」が侵入するのはなぜか。詩篇を想起したときに疑心がもたげ、同時に決意が詩篇そのものを進行させようとしている呼吸がそこに顕れているのではないか。つまりこの「、」において呼吸と葛藤が等号でまず結ばれる。よって強調の「、」ではない。
「通路」の現実性はのちにでてくる語から事後的に確定されてゆく。「蛍光灯」「ソファ」「窓」――室内で見聞できるそれらによって、通路を生活動線にかかわる展開可能性とまず具体的にとらえてみる。それが「塞がれ」ているのなら散文的には段ボールなどの荷物が動線上に置かれたとみることができるが、むろん「塞がれ」そのものには抽象的な逼塞も印象されてゆく。
つぎの《身長ほどにしか、心がない》では限定性、不安の語調によって意味がつくられている。けれど試しに《身長ほどにも、心がみちている》と置き換えてみると、身体の計測可能な符牒のうえに心情がそのまま一致=充実していることになる。となると語調の不安を引き寄せたのは、そのまえの「塞がれ、」の逼塞感に、次の文節が呼応したためだ。哲学的な意味化が生起する。身体と心情が過不足なく一致する「まるごと」「むきだし」の状態そのものが充実ではなく、欠落や不快、不安と捉え返されているのだ。
こころと一致したからだに標的化が起こり、存在がフラジャイルな繊細さにゆれうごくことまで喚びだされてくる。「蛍光灯で焼けしなないか」――たとえば魚はひとの手でつかまれれば、その部位から体内にむけて火傷する。だが蛍光灯で「焼けしぬ」ことはありえない。ありえないことは了解されていて、「死ぬ」が「しぬ」とひらかれている。「ソファ」も身体をささえるものであって、液状を呈してひとを呑みこむものではない。ということは、詩の主体のいる世界は逼塞しているのに、歯止めのない「底なし」という二重性をもっているのだ。そこに「窓で迷わないか、」も成立する。窓辺からひらける光景も底なしで、通路が断たれてそちらに眼路が向かわざるをえないとき、外界にはがらす一枚へだてて魅入られながら、それが底なしであることで、がらすの干渉、隔離に規定性がなくなり、いる場所を迷う、といわれているのでないか。
これら一連の直前、「日のなかで恐怖の種が割れる」が、詩篇の感情を「恐怖」に固定することになるが、この文はズレをそのまま内包したように範囲確定が困難だ。「日」は日数の日なのか、太陽なのか。前者だとすれば、「日々の推移のなかで、潜在していた恐怖の胚種がほぐれるように発芽にむかう」となるし、後者だとすれば、「太陽の圧倒的な陽光をつくりだしているのは、ひかりそのものの破壊性で、それは恩恵と同時に恐怖をももたらす」となる。ただしのちに詩篇中にでてくる「闇」と遡及的に呼応して、ここでの「日」は太陽の意味を比率的におおくふくんでいたと事後判断がなされるだろう。
この第一聯では書かれていることばとともに、「書式」が感情生成をうながしている。一行二十字詰めの散文体で書かれだした詩篇が、やがて行分け形式に「分離」するのだ。「焼けしなないか、」「溺れないか、」「迷わないか、」といった生存不安の連鎖が、連鎖であるがゆえに「ほぐれ」を出来させる。それで「迷わないか、」のあとでついに改行が起こり、以後、詩篇は行分け体に再組織される。これは連打には余韻が要るという、詩篇主体のからだからの要請だとおもう。読点「、」のもつ間歇性導入の必然だろう。書けば呼吸が生じ、書かれるものが分離する――これがまさに改行詩の生存理由で、このことで恐怖から主体が救出される。
最後、「わたしは、だれなのか」はアイデンティティ・クライシスの定番となる自己疑問だが、それが手垢にまみれた滑稽味を帯びないのは、それまでの疑問形の連打による。最後の疑問文は、ちいさいながらも具体的な疑問形の連鎖の果ての必然として、文脈的に特異化、特有化されているのだ。この一聯のあとに「*」が入って、第一聯と二聯以下の断絶性が強調される。それはこの第一聯を、詩集全体のエビグラフ詩として分離しようとする意志がなかば働いたためではないか。
存在しない、ハンモックの
午睡でもいい。生まれた時刻までもどって
擦れる頭皮の、その熱の、
さいしょの突進を握って
(光について
尋ねられた)
午睡の理想の場所はハンモックだ。そこでは睡眠するからだが空中浮遊を同時に演じているとみえる特権性が組織される。だが、ハンモックは存在しないまでも、どこに架けられているのだろうか。前聯からは、室内にある午後のひかりの縞のなかに。詩文それじたいからは記憶のなかに(ハンモックは場所そのものに意外な遊戯的連絡性を付与する幼児期の触媒ともいえる)――これらが解答だ。これらの解答のうちの後者から、詩篇主体の最初時の「存在しない」身体記憶までもが俎上にのせられることになる。それが「出産時外傷」だった。
《〔…〕生まれた時刻までもどって/擦れる頭皮の、その熱の、/さいしょの突進》では、「突進」の運動性を純粋化しなければ、通常は、母親の産道をころげおちて此の世に顕れた「事実」が語られているとみるべきだろう(この見立ては暗喩解読というほどのものではない)。「頭皮」が擦れるのは、赤児の頭部にまだ頭髪が不充分だからだ。ただしこの世での最初の身体的記憶が、火傷、「焼けしぬ」ような摩擦熱だったとかんじると、にんげんには先験的な受苦が刻まれていることになる。この感覚が存在の本質で、産み落とされるときの受難が記憶として具体化されていなくとも、理知的にその総体的「突進」が「手に」握られることになる。このとき「忘れられた(=存在しない)脳」と、「手」とに連絡ができて、それで生きる身体が本当に定位されるのではないか。
この第二聯は、書かれていることの意味が収められないまま(しかも改行結節も意図的に法則化しないまま)、まるで産道を異物が落下するように運動そのものが「ながれてゆく」。カタコトが連鎖しているとかんじなければならない。この呼吸もまた書かれていることとともに把握対象となる。いずれにせよ、第一聯の生存不安は、生存が確約された起点にまでの遡行を企てるしかなかった。
詩を聯にわけて書くとき、聯の細部どうしには自然と「対応」がうまれてしまう。一聯中「焼けしに」と二聯中「熱」の照応、一聯中「日」と二聯中「〈午〉睡」の相応は見やすいが、二聯に「ハンモック」が出現したことが驚異=脅威だった。「ハンモック」は「寝る場所」として一聯中の「ソファ」の変異だとまずわかる。ところが一聯中、「言外」に付された窓外光景には樹林があって、そこに架けられている幻想物でもあったのではないか。それは幻想的な眼福であると同時に、樹間の「通路」性を「塞ぐ」(以上、一聯冒頭)障碍という双価性をおびている。しかもこれがやがて最終聯中の「磔」からにじみだしてくる十字架とも「ともに架けるもの」としての類同性を分泌することになる。むろん詩篇はそういう類想をゆるす自己表出として書かれているだろう。
二聯の終わり二行は丸括弧に包まれ、しかも四字下に置かれる間接性がほどこされている。その《(光について/尋ねられた)》は、それまでのながれからいえば、産道落下は同時に光との邂逅であって、否定性ではない意義を訊問された、と論脈化されるはずだ。ところが詩の作者は、このときの詰問者のほうを問題化している。具体的な人物が外傷にまつわる「光」の所在を訊ねたのではないだろう。問は超越的な位置から発せられている。それで聖性が詩篇の救済要素として出来するのだが、「尋ねられた」には、同時に不随意的な「自問」の影もある。このとき聖性=自己という、昂然たる詩の主体の位置が言外にうすく浮上してくるのだ。
それは、一本の壜の中
光る傷口が、川上から、流れてきた
むかし、それを、竿で突いた
川原にさらして眺めると
石のほうがもっと眩しく
「くやしさのなかでしか生きることができない。」
第二聯の産道落下という運動は、「川にうかんでながれる」運動を立て続けに喚起しながら、方向性そのものは鉛直から水平へとズレる。こうしたズレを「読む」ことが杉本詩においては真諦となる。修辞のすべてを圧縮による意味破壊ととらえると読解に暗喩がまつわることになるが、味読はズレを堪能しながら、読むものを空間化、ひいては作者の「手許」をも詩篇の細部から「換喩」してゆくのだ。
被出産時の神々しい外傷は、第三聯では「光る傷口」として簡略化される。しかもそれは異様なヴィジョンをともなう。壜のなかに容れられて、川上から流れてくるのだ。「壜」にツェランの「投壜通信」の余栄をみとめるとすると、宛てのない未来に向けられた詩の(偶然の)コミュニケーションにおいて、まずつたえられるべきと作者杉本真維子のかんがえるのが、被出産時の聖なる受難という普遍的なものごとになる。投壜通信のなかにはいっているメッセージが未来の現在時の謎を解くものではなく、通時的な普遍性だというのは、カフカ的かもしれない。
その受難にむかうのは、自己再帰性でしかない。しかもそこには残酷な色彩まで添わせるのがただしい。それでながれてくる投壜通信は、「竿で突かれる」。そうした行為ぜんたいを拾いあげて、「川原にさらして」詩篇主体が「眺める」。自己領域に温存されているものなど、何ほどのものでもない。「光る傷口」にあった「ひかり」は、川原というかけがえのない場所では、物質的な「石」ほどにも「眩しく」ないのだ。記憶、あるいは記憶にまつわる潜勢態のすべては、実在性にたいして色をうしなう。なぜか。第二聯の一節にこたえがある。つまり、端的に「存在しない」からだ。
これらの感慨が集約されると、第三聯の結語となる――《「くやしさのなかでしか生きることができない。」》。自己再帰性と外延性の齟齬が、ここでは悔恨として捉えられ、生はその持続でしかないという自己超越的な見解が語られているはずだ。ところが自分の発語を「引用」したような(それで鈎括弧に全体が包まれている)「くやしさのなかでしか生きることができない。」は悔恨の必須をいいつつ、この語調が現世的・女性的に俗化されている。詩篇主体が自己の卑小さ=悲傷さにむけておこなう愛着的な憐憫。形而上を語ろうとして形而下をまとってしまう女性性(と了解されているもの)の宿命が、この語調そのものに悔恨化されている。つまり「悔恨はつねに二重の状態で顕れる」。以下、第四(最終)聯――
一枚のひと、ひとりの肉、と、
硬貨のように数えている
ひたいの奥の整列が
炭火を燻らせ
闇のうらがわを舐めていく
穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字、
から生まれてきた
(犀川の木屑にまだ、磔の痕がある)
まず従前の聯からの語照応をみよう。「ひたい」は第二聯「頭皮」からのズレだし、「炭火」は第一聯「焼けしに」、第二聯「熱」からの「飛び火」だ。それゆえ、各聯が連関を欠くという粗雑な鑑賞は換喩運動=語レベルのうちにまず排除される。ただし、杉本的な狂言綺語は、最終聯にあって猖獗をきわめなければならない。猖獗は実際にある。ところがそれがどうじに静謐なひびきをもつ点が杉本のすばらしい特異性なのだ。むろん文学的文飾から杉本はもともと「動物的に」逸脱している。詩の優秀な書き手の多くにないのが、この宿命的な逸脱だとおもう。
「一枚のひと」と、ひとの数えかたがまず不穏に逸脱する。この一枚がどこから出来しているかといえば、第一聯「窓」でがらすを言外化したために、そこにあるべきだった「一枚」がちがう場所に補填されたのだとかんがえる。逸脱は連打される、「ひとりの肉」と。ひとはたましいを存続させるが、その物質的な保証は、ひとまず作品づくりや他者との共存を度外視すれば、「肉」の生相にこそ顕れるしかない。ただし生の数の確認は自己から他へ、相関的・相補的に様相化されるしかない。
第二行「硬貨のように数えている」がさらに不穏だ。おんなの娼婦への変貌潜在性をクロソウスキーなら「生きた貨幣」と表現した。硬貨のように数えられるものは、関係の定常性を逸脱するものなのだ。ところが数えることには理知がともなう。ひとの「肉」の奥行に対応するのは、「ひたい」の奥で、それは数えることで整列状態をつくる。ひとりの産道落下が、ひとりであることで列をなさなかったのにたいし、数えることはひとの内在性を列の状態へと再編成するといってもいい。だから数えられる範疇にもはいる自己は、他を数える行為によって、「ただ」特異化する――つまり「列」の成員であるか否かを、「数えること」が保証しないのだった。
「炭火を燻らせる」には、信州のさむさとかよう暖炉の存在も浮上させるが、「数え」にともなう齟齬が一酸化炭素発生を内部的にもたらしているような感触もある。その自己燻製が、自己を「舐める」。「闇」は自己の「肉」を自己のうちがわからとらえた視界の全般であり、どうじに詩篇主体をとりまく物理的・抽象的な外界条件でもあるだろう。
それにしても、《一枚のひと、ひとりの肉と、/硬貨のように数えている/ひたいの奥の整列が/炭火を燻らせ/闇のうらがわを舐めていく》というように、進展してゆく行の「わたり」の素軽さは、なぜかくも見事なのだろう。ことばの単位そのものは「モノじたい」にすぎず、それは文脈をもって相互関係化されることでのみ個性化する。この個性化こそが(単位ではなく一連の)詩語性であって、詩語そのもののフェティッシュなどいまやありえない。となるとことばは、運動の圏域に参入されることでのみ、マゾヒスティックに色相化せざるをえず、その裁量権だけを詩作者がまさににぎるのだ。
このときことばに実定化されている材料は意味ではなく、いわゆる「間隔の形成度」ではないか。だからことばは間歇的に「置かれ」ながら、その間歇をべつのなにかでやわらかに充填することができる。この五行の見事さは、そうしたうすい充填に、無頓着な表情で成功した点にあるだろう。むろん「数えている」が終止形なのか、次行の「ひたい」にむすびつく連用形なのか、その解答すら出ない。これが改行詩とくゆうの恩恵だということは、改行詩を真摯に書いた者ならみな知っている。
杉本的な暴力はどこに実現するか。次行の《穴あきの薄紙をかぶる、いやらしい文字》が読者の人生経験のどこにも結実しない空振りをなす箇所にではないか(すくなくとも、この表現の内実がわからないぼくは、ここに詩篇に深甚にひらいている「穴」をみてしまう)。文字そのものが「いやらしい」のか、「いやらしい」文字があるのか。あるいは文字が上にかぶせられた「薄紙」の「穴」から透視されるときに、いやらしさを発揮するのか。ともあれ上の覆いが蚕食状態になって、文字のならびが部分視される状態がここから卑猥の質として浮上することになるが、そのように自分の非連続(とみえる)詩法をも、杉本が自己卑下していて、その卑下が詩篇ぜんたいを総括するのだろうか。詩篇が収束にむかう肝腎の箇所で判断がこうしてブレるのは、「穴あきの薄紙」そのものの指示性と適用範囲がさだまらないためだ。ふつうの詩作者はこんな「暴力」をふるわない。
しかも「文字、」と体言止めされながら、次行「から生まれてきた」で反転が起こり、名詞で切れていた断絶が、文の連続性に復帰する。そのあとの丸括弧でくくられた最終行を、全体が梱包された体言とみるか(そうすると丸括弧ぜんたいが「生まれてきた」の補語になる)、丸括弧ほんらいの付加=補足とみるかで、文法的な解釈を暴力的にゆらすのだ。詩篇は穏やかな口調ながら、最後にきて狂奔をしるした。しかも以上述べた「穴あきの薄紙」以後が、それ以前とどのように意味的な連関をもつのかも確定できない。確定できないものは確定してはならないだろう。
とりあえず詩篇タイトル、三聯目に顕れている「川原」を、信州をながれている「犀川」の具体名に収束させる機能が最終行にまずある。詩集タイトル「裾花」が裾花川を指すとすれば、それは長野市の外縁をながれ、やがては犀川に合流する川だから、犀川にはいわば大合流の「祝言」が秘められている感覚にもなる。
その犀川には「木屑」がながれている。第三聯で「光る傷口」を容れてながれてきた「壜」がここでは「木屑」に変貌している(ズレている)。この木屑は磔(の十字架)にもちいられた木材の部分だと作者は言外に規定している。木屑に「磔の痕」を感知したためだ。では痕とは具体的に何か。それをおもうと、第一聯の「恐怖」が再浮上してくる。木材を十字に組んだ釘打ちのあと、処刑者の手首足首を釘で打ちつけた痕、流血の痕、「存在しない」絶叫の痕――それらがにじんでくる。にわかにイエスのすがたが幻視されるのは、この最終聯の二行目「硬貨のように数えている」に、イエスを売った対価として銀貨30枚を得たユダの掌上のようすが暗示されるためで、しかも前行「ひとりの肉」により、ユダはイエスを精神から離れた肉と即物視することなくして売却(の苦悩)を敢行できなかったとさえ読めるのだった。
イエスの余栄がそうして杉本の在所ちかく、犀川の水面をながれている――そう試しにうけとってみて、詩篇全体を綜合する位置にいる自分をかんじ、そこに杉本じしんの位置をさらに換喩的に知覚することになる。結論は総括的ではなく、列挙的な分離状態でないといえない。以下、それをしるしてみよう。
○イエスの磔刑は死相の定着ではなく復活の予備だから、それじたいを世界内の産道落下として捉えるべきだ。○となると、あらゆる定着は「ながれている」。○ということは、「在ること」はそのままに「投壜通信」なのではないか。○このことを身体に知覚させるのが、地上の川なのだ。○見た目には通路は塞がれ、ハンモックで樹間は塞がれているが、定着そのものがながれだとすると、あらゆる通路性は塞がれていない。○このことを先験的に告げるのが産道落下だ。○それでもイエスとの照応において、「わたしは、だれなのか」という深甚な自己検問の余地がのこる。○いっぽう「くやしさのなかでしか生きることができない」は悔恨の必定であるかぎり、肯定性へと反転できる。なぜなら、「余地」こそが生の保証だからだ。
志向的に詩篇と併走すれば、この破壊的な詩から採取できる大意とはたとえば以上のようなものになるだろうか。読まれるとおり、大意にいたるためになした作業は、詩篇の細部を「数え」、それを再順番化する再編によってでしかない。その再編は詩篇細部が部分断裂していることに敬意を払ってのものだ。詩篇ぜんたいは、あきらかに意味を「いい足りていない」。だから要約を慎重に排除して、詩篇を前後左右に歩行、その体感を大意とするしかないのだ。ところがそれが可能なのだから、そこに破壊の表情からは想定できない愛着もうまれる。むろん、その大意の把握なり愛着なりは、読む者それぞれのやりかたでよい。杉本真維子の詩篇は、内部的なのではなく、外部性によってひらかれている。
〆切
〆切のまったくない純白な元旦など、なかなか来ないものだ。今度来る元旦も、またも依頼された原稿がこころをかすめる不安定をかかえることになってしまった。
まずは昨日。学部授業のまえTAさんの授業準備を待っていると、北大短歌会の気鋭女子たちに囲まれてしまう。じつは「北大短歌」第三号への寄稿を二週間ほどまえにメールで依頼されていて、その返答をスルーしていたのだった。依頼は「性愛をえがいた短歌」考察。岡井隆さんのものや加藤治郎さんなどニューウェイヴ短歌については以前に分析したことがあって、あたらしい素材がほしい。ただし、その渉猟が面倒だ、とおもっているうちに、返答の義務そのものを失念していたのだった。
さすがに気鋭の彼女たちは粘るし、押しがつよい。結果、特集のために「北大短歌」がつくる性愛短歌のアンソロジーを事前メールしてもらい、それを素材に評論を書くことになった。これでここ数年の口語短歌の性愛テーマに向かいあえる。そういうふうに、書くことに愉しみを設定しないと、なかなか執筆に踏み切れない。更年期障害かもしれない。
性愛はみじかい俳句では馴染まない。詩ではながさをもつために淫猥になる。それで井坂洋子さんのような換喩型が理想となる。小説で性愛が導入されれば、その部分がひかりの奔流となるのが望ましい。では短歌はどうか。短歌だけが性愛と「ちいさな音楽」をつつましく拮抗させることができるのではないか。性愛を音楽とかんじたい望みがまずあって、そのうえで情や身体哲学が顕れてくる二段構えがうつくしい。そういう条件にふさわしいのが短歌の長さだとおもう。
これは〆切が二月末日だし、字数も3000字なので、よくかんがえれば、さほどの重圧でもないな。
思潮社の高木さんからは『北川透現代詩論集成』にちなむ文章をメールでもとめられてしまう。北川さんという重量級の思索者については、以前は詩論のスタンダードの最初の設定線だとよくぼくは周囲に語っていたが、自分で詩論集を出してみると、詩論を創造的に切り開いた先達だという畏怖がたかまる。設定線が凛としたたかみにあるのだ。ほとんどの北川さんの単行本を読んでいるが、送っていただいている『集成』にはまだ手がつけられないでいた。それを読む契機となるし、ぼくのように周縁から出てきた者が詩のフィールドの真芯にふれることは、ぼく以外の周縁者をも救抜することになるのだから、こういう直球の原稿依頼は「倫理的にも」受けなければならない。これが一月七日〆の四千字。だから元旦にも、執筆準備がなされているだろう。高木さんの原稿依頼は、あきらかに人泣かせだ。
それよりもさらにいま問題なのは、講座機関誌「層」のための書下ろし論文だ。クリスマスぐらいまでに註をあわせて60枚くらいを書かなければならない。じつは今年屈指の熊切和嘉監督『私の男』、とりわけそこにとらえられた二階堂ふみの身体(顔)と光景の交錯について精緻な考察をめぐらせたいのだが、学術論文にもとめられる参照文献からの裏打ちがなかなかままならないのだ。とりあえずカットのつなぎに、フラッシュバック、フラッシュフォワードがゆらめいたり、サウンドブリッジが多用されたりする作品なのだから、ドゥルーズ提唱の「時間イメージ」をぶつけるしかないな、とおもい、『シネマ』1&2を再読するうちさらに暗礁にのりあげてしまった。
『シネマ』1での「運動イメージ」ならドゥルーズは端的に定義しているし、SAS‘にしてもASA’にしても運動とアフォーダンスの関係として別次元にも翻訳できる。ところが時間イメージについては、再読したかぎり、錯綜している文脈に不意に登場し、その定義がなかなかむずかしいのだ。端的な文言はない。
これはネオレアリスモの考察で顕れる。フラッシュバックの考察でも再導入される。ただし運動イメージが付帯的に時間イメージをつくり、時間イメージが運動イメージを内包している、といったドゥルーズの口吻からは、このふたつのイメージが相補的で、単独定義がかなわないのではないかという疑念さえもたげさせる。そのうえで運動イメージと時間イメージが相互嵌入して、そこに結晶イメージが成立するなどと書かれると、結晶イメージもまた定義不能性にゆれだすことになる。
映画研究者がドゥルーズを自己権威化のために援用することはままあるが、作家論の部分を照応させるだけで、時間イメージや結晶イメージについてのドゥルーズの思索を、そのまま自己の考察にむけて批判的に適用する例をあまりみないとかんじていた。けれどそれはドゥルーズ的思考に内在する構造のゆえなのではないか。
もともと時間イメージをつづりだした段階のドゥルーズは、抽象的な思念がさらに抽象的思念を分岐させてゆくいわば爆発状態にあったとおもう。簡易化できたはずの諸概念が、速度化し複合化することでキメラをなすとして、このときの諸概念の「うつくしさ」といったものに、むしろみずから捕囚されていった危うさがある。だから俳優の身体「運動」を捨象したのちにあらわれる映画の生地=時間に眼を向けながら(小津)、それがなぜか時間を加工する手さばきへと飛び火して、結局は、映画の「フレーム」のもつふたつの本質、ショットとモンタージュ単位のなかにもともとあった「時間」(『シネマ』1の前提)へと考察が再帰して、「運動」から「時間」を分離できていないのではないか。あるいは分離不能をいうなら、もともと二元化を立ち上げる必要もない。混乱のあきらかな徴候だ。
たとえばバスター・キートンとロッセリーニの差異を映画原理的に分析することに、なにか積極的な意味があるともおもえない。ゴダール的な定言命題のほうがむしろ有効だ。その文脈では「キートンはキートンである」「ロッセリーニはロッセリーニである」と断言がなされ、映画という以外に共通項をもたない表現のふたつの質に、思弁的な架橋など企てられないだろう。こうした態度こそが、じつはこのふたつの表現の質にある、受難身体の共苦機能への接近をかえってうながす。自己展開的な(それでも圧倒的な)ドゥルーズの論考にみえないのは、映画的な被造物がそのまま創造結果となる、確定的な条件といったものではないか(むろん創造原理ならふんだんにある)。『私の男』の二階堂ふみも、ある一瞬はキートンであり、ある一瞬はエドモンド・メシュケだが、その二重性を実現する身体と外界(作劇もふくむ)の関係が、ドゥルーズの所説から抽出できるか、これが論執筆にあたっての目標となる。再読したときの付箋箇所にチェックを入れなければ。
じつは書こうとしているものでは、『シネマ』1&2を遮二無二援用することで、その援用材料じたいの有効性を計測する裏筋までもたそうとしていた。これが困難だ。さらに昨日は呑み屋で博士課程の趙くんと「ドゥルーズ〔の導入〕は具体性のレベルでじつは困難だ」という話をしていた。
それにしても熊切監督は『私の男』のみならず、北海道を舞台にした他の二作『空の穴』『海炭市叙景』もめざましい傑作だ。『私の男』には映像と運動と時間創造の「法則」が明瞭に構造化されている。身体と外景の類似性など解読もやりやすい。『空の穴』には茫漠さと対象消失の不安が、いわば寸止めのカッティングのなかに抒情的に息づいている。そのなかでたとえば建物の屋根や安ドライブイン前の長椅子が素晴らしい。
では『海炭市』はどうか。そこではオムニバス(各話はすこしのディテールでうすく連絡する)そのものの時間性があるほかは、すべての対象捕捉とドラマ形成が、設定された外界との関連において「適切」なだけだという法則しかみいだせない。ところがその適切さが舞台となる函館の悲哀を完璧にたちあげる。『そこのみにて光輝く』ではできなかったことだ。つまり作家論の起動できない柔軟性こそが、「熊切印」だという逆説があるのだ。してみると、書こうとしている論文は参照系が困難なだけではなく、素材性そのものも対象化がむずかしい、ということになる。さてクリスマスまでに書けるだろうか。
近況
一週間ほど、日録アップを怠っていたが、べつだん病気だったわけではない。序数詩篇の連作が先週、「50」で終わったとかんがえ、そのときに自己達成感と虚脱感がふたつながらあって、あとは日録アップにむけてうまく自分が調整できなかったのだった。
もともとぼくの最近の連作は、一篇めができて、その「方式=定型」が詩作の可能性を尽くすまで反復される。むろん詩集にしたときの分量も一方で念頭にあり、「50」で満尾というのは「40」くらいにさしかかった段階で判断していたことだった。そうなると、終わりへ近づいてゆく連作も「祝言」をなすための緊張と開放を併存させてゆく過程となる。これがなかなか集中力をしいる。たとえば詩想がふとおとずれても、「その段階ではふさわしくない」ものは、捨てざるをえない。
仕上げた連作がうまく展開しているかどうかは、いったん詩作の臨場感が消え、余韻がゼロになった時点で、「他人となって」読み直してみないとわからない。いまは完成しているストックをただ放置してある。
詩でやることがなくなって、ここ一週は、方向をかえ、映画評論を読むことを自分にしいてきた。川崎公平さんの『黒沢清と〈断絶〉の映画』(水声社)の出来のすばらしさに乗じて、長門洋平『映画音響論』(みすず書房)など、ことし買って積んだままになっていたものを読んでいたのだった(長門さんの本も見事だった)。
ぼくの所属する講座の機関誌「層」の原稿を書くためのウォーミングアップも兼ねている。「層」にむけては詳述したい映画が一本あるのだが、それに対応できる参照文献がないのでは、と不安になっていた。この不安を解消すべく、基本に立ち返り、映画評論ついでにドゥルーズの『シネマ』1&2も再読してみる(いまは「2」の半分弱まで)。そこでしめされている概念はたしかに脳裡に固まっていて、教科書の公式にたいするように自分のなかでうごかない。ところが読み直すと、やっぱりドゥルーズだ、アタマのなかが動いてきて、書こうとしている映画の細部記憶とスパークをはじめた。原稿はクリスマス前までに仕上がるだろうか。関連作品のチェックも何段階かあり、スケジュールにはあまり余裕がない。
そういえば停滞したときに、打開材料としてドゥルーズを「つかう」というのは、ぼくには多い事例だ。たとえばベンヤミンなら読み直すたびに嬉しく味読して幸福な体感が導かれる(ヘンかな)のにたいし、ドゥルーズは自分の思考様式の奥に活を入れる。じつは詩作に詰まったときにもドゥルーズを自己「処方」することがある。これが、自分の個性なのかもしれない。以前は西脇順三郎なども賦活剤につかっていたのだが、リズムに影響をうけすぎるので、「利用」しないことにきめたのだった。
むかしの詩
はじまるみづのゆれをゆきかひ
ひかりのなかになみなみときえ
しびとのゑまふみらいのむきへ
むなしくあがくこのあをのかい
とどめるなうのしわふかくには
をととひうかぶしのまりあんぬ
しろこんれいのうたもをはんぬ
かみさりしひのふゆあれのには
かたみとのこるきせつよびごゑ
ねむりほつれたこころのかごへ
さすはなもなくけはいむらさき
ただしづかなるうすやみのゆめ
ふたつでをもてあかごろもさき
おもひでのそとこびとはあゆめ
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こんど水声社から出るぼくの『平成ボーダー文化論』は犯罪論、メディア論、音楽論、風景論などを中心としたサブカル系ノンジャンル本だが、収録評論のうちのひとつで、論脈上、自分じしんの詩を引用してしまったものがある。その詩篇が上。題名はない。
『昨日知った、あらゆる声で』を出すまえ、雌伏期の詩作で、詩からすけてみえる野心がはずかしいのだが、初出忠実性をたっとび、ゲラ校正でも削除しなかった。
完全押韻の十四行詩。字数=音数もそろえてひらがなの歴史的仮名遣いを駆使している。超絶技巧もあらわだ。日本語でのソネットなら、この形式しかないと詩作当時(ゼロ年代中盤)、きっとかんがえていたのだろう。各聯ごとに色彩がひとつ配されている。
たった十四行の詩の作成に、マラルメ的な推敲をかさねたようにもみえるが、そのへんはいまのぼくとおなじで、たぶんそんなことはしていないとおもう(詩作時の記憶がいっさいないので、断言はできないが)。というより、どこかにかるさがあって、手の難渋していない気配がたしかにつたわってくるのだ。そこが捨てがたい。「まりあんぬ」はジャックスの歌か、鈴木清順『殺しの烙印』か。
いまのぼくがよくなす曖昧詩は、この時点でも志向されていたのだなあと、若干の感慨が生じた。むろん、いまはこんな反時代タイプの詩など書かないけど。
50
50
読むおんな、という画題がたしかにある。よみすすめる本、その頁からの反映をうけて、わずかにつねとはちがう、うつむきがちの顔がほのめいている。予感めいたものが描出の核心をただよう。そこへ文字どおりの文字づらをおもう。むろんなんの本をよんでいるのかは秘される。あの顔と髪が、分離であって分離ではない。むしろなにかに囲繞されるのが、なにかの顔といえる。
からだならもともと放心している。動作の効果にこころくだくのではなく、みずから編む時へとしずんでゆくからだは、隙だらけとなってまとまらない。そうして椅子にすわり読書するおんながあやうい。その放心はこころだけをとれば不在のあらわしだが、からだに放心がめぐる再帰のときには、あふれるこころを川水にしてめぐらせている。からだは溝になって、そのすべてがひとつの世界の陰裂のようだ。
からだならもともと放心している。あるくすがたへにわかににじむ夢遊が、まさしくひとをひとに似せるのは、わずかなゆれによってこそ樹木が樹木とさだまるにおなじだ。めのまえからはるかへと雪がまえば、たちまちどこまでがじぶんかわからなくなる。からだのうつくしさもこの脱域にある。だからひとは猥画をこのみ、読むおんなの画題にひかれてゆく。
からだが顔に似るおんなと、顔がからだに似るおんなとでは、後者のほうが古代的だ。表情がすくなくてすむし、たんじゅんに反映的な顔のほうが、澄んだ倍音をたちのぼらせてくれる。その倍音がおんなの手におさまっている本を、本そのままにはしない。
おんなの顔は、それいがいを反射するためにつくられている。そのあらわれはいつもなら迅い。ところがなにごとかのため放心すると、顔が顔であることを遅れつづける。よくみれば世界は、濃淡よりさらに遅速で刺繍されていて、そうした経緯のすきまを、おもう顔がいつまでもほのめいている。
49
49
「OL」「整体」「潮吹き」「老廃物」で検索できる動画が、かかれていないのに書かれている詩のようだ。はじらいの暗愚にかたちのよさがまつわり、みごとに疑念と期待とが中間化されている。それでもこの世にありえているひとりのおんなが、そんなしぼりこみ検索だけであらわれるのなら、おんなみずからを超え、インデックスがあらわれの紡錘までをも、すでに牽引していることになる。つづめれば刻々の姿態がもはやインデックスの質感なのだ。これも詩の現在の要件となる。
段取りによって機械化するやりとりが、速まりと、それにあらがう遅れとのあいだに、きれいなからだを容れて純粋にうごいている。この背反こそがインデックスへとつながるのだから、からだ以上に糸がゆらめいている。映っているものはショットごとに埒だが、意味と無意味の二面をなそうと真半分に折りこまれた、出口のないうすいかさなりのうえにしか、その埒がのらない。みえている対よりもこの基底のすきまじたいがもう男女のぜつぼうだ。
そうだやがては索引だけの世となる。からだはそれじたいをへらすが、反映をもってふえる。総体では質感がうすくなる。そうしてこころが巻末の形式だけにうながされるのだ。モザイクのかかった整体師がきえ、自失したOLがひとり診察台に大の字でのこる。これらみたことの天秤をかんがえ、あたうかぎり目次にあたるものまで後知恵で精密化してゆくと、それすらインデックスの代替となって、ついにすべてがこわれてしまう。
にんげんがきえ、本文がきえてしまった書物の中間には、みずからがみずからのインデックスとなった、のちの世の草木がゆれる。図鑑のように。
48
48
眼のなかに眼のあることがうつくしい。ときおりそんなむすめがいる。このばあい左右の眼はそれぞれ二重性だが、たとえばすずしさのかがやきに淫蕩などをかくしているのでもない。ただのおなじものがひとつの場所にかさなっているだけだ。そんなまなざしのありさまに、その無駄をきれいとかんじる。むろんかさなりは乱反射ともなりえるから、そうした眼ならば視線すなわち方向さえかすませるだろう。世界をながめるのではなく世界と過剰に同期するかまえが、ふえたことでうすまった眼にも忍びこまれている。
あの鳥はみえるのか。むろん鳥影ではなく時間としてみえる。
鳥のあしあとから漢字を発明した蒼頡なら四つ眼だった。眼のうえのひたいにも二対、眼がならんでいた。その四つを縦に圧縮してふたつにまでへらすことで、眼のなかに眼がうまれた。だからそのひとみは、「一致がかすむ」ひかりのさだめをもしたたらせる。
眼のなかに眼のあることは、ひとつの角度のひとみが、べつの角度だったひとみを、おなじ場所へ分立させる矛盾とつうじる。ためにそこで過剰なものが時間ともなる。むろんそれはたんなるかさなりとはちがう。しぐさを刻々と分岐させるものへと放埓にのびている。あの時間とこの時間とをむすびあわせる架橋が、もともとうつくしいしぐさには畳まれていて、この印象が倍化したおくゆきの眼にも彫られている。それで水あかりのみならず、こだまにも似る。
ここで語られていることは、つづめればかなしみの物質性かもしれない。そのクッションのむすびめもみえるのか。むろんクッションではなく時間としてみえる。
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過去はからだのかたちをしている。うすやみでさだかならずうごくところに、すでにして過去とくゆうのぬくもりがあるし、往時を想起するさいにもその想起におんなめいたくびれがひらめいたりする。いずれにせよ過去は停められた時間、その一点の像ではなく、それじたいをもれでるように、うつくしくこわれてゆくものだ。これがおおく開花とすらまちがわれるけれども。
それでもうすぼんやりうかぶ過去の像があって、そうした像の典型に、ちかづいてゆくY字路などをおもうのは、道のうちとりわけY字路がむすびとして、ひとのからだの各部にもみうけられるためか。かたちの岐れのみえるところにこそ視線がたちどまり、恍惚としてゆきさきをまよう。その時期なら風以上のものもふきすさぶ。こしかたにえらばれた一路へと、過去そのもののほそまってゆくあのながれが、まるごとからだのさみしさに似てしまう。からだの各部にも想起のきえてゆく延長がしくまれて、ありどころをうしないつづける。こうしたぜんたいと部分とが、もろともに過去だ。からだという媒介項を置けば、おしなべて過去とはそんなまるごとなのだろう。
こころのなかにうでがある。うでがうごく。
系統なき系統はそのまま視線の質でもある。なにかにまむかうためにあたえられた視線が、みずからの底をかたちづくって、釣瓶のようにどこかのふかい井戸水を汲む。まむかわずそんな再帰となるとき、視線がそれじしんの系統まで粉砕してしまう。まなことたまごの類縁がそこに顕れる。なんなら、くだけ散った殻は方向ではなく、星座になりうる点在しかうまない。《天の如し》だ。
このことがなにかを物語りにしてゆく系統ではなく、ひろいあげて得た静止をゆらしつづける掌上のせつない系統をよぶ。あぶらがひかる。ここでも過去がからだのかたちをしている。眼と手をつなぐものがからだでしかないためだ。あるいは過去はついに帰属へとゆきつかない、ただの持続のかたちをしている。