妍
【妍】
うすく切ったサケ肉を
こおらせるだけの料りかた
このるいべではなにを
たべているのだろう
しゅいろそのものをあじわい
肉が室温にとけるまえの
ふうがわりな抽象をよろこび
ぐずつきと氷のかんけいや
ふった塩のうまみにもしびれる
あかいあぶらのしゃーべっと
たべることのディペイズマンは
舌の好色をゆうがたにする
たましいが微醺をおびて
皿でのならびを眼福にすれば
ひとからさまざまにわき
とおりぬける妍をかんじる
いのちよりかるいつめたさで
もののりんかくがうごき
あかるい妍を囚えられぬまま
たべるかたちがきえてゆく
皿
【皿】
つれあいがあがなった皿のうち
とりわけてすきないくつかがある
さんま皿がそのひっとうだが
こないだの小皿も良い載せをする
そこへ木の実などをひろげると
たちまち獺祭となるのだから
かりずまいのかまえそのものも
にすがたで食すことができる
思想のいう星座はむすびのみならず
きえてゆくながれにもみとめるべきだ
それで前節に果てた虫さながらに
ちいさなものをこまごまつまみ
川のながれをとろけて聴いて
さかずきでそれをゆめにかえる
《秋風や模様のちがふ皿二つ》は
こころいっさいをかえた句だが
おわらない冬では皿ひとつに
ただいろいろを載せかえつくし
しまいになくなったそのふかさを
ぼうぼうとみおろすまでになる
絲
【絲】
ふるいおんなであれば
しろくとどまるこの時節は
ゆふいくへにも身をつつんで
すがたがころもめくだろう
はだかのそとがわをまく
おうなの布のてざわり
それがくうきとふれあって
ながめなど手もてつかめると
おもりまでかなしみにする
じゅばんごとのすきまへ
しずかに日もたたえられて
発酵するへだたりがある
おりいとはつなぐものなのに
かざりともかんじられる
麻いちまいの覚悟をはばむ
まといそのものがきよわめき
しぐさをりんかくする糸
その糸も絲へとふえて
いかにもおうなのなまえだ
やがてはほどかれてゆく
韻
【韻】
ごまんとあるというとき
その字は五万でないらしい
そらをまるまるおおう
花火のようなものが
かぞえられる火の個々を
よこへながしうごいてゆく
そんな数のきえる臨界を
ごまんとよぶのかもしれない
かぞえられる詩をおもえば
一瞬をゆびさせない詩などは
ごまんというべきだろう
この詩のどこに鳥がいるのか
鳥とかいたその箇所もながれて
無とむすびあう気流だけが
ぼやけたとおくを沿いはじめる
とおくのすがたはいつも
ながれのくりかえしにすぎない
うごくものとはまず文脈だが
むすびあうならそれも
ごまんのひびきにかわる
息
【息】
あたたかいきょうは
ゆきが液化をとおりこし
くうきをあげだすのが
とおくみえるだろう
翔ぶひとのいくらかが
いでるかもしれない
まちが路肩だった日は
ひといきに縦横をむかえ
そらへみちをあふれさせる
はかりがたいすべてが
とおい内外をなして
ひとときは観音に似た
氷瀑もくずれてゆく
かおに傘をかざしする
うすい影はまだだが
うすいろの橋をわたり
すけるとおさとして
とおりぬける内外にも
からだでないものを
ゆるがすことができる
北大短歌第3号
ぼくが顧問をつとめる北大短歌会発行、こんどの「北大短歌」(第3号)は「性愛短歌」の特集だ。万葉から現代まで編集部が苦心して作成した「性愛短歌」のアンソロジーを誌面掲載にさきがけてメールしてもらったが、性愛テーマの口語短歌の「開放性」に食指がうごかない。それでそのアンソロジーをネタにするのをやめ、大辻隆弘さんを考察対象にした。とはいっても『水廊』『ルーノ』『抱擁韻』、初期の三歌集のみだが。大辻歌集を読み返したら、以前ノーマークだった歌にもさらに付箋がつく。貴重な再読体験だった。しかもことの性質上、岡井さんの性愛短歌も再チェックした(簡易ノートが役立つ)。14時から執筆準備(短歌の転記)、16時から執筆、20時半にセルフ校正までふくめ執筆を完了した。依頼の3000字にたいし6000字超。まあ大丈夫でしょう
段
【段】
わたしのおんなには
仮定というものがなかった
あるきながら死物を
ちらしてゆくだけでない
月明のさしこむ段があれば
そこにひかりの巣のあるかぎり
もう天心の月が起源ではない
そのようにそらんじてさえいた
うたではうたいかたが
むろん刻々の仮定になるが
わたしのおんなは詞のならび
いわば歯列にすぎなかった
そこにあることが巣をおもわせる
そんざいのひろがりとはなにか
とおく外階段をおりることが
そのものを銀の花嫁にするなら
わたしのおんなにはさけびながら
みずからゆくくだりもあった
すべて仮定なくしてただみえた
それが踊り場にて停止した
ティム・バートン ビッグ・アイズ
【ティム・バートン監督『ビッグ・アイズ』】
冒頭タイトル部分、接写からすこしはなれた関係図へ、という経緯で、印刷機が印刷をおえたカラーの絵画を一枚一枚吐きだしてゆくようすが映される。絵画は巨きな眼をした子供の顔の存在を、感傷的にかたどっている。60年代当時のカラーアート印刷だから、紙の吐きだされるうごきは遅い。これが「生」のスピードだ。
とうぜんこの画柄は、輪転機がセンセーショナルな記事を戴く新聞を、高速(=大衆文化のスピード)で吐きだす定番の描写を「予想させる」。たしかに作品はそうしたシーンを召喚した。輪転機シーンは世間にセンセーションが拡大したことの換喩となる。むろん換喩性を起動力にした30年代ハリウッド映画では欠かせない意匠だった。ともあれティム・バートンと換喩――その二項が、映画冒頭ですでに頭をよぎったことになる。
ティム・バートンといえば一般的なイメージは寓喩の映画作家だろう。寓喩はいわば「物語的内包」で、個別の登場人物(登場動物/登場怪物)を謎めいた物語単位にする。そのために必要なのが空間的逼塞で、バートンはそこへサブカルチュアルなギミックを装飾する。さらには飛翔や落下を中心にした空間的うごきを配剤して、視覚の寓喩性を魅惑的に組織するのだ。
寓喩の「物語的内包」にたいして、換喩は「進展的外延」を志向する。その進展的外延が、「分有」という形式で組織されたことに、いかにもティム・バートンだと感激してしまった。
絵画の印刷から物語の実際的な撮影に移ると、母親が幼い娘とともに、完成絵画などを詰め込み、夫の暴虐から逃れようと喫緊の「家出作業」をしているとわかる。母娘はクルマに乗り、去ってゆく渦中の光景が付帯的に画面にとりこまれてゆく。北カリフォルニア郊外の、マッチ箱のような家屋のならぶ人工的な光景が、空白を中心に置く脱中心的な構図でとらえられて、今回のティム・バートンの『ビッグ・アイズ』は、実話から採られた題材だから空間的な外延を志向するのかとおもったら、じつは58年以降、60年代前半まで、時代色をまとわせた光景により、やはり寓喩に必要な空間的逼塞を手放さないとも直観した。50年代映画に依拠した構図とうごきの把握がたしかに郷愁をさそう(それにTV受像機などの小道具も)。
喧伝されているように、映画はウォルターとマーガレット、眼の巨きな子供などを哀愁たっぷりに描いて大衆的な人気を博したキーン夫妻のスキャンダル、その実話を素材にしている。口下手、社交下手、絵画をものするのみの単機能的な妻マーガレットは、絵画制作に集中するが、理論的には素朴で、天才肌ではない。むしろ天才肌は夫ウォルターのほうだ。商機をつかむのに長け、モチーフを俗っぽく語ることでTV受けしてまでしてしまうスポークスマン。虚言癖のある男だが、その虚言がスピーディに輪転機のように回転する。
夫ウォルターは、商業的策略から、マーガレットの描いた絵画を自分が作者と偽った。女性画家が文化的に軽視されがちなこと、流暢に自己神話を語る個性が歓迎されるポピュリズムの時代を睨んだことなどがその要因だ(最初は周囲からの「作者」のとりちがえという、偶然が作用したのだが)。
自分の描いた絵画に、自分の子供のように愛着していたマーガレットは、この「切り離し」の暴力に抗議するものの、夫の巧言にくるみこまれてしまう。マーガレットは世間知という意味では素朴、彼女こそ旧弊な性差社会に幽閉された存在だった。この土台があって、「ゴースト・ペインター・スキャンダル」の「内包」が起こる。しかもそれが夫婦の「物語」と分離できないのだから、ことは佐村河内スキャンダル、あるいは現在放映中のドラマ『ゴーストライター』とは微妙に位相を異にする。
キーンと署名のある「ビッグ・アイズ」シリーズをまずは吟味しよう。映画は技術を結集し、それらを理想的かつ幻惑的に召喚している。たしかに巨きく描かれた人物の眼は、なにかを訴えかける哀愁をわかりやすくまとっている。婦女子ごのみのイラストレーション(的絵画)――そのように把握すれば、日本では竹久夢二や高畠華宵のような挿絵画家の系譜につうずるものがあるし、透明な悲哀の反復がポップ化されているという意味ではマリー・ローランサンをもおもわせる。いずれにせよアカデミックな絵画評価が予定する階級制のなかでは、下層に属する。俗眼にこそ資するものだという評価は、それじたい正当だろう。
ところが時代はウォーホルやリキテンスタインの活躍するポップアートの時代だった。悲哀の直截性、複製親和性による低廉化、反復への寛容、中流以下の生活者による絵画の家具化への欲望――それらに過不足なく応える「ビッグ・アイズ」シリーズは、いわば大衆層の無限の「分有」により、それじたいの効力を発揮する。さらに時代がくだれば、描法と主題の「キッチュ」が積極的価値を帯びるだろう。いまでは「ビッグ・アイズ」シリーズは、奈良美智の創作物と径庭のない隣接域に置き換えることさえできる。つまり、「ビッグ・アイズ」シリーズそのものが寓喩的な顕れをもちながら、その生成においては換喩的な進展をもった点が確認できるのだった。
キーン夫妻の実像に迫る名目の『ビッグ・アイズ』で作用しているのは、じつは寓喩と換喩とが織りなす葛藤だろう。寓喩的存在は閉じるが、換喩的存在は照応する。やがてウォルターの巧言的確約と励起によって、娘を手放す危機を迎えていたマーガレットが感動に至り、ふたりが結婚することになる。ふたりが最初に出会ったのが、サンフランシスコのノースビーチで繰り広げられている素人画家・日曜画家たちの街頭マーケットだった。凡庸なパリの街頭風景画を売るキーンにたいし、隣り合うマーガレットが異質さで人目を引く「ビッグ・アイズ」の子どもの肖像画を売っている。似顔絵サーヴィスもある。アカデミックな絵画的素養はないが、不思議な勘と商才をもつウォルターが接触してゆく。このときに「分有」もしくは「照応」という換喩的な展開が生じる。
自分の絵を安売りするマーガレットに、親切な忠告をするウォルター。そこへ女の子がやってくる。セールストークの模範をみせようと、その女の子に、このひとにファンタスティックな似顔絵を描いてもらうといい、とウォルターは身軽な物言いで薦める。女の子は怪訝な表情をする。だって並べられてある絵はすべてわたしの似顔絵よ、そう語り、出現した童女がマーガレットの実娘だったとウォルターが知る。ウォルターは笑い話にしてしまうが、じつは描かれた絵画と、現れた実在に「照応」があることを感知できなかった。ウォルターの深刻な能力欠如が問わず語りされているのだ。ところが映画的な問題はこれだけではなかった。
マーガレットの娘ジェーンを演じた子役は、眠たいまなざし、顔の中心部に欠落感のあるファニーフェイスの童女で、じつは「ビッグ・アイズ」の絵には似ておらず、「モデル」としての合致感に欠ける。「ビッグ・アイズ」の子どもに似ているのは、碧眼が印象的なマーガレット役、エイミー・アダムスのもつ、大人になりきれない生の消極性のほうなのだった。「ビッグ・アイズ」シリーズではマーガレットの自画像性が「分散」されている。
同時にそれがティム・バートン映画のそれまでの文脈にも置かれる。眼の巨きなキャラクター、あるいは「シザーハンズ」に代表される悲哀にみちた存在論的な異端者の系譜が、「ビッグ・アイズ」化されたこの映画の「表象」と照応するのだ(それは現在のプリクラ写真の、眼の少女マンガ的な巨大化ギミックとも連絡する)。眼は過剰な抒情化という受難を迎えている。
エイミー・アダムスについては碧眼のみならず、寓喩的な存在感も強調されている。マーガレットの絵画は顔の正面性を手放さないが、映画でのアダムスの横顔の描出では、鼻梁のえがく曲線が印象づけられる。ホイップクリームをつまんだような尖りは、ピノキオの鼻の人形性をもつのだ。それが男女観の旧弊から脱しきれなかった彼女の「ノラ」的限界をいわば抒情化させていた。
夫ウォルターに扮したのは、『イングロリアス・バスターズ』で冷厳なナチス将校を演り、世界的な男優に成長したクリストフ・ヴァルツ。殺害までほのめかして、代作事実の暴露を抑え、画を多方面に売り、表舞台に立ち、蓄財をかさねてゆく彼は、マーガレット=エイミー・アダムスの緩慢な、それゆえ実感をともなう生のうごきにたいし、いわばハイテンションで高速の舞踏をつづけるカンフル剤的存在に映る。「悪の凡庸」の典型ともいえる彼は、画学生時代を述懐しながら局面ごとに基礎的な絵画知識のないことをつたえてしまうし、妻への巧言と脅迫の、得体のしれぬ「同時性」も現代的な速度でゆれつづける。ひと刷毛で造形され、あとは「内包」の問題を惹起するエイミー・アダムスの存在的な寓喩性と好対照だ。
俗悪の横暴からの母娘の解放の物語なのに、彼女たちを金銭で支配した、軽薄で虚言もいとわないこのヴァルツの役柄が「憎めない」のが作品の最終的な「味」のひとつだろう。だからエンドロールで夫ウォルターの後日譚的な事実が端的に表明されたときにふしぎな感慨も生ずる。
俗悪が「ちから」だという見解が作品にはたしかにある。「ビッグ・アイズ」シリーズに揶揄的な経営者のいる画廊の真正面に、キーン画廊が建つ。連日超満員。しかし売上はゼロ。それと電柱に貼られた画廊案内のチラシが盗まれる。それでウォルターは、「ビッグ・アイズ」シリーズの複製を売ることを思い立つ。廉価なので爆発的に売れる。大衆社会の到来は、複製の成立により礼拝価値をうしなった(擬似)美術品が流通することだ。これは階級の再編成にほかならない。ベンヤミンの分析どおりだが、ティム・バートンの視野はそこにとどまらないだろう。流通の拡大が「ちから」である一方、悲哀も蔓延すると示唆されているのではないか。複製の中心領域がもっとも悲哀化するのだ。映画作者の実感だろう。
象徴的なのは、複製性によって薄くなった作品を、そのまま美術史をくつがえすための名刺としたウォーホルの取り扱いだろう。ウォーホルの「ビッグ・アイズ」シリーズへの賛辞はこの映画のエピグラフのように引例されるし、ウォルターの、ウォーホル「キャンベル缶」シリーズへの俗悪な罵倒もある。文化的な寵児だったウォーホルの、異端的、異形者的な存在の悲哀を、たぶんティム・バートンは自身にかさねているはずだ。そこでも「分有」が起こっている。
画面の逼塞は、この映画では連打的だ。作品舞台となるサンフランシスコの坂は画面の真正面にとりこまれ、空の大部分を隠すが、トリュフォー映画のように空が完全消去されることはない。比較的往年のようすをたたえているその街路は実景をとりこまれているが、そこではCGによる部分消去と合成(これは寓喩に属すると同時に換喩にも属する)も駆使されているだろう。
問題はマーガレットの仕事部屋。最初にウォルターとマーガレット/ジェーン母娘が暮らしだした家、やがて一家が巨万の富を叩きだし移り住んだアーティスティックな豪邸、それぞれに仕事部屋=閉鎖されたアトリエがある。社交と営業に励む夫を尻目に、マーガレット=エイミー・アダムスは一日16時間の長丁場、アトリエに引きこもって、「ビッグ・アイズ」シリーズの量産に努めている。窓は開かれない。テレピン油の臭気、その麻酔のなかで描かれた「ビッグ・アイズ」シリーズはサイケデリック・アートのもつ麻薬性とも通底する。
このような文化史的な指摘は作品の随処にある。結果的にはパブ経営者と殴り合いの喧嘩になったことがウォルターの知名度をあげたのだが、そのパブ「ハングリー1」はジャズ演奏がなされながら、当時のアメリカンカルチャー全般に発信力を誇ったビートニクたちの巣窟だった。
巣窟――「巣」の寓喩。密閉状のアトリエで絵画制作に励むマーガレットはいわば「繭籠り」を体現する。おのれの絹糸でおのれを縛られるのだ。この「繭籠り」がティム・バートン的な主題であるのは無論だが、空間的にはならべられた画が、一種の蚕棚を形成することになる。むろん「ビッグ・アイズ」シリーズなのだが、相互に同質的なものが照応する結果、「無」が印象されてくる。これは換喩的な「部分」がひっきょう無だとしたアガンベンの見解と合致する。
商業的には成功していた夫婦の「協働」に水が差された。64年のニューヨーク万博に、ウォルターの機転でユニセフのパビリオンに納品された絵画はいわば「ビッグ・アイズ」シリーズの集大成となるべきものだった。「ビッグ・アイズ」の子どもたちが大量に集合している。それで絵画空間じたいが蚕棚のように重層化する。これは、スポークスマンとしてのウォルターが、「なぜ巨きな眼の子どもたちばかりをモチーフにするのか」の問いに、「公的に」用意した思いつきの虚言、「第二次世界大戦後の、飢えにあえぐ鉄条網の向こうの戦災孤児たちから生涯の衝撃をうけたこと」に呼応する画題だったろう。ところが「ビッグ・アイズ」シリーズは前言したように、マーガレットの自画像性の無限分岐だった。だからそれは「ひとりのすがた」として描かれるのが正しかったのだ。
「ビッグ・アイズ」シリーズは俗悪だという評価が、とどめを刺す。刺したのは、ニューヨークタイムズの評論家で、なんとテレンス・スタンプが演じていた。スタンプとヴァルツのパーティを舞台にした悶着では、スタンプの剣豪のような挙止がみごとだ。
鍵穴から火のついたマッチをアトリエ内に投げ込んでくる夫ウォルターの狂気に恐怖したマーガレット/ジェーンの母娘(ジェーンは成長して二代目の子役にかわっている)は、またもやクルマで邸から逃亡した。この「二代目」「またもや」で、映画『ビッグ・アイズ』が「数値」にかかわる知見を「内包」していると知れてくる。もともと数秘学に親炙していたマーガレットは娘とともに、ウォルターとの新婚旅行で魅了されたハワイへ逃亡。そこでエホバの証人の信者と接触して、性格に積極性をくわえてゆく。ハワイのローカルラジオ番組で、「ビッグ・アイズ」シリーズの真の作者が、前夫ではなくその妻だった自分だったと公式に表明して、娘の快哉を浴びたのだった。
「数値」の問題――映画『ビッグ・アイズ』では、「多」は「ビッグ・アイズ」シリーズがそうであるように、「ちから」であり、同時に「無」だった。いっぽう「1」は治癒されない。そして「2」が希望への階梯を形成することになる。もともと「2」だったウォルター/マーガレットは代作と署名の虚偽性により「2」を破綻させた。それでウォルターは治癒不能の「1」へと堕ちる。かわりに「2」の紐帯が、マーガレット/ジェーンのあいだに形成されることになる。
作品は、母娘問題を社会学的に孕んでいる。偏奇な父ウォルターにたいし、母娘が世間から遊離した状態のまま共闘するというのなら「母娘密着」が起こるだろう。けれどもそうはならない。順序立てて振り返ると、夫名義の画を制作しているのは母マーガレットだという娘の疑念を、夫婦そろってそれは幼年時の記憶ちがいだと訂正する。結果、娘ジェーンの全体は捏造された記憶のなかに繭籠りされることになった。画の代作行為は娘にたいしても秘密裡にたもたれ、アトリエもたえず閉鎖される。そのアトリエの「場所」「真実性」の獲得が親子間闘争の課題となる。この闘争に娘はいつの間にか明晰さで勝利し、それで母娘の「2」が形成されていったのだった。
やっと配偶者たちの居所を突きとめたウォルターによって、「画の真の作者が自分」とする妻の発言を狂気の沙汰だとする訴訟が起こる。係争は実際に傍聴人の眼前で、夫婦ともどもに「ビッグ・アイズ」の画を描かせるクライマックスを迎える。そのまえ、弁護士が退場してしまったウォルターが、その弁護士役を自分がおこなうと強弁、証人(自分)と弁護士の「2」を交互に、アクロバティックな高速で演じ分ける仕儀となる。「1」である彼が、偽りの「2」を演じるのだが、クリストフ・ヴァルツのアクのつよい演技はその悪達者ぶりから、たしかに可笑的な悲哀感をつたえてくる。娘と「2」となることで自分自身を確固たる「1」に編成しなおしたマーガレットの、「2」から「1」への数値のズレ=換喩性なら別次元だ。対するウォルターは自身を寓喩的存在へと完成させた。つまりここにも換喩と寓喩の葛藤があった。
数値の幻惑は、じつは「ビッグ・アイズ」が実在人物上に転用されてゆく伸長(CG)にきわまる。マーガレットが巨大スーパーで買い物をする場面。自分の「ビッグ・アイズ」シリーズが複製され大量に売られているのに気づく。眼の氾濫。ところがそれは、他の買い物客へも飛び火して、それら顔のすべてに巨きな眼のかたどられている幻想場面となる。しかもただの幻想ではない。そこでは巨きな眼による悲哀の「分有」が普遍的な問題だと知れてくるのだ。このときの画柄は、仮面のならび充満するアンソール絵画のようにもなる。
一方でマーガレットが、自分の鏡像を視て、そのなかの像が巨きな眼にかわってしまったのを是正できない恐怖場面もある。そこではたとえば真の自画像領域は自分の涙眼によって「視えない」といった、デリダ『盲者の記憶』の問題系との接触が起こる。いずれにせよ「巨眼化」は「多」にも「1」にも適用され、結果、「多」と「1」の通底が起こる。これを「寓喩」「換喩」のどちらかに振り分けるのは至難というべきだろう。
マーガレットが「ビッグ・アイズ」シリーズから離れ、それを変奏したような(しかもモジリアニの影響もうけた)あらたな自画像シリーズを開始するくだり(これも「2」の主題)や、ウォルターの往年のパリの街路風景画の署名の下からべつの署名が現れるくだり(これまた「開陳される2」の主題)もあるが、それぞれの帰趨はどうか実地にご確認を。
最後に強調したいのは、上映時間だ。この傑作は「わずか」106分で終了する。寓喩性の映画なら尺も長いはずで、だから映画そのものを縮減できたのには、換喩性による意味形成の効率化がかかわっているだろう。
2月18日、札幌シネマ・フロンティアにて鑑賞。
双
【双】
おわりちかいぺえじをめくると
さらなる連続なのかそれとも
それでしまいの対なのか
ふたつのものがあらわれるのに
ともあれおどろきをおぼえる
そうして繙読と生が似て
なまこをつらねた本の急場
なまりの底の左右づつに
ふかしぎな紐がたれている
双であることのえがたい摩訶
たがいであることの無際限
へただりがおおきさとなって
たまたまのみぎひだりも
ところのちがいから相似を
なだめられないものにかえる
この双が後続なくあばれるのなら
それまでの海鼠が轢き殺される
におうまなざしをつぶすべく
かおすらひらいて歎くひととき
ふたつの紐にしばられつくす
鏡
【鏡】
春めいたとおもうのは
あやまりだろうか
きょう一日は乞われて
ゆきのきえのこる丘
まだらのつちのうえへ
この世をふやすべく
つぎからつぎへと
ささいな鏡板を置いた
なしたもののあらかたは
あおぞらをたたえる
水たまりにもみえるが
まばたきをしない鏡面が
かぜのないびょうぶを
わずかにもりあげて
のぞまれるやわらかさで
丘もくつがえってゆく
ぬるむのはほそまり
からすが鏡面をかすめ
湯のようなひとみの
さわりをゆらした
塩
【塩】
ハーブ塩のように
そのものの塩は
なにかとまざることで
舌ののぞみとなる
いしるでさえも
塩を潮へとかえた
いそべの験しなのだ
蒸散せず晶となる
しろさやうす茶こそ
わたしらのぜつぼうで
舌がちいさな混色を
よろこぶのにたいして
まなざしのなかでは
純然と塩がひるがえる
あるひとつながりが
韻と意をかわすとすれば
うかびだす塩の晶は
つながりの同意を切って
ながめじたいをいなむ
横断としてひらめく
復
【復】
文字はからだで書くものだ
それが性事のごくいだと
シーツにちる文字がつたえる
うごきは撥ねうごきは返し
それでもまるくおわることが
ひとをおさめもするだろう
文字がはだへとこびりつけば
せんとうでいっさいながす
ゆうがたのひかりそのものが
湯のようにはった宇にいて
からだをあわであらいだすと
そこでも文字が動で書かれ
そのうちからだまでもが
ゆうがたとともにながれだす
やがては多少ともひにくなどを
ころあいの湯で煮るのみだが
多少ともまがっている湯は
まがりとも直線ともきめにくく
またもやふたたびもういちど
からだの文字をみだしはじめる
門
【門】
紙背にそのまま穴をひらく
門という字のさそいがみごとだ
ないものをふくむ象形だから
それは紙上にさえのらずに
おのれをちがうものとしている
戸口までに植えこみがあり
やわらかくまがるみちが
ひとつの音楽的なながさだと
あるくじぶんをおぼえてしまう
からだはいつも字にゆさぶられる
むろん門が空漠のなかにのみ
しるしめいて建つ悪日があれば
ゆうわくもたかさへとかわり
ひとの脳葉をかげらせるだろう
くうかんを端的に宇というが
春の門秋の門とくちずさむなら
くうどうをきせつがわたって
字ひとつにも宇があるとしれる
左右で奥をかこむ門からは
あいだあいだがとおくゆれる
衣
【衣】
頭部のない首から腰だけのトルソは
けして衣服を着ずにそれを吊るだけだ
おのずから斬首の記憶にまどろんで
とびたった首がさいごに視たおのれを
かたちぜんたいとしてさだめている
それゆえトルソの方向はまぢかへの俯瞰で
これが軸木で縦にささえられた前なのが
みることにまつわるふしぎともいえた
そうよんでみるのだがかれの胸板は
つつむ衣服をまぼろしのように交換する
にくたいがきえスーツだけの浮くうごきが
せかいの橋がおちるまえのながめで
トルソはおのれにそれをいわば上映し
たそがれのみせる一滴たろうとする
ひとつの落陽がひとつの斬首であること
きょうも首は服をのこし雪上へおちた
きょうもからだは服をのこし雲へきえた
語るにつれスーツもうすくなってゆき
ころもがゆれるだけの域で性が立消える
トルソでは消滅がはだかになっている
三島有紀子・繕い裁つ人
【三島有紀子監督『繕い裁つ人』】
図形的には、並列が静謐をつくりあげる。ならば時間的には、反復が静謐をつくりあげるだろう。劇伴音楽の記憶がないほど(それでエンドロールでの平井堅の、財津和夫のカバー「切手のないおくりもの」の歌唱に驚愕する)、すべてが言葉すくな、静的な映画『繕い裁つ人』は、いわば静謐にかかわる真剣な考察集だった。
神戸の全貌を見下ろす坂道頂上の高台、そこに南洋裁店が位置している。小ぶりで年代ものの洋館、しかも内部は和洋折衷の要素も組みこみながら、室内全体が渋い色合いでまとめられ、そこへ自然光がはいりこんでくる。それだけでフェルメール調のヨーロッパ映画の風合がうまれる、めぐまれたロケーション(建物)だ。そこに、偉大な祖母の死後を継ぎ、孫の「市江」が旧式の足踏みミシンで服を仕立てている。
徹底的なオーダーメイド。顧客はほぼ地元民で、しかも主流が中年以上とみえる。徐々にわかってくるのがその衣裳哲学で、衣裳は生を活性づけ、行動に積極性をあたえ、しかもその風合は着る者の存在じたいと「似ながら」、さらにそれを補強しなければならない。そうしてできあがったスーツもしくはドレスは、存在に即しているのだからとうぜん一生もので、だから一旦できあがった服も、身体の変化(肥満化、肩落ちなど)にあわせ、こまめなサイズ直しをほどこさなければならない。ひとは存在を着衣し、似合うこと、矜持を着衣する以外に、記憶や記念をも身にまとうのだ。
このために市江は、亡くなった祖母の仕立て直し、サイズ直しに専念し、たまさか新作の服を仕立てたにしても、そのデザインにかかわる寸法さえ祖母の達成したものを墨守している。顧客の記念日や年表は祖母のデザイン画の余白に書かれたメモとして綴られている。それで劇中の女子高生たちからは、スカート丈の長すぎる鈍重さなどを、古臭いとあげつらわれる。それでも劇の端々で、時代変化に即応する自らの創作欲を封印してしまった市江の苦衷が、なぜか透明さをまとわせながらもつたわってくる。
祖母と孫のあいだの反復。このばあい反復は強制力をともなっている。反復にこそ価値と信念があることを、市江自身、さらに顧客もが了解し、これを、市江=南洋装店の服をブランド化しようとするデパート(画面には三宮の大丸のエントランスが何度も映る)社員、衣料品企画担当の藤井も痛感することになる。となると反復の「ズレ」が、方向変化のささやかな希望となり、そこに市江が祖母のデザインの縛りから離れてわかいひとの服を仕立てる営みが潜勢しているはずだというドラマ上の構図がうまれる。
まずは反復を列記してしまおう。微妙な俯瞰角度によって、南洋裁店にむかうため神戸の坂道をのぼるスーツ姿の藤井が、徐々に上体をあかすように幾度も現われてくる。市江は背中を向け、打音にちかいリズムを散らしながら足踏みミシンで、きらめく西日(それでもまだ白光だ)のなか、布を服にむけ何度も縫製している。すべて同構図だ。社内の企画会議で南洋裁店のブランド化交渉に承諾を得た藤井は、祖母の仕事を継ぐだけでいいとする市江から何度も拒絶をうけるが、ちいさな落胆の帰途には何度も珈琲店「サンパウロ」が傍らに現れる。来客のために紅茶を淹れる動作も、たびたびくりかえされる。
やがて市江への交渉は空洞化し、市江と顧客とのやりとりを聴きながら、市江の母・広江(彼女は厳格性を欠き、祖母からの仕事を継げないかわりに、陽気な磊落さと可愛さをもつ)と、まったりとした時間を藤井はすごしだす。在宅の自然化。このときにはみたらし、あんころ草餅などの串団子が約束事のように登場する。
反復とは、事前と事後とに類似をつくりあげることだ。ところが市江の仕立て直した衣裳を誇りたかく身にまとうひとには、自身と衣裳の類似があると前言した。その類似は、みずからがみずからにしか似ない(類似そのものから類似性が分泌される)という峻厳な閉塞をつくりあげる。この峻厳さは存在の有限性にもかかわっていて、そのままでは重く、類似は類似のまま死後へと拉致されてしまうことになる。それで「似ないものどうし」の類似、いわば詩的な照応が渇望されてゆくことになるだろう。この映画の作劇の眼目も、まさにそこにあった。
反復のちいさなずれを振り返ってみよう。たとえば珈琲店「サンパウロ」は細い坂のなだらかな途中にあってじつに風合の良い構えだが、そこで打合せをしようとする藤井の提案を、市江は無下に断る。やがて真意が知れる。そこは市江のプライベートな店なのだ。よっぴいて裁縫をする市江は晩食をしないという前段があって、市江はたまに自分への褒美用にその店で出すチーズケーキ(ホール)を食べることを愉しみにしている。瞑目して全身で味わうときのしずかな官能性は、市江を演じた中谷美紀ならではのものだが、絶対にプライベートという鉄則は、やがて藤井とともにそのチーズケーキを食することで破られ、さらにはおなじ味を墨守していると掛け合う店のパティシエに「味がかわった」と市江=中谷が正直な感想を漏らすまでにいたる。じつはそこではケーキの味が変わったのではなく、それを味わおうとする市江の身体に、萌芽的な変化が兆していると観客が観察することになるだろう。
ブランド化の話をもちかける藤井は、けっして商売本位の拡張主義者ではない。その誠実さの醸成に、演じた三浦貴大の個性が役立っている。のちに理由が判明するが、服飾にたいする異様な情熱があって、しかも縫製の丁寧さ、デザインセンス、着るひととの調和感など、衣服の美点を瞬時にして冷静につかむ洞察力もある。それでも彼はたまさか図書館で会った市江に、ブランド立ち上げのハウツー本を軽薄にも薦めてしまう。それが軽薄さの罪をまぬかれるのは、図書館で提示されたそのハウツー本をいったん打棄った市江が、やがてその本をみずから購入、それをサンパウロでのケーキ食の友とした事実が繰り出されるからだ。しかも退店後、その本を卓に忘れたと市江は気づく。だが、取りに戻らない。このときは市江の意識を明示すべく、その本が画面にふたたび召喚されることがない。
このあとで、三浦と中谷がサンパウロにともにいるのだから、店主から「忘れ物ですよ」とそのハウツー本が再提示され、それが中谷に兆している心境変化を三浦につたえるものであってもいいのに、そうもならない。つまりハウツー本は、ドラマの時間進行から忽然と消えたのだ。反復の魔力を解くもののひとつにこの「消滅」があるというのが、映画のしめす哲学的な展開のひとつだった。
すべて語りすぎず、シーンの淡々とした間歇描写を自己鉄則的にしるしてゆくこの作品では、反復から弱音化された連打性をひびかせてゆく。ところが肝腎なところでは、現実音のつよい発生がある。杉咲花が襟のかわいい青い細密模様のドレスをもって南洋装店を訪ねる。母の形見の大好きなドレスだが、自分は小柄で、しかも高校生なので、この寸法のままでは着られない。その申し出を中谷が受けるが、ほかの顧客とのやりとりもそこに付加的に混ざり、杉咲の申し出はドラマ進行のどこかに潜ってしまう(このやりとりのなかに藤井=三浦もいる)。ところが画面はとつぜんオフの残酷な音を切り裂いた。瞬時にカットが変わると、開いたままの裁縫鋏で、トルソにまとわせたその杉咲の母のドレスを、作業開始の前段として迷いなく裂いていたのだった。
三浦貴大の現実的な挙止にたいし(彼のスーツの着こなしには丁寧さがあるが、超越的な美観がない)、中谷の市江は、紅茶も満足に淹れることができないかわりに、自分の仕事だけには残酷ともいえるほどの決断力と創意がある。中谷の仕事服は、堅さのあるロングドレス状で微妙な青色を放つ、一八世紀あたりの舞踏会服とも、なぜか権威的な裁判官の服ともみえる。それが中谷の背筋を伸ばす。伸ばしたうえで上体が屈められるときに現れてくる気配が「決断」だろう。裁断と決断の同韻。そのうえで彼女は優雅なモデル歩きまでして、仕事の良さが仕種の良さと通底する真実を体現している。
作劇を禁欲するこの作品では、ドラマ上のフラッシュバックが現れない。進行は前進的で、かつ間歇的でなければならないという自己抑制が貫かれている。ところが例外がある。三浦貴大が微妙な俯瞰ショットで神戸の坂道に徐々に上体を現してくるようすが反復されるとしるしたが、それが市江の祖母の葬儀=回想シーンで、上体の現れが複数化を迎えるのだ。クルマで生前の街を名残にみる偉大なその南洋装店の女性職人に弔意をしめすため、馴染みの顧客たちは彼女のつくった服で正装して並び、弔意をしめし離れて故人を見送ったと前段で語られたのち、フラッシュバックとなって、坂道から次々と実際にすがたを現すのだ。三浦の単数が顧客たちの複数へと倍加し、しかもそこにスローモーションがかけられることで感動させることはたしかに作為的だが、複数が単数を救抜する図式は決してあなどれない。やがて葬儀のクルマがその見送りに応えるために停まり、外へ出た中谷、その母の余貴美子らが礼をするときも、仕種の反射が人間界にあって普遍的にうつくしいとかんじさせた。
反復を原則にしているが、この作品で大切なものは、「二度」だけ現れる。「二度」は反復の最小単位でありながら、その純粋形ともいえるだろう。「二度」現れるものは、女優では中尾ミエと黒木華、シーンとしては年に一回、南洋装店の服で正装した中年以上の男女たちが、楽団演奏によって舞踏や飲食に興じる、なかば秘密裡の「夜会」だった。
まず中尾。市江=中谷の高校時代の恩師だった中尾は、亡夫との出会いのときに着ていたドレスを、来るべき日のための死に装束へ仕立て直してほしいと中谷に依頼する。その中尾の家に、市江がゆくことになるのだが、そこへ藤井=三浦を同道する。そこで中尾は、市江の実母=余どうよう、市江=中谷の、裁縫いがいに取り柄のない不器用な単機能性を揶揄する。
丹念に庭をととのえているその中尾邸が、二度目に画面に召喚されるときには、ドラマ上、三浦の不在化がつよく刻印されている。中谷が庭に現れたとき、中尾は植物への水やりをしている。徹夜で中尾の服の仕立て直しを藤井=三浦は手伝っていたが、中尾の往年のドレスがどう仕立て直されたかの結果は、箱に収められ、画面上秘匿されていた。それが中尾のすがたによって露呈する。服は園芸用の仕事着(エプロン)に可愛く様変わりしていた。死期を予備して老けこむのではなく「いまを享楽的に生きよ」という市江のメッセージが込められていたことになる。
このとき一度ひとりだけで藤井がその後来訪したと中尾が中谷に告げる。そのときの藤井のしずかな決意のようすを中尾は「代弁」したのだった。藤井をめぐる鉄則は、その心情が代弁者によって事後的に語られるということだ。自分を語る自己再帰はそのまま反復の構図に収まるが、反復を市江に認めない藤井は、その見返りに自分語りを禁じ、結果、自分の消滅ののちに自分の代弁者を反復させることになる。いっぽう市江の「自分」は、行動から滲む「徴候」によって語られるだけだ。なぜなら彼女=中谷は、視線にこそ発語機能を担わせるミニマルな自己表現者だからだった。とはいえ彼女は真摯にみつめることのみを態度にして、睥睨など権威性を視線にまとわせることは一切しない。
藤井=三浦が舞台・神戸からきえ、いったんドラマ進行の陰に潜行してしまったのはなぜか。そこでは一度目の「夜会」がかかわっている。杉咲花とその同級の女生徒ふたりが触媒因だ。給仕として夜会への臨席をゆるされ、黒服で身をかためた藤井は、その従前のシーンで、南洋装店の衣裳部屋に闖入し、居並ぶドレスのデザインを古臭いなどと好き勝手いっていたそれら女子三人組をたしなめる。それでも彼女たちの好奇心は収まらず、秘密の花園への探検者のように茂みから夜会の優雅な進行を窃視することになった。窃視者にはアクタイオンの運命が待ち受ける。着る服を流行に合わせるだけで丁寧に着ず、脱皮するように使い捨ててゆく彼女たちに、しずかだが意味上の大喝をしたのは杉咲の祖父の中田老人だった。
ここぞという正装必要時に、その正装が自分自身に類似することを継続させてゆく生の矜持は、おまえたちにはわかるまい、生の矜持とは死の矜持の裏面を張りつめるものだ――敷衍すればそのようなことを中田老人は告げ、三人組は自分たちの浅はかな興味本位に恥辱をおぼえずにはいない。この中田老人も、市江のスタンスを「代弁」したのだった。代弁のうつくしさは貫徹されている。けれども結果、中谷の仕事を貫いている反復が難攻不落の哲学性を帯びているとさとった藤井が、自己をみつめなおすべく、神戸の衣料企画部の職をなげうち自ら異動を願いでたのだった(この事実もまた事後判明する)。
この作品でいちばん泣かすのは、予想がつくだろうが黒木華だ。あるシーン。ドラマ上の脈絡なく、クルマが三宮の路上に停まる。運転者は車椅子をしいられた黒木華だった。不如意をかこちながらクルマから出た彼女が、車椅子で歩道上にのぼろうとするが段差があってうまくゆかない。それを通りすがった市江=中谷が補助して、ふたりのやりとりがはじまったのだった。
黒木は、服の着こなしと雰囲気から、ひと目で自分を助けた女性が、自分の兄・三浦貴大が執着していた市江そのひとだと見抜く。それほど熱狂的に自分の妹へ、市江の服の良さを三浦がつたえていたと問わず語りに判明する恰好だ。それだけではない。兄の服飾への異様な興味の源泉が何だったのかも黒木は「代弁」してしまう。自分が幼少期に事故で下半身不随となったこと。引きこもりになった。ところが母親が可愛い襟のワンピースを買ってきた。それを着て外へ晴れ晴れと出て、自分の引きこもりは終了した。ところがこの一件で「衣服のちから」に真に感染したのが兄だった――そう黒木は「代弁」する。代弁されて、ドラマからきえてしまった寡黙な三浦の面影がたつ。
気をつけよう。代弁された内容は、黒木の心情を三浦の行動が人生上「代弁」したということだった。「代弁」の反射。つまりここでは反復が反射によって救抜される哲学がしめされたことになる。このあと黒木と中谷のやりとりは三宮の路上から港に移され、中谷はいかに修業時代に祖母が厳格だったかをはじめて「自分語り」する。これも反射の効能だろう。
反射は相対物の類似と近接する。しかし近接にとどまり、完全な同化をもたらすわけではない。反復とは構造がちがうのだ。むしろ反復を最終的に解除するのは、「似ていないものどうし」の類似だろう。ドラマはクライマックス、そこへ突きすすんで、その哲学的な真正さで泣かせる。
神戸の街を急ぎ足であるく三浦。銀座の三越の家具売り場でのすがたを点綴されたのち、ひさしぶりに実在性をともなっての画面登場だ。やがてジャンプカット。ウェディングドレスをつけた車椅子の花嫁が後ろすがたで画面に収められている。きよらかな白光の横溢。もともと後ろすがたをうけもったのは、映画の最初部から反復されていたミシンでの縫製作業中の中谷だった。そこには音があった。この花嫁のすがたには音がない。やがて花嫁の顔がしるされるととうぜん黒木華で(「結婚」の挿話の前振りはない)、この二度目の黒木は花嫁化粧をほどこされているから最初の登場時よりもずいぶんとうつくしい。しかしもっともうつくしいのは、兄の到着の遅さをとがめながらも、兄妹のあいだを、発語など必要のない黙契こそがささえている点だろう。
しかも催涙的なのは、花嫁用の車椅子と一体化したそのウェデングドレスの、ゆきとどいた、やさしい、内面的にうつくしいデザインを、ひと目で市江のもとだと悟った藤井=三浦が、妹・黒木への祝辞もわすれて、布をとりあげてその風合を触覚でじかにたしかめずにはいられないようすだった。その兄の「業」を妹が笑みをふくんだしずかな感慨で黙認して、振り返らない。兄はすぐに気づく。その花嫁衣裳の襟も、幼少期の生の積極性をとりもどす契機となった、母のプレゼントによるあのワンピースの「襟」がそのまま転用(引用)されていたのだった(ここでも説明的なカット処理がない)。これは反復なのか。ちがう。むしろ反復を荘厳させるため、ちいさな極点にあらわれた反復の三次元――結晶というべきだろう。反復的なものは結晶性をおびることで、反復の具備する磁力・呪力を、内界へむけてくつがえしてしまう。やはりここでも反復にかかわる哲学的な知見が語られたのだった。
黒木の結婚式には遠目の位置で中谷も参列していたのだが、三浦と中谷が再会するドラマが欠落している。以後、ドラマは反復のあるべきところに欠落が代位して、反復予定性を余白化し、余白そのものに感慨をおぼえさせる、あらたな反復哲学を組織化してゆく。
中谷は「夜会」へ移動した。それで禁欲的なそれまでの作劇が封印していたシーンバックがはじめて開花することになる。この二度目に登場した「夜会」が、ホテルの夜の庭で催されている黒木華の披露宴と交互に綴りあわされることになるのだ。中谷がかんがえた演出なのだろう、長いウェディングドレスの裾に子供たちが風船を括りつけ、その浮力で裾がひろがりのぼってゆくうごきが捉えられる。
いっぽうの「夜会」では「ふたたび」杉咲以下女子高生三人組が闖入するが、目的がずっと真摯なものに変化したと綴られる。一度目の夜会、その諌言でつよい印象をのこしたあの中田老人が物故したが、彼が大事にしていたスーツだけはこの夜会に参加させてほしいと依頼したのだった。承諾した中谷はトルソにそのスーツをまとわせる。夜会のクライマックスでは参列者全員がその身体を欠いたスーツに弔意の礼をしめす。ここでは市江の祖母にしめしたあのフラッシュバックシーンの弔意の礼が反復された。
問題は、ウェディングドレスの裾を空中へひろげてゆく黒木と、トルソにスーツをまとっただけの中田老人の「幻影」が、シーンバックにより照応され、「似ていないどうし」に類似が結果されてしまうことだろう。実体と虚体。顕在と潜在。動勢と永遠の停止。幽明の境も超え、それら正反物を「つないでしまう」のが、衣服の幻影なのだった。衣服は当人に類似するのみではない。当人の死後や不在にも類似し、つまりは衣服を媒介に、肉体の実在と不在までもが似てしまうのだ。実在と不在が混淆すれば、不在が勝つ。ところがその不在は衣服の幻影に荘厳されつづけるともいえる。当人の記憶よりも、さらにあわいすがたをもって。
作品が表象したもののうちで、あらためてトルソが身体よりもさらに芯をつくっていたとおもいあたる。作劇中、積極的にトルソにむすびつけられていたのは杉咲花だった。亡き母のワンピースの仕立て直し。丁寧に着られていたそのワンピースは、トルソにまとわれ、中谷の裁縫鋏により英断的に裂かれた。杉咲以下、女子高生三人組が南洋裁店の衣裳部屋に闖入したその空間も、無言のトルソがドレスなどをまとう衣裳の森だった。ついには杉咲の祖父のスーツがトルソに着られ、これが遠近感のさだかならぬ礼拝対象となった。
トルソがマネキンでない点がすばらしい。抽象性をもち、フェティシズムをもたないトルソでは、まとわれた衣服が宙に「浮く」のだ。あたかも、オノデラユキの写真のように。トルソは衣服をまとうことの基底材と位置づけられる。トルソそのものが衣服の交換可能性であり、それは人体のかたちを部分的にもった、重ね書きを喚起する羊皮紙に似た何かなのだった。トルソのうえに衣裳のすがたをした歴史の幻影が変転するとすれば、トルソは無魂もしくは物質性であっても、歴史主体としてだけは有魂で非物質的だととらえられる。そのうえにひとの営みのすべてが集約的にうごくとすれば、ひとよりもトルソのほうが先験的だともいえる。それは「幻影の巣」でありつつ、同時に「幻影」なのだ。この意味でトルソでは正反物が類似しているか、類似が類似を分泌しているか、そのどちらかの判断をうながす材料ともなるだろう。このトルソを直視すると、映画『繕い裁つ人』のもつ無常観が豊饒だと理解される。むろんこの言い方は撞着語法的だ。
中谷は女子高生三人組のまなざしが生の本質にむけられたとかんがえたのだろう、あなたたちに一生たいせつに着られるドレスを、(祖母のデザインワークを離れ)新規につくると約束する。ところがそのドレスがまたもや結末に現れない。「不在」表象の決意がやはり貫徹されている。むろん反復は継続物の不在化によって余白をつくりだし、その余白にこそ情が乗ると作品が計測しているためだ。
原作は池辺葵のコミックだ。少女マンガの流れだろう。コミックスは現状で計六巻ある。反復にまつわる知見を、さまざま哲学的に〔ブランショ的に/ドゥルーズ的に〕変奏しつつ、物語の直線性を峻厳に破線化した脚色が、少女マンガ的な原作に忠実であるとはとてもおもわれない。原作コミックは未読だが、構成に大胆な改変があったとみるべきだろう。脚本を担当したのは『永遠の0』の林民夫だった。
二月十一日(建国記念の日)、札幌シネマフロンティアで観賞。中高年男女で満席だった。
棒
【棒】
たとえばとおくへのびるながさを
この詩の棒で倍化してはかるときに
えられた倍数が喩となるというのでは
ぎゃくに詩は厳密でなくなるだろう
この棒そのものがのびてとおくとむすび
ながさがながさでさえなくなる魔法が
ながさとみえたもののむしろ実質であり
それも詩の棒のおよぶべき範囲なのだ
そうした範囲はいつでもあいまいで
ふれあうことがたえずはるかへのびる
おもしろいゆきぐもなど天になくて
ふきあれる土手で棒をまるくふるひとは
身の丈でおのれがなんの原基でもなく
ひとつのかぎりある回転だとしらせ
はつでんにならないはつでんをもって
詩の棒がないてゆくすがたもみせた
しぐさの無為のもともとのうつくしさ
うごく棒は遠方に円までうかばせて
ながいものが錯覚とつうじあうひるに
ながさの途中がきえる線をひろげる
晶
【晶】
ひとがくるしむような詩篇となって
そのあと黴をさかせることはある
ごみをすてにいってごみにすてられ
くうはくがみずからになることもする
ひとつのおこないが了わらずに
じぶんをくりかえしにかえるとき
日にすきまありとおもうのみだった
ゆききがあいだを開閉するのなら
おきてからの身のうつりとはなにか
けさはあさく漬けたもののこまぎれを
しろいめしのなかへゆるくまぜる
もようを口にいれ汁でのばして
からだのうちをゆめにもしてみせる
生気としかよべないこのものが
舌ざわりのはずみへ似てゆくのは
あさがとじて晶をこごらせるためだ
なげきながらたべてゆく卓には
くうはくもありうごきさえあるが
じぶんしかしらないこの脱出口では
おなじであるゆえの晶がきらめく
紐
【紐】
ふたてにわかれているみちを
左右ずつ半身をべつべつにわけ
みられやしないかと動悸しながら
それぞれあゆみすすめてみた
ほんの土手の数十メートル
かたほうには紐がとぐろして
もうかたほうに紐がういていた
それじしんにしか似ていない
類似がとてもさみしいので
わたしはわたしに似ることを
まえへむきながらやめてしまう
それで紐をまたぎ紐をくぐる
ふたつのわたしが域外へ
わたされる虹のようになった
ちがううごきをした報いは
あいださえ華にするのだろう
あたかも虫をつけた心地で
かおの正中に紐もゆれて
うれいがきれいへうつりゆく
じぶんがふたりとかんじた
丹
【丹】
苦境にたちゆびをつめてしまうと
みなぎるべきからだのせんたんから
生気がぬけだしてとどのつまり
十年殺しの懲らしめになると
わかいひとらにおしえてあげた
せなかいちめんへ墨を彫れば
五十をへずして肝硬変となって
ふとくみじかく死にゆくだけ
そんな只今もあると画でしめした
感官のいわれもないいれずみ
もろはだに丹をいれたおんなの
なかばすきとおった瞋恚には
いつでも散る二三片がまつわり
こころの足がひるがえりやまない
あるときの悪はうごきとおして
ひたすら只今へと丹をいれる
こんな熾んがあるべきかたちを
まくずはらへとなびきあげた
以外のみへかぶくわたしらの悪で
みやる青にもこころの丹が泛く
漿
【漿】
とつぜん家から風呂場がきえた
湯浴みするおんなをけそうとするうち
みずから家風呂がとけてしまった
それでぜんたいに欠けができて
これらが反響して髪の家となった
かけ湯のくりかえしたぎるもの音が
いまだに北側の紐をゆらしている
けして階上へとみちびかない階段が
家そのものが横にたおれたと気づかせ
あたらしい湯船も厨にできている
こんなのどを研いでとぎ汁をまわし
しろい漿がからだをもれるのみだ
つばさあるからだをあらうのではなく
おんなもただ漿をながしていたのだろう
いれものであることにすごく飽いて
踏み台となるよう家をめざめせた
けして一歩は三歩にならないが
三歩が一歩になる超越はやがてくる
だからもろともにおんなと風呂がとけ
しろい漿の噴口をわたしへのこした
道新コラム
本日の北海道新聞夕刊5面に、ぼくの連載コラム「サブカルの海泳ぐ」の第11回が載っています。見出しは《ハウツードラマの傑作「太鼓持ちの達人」「〔俺の〕ダンディズム」「アラサーちゃん〔無修正〕》。そう、またもやサブカル色のつよいテレ東系深夜ドラマ、その路線を、今クール番組と、去年の傑作ドラマふたつで礼賛しています。
そういえば、連載第10回目のアナウンスを、タイミングを逸して失念していました。掲載は1月14日夕刊で、見出しは《NHKBSが特集「はっぴいえんど」「拓郎vs奥田民生」「ナンシー関」》。昨年末のBSプレミアムの傑作番組を串刺し紹介(考察)しました。
ポッケ
昨日は札幌に来ていた三角みづ紀、それに山田航、久石ソナ、ぼくが合流し、すすきのと狸小路のあいだあたりにある、こじんまりしたジンギスカン屋さん「ポッケ」で呑んだ。いやあ旨かった。肉が塩ジンギスカンをはじめとしてやわらかく旨い。おまけに脂がすくなくもたれない羊だから、どんどん腹にはいる。肉の味そのものがあまみをたたえ、新鮮味もあって、都合いろいろ500グラム以上は食べたのではないか。小食のぼくにはありえないことだ。みんな旨い旨いと、火のとおったばかりの肉を旺盛にぱくついていた。野菜も焼いた。しかも飲み放題、食べ放題のお代が四人で12000円と、びっくりするほど安かった。店を探しだした久石くんに功労賞を。こんどは学生と行こう。要予約だろうが。
元気なみづ紀さんを称え、国家試験の出来が上々だった久石くんを称え、仕事を爆発的にこなしている山田くんを称える。久石くんのもつ小物のおしゃれ感をみづ紀さんが褒めるうち、「久石くん両性具有説」をぼくがだした。詩作と歌作のモードのちがいについて。ジンギスカン料理の発祥。山田くんの北海道コラム&短歌のすばらしさ。三角みづ紀の行動力について。俳人に詩人歌人よりも変人が多いこと。歌人がいちばん真っ当。岡井隆がぼく(阿部)の詩作にもたらした影響について。短歌と虚構性の問題。三村京子の現状。最果タヒと杉本真維子と暁方ミセイについて。オンデマンド詩集の利点と難点。新聞原稿の面倒。女性詩人はどんどん良くなるのに、男性詩人がどんどん頽落してゆくのはなぜなのか。詩作原理に難易度の設定が必然化してしまった不如意。それでも「わかる」ではなく「つたわる」がなければ、詩そのものが無惨だということ。語彙の削減。東京に帰るか否かの選択と運命。北海道大好きとみづ紀がいう。北海道のいちばんうつくしい季節。朗読のこと、中央線系のこと。詩の賞について。話題は次から次へと飛躍していった。やりとりは東京的。愉しかった。
寂
【寂】
さっぽろの家屋はみな二重窓だから
つよい風で換気扇の鳴るいがいは
ほとんどそとのおとがしないだろう
ましておんがくもきかなくなると
血流音だけが詩づくりのもとを占め
しずかにただころされてしまう
はなとうとすることばを吸音する
このからだがもののはじめへの
ありえない除外例となるのだ
しずかにころされてしまいながら
ころされあうあかしの等間隔を
ことばのとける列なりにつけたすと
一音ですむ情けなどとうにおわり
つづきでこそおとを統べてゆく
さび声が寂静をとおりすぎる
羽化の鳴るとじられた虫に似て
うちがわのみがひかってあわれだ
おとの臓腑がすきとおってくる
おとにながめのあるさまもゆれて
みるからに入寂へみちびかれる
隙
【隙】
ゆきぞらへとみちびいてゆれる
電線のあいだをみあげている
そのあいだはめつむろうとするが
むなしく催涙性をふるうだけだ
すべてあいだは伸び縮みして
地吹雪のちりめんを織りあげる
だからすきまをとびかっているのも
ただすきまに似るものではないか
みれば並行がくったくしている
並行であることがさいなまれている
わたしたちの髪ならすじをながし
すみやかにまだらのゆきで湿られて
ゆきよりもよわいリフをする
かんがえないとかんがえながら
あるきつつおもうからだのすきま
どうじに二頭の馬に乗りうる神性が
くらいゆうべをとおざかってゆく
はなれだす軌道がそのまま世をひろげ
電線にはありえないおうぎをひらく
わたしらの迂闊な隙をおきざりに