ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

 
 
【階】
 
 
階段のなかみはなににあるか
ふみづら裏か蹴あげ裏にあるとして
いずれ不敵にわらううつろだろう
階段はおなじばしょのあらわな自乗
なかみが刃物となる想像でもある
のぼることがおりることになる
えっしゃーのだまし絵がすき
まえからみあげるとじゃばらで
ひとののぼりおりをあま噛むから
どの家でもそれはかいぶつの
おもいでにひらけた歯列なのだ
そとにくちやさけびをだした
くらい反階段のたてものならば
きざまれるきざはしが譜のかわり
うたを宙にうかばせるちからは
列そのものの波打ちからうまれる
みろ外階段をつうじたてものが
きむすめのようにほそながくなる
地階への跨線があふれだして
どだいが土の屑をねじりあげる
 
 

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2015年03月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【青】
 
 
水をこぼしつづけるしごと
そのようにからだも渓流となって
うごく奇異を月あかりへしるす
まんげつにちかづいてきて
なにかあおいものを岩が欲し
おとの領域にあおさをこぼすのだ
よい音がよいひとのきぬずれ
よいかたちならばいつも変化で
つきのはらにするあやとりの
ゆびのとおさに似ているだろう
からだをあおくゆびにわける
ひらいてとじて裂け目をつくり
一体をひとにも約言させない
おまえはおもうことがないのだろう
いっそ月あかりのしごとをごらん
立往生は見かたによれば蛇口
この世にも開閉があまたあって
うら地のあおがほとばしっている
ぬれた魚籠の眼をそれらへ組んでも
うちがわすらその眼がかこめない
 
 

2015年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【欄】
 
 
まるく独立させると
ようをなさぬものとして
ひとつの木橋はあるだろう
はるにはうかぶものが
あまたあふれだすが
わずかな桁すらかすんで
まなかにねむる犬を
しずかに置くようになる
かおをなす川のうえへ
みずのめだまをかさねて
ふる橋はみずからのまるに
せまく犬をはさみこみ
ただほそめてはふじいろに
その息も微風へとかえた
橋のかかりにきのうがみえ
わたりがたちきられると
おばしま、今にいう欄干も
走馬のようにまわるのだ
あかるむすべては犬の
ふじいろの寝息とともに
 
 

2015年03月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

鮎川賞選考対談&輻

 
 
「現代詩手帖」四月号、北川透、吉増剛造両氏による、鮎川信夫賞の選考対談を読む。おふたりのものすごい思考エネルギーにひたすら敬服した。候補にあがったすべての詩集・詩論集を精緻にかたりあい、そこから詩の現在をものすごい迫力でひきずりだしている。たまたま拙著『換喩詩学』が詩論集での受賞決定となったものの、なにか宇宙開闢にともなう回転ののちにそれがなされた感がした。畏怖した。
 
ぼくの提起した換喩に「息」を読んだ吉増さんの感覚がすばらしい。いっぽう北川さんは、現在の詩における換喩の横行をみとめつつ、直喩・暗喩も往年の形成力を自壊させ、すがたをかえ、たんなる貶価対象にはできないと明言している。そのうえで拙著の象徴的な時事性を称えていただいた。
 
ぼく自身がびっくりする卓見があった。ぼくの詩論には「イメージ」ということばがない、と北川さんが指摘なさったのだ。それがたぶんぼくの詩作と詩論の相互性を解き明かしていると当人としてはおもう。つまりもともと像の形成のうすいぼくの詩作が、ぼくの詩論を枠どりしているのではないか。この件は今後も自己検証しなければならないが。
 
換喩一辺倒ではないぼくの立脚は、ぼくの「受賞のことば」にあらわれ、またこの号に同時掲載されているぼくの詩論にもあらわれている。杉本真維子さんの『据花』にかかわる小特集があって、そこに収録詩篇「川原」をぼくが考察した文章が併録されているのだった。フェイスブックでの12月のポストを、二文節ていど落としたものの転載だ。
 
いまならこう書く。杉本真維子『据花』は拙著『換喩詩学』が提起した「散喩」にかかわりがある――しかもそれは感情と語調によって奇蹟的に生じた「つながる散喩」なのだと。「味読」アプローチのしかたを、すべて「再編」にもっていった自分の方法は、その意味でこの詩篇にすごく合っているとおもう。
 
おまけとして、今朝書いた詩を下に貼っておきます。タイトル「輻〔や〕」はツェラン的な語彙のひとつ。
 
 
【輻】
 
 
ふざいなのはたしかだけれど
だれがいないのかはっきりせず
いらえのない門扉にもたれて
ひとらの消えさりを背負うのが
ひざしにえらぶ姿勢だった
その家がまとう義旗のように
すこしはなれてはゆれる
そんな布としてあるいがいに
どう定住と非住のあいだへ
またがりをつけるというのか
肩と腋にふたつわけされて
うでのついているふかしぎを
とおくたかくかがけると
回転するものがいちどとまる
めのまえに春の輻がうかび
からだの置き場所も家にたいし
こんどは前輪をつくりなす
ふざいがうごくのはわたしゆえ
わたしまでもいないことから
背後の家があふれでてくる
 
 

2015年03月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

新著完成!

 
 
新著がとうとうできあがりました。本日、一冊だけ手元に届いて、学内各所への納品分は週明けまでに届く由。またもや年度内ぎりぎりセーフの、薄氷わたりでした。

概要は以下。

『平成ボーダー文化論』 阿部嘉昭著 
水声社刊 発行日2015年3月25日
四六判437頁 4500円(税別) 装幀・宗利淳一

【オビ文言】
「平成」の不気味――
衝撃の日本文化論

1989年におこった大小さまざまな事件をもとに、犯罪、メディア、若者、音楽、写真、女性、アダルトビデオ、マンガなどについて縦横に論じ、「平成」という時代を裏側から考察する。

ままならない
時代について


【目次】
序章 一九八九年論  9
第一章 もがく仕種の可愛さこそが――「不快の快」時代の魅力的な身振りだ  41
第二章 「死にたい」と「殺したい」のあいだ――「十七歳」の犯罪について  59
第三章 全体化の虚偽、現代的自殺――入間市「ネット心中」事件について  113
第四章 「稀薄」がキーワード 二十代はデュシャンの泉?  135
第五章 人界を穿つ闇――三角みづ紀『オウバアキル』書評  141
第六章 境界が溶けてゆく――太陽肛門スパパーン『馬と人間』について  147
第七章 一点に心を集めて小さくなってゆく――九〇年代後半のゆらゆら帝国について  203
第八章 ロボットと性  255
第九章 「小さな画面」の不如意を慈しむことについて  271
第十章 写真都市彷徨  299
第十一章 世界は一人の女に集約される  325
第十二章 ネット時代の書簡  343
第十三章 ドキュメンタリーとしてのアダルト・ビデオ  375
終章 境界突破した身体がそれじたい境界化する――あとがきにかえて  419

初出一覧  433

大学サイトに書いた自己PR文も貼っておきます。

「境界」をキーワードに、社会事象とその周辺文化をかなりスリリングな手法で分析しました。一見、社会学かサブカルチャー研究の趣がありますが、アカデミックな手法、着眼が分析の端々に入り込んでいます。平成の年号成立以来の「若者文化」の変化と不変性を考えるのに好適な、ポップな本になっていると思います。
 
 

2015年03月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

北野武・龍三と七人の子分たち

 
 
【北野武監督・脚本・編集『龍三と七人の子分たち』】
 
 
北野武監督の新作『龍三と七人の子分たち』は見事な混色の交錯する、上質なコメディだった。コメディのポリフォニー的な雑多性というのは、もちろんヴァイオレンス提示の呼吸に長けた北野武監督の、もうひとつの厳然たる個性だが、これまでの『みんな~やってるか!』『監督・ばんざい!』『アキレスと亀』では夾雑物としての畸想が猖獗をきわめ、作品ぜんたいをとらえがたい不条理の運動体にしてしまうきらいがあった。部分がギャグ単位として存在していても、加算できないその全体が作家的な不機嫌を印象させたということだ。
 
今回の『龍三』(以下、作品名をこのように略記することがある)では混雑そのものが正作動し、作品細部に有機的に浸透、作品が「生物」の表情をたもちつづける。ある種の付帯効果まで発揮される。それが親鸞のいう「還相〔げんそう〕」の、叡智とやさしみだろう。
 
元ヤクザ、いまは規格はずれ、厄介で、ひたすら脱力をおぼえさせる老残たちの、風合いの壊れといったものが、画面に「なにかべつのもの」を通行させ、その乞食的なボロさが、もっと手なづけがたい「若い世代の悪」の活力までをも低下させてゆく。作品の第一原則はこのように「照応」だ。
 
そう、「ともに」「ボロになること」がたぶん作品のもつイデオロギーで、それに浅草軽喜劇-松竹喜劇映画ラインのギャグが緊密にからむ。これらはエキゾチズムに還元できないものだろうから、結果、『龍三と七人の子分たち』は北野武のフィルモグラフィ中もっとも海外で承認のむずかしいものとなるかもしれない。ところがその逆説にこそ栄光をかんじる。
 
興行的にはあたりをとった『アウトレイジ』二部作が微妙だった。とくにその正編。利得集中のために「身内」に相互の噛みあいをしいる組長・北村総一朗を頂点に置いた『アウトレイジ』のえがいたのは「誤作動の体系」というべきものだった。カフカ的リアルとボルヘス的物語を期待させるこの結構が、喜劇としてではなくただ暴力劇としての表情に落ち着いてしまったのはなぜだったのか。
 
ひとつの起因は俳優価値の蕩尽だろう。TVドラマなどでは美点をとらえられている男優たちが、次々に惨死をしいられる。死屍累々。しかも「残酷」が点綴されたあとの余韻までそっけない。作品は暴力と、ヤクザ服の白黒によって美的な単一性に統御され、「混色」があらわれなかった。混色はむろん価値が転覆する前兆なのだが、それがなく、意味上は価値が転覆している組長・北村にまで遡及がはたされなかったといっていい。ところがこの点が不問に付された。
 
『アウトレイジビヨンド』では裏切りの応酬がさらに強度を湛え、半面、脚本上の作劇からも「因果の糸しばり」がゆるんでいった。この二連作はヤクザ映画の範疇にありながら(その画面はつややかだった)、物語の生産面ではヤクザ映画に似ていず、要約しがたい現代性を誇るものだった。
 
『龍三と七人の子分たち』の大筋は、引退した老残ヤクザたちが社会の荷厄介になっているところを自ら奮起、チーマーが表向き会社を組織した恰好の「京浜連合」、そのシマの奪還をくわだて、最終的には京浜連合のなした諸悪にたいし殴り込みをかけるというものだ。老人ヤクザたちが組織する「一龍会」はギャグで地元ラーメン屋「一龍」との混同を果たされるし、その構成員も題名通り、最終的に仲間にくわわる妄想的・似非右翼の小野寺昭をくわえ、「七人」だ。つまり数量的に「うすい」。
 
むろんこの「七」は作中で言及される黒澤明『七人の侍』の「七」のような相互扶助性と個別背景の軋みをほぼかかえていない。だから、題名の構造は「白雪姫と七人のこびとたち」に似ている。それで案の定、中心にいる龍三=藤竜也が「白雪姫」化する。いっぽう経済ヤクザ風の西=安田顕をトップにいただき、対立するはずの京浜連合も、現代的なビル社屋に拠点を構えるものの、その構成員とシノギの方法が「うすい」。
 
往年、社会の巨悪に老人たちが殴り込みで挑む篠崎誠監督の『忘れられぬ人々』があった。そこでの「巨悪」にはオウム真理教的、多形的な陰謀内包性がもちこまれ、老人たちの「正義」が作劇上正当化された。『龍三と七人の子分たち』はちがう。「悪」はその失敗、遂行力の不全により、「なつかしさ」とむすばれているのだ。つまり現代的な悪の領域侵犯性にたいし、ありうべき悪のよわい自壊性が逆定位され、作品はその分別線を示唆する挙におよんでいる。「ありうべきもの」が「ありえなくなっている」現状への慨嘆までふくまれているとすれば、『龍三』の社会性のほうが批評力を潜勢させているのだ。
 
なにか抽象的な物言いばかりがつづいた。具体的な書き方をするなら、「声」の問題が最初にあるだろう。男の怒号と銃声の連続によってつよさの音響体系を築いた『アウトレイジ』連作にたいし、『龍三』は発声の繊細さの内宇宙をやさしくにじませてくる。美男でありながら不思議な泣き目をもつ藤竜也は、同時に声のよわさにつややかさをもつ得難い存在だ。藤竜也は善意の作品ではなく、日活ニューアクション、大島渚の「愛」二部作、黒沢清『アカルイミライ』まで、作劇上の「臨界」にふれたときに、声のつよさではなく声のしずかさで、つややかな一定性を代置し作品を身体化させる。
 
この藤竜也の資質が、作中の諸俳優に分有される。ヤクザ時代から藤の兄弟分で、家族に去られ廃墟めいた集合住宅でひとりぐらしをするマサ=近藤正臣が、藤と同等の発声特性をもつ点には驚愕しなければならない。この声の抑制は、じつは敵方の首魁、安田顕のふんする西をはじめとした「京浜連合」の面々にもおよんでいる。なるほど作品には怒号もあるのだが、それがよわさの倍音をゆらめかせるのには注意しなければならない。
 
『アウトレイジ』連作では色気ある男優たちが惨死をもって蕩尽された。それにたいし、『龍三』では俳優は徹底的に「温存」の庇護下に置かれる。たとえば「薀蓄」ジジイとしてバラエティ番組などでイメージ定着されているだろう中尾彬は、この作品では近藤ののち藤のもとに結集する子分と結果的にはなるのだが、昭和モダンで洒落た紳士服に身をつつむ。その彼は、現在の悪としては「失敗つづきの寸借詐欺」をあてがわれている。
 
中尾は監督北野武から禁則をうけているはずだ。「極妻」時代、あるいは『アウトレイジビヨンド』でも怒号をまきちらした彼は、デフォルメのかかった口許の歪みを演技上、抑えられ、半面でその肥満体の滑稽を即物的に強調されるのみだ。しかもどこか気弱という性格が設定され、「一龍会」で便利屋的な使い走り役をしいられる。
 
じつは死の横溢した『アウトレイジ』連作にたいし、この『龍三』中、「具体的に」死ぬのはこの中尾だけなのだった。拉致された娘・清水富美加の奪還をこころみるが、京浜連合の手にかかって返り討ちされる恰好。そうでなければ殴り込みの作劇が起動しないから中尾が死ぬのだが、京浜連合の社屋に潜入しようとするときの衣裳迷彩が、ラーメン屋「一龍」のギャグを継承し、周富徳ふうの中華料理人の恰好に岡持提げというのには笑った。「似合う」のだ。むろんマフラーの「彬巻き」を高踏派的に決め込む中尾への、北野武の「批評」がそこに介在している。
 
この中尾は死んでも蕩尽されない。京浜連合にうけた死の暴力の痕跡が死体として画面に一旦定着されたあとも、なぜか殴り込みの一員として劇中使用された車椅子に鎮座されて加わり、しかもなぜかすべての「標的」となるのだった。七人の子分中、手許のよれたマック=品川徹(スティーヴ・マックイーンにあこがれた銃つかいという設定からこの役名がある)の銃弾も、往年の釘投げの名手ヒデ=伊藤幸純の釘も、座頭市まがいのイチゾウ=樋浦勉の仕込み杖もすべて敵弾からの楯の位置にいる中尾を攻撃してしまう。いっぽう敵の攻撃も一龍会の老人の面々に届かず、すべて中尾を対象としてしまう。つまり攻撃は不可能、というゲームが中尾を明示して作動していたのだった。
 
むろん死体損壊がそこに付帯するのだから北野武=ビートけし風のブラックギャグともそれはいえるのだが、注意しなければならないのは、暴力がここで緊密に誤作動と関連づけられている点だろう。もっというと、ここでは「不可能性こそ倫理」という逆転がある。
 
殴り込みは当初、二面作戦だった。特攻隊の生き残りを「妄想」、飛行機操縦のおぼえもある右翼かぶれのヤス=小野寺昭の滑空によりセスナ機で京浜連合の社屋に突っこみ、生じた混乱の隙を残りが突いて、京浜連合の本丸に迫るというものだった。民間飛行場でのセスナ機強奪には成功するものの、小野寺はなぜか大空に開放されると「海をみたい」といいだし(つかこうへい『熱海殺人事件』の示唆か)、やがては停泊中の米軍航空母艦を港に発見、往年(しかしいつの往年か)の血がさわぎ、「特攻」対象を強引に変更しようとする。俳優が右翼大物邸にセスナ機で特攻して自死したむかしの実在事件が「9.11」テロ的な規模拡大へと移行しようとする雲行きがあたえられるが、なんと小野寺は当該空母に平穏裡に「着陸してしまった」事後譚が間接的にしめされ、一切はギャグのなかに再定着する。ここでも「暴力はほとんど不可能」という作品法則が、暴力の予感を吹き払ったことになる。
 
不可能が予感を払拭するというのは、じつは数学的な命題証明とかかわるのかもしれない。北野武=ビートたけしの数学好きは有名だが、そのギャグの特徴も数学的だった。というか、ギャグはもともとすぐれて数学的なのだ。ネタばらしにならない程度の暗示性をもって、展覧されたギャグの「質」をふりかえってみよう(最大に見事な、カットとフレームを数学的に構成された「左右」ちがいの位相ギャグや、狙い馬券「5・5」のギャグについては、観客の鑑賞時の愉しみのため、ここでは秘匿する)。
 
まずは漫才に基盤を置くたけしの感覚では、ギャグは「振り」「落とし」の二拍子となる。上野公園の西郷隆盛像のまえに往年のヤクザ仲間が葉書の呼びかけで次々に結集してくるくだり。イチゾウの登場は、そのロングでの風貌からして「場違いな」座頭市写しだと知れて笑いがふきだすが、そこで彼の「還相」状態をしめす「あるディテール」がカット転換の二拍子で上乗せされる。
 
一龍会「構成員」となる面々は列挙により無駄なくリズミカルに展覧されるが、メンバー加入の呼びかけは藤竜也に届いている年賀状住所から中尾彬が宛名書きした葉書によってだった。それで上野の西郷像のまえには「ふつうの」藤の小学校時代の同級生までもが「上乗せ」される。しかも100歳を超える小学校時代の恩師までもが「ここに」向かっているという。この設定も見事な間歇リズムで、さらなる笑いの決着をみる。
 
藤竜也と近藤正臣のあいだでは、往年の「賭け」の風習がいまもつづく。蕎麦屋を舞台に、その賭けにより客が恐慌におちいるくだりも笑えるが、そこで西郷像にちょんまげがあるか否かでふたりのあいだに賭けがなされた往年の挿話が披瀝される。この伏線もまた、「間歇」「加算の図像」をもって笑いのうちに解決される。いずれにせよ、加算に間歇がからむ今度の北野武のギャグの創造力は、シンコペーションの余裕があった。
 
結集した「一龍会」構成員候補のうち、だれが組長になるかでは、加点方式で判断されることになった。麻雀の「飜〔ファン〕」のような計算法で、そこでの数値は懲役年数、殺害者の数、罪の重大さなどから吟味される。計算は暗算するには複雑で、串焼き屋の店主・芦川誠が臨時の計算者役を強制される。計算結果はマス目を利用されて勘定書きにしるされ、しかも他の客を憚って、芦川は「殺し」などを「ハツ」(だったか)などの串焼きメニュー名に置き換えて発表する。この置き換えにより、構成員の「戦績」が完全に「串焼き注文メニュー」になってしまう。ここではベンヤミン的な命名過剰が、ルイス・キャロル的な置換過剰へと変貌するのだが、むろんこの変貌にも数学性が連絡している。
 
置き換え=代入。チャプリンからハワード・ホークスにまで広範に展開されたこのギャグの伝統に北野武は忠実だ。たぶん脚本を書いていて上機嫌になったのだろう、北野はベタな女装ギャグまで作品に加えてしまう。藤竜也がヤクザ時代懇意にしていたバーのママ、萬田久子の饗応をうける。萬田は色気を発散させ、一龍会の面々から藤のみをのこし、仕事後、自宅に誘う。部屋にはいって藤にどんどん脱衣を依頼、背中から上腕、腿にまでわたる藤の龍の刺青に、発情して頬寄せる萬田。
 
ところが萬田の現在の愛人は、京浜連合の首魁・西=安田で(世界が狭い)、彼が部下とともに予想外に萬田のマンションに入ってくる。多勢に無勢。ほぼ裸のまま風呂場に緊急避難した藤は、とりあえず風呂場にある萬田のものを身につけ、こっそりとその場を立ち去らなければならない窮地に追い込まれる。このとき彼が臍下までしか丈のないムームーをつけ(それでパンツの尻が丸出しになる)、しかもアタマにはシャワーキャップまでかぶり、赤いハイヒールを履いて、こそこそ夜の街を通過しながら、オカマに罵倒される試練までうける仕儀となる。
 
これもギャグなのだが、逆方向の付加もある。大島渚「愛」の二部作で観客を魅了した藤の裸身のうつくしさが、いまだ加齢した藤に健在だと確認できる余禄があるのだ。ここでも俳優は蕩尽されず、作劇へ参入させながら余栄を付加されるあたたかい複合が生じている。
 
もともと加算の本質は「配剤」だろう。いまだに男ぶりを発散する藤はともかく(ところが女装のやつしはいま述べたように存在した)、ほかの一龍会のよれよれの老人面子は、その「よれよれ」により可愛いのだが(これをルイス・キャロル的な数学倒立の世界とよぶこともできる)、京浜連合の構成員、山崎樹範、矢島健一、下條アトムといった「敵方」も、そのよれよれによって可愛い。暴力が不能な作品法則は、彼らのチマい悪行も成立不能にさせる。山崎の絵に描いたように陳腐な「オレオレ詐欺」、辰巳琢郎写しの矢島の「浄水器&羽根布団の騙し売り」は、その成就手前で、一龍会の面々に対峙か囲繞させられる。
 
彼らは構造的に老人を恫喝できない。悪人なのに気弱なのだ。それで見る見る、トンデモない連中に直面していると顔から血の気を失ってゆく。この頽勢そのものが笑えて、これが老人たちの悪の旺盛さに反射する。つまりそこでは加算が対立物を和音化させる幸福が発露していることになる。
 
京浜連合のうち、ルックスにもっともよれよれを加味されている下條アトムの「味」が良い。彼が最も「不運な男」で、バスター・キートンに似る。車椅子を悪用して借金のとりたてをする彼は、当たり台に坐ってパチンコ屋で藤竜也からボコられるとばっちりをうけているし、その逃亡過程では、老人たちがジャックしている路線バスにみずから乗り込んでしまう。それでバスジャック場面の多彩性に色を添える。
 
『龍三』のバスジャックシーンは多彩さによって素晴らしいのだが、大森立嗣監督『まほろ駅前狂騒曲』の美点(予測不能性)とは立脚がちがう。安田顕らの乗るベンツを追うためジャックされた路線バスは、驀進チェイスをかたどりながら、この作品の「世界性の簡略さ=狭さ」を立証するように、やがては狭隘な道路へと侵入してゆく。ついには出店のならぶ市場の路地へ突入。追われるクルマはともかく、追うバスは出店の小間物を縦構図で画面へ派手に巻き散らかしてゆく。画面内に無方向につぎつぎ飛んでゆくのは、モノというよりも色=混色なのだ。
 
運動をとらえた歓びによって、色が乱舞するこの自然な成り行きからは、配色によってこそモノが実在する、セザンヌ的な芸術観がかんじられる。もともと暗色を排していた『龍三』では画家・たけしの「絵筆」は、このような動勢場面でこそ発揮された。この点で『HANA-BI』『アキレスと亀』とはちがう。クルマに渋滞と破壊をあたえる北野武の衝動は、『アウトレイジ』連作などにみられるように、『ウィークエンド』のゴダールと共通性があるが、今回のクルマの把握では、量化ではなくシンプルな加算だけが起こっていた。
 
作品のもつ世界観を最終的に回収するのは、人情派刑事として登場するビートたけし自身だ。二時間ドラマの松本清張ものとおもかげの似るこの彼の役柄だが、むろんその対偶に「一龍会」の老人の面々がいる。つまりこの作品では武/たけしの二面性は、『TAKESHIS’』とは異なり、伏在的だということだ。ほかに藤竜也の息子役の勝村政信が好演し(『龍三』は『菊次郎の夏』のように「休暇」設定から開始される)、鈴木慶一の音楽が見事なのも特記されるだろう。
 
編集面の二拍子リズム、並列、アップ構図の無媒介的な侵入など、北野映画の特質は温存されながら、その温存が中尾の死体利用のように、べつの世界性へと再編入されている。このことがこれまで北野映画を追ってきた観客に幸福感をあたえる。そんな傑作だった。ラストの科白のやりとりもいい。今回の出入りで、計算上は今度は俺が組長へと逆転する、という近藤にたいし、藤が「バカヤロー、そのときゃ〔出所時には〕俺たちゃ死んでらあ」といった応酬をする。希望を次代へ託そうにもその決起のときには「死んでもういない」という軽さ、あかるさ。これは『キッズ・リターン』ラストのやりとりの「変奏」ではないだろうか。
 
三月二十三日、試写会にて鑑賞。四月二十五日より全国ロードショー公開される。
 
 

2015年03月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【埒】
 
 
この世、ということばの幅は
とおく白木蓮などの咲く
かこいのひろさと照りあう
もんなかの公園でこの世へはいり
うるみをますかぜにつつまれ
この世をとけたくわたしはなった
もとよりおとこのしずくなど
けいしょうには要らぬものだが
肩においた手がその場からくずれ
おんなをふりむかせることはできる
いたのにいないこの感触によって
この世のシフターがあの世へかわり
この世をとけたわたしにはなった
らちを馬場のかこいとしたとき
ふらちがぶきみなふくみまでもつ
みえなさをもって了するのみだ
ふれたならばひどくぬれたと
おもわせるからだがばけもので
ふらちのわたしはくずれつつ
もくれんのしたを水難している
 
 

2015年03月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【眸】
 
 
まなこはただの対ではない
それらのひかるまわりに
なにかまだらまでちりばめて
すべてをうすあかりさせる
かぜのふきわたりにまむかい
かおのなかば透くひとらが
まちをしろくぬけながら
ながくたれるやなぎを予感する
ひとつのきせつごとに
立体のしつがちがうのは
みえずおおきなかぜの面〔も〕が
夢大路ともいうべき場を
そこここへ置きかえるためで
おおくあるかれるみちなら
そのはてもとおくのばされる
おぼえる春画はうつくしく
おうらいぜんたいを筒にする
ひとらのからだのうちそとにも
おなじなだらかさがとおって
はなぐもるまなこのうるわしさ
 
 

2015年03月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【猥】
 
 
くらげはいきもののりそうだ
からだのほとんどがみずで
うちがわとそとがわの
べんべつなどつけられず
みずにただようだけの
いのちをあたえられながら
ときにおおきなむれとなって
うみなかをよぞらにもする
ながれをただよいながら
くらげのうごきはただ内外を
みずでくつがえすことで
とうめいにとうめいをなびかせ
みずをこまかいひだにかえ
おのがなみだとわらいを
ふるえによってまぜあわす
かいこんの代表たるべく
みずの一点をしずけさでかこい
かたちならすかーとのはずが
おんなでさえなくそれでも
ひわいななかみをみせつける
 
 

2015年03月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

クリント・イーストウッド、アメリカン・スナイパー

 
 
【クリント・イーストウッド監督『アメリカン・スナイパー』】
 
 
撮影時に84歳だったはずのクリント・イーストウッド『アメリカン・スナイパー』は、またもやイーストウッド映画特有の「奇蹟」にいろどられていた。「9.11」同時多発テロを契機に、イラク攻撃を開始したアメリカの偽りの大義。そんなイラクの戦場を舞台に、ネイビー・シールズ史上最多、160人の狙撃殺害記録を打ちたてた「伝説」のスナイパー、クリス・カイルを主人公に、一種の伝記映画をもくろんだのだから、この映画が戦争賛美、イラク攻撃の正当性誇示、ムスリム蔑視などを内包した反動作品だと非難を浴びるのも容易に理解される。むろんそうした批判は映画とはなにかに想像が及ばない短絡にすぎない。
 
まず確認しておこう。イーストウッドの「位置」は変わらない。保守反動、南部的迷妄につらぬかれた男に照準をあて、「アメリカ人たること」の詳細を描出する。とりわけ『許されざる者』以来うかんでくるのは、いつでも「悔恨」だ。このイーストウッド的な「位置」を理解するのに有効なのが、たとえばランディ・ニューマンの佳曲「セイル・アウェイ」だろう。
 
ポップソングの王道をゆくドリーミーな楽曲と聴こえるこのシンガーソングライターの歌には仕掛けがある。アメリカにはなんでもある、そこは楽園だ、われわれはそこを目指すために大海を渡るのだと使嗾するこの曲は、シチュエーションをかんがえた途端に、暗然とした悔恨をはらむことになる。それは奴隷船を舞台に、奴隷商人が奴隷に語る=騙る擬似ロマンスを唄っているのだ。結果、「悔恨」はアメリカ人の身体を具体化しながら、内在的に炎上する。イーストウッド映画にあるのも、終始この機微なのだった。
 
この映画では敵でも味方でも、戦争(の武器)暴力による腕・脚の身体欠損が頻出する。腕などが途中で欠損しているイラク人にたいし、アメリカでは退役軍人たちの義手・義足の描写が連続する。欠損に精緻な人工物が連接すること、これはなにか。たぶんイーストウッドの視野では、それが「物語」なのだ。
 
冒頭、反米ムスリム勢力が不気味に点在伏在する、戦火でぼろぼろになったイラクの街に、海兵隊が進軍してくる。その援護をネイビー・シールズがうけもつ。ビル屋上の高所に、銃座を設営するクリス・カイルとその戦友。やがて建物から母子が出てくる。ふつうの人間は、子ども、さらにはその子どもとともにいる母親を撃てない。ところが母親が対戦車手榴弾を子どもに手渡すのをクリスの眼が照準器ごしにとらえる。撃てるのか撃てないのか――この葛藤のさなかに、クリスの前史・形成史を展覧させようと、映画はおおきなフラッシュ・バックをこころみる。
 
えがかれてゆく「物語」はシンプルで、その理解の容易さがほとんど人工的と映る。テキサス出身のクリスが、父親から狩猟の手ほどきを受ける。ひ弱な弟をいじめた相手にたいし、兄クリスがおこなった容赦のない報復を、父親が男の勲章とたたえる。カウボーイにあこがれるクリスがロデオ会場で暴れ馬への優秀な馬術を披露する(ここに一瞬、往年の『ブロンコ・ビリー』の影がはしる)。クリスの恋人の浮気。クリスのあらたな得恋。その相手が「9.11」での災厄映像に衝撃と悲嘆の声をあげ、「短絡的に」クリスは海兵隊に志願、やがて新兵訓練(ここでは『ハートブレイク・リッジ』の影がはしる)のなか、狙撃の腕前で、ネイビー・シールズの一員に抜擢される。
 
クリスの自己形成は如上嘘のように円滑にすすむが、それこそが「欠損」への義手義足=人工物との連接と等価なのだ。そこでは喪失の瞬間の痛みが不在の中心にただよっている。やがてクリスの狙撃銃を構える訓練中の動作が、そのおなじ動作つなぎで、ムスリムの母子へ銃を構える瞬間へと編成しなおされ、時制が冒頭へと復帰する。映画が手放すことのできない「信憑」にシニカルな貶価まであたえられる、この「物語じたいの呼吸」を見逃すわけにはゆかない。
 
最初の回想シーンで、注意喚起したいちいさなディテールがある。ロデオ会場から弟と帰宅する車中で、その車窓のながめがほぼ暗闇をかたどっているのだが、そこにうっすら、クルマと併走する「ありえない」黒馬の影がかたどられるのだ。回想シーンにおける物語進展の平叙性とは次元のことなる、いわばメタレベルから侵入してくる「ほんとうの実在」の影。おそらくはCGによるこの「無駄な画面付加」で、この映画の次元のたかさを確信してしまった。
 
回想シーンのもつ多義性は平叙さのなかにあって素晴らしい。たとえばクリスの弟へのいじめの挿話では、父親が人間=アメリカ人を三種類に分別する。「羊」「狼」「番犬」だ。自己への攻撃に無策な羊は単純な敗者、攻撃願望のみにとらわれた狼も倫理的な指弾をうける。すなわち理性をつうじて羊をまもる番犬にしか存在価値がない――そう語るクリスの父親は、じつは短絡的な世界観の持ち主にすぎない。敵が出現しなければ遊牧地にあって番犬が、草を食み遊動する羊たちよりも無為におちいることが見逃されているのだ。この「番犬の無為」も、この映画の間隙を埋める基調音となっている。
 
新兵訓練でクリスの狙撃の腕前がみとめられるくだりも映画的だった。クリスは静止的な的を外す。訓練官が揶揄する。ところが気配をクリスはいい、べつの射撃をおこなう。するとガラガラ蛇が被弾して蛇身をひくい空中にひるがえす。幼年期からの狩猟の腕前に自負のあったクリスの言――「(生きていて)うごく的は外さない」。昆虫の動体視力のようだ。これには逆元がとれる。「照準器にとらえられても、その的が生気を帯びず、不動ならば撃てない」と。すなわち神性を把持するものをクリスは撃てない。
 
当面のムスリム母子ならどうだったか。母親が子どもに対戦車手榴弾を衣服の影から手渡す。子どもがそのまま走り出す。クリスは撃った。斃れた子どもから母親が手榴弾をさらに引き取り、戦車にむかって走りだす。投擲する。しかしその瞬間をクリスは撃った。投擲は逸れ、戦車の手前で手榴弾が爆発、米軍に被害は及ばなかった。この一事から、クリスの「伝説」が開始される。「うごくもの」を撃つことは、子どもを撃つという禁忌をも超える――これが作品の仕掛けた鉄則だった。
 
回想での新兵訓練のくだりでは、スナイパーの発弾にたいし、指導官からの「呼吸」の示唆もある。これもなおざりにできない。いわれていたのはたぶんこんなことだった。息を吸い、息を吐く――その中間に一切が静止的になる緩衝地帯=時間がある。このときにこそ、対象の不定のままのうごきがみえ、それが狙撃可能となる。絶対的な外部をしずかに確保することが、対象の内部に純銃弾を撃ちこむ条件となるのだ。よって狙撃手は狙撃に成功すればするほど外部化すると理解されてゆくだろう。むろんこれは「映画」そのものの立脚とかかわる。どういうことか。
 
現在のアメリカ映画では、とくにそれがVFXギミック満載、しかもショット単位がモーションコントロールで液状化していると、ショットの記憶が不可能になる。ショット転換も速い。アメリカ映画の大作はすべてそんな表情をしている。むろん日本映画のあらかたに較べ、イーストウッド映画のショット単位も経済的に高価だが、ショットの液状化を論理的にゆるさない映画ジャンルがあると知っている。筆頭が敵・味方を、距離の空間化によって描かざるをえない「戦争映画」なのだった。
 
イーストウッドが『父親たちの星条旗』『硫黄島からの手紙』の二部作で戦争映画をあつかったのは、たぶん正統アメリカ映画のもつ空間感覚の護持意識によるものだろう(この点では向かい合う家屋を見事に空間化した非戦争映画『グラン・トリノ』も閑却できない)。むろん戦争映画でもショットの単位性に濃淡がある。それが液状化に向けて頽廃の気配を湛えていたのがテレンス・マリック『シン・レッド・ライン』だとすれば、空間化そのものを眼中に置きつづけたのがサミュエル・フラー『最前線物語』だったといえるだろう。イーストウッドの範例はむろんフラーにあるだろうが(その傾向は硫黄島二部作からこの『アメリカン・スナイパー』にむけてさらに強化された)、さきの車窓からみえた黒馬の影にあきらかなように、戦争映画における不可視性についての哲学的な配慮もおこなわれている。これはのちにしるすことにしよう。
 
大体において、殺人鬼ではなく、機能的な殺人者をとらえる作品は哲学化する。三島由紀夫の短篇「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的な日記の抜萃」がどんなに耽美的な文章を誇っても哲学的なのはその結構による。殺人は、対象認識と対象否定の「回転」だが、結果、殺人を作動させた自身の「位置」の抽象性への考察を必然的にみちびく。そこにスナイパー映画の系譜が加わる。娯楽作にすぎないような堀川弘通『狙撃』でも、それをさらにバロック化させた大和屋竺の一連の殺し屋映画でも、哲学化は必須なのだった。ところがそこに、照準器内映像という、独特の映画的蠱惑がさらに加味されることになる。
 
狙撃名手の条件は簡単に定義できる。対象が感知できない遠点から、対象の死を作用させる、疎隔性の踏破がそれだ。最も不作為に似たものを作為可能にするのは、むろん銃の攻撃力と、眼を中心にした狙撃者の身体統御力だが、これを『アメリカン・スナイパー』は「呼吸」と規定している。これが可能なのが神性だとすれば、スナイパーは神のように呼吸する、脱身体的な存在にまで昇華せざるをえない。実際の殺しの数ではなく、この呼吸の質により、160人を撃ち殺したスナイパーがPTSDに陥るのではないか。
 
イーストウッド『アメリカン・スナイパー』でびっくりするのは、84歳の老齢者が演出したとはおもえないほどの「呼吸」の一貫性なのだった。イーストウッドはたぶん主人公、クリス・カイルの呼吸をそのまま生きたのだ。通常なら、老齢者の呼吸は乱れるか弛緩する。あるいは巧者ならば緩急の区別を誇示するだろう。ところが戦地と内地を往還する設定であっても、この作品の呼吸は若々しい「一気呵成」なのだった。一気呵成なのに、上述したように「しずかで神的な呼吸」がその奥底をながれている。こういう微妙な感触を映画で受けるのは稀なことだろう。ここにこそイーストウッドの「技術」がある。
 
むろん照準器内映像であれなんであれ、「視ること」に自然にともなう視覚性は、「世界が分泌する」「世界の属性」にほかならない。スナイパーにあたえられるのは、ほぼ水平方向の世界視線だ。この視覚をもたされると、スナイパーは、たとえば息子を生み、娘を生み、夫の身体と人格の変貌を案じる「眼前の」妻タヤの親和的な存在感を了解できなくなる。従軍から解かれて第一に帰宅するはずのクリス・カイルが、近隣のバーで酒をあおり、「すぐに帰宅できない」ようすを『アメリカン・スナイパー』がとらえたのは秀逸だった。
 
クリスの日常生活への視覚変貌はホームパーティで愛犬が子どもを襲う幻覚、あるいは病院にいる生まれたばかりの自分の娘を看護師がネグレクトしているととらえる幻覚のくだりに、やや明示的にあらわれるものの、視覚のゆがみなどをエフェクター処理でしめす愚をおかさない。クリス自身のアメリカ生活での視覚は、観客にとっての不可視性の域に置かれつづける。けれどもそれは「視えないからこそ」「視える」逆説をも発散しているのだった。
 
クリス・カイルは四回、イラクにネイビー・シールズのスナイパーとして赴き、四回帰国する。だから作劇の構造は平坦な往還にすぎない。むろん間近の戦友が敵の銃弾を受けてもクリスが強運に守られている点、スナイパーとしてのみならずクリスが探索兵として敵地に仲間と浸入するようすもとらえられる。勇敢にして平静(それは彼の家庭生活の基本ともなる)。
 
やがて作品は、狙撃手映画の定番をとうぜんに用意する。クリスと同型の、異様に狙撃能力のたかい敵のスナイパー(往年はオリンピック出場選手だった)の存在が徐々にフィーチャーされ、いわばその鏡面対峙のなかでクリスの「自己」が哲学的に問われることになるのだった。狙撃手は同型のものを媒介にしてしか存在規定がなされない。
 
第四回目の従軍、そのクライマックス――敵の勢力範囲のなかに、仲間を殺された海軍は、理性を逸したとばかりに侵入する。火中の栗となる恰好だ。クリスはビル屋上の高所に銃座を確保する。すると遠点から敵のスナイパーの銃撃をうけはじめる。そのことで敵スナイパーの「位置」を確認したクリスは、照準器をつうじて狙う方向に眼をこらす。無限遠点めいてとおいビルの屋上、干してある洗濯物の影にクリスは「うごく気配」をとらえる。「うごく」かぎり、その圧倒的な能力をほこる敵は「神ではなかった」。いっぽう無限遠点というべき位置から敵への作用力を確信したクリスは、逆に神そのものへと漸近している。
 
そこで狙撃をおこなうと自分たちの「位置」が、地上を支配している敵勢力全体に知れ渡ることとなり、一気に窮地に陥る。しかしこれは敵スナイパーを撃てる千載一遇の機会なのだ。躊躇を克服してクリスの放った銃弾は、『マトリックス』の銃弾処理の先祖がえりのように、シンプルな軌道をしめしつづけた。まるで渡辺謙作の殺し屋映画『ラブドガン』のように。
 
これからこの傑作を観るひとのために、敵スナイパーが被弾したか否かの帰趨はしるさない。ただ抽象的に、「鏡は割れた」とのみしるしておこう。その瞬間に鏡面破砕の結果のように気象が変わる。狙撃にまつわる視覚性の基準そのものが倒壊したのだ。砂嵐の到来により、あたりが大砂塵につつまれ、一切が不可視性に支配されてゆく。この不可視性のなか、本作で最もスリリングな脱出劇がえがかれる。みえないことが、ショットの存在論を凌駕してしまう転倒。つまり、『アメリカン・スナイパー』のすごさとは逆説性のすごさだったのだ。こうした作品の立脚を、おそらくショットの存在論などをかんがえたことのないマイケル・ムーアが、正義漢づらして非難したのだった。
 
作品の不可視性は、むろん「アメリカン・スナイパー」の心身の奥底を襲うPTSDの進行にきわまる。それは前述したように徴候的に現れるが、照準器で幾度も定位された世界の明視性のようにはしめされることがない。照準器内に世界の配剤と構図とショット喚起性があるのとは逆に、イーストウッドの世界観ではPTSDはしずかでひそかな脱明視性にさらされなければならないということなのだ。そして史実どおり、退官後の「伝説」クリス・カイルの実際の死も、テロップ一行の文字、つまり不可視性の域にのみ書きつけられる。この「呼吸」がすばらしい。
 
ちなみにいうと、「伝説のひと」クリスは、チャップマンに殺されたレノンのように、ボランティアで参加していた退役軍人会の「より明瞭な」PTSD罹患者に、理不尽に(あるいは因果応報的に)殺害されたのだった。何気ない日常だが、それが今生のわかれとなる妻タヤからとらえられた夫クリスのすがたが、可視性/不可視性の葛藤のなかにサスペンスフルにふるえていた点を、最後に付記しておこう。
 
三月十八日、丸の内ルーブルにて鑑賞。
 
 

2015年03月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【抛】
 
 
たたく棒が神的に球をたたき
おおきな抛物線がうちあげられ
その軌跡が空のただなかへきえる
うたれたものはいつまでも落ちてこず
内野すべてが暮色をかんじ帰っても
わたしら外野はずっと天をみあげ
守備位置をくずさないでいた
そのうちに天上こそ奈落と気づき
ときたま打席の神的なものまで
外野から遠望するしだいとなった
配置にはあけはなたれた門が
ふざいの敵軍や天やわたしらとして
ふくざつにつなぎあわされていて
わたしらがどこにたつのかも
じかんの前後によりわからなくなった
大飛球のときは天がうつわであるかぎり
しずかにとまりそれじたいを時熟する
わたしらの守備はうごかぬままに
たがいのへだてをふくらませてゆき
ほこりっぽい幾春かがさらにめぐった
 
 

2015年03月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

松永大司・トイレのピエタ

 
 
【松永大司監督『トイレのピエタ』】
 
 
昨日試写で観た、松永大司監督『トイレのピエタ』がすごく良かった。将来を嘱望された画学生が、美大卒業後、なぜか生きる意欲を失ってビルの窓拭きのアルバイト仕事に甘んじている。すべてが失われたままでいるこの20代の男はさらに余命三か月のスキルス胃癌とさえ診断される。死ぬまでになにをなしうるかにかかわっては、彼と偶然に出会った女子高生が影響をあたえる。けれども鮮烈な生命力をもつその彼女もまた、実際はふかい絶望のなかにいる――。
 
こう書くと、作品が難病物のジャンルに収まらないのは自明だろうが、かといって死の決定した人間がどう幸福な余命を全うするかといったホスピス物でもない(往年この分野には滝田洋二郎監督『病は気から・病院に行こう2』という傑作があった)。この映画は有限性をもつ者が他者のためになにをなしうるかを、真正面から扱っている。といって、黒澤明の『生きる』にも似ない。ひとつは主人公・野田洋次郎と女子高生・杉咲花がどう出会い、その交情が進展するかで「蓋然性」が徹底的に配慮されているためだ。
 
しかも死にざまをみせるという、ひとのなしうる直截なメッセージが、一種の消極性のなかに出現することで、作品のもつ倫理性にも微妙さがくわわる。端的にいうと、この作品ではダイイング・メッセージは「とどくかとどかないかわからない」一過性の閉所にのみしるされる。主人公の死の瞬間は描出されない。となって、杉咲花に、主人公のメッセージの場に立ち会わせる、スケベでノンシャランでいい加減な(しかも彼もまた絶望者だ)リリー・フランキーが、その伝達者の媒介性をもって天使にみえてくる逆転まで用意される。気づくと、この作品には媒介者が数多くいる。というか、すべての登場人物は、主人公もふくめこの作品では媒介者だという見解すら成り立つのだ。寓喩的な映画の傑作を、ひさしぶりに観た気がする。
 
ともあれピエタ(降架と母子哀傷)、天上画、それと主人公・野田洋次郎の、襤褸を着たイエスとの風貌の似通いにより、作品は聖性イメージを、たくらみのない画調のなかにつぎつぎと放出してくる。ところがそういった具体性以上に、宮沢りえまでくわえた「絶望者」のベン図的な集合、その最大重複の中央部分に抽象的な白光をおぼえるのが、作品の「聖画性」だという事後的な結論(判断)まで生じるのだった。ひとつの絶望はそれじたいだが、それが最大限に混ざれば希望に転化する。
 
作品名は明かさないが、その前に試写で観ていたのは満艦飾のギミックに彩られた「盛りすぎ」の作品だった(偶然そこでもイエスの寓意があった)。それに較べ、『トイレのピエタ』は高層ビルでの窓拭き作業にともなう屋上の描写から端的に開始される。道具立ては、ビル屋上の殺風景な詳細、ひとの配置、さらには空しかない。ところがひとの配置と作業場所が変化することで、映画がこれまであまり具体的に描こうとしなかったビルの窓拭き作業の手順が如実につたわってくるのだった。
 
この窓拭き作業に従事するすがたを、ビル内の画廊にいた主人公の元恋人が偶然に認める。窓がひらかれる。そこで「絵は描いていないのか」という問いが主人公へ発せられ、付帯的に主人公の属性がさだまってゆく。自然な経緯によって物語が作動しだすこうした感触は、監督・松永がみずから脚本を書き、俳優群をいかに自然化させるかに腐心した作業蓄積をも間接的につたえるだろう。
 
松永監督の才能は、「うごくもの」への注視により決定されたといっていい。胃癌で余命を明白に限定される主人公・園田=野田洋次郎の画学生時代、画帳やキャンバスにうごく彼の手は、回想シーンという間接性のなかでとりあえずつたえられる。
 
モデルを配した裸婦像の教室内デッサンで野田の画布にえがかれるのは、裸婦自身とともに、それをデッサンする、自分にとって離れた対面位置の画学生さつき(市川紗椰)だった。ひとつの主題が浮上している。絵画にとっての対象選択が本来は決定不能で、描かれる絵はズレを刻印せざるをえない、というものだ。
 
このシーンがあるから、園田とさつきの相愛成立がとつぜんしめされても説得力が生ずる。性愛行為の翌朝。園田=野田はベッドにまだ眠ったままの恋人さつき=市川の裸身をデッサンしている。やがてさつきが目覚める。さつきは裸身を描かれる恥じらいとともに、ふたたびの性愛を所望するのか「(デッサンを中断して)こっちへ来て」と懇願し、それを拒む園田に一種の悋気をしめす。裸身をシーツで覆い、「絵と私と、どっちが大事なの」という凡庸な問いまで発してしまう。
 
絵画の対象が心情をもち、その存在性が「移る」とき、絵画は瞬間を描くべきなのか移行を描くべきなのか。本来ならフランシス・ベーコンのように「移行の瞬間」もしくは「瞬間の移行」、あるいは「瞬間のなかの移行」を描くことで、肉の反転や溶出までもが把握できるはずなのだが、この時点での園田=野田はそうかんがえない。ただし観客は絵画が必須化する過程=つまり「描写」にたいし、野田が深甚な意気阻喪をおぼえた気配を間接的に察するだろう。いずれにせよ、作品は「画学生」にたいする「禁則」をちりばめ、それはこの後も作劇に点在してゆく。
 
画布にみずからの身体運動の痕跡を加算的にのこす絵画創作の営為にたいし、根源的な疑念をかかえてしまったこの主人公はなんの暗喩なのか。潜勢力と虚無の重複、その暗喩だろう。さらに描写がすべて自動性と自明性に支配されるべきだと彼が考えたのなら、じつはそれを実現しているのは、この主人公の存在しているこの映画自体のほうなのだ。すると彼は多くの芸術家映画(たとえばリヴェット『美しき諍い女』やエリセ『マルメロの陽光』など)の立脚とは正反対に、自分の存在する映画のなかで敗北者のおもかげをたたえていることにもなる。
 
観客はすぐに気づく。じつは窓拭きはローラーによる洗剤の塗布と、布による乾拭きが基本だが、それはそのまま画筆を画布に展開してゆくうごきと相同で、しかも結果が、定着と消去というふうに真逆なのだと。「拭く」「浄める」という動作で、絵画の実ではなく、窓のかがやきにむけて虚をえがくということ。そうなると窓拭き洗剤とはイエスを浄めたマグダラのマリアの香油とかようものなのではないか。余命告知され、即入院となった園田=野田洋次郎が、病院を脱出、深夜の商店街の、商店のガラス窓を、ローラーと布で「無償に」浄める痛々しいくだりがある(「商店」と「昇天」の同音)。園田はいったん帰った実家の窓をも浄める。彼はなにも有形をのこしていないが、画筆をうごかすような動作だけは継続させているのだった。
 
なんでもない動作に象徴性を付与すること。たとえば手のうごきに、虚実の双対性をおびさせること。窓拭きに終始する手のうごきによって、絵をえがく手のうごきが作品のクライマックスまで封印される。けれどもこうした「出し入れ」なら、作劇の計測から配剤できる。もんだいは、この水準の離反性におさまらない、「自明性」「自動性」による全身のうごきが作品内の別系統として展開されつづける点なのだった。これを受けもつのが、躍動感と絶望を「ともに負う」女子高生「真衣」杉咲花だった。
 
以下は俳優名で書く。とつぜん倒れた野田洋次郎の診断告知の際、野田は肉親の同伴を条件づけられる。ところが実際の肉親を呼ぶのが億劫な野田は、肉親の代役をかんがえる。それで元恋人・市川紗椰に頼み込んだ(野田は市川の個展にさそわれて一時期の連絡断絶を解いていた)。ところが医師によばれるまえに、市川と野田は待合室で口論となり、姉としていつわるはずの市川が病院を立ち去ってしまう。
 
このときサラリーマンと声をはりあげて口論を演じている女子高生・杉咲(彼女は制服が破れた代償金をサラリーマンにもとめている)を利用しようと思い立つ。杉咲にかかわる悶着を金銭で切り上げ(しかし要求の一万円にたいし千円が払われようとしたたけだ)、ともあれ杉咲はその見返りに急ごしらえの野田の「妹」となった。そうしてはいった診察室で、「杉咲とともに」野田は、医師・古舘寛治から余命三か月を告げられる。死の急迫。これがうごかしえない事実だとして、その事実に直面させられたのは、野田とともに杉咲だというこの作劇条件が見事だ。つまり野田と杉咲は相互にたいしての媒介者なのだった。
 
一過性の出会いだったはずのこのふたりに再会がおとずれるとき、計測されているのが、「これならば再会がありうる」という蓋然性だ。経緯を簡単に説明しよう。癌病棟には小児癌の児童たちもいる。彼らは注射の綿密な形態模写にたがいに興じるなど、振舞は無邪気だ。死の急迫をうまく了解できないでいる野田は、頭髪を抗癌剤投与で失っている子供たちの場違いなあかるさに馴染めない。ところが子供たちは野田になぜか一目を置く。うちのひとりが伝達者=媒介者のおももちで、病床の野田へ「宝物」をはこんでくる。ひとつは戦隊物のイラスト。もうひとつはショートケーキ。ところが渡し終わって子供が帰ったあと、野田は絵=イラストと絵以外=ケーキをひとまとめにして、病床脇のゴミ箱に廃棄してしまう。
 
ところが子供が「わたすべきイラストを間違えた」と部屋にもどってくる。ゴミ箱から拾いあげたことを子供に気づかれないようにしながら一旦もらったイラスト画をさしだすと、生クリームで汚れている。野田は微妙な言い訳をする。「ケーキで汚しちゃったから…」(だからゴミ箱にイラストを棄てた)と口ごもると、子供は微妙な言い回しで、野田の「罪」を救う。「相手先をまちがえたイラストを渡し」「しかもそれをケーキと一緒にあげた」ぼくがわるかったと。この救済の微妙さに野田はたぶん打たれた。むろん子供の無償性も浮上している。
 
子供への謝罪を行為としてしめそうにも、野田は病室を出られない。それで杉咲が再利用される(杉咲は取りそびれた制服弁償代を野田に払わせようと、ケータイ番号の交換をしていた)。杉咲が買わされたのは画帳と、その戦隊物のキャラクターデザイン集。杉咲は野田からの妙な依頼に不満を隠さないが、このときの再会がきっかけで、野田を「生の力」で挑発するようになる。エロスの誇示、罵倒しつつも野田を励起させようとする複雑な態度。しかも彼女の家庭では祖母が認知症をわずらい、母親が家事放棄をし、学校でも友達ができず浮いている惨状がかたられる。
 
野田が子供への謝罪をどうしめしたかをしるしておこう。彼はキャラクターデザイン集をそのままわたすのではなく、それに躍動感を加えて画帳に次々に創造的に転記、その完成物を渡して子供の歓心を買ったのだった(ところが画筆のはこびの描写は、回想シーン以外はクライマックスまで絵画行為をとらえないこの映画の法則のなかで、割愛されている)。子供の母親宮沢りえが野田の画力に驚嘆する。以後、宮沢も野田の精神に何事かをくわえる媒介者になろうとした。それで子供とともに野田をキリスト教会に連れてゆく。そこでピエタの彫刻があらわれる。
 
宮沢と野田との結末をしるしておくと、その宮沢の子は亡くなる。それで宮沢は野田からみた自分の子(の記憶)を絵に描いてほしいと所望する。このときも野田は「無理です」と拒み、本格的な絵画創作の再開にはいたらない。
 
野田にダイイング・メッセージとしての絵画創作をみちびいたのは杉咲花だった。それも「結果的にのみ」しるされ、ことばで説明されることがない。非礼ともいえる挑発的な言辞を、しかも怒鳴り声をまくしたてて全身でぶつけてくる杉咲は、その圧倒性を欠落が裏打ちしているとは一目でわかる。けれども作品は、情緒的にそれを当事者どうしに語らせる愚もおかさない。杉咲のしめす身体的なうごきのみによって、野田がゆるやかに表現をうながされる経緯を積み重ねてゆくのだ。このとき強調されるのが、「自転車を漕ぐ」「学校のプールで泳ぐ」、このふたつのうごきだった。
 
気づくとこれらのうごきには、「自明性」と「自動性」の双方が刻印されている。これらは三浦哲哉が『映画とは何か』で、アンドレ・バザンの再把握にもちいた鍵語だが、この映画ではそれが杉咲に適用されているのだ。「背の低い子にキスする時はどうするの」など、もともと杉咲はみずからの身体を「素材に」、ロリータ・コンプレックスがあると見込んだ野田を挑発していた。この段階では野田の消極性、無気力、無視をきめこんだ対応が画面に不思議な倫理性を刻印していた。ところが杉咲の「暴走」はとまらない。
 
白眉のくだりはふたつある。絶望と無精に染まった野田を、杉咲は熱帯魚店につれだし、野田が保証した制服弁償代金をまきあげて、その全額で野田が「これがいちばん好き」と語った何の変哲もない金魚を大量買いする。それを学校のプールに放ち、スカートの下につけているものだけ脱いで自らも着衣のままプールにはいり、「金魚とともに」泳ぐ。「死の急迫」を「ともにしめされた」杉咲は、「金魚の生のうごきとともに」水を回遊する恰好で、画面はよろこびに躍動する。むろんスカートのなかにあるものが泳ぎ「とともに」露見する気配をも、泳ぎのなかで野田に挑発している。
 
ただしこのときの映像のながれで注意されるべきなのは、記録映画の編集のようにカットが連接されていて、その連接法則にこそ、「自明性」「自動性」が揺曳しているという点だろう。それこそが余命を限定された野田の絵画創作が目指すもののはずだ。いわば野田はアンドレ・バザンに真に伏在する圏域に導かれて、芸術映画の主人公としての賦活に向かっているのだった。二元性を破壊された絵画/映画の双対性。結果、ラストまでゆるやかにこの作品は、『美しき諍い女』や『マルメロの陽光』の境地へ巡礼することになる。
 
映画がうごきのままに絵画になること。さらなる端的な例は、プールに金魚を放ったことが露見した杉咲を、ひとりの男子水泳部員が海パンだけの姿で追いかけるくだりだろう。町なかにはいってもふたりは自転車でデッドヒートを演じていて、それを教会から帰る途中の、宮沢りえ、その子供、野田が車窓にみることになる。懸命さが可笑しい名シーンなのだが、子供も笑う。このあとに子供の死がしめされるのだから、それは子供が眼にやきつけた外界の最後の光景だったはずだ。視覚が恩寵となること、しかもそれが人界のバカらしさを漂わせていること――これらの「意義」はふかい。この作品ではすべての登場人物が「媒介者」だとしるしたが、視覚もまたこの世の媒介物だという端的な真実がふかいレベルで語られていたのだ。
 
隠されている主題が「共苦」だろう。キスを挑発していた杉咲だが、実際に野田と杉咲のあいだにキスが交わされたとき、杉咲はなんといったのだったか。初キスを捧げたのだから、勝手に、なんの対抗策もなく死ぬのは許せない――そういったとして、それは「すべての営為は共苦の共同性へこそ接続される」という形而上学にまで換言できる。だからここでのキスは神学的なものかもしれない。たとえばイエスにくちづけたユダのそれのように。
 
具体的にはしるさないが、こうした共苦の昇華(昇天)として、この作品の圧倒的なクライマックスがある。そこでは画筆が躍動しまくる。しかも、「この世の最奥」といった場所で。その場所に、杉咲が赴けるかどうかは野田のあずかり知るところではない。ところが「その地へのおもむき」を、前言したようにリリー・フランキーが「媒介」した。媒介や隣接性を信ずることはそのままに信仰や祈りだとおもう。そうした心情は描かれないが、死ぬ直前の野田に確実にあったはずだ。もうひとつ付け加えるべきなのは、この作品のリリー・フランキーは、これまでの彼の出演作のなかでも最高の部類に入る、ということだ。
 
主人公・園田役の野田洋次郎は俳優ではない。画家でもない。ミュージシャンだ。ロックバンドRADWIMPSのヴォーカル&ギター&コンポーザーで、演技者としてではなく存在者として画面に空気と最終的な力動をあたえている。いわばブレッソン的な「モデル」使用なのだった。この起用にも「自明性」「自動性」が息づいているのは、いうまでもない。
 
六月六日よりロードショー公開。
 
 

2015年03月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

換喩概念の拡張

 
 
数日前、ぼくがここ(FB)に書いた「減喩」についての文章のコメント欄で、萩原健次郎さん、一色真理さんおふたりの畏怖する先達から、神山睦美さんの卓見にもふれつつ、ぼくの『換喩詩学』での換喩の概念拡張につき、質問が出て、それにたいするコメントをしたためました。読み返すと、コメント欄という目立たない場所に埋もれているのが惜しい文章という気がして、あらためて下にそれをペーストしておきます(すでにお読みになっているかもしれないけど)。
 

 
萩原さん、一色さんへ
 
換喩は認知言語学の本では、「鍋が煮えている」などを例文に、対象の空間的なズレをはらむ一種の換言として規定されています。ただしそうした喩法としてのみとらえるなら、詩作とあまり有効な接続ができない。まずぼくがかんがえたのは、文はどんな原理でつながってゆくかということでした。たとえば言語学上の重要な概念のひとつに、「これ」「それ」「あれ」、あるいは代名詞(「かれ」など)のつくりだすシフターという機能があります。これは承前をうんで、文の連続に了解の厚みをおびさせる。このシフターがないと、文はすべて新規化の連続とならざるをえない。
 
認知言語学はもともと、場の共有によってその場の当事者にどのような了解がうまれているかの分析でもあるのですが、「鍋が煮えている」もまた了解の産物です。この了解があいまいな空間把握を許容している。それどころか空間の連続性そのものの原理ともなっている。強弁するならズレこそが厳密性にたいする救抜ではないか。峻厳化ではなく、空間の緩和。それで換喩を再考したのです。隣接性や部分性によって、自体性や全体性が置き換えられるならば、そのことだけを保証に文を連続させうる。となると、換喩とはひろがりの了解に向けて把握をくりだしてゆく発想そのものの原理ともなるのではないか。ここで換喩と、吉本隆明のいう「自己表出」とが、相似をえがくことになります。
 
もともとぼくも、暗喩の付帯させる空間的な膠着にたいし、自由に詩が進展できる原理を、「実作者として」模索していました。とりわけ、時枝言語学にいう「辞」の極小なままに照応だけが過剰機能している塚本邦雄の短歌と、アララギ的な「辞」の見事な使用により、空間がうるむようにひろがっている70年代の岡井隆の短歌とのちがいをかんがえて、暗喩vs換喩という対立をもちだしました。岡井隆の短歌は塚本とは異なって暗喩では括れず、しかもそこにやがて日録というかんがえまではいりこんでくる。これも人生という長い全体のなかでの、部分の裸出なのではないか。SNSが隆盛な現状なども勘案すると、実際に創作をうごかしている動機は換喩的なものだとそれでとりあえずは括ってみたのです。ただしぼくのやったことは、事象にたいする喩法の適用ではありません。「自由に書く」処方をしめすために、拡張概念的に換喩へ寄り添ったにすぎない。
 
詩作の自由をことあげするためには、ほんとうはその芯に存在するだろう倫理について言及する必要があります。ところが倫理を恫喝的に語る愚だけは避けなければならない。というのも、恫喝じたいが反倫理的なのですから。現在の男性の詩論の一部にいまだみられるこの傾向から、神山さんは見事に自由です。たとえば神山さんの中心概念のひとつ、「共苦」。文の連続において「すでにすぎていった」部分は、刻々と死にますが、その死にたいしあらたに書かれる部分が共苦し、この接合により、文を連続させることもできる。神山さんは博覧強記のひとですが、その発想力は換喩的で、ただしその換喩性には「共苦」が作動している。だからその倫理性も閉塞的にはならないのです。神山さんがよく引かれるベンヤミンの《ただ希望なき人々のためにのみ、希望はぼくらにあたえられている》も、換喩的なズレと、共苦の融合した、最適な文例ですね。ところがこのズレは、じっさいは倫理にたいして作動する。
 
写真はもともと換喩的だとロラン・バルトはくりかえしています。バルトがもんだいにしているのは、写真とくゆうの「うすさ」でしょう。どんなに全体をつかもうとしても、そこには「部分」だけしか写らない。ところがバルトはその限定こそに愛着する。撮りためた写真もまた間隙をはらみつつ「間隙を連続させる」。
 
映画の編集はさらに別次元の連続です。構図的全体と選択的部分を自由に往還する映画の編集は、文字どおり「空間の編みこみ」を実現させる。このことじたいに、じっさい観客は救抜されている。映画の編集(つなぎ)の多くは身体を基軸にして換喩的なズレを作動させますが、じつは映画で機能性を離れた効果を発揮するのは暗喩的なつなぎのほうだったりする。ブニュエル『アンダルシアの犬』冒頭の、「月と横雲」「女の眼球と剃刀」の連関などがそれにあたります。この次元では換喩と暗喩の峻別があまり意味をもてなくなる。むろん暗喩的なつなぎだけで一本の映画を発想するのは異常事です。換喩が機能性を信頼しつつ自己展覧をみちびく処方なのは、詩においても映画においてもおなじだとおもいます。
 
つらつら書きましたが、換喩をフィーチャーする利点は、このようなことにあるとかんがえています。もちろんこれは『換喩詩学』での展開を、「その後も」発展させてのものです。
 
 

2015年03月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【角】
 
 
こうごうしいやりくりは
さんかくトレードみたいだ
ひとつのいいまわしをうけると
それとはべつのいいまわしが
みしらぬたれかへ手わたされる
このやりとりをおんなにたとえれば
さんかくのかたちそのものが
いけにえをささげるすべになる
わたしらがみとおすのは
さんかくのなかみの
こうごうしいくうどう
すべてとどかないところにあり
交易であわくゆききする
あわくしんだ鮭などを
さんかくにてらしつくす
詩法をさだめ詩をかくさみしさ
ことばにも靄のみならず
くうどうをはらみこむ
つめたい角度のあることを
川べりや樹々のあいだで憂う
 
 

2015年03月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

エドワード・ヤン、恐怖分子

 
 
【エドワード・ヤン『恐怖分子』】
 
 
エドワード・ヤンの『恐怖分子』がデジタル・リマスター版として今度の土曜(3月14日)から、渋谷シアターイメージフォーラムにて公開される。86年製作のこの台湾映画が最大の引き金になって、ぼくは勃興しつつあったアジアン・ハードボイルドの虜になった。この映画のノワール感覚も、オーソン・ウェルズ『黒い罠』で純粋ジャンルとしてのフィルム・ノワールが終焉したあとの「あたらしいノワール」中、最大価値をしるしている。これほどうつくしい緊迫感にみちた作品はざらにない。未見であるとすれば、おそろしい損失だ。
 
しかもこの映画を観ると、東京国際映画祭に『クーリンチェ少年殺人事件』をひっさげて来日した往年のヤンの、少年的で人懐っこい風貌までおもいだしてしまう(ぼくは彼のインタビューに編集者として立ち会った――そのときもこの『恐怖分子』の話が出た)。怖いのに、この体験によって涙なしには観られない傑作なのだ。
 
ノワール感覚とはなにか。登場人物のだれにも心情的な肩入れをできずに、都市論的な不安がおりなす映画上の価値変転のうごきにこそただ蠱惑されること、とひとまずそういってみる。人物の内在性ではなく、人物間の関係性が、都市景観と不即不離でみるみる拡大、縮小、もつれあうことにこそ、「映画的=魔的な人格」が現れる。脱人間性、語り=騙りの優位、人間への冷笑、残酷趣味、冷徹な洞察力、ペシミズム、視覚性が心情を凌駕すること、異様な要約能力とそれに離反する謎や奥行、空舞台の特権化――そうした倒錯美が映画の進展法則を支配する。
 
フレデリック・ジェイムソンは、この映画の二通りにとらえられる結末、あるいは物語上の入れ子構造を睨み、映画の進展的分岐が、あるいは内/外が最終的に主従を「決定不能」である点に、ポストモダン性があると綴った。ただし細部の増殖によって映画が全体化されないまま、その不安な総体が観客を圧倒してしまうことは、ポストモダンをもちださずとも映画の傑作にはままあることだ。それはひとまずポストモダンというよりフィルム・ノワールの属性としたほうがいいだろう。
 
エドワード・ヤンが『恐怖分子』でしめした鉄則は、画柄細部のもつ主題性と、ストーリー形成の様相とが、不吉に一致しなければならないという厳格・数学的な自己統制だった。かたちとしては矩形が分散したり隣接しあったりする画面上の図像性を、あるかなきかのまま結ばれて破局へとむかってゆく人物群(パーツ)のパズル組み立て的・部分集合的な過程と相即させる点に、ヤンの作家的な野心が傾注された。画面細部はそれで変貌性の予感を湛えることになる。
 
矩形を列挙しておこう。主人公のひとり、薬品会社(だとおもう)に勤務する李立中のいる社屋を戸外から窓越しに捉えるフラッシュ編集の一連にまずそれは印象的に現れる。その後も、建築ラッシュの台北で、強化ガラスの外壁をもつ高層ビル(窓掃除の労働者がいる)、原稿用紙のマス目、李立中と女性作家・郁周芬とが暮らす洒落た間取りのマンションでの浴室への扉の開口部分、その浴室などのタイル、台北の不良たちが賭場を運営していたアジトの窓ガラスと桟(正面構図がくりかえされる)、李立中の勤務先の部長が手にもつスライド写真ファイル、やがて郁の愛人となる男の経営する会社の会議室の調度、整理籠、林立する映画看板などがある。そのなかでカメラ小僧が不良少女の顔を8×5だったかのモザイク細片性のままに巨きく拡大した写真の、不吉な映画性が語り草となっている(吉田喜重『血は乾いてる』での佐田啓二の巨大看板と類縁性をもつ)。
 
前提なく登場人物を語ってしまった。本作では主要な人物は四人いる。薬品会社の社員(課長昇進を画策する)・李立中、その妻である作家・郁周芬、母親にしいられた幽閉生活のなかで「偶然」その郁にいたずら電話をかけ、上述夫婦を破局へと追いやる不良少女、その不良少女が賭場のガサ入れから逃げる過程を撮影して一目惚れしてしまったカメラ少年(金満家の子息とやがて判明する)がそれら四人だ。付帯して李の親友の警部、李の勤め先の人間、さらには郁の往年の恋人で、離婚後、郁と仲を再燃させた会社経営者、不良少女と交友関係のある仲間たち、不良少女の母親、カメラ少年の恋人がいる。不良少女とカメラ少年、さらに警部などには役名があたえられていないが、それは組み立てられるパズルのパーツを無名性が侵食している証左ともなるだろう。
 
雑誌「カイエ・ジャポン」が正常だった時分(第二号)に、この『恐怖分子』と『クーリンチェ少年殺人事件』を抱きあわせにして長稿を書いたことがあるので、作品の詳細を掘り起こすことはしない。ストーリー上は、写真撮影やいたずら電話によって、通常は結びつかない諸階層の人物が、暴発的かつ一時的な紐帯をしいられ、それで破局が結果されるほど人間の都市生活が脆い、と理解してくれればいい。偶然の支配とさきにしるしたが、事態は「偶然未満」といったほうがいいかもしれない。「偶然未満」とは、必然の揺曳と、偶然にすらなりきれない未定性とが、合わされたまま分離できないということだ。エドワード・ヤンが肉薄しようとしていたのは、そんな「運命の感触」なのだった。
 
この運命の感触を、ヤンは人物描写に投影する。エドワード・ヤンの映画に可視限度より低い暗闇が数多く領することは知られているだろうが、「部分的な暗闇」にも彼は鋭敏なのだった。逆光構図は人物の輪郭をときにコロナ状にひからせたまま人物の内在性を闇に置き換える。あるいは可視限度ぎりぎりのロング構図が人物にたいして採用される。さらには人物の頭部をフレーム外に置く構図も頻繁に反復される。つまり人物描写を残酷な「限度」とふれあわせることにヤンの眼目が置かれている。なぜか。精神では統御できない、人間の物質性を前面化するためだろう。
 
久しぶりに再見して、見のがしていたことに気づいた。作家的なスランプに悩む妻・郁周芬が不良少女のいたずら電話を契機に夫の貞節に疑念をもち、それに拍車をかけられて旧知の編集者の男との仲を再燃させたタイミングで、夫に別れ話を切り出す。このときカメラ目線を繰り返す妻・郁の定位が奇妙なのだが、微温性の継続をもとめる夫にたいし、郁は、仕事がつらくて結婚により新たな生活の開始を試み、次には出産により新たな開始を、さらに流産後は作家生活により新たな開始を必死でもとめてきたと自分の生を総括する。最後にはいま切り出している別れもそうした開始のひとつなのだと夫に通告する。現状に安住できない妻の精神放浪があらわになって痛ましいのだが、ヤンは言外の真実を告げているのではないか。つまり、開始とは不可能なのだと。あらゆる開始はつねにすでに再開にすぎず、そこには倦怠が紛れ込むほかない――こうした哲学をヤンが披瀝しているようにおもえるのだ。むろんこれはポストモダンの文脈におさまる。
 
決定不能性はほかにもある。母親の支配から脱出した不良少女がほうほうの態で、かつての賭場(アジト)に辿りつく。不用心なことにかつて使用していた合鍵がその扉にいまだ適合する。部屋は暗闇。やがて灯りがつくと、悋気から文学好きのステディと別れたカメラ少年が、そこを暗室につくりかえて暮らしている。自分の顔がモザイク状の連鎖となって巨大に引き伸ばされている写真をみて、不良少女は気絶する。少年の看病によって、意識朦朧の少女はほとんどを眠りながら健康を恢復。起きたとき、何日経過したのかを少年に訊ねる。少年はわからないと応える。それどころか現在の時間もわからない。少女が「昼」だというと、少年は黒い紙の覆いの窓をひらく。外は薄明だから「昼ではない」のはたしかだが、ではそれが朝か夕かというと、それが決定不能のままになってしまう。暗喩的な解読ができるかもしれない。
 
この映画は結末が衝撃的だから明かせないが(それが嘔吐シーンであるとだけはいっておこう)、抽象的にいえば、物語の入れ子部分では悪夢的な進展がとまらない。すべて絶望した李立中の暴走によるものだ。その過程で彼は、ラブホテルでの盗みや、恋人との協働による美人局(ドアに貼りつけたチューインガムを目印にする)で味をしめた不良少女の「客」として、ラブホテルに赴く展開となる。このとき彼がいう。それはとりようによっては愛のことばだ。「きみに会ったような気がする」。映画がかたちづくる不安定な人物関係に注視していた観客は、彼が出勤途中のクルマのなかから、横断歩道にたどりつき気絶寸前の不良少女とすれちがったことをおもいだすだろうが、このときは人物を認知する視線など送られてはいない。李と不良少女は映画のメタレベルでこそ邂逅しているのだ。しかもそれが映画のはらむ入れ子内部中の科白だという点を勘案すれば、この愛のことばは、悪夢的発語と分離不能だとも理解されるだろう。
 
それにしても、視覚性だけでも物語の進展を効率的にしるしてしまう、無声映画作家的なヤンの才能はどうだろう。たとえばこんなくだり――
 
【骨折箇所を固めていたギプスを破砕した不良少女がはだかのうつくしい脚にジーンズを履く(頭部欠落構図)】【母親のようすを窺いながら卓上のサングラスとタバコを取る】【不良少女の娘を幽閉管理しているその母親は、暑気にあてられ、扇風機の風のなかで心地よさげに寝ている】【繁華街の路上をゆく不良少女】【いつの間にか夜となり、ものほしげにデパートのエントランスにいるサングラスの不良少女に「客」がつく(少女は男からタバコをもらうが、火付は拒む――この一事から少女はタバコ銭にも事欠き、売春が緊急避難だと知れる)】【ディスコでの(前哨戦的な)デート(80年代的なシンセドラムの鳴る軽薄なダンス音楽と『ナインハーフ』のTV画像を横目に、男をまえに気のないようすで踊る少女)】
 
【ラブホテル内、オフで浴室での男の鼻唄とシャワー音が聴こえ、少女が男の脱ぎ散らした衣服から札入れと札束を引き出すと、音声は相手のフェイクで、男が少女の挙動を監視していたとわかる】【男は着衣のままだった。ズボンからベルトをひき抜き、少女を恫喝する気配。余裕でタバコに火をつけた隙に、少女に刺されるが、殺傷動作、部位、血はみえない】【暗闇の戸外、ナイフについた血を新聞紙でぬぐう少女。そのナイフがワーキング・ジーンズの脛横のポケットにしまわれて凶器の出処が事後的に判明する】
 
【雨のなか、クルマが激しく往き来する幹線の、中央分離帯に立つ少女(またもや頭部欠落構図で開始される)】【歩道橋をのぼる少女。その見た目らしい気色で、台湾特有の丈高い街路樹が風で妖魔のようにゆれている】【深夜のバス車庫内、運転を待機中のバスに不法侵入した少女が咳と発熱に苦しんでいる(雨に打たれたのが原因。外は大雨のまま)】【朝になり、バスの運転が開始されている(後部座席にいる少女のジーンズの脚だけが部分的に見えている――運転手が気づいているのかどうかは決定不能)】【やがてかつての賭場アジトのそばを蹌踉とあるく少女が映される】
 
不良少女(劇中、「ハーフ」とされる)を演じた女優は、姿態は伸びやかで、いつも上に白をまとい、遠目には美少女の典型なのだが、微細にみれば視線がよどんでいる。そこからうかぶのは、自己保存の本能を形成できない、ぞっとさせるような無気力と魯鈍だ。だから動作個々がきらめいても、「好きにはなれない=感情移入ができない」。ところがヤンはその彼女に「流謫」の高貴をあたえる。骨折した足をひきずり、横断歩道で気絶した冒頭ちかくの彼女のすぐかたわらをクルマなどが無慈悲に通過してゆくし、いま起こした一連でも車庫のバスという絶好の居場所があたえられる。つまり「好きにはなれない」類型に、愛着が誘導されるのだ。このことが人物の感触を「決定不能」にする。
 
俳優でいえば李立中を演じた男が出色だった。その後の台湾映画でも李立中の俳優名で幾度か目にした男優だが、アジア的な無表情、陰謀の底意、存在の不吉さが、この作品のくらいタッチを最終的に決定づけている。むろん親友の同僚を踏み台に出世を画策するこの虚言癖の男(しかも彼は自分の理科系を理由に妻の書く小説に当初、興味をまったくしめさない)をもまた、観客は愛することができない。できないのに、たとえば画面にしめされた彼のさいごの姿は惻隠の念をもって、彼への愛着を誘導し、それで彼の存在の肌理も決定不能に陥ってしまう。ヤンの演出のすごさはこういう点に現れるのだった。
 
風の描写、「煙が目にしめる」の音楽使用などにみられるズリ上げ、ズリ下げの音処理など、ほんとうにヤンの才気のあふれる一作だ。
 
最後に、映画進展中、悪夢の入れ子となるパーツが、作家・郁周芬のしるした小説の具現化で、そのパーツと、その外側にしるされた描写との主従が決定不能になるというフレデリック・ジェイムソンの見解には瑕疵がある、と指摘しておこう。大袈裟で後知恵的だということ。まずカメラ少年の恋人の語る小説の梗概では郁は李に殺害されることになっているが、入れ子部分ではそうはならない。それとジェイムソンは映画の進展にしたがって観客が認知を重ねてゆく機微にも無頓着だ。つまり、小説の内容とずれる破局的悪夢が、映画の自動性として滑りだし、このことを映画じたいが不気味に自己体感している――そんなメタ的な衝撃こそを観客が味わわされるととらえたほうが良いだろう。
 
なお、『恐怖分子』上映中の午前には、ヤンの処女短篇「指望」をふくむ台湾ニューウェイヴの金字塔オムニバス『光陰的故事』も上映される。これも滅多にスクリーンで観られない作品で、ぼくじしん、NHK教育でOAされたものしか観ていない。ヤンのパートは、少年のかなしみがロボット的な動作へと転化する傑作だ。むろんヤン自身の幼年期の台北の空気を見事につたえている。
 
 

2015年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(2)

減喩

 
今朝まで女房がいて(短期間の滞在だった)、数日をまったりすごした。確定申告の書類完成のために来てくれたのだ。それ以外にも女房は諸事で多忙をきわめ、胃をこわしていた。それで胃薬がわりに大根を食べようということになり、かぐや姫の歌ではないが、おでんをつくった。
 
コンビニにはあるものの、石狩鍋の土地柄だからか北海道全般におでんが浸透していないとおもえる。練り物関連のおでん種がデパートにもあまりないことで、それがわかる。練り物では、小樽の「かま栄」という一大ブランドもあるのだが、あれは「じか喰い」需要なのではないだろうか。なるほど新鮮でぶりぶりして旨いのだが、ほのかに甘く、おでんに使用すると汁が甘くなる。ぼくは神奈川県で育ったので鈴廣好みとおもわれそうだが、おでん種では築地の佃權が贔屓だ。ただし最も好きなのは、佃權のはんぺんを刺身として食べることかもしれない。ねっとりとした山芋の舌触りが癖になる。
 
女房が傍らにいたので詩作が数日途絶えていたのだが、昨日、研究室に行った折、ふっと詩を書いてしまった。研究室で書く詩は集中の形式がちがうからか、出来がわるい自覚があるのだが、どうだったろうか。
 
今日は、女房の帰京後、鮎川賞の「受賞のことば」を書いた。400字だから即座に書けてしまう。字数の少なさに煩悶せず、あっさりと書いてしまった。換喩/暗喩の二元性も無難にスルーした。このあたりの詳細は贈呈式で語らされることになるのだろう。
 
鮎川賞の選考経緯を亀岡さんから教えてもらった。「詩手帖」次号で、北川さんと吉増さんがそれをスリリングにつたえてくれるだろうから、いまここでぼくが喋々することではないが、ひとつだけしるせば、「やはり」貞久秀紀さんの『雲の行方』と拙著との一騎打ちだったようだ。ぼくが選考委員なら貞久さんのほうに一票を投じる。拙著に利点があるとすれば、より多くの詩集を「読ませる」付帯作用のある点くらいだろう。一般論をいえば、透明さに混濁は勝てない。
 
その貞久さんからは数日前、ぼくの受賞を虚心によろこんでくれる葉書が届いた。いつもどおり、びっしりと小さな字が裏表に書きこまれていて、感動したのだが、貞久さんは拙著のうち、ぼくの提案した「減喩」の重要性を強調なさっていた。
 
暗喩/換喩――これらに「喩」の字がはいるから、語弊が生じるのだとおもう。修辞を喩えの質で区分することはできないか、できたとしてもさほど意味がない。むしろぼくが詩の叙法でかんがえているのは、ことばの「それじたい」を物質的に裸出させる詩が、同時に「それじたい」から離脱するうごきをみせる点についてだ。それで暗喩にあたるものは、かさなりと奥行をつくり、換喩にあたるものは空間とずれをつくると整理する。いずれにせよ、そうなると叙法で吟味されるべきは「喩え」ではなく「うごき」であって、ならば「喩」とは「うごき」をいうものと、とらえかえすべきなのではないか。さてそうなって「減喩」とはなんだろう。
 
自分で提唱してみて、その把握がむずかしい。いずれにせよ、散文的説明性を殺ぎ、散文にある諸語諸文の隣接関係を、語や文そのものの隣接関係へと特化し、同時に意味や関係性を消去した箇所に、消去部分そのものの模様を凹状に把握させ、それを余韻へとなげやることなく、消去じたいを物質化するようなことではないかと、とりあえずかんがえてみる。
 
一見、「あいまい」や「もうろう」と詩法が似てくるのだが、それでも痩身になった語どうしが関係を隣域をも離れてつなぎあうなかに、「虚の面積」のようなものをうかびあがらせる。再読三読がいつもべつの鉱脈を掘り当てられるよう「すくなさ」を厳密に組織しなければならない。その意味でいうと「減喩」からうまれる「うごき」とは、のこったもののすくなさと、消されたもののおおさの拮抗により、のこったことばににじみをあたえるようなものといえるのではないか。
 
これはまだ理論化できていない。切断ともちがう。切断は学習されてしまうためだ。ただしぼくのすきな詩作者たちも、こうした減喩めいたものを駆使していて、これに注目する貞久さんもむろんそのひとりだとおもう。ぼくも最近は減喩にもとづいた詩作をくりかえしている(と自分ではかんがえている)。いかに一行目から詩篇をゆっくり読ませるか、それでも圧を読者にあたえずにおくかで、たどりついた詩法だった。貞久さんとぼくにちがいがあるとすれば、ぼくのほうが同語の反復をきらう点だろうか。
 
書きすぎないことがなぜ読者の想像力のはいりこむ容積をつくるのかは、単純なようで、じっさいは一筋縄ではゆかないもんだいだ。減喩は切断とちがい、音韻性と親和する。たとえばこのあたりを視野にいれた石原吉郎論でさえ、まだ登場していないとおもう。しかも「書きすぎない自制」と、「書きながら削り」「削りそのものを書く」創造には、さらなる径庭があると予想がつく。たどりつく場所のひとつに、杉本真維子の詩もあるだろう。
 
「削りながら書く」と「ずれながら書く」は似ている。とすれば、減喩は換喩の亜種とかんがえられるかもしれない。空無へずれるといってもいいし、部分を空無にすることで加算に空無をはらませるといってもいい。
 
『換喩詩学』ののちにかんがえるべきなのは、この「減喩」かもしれない。しかしこれがむずかしい。だいいちサンプルが充分ではなく、立論の通用性がよわいと見込まれるためだ。むろん減喩の宝庫は俳句なのだが(切字に拘泥しなければそんな視座がひらける)、詩の俳句素を検証することはできても、俳論そのものを詩論に書くわけにもゆかない。減喩は詩論ではなく、実作での展開のほうに向いている気がする。
 
そういえば昨夜はおでんも終わり、女房の胃も復調して、すすきの「ポッケ」におもむいた。三角みづ紀、山田航、久石ソナとすこしまえに愉しんだあのジンギスカン屋だ。あのときは旺盛な三人の食欲につられ、火のとおった瞬間のラム肉を次から次へと頬張ったが、女房とは互いに齢で、喰いながら疲れてゆく気配がただよってしまう。それで旨かったが、爆発的な感動がなかった。焼肉系はわかいひとと行くにかぎる。
 

2015年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【睫】
 
 
めはながちっているだけなのに
それに物量と方向とがともなって
貌がもようとなり精神ともなるのは
にんげんにあたえられためぐみだろう
軽重がかわるのを目睫にみるのがすきだ
このとき方向に翳をたすまつげや
貌のてまえにふる雨にも魅せられる
とりわけずっとふってきた雪が
天〔あめ〕と同音の雨にうつるならば
めのまえにあわいひろがりがうまれ
めはなすら花にとなりするなにかだと
かたちの不定じたいをことほぐ気になる
おなじように紺々としたいろでも
ころもは外とかようかるさにゆらぎ
まちびとのさだめがたくなるのが
目睫に紗のかかる花眼のながめ
貌をささえているのが後頭部だと
ぜつぼうならずともわたしは知るが
ならばまつげのあるのがふしぎな
はるのふくらみをおのずからはこぶ
 
 

2015年03月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【針】
 
 
ゆうがたがきれいなら
そのしたをゆくひとらの
膵がきらめいていると
いつもかんがえてしまう
星をうつすかおがぼんやり
しょうじるまえの一刻は
身に針孔もあいてみえるのだ
そういうのがひかりだろう
ゆうがたには陽のかたのまぢか
ひっそりとしろさがこぼれ
ひとのものともそらのものとも
わけられない孔がかなしむ
おとろえをめぐらすくうきが
ありとあらゆるとおくをつたい
その金星に針をとおすのがかたい
せんかたなくまわりまでとらえ
視にじかんがまざらずにはいない
おなじきんせいはそれじしんに
いくどももどりかえって
にじんだりもしている
 
 

2015年03月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【闢】
 
 
ゆきのつくる鏡をまたぎこすと
その面にはへんなわたしがみえた
せつなをみおろしたのはたしかだが
わたしはすばやくひらきゆく股に
すがたすべてを集約されていた
それのみかすぎさるものの
たえがたい加速と残像によって
わたしのかたちまで失火していた
このことがうごきを鋏にした
あれのを切りつつあるなかでは
老いているのか否か貌すらみえず
この世をまたぐおごりだけが
としはもゆかぬおんなをうんだ
みえたものはこわいことに
みあげとみおろしのまざりで
わたしもそこにいたのだろうか
うごきは余韻めくものをゆらして
すかーと部分が冥い煤をあげた
そこからへんなこうもりがみえて
ひとつの開闢を裂きおえていた
 
 

2015年03月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【腐】
 
 
とおざかるうごきが
こころにしたしく
ちかづいてくるうごきが
むねをふたぐのはなぜだろう
みちというものが路上に
ゆくえともどりを盛るためだ
ちかづくすべては祝言を秘めて
しまいはひとのかたちをする
それにかおのないことが
列をなす麦神をおもわしめる
いつか麦の山河をみたのか
秋の日にはとお山から
とんぼがかぎりなくおりて
からだをむざんにつらぬいた
いまはみぞれとなって傘をさし
ふくみわらいしている
としよりらの傘影がくる
ひそかにわたしてくれるのは
ちかづきのその前後なのか
ちがう、かおにくさる傘影だ
 
 

2015年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゴーストライター

 
 
本日夕刊の北海道新聞に、連載コラム「サブカルの海を泳ぐ」の第12回がたぶん掲載されます(夕方は自宅に不在の予定なので、予告しておきます)。今回は、今クールのTVドラマ『ゴーストライター』、北海道で公開中のティム・バートン『ビッグ・アイズ』、それに「新垣隆さんの現状」を連鎖的に紹介・考察しています。いわゆる「ゴースト○○問題」です。
 
『ゴーストライター』は〆切の都合上、昨日の放映分をみられず、その前の回までで論評した。それにしても、このドラマはスキャンダラスにみえて、つくりが堅実で静謐だ。スランプに陥った「文壇の女王」中谷美紀と、そのアシスタントにはいって、次第にゴーストライターの仕事にしばられてゆく作家志望女性・水川あさみ。そうなってゆく経緯が、追悼文代筆(代筆文は使用されず)、プロット提供、完全代筆…と、段階を経ながら丁寧に描かれている。つまり、ゴーストライター問題とともに、ふたりの女性の関係推移が、透明感を意識した映像にきめこまかく綴られていて、さすがは『僕の生きる道』『僕のいた時間』の脚本家・橋部敦子だとおもう。このひと、TVドラマの脚本家としては、抜群の力量を誇るひとりだ。
 
何回か山場がある。ふたりの位置関係がくるっくるっと反転する。懊悩、憎悪、憐憫、愛着…複雑な感情もうかぶ。水川の葛藤。中谷の使嗾。中谷の引退決意。水川の解雇。スキャンダルの発覚を恐れての水川の封印。ネットでの水川の告白。名誉棄損裁判での水川の妄想狂扱い。流離。中谷の真相告白。そのほとんどで陰謀めいた絵図を描く編集長・田中哲司が好演している。
 
むろん「誰が書いたのか」は、科学的な検証ができる。文体分析のほか、モチーフとなっている事実周辺についての認識可能性を考量することもできるだろう。「作品」はそういう検証誘導の厚みをはらむ。一篇の小説の執筆が、パソコン画面に、「(了)」と打たれた瞬間に終わるというのも、セルフ校正をくりかえすだろう執筆をかんがえると、あまりにもTV的だ。ただしそんなことはどうでもよくて、プレッシャーの有無で、書くことの生気が変化する事実が、示唆的・説得的にとらえられているほうが重要だろう。このドラマの隠れた主題は、「きのうよりも、今日さらに良く書く」ことなのだ。それを出版資本とポピュリズムがみえなくさせているが、やがて調子の落ちたことは、読者一般にゆっくりさとられてゆく。むろん「わかりやすさ」については、ドラマで問題にされていない。
 
昨日の回では、ゴーストライター使用告白で権威失墜した中谷美紀に代わり、代筆したすべての著作の名義を自分のものにかえてもらった水川あさみが、衆目注視のなかで新作を書いたが、プレッシャーで伸び伸びしていない、という展開となる。物語的にはそうなのだが、もう会う理由のなくなったふたりが、どのように再会するかでドラマは工夫を凝らす。「偶然」の使用を、可能なかぎり嫌う橋部の姿勢がうつくしい。やがて次回予告篇で、中谷に執筆意欲がよみがえり、ふたりの優劣関係がさらに逆転するのではという予感まで駆り立ててゆく。
 
現在の(大衆)小説は資料駆使が要る。それで編集者の補助が必須化される。場合によってはそうした便宜性により、出版社からの囲い込みを作家がすすんで受け入れることもあるだろう。ただし執筆そのものは、魔物と遭遇し、その魔圏のなかにはいってゆくという磁力の問題なのだとおもう。『ゴーストライター』のすぐれた点はこの勘所にふれていることであって、そこでこそ中谷・水川に相似性が刻印される。つまり、「似ているものどうしの重複とずれ」、いわば暗喩と換喩にかかわる考察が、小説執筆の具体性へと転化されていることになる。じっさいのドラマは「運動」と「方向」をも純粋に描いているのだ。それがじつはドラマの登場人物ではなく、このドラマの本当の当事者、橋部敦子の「位置」に反射する。メタ構造をかんがえざるをえないドラマなのだった。
 
中谷の気取り、水川の花のなさは、ドラマ自体が要請するものだから、なんともいえない。特筆すべきは、無表情の執事めいたキムラ緑子が発する「隠れレスビアン」の地味な妖気。昨日放映分では、それが悲劇的に発露した。そうなれば田中哲司がどう破滅するかにもいよいよ期待がつのる。
 
 

2015年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

プライスダウン

 
 
鮎川信夫賞受賞で「商機あり」と見込まれたのか、昨秋のぼくの同時刊行詩集(思潮社オンデマンド)のうち、『空気断章』と『静思集』の二冊が、なんと40%オフ、という破格のプライスダウンになっています。売れないがための苦肉の策かもしれないけど(笑)。ともあれ、お得なセールス期間なので、ご購入をおもわれたかたは、ぜひとも「アマゾン」「阿部嘉昭」の併記検索をしてみてください(アマゾンのぼくの頁のアドレスが引けない…)。
 
 

2015年03月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

鮎川信夫賞

 
【お知らせ】

「情報秘匿」義務時間を過ぎたので――

本日、去年の拙著『換喩詩学』が鮎川信夫賞を受けました。
午後六時、思潮社の亀岡さんから電話連絡がありました。
岸田将幸さんの詩集『亀裂のオントロギー』と同時受賞です。

審査決定期限のちょうどそのときに
亀岡さんから電話があって、
「落ちたんですよね」というのが当方の第一声。
それをくつがえす
亀岡さんからのあわただしいことばを聞き、
ただただ嬉しかったです。

選考委員、敬愛する北川透さんと吉増剛造さんの
討議がのびたのだなあ、とおもいます。

フェイスブックの友人のみなさんには
とりわけ感謝いたします。
ここでの拙著の反響が
今度の受賞を
間接的にみちびいたのはまちがいないので。

『換喩詩学』を書いたときの感慨は
自分なりに定まっています。
今後のいろいろで喋ることになるとおもいます。

受賞決定から情報開示時限まで
(さみしくも)「ひとり祝い」。
オリジナル・エスニック鳥鍋で
呑んでました(自宅にて)。

もうへろへろだあ。

とりあえずはみなさん、ありがとうございました。
まずはご一報まで
 

2015年03月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【容】
 
 
わずかに容積はずれている
コップのへりにくちびるをよせ
ゆきの日みずなどをのむと
ふたつのものがうまれてしまう
しさいにみればそれじたいなのに
それじたいでなくなろうとする
うごきがそのままに喩ならば
のまれるごとかたむこうとする
コップのみずのおそろしさは
みずからのなんのくずれだろう
容積のしらしめるとうめいな腑が
のまれてさえ差引無しなのも
すべてうつろのもつうちがわが
そのものとはちがう距離だからだ
ひと飲みにかぎりなく息をつかうと
みずもいろのない香水となりうる
そのことがゆきにふかれるからだに
かなしいずれをたちあげてゆく
かおりをたてるのはゆきかみずか
コップのかたちだとかんがえる
 
 

2015年03月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)