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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

恣意的な気づき

 
 
ヴィリエ・ド・リラダン『残酷物語』は学生時代から、ほんとうにすきな短篇集だ。「文学の電気王」の称号にふさわしいシニカルな奇譚が目白押しだが、評判の集中するひとつが「ヴェラ」だろう。
 
サンボリスム的に絢爛な修辞を除外すると、「ヴェラ」の大筋はこうだった。
 
美貌きわまりない少女ヴェラを主人が娶る。うつくしい幼妻に崇敬と愛情を注ぐしずかな生活(それは繊細な召使によっても支えられている)。けれども新婚わずかにしてヴェラがはかなくなってしまう。
 
ヴェラの夭折を主人はみとめたくない。質朴従順な召使もおなじだ。それで「ヴェラが生きている」ままの状態を生活が維持する。たとえば料理の皿はヴェラの空席にもはこばれ、往時どうようヴェラのいた場所へと日常の他愛ない話しかけが継続される。召使も丹念に主人の願望に沿う。すべてが燭光のなかの秘教的なパントマイムに似てくる。するとあろうことか、数か月後こうした「信念のつよさ」により、生きている往時そのままに、ヴェラのうるわしい美貌、存在、振舞が、彼らのまえにゆっくりと現前しはじめたのだった。運命によってなされた秘匿はひかりをともなってくずれはじめた。
 
「信念」の勝利だった。ヴェラの神々しいすがたに主従ともども歓喜しているそのさなか、だが瞬時、気散じ、気まぐれが主人に起こってしまう。主人のこころに「常識」がわだかまる――「でもかんがえてみれば、ヴェラは死んでいるんだよなあ」。そう口にした途端、かなしみを表明するいとまもなくヴェラが忽然と無明へ消えたのみならず、主人―召使が幻想の棲処としてきた彼らの邸じたいすら、すべて音を立てて瓦解してしまったのだった。惨劇、災厄による一篇の終了。
 
とつづれば理解されるように、「恣意的な気づき」、その残酷こそがこの短篇の主題だった。なるほどこれがじつは最近は多い。「かんがえてみれば、好きではなかった」「かんがえてみれば、ここで働く必要などなかった」などと。
 
典型が、マクドナルドのいつまでも恢復しない業績だろう。去年の中国工場での「使用期限徒過後の鶏肉使用」その他にまつわるチキンナゲット・スキャンダルにより、一旦マクドナルド離れが起こる。それはとうぜんのことだろうが、このとき「かんがえてみれば、マクドナルドって食べるひつようがないんじゃないか」という「恣意的な気づき」がおおくの慢性的な利用者に起こったのではないだろうか。彼らがマクドナルドへもどってこない。
 
環境化され自明化しているとおもわれたものに、とつぜん冷静な判断がまつわりだす。幻想ゲームの終了とともに、唐突な対象否定が完了してしまう。復興をめざし喘いでいる現在のマクドナルドが闘っている相手は、じっさいはこんな魔物ではないのか。
 
一か月ほどまえ、ファストファッションの大手、ユニクロが「とつぜん」「理由もなしに」大幅な前年比割れを記録しはじめた。これも競合ファストファッション産業の影響というより、利用者の残酷な「恣意的な気づき」が原因なのではないだろうか。90年代末期、あれだけ環境化していた小室ミュージックが急速に売り上げを落としていった不思議な推移をふとおもいだす。
 
あるときとつぜん「否定の音」が耳にひびきはじめる、といえば太宰の「トカトントン」にもつうじるが、関連してとりわけ最も暗いラヴソングをおもいだしてしまう。リリアーナ・カヴァーニの頽廃的なメロドラマ『愛の嵐』で、上半身裸、乳暈のうつくしくぼけたサスペンダーズボン、ナチス軍帽すがたのユダヤ娘シャーロット・ランプリングが(美貌を見込まれて性的に調教されている)、ヨカナーンの生首をもとめるサロメを官能的に踊る。ナチス将校が沸き、そのエロスにひそかに生唾をのみこむ。
 
ながれていたのは半音移行を駆使した、マレーネ・ディートリッヒ歌唱のゆるやかで暗い短調リュート(JAPANの四枚目にこれにインスパイアされた曲があった)。オリジナル音源を学生時代からずっと入手しようとしているが果たしていない。危険な音源だから怯んでいるのかもしれない。
 
記憶ではルフランがこんな感じだった。「いまがどんなによくても――どんなに幸せでも――どんなに恋に落ちていても――いつかきっと厭になる――いつかきっと厭になる」。予言の歌なのはたしかだが、予言されているのが、「恣意的な気づき」だという点に、通常の未来展望の歌との径庭懸隔がある。ただの意気阻喪への誘惑だけではないのだ。
 
「気づいてみれば要らないじゃないか」――そのおもいから最近、ぼくの食卓で排撃をうけているのがマヨネーズだ。べつにマヨネーズ断ちといった願掛けの動機もないのだが、あるときふとマヨネーズの人工性、自足性に納得がゆかなくなった。
 
たとえばいま食べていた自家製の冷製スパゲッティサラダに以前ならぼくは、オリジナルドレッシングとともにマヨネーズもくわえていた。けれども少量でもマヨネーズ味に充足してしまうその存在のつよさがどうも厭わしい。こういうことに「恣意的に気づいた」のだった。
 
それでこのごろは、冷製スパゲッティサラダは以下の材料の自家製ドレッシングで和えることがおおい。胡麻油+サラダ油、米酢、鷹の爪輪切り、コリアンダー、塩、胡椒(用意してあれば、ナンプラーも入れるところ――ひとによっては牡蠣油も足すかもしれない)。
 
このエスニック味のほうがマヨネーズ味よりもサラダ具材を生き生きと呼吸させる――そう気づいてしまった。なにかに執着しなくなったとき、じっさいはこのように運命的な選択が起こっているのではないか。気づかないだけだ。
 
むろん「気づかないこと」は、無媒介にその隣の「恣意的な気づき」へさえ移行する。かんがえてみれば、こわいことだ。おおくはそれで恋をうしなう。
 
 

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2015年07月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感

 
 
地政学的にいって、日本が中国の「傍流」であり、同時に「独自性」であることは明白な歴史的事実だ。日本における漢字のアレンジメントの経緯をかんがえるだけでもわかる。現今の中国の覇権主義にたいしアメリカと相乗りして戦争法案を通そうとしている現政権は、日本に条件づけられている地政学に反する「西洋主義」を誤って自己適用しようとしているにすぎない。これが、戦前の軍事帝国主義の、かたちをかえた錯誤にすぎないことはだれにでもわかる。もちろん世界の色塗りは覇権ではなく文化によるのがただしい。
 
文科省が哲学科など「不要な人文学部」の削減を威圧的にもとめている昨今だが、実学主義が仮想敵である中国の実利効率主義とつうじているのはいうまでもない。敵とみずからを分離しようとする態度選択が、かえって敵とそのまま一致してしまう誤りはいつでも繰り返される。対中国をかんがえれば、日本のオルタナティヴはたぶん「すくなさ」の意義をかんがえつくしたことにある。芭蕉の俳論にあたるものは、ほかの国の詩論におもいあたらない。パウンドですら届かないのだ。
 
いまも西洋的な枠組にとらわれがちな詩論が恐れるのは、俳論だという直観がある。同時に、藤井貞和の詩論上の独走にたいし、俳人・阿部完市の俳論が、やはりアジア詩観としてみごとに拮抗している。それらが目指すのはことば=韻律の地政学的な歴史確認と、日本的に奇妙な「すくなさ」の顕揚だとおもう。
 
こうした着眼が通常の現代詩作者の詩論には存在しない。藤井や阿部ならば政治的に歴史的中国とどう隣りあおうかという知見戦略までふくんでいる。書割のように単純な安倍ファシズムの自己達成的な物言いとはまったくちがう地政学的なふかみをもっている。欠落は体制じしんに意識されている。だから文科省が人文系の大学学部の制限をもちだしたのだ。これを体制のやつあたりとも緊急避難といってもいいだろう。むろん闘わなくてはならない。
 
オルタナティヴ、あるいは日本性としての「すくなさ」は軍備のもんだいというより、さらに本質的には、俳句に代表されることばや論理、あるいは身体性のすくなさにこそ逢着する。
 
このごろぼくは、写真論の研究文献をひつようあって立て続けに読んでいるのだが、ベンヤミン―バルト―ソンタグの西洋的なトリアーデでは括りきれない現在的・日本的な写真作家(たとえば大橋仁)が範疇外に置かれている視野狭窄をかんじつづけている。大橋仁的なものはAV的ドキュにも連結しているが、たぶんそれを対象化するには俳論的なアプローチこそが有効で、お定まりの写真論上の西洋的トリアーデではとりにがすものが多すぎ、対象化すらおこなわれていないのだった。安倍政権のやっていることと部分的に似ている。
 
阿部完市。たぶん彼の名は、こんご詩論史のうえで、最重要のなまえのひとつになる。これを認知しているのが、現状、筑紫盤井だけだというのが、詩論全般にわたる逼塞の一事例だろう。むろん俳論=詩論の提案者として阿部完市をとりあげるには本一冊くらいの分量が要求される。
 
しかも完市は俳句作者としては永田耕衣や赤尾兜子や安井浩司の怪物性に劣るという「難問」もある。減喩の名にあたいするのは、完市よりもいま掲げた作家たちで、完市にあるのは規則性からの創意的なずらしのほうなのだった。じっさいは音韻上の換喩が思考の中心になっている。それでもその作品はやはり魅力的だが。
 
いま新しい詩論集のため、既存発表原稿の外側に「パーツ」をつくっている最中なのだが、阿部完市論をくわえるか否かでまよっている。ダイジェスト的にとりあげる対象でないためだ。むろんとりあげれば詩論集のいわば「偏差値」もあがるが、分量など論集の全体性をかんがえれば過重、さらには拡散の生じてしまうおそれがある。
 
阿部完市の詩論=俳論の可能性はひとことでいえるだろう。「すくなさのもつ、それじたいの拡散」。これが前言した、地政学的なオルタナティヴと連結しているのはいうまでもない。
 
さて、どうしようか。
 
 

2015年07月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

中本道代について・下

 
 
【中本道代について(下)】
 
(承前)
 

 
中本道代を「水の詩作者」と認識するひとは多いだろう。たしかに四大のなかでもとりわけ水の登場頻度がたかい。ただし当初、中本の水は、作用性の水――たとえば降雨だったり、作用域の水だったり(《すべての汽車が海に墜ちる》〔「Do you hear………(Texas)」『ミルキーメイ』)、水の一作用としての鏡面性だったりした(《水面に映るものは揺れる/揺れながら不動である》「鏡」同)。水の物質性、つまりその無形、透明、瀰漫、自己形成性のさみしさに分け入ることはなかったといえる。たぶん中本は水への愛着のうちに恐水病を罹患していたのだ。
 
むろん詩集『ミルキーメイ』まででも水の本質に肉薄しようとしたうごきがみとめられる。前述のようなこの詩集特有の叙法――微差的・段階的な時間加算――によって綴られた以下の奇妙なフレーズ。《水の中の長いひも/水の中でゆれる長いひも/水の中でゆれる長いひもの群れ/水の中でゆれる長い平たいひも》(「生物」冒頭)。
 
おそらくは真水のもつ清澄のきわみ、生物の峻拒に、想像がたえられないのだ。それで想像は突破口をさぐる。水がその内部をゆらし、ひだをつくり、ひるがえるとき、「水のなかの水」(それは、あるようで、ない)の本質的なかたちがあらわれないか。中本はそこに、素粒子の基本たる「ひも」形――宇宙の単位とすらなるもの――をみるのではないか。超ひも理論でのひもは線形か輪形だが、中本には「ながいもの」にたいする恐怖か執着もあり、水のなかにひもの(ちぎれちぎれの)ながさをみてしまう。「ないもののうっとうしさ」。だから三橋鷹女のようにむげもなく断言する。《あれがきらいよ》。
 
中本がえがかないのは川だ。たとえば西脇順三郎『失われた時』のコーダ部分は、詩行をそのまま川のながれにしてしまった、不可能性をこえた言語的な変貌だった。縁語などをつうじさまざまな形象がうかびきえるが、本質的にながれるのは音韻。いっぽうで中本は「すくなさ」の詩作者だから、水は「たまり」、グリッド=矩形のように一分布としてまとまらざるをえない。それでとりわけ湖や沼が、水のとるべきすがたとなる。ただしそうした水に、水をこえた宇宙性まで揺曳してしまうのが彼女の独壇場だろう。書割からもっともとおい湖。なぜそうなるのだろうか。
 
宿命的な再帰性かもしれない。詩作者の詩を分析するのにその容貌までいうのは逸脱か反則だが、彼女のおおきく見ひらかれた、ゆたかな水分をたたえたうつくしい瞳は、そのままに底なしの湖を想起させる。宇宙性、澄んだ湖、底のないこと、底のない瞳は、拠りどころのなさの系譜として一括される。さまよい出るところが真水の場所ならば、さまよい出るための動力も、真水のような非親和なのだ。そうして彼女は「水に由縁されて」、遍在するものとなる。しかしこのことは通約可能性と不可能性とを同時にもつ。いましめられなければならないのは、つねに還元だろう。
 
中本道代の第五詩集『黄道と蛹』(99)、第六詩集『花と死王』(08)は、ともにゆたかな多様性をうかがわせる円熟した詩集だが、やはり「すくない」「減喩の」詩にすごみがあり、そのいくつかが水にむすびついている。井坂洋子は『詩はあなたの隣にいる』(15)中「ふたつの山の上に」で、山村暮鳥を導入項にしつつさらに中本『花と死王』から『黄道と蛹』へとその「水詩篇」ふたつを逆走してみせた。具体的には前者所収「高地の想像」、後者所収「湖」だった。ここでもその手順に倣ってみよう。聯間二行あけを一行あけにして最初の詩篇を引く。
 
【高地の想像】(全篇)
 
ヒマラヤの湖に
夜が来て朝が来ても
ただ明暗が変わるだけ
そこでの一日とは何だろう
 
風が訪〔おとな〕い続けて
 
そこでの一年とは何だろう
 
ヒマラヤの湖に
だれかが貌を映すのだろうか
 
ヒマラヤの湖に
小さな虫が棲んで
何も考えることなく
くるりくるりと回っているだろうか
 
風のおとなう場所は風「のみ」がおとなう場所として純化される。唐突に想像へあらわれた「ヒマラヤの湖」は高地にあり、地下水からおおきなくぼみににじみでた水のしずかな湛えだが、それは川としてあふれださずにそのまま地下水としてまたほとりのさきを沈めてゆくようにおもわれてしまう。空間連接が断続的になっていたそれまでの中本詩からの聯想かもしれない。そこはつめたさにより魚も生息できない。途絶した場所なのだ。
 
プランクトンもいない。最終聯に「小さな虫」とあるのは、プランクトンではなく、さきにみた「水の中の長いひも」と同様、「ないもの」を形象として幻影化した逆転ではないだろうか。それが「くるりくるりと回って」宇宙的な舞踏をもらすのなら、それはただ想像の次元でのみ感知される共振というべきだろう。
 
風は万象を愛撫する。「場所」に依拠している生存在を、その場所こそが絶望だとあらあらしく気づかせる。湖面にさざなみがたつ。ただしそれは表面のもんだいにすぎない。底まで清澄をとどかせている湖は、もっと無為な時間推移の映写幕へと、この詩では陥れられている。「明暗」が変わる。陽にひかり、夜に暮れる。朝夕には恥じらいの色をうかべるかもしれない。魚がおらず、だれもおとなわない、忘れられたヒマラヤの秘密の湖では、それだけが一日なのだ。いや、それだけが一年なのだ。湖に雪がつもらないのは何の懲罰だろう。いやそれはやがて凍る。凍れば雪をたたえ、しろそこひのように盲目化するかもしれない。「眼の危機」はやはり湖にある。
 
一日のひかりの推移、一年のひかりの推移をうつす映写幕など、どこそこの壁でもどこそこの道でもこの世には無限にあるのだ。ただしそれらは人影もうつすだろう。ヒマラヤの湖面はおそらく高地にありすぎて人影どころか鳥影すらうつさない。場所の孤独。第四聯、《ヒマラヤの湖に/だれかが貌を映すだろうか》では、じっさいは、ひとのおとないが想像されていないだろう。中本詩のもつ「さみしさ」は純然たるもので、俗情とは無縁な域に非親和の状態で自己露呈する。だからそれはこう読まれなければならない。「いない者」だけがそこへきて、「ない顔」を映す、と。そうしてヒマラヤの湖が荘厳される。
 
むろん虚心に読めば、「だれかが貌を映す」「くるりくるりと回っている」にみられる「動詞」は、女性的な優艶をつたえるフリルと一見うつる。ところが「そこでの一日とは何だろう」「そこでの一年とは何だろう」の畳み掛けが修辞疑問文の色彩をもつかぎり(解は「何でもない」になる)、貌も回転も見消〔みせけち〕へと反転してしまう。するどい虚無がぎりぎり修辞となっているすごみをむしろ掬すべきなのだ。
 
この機微といわば「出し入れ」になっているものがある。「ヒマラヤの湖に」という書きだしが聯頭におしなべて出現して、頭韻的な想像で対象をえがこうとしたもくろみが、途中ふたつの一行聯「風が訪いつづけて」「そこでの一年とは何だろう」でほどけてしまったのだ。これら各行こそを、さきにみたことから「ひも」とよべる。井坂洋子は前述文章で山村暮鳥「風景―純銀もざいく」(『聖三稜玻璃』)での「いちめんのなのはな」の連鎖につき言及したが、そうした連鎖の蹉跌を中本「高地の想像」は隠している。一種、膂力の瓦解というべき事態だろう。
 
反例として八木幹夫のすばらしい短詩をおもいだす。《にらの花はかなしい/にらの茎はおいしい/にらのにおいはくさい/にらの畑はさみしい/西日にゆれるにらの花》(「韮」『野菜畑のソクラテス』)。いやこれとて、最終行冒頭から「にら」がはずされ、構文の形容詞終結もくずれた。中本の聯の冒頭が「ヒマラヤの湖に」で統一できず、ほぐされてしまった一行聯の「ひも」二本がさみしかったように、八木が一瞬つづった「さみしい」が最後に行あたまの「にら」をくずしてしまったといえる。これらこそが、生きている詩の呼吸なのだった。
 
【湖】(全篇)
 
高い山の上に湖があり
湖はその深い水底に魔物を匿っていた
あなたはボートに乗るの?
湖の中央まで漕ぎ出すの?
そんな小さなボートで
 
高い山の上で
ボートとあなたは水の上にあって
天に向かっていた
その水平線は非常に薄く
在るとも言え 無いとも言えた
 
見下ろせば水は青緑にどこまでも深く
魔物はどこにいるかもわからないのであった
 
けれど
 
魔物はゆっくりと泳ぎ上ってくる
あなたはそれを見ることはできないのだが
天とあなたと魔物は今 一垂線をなす
 
さきに掲げた詩篇と同様、水=湖は高地にある。天空の水は水を高潔化するが、それは水と天空との連絡をかすかに秘めて、じっさいは天空の組成物質が水ではないかという疑念までいだかせる。そうなったとき地上から天上への「上下」に目盛がきえるのだ。
 
この湖は火口湖だろうか。ともあれ湖が天空の域にあることは、空にちかづいているぶんだけ、「水平面」を「非常に薄く」し、天空との境をみえがたくする。「青緑」としるされているが、それが同色一系であることで透明とおなじだとするなら、天空と区別できない湖は、水ではなく天空そのものを湛えて静まりかえっているともいえる。そこは魔域で、舟などうかべてはならないはずだ。「観光施設」が侵犯を使嗾するなら、おおかたの案内が地勢への畏怖を欠いているのかもしれない。
 
「あなた」はリアリズム文脈なら中本の配偶者とうつるかもしれないが、読者個々であってもかまわないだろう。うすい水面(しかしかんがえてみれば水面はいつでもうすい)にうかべられたボートは水面にうつる天空にささえられ、もはや「天に向かって」いる。修辞の魔術に留意が要る。そこに気配がしのびこんでくる。気配は本質的には非親和だ。気配そのものがすでに破局、災厄の片鱗だからだ。
 
湖の内容は青緑をしている。測りがたい深さだ。測りがたいものは本質的に魔的だろう。だから湖に「魔物」がいる(この「魔物」をのちに中本は「死王」とよびかえたのかもしれない)。ボートの真下へとそれは「ゆっくりと泳ぎ上って来る」。うごきのなまなましさ。それにたいする「あなた」の油断。ボートが転覆すれば、水のつめたさに「あなた」は即死するだろう。詩は見事な文体で、その手前の衝迫をもって寸止めされる――《天とあなたと魔物は今 一垂線をなす》。
 
上の「天」―中の「あなた(ボート)」―下の「(泳ぎ上って来る)魔物」――これら上・中・下三層を貫通するものは「線」でしかない。貫通は神秘的な被雷であり、見神だ。そうして恍惚の絶嶺でひとが死ぬ。ただしこの貫通は中層の水面、その「うすさ」が上下をよびよせるものともみえる。むろん地上の「うすい」人間にも適用できる災厄可能性だ。
 
ともあれ中本的な換喩は、図示の誘惑をもつ。この図示が事柄をざんこくに縮減するのだ。それでひとは天空・「あなたとボート」・湖中の魔物(上方への矢印付)を図示する。即座にその図示は矢印が「あなたとボート」さらには天空へまで伸びる余勢を付帯する。それで描かれた図全体に否定の縦線がひかれることになる。じつはこのうごきまでをふくむことが、この詩篇の鑑賞になるのだった。そうして読者は詩篇のおそろしさに気づく。書かれたものを読者側の想像が超えるように配備されているのなら、書かれたものにもともとあったのが縮減だ。だからおそろしいのは減喩そのものなのだと換言できてしまう。
 
支笏湖や十和田湖など具体地をおもいうかべず、「天空ちかい」火山湖という詩篇の設定にのみとらわれれば、そのほとりにちいさな埠頭があり、そこにボート乗り場が敷設されているとは、読者は「かんがえない」かもしれない。詩篇は「呼びかけ」を隠していて、詩の書き手をエーコーに擬する。それもあって現実味を自ら否定するような読みを読者じしんがつくりあげてしまうのだ。
 
もともと水がもたらす魔術ではないのか。おおきくたたえられる水に直面することは、水死の希求をかんがえなくても、そのまま夢うつつの境、あるいは幽明の境を超えさせるような使嗾をふくむ。このとき中本の選択するのが「笑い」なのがおそろしい。「残りの声」(『花と死王』)の以下のフレーズ――《夢の中では/緑色のとろりとした水面に光が射していた/夢の外側にからだを向け/わたしは笑いかけていた》。
 
さきの詩篇「湖」では、風(エーコ―)の呼びかけに反して、湖面に貌を映す「だれか」のナルシス的な振舞が詩文の一瞬を擦過した。ところが岡田温司のイメージ論を俟つまでもなく、どんなに澄んだ水面であっても、そこに捉えられた像は「ありのまま」の当人の似姿ではない。その像はかならず減衰しているのだ。とすれば水の像を愛する自己愛は、実際は自分の減衰そのものを愛する瞞着へとむすびつくことになる。『花と死王』から――
 
【陽炎】(全篇)
 
花びらの降り止まない日
くちづけの中にどこまでも
行方を尋ねていく
 
敗北の長い影を負って
枇杷のつゆに濡れた口で
わたしたちが
時の中からあらわれ
枇杷の種を吐き出して
短い眠りに沈む
 
水の輪の下で
揺らいでは消えていく文字とともに
約束は何度でも消え
 
わたしはなぜ生まれたのか

先立つ未知のものたちの息づかいが迫り
けれど 遠く
擦れ違っていく場所で
 
ひっそりとあふれる水に
もうわたしのものではなくなった貌を映す
 
終結部、なぜわたしの「貌」は、「もうわたしのものではなくなった」とおぼえるまでに減衰しているのだろうか。本質的にエーコーであろうとする中本詩の主体は、その呼びかけ対象であるナルシスであることを縮減してゆくしかないのだが、それを措くと、春から初夏の季語でとりかこまれることで遍歴化した「わたしたち」の「くちづけ」によって(それはエロチックでうつくしいイメージだが、かすかに粘液性のきもちわるさや罪障をふくませている)、「わたし」そのものが減衰したためだ。
 
しかもすでにくちづけはみずからのいる空間の波紋製造にかかわって、空間を水に変え、しかも「揺らいで消えていく」のはわたしの形象ではなく、「文字」「約束」だという逸脱までくりひろげて、それで「わたしはなぜ生まれたのか」というあられもない自己疑念がうまれてくる。こうした無差別性がそのままに妖精的だといえ、それで詩篇はナルシスと妖精という(ちなみにエーコーは声の精だ)分離的形成をあいまいに溶かすのだ。
 
この溶解のはてに、水に映る「わたし」の貌が減衰している。減衰の動因は溶解なのだ。いっけん恋愛遍歴、そののちの加齢のかなしみをうたったものとみえるだろうが、そうした理路よりも自己減衰の無方向性にこそ戦慄すべき詩篇だとおもう。もう一篇、きわめつきの水詩篇が『花と死王』にある。
 
【夢の家】(全篇)
 
バルコニーは海に面していて
といっても
手すりの外はもう海であって
滔々と
夜の海が流れていた
暗く冷たく
 
それは海峡で向こう側には陸地が見え
北の海へと通じているらしかった
 
素敵な家――
わたしは海に手を浸し
塩からい水を舐めてみた
 
海と家の境界はあいまいで
海が家へと逆流することも
ありそうな暗いバルコニーだった
 
どんな人が棲むのだろう
家の奥深く隠れて 揺れている人々を
うらやましいとわたしは思った
 
「空き家」の主題系列。これも図示したくなるような空間提示的な詩篇だ。それでも読者の描こうとする図はこころもとなくなるだろう。もともと水は浸潤性をもち、空間の多孔質を悪用する。そうした危険なトポスにこの「夢の家」は立地している。こう換言してもいい――この家は境界に存在しているのではなく、家そのものがすでに境界なのだと。バルコニーははっきりとはしないが、「海に浸されている」。となればそれは永続できない束の間の均衡によって、やっと存在していることにしかならない(厳島神社のように努力の補修がくりかえされないのなら)。
 
境界のむこうにきえることが死なのでなく、あらかじめ境界そのものが死なのだというこの詩篇の隠れた見解は、罪がすでに罰だという花田清輝的なかんがえにもつうじている。だから「どんな人が棲むのだろう」という問にたいして「罪びと」とこたえることもできるだろう。
 
最終聯にはさらに逸脱――フライング(境界の踏み越え)がある。《どんな人が棲むのだろう》という問の次元では「人」はまだ「棲んでいない」。そのはずなのに、ここでは文体魔術が使用され、次の《家の奥深く隠れて 揺れている人々を》では人々の家のなかでの隠棲がいつのまにか自明化され、しかもその自明化こそが「揺れている」のだった。
 
結語=最終聯最終行《うらやましいとわたしは思った》がまたおそろしい。「あいまい」な「境界」に「揺れている」隠棲者たちに、引き込まれるように「うらやましい」が発語されているためだ。つまり減衰、もっといえば自己縮減、自己消滅が希求されていることになる。それが「たてもの」の描写のあとの最終聯のたった三行に、ちぢむようにしのびこみつつ、それでも余情がひらいているのは、詩のかたちや構成のうえでの奇蹟といえる。
 
見逃せないのが第二聯だろう。第一聯の「夜の海」を受けての第二聯では、そこが「海峡」で、向こうに陸地のみえる視野の狭隘がかたられている。つまり「夢の家」という境界のある場所を、もっとおおきな境界がとりかこんでいるのだ。ところがそのよりおおきな境界は「北の海へと通じているらし」い。よりおおきな境界はそれで自壊している。というか、境界は自壊するという法則がこの詩篇で内在的に示唆されているのではないか。
 
井坂洋子は『詩はあなたの隣にいる』で、中本の水詩篇が「情緒的なことばを一掃している」としるした。それでもそのどれにでもさみしさをかんじるのはなぜなのか。ひとつは材料が、語彙が「すくない」ためだろう。もうひとつは、語調の張りそのものがもたらす自壊の予感が原因かもしれない。ところが「夢の家」ではひとつの例外的な感情形容詞「うらやましい」が末尾にあらわれた――「さみしい」ではなくて。
 
そういえば、もともと「さみしい」にしても、中本詩にあっては自己矛盾的なのだった。さみしい、と語らないことが、さみしい――そこまでのひだを、中本詩から読者は忖度する。清潔な詩のもたらす二次作用というべきかもしれない。この機微をおもわず中本じしんが書いてしまったうつくしい詩篇がある。『黄道と蛹』から最後にその詩篇を引こう。註釈は省く。
 
【無声】(全篇)
 
音のない春の夕方
どこまでも一人きりで時が進む
松の高い梢を見上げたり
まばらな草むらの小さな花に見入ったり
空き家の椅子で休んだり
昼はそんなことばかりしていた
ふと見ると林があさみどりに燃えたって
藤の花は白くやわらかく光り
八重桜は重すぎるほどの秘密を抱えて昏み
狂おしく時が身もだえていた
やがて闇が降りてきて
私はさびしくない  ことがさびしいのだと
遠くの方で教える声がした
 
(この項、了)
 
 

2015年07月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

中本道代について・中

 
 
【中本道代について(中)】
 
(承前)
 

 
音声として読めないものを、詩文にくりこむのをなるべく避けたいと、とくに最近おもうようになっている。詩篇が朗読されるうえでのことばの純化、ことばの掃除ということではない。むしろ朗読は苦手なのだ。詩のかたわらで書いている評論と区別をつけたいと、なんとなくおもっているていどだ。
 
音声として読めないものにはまず符号がある。括弧類。フォントの種類、おおきさの区別。詩では読点は読めるが改行詩なら句点も要らないだろう。引き伸ばされる三点リーダーや引き伸ばされるハイフンもうっとうしい。立原道造的な視覚文飾がきらいなのだ。聯間空白の一行あきは読めるが二行あき以上は、たとえば朗読のとき、間奏でもはいらないかぎり、一行あきと区別のつかない惧れがある。それと字下げ。出所のちがう一連を字下げでしめすのは適切とおもうが、レイアウト効果でちがう字下げがたとえば行ごとに乱打されると、その字下げは読めないと反撥してしまう。
 
これらの自己抑制はなにか。詩の権能にかかわる制限だろう。詩が成りあがって文学になってしまうのがいまや現在的でないとおもうのだ。詩は作品それじたいではなく、その用途が弱体化している。だからこそ文飾や学殖をとりはらって原点回帰している詩篇、そのつつましさが掬されるべきなのだが、詩の劣勢は、ことばをいかめしく武装しようとするほうへかたむく。窮鼠になった詩はながくなり、散文化し、そのことで文学性と隣接しようとする。
 
詩の本義にむけたみずからの解除ではなく他との競争におもむくものは、おおかたが自意識的なのだ。もちろん現在の詩では自意識と近接する独善が倦厭されているのだから、詩の多くの賭けはあぶない方向に突き出ている。
 
それでも詩は、詩集というかたちの書物化を志向する。そうするとその極限のひとつにマラルメ『骰子一擲』の達成がみえてしまう。後期吉岡実も字下げのヴァリエーションを駆使して詩行を散らし、フレーズの断絶性をつよめる複雑さを盛った。ここから期待されるのが、ぼくが「散喩」とよぶものだったかもしれない。
 
力線の傷のような錯綜、フレーズにフレーズごとの時空を負わせながら、それらを遊離的に展覧すること。そこでは印字の位置そのものが時空との交渉結果となり、フレーズのあらわれが分布的に多元化する。散ることで回収できなくなった意味=断絶こそがあたらしい意味になる。散乱状態が再読可能性に編入される逆転。そうした詩集の技術的な達成が、たとえば石田瑞穂『片鱗篇』だったり藤原安紀子の諸詩集だったりした。
 
むろんこれらは詩の危機の産物とよべる。ただし80年代後半、詩がまだ多幸症におちいっていた時代は、詩行をどう置くかのレイアウトの自由は単純な解放と映っていたはずだ。時代の気分。結果、詩は70年代のうすぐらい、それでもいとおしいミニマリズムを自壊させ、拡散していった。そんな個人的な実感がある。以上はやや還元主義的な整理だが。
 
中本道代『ミルキーメイ』(88)はぼくが唯一所持していなかった詩集だったが、『現代詩文庫197・中本道代詩集』に抄録され、それで原本の雰囲気をはじめて掴むことができた。この詩集から字下げと行あきの多様性を彼女が駆使しだしたとわかる。もともときびしい「すくなさ」「減喩」のなかに力線の錯綜をくわえていた彼女の詩は、こうした詩行レイアウトの自由によって拡散を明示しはじめたのだった。ただしはっきりいうと、彼女の詩はこの段階であまくなった。このことと、構文末尾での、女性会話語尾の積極的導入とが相即している。
 
むろん名手中本だ、抑制はたもたれ、聯ごとに字下げがことなってもそれは恣意ではなく自己法則につらぬかれている。たとえば「私」の一次記述、客観記述、内心の感慨、それぞれのたかさがちがうことで、「私」が、立体化というより弱体化することであわさがみちびかれてもいる。減喩の主体から散喩の主体へと「私」が変化したのだ。それでも〔yellow〕と〔red〕に二分された集中「Winding August」が、字下げヴァリエーションをはらみつつもその詩行の、クルマの走路の進行と対応する「単純な」水平加算によって時空をひらいた佳篇となっている。
 
このころの中本は「ことの生起」が分離的にみえていて、それが天付詩篇の体裁の厳粛をほどいたのではないか。詩のことばが光景をかためるのではない。光景が時間推移によって分離する刻々は分離するレイアウトでこそ可及的に追われ、しかもその発語も必敗でなければならないと。
 
必敗はどうあらわれるか。たとえば迅速とスローモーションを分離する感覚の失調としてあらわれる。「Cracked November」には字下げによって孤島化された以下の群がある。《このごろあなたは/このごろあなたは目に/このごろあなたは目に影》《小さな円/もっと小さな円/中くらいに小さな円/別々に音をたてている/小さく確実な音》。引用後者での、音の存在の多元化に注意してほしい。
 
デュシャン〈階段を降りる裸体〉の意義とはなんだろうか。うごくものにむけたマイブリッジやマレーの分解写真の、絵画への我有化というだけではたりない。分解こそが生成の基盤でありながら、その生成が多数化し統合されない失調がこの分解によって逆証されると、その意義をいわなればならない。眼が負うのは証言ではなく逆証の機能なのだ。そのことを事象の散喩をとらえるこの時期の中本のうつくしい眼も知った。だからこそ以下の秀抜なフレーズがある。
 
雨が階段状にふる
知らない人々のざわめきが
雨の音に混って再生されはじめている
――「通路」部分
 
雨域はちかづいてくる。そこでは雨ではなく段階が降っている。じっさい雨域に「私」がはいっても、降雨は時空にかけあわせて分離が可能なのだ。そうして降雨の迅速とスローモーションとが弁別不能となる。くわえてこの不能感が雨を空間ではなく音そのものにし、それでそれは人声にまで変化を遂げる。たしからしさなどすべてないということが雨を契機にして捉えられる。すばらしい耳目だ。
 
『ミルキーメイ』随一の佳篇は、それでも天付を護持した以下の詩篇だとおもう。全篇を引用しよう。
 
【緑】
 
目がさめるとすぐに窓をのぞくのが習慣になった。このごろはもう私が起きるよほど前に夜は明けきっている。窓の外ではまたあれが増えている。私はそれを確認するために外を見る。
 
私は窓をあけて身を乗り出してみる。今日の気温を測ってみる。半袖の服か長袖の服かを決めるために。朝の匂いがする。冷たくて甘い。
 
何か夢をみたと思う。大勢の人といっしょだった、ざわめいていた、と思う。それでもどうしても思い出せない。
 
私は体温計をくわえて歩き回る。すぐに口の中に唾液があふれてくる。
 
窓の外ではまたあれが増えている。あれは全く音もたてずに毎日増えていく。あれの間には区別がある。色も形も少しずつ違っている。それでもあれはみな同じものだ。同質のもの、同一の欲望を持つものだ。
 
私は夢について考えようとする。大勢の人々。そのざわめき。口の中の熱。それでもどうしても思い出せない。
 
一読されれば、この詩篇の命が、「あれ」=代名詞=シフターだという感慨が生ずるだろう。中原中也「言葉なき歌」中の「あれ」、その最終不明性=永遠が、中本に意識されているかもしれない。ところが中原の「茜の空にたなびく」「あれ」が茫洋とした一体性なのにたいし、この詩篇での中本の「あれ」は朝ごとにあらわれ、おもいだせない夢の残響という性質をもち、しかもそれは説明すら試みられて、その奇妙きわまりない分節性を指摘されているのだ。
 
音のないもの。毎日増えるもの。そのなかに区別のあるもの。それでも同一性として一括されるもの。欲望をもつもの。それはなんだ、と問われれば謎々めくが、おそらく解答は出ない。解の不能性こそが、「あれ」を実質化させ、永遠の捕獲目標にするからだ。
 
だからそれはたとえば「私」のゆううつや不如意のように定位できないし、矮小化もできない。むしろ中本は空間や時間の遠近をつづるシフターが、遠地に置かれたときのあられもない不可能性を剔抉している。それが「あれ」という亡霊、すなわち時空の自壊要素なのだった。むろん詩篇タイトルが「緑」なのだから、「あれ」はその緑を指すという一次的な読解が可能になる。だがその読みはアリバイ探しに似ていないか。創造的に読むなら、「あれ」の解答はない。
 
それよりも中本的な空間がここでは「窓」としてあらわれているのに注意したい。それは「うつわ」内外の境界であり、希望めいて開口していて、身を乗り出すごとの異変ともなり、しかもひとつの窓は、第五聯冒頭「窓の外ではまた」により、時間上べつの窓として矩形連鎖さえしているのだった。
 
じっさいは詩篇に時間がながれていて、「私」の「口の中」も、何かみたようにおもう「夢」も時空ごとにばらまかれている。ひとつの「これ」にたいし、おなじものが「あれ」として連鎖している「区別」。区別を基軸にすれば統合不能であるものが、同質性を基軸にすればすべて無差異・無媒介になるとして、「この窓」「あの窓」、「この夢」「あの夢」がつらなっている。つらなりをみることは空隙をみることに帰結する。だからそれはみた夢のように可視対象とならない。
 
うつくしい瞳は証言ではなく逆証を負わされる、と書いた。しずかなものには撞着がゆれている。それを視野のまんなかに置くと、証言にむけられた視線の義務が逆証に転じるといってもいい。「みたものをみた」とはいえない、石原吉郎的でない女性性。『ミルキーメイ』につづく中本道代の第四詩集『春分 vernal equinox』には視線によってもたらされたたとえば以下の逆証がある。詩篇「鏡」からのふたつのフレーズを字下げ省略して引こう。
 
《水面に映るものは揺れる/揺れながら不動である/水面に映るものは》
《犬は水に映らない/犬はどこにも行けない》
 
『春分』には大好きな詩篇がふたつある。ひとつは中本的な主題としての形容詞「長い」を完成させた「異国物語」だが、これは『現代詩文庫197・中本道代詩集』に収録されていない。分析したいところだが、以前ちらりとこの詩篇に論及したのでこの場では控えておく。もう一篇のほう、巻末に置かれた「母の部屋」を全長で引こう。
 
【母の部屋】
 
病院の午前四時に母は退院する
私は母と車に乗ってハイウエイを走る
夜明けが近づいても知らない 夜明けはもういらない
 
病室はただちに静かな空室にしなければならない
廊下は夜中息づいて様々なものを抱きこんでいる
私も廊下と同じ息づかいになった
 
苦痛が生み落としていく汚物
私もそれになった
 
ハイウエイの母と私
見知らぬまっ白な夜明けの部屋になった
 
恢復か寛解をみたのか、入院先から実母を家に連れ帰った事実にのった体験詩のようにいっけんおもえるが、一行目の「午前四時」からして現実性があやあやだ。常識ではその時間帯にひとは退院しない。舞台装置に「夜明け」が必要で、現実が歪曲されたということなのか。そうではないだろう。稜角がばらばらな水晶を覗きこんだようなゆがみは詩篇ぜんたいにわたっているのだから。
 
母の退院ではなく、「部屋をつくること」「部屋になること」がむしろテーマなのだ。部屋は三段階に変化する。「母のいる病室」「母の退院によって生じた空き室」「母と付き添いの私を運んでゆく、クルマという部屋」。後二者に曙光が浸潤し、ここでも「区別」と「同質性」が綯い混ぜにされている。結果、「これ」から「あれ」を分光して進展する矩形が、詩の進行にしたがって連鎖している感触がうまれる。
 
さきにみたように、おなじものの生成はちがうものを分離する。これが永劫回帰だとすると、この詩篇は生成動詞「なる」にたいし、ドゥルーズのように意識的だ。「私」は無生物へと生成する。なににでもなれるのが少女性なら、無生物への生成がもっとも少女的生成を過激化する。中本にはいつでもそんな残存がある。そうしてすばらしいフレーズがまず出来する――《私も廊下と同じ息づかいになった》。
 
中本は自分には信奉する詩語がないとあかすように、たとえば「汚物」など倦厭語彙をすすんでつかうきらいもあるが、第三聯一行めで唐突に出現する《苦痛が生み落としていく汚物》とは何の喩なのか。理知的には走行するクルマの排気ガスかもしれないが、この暗喩の解のおさまりはわるい。「汚物」は母の属性をかすめ母を汚物と規定し、それが「私」にも反射するためだ。第三聯には修辞の精確さが意図的に欠けていて、だから《私もそれになった》の二行めもでてくる。文法的には「それ」は「汚物」だが、この聯は暗喩のズレを感知させる点で換喩的だといえるだろう。
 
さきに言及した詩篇「緑」で「あれ」が解不能だったように、この詩の「それ」も解不能というべきではないのか。つまりすべての時空を整序づけるはずのシフターすべてが不可能だと中本はいうのではないか。なぜなら差異が同質に連鎖して同一性のかたまりが人界にできるためだ。「このひと」は「あのひと」でないのと同程度に「あのひと」だという同一性内部の乖離、分解。
 
だから《私もそれになった》の一文は、最終聯(第四聯)で《ハイウエイの上の母と私/見知らぬまっ白な夜明けの部屋になった》へと変成する。「それ」があっさりずれたときの時間の亀裂がみえる。最終行の語尾が「部屋にいた」ではなく「部屋になった」という生成文を喚起したことの、ずれのちいさな衝撃。ところがこの衝撃は同時にミニマル音楽のように脱衝撃的だという点が、このちいさな詩篇の味だろう。こうした「すくなさ」のなかで母と私とクルマと曙光が差異をもったままひとつに「なる」。
 
音楽の比喩をだしてしまったのでつづけてみる。非常勤出講先でぼくは日本のインディデュオ「テニスコーツ」の音楽を今週あつかった。80年代前半のベルギー・インディ・レーベルのような抒情性。「テニスコート」はもともと構成的な矩形だが、それが複数化された「テニスコーツ」になると、「構成的な矩形が構成的に連鎖している」「空間のあわさ」が印象される――だから「テニスコーツ」はうつくしいユニット名だと語った。そのあわい構成的な矩形連鎖は絵画でいえばモンドリアンに外在されるものではなく、クレーに内在されるものだろう。
 
詩篇「母の部屋」は「母の部屋」の生成変化をえがきながら、変化の音色がベルギー・インディ・レーベルの「すくなさの抒情性」に似ている。日本のミュージシャンでいえばブランキー・ジェット・シティ時代の浅井健一がつくったソロユニット、「シャーベッツ」のアルバム『シベリア』の最終収録曲「水上の月」の幻影性をおもわせる。そこにも奥行に向けた矩形領域の連鎖があった。手前から「コップの水」「レストランの透明なドア」「そのむこうの月下の道」だった。
 
(つづく)
 
 

2015年07月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

中本道代について・上

 
 
【中本道代について(上)】
 
『現代詩文庫197・中本道代詩集』には未収録だが、第一詩集『春の空き家』(82)にみえる詩篇「夜」も彼女の代表作のひとつだとおもう。全篇、転記してみよう。
 
【夜】
 
コップの水が
飲まれた
水は
どこにもなくなった
コップの中の空間はゆがんで
ゆがんだまま固定した
コップには
うすい影があった
立っているものにはみな
うすい影があった
しだいに白熱する電球の下で
女の顔が ガラス窓に
仮面のように
固定した
 
冒頭《コップの水が/飲まれた》がすでにして不穏だ。受動態構文が採られることで、水を飲んだ真の主体――たぶん「わたし」が詩文上、過激に消去されているのだ。この詩はそうした消去のあとの残響が主題になっている。
 
水を飲めば、水はわたしのなかへときえる。コップはガラス面の水滴をのこし、なにもなさを湛えるようになる。ところが「水がきえたこと」と「水があったこと」とのあいだには時間のゆがみがあって、そのためコップのなかはむしろ「いまも」ゆれながらとどまっている――作者はきっとそうみている。
 
「気配」はやがてうまれるもの、かつてあったものの両極で不可知性をただよわせる。それこそを現存とみるなら、すべてはうすい影になる。しかも現存はこの世に「立っている」。ふとんのまくらも、ゆかのスリッパも這いつくばるようにみえてじつは立っている。立棺のように。そのことがうすい影を感知させ、それが遡及して「かつてあったものの気配」になる。時間の可逆性のなかで、ものは在不在の双方に連絡している。
 
冒頭の受動態構文で「わたし」が消去されたのと似た機微がこの詩篇にさらにある。《うすい影があった》の一行挟んだルフランがそれだ。べつの言い回しが二度目の出現時に消去されているのだ。しかも二度というルフランの最小単位により、「すくなさ」がぶきみなしずかさでもたげてくる。「薄い」とせずに「うすい」としたことで視覚性は聴覚性の残響とつながる。
 
「わたし」は水を飲むという暴挙をおかし、食卓のかたわらに立ちすくんでいる。茫然という形容でいいだろう。コップにあった水と、「いま」「わたしに」「きえてゆく」水とが、ゆがみながら橋渡しをされている。すくない世界では同質性の置き換えが反響空間をつくる。そう気づくにはミニマルな感知力がそなわっていなければならない。
 
水を湛えていたコップがガラス質であったことと、「わたし」のいる個室にガラス窓のあること、これら入れ子状態の同質性がさらに作者に意識される。このとき、冒頭二行で省略された「わたし」が図像的な反響を敢行する。それでガラス窓に「わたし」が写っていると気づかれるのだが、それは「女(の顔)」というように、突き放された客観状態で形容され、「わたし」は固有性をきびしく剥奪される。この剥奪が反復された「固定した」へと残酷に結語されているのだった。「しだいに白熱する電球」が急迫を演出している。ひかりによって、ものはうすまる。
 
みられるように、中本道代の詩篇、その基本は「すくない」。詩的修辞と語彙と構文の種類が最小限に抑えられ、声はくぐもる。たとえばナルシスの自己愛の危険を気づかせるエーコ―の女声なら、それじたい魅惑や豊饒をしるしていてだから振り向かせることの蹉跌が哀しさにもわたったはずだが、中本の空間的な詩は、いわば提示された「うつわ」のなかで交響性を途絶えさせ、結果的には「うつわ」のみをのこす。だから彼女のすぐれた詩では、読者の側からの図示の欲求がおこるが、「うつわ」は「うつろ」のみをあふれさせて、図示の欲望に歯止めをかけてしまう。
 
しめされたことばによる方向や内外に読者がみずからを代入させることは、読んだ者を親和させる以上に、みずからをひとつの方向や内外に移行させ縮減させることで、読者側に換喩や減喩を結果させる。それにしても決定的な事後をはらんだ中本的な空間性のなかで、ほんとうのところ親和はなにに安らうのか。おおむねは平叙文でしるされ、誤読の危険がなく、文法破壊や散乱がないとみえる温順な中本の詩法で難問となるのはこの点だろう。このとき「清潔」とともに、「さみしさ」がひとつの積極的な価値をたちあげていると気づく。
 
『花と死王』(2008)の丸山豊賞受賞のあとの打ち上げだったかで、中本さん、井坂洋子さんと酒席をともにしたことがあった。中本詩の「すくなさ」が話題になった。このすくなさにより、ひとつの詩的把握とべつの詩的把握がひそかに直結し、目立たないながらも理路のくずれができる。読者はそこにみずからを代入するのだから、じっさいのところ中本詩では親和と非親和とが等価だ。ところが順脈がひそかな乱脈になるためには脈そのものの削減が必要だろう。それでみじかい詩を成就するために中本さんは相当の推敲(削減)をかさねているのでしょうと訊いたのだった。
 
中本さんはおよそ以下のことを語った。自分は膂力が「すくない」。だから一篇の詩はそのすくなさで精いっぱい「書いたきり」で、ながさを圧縮しているわけではないのだ。中本詩にきびしい推敲の痕を幻想していたぼくはおどろいたし、同席していた、彼女と長年の付き合いの井坂さんも、「推敲派」だとおもっていた、と驚愕を隠さなかった。つまり中本詩では、「すくなさそのものが書く」のが土台であり、「書いたものがすくなくなる」のではないのだった。
 
「すくなさ」は空間や時間とむすばれる。それで「空き家(廃屋)」、「水」(形象のすくなさを実現する)、「その先」(「ここ」「いま」のすくなさを反照する)、形容詞「長い」(事象判断の共通項をぐらつかせて逆に世界をすくなさの集合体へと変容させる)など、語彙上の媒質ができてゆく。奇妙なのは、「すくなさ」と双生関係にある「うつわ(のなかみ)」という語彙のない点だろう。このことがむしろ中本詩の空間性を確定する。うつわが具体化されるのだ。空間性と減喩が不即不離な点こそが中本詩の独壇場だろう。
 
中本詩のどこを読み、なにに感応するのかはかんたんなようで、むずかしいもんだいだ。おなじ『春の空き家』からべつの詩篇を引こう。
 
【季節の刃】
 
冬がおわるころ
雨がふるようになる
みぞれのときはかさがキシキシ音をたてる
女は血を流しているとき
ざんこくになり
顔がはれる
遠くをバスが走っていく
運転手が帽子で顔をかくし
乗客は窓にひたいをおしつけて陰気に走るバスだ
うもれている刃のきれはしのようなもので
空間はきずだらけだ
 
叙景詩のようにみえる。冬のおわりの雨はまぢかな春の到来を予感させるものだろうが、そうしたあかるさはない。いま降っているのが「雨」か嘘寒い「みぞれ」かすらはっきりしない。語法の不安定が意図されている。
 
かさが鳴るというとき、音響体は柄なのか骨なのか取っ手なのか覆いなのか。そうかんがえて、次の展開から生理中の内観をもちだして、傘と女と世界のすべてが、閉塞性を協和させて鳴っているような錯視へもおちいってゆく。「顔がはれる」がすごい。晴れる、ではなく、腫れる。むくみの域を超えている。なにものに殴打されたのか。
 
《遠くをバスが走っていく》と詩の主体がみるとき、主体とバス、あるいは道との位置関係を読者がかんがえはじめる。道の正面遠方にバスが存在しているとなれば縦構図だが、具体語にともなう根拠は薄弱なものの、ロングの水平構図をかんがえてしまう。主体はとおい道を真横によぎるバスをみている。だから乗客ひとりひとりが一覧できる。とすれば道は土手をとおっていて、主体はひくい湿地にいるのではないか。降雨による主体の濡れを倍化するよう読みが形成されてゆくのだ。
 
バスは「うつわ」で、きみわるい。図像化がはじまる。おしなべて乗客は窓にひたいをおしつけ窓外を窺っている。かれらは斥候だ。時刻が雨の降りそぼるうすぐらい昼か夕方まえだとして、車内灯との相関でかれらの顔は逆光のなか影につぶれているだろう。帽子をふかくかぶり、その庇で顔を影にしている運転手の「黒化」がそうして分有され、斡旋された語「陰気に」が実質化する。窓外をみる乗客からの標的の位置に、とおくぽつねんと「わたし」が立ち尽くしているとすれば、「わたし」はあいまいなまま乗客の閲覧あるいは遠隔窃視にさらされているのだ。懲罰なのだろうか。
 
注意しなければならないのは、先の詩篇「夜」とおなじ事態が起こっている点だろう。主語「わたし」は潔癖に排除され、一般名辞「女」がそこに代位されている。それが「女というものは……なのだ」という主体の押し上げ的な普遍化の罪をおかさず、いわば「わたし」の減算のぶっきらぼうな解として緊急避難的に置かれている。
 
この詩篇は力線をばらまいていて、それが一種の散喩を結果させている(『現代詩文庫・中本道代詩集』の論考で、鳥居万由実が中本詩の一潮流として組成の分散状態を指摘し、それらにあらわれる「部分」が「全体」を支えていない過激さを剔出しているのはただしい)。降雨の鉛直、生理の血の洩れ、バスの走路が志向する前方。これら方向のねじれる錯綜が真空化すれば全体が鎌鼬になる。
 
それで「空間」を「きずだらけ」にする「うもれている刃のきれはしのようなもの」が潜勢域から「気配」として浮上してくる。修辞に気をつけなければならない。「うもれている」「きれはし」「のようなもの」と、いわば出現する語のつらなりにたいし、三重にも抽象化(疎隔化)がほどこされ、可視性にとおいものがかろうじて気配として可視化されているのだ。減喩とよびたくなるゆえんだ。
 
「すくないこと」は通常、目減りの「事後」のようにいっけん捉えられるが、前言のように中本詩にあってはそれすら目減りの「事前」なのだった。もっというと、「すくなさ」「減り」は事前と事後にはさまれる「渦中」そのもののうすさがたたえているのではないか。この極点を見据え、中本的主体は異変に気づく。そうした事件性は受苦的存在に特権的なものだ。事前と事後を漸近させて得られる渦中のほそさ。第二詩集『四月の第一日曜日』(86)からその事例を出そう――
 
昼のいちばん深いところで
たえきれなくなり
ふいに自分を手放してしまう人がいる
――「祝祭」部分
 
女は自分の腕に口をあて
しだいに自分自身を吸いとり
形を崩していく
ついには小さくひからび
だれも見たことのないものになり果てる
――「悪い時刻」部分
 
これらでは「減少」と「自己蚕食」とが直結され、すくなさは刻々実現されるものとして、事件的で酸鼻な光景をくりひろげている。「人」は「女」にすりかわる。この詩脈を追求してゆけば、中本は恐怖詩の達人ともなったことだろう。部分的にそういう着想の実現される詩はこの後もいくつかあるが、その全面化をゆるさなかったのが、たとえば彼女の詩の美質「さみしさ」だったとおもう。
 
それでも不安定な光景性をもち、読者に図示をせまる点で換喩機能をもつ中本詩はつづく。たとえば「からだ」「開口部」「多数」「たてもの=うつわ」を詩の絵画的な主題にして、なにか定義できないものを叙景した詩篇「紐」は、カフカ的なリアルさゆえの不安定をしるすが、不安は詩篇タイトルを勘案して、なにが中心化されているか判明できない点からも、もたらされている。全篇を引こう――
 
【紐】
 
空は輝き
人は長い列になって立っている。
どの人も口をあけ顔いっぱいに笑っている。
そこらじゅうまぶしく白い靄のようなものが光っている。
人の列の頭の方は建物の長方形にあいた口の中に入りこんだままだ。
外のあまりの明るさのためその口はいっそう暗い。
もうすでにどれだけを飲みこんだのだろう。
のどから腹まで入っていく長いざらざらした紐。
屋上から黒い服を着た少女たち少年たちがのぞいている。
何かをさかんに叫んでは笑っている。
まっ青な空を背に彼らは烏にそっくりだ。
発光する靄はちぎれてはくっついてただよっている。
人のあいた口の端にも絡みつきそのうち細く中へ入って行くようだ。
体の中をらせん状に降りて行き底で重く堆積するもの。
列に並んでいる私がふと気づくと、人はみな口もとに金属の匂いを発散させて立ったまま笑ったままで失神している。
 
存在のくろい開口部は叫びのためにある。しめされる存在が多数化すれば、それは歴史上の表象にすらなる――そうしめしたのが、ゴダール『映画史』の一節だった。ところがこの詩篇で存在の多数はくろい開口を笑いのために消費し、そのズレをもって建物の開口部に喰われている。なんのための「長い列」なのかといえば、それは自己消去、順応のため、おおいなるもののためだが、建物はお構いなく、人びとを「飲みこむ」だけだ。
 
夢の記述とみえる。「空は輝き」と一行目で明言されながら、眼路の水平方向には「白い靄のようなもの」がひかりながら瀰漫していて、それら透明と不透明を現実文脈では了解できないためだ。
 
建物の口が人の列をゆっくりながらもつぎつぎ飲みこむ――そう叙景されていると認知した途端、建物は擬人化され、のどと腹にまで内部分節されて、逆に列は「紐」へと縮減される。それだけでもう一幅の恐怖絵図なのに、またもや力線が錯綜し、建物屋上の少年少女たちの哄笑が「烏(からす)」の比喩をともなって挿入される。一瞬にして、「開口」は列の人びとの顔に逆位され、少年少女たちの哄笑が靄をばらまき、それらが人びとの口にはいってゆくことになる。建物=人体=うつわの等式連鎖。
 
咽喉の奥は腹までふかい。だからそこへ浸すようにはいってゆくものは紐状にながくなければならないが、時間を巻き戻せば、サナダムシのようなものを嘔吐しているようにすらおもえないか。そうした時間の可逆性の公算が、事前と事後のぎりぎりのすきまで停められて、紐、体内らせんがおなじ形状となり、それが体内の「堆積部分」をつくりあげている認識にいたる。魔術的な構文がもちいられていないのに魔法が出来している点には驚愕しなければならない。
 
「紐」といえばおもいだすのは河原枇杷男『閻浮提考』のつぎの一句だ。
 
秋の暮掴めば紐の喚〔おら〕ぶかな
 
紐がたとえばどこからどこを垂れ、掴まれて、しかもその叫喚の理由がわからない(理路が減らされている)――と捉えれば、この一句は減喩句の一大達成ともみえる。足りないことが(ことば上)みちて、そんなものに感銘をうけることじたいに、ぶきみがはしるのだ。
 
実際、紐は遍在している。空の組成基礎となり、多時間の相互性となり、ひとの臓器のチューバのようならせんをおもいたどることでも紐が出現し、さけびのながさそのものが発声のフキダシ(バルーン)を紐状へも変成させる。紐は他者とのあいだにあり、他者をしばり、そのしばりが同調にすりかわって他者との無限関係を列につくりかえる。紐は嘔吐の実質であり、時間を逆にすれば喰われるもののすべての形状だ。
 
紐はどう殺されるのか。紐ではなく、鏡の殺しかたなら知られているだろう。鏡面と鏡面とを真向かわせ密着のまま鏡板を縛りつけるのだ。停めること。すると、紐を発散させ、紐を飲みこむ開口部を「固定」しなければならない。ところが固定=停止はじっさいには「穴」にたいしてなされるのではなく、時間にたいしてなされるのだ。対象の空間化はそうして時間化へと飛躍する。しかも飛躍したまま凍結される。
 
もういちど気味のわるいこの詩篇の終結部を貼ろう。《人はみな口もとに金属の匂いを発散させて立ったまま笑ったままで失神している》。笑いながらストップモーションをかけられて、死が笑顔になる特権が、なぜ女の作者から女の作者へと脈動してゆくのか。斎藤恵子の詩篇にも以下のフレーズがあった。
 
のどもとから紺青にそまってゆく
笑いながら死んでいったものたちが
底に折りかさなっている
――「機織」(斎藤恵子『海と夜祭』)最終聯
 
(つづく)
 
 

2015年07月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

まぼろしの卵料理

 
 
【まぼろしの卵料理】
 
このあいだ、ぼやっとTVを観ていたら、「複合料理の愉しみ」が紹介されていた。ひとつの料理の手順はこうだ。ドライカレーをつくる。それをオムレツでくるむ。上にスライスしたとんかつをのせ、カレーソースをかける。それで「ドライカレーオムレツカツカレー」のできあがり。コツはとんかつの肉をうすくのばして揚げることだそうで、スタジオのタレントが「旨い旨い」と食べていた。「一挙四得」という感じだろうか。
 
ただし複合という看板にたいし、カレーの二回登場するのが不純な気もする。ほんとうの複合は「完全に別種なものの重畳」にあらわれるのではないだろうか。
 
それで自分なりの「純度のたかい卵料理の複合」をおもう。もともとぼくは卵料理が好きで、通常、茹で卵、オムレツ、目玉焼きそれぞれを順繰りにしている。で、罰当たりな架空レシピをかんがえてみた。
 
1) 茹で卵を微塵切りして、マヨネーズあるいは少量の温めたホワイトソースにあえておく。できれば玉ねぎとパセリのみじん切りをくわえておくといいかもしれない。二人分なら卵は二個。

2) 上記1を半熟オムレツでくるむ。二人分ならこれも卵二個。遊びとしては炒めた微塵切り玉ねぎと牛ひき肉もくわえてつくると、ランクアップになる。
 
3) 上記2に半熟目玉焼きをトッピングする。卵二個。これにケチャップを点々とかける。以上、分量は二人分。
 
4) ちなみに上記1~3はそれぞれうすく塩コショウをしておく。
 
5)付け合せは絶対マッシュポテト。粉チーズを大量にくわえておいてもいい。それと大量のクレソン。これらを上の卵料理とまぜて食べる。
 
どんな味だろうなあ。とろりと卵の複雑な味がするだろう。ダリ的だが、かんがえるだけで興奮する。卵の基本料理(洋風)の「イイトコ一挙どり」になるのではないか。吝嗇と効率性の饗宴だ。
 
かつて卵はコレステロール上、一日一個までと提案がなされていたが、最近、それは嘘だ――幾ら食べてもいい――という週刊誌記事があったようだ。それで少年時代から夢想していた上記レシピをつづってみた。コンソメジュレの角切りが皿に散らされていればさらにオシャレ。料理は発想が偏執的でありつつ、なおかつかわいい、というのがオルタナティヴだろう。
 
そういえば往年、四方田犬彦さんの『食卓の上の小さな渾沌』で、多様なパスタのちがう細さ(ちがう茹で時間)に応じて、順に多種のパスタを茹で鍋に時間逆算で投下してゆこう、という条件のパスタ料理もあった。氏曰く、噛み応えが幸福に複層するとか。あれも偏執狂的かつプリティだった。
 
 

2015年07月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

山わさびたら子

 
 
【山わさびたら子】
 
土曜日は天候もいまひとつで、ならば来札した女房と、一日バス乗車券でバスのつなぎ小旅行でもしようかと、札駅バスターミナル(JRバス)のバス路線図をみながら行先をふたりして相談していると、見知らぬ老夫婦から積丹半島・古平の新家〔しんや〕寿司が旨いと話しかけられ、予定を変えてバスの長距離移動でその古平へ行くことにした。
 
いまだに『マッサン』ブームがつづいていて余市のニッカウヰスキー蒸留所までは道路が渋滞、その後はすいた。それで古平に着いたのがちょうど昼時となった。迷わず新家寿司にはいった。迷ったのは、うに丼にするか地魚握りセットにするかだったが、後者をえらび、カウンター席でぱくついた。世評どおり、やすくて旨かった。土瓶蒸しとエビの殻焼き付。堪能した。
 
二階に大人数の団体客を入れた混雑のさなかで(そのためクルマで通るフリの客を制限するため道路に面した入口シャッターを閉じていた)、寿司を供するのが遅れるかもしれないといわれたが、大将の手さばきが神業のように早く、待つこともほとんどなかった。
 
客あしらいのあかるく多弁なおかみ、その夫の大将、それと夫婦のたぶん息子の三人体制で、そこに地元のパート女性陣がくわわっている。ベテランのパートのおばあさんがうに丼の担当らしく、ミョウバンに漬けられていないナマのバフンうに、ムラサキうにを素手で手早く、酢飯を張ったお重にペッペッともりつけている豪快さにおもわずわらってしまった。団体用のうに丼が次から次へと完成されていった。
 
どこにでもあるような夫婦行脚。食後、古平のさみしい、ときには小雨まじりの漁村をぶらつく。漁船はもやい、漁師はいない。ひと気がない。そのうち「かねきち吉野」という小ぶりの水産加工場兼直売所が眼にとまる。はいってみると、古平の名産・すけとうだらからのたらこ加工品などがならんでいた。そこで「どこにもないもの」と出会う。
 
一体に北海道はたらこの水揚げ量全国一だが、たらこの加工品には恬淡で、デパートやスーパーの魚コーナーにも「ふつうのたらこ」が「ふつうに」売られているだけ。たらこはそのまま食べれば充分という、気のないスタンスみたいだ。むろん東京のデパートなどではいまや「めんたいこ」のほうが優勢で、博多の評判店からの名物品さえ目白押しだが、札幌ではめんたいこの比率がすごくすくない。つまり北海道から取り寄せたたらこを博多がめんたいこにして、北海道以外の全国に売っている。一次生産品だけ全国にながして加工品をつくらない、相変わらずの北海道産業の典型のひとつがたらこなのだった。
 
「かねきち吉野」はそうした風潮に一石を投じようとしているらしく、たらこの北海道ならではの加工品の品ぞろえを、ちいさい構えのなかに誇っていた。とうぜんめんたいこもある。ほかにはつぶ貝の塩辛もにしんの加工品もある。おばあさんの売り子の熱心に薦めるなかから、「やまわさびたら子」を買ってみた。あの静岡名産のわさび漬けの味がたらこに浸潤している、というあたらしい発想の品らしい。
 
翌日からごはんの供にと、食してみると、これがじつに旨い。女房も、あんたのつくる、チューブねりわさびをしぼりこんだめんたいこスパゲッティにつうじる味と絶賛。めんたいこをはじめて食べた小学生のときの驚きが、べつの味ながらたしかによみがえった。道産のたらこ加工品としてこれは全国制覇すら可能なのではないか。とはいえ、古平の港に「ひそかに」という印象で直売所をひらいていたあの「かねきち吉野」は、北海道のデパートに出店するなど積極的な営業展開をしておらず、「山わさびたら子」も現段階では知るひとぞ知る逸品の域にとどまっているにすぎない。
 
いずれは――たぶん十年後くらいに――名産品になるはずのものを、「いま」食べているという不可思議な感慨は、どこかで「味の未来」に接している体験の錯綜ともふれあっている。このことも、旨さに輪をかけているかもしれない。
 
滅多にしないことだが、このお店の連絡先を書きとどめておこう。
kanekichi@tarako-tarako.jp
 
当日は帰りのバスを待つあいだ、さらに古平の町を女房とあてもなくぶらついた。吉田一穂の詩碑があった。もっと行くとちいさな川の河口があって、そこにウミネコがいっぱいいた。一羽だけ、黒いウが羽をひろげて、周囲にウミネコを遠ざけていた。羽をひろげたまま静止している。まったくうごかない。そのすがたが威厳ある魔王みたいだった。
 
 

2015年07月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

アート・声・数

 
 
数日間、FBへの記事アップをさぼった。ゆううつだったからだ。
 
ひとつの要因は天候だが、もうひとつの要因はとうぜん安保法案(戦争法案)の衆院通過だ。さすがに反対デモが各地で大規模に起こったが、傲岸不遜な内閣がそれでゆれることはない。60.6.15とはそこがちがう。これも安倍の「祖父超え」なのだろうか。こんご参院でも審議遅延が生ずるだろうが、60日ルールで破滅傾斜に変化は起こらないだろう。
 
自衛隊員を庇護しろということではない。戦争放棄だけが、日本の歴史的なアジア侵略、それへの贖罪証明だったからで、その証明の無化は近隣国への完全失調まで付帯させるとおもう。しかも戦後民主主義というのは一定の世代のアイデンティティの中枢でもあったはずで、それが崩れることは、実際は身体の滅亡すら結果する。これが為政者にはわかっていない。ほんとうのもんだいは国民の身体がまもられていないことなのだ。
 
むろんいろんな意味で「デモが起きない国」というレッテルは剥がれたとおもう。それでも今後の参院での審議に同調するように、ゼネストのおこなわれる国ではない。捨て身の精神がうしなわれているのだ。この風潮をつくったのが個々人の多忙意識や生活防衛意識で、だから不況化はその意味では国民の牙をぬく作為的なものだったといえる。民主党への一旦の政権交代すら、対抗勢力を完全壊滅させる何かの意図のうちにあったのかもしれない。
 
港千尋さんの本は、出ればいつも愉しみに読むが、新刊『革命のつくり方』はいまとくに参照されるべきかもしれない。副題にあるように、台湾ひまわり運動を契機に、対抗運動の創造性をさぐる、運動神経のすばらしい、写真付きの国際ルポルタージュだ。現在的な対抗運動の創造性は以下に要約できるだろう。
 
1. 場所へのリアリズム、叡智。
2. メディアミックス(とりわけケータイによる実況化)。
3. ブリコラージュ。
4. 運動に弱者(女性/老人/ハンディキャッパー)を内包していること。
5. 攻撃化ではなくアート化。
6.声。
7.数。
 
これはラッパーたちの混ざっている現在のサウンドデモ風のデモでも部分実現されていることだ。若い世代がもっと過激になればいい。その予兆はみられるようにすでにある。ロストゼネレーションが拡大して、捨て身精神がつよくなっているからだ。そのときの「身体」がどんな様相をもつかをかんがえている。ただし5と6と7――つまり「アート」「声」「数」は、いまだに足りない。
 
 

2015年07月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ネタバレについて

 
 
土曜日に書いたチョン・ジュリ監督『私の少女』評は、最近になく長大な分量になってしまった。この作品は、中盤以降というか終盤にいたり意外な展開の畳み掛けになるが、その部分を【以下、ネタバレ】と明示してさらに言及・分析したら、それまでの文章とほぼおなじ分量を費やしてしまったのだった。ただし作品の「全体」をとらえるためには仕方がなかった。
 
ネタバレは現在、はげしく嫌われる。とくにネット時代、だれもが書くようになってから、ミステリー小説の犯人、結末のどんでん返しなどを得意顔でしるす者の、「まだそれを知らない者の愉しみを事前にうばう越権」が糾弾される。だから学術的なミステリー分析などがネタバレ可の例外となるだけだ。むろんそれは学術の鎧にまもられている。不特定多数が閲覧できるネット文章では、事前のバリアすらなく、けっしてそうはならないだろう。
 
ぼくがネットで映画レヴューなどを発表するばあいには、その詳細な分析が劇場体験じたいの代替にならないよう、ラストのごくわずかを「ぜひそれは実地見聞を」と書きのこすことが多い。興味によって対象をぎりぎり吊るのだ。たいていぼくの文章は多中心的でバロックだから、なにがネタバレになっているかわからないともいわれる。映画を鑑賞したひとにのみ、ほんとうに腑に落ちる詳細を全的に展覧しようというスタンスだ。
 
ともあれネタバレ攻撃は、評論の全体性を「得意顔で」抑圧する「評論嫌いの態度」をふくんでいて、これまたネタバレ文章同様に傲慢だ。傲慢vs傲慢は利権衝突の熾烈さをあらわす。排他的な図式のなかで再獲得の目標になっているのが自己愛だ。ただし現在はもともと評論が倦厭される時代だから、こう語られるだろう。映画など簡単な印象批評でいいではないか、ネタバレの地雷を踏まない好態度で、友だちか有名人かが褒めていることのみ重要だ――と。
 
むろんネタバレ批判が全的な評論を抑制してしまう事態は、やはり看過できない。ネタバレする評論は学術本か学術誌に書かれればいいといわれるかもしれないが、そこは専門家需要域で、読者数などもともと期待できないのだった。たとえば映画ではそれが困る。
 
ミステリーの犯人やどんでん返しを先行者の特権で場所も弁えずに明示してしまうのは論外だが、意外な結末にふれている文章そのものは、その精度の質によってのみ擁護されるだろう。他の部分の精度がネタバレ部分と有機的に連続していれば、文章全体の組成が一体的に納得されるということだ。こういうと元も子もないようだが、つまり良質な評論だけが、ネタバレの結果させる驕慢を回避できる。この意味で現在のネタバレ糾弾の風潮は、逆に映画評などへのとりくみに正しい緊張をあたえるともいえる。
 
映画とは奇妙なものだ。それは鑑賞が鑑賞のみならず、祝祭的なイベント性をも包含するためだ。ただしぼくの評論対象には、おおむねそんな派手なパッケージはない。書かなければより見逃される脆弱な対象でしかない。そんなわけで、時と場合によっては【以下ネタバレ】と明示することで、観客の愉しみを最小限まもればいいのではないか。【以下ネタバレ】以降は、おのぞみなら作品鑑賞後に読んでもらえばいい――そんな二元性を慣習化したい。
 
かんがえてみれば、たとえば詩篇の分析にはネタバレがない。終結部は印刷されたものの同時性として実際は読者の眼にほぼ一挙に明示されるし、詩篇の終わりかたにも評価のひとつの基準があるのだから、かえってネタバレしない評のほうが不完全という逆転まで生じてしまう。
 
音楽評にもネタバレがない。けれども漫才評やコント評にはネタバレがある。こうして例をあげればわかるように、時間芸術か否かという区分ではない。いうなれば抽象性(詩と音楽)と、具体性(映画とミステリー小説と漫才とコント)とが、メディア形式のなかで一般的に二分されていて、その弁別線がネタバレ忌避という極点から反照されていることになる。ネタバレ攻撃はメディア批評をふくんでいるのだ。ただしじっさいは、詩も音楽も具体(技術)的だという着眼がこの趨勢には脱落している。
 
 

2015年07月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

チョン・ジュリ『私の少女』

 
 
【チョン・ジュリ監督『私の少女』】
 
韓国の女性監督チョン・ジュリによる、これが長篇第一作という『私の少女』(2014)は予想を上回る傑作だった。予想というのは、劇場予告篇やチラシなどで、「エリート女性警察官」が「虐待されている少女」を救う正義の物語だろうと高を括っていたためで、その大枠を超えてゆく終盤は「予想しなかった展開」そのものが圧倒的に「複雑な」映画的感動をもたらした。
 
まず結論を抽象的にいうなら、正義の映画に終始するものなどではけっしてなかった。観客に「みえたことのみを信頼する」選択を厳しく付与する倫理的な映画だったし、しかもなお、僻村をおおう「前近代的な非開明」「悪の連鎖」、そこにひそかに横断するフェミニズム由来の「やわらかい光明」を見分けさせるという意味で、視線の精度すら問う挑発的な作品でもあった。
 
札幌シアターキノで上映が開始されたのは6月20日。昨日が上映最終日だった。その最終回に、ペ・ドゥナの主演作はやはり観ておこうと駆け込んだ。結果はもっと早くに観て、学生にも薦めるべき上述のような傑作だったわけで、以下の感想ネットアップも公開期間に間に合わないことになる。キノにも申し訳ないことをした。このタイミングなので、あるところからは注意喚起を明示してネタバレの域に論評を踏み込ませることにする。
 
映画は古典的な「ものがたりの単線」をえらぶ。一人物がある場所に来て、土地柄やそこにいる成員を順番に説明されるうち、作品の用意する関係構成そのものが、観客にまで伝えられる。中心化されたその一人物と、観客がおなじ場所を得る、ブレのない結構。この結構を脚本も手掛けたチョン・ジュリ監督は、無駄のない適確さで消化してゆく。古典的な語りが可能なスタチックな才能。それにたいする信頼がまず惹起されてゆく。
 
ところが最後のくだりを観、この映画の最初のくだりを遡行的に捉えなおしてみれば、監督の仕掛けはそれだけではなかったとわかる。ともに進行するクルマのフロントグラス越しに、前進移動で風景の変転が捉えられ、最初はペ・ドゥナ扮するヨンナムひとりの運転だったものが、最後はヨンナムが救い出した少女ドヒが助手席に同乗している「加算」が生じた――とりあえず作品は相似設定による円環構造をもつ――じつは問題はこの点だけではなかった。
 
最初のくだりでのクルマの移動は、フロントガラス越しによる前進移動光景、運転するヨンナムの後姿を入れ込んでのクルマ後部からの前方へのショットと、展開のはじめが二分される。最初は暗い日中の雨。次第に雨が晴れる推移があり、行路のながさ、つまりヨンナムの目指している場所がいかに僻地かが間接的に伝達される。やがて横の車窓はるかに海がみえはじめ、クルマが海岸地方に到達したとわかる。
 
陥没があちこちにあり水溜りをつくっている整備されていない田舎の道路で、異様さを印象させ道路脇にしゃがんでいる少女(のちに彼女がドヒという名だとわかる)にたいして、クルマの走行がはげしい泥はねを起こす。ヨンナムはクルマを停め、いそいで少女に詫びを入れようとするが少女は逃げ出してしまう。少女が駆けるのは稲田の一本線の畦道。ロングの縦構図で「線」に分け入って線型が遠ざかってゆく運動が印象的に捉えられる。
 
もしかすると、会田誠の奇作「あぜ道」が参照されているかもしれない。ツインテールにしたセーラー服姿(それだけでロリコン萌えを形成する)の少女、その後頭部が一直線の奥行に稲田の畦道をみている。少女の後頭部を貫通する頭髪の分け目と、畦道とが、挑戦的な遠近法として同一線上に配剤されている。結果、風景の少女化が起こり、「農」の領域が脱文脈的にざわめく。同時に、稲穂のなかの一筋という図像性は、対象である少女に育ち始めた女性器の形状をも妄想させる。もし会田のこの絵画に監督チョン・ジュリが敬意を払っているとするなら、田舎の僻村を舞台にした『私の少女』に伏流しているものはモダンな感覚だという判定が生ずる。
 
雨が晴れに転ずるという天候変化は、作品の終結部のもつ価値転位の予告とみえる。ところがラストではそういった予定調和性を上回る加算がみられる。最初のシーンにはなかった、横位置からクルマの移動を並行的にとらえる移動ショットがあって(じっさいは、クルマのボディサイドに装着された張り台から撮影されているのだろう)、雨粒に覆われた窓の向こうにみえる少女ドヒの顔が大写しになるのだ。物憂げな顔。映画の最初に定着された童女の風情からすでに脱し、終盤では少女的エロスが兆している。
 
このあたりからエンディングのために用意されたウィスパー女声歌唱によるギターアコースティックとディレイをつかった夢幻的なバラード(人魚の歌?)がながれはじめる。4ADでのエリザベス・フレイザーのソロ曲のような、作品の雰囲気に合致しない卓抜なセンスのエンディング曲だった。監督自身のセンスはやはりモダンなのではないだろうか。
 
それは「横から」という方向性にこそあたえられたオルタナティヴだった。最初の段階、村へのヨンナムの到着をしめすときには「奥行へ」「真理へ」という方向性がしるされただけだったとすると、ラストの一瞬に現れる「横から」は、作品の滲ませる、未来へとわたる本当の暗雲をしめしている。とりあえずラストでドラマ上は光明が生じたはずなのに、そこに降雨のシミがつけられている。その中心人物が車窓の雨滴越しにとらえられた少女ドヒなのだった。
 
「縦」「奥行」は作品の勘所で反復される。少女ドヒに仄かに、しかも反価値的にアリス的な夢幻性を付与したことを、監督チョン・ジュリはそれで表現しようとしている。田舎の漁村に、「訳あり」で警察所長として赴任したキャリア警察官ヨンナム(これが不祥事後の左遷だったことがやはり作品の適確な進行で判明する)はおなじ学校の生徒にいじめられているドヒを救いだし、そののちドヒの深夜の浮遊を、気配をかんじ、なにか夢幻性に囚われたように追う展開となる。月明下の細道が奥行へ奥行へとのびてゆく。
 
この作品では酒が飲まれる場所、さらには「道」の描写が素晴らしく秀逸なのだが、ドヒの特権的な場所が、貧しい港湾部に突き出たシンプルな桟橋だという点は、2シーンの複合によって判明する。そこでドヒは苛酷な家庭環境から抜け出てダンスの練習をしている(劣悪な生活環境にもかかわらず身体能力のたかさが窺われる)。桟橋は、奥行への伸長が中途で挫折した図像性をもつ。すなわち奥行の不可能性こそがドヒの棲処だったのだ。
 
ペ・ドゥナ扮するヨンナムは正面性対峙を身の置き方の基本にする。ドヒにたいしても、ドヒの継父ヨンハ(この二者にたいしてはヨンナムの住居のドアの開口がとくに付帯する)、のちに重要な役割を担って登場する女ともだちにたいしてもそうだ。あるいは交番と警察署との中間形態にある勤務場所、その入り口にだれかが事件性をもたらして登場する場合にも、勤務場所の奥行から彼女は来訪者に正対している。
 
それにたいし、ドヒは正対を無効化する位置に身を置く、存在方法のオルタナティヴを変奏する。ヨンナムが風呂にはいり、飲酒をしている。就眠の準備と作中で説明されるが、そのからだの「冷え」を癒すことは存在論的な要請なのだろう。トイレと一体型の風呂場に、小用でドヒが入ってきて、小用ののち湯舟にみずからも入る。このときはヨンナムの背中側に密着する。だからふたりのやりとりは成瀬的な、相互の顔が前方に向いた縦構図となる。ところが縦は密着により距離感を殺されている。
 
そうして縦を無効化させたのち、家庭での虐待から救い出されてヨンナムの仮の居宅に入り込みベッドをあてがわれていたドヒは、とある深夜、居間のソファーに眠るヨンナムの「横から」密着して、「ともに眠る」姿勢をとるだろう。ここでは距離の抹殺と「横から」の方向性が複合する。
 
終盤、ドヒの義理の祖母の死因をヨンナムが問い詰めるクライマックスがある。このときはヨンナムの深刻な闡明態度により、ドヒが正対をしいられる。ところがナメ構図、後姿のヨンナムの顔の間近で、ドヒの落涙が降雨そのもののように圧倒的なうつくしさを帯びる。この異変により、正対がそのまま密着して、正対性を殺されているような感慨がやはり生じてしまう。ドヒが「横から」を戦略にする点は、継父を性的暴力の嫌疑にかける謀略場面にもあきらかだろう。
 
話をいそぎすぎたかもしれない。忘れないうちに作品の前提をしるしておこう。舞台となるのは朝鮮半島のリアス式海岸のどこかに存在するまずしい漁村。おとなしく左遷期間を一年ほど勤めあげればソウルへの復帰も約束されていると先輩上司から太鼓判を捺される女性キャリア警官ヨンナムにとって、「僻村の非開明」が次々に露呈してゆき、やりすごすべき一切に、彼女は巻き込まれてゆかざるをえない。巻き込まれ型サスペンスの「奥行」を作品はひそかにもつ。
 
彼女の引越し荷物のなかにペットボトルを並べていれた重い段ボールがあり、それをあたらしい同僚の助けを断って、彼女は新住居(一軒家の二階部分)に自身で運びいれる。むろんここでそれがなにを意味するかの伏線が張られる。やがてコンビニ酒屋での真露的な透明な焼酎の大量買い、そのあとの水用の大型ペットボトルへの移し替え(なんとその蛮行は夜の酒屋の入り口そばに停めた車中でおこなわれる)により、彼女自身のアルコール中毒の深甚さをつたえてくる。負荷を背負っているのはドヒだけではないのだった。
 
整序された順番ながら、やがて「悪」が作中に満載される気色になってくる(以下、悪については鉤括弧付でしるす)。まずは少女ドヒの局面からみてみよう。おなじ学校の生徒から「いじめ」に遭っていた。その理由はたぶん彼女が汚く、打ち解けず、コミュニケーションの輪から外れた周縁存在だという点による。このために彼女は作品に出現当初、外景の周縁部分に身を置いていた。彼女の家庭環境に問題があった。ドヒの実の母親は「育児放棄」をして出奔していた。継父ヨンハがドヒを憎むのは母親に類似した表情造作と「淫蕩」の血がまだ幼いドヒ(小学校高学年だろうか)に二重写しになるためだ。
 
ドヒの祖母の不慮の死(荷台付オートバイ=変型トラクターのようにみえる=を運転中にまるごと落下、溺死した)があったのち、すでに温かい(それでもいじめられたままではダメだという峻厳な)警告をヨンナムから受けて、ヨンナムのあとをことあるごとに追うようになっていたドヒがヨンナムの居宅に転がり込む。このとき雨で冷えたからだを温めようとドヒを風呂に入れて、ドヒの裸身(画面では背中がしめされる)に深刻な「虐待」痕をヨンナムは見出す。
 
こうしるすと、ドヒは受難の渦中にあるだけのようだが、実際は魔性を秘めている。のちあきらかになるのは、「虚言」「陰謀」さらには「殺し」なのだが、これについては後段にゆずろう。
 
村に唯一のこった“ヤングマン”の継父ヨンハにたいし、その生業の乱暴な切り盛りには警察レベルでの黙認が働いて、庇護の擬制が成立していると次第に理解されてくる。彼は、ブローカーをつうじインドや東南アジアからの「不法」就労者を買い、「劣悪な低賃金」で漁業に従事させ、就労者の親の危篤にさいしても帰国をみとめない「恐怖体制」による「労働強要」をおこなっている。「酒癖がわるく」、「義娘に手をかける」だけではないのだ。ここに女性警官ヨンナムの「アル中」さらには「性的選択」までもが関わるのだから、この僻地の閉鎖性のなかに、悪が満艦飾にひしめいている気色になる。ヨンナムの段ボール内のペットボトルと事はどうようなのだった。
 
悪の多形的な満艦飾状態といえば初期の三池崇史が得意の主題としたものだが、三池とはちがった経路で監督チョン・ジュリは悪の転位を図る。三池が悪の魅惑的な無限化を悪の速度拡大から志向したとすると、チョン・ジュリは悪の生起する場所の、グローカリズム的な普遍性を剔抉し、それを貧しいながらもうつくしい風光によって囲んで、悪を減殺する。チョン・ジュリの悪の哲学は風合がやさしい。
 
作品で酒の飲まれる場所、あるいは道の風情がすべて実在性に富み、材料のすくなさをはねのけて映画的にすばらしいとは前言したが、たとえば普段は漁網を編み直すだけで無聊をかこつ村の中年以上の主婦らが蝟集する“何でも美容室”の空間の、すかすかな充実感と実在性はどうだろう。あるいは悪の権化としてみなされそうな、継父ヨンハとその母(ドヒにとっては義理の祖母にあたる)の、不逞な悪の活力はどうだろう。ヨンハにいたってはその千鳥足すら逼塞の哀しみをふくんですばらしいのだ。悪に区分される者たちに実存の魅惑をあたえる。こうした二面性が、作品の奥行を豊饒にしている点が意識されなければならない。この監督は告発しない。もっとふかい奥行を世界に見据えている。
 
俳優の「みえかた」の多元性という点で、監督チョン・ジュリのフェミニンな感覚がそのふかい部分を統御している点にも気づく必要がある。肩章を警官制服に負うペ・ドゥナ扮するヨンナムは、中盤以後に現れる女ともだちから、「髪を切って」「ダサくなった」といわれるし、職業柄、あるかなきかのナチュラルメイクで通している。ところが制服の下半身のパンツルックが、ボディコンシャスを意識させずにそれでも颯爽としていて、採寸の絶妙さをおぼえずにはいられない。それで彼女のあるきや走りに一層の躍動がしるされる。「やつし」がそうなっていない制服姿ということでおもいだしたのが、TVドラマ『青い鳥』での、豊川悦司の駅員制服姿だった。ペ・ドゥナを裸身でつかいとおした往年の日本映画の暴挙は、なにを着てもそこに花を添えるペ・ドゥナを目にして、いまだに告発されつづける必要があるとおもった。
 
ところで、俳優の容姿にかかわる多元性という点で、ほとんど恐怖の域にさえ達しているのが、ドヒを演じた子役キム・セロンだろう。彼女はざんばら髪、愛情を配慮されていない、あてがわれた着衣(しかもそれは着倒されている)、顔の汚れ、顔の暴力痕によって、「やつし」の極限にいる。汚いだけではなく、表情の端々ににじませる卑屈さ、相手の反応を測る狡猾さなどにより、実際は観客に、「身の毛のよだつ」感触をあたえるはずだ。ところが彼女には、劇中、ダンスの才能、TV画面でのタレントの振りの高度な模倣能力、芸の再現能力があたえられ、才能や生存の「奥行」が暗示される。それだけではない。さすがに彼女の恰好を見かねたヨンナムによって「可愛い」「その年頃用の」衣服を恵まれた途端に、危険な色気がその身体と顔から揺曳するようになる。
 
絶妙の起用だった。ドヒに扮したキム・セロンは、表情に貧しさと邪気をただよわせながら、その造作が将来の美人ぶりを予定している多重性をもっていたのだ。作品が要請する栄養失調により細身で最初現れた彼女は、夏休み一杯という条件でヨンナムの庇護下に置かれ、摂取栄養が潤沢になると、微妙な性徴をしるしてくる。夏休み前に着ていた制服がきつくなったとしめされたとき、この点がはっきりする。それが目出たいのではなく、むしろひそかな淫蕩性を発現してしまう点が、作品の恐ろしい終盤を用意することになる。それまでは魔性出現にむけての序曲にすぎなかったのだ。
 
子役キム・セロンに演技上あたえられた最大の試練は、「自罰」「自傷」の表象だった。卑屈に相手の顔色を窺うだけなら彼女の艱難は受動の位置にすっきり収まるが、その存在の困難にチョン・ジュリの脚本は、統御不能性を上乗せする。だから「かわいそうな子の救出」の枠組から作品じたいがとりあえず離脱することになる。のちに詳述するヨンナムとその旧友の再会時、キム・セロン=ドヒはヨンナムの居宅に置き去りにされた。帰宅確認などのためケータイで幾度もヨンナムに電話をかけるが、やがて煩がられて電源を切られ、救出の希求は黙殺される。
 
もともと継父ヨンハが、曰くありげに、「壁に額をぶつけつづける」ドヒの自傷をニヤつきながらヨンナムに示唆していた。その凄惨を深夜、居宅にもどったヨンナム自身が目の当たりにする。10歳前後ながらベッドで飲酒をつづけ顔を赤らめて朦朧とさせたドヒが(ヨンナムと一体化するために、その制服を羽織っている――してみると、飲酒もまたヨンナムの模倣だ)、観客自身の痛覚を刺戟するような強度で壁へ額を打ち続けていたのだった。ヨンナムは必死に止めることになるが、このシーンの衝撃が余剰を喚起することになる。「アル中」「児童虐待」「労働疎外」など「悪」のヒエラルキーのオルタナティヴに、至高の悪、つまり「自傷」が伏在しているというのが、この女性監督のほんとうの見切りなのではないか。
 
【※以下、ネタバレ】
作品が転調をしるすのは、交番=警察署に、土地柄とは異質な派手な恰好の、ヨンナムと同世代の女が訪ねてきたときだった。作話のながれからして、それをドヒの実母ではないかと誰もがおもっただろう。ヨンナムは顔色を変え、当日の早退を部下に告げ、女とふたりながらに居宅に戻り、制服からの着替えを済ませ、同居するドヒに留守居を依頼、遅くなるとだけ告げ、女とともに居宅をあとにする。このときの女とドヒの対峙の質から、その女がドヒの実母ではないとまず明白になる。
 
客がほとんどいない閑散とした呑み屋で、ヨンナムと女の酒席対峙がはじまる。対峙といったが、ヨンナムは女にたいし斜に身を構えている。女は地味になったヨンナムの容色をあげつらい、返す刀で左遷に耐えるヨンナムの人生選択の無意味を説き、「やりなおそう」「オーストラリアに一緒に行こう」と使嗾する。女の熱意にたいし、ヨンナムは焼酎をあおり、気まずい膠着がしるされる。このあたりでふたりがかつて同性愛カップルで、それが威信に重きを置く警察に筒抜けになって、ヨンナムが「飛ばされた」事情が完全に把握されてゆくことになる。
 
ヨンナムはその場では相手の申し出に同意しなかった。職務放棄して、ドヒを虐待家庭の惨状に引き戻す不正義をかんがえもしただろう。ふたりはとりあえず別れる。飲酒しているので、女の代行運転のため同僚を呼ぶが、そのまえ、駐車場でふたりの顔が間近に正対峙する。往昔の体感が甦る。次第にふたりの顔が近づき、接吻がおこなわれる。それを、飲み会のため駐車場にはいってきたクルマのヘッドライトが偶然捉えてしまう。間のわるいことにそのクルマにはヨンハとその飲み仲間が乗っていた。彼は警察が秘匿していたヨンナムの左遷事情を一挙に把握してしまう。
 
もともと正義を貫徹するヨンナムにとって対象との正対峙は必要だった。身の置き方の正義を保証したのは、地味にみえる彼女から放たれる、それだけが光明感のある真っ直ぐな視線だった。ところがしるした接吻のように、正対峙における距離が無化すると、それが受難を喚起してしまう。距離の無化にかかわる不調や妖しさは、「横から」であれ「後ろから」であれ、同居するドヒがヨンナムにあきらかにしたものだった。相手の場所、距離の無化によって惑乱にみちびかれる身体が、ヨンナム=ペ・ドゥナに刻印されたものだった。その条件がこの作品のクライマックスで克服されることになる。
 
これを前段にして、さらに作品は有機的な積み重ねで、暗雲にむかってゆく。それからの局面は予告篇やチラシでは予想できないものだった。まず、港の作業場で、ヨンハの雇っているインド人が自暴自棄の狼藉を働く。激昂したヨンハが彼を打ち倒し、倒れているからだを無慈悲に蹴りつけるなど怒りを増幅させている。その彼が通報を受けた警察に現行犯逮捕され、とうとうヨンハの不法就労者の雇用と、雇用者にしいる労働基準法違反を問題にせざるをえなくなった。生業の瓦解。
 
逆恨みの感情をもった彼はヨンナムを訴える。もともとは義娘の一時預かりによって口減らし、厄介払いを喜んでもいた彼が、「同性愛者」ヨンナムにより、義娘ドヒを強制的に奪われ、いたいけなドヒは、その性的毒牙にかけられた――ドヒ自身がそう証言したと反転攻勢したのだった。ヨンナムの前非は警察内に知れている。ヨンナムはキャリアながら、逮捕拘禁されるしかなかった。
 
気をつけなければならないのは、移民の不法就労、児童虐待、自傷、アル中など、悪を満艦飾に展覧させるこの作品のなかにあって、女性同性愛が悪のリストにはいっていない点だ。性愛の選択は自由だし個性だと監督・脚本のチョン・ジュリ、そのフェミニズムはかんがえているだろう。同性愛をとりかこむ偏見のほうが旧弊な悪を構成する。問題は、映画がヨンナムのドヒにたいする同性愛傾斜をいっさい描いていないことだ。そう証言をする立場にいるのはまずは観客だし、むろん幼いながらもドヒ自身にもその責務が負わされている。
 
作品はさらなる意外性にむけて進展する。取調室はふたつある、ヨンナムにたいするものと、ドヒにたいするものとに二分されるのだ。取り調べ警官に正対峙するヨンナムは、キャリアの貫禄と持前の誠実さで、声を荒げることなく、ドヒとの生活、彼女を庇護した事情などを淡々と誠実に相手へつたえる。それにたいし児童指導員に、やさしい配慮ある質問を受けるドヒは、瞳の奥行に邪気を閃かせる。あれほど私淑し、感謝の念をおぼえるべき人道家のヨンナムにたいし、なんの邪気があるのか。サスペンスが一挙に高潮する。
 
身の上を心配し、語りたくないことは語らなくてもいいが、ほんとうは真実をつたえてほしいという、複雑で、控えめな態度をとる中年女性指導員たち。おずおずと、しかし着実にヨンナムの「悪行」「性的支配」を問わず語りしてゆくドヒ。自分から何かを聴き出さずにはいられない指導員たちにたいしての、自らの優位・役柄の中心性に陶酔しているのだろうか。彼女はありえない「虚言を弄している」。観客は衝撃をおぼえざるをえない。ドラマがまったく前提しなかった成行だ。
 
おそろしいディテールがある。自分の部位を口に出す恥辱を配慮した指導員たちは、取調室の机に、着衣状態の少女人形を置く。どこか触られたのか、その箇所を指さして、と依頼する。画面の中心に置かれたその人形の後ろから指先を伸ばしてゆくドヒ。やがて指は人形のスカートの間隙にもぐりこみ、その股間部分をさわる。触りはやがてこすりへと白熱し、ドヒの表情に恐慌が現れる。指導員たちはそこにトラウマを読みこむ。
 
画面中心にある「秘匿性の奥行」がまさぐられる精神分析的な布置。こうした画面の意味形成はこの一箇所だけだった。恐怖がつよすぎるのだ。やがてドヒは、ヨンナムに接吻されたと偽証を上乗せしてゆく。作劇が「上乗せ」というかたちで無方向化する、予想だにしなかったこの作品の暴力的なドラマツルギーに観客が直面することになるのだ。
 
観客は、恩義のあるはずのヨンナムを窮地に陥らせようとするドヒの行動原理をとりあえず理解できない。というか、画面進展が描出してこなかった、ペドロフィリア=レスヴィアンなヨンナム―ドヒのディテールが編集の外部に伏在していたのではないかとすら自問自答してしまうかもしれない。このとき、「視たものだけに基づいて観客自身が証言をおこなう」態度選択が倫理的レベルで生動することになる。観客がよすがにするのは、ペ・ドゥナのまっすぐな視線の数々だ。結果、観客が視ていないことを証言したドヒ=キム・セロンが、映画の不気味な言外位置に置き換えられたその意味をさらにかんがえだすことになるだろう。
 
結論が出るのは、余裕ができた作品鑑賞後だとおもう。ドヒがそれまでしるしていた「自傷」の外延進展力を再考しだすのだ。自傷は継父の虐待が収められなくなったときまず起こった。相手の攻撃対象たる自分を否定しようとしたのではないか。次に悋気と寂寥のきわみでそれが起こった。取調室でのドヒはそれらの延長線上にいる。自分の証言によりヨンナムの窮地を救う英雄性が運命により付与されたとき、その幸福の渦中にいる自らを彼女はいわば自傷したのだ。その資格がないという自己判断ではない。自傷が充実にすりかわっていて暴走がとめられなかったのだとおもう。これこそが真の価値転覆を招き寄せる「悪」なのだった。問題はその悪の渦中にいるドヒ=キム・セロンに反世界的な魅惑すらあったことだ。
 
自傷と自作自演は似る。ともに再帰性の問題圏を形成するためだ。継父ヨンハは釈放された。女性警官ヨンナムはいまだ拘置されている。このタイミングでドヒは真の自由を獲得する勢いで父親にも罠をかけた。だらしなく酔い寝している父親を確認して彼女はその寝床のかたわらで裸身になる(またもや背中の換喩描写が中心だが、以前とちがい、わずかにふくらみだした乳房の側面がちらりととらえられる)。ヨンナムの部下のケータイに電話をかけ、通話のないまま電源オンのままに継父とのやりとりを聴かせる。ロトの娘のような誘惑。股間に手を伸ばす。自分の裸身を酔いぼけたまま覚醒した継父に確認させる。すべてが「横から」だ。やがてとつぜん悲鳴を立てはじめる。ヨンハは事態を把握できず茫然としている。このタイミングで現場に急行した警官たちによって、「性的虐待」の現行犯でヨンハが逮捕されてしまう。
 
ここでも観客の証言能力が問われる。観客は正義のためのみならず、悪のためにも証言をもとめられるのだ。観客は身体暴力を義娘にくわえるヨンハを目にしているが、そこに性的凌辱、性的虐待がなかった経緯をこれまでみてきた。そしてヨンハの資質からいってその踏破が不可能であること、警察が踏み込むまでの直前の経緯にそれがしるく表されていることも確信している。ところが継父の現行犯逮捕のあと、ドヒは父親との性交渉を強要されたと証言し、返す刀で、ペ・ドゥナ=ヨンナムのことは、父親の強制でいわされた、彼女を陥れるための偽証だったと前言撤回したのだった。ヨンナムはすでにその証言のようすを取調室隣りのマジックミラー越しにみている。このときヨンナムのいるだろう位置へと、椅子にすわっているドヒが視線を泳がすときの魔性がすばらしい。
 
真の少女性が魔性をふくむというロリータ・コンプレックスには監督のチョン・ジュリはおそらく同意していない。明示的主題にしてはならないとかんがえているのだ。ところが映画では「みえるもの」「みえないもの」の腑分けが起こり、その「みえないもの」の領分では、美形の可能性をもった、それでも痛ましい痩身のキム・セロンのナボコフ=ロリータ的な悪の蠱惑が滲み出すと知っている。そこで監督が道義的な歯止めとしてつかったのが、自傷性という主題だったと要約できるだろう。このことはさらなる意外な上乗せとなる最終盤の展開で判明する。
 
同性愛の醜聞以後、波風を立てないことを約束させられていたヨンナムは次の赴任地決定までたぶん(自宅)待機を余儀なくされた。それが警察的解決だったろう。ヨンナムはいまや伝統的家屋(縁先の造作は沖縄の家屋に似ている)に一人暮らしの身となったドヒを訪ねる。別れの名残を惜しむのではないことはその後のながれでわかる。狡猾さを漂わせ、姿を現すドヒ。ヨンナムはドヒの行動原理をいまやすべて把握しているかのようだ。やがて正対峙となる。じつはすべてが語られつくし透明性を把持していたこの作品で、ドヒの義理の祖母の死因、死の経緯だけが、ドヒの熟さない不透明な証言と、継父ヨンハのドヒへの憤怒が舌足らずだったことにより、不透明にのこされていた。それは脚本上、意図的なものだった。
 
ドヒとヨンナムの間近の正対峙。顔がほとんど接触しそうな緊張のうちにドヒに証言が迫られる。祖母の死がドヒの仕掛けた殺害計画によるものだった――そうヨンナムが真相をもとめると、ドヒは前述のようにきれいな涙をあふれさせながら、ついに首肯にいたる。ドヒはそうしてヨンナムとの離別を決定された。ドヒは児童養護施設へと移されるのみだろう。ここまでは因果応報、いわば報復の原理により、ドラマが構成されている。
 
ドヒと別れた車中のヨンナムは、部下だった若い警官の運転で、べつのとおくに運ばれている。その男子警官は、ドヒの身の上の哀れを知りながらも――と前提したうえで、ドヒの存在、共約不能の強度、その不気味さにつき述懐する。祖母にたいするドヒの殺人、継父にたいするドヒの自作自演劇の虚偽は、ヨンナムの心中のみに秘匿されたのだ。それはドヒの今後を、醜聞を軽減して庇護するためだったろう。
 
庇護――しかしそれはどこまでも外延進展が可能なものではないだろうか。おそらく男子警官の述懐を上の空で聴いていた車中のヨンナムは、この段階で観客にさきがけてドヒの存在がもつ謎の芯――「自傷性」に行き当たった。それで「忘れ物がある」と男子警官に言い、それまでの行路を戻ることになる。ここからの上乗せがあって、監督の正義心にみちた拡張的フェミニズムが完成するのだ。
 
ドヒのいる家屋で、ドヒと再会するヨンナム。それぞれが傷を負う。たとえドヒが卑怯で、その被害者がヨンナムであっても、傷を負う身である点でふたりの存在は共通している。ヨンナムが自分と共生する意志があるかをドヒに問う。ドヒによろこびが走る。そうして正対峙がそれまでしるされなかった距離ゼロの抱擁にいたり、「二」がついに「一」へと一体化された。ヨンナムは共苦の領域拡張という真の人間性を試練の果てに獲得したのだった。それが救出の正体だった。
 
共苦vs自傷という図式が問題設定として精確だった。あるいは負荷にくるしむ者だけが他人の負荷を理解する。だから「当人はいつも負荷に背骨を痛めなければならない」。倫理的な高次にそうして作劇がいたったのだが、その顕れじたいも倫理的な抹香臭さをもたず、映画的な仕種の展開のみがしるされていた。そのために正対や横といった身体の方向性を吟味してきたのだ。チョン・ジュリ監督の技量はまさにこの点で完全化されたといえるだろう。むろん観客の証言能力も、こうした負荷にこそ関わりがあるのだ。
 
けれども、ヨンナムがドヒをクルマではこぶラストシーンで、前言のようにドヒにたいしてまたもや「横から」が出現するとき、作品はけっして大雑把な善意の大団円に鞍替えしていない点もあきらかになる。なんと峻厳な映画なのだろう。しかも話法が円滑だという点で、顕れそのものは軽いのだ。フェミニンなものの勝利とは、こういう姿をしているのだろう。
 
――7月10日、札幌シアターキノにて鑑賞。『ペパーミント・キャンディ』のイ・チャンドン監督がプロデュースしている。
 
  

2015年07月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

二倍速と通常速

 
 
【二倍速と通常速】
 
日常生活では時間は「いつのまにか」すぎる。雪国に春がくるのもいつのまにかだし、昼が夕方になるのもほとんどがそうだ。恋人が現れるのも、いつのまにかそうなるよう工夫したほうがいい。だから相手の遅刻にじれないように本屋で待ち合わせなどをしたものだ。
 
読書ではわれをわすれている。そしていつのまにか読み終える。そうなるようにしたいが、物理的にのこり頁数というものが眼に見えるし、半分読んだなどと進行具合が測られたりする。退屈しているのではない。手の感覚を眼が追認するのだ。それでも興奮するときは、自分の設定している読書ペースが、本の仕掛けてくる時間の脈動と奇妙に一致して、時間の自他に弁別がなくなるような気がする。時間そのものが身に近づいている。密着している。それが読書を愉しんでいる時間かもしれない。
 
日常にくらべ、時間芸術とよばれるものに接しているときは感覚がずいぶんことなる。時間芸術の時間のおおむねは、さらさらしていない。無感覚ではない。期待・待機、暴発の不安、不発の哀しみ、驚愕、多数化と細分化、飛躍にかかわる少なからぬ眩暈、自体的実体化、繰り返しにたいする倦みや歓び、心情化、退屈、遅延、判明など、さまざまな時間作用で、時間に機能や色彩や形象がくわわっている。
 
そうした多元化により時間は粘性をつよめ、稠密度をたかめてもゆく。時間はひとつの蛇体のようになり、うごめきがかたどられ鱗まできらめかせる。輪状のながさがいま通過してゆく。通過はいつも音楽的で、ふかく注意すれば、その細部はいつでもきえてしまう事前性を、かなしみに径路をつなぎながら、たたえている。摩擦をかんじる。
 
時間単位の可変設定は、まず映画によってなしとげられた。スローモーションやコマ抜き(早送り)がそれだ。最初は人間の感覚を超えていたはずだが、すぐに了解化された。もともと映画のコメディなどのテンポが、コマ抜きに馴染んだのがおおきいだろう。速いものはわらえるのだ。
 
スローモーションはおくれてあらわれた。スペクタクル化している局面、その細部の経路をさらに暴露し強調するやりかたはエロチックだが、ひとつまちがえるとポルノグラフィックになってしまう。実際にあるのは、コマ抜きにあったような感覚上の充実した了解ではなく、日常時間では意識化のよわかったものにたいする異様な覚醒強制だ。これは脱臼であり、圏点化であり、眼の幽閉だろう。風紋はあっても空気がうしなわれる。時間はさらに粘着度をつよめ、蜜のようにどろりとながれる。そうしてそのなかにしるされている引き伸ばされた愛のしぐさなどが溺死寸前となる。そう気づけば実際は水を介して対象をながめなおすような、疎隔化をかんじざるをえない。
 
現在のTVについている二倍速早送り視聴機能はよくしたもので、感覚生理学にのっとって精錬されたにちがいない。音声の変型が最小限に抑えられている。また撮影のほうも、手持ちによる不安定な視角移動が二倍速視聴でゆれをもたらすとかんがえられているのか、手持ちであっても音楽のスラーのようななめらかさがいまや金科玉条となったようだ。
 
むろん時間の短縮・節約のため二倍速で鑑賞しているのだが、たとえばTVドラマでそうさせるものを、あながち軽視しているわけでもない。俳優の演技上のニュアンスの見落とし、科白の聴きのがしが「ない」(それだけ俳優の滑舌がしっかりしている)と前提したうえで、むしろ二倍速視聴ではっきりしてくるものがある。人物の行為が召喚してくる空間の変転(これには外界のもつ情報が行動を規定するアフォーダンスの知見がかかわっている)、配役上の対置、物語の構造と呼吸などがかえって明確に把握されるのだ。哲学書の早読みにちかいだろう。むろんアクションは先鋭になる。
 
難点は、ひとつの時間単位のなかで印象や思考を叩きこむ物理的時間が減るため、細部の記憶がとうぜんながらうすくなることだ。ただし二倍速視聴をうながす良質な作品では、実際の難点はたったそれだけだとも逆言できる。むろん二倍速視聴だからこそ、通常にもまして視聴に集中が要求されるのだが。
 
ひとつのクールがはじまると、TVドラマはすべてチェックする。きらいな俳優が主演していようと、才能を買っていない脚本家が執筆していようと、なにが変化するかわからないからそうする。ただし撮影や音楽づけや俳優への演出、あるいはカッティングの稚拙は開巻2分ほどでわかってしまう。そうなると視聴条件を二倍速に変え、それでもさらに退屈をおぼえると、早送りをしてエンドクレジットを確認、一覧表にメモしたのちは、当該放映分を消去、継続録画も解除してしまう。
 
けれども、見方のこつをつかんだものも二倍速になる。その状態のまま初回放映を見終えて満足にいたったものは、継続視聴の積極的な対象なのだった。このタイプのおおむねは話法が良い。話法の良さがよりつたわるために、二倍速視聴をドラマみずからがもとめているとおもうほどだ。
 
となって、二倍速視聴をはばむドラマが稀少価値ということになる。すぐれた映画同様に、時間進行が稠密でねばつき(通常速度なのにスローモーションの感触が誘致される)、しかも暴発の予感をかかえ、時間作用が物語提示だけでなく、たとえば「時間のかたち」を多元的に繰り出してくるような作品だ。一時間弱のうちに数百の穴をみてしまう。数百のひかりの創意をおぼえてしまう。俳優の内面を臓腑のように物理的に感知させてしまう恐怖もある。視線変動とまばたきの連関を記憶の芯に灼きつける誘惑だってある。
 
前クールの白眉は幾度でもしるすが、NHK土曜ドラマの『64』だった。あのドラマの時間はダイヤモンドのようなするどい稜角をもって複雑に内部反射した。ところが結晶内にみえたものは、世界がもたらす通常に反するように、ざらざらしていた。やすりの摩擦が眼にあたって、物語に乗る以前に、感覚そのものが緊張にいたったのだった。
 
今クールの第一回放映のドラマで、暴発の予感をたたえていたため二倍速視聴をゆるさなかったのは、いまのところ『探偵の探偵』だろう。北川景子は飛躍の渦中で、目線のするどさ以外にアクションも切れるようになった。しかもあしどりさえ良いのだ。結果、ある領域に闖入するときの緊迫感や、不意に現れたときの唐突感が、身体レベルでごく自然に生産される。演技ではなく所与が前面化しているから鑑賞が混濁しない。それに、『64』同様の「くらい画面の蠱惑」もくわわっている。探偵物のメタドラマとして、今後も期待できるだろう。そのために不穏な起爆剤として川口春奈も配剤されている。
 
ちなみに二倍速視聴できもちよかったのは、いまのところ『ホテル・コンシェルジュ』『リスクの神様』だった。ほか、お払い箱か否か、決めかねているものもある。来週開始のドラマもふくめ、いずれさらになにかを具体的に書くかもしれない。
 
 

2015年07月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

『カフカ「城」他三篇』他二冊

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載「サブカルの海 泳ぐ」の第16回が掲載されます。扱ったのは、新旧のアート系マンガの動向。中条省平編、ちくま文庫の『COM傑作選(上・下)』、河出書房新社から出た大判の森泉岳土『カフカ「城」他三篇』、市川春子の講談社アフターヌーンコミックス『宝石の国』を論じました。マンガのコマ割につき、ぼくがどう捉えているかが文章の終わりでわかるとおもいます。道新夕刊は50円。ぼくの学生のうち興味のあるかたは、ぜひキオスクかコンビニでお求めください。
 
 

2015年07月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

元少年A『絶歌』書き込み欄

 
 
【元少年A『絶歌』書き込み欄】
 
日曜日、【元少年A『絶歌』】という記事をアップしたが、その記事につき敬愛する文芸評論家の神山睦美さんからFBに書き込みをいただいた。目立たない欄に書いたので、改めて書き込み自体をつないだものを新規記事としてアップしておく。非常勤出講先の講師控室にて不器用な扱いしかできないスマホでしるしたものなので、記述はそっけないですが、ご勘弁をねがいます。
  

 
神山さん、ありがとうございます。少年Aのおかした犯罪自体が「作品」に似ていて、その犯人に分析力と離人傾向と自己顕示欲と騙り癖があるから事態が複雑になるともいえます。いわば症例の四重奏。だから彼については「ほぐしながら」の聴取が求められます。声を聞き分けるのです。「文學界」にどなたかの書評が載ったみたいなのでチェックしてみます
 

 
作中、自己を示す人称にも興味があります。「私」が使われていたなら記述法と内容が変化しただろうと思います。一方、客観呼称が要請される場合は名前では「A」になり、小学校時代の渾名は勇を鼓し「アズキ」と標記される。著者が顔と本名を出さないのは卑劣だという意見がありますが、そんな戒律は存在しません。それと事件当時の名前は誰でも知っていますし、現在の本名が露見すると彼は生活不能になります。顔については、近影がネットアップされています。いわば自明の名前と顔を求める倒錯的身振りが主題ながら、現在の名前だけが秘匿の保証になっている。しかしこれとてネット上に諸説があがっています。彼はいま薄皮一枚で「透明な存在」であるだけ。自殺の惧れは高い
 

 
完全な穴蔵を確保し、生活破綻を避けるのが、本当の執筆動機だったはずです。それでも被害者遺族に対し獲得した印税を全額提供する道義的可能性がまだ残されている。出版に関するそういう賭けについては指摘されていませんね
 

 
考えるのは、罪とはもうそれじたい罰だという花田清輝のことばです。元少年Aは罰の遅延し続ける再帰性のなかで宙吊りになっている。これじたいはすごいことです
 

 
被害者家族の意見には著しい欠落があります。淳くんは二度殺された、という意見ですが、とりあえず、その殺害と死体への加工の描写は書かれていません。著作が読まれていないのです。だからテキスト批評が必要になります。ただし淳くんの天使性、美しさを述懐した箇所は信憑の上で大きな問題があります
 

 
著作を自負していて、被害者家族から印税を求められたら、自殺の可能性が高くなると思います
 

 
読者には「共苦」の範囲をどこまで拡大できるかという難問がつきつけられています
 
 

2015年07月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

元少年A『絶歌』

 
 
【元少年A『絶歌』】
 
 
畏友・切通理作くんから、「元少年A」の著した『絶歌』について、メールかチャットのやりとりで意見交換しませんか? という提案が先週、とどいた。その記録を切通くんが主宰しているメルマガに転載したいという。ぼくが『平成ボーダー文化論』で酒鬼薔薇聖斗についてながく言及・考察をしている点を睨んでのものだ。むろん切通くんも事件当時、酒鬼薔薇については積極的に発言・執筆していた。
 
ネットやマスコミからの情報を判断し、一時は『絶歌』につき、「ひとり不買運動」をつらぬいていたのだが、切通くんの薦めもあって、まずは読んでみた。感慨は複雑だ。「分裂」が仕込まれ、しかもそれが連続しているからそうなる。この本は複雑に読まれなければならない。とてもマスコミが著者の「卑劣」を言い募るときの断片引用では括れ切れない本だと、まずは銘記されなければならないだろう。
 
構成的には、97年の犯行前後と、その後の連行から医療少年院での「精神治療」までを回顧した第一部、それに出所後の保護観察下での生活自立の苦闘と悔恨を現在に連続するかたちでつづる第二部とに二分されている。この第一部と第二部が分裂的に並置されながら、同時にそれが「連続している」、書物全体の構造がまず吟味されなければならない。
 
第一部では三島由紀夫や村上春樹からの影響(著者はこの影響源を隠さず綴っている)のもと、自己の性向を分析する。ところが再帰的な自己対象化は、ネット的現在と同調するように、多くは自己愛的に映る。そこに三島的な文飾まで相俟うのだから、陶酔や自己顕示を言い募る「気分」はわかる。
 
ところが事件の本質に横たわっていた「離人感覚」が「この書かれているいま」にさえ温存されているとわかると、失笑で事は済まされなくなる。つまり自己愛と離人症的自己疎隔が、ここでも「分裂的に連続している」のだった。
 
ひとむかし前の高校文芸部な「美文」に傾斜してしまっている細部が確かにあり、とうぜん当人のなした事柄からの出し入れ勘定をおもえば看過できないと憤慨させつつ、たとえば著者が親炙した古谷実のコミック『ヒミズ』を分析するときの、マンガ評論家さえ蒼褪めさせるような端的な把握力の素晴らしさはどうだろう。書くことの能力が欠落に基づくと別言すれば、この本は「運命的に書かれている」のであって、著者の生活改変欲や自己顕示欲によって書かれているのではないと素直におもってしまう。この本に欲望があるのか否かはこれまた「複雑に読まれなければならない」。著者が「食べること」を機能的にしか捉えられない点だけでも深い考察が要る。
 
事件「周囲」を回顧するときの不気味な精神的混入物が、そのまま事実と離反しないだろう点が、いわば著者の「書く資格」そのものを直撃している。これは衆愚がかしましくなるだけのネット時代においては、あきらかな恩寵といえる。つまり病弊もふくめ、この本は高度なセルフドキュメント本に位置づけられるということだ。これらのことがマスコミ発のバッシング記事ではほぼいわれていない。
 
第二部では異様な事件ではなく出所後の生存苦闘が中心化される。それゆえ第一部にあった文飾がまず後退する。けれどもここでもやはり「分裂性」が接合的に連続展開する。カプセルホテルなどでの宿泊という生活基礎のもと、職場を変えながら、経済の底辺を放浪しなければならなかった著者の生はプレカリアートの類型のなかにある。ところがそういう生のなかで他者のかけがえのなさに逢着してしまうとき、痛ましすぎるほどの「悔恨の練習」が開始される。それでも記述の端々に、自己顕示に類するものや、犯罪者系譜のなかの聖なる極点としてみずからを捉えてしまう無意識などがもたげてしまう。
 
ここでも相互離反する分裂が、いわば統合的に発露されているのだった。これはなにか。分裂、統合ということばを意図的にもちいているのだが、ある種の精神疾患が疾患のまま自足してしまう逆転が生じているのではないか。このことを専門的な知見を動員して、著者の保護観察下時代同様の庇護と精神分析的註釈の必要とを説いた香山リカだけが、ひとりバッシング特有の単純化から逃れているのはいうまでもない。
 
修道僧的な倹約生活のなかで著者は図書館にかよいつめる。それで書物を得てゆく。このときに彼のケアチームがしかるべきナヴィゲーターを用意すべきだったかもしれない。そうすれば本はたぶん三島的な文飾という弱点からさえ離陸できたのだ。まずは著者と類同する資質をもつロートレアモン。その『マルドロールの唄』に看過できない自殺否定の一節があることをつたえる。カフカの箴言でもよかっただろう。そこでは内包と外延との同時性によって身体を中間化させてしまう「悪」の疎外が考察できるはずだ。これらを装填して、たとえばハイデガーにさえ著者は向かうことができたのではないか。それだけの思考力が彼にはあるとおもえる。
 
この本の「あとがき」がネットで転載されているのをみて、薄甘い後知恵によって、酒鬼薔薇の犯罪の怪物性が当事者自身によって稀釈され、勢いをそがれたまま再構成されている――結果、この本は酒鬼薔薇のカリスマ化を阻止する効用しかないと当初かんがえたのだが、それはまちがいだった。「悔恨の練習」「その必然的な挫折」「さらにその反復」――これらが本の執筆動機の中枢をなしていて、このこと自体が書くことの現在性をはげしく抉っているのだ。
 
彼は自分を「ドリル」に比した。この徹底的な「穿孔」によって起こるのは、穿孔とはまるでちがう変動、たとえば「褶曲」のような事態だ。むろん著者の身体がまず褶曲する。同時に、彼と読者の距離も褶曲する。著者に近づけないのに、いわば照応する力線が著者とのあいだに幾重にも横断されるから、結果、地勢そのものが褶曲するしかないのだ。
 
おなじく少年犯罪の伝説的な服役者だった永山則夫、その最高傑作はナイーヴな二元論・反映論・還元論に終始した最初の『無知の涙』だった。元少年A=酒鬼薔薇に今後も著作がありうるとするなら、この本の印税獲得(被害者家族は印税を受け取らないと表明している)によってより幅を得た読書結果を反映できる、『絶歌』よりもさらにあとの著作になるだろう(事実提示の衝撃性はなくなるとはいえ)。たぶん彼の離人性向は所与的なものだとおもう。つまり彼は症例として哲学化せざるをえない。哲学と精神分析との非ドゥルーズ的な架橋。そうなっていい「潜勢」「可能態」だというのが、『絶歌』を読了しての最初の感想だった。以上、予断を訂正した。
 
というわけで、切通くんと相談し、この本をどう議論に乗せるかをかんがえてゆこうとおもう。
 
 

2015年07月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

廿楽順治・五百羅漢寺

 
 
【五百羅漢寺】
廿楽順治
 
思っているほど
わたしの石は多くない
妻が泣きそうになっている
ふたりで
まだ小さかった太一のことをはなしていた
(五百もある)
ニュースでは
なぶり殺された子どもの話が
今日だれもが思い知るべきこととされていた
知らないひとは
他人の五百をみて
うすくわらっていたのだ
青木昆陽の墓にもいってみるかねえ
ただ
ひとに喰われるだけの
お芋の身の上のことをおもってみる
冷えたので
妻は
はんぶんでいいから
もう石の姿にかえりたいと振動している
ここはどこであっただろう
ふるい場所が
三十年かけてこの世へ浮かびでてきた
石の妻が
泣きそうになっている
待たせたのかな
わたしは横でだらしない五百になる
 
――「現代詩手帖」15年7月号、原文は尻揃え
 

 
「散歩詩」へと詩風を移行させつつある廿楽順治の、目覚ましい達成のひとつなのはいうまでもない。それでもわからないことがある。まずは詩篇の鍵語となる「石」がそれだ。
 
東京目黒区下目黒にある五百羅漢寺に収蔵されている羅漢像は、すべて寄木造りの木彫りで、石造ではないらしい。ならば詩篇の「石」が墓石かというと、狭い敷地に建てられ、まわりを都市環境で囲まれた現代的コンクリート建築のこの寺には、墓地がないような気もする(行ったことがないのでじっさいはわからないが)。一般向けの屋内霊廟ならあるようだが、そこに墓石がならんでいるわけでもないだろう。
 
ただしネットで写真をみると、それぞれが微妙にちがうポーズをとる羅漢像群は黒光りして、石にもつうずる冷気を湛えているようにみえる。「木石」(不感無覚な朴念仁や冷感症)という成語もあり、化石ならずとも木が石にかようという、廿楽の物質的想像力が働いているのかもしれない。
 
羅漢はサンスクリット語「聖者」の日本化。五百羅漢寺は和歌山や島根や大分などにも名刹がある。なぜか羅漢は十六、十八、五百などといった複数でならべられる。聖者群のまぼろしを顕すためだろうが、となると上限「五百」は世界にもひとしい飽和数とかんがえられていたのではないか。世界が「聖」そのものと一致する死の限界数。
 
しらべてみると、目黒の五百羅漢は受難つづきだったらしい。五百羅漢寺はもともと廿楽夫婦の生家にちかい(夫婦は小学校の同級生)本所にあって、江戸時代は一時栄えたが、のち洪水にたびたびみまわれ、衰退をけみした。安政大地震で崩壊、べつの本所内に移ったが、桂太郎の愛妾によりさらに目黒へ移築されたという。これら艱難のあいだに羅漢像も流失喪失し、当初五百のものが305身に縮減しているという。この縮減がかえって限定数500を飽満させる想像力の方式に、たぶん書き手・廿楽の興味がうごいたはずだ。
 
想像の延長としてはほかの五百羅漢寺の存在も詩のどこかに置かれているかもしれないが、現今の対象は目黒在の五百羅漢寺とみて差し支えない。「青木昆陽の墓」がそのためにある。目黒の五百羅漢寺の近隣には初詣でにぎわう目黒不動があり、そこに甘藷栽培で名をなした江戸時代の植物学者・青木昆陽の墓があるためだ。この昆陽の干渉により、「200ちかくが消失した500の羅漢」「子ども」「甘藷」が想像裡に系をなす作用が起こる。子どもを藷にたとえるのは不謹慎だが、もともと不気味さが主題となっているのだからしょうがない。
 
それにしても多産として知られる廿楽夫妻にとって「まだ小さかった太一」とはだれなのだろうか。これも謎だ。ニュースで報じられた虐待死の児童と連動して、幼少のまま夭折した夫婦の子どものようにしぜん印象されてしまうが、おそらくは仮構だろう。つまり「トラウマのないこと」「ないトラウマ」がトラウマとなる逆転が仕込まれているのではないか。この精神分析的な立脚により、羅漢はラカンにもなる。「欲望は存在しない」「女は存在しない」「災厄は存在しない」…。
 
「現代詩手帖」同号に掲載されている「ポスト戦後詩・20年」のほかの詩篇では、「記述」が散文系に参与してしまう平叙体もしくはそれを壊そうとする病体(=シンタックスの崩壊)なのにたいし、廿楽の詩がぬきんでているのは、書かれたことが書かれたままに「張りつめながら」、理路も意味形成も足りず、このことから「空隙」がうごく不埒さがあるからといっていい。
 
改行をほどこされながら意味形成の単位となってゆく構文が相互関係の断絶をしるしていた最近までの廿楽詩の定石が、彼の初期に復して、微妙に構文相互が連絡しあう機微をとりもどした点に気づく。だから「消失した羅漢」「死んだ子ども」「甘藷」が、喪失の連盟として数珠のように像をむすびあい、欠落形の世界の冷えた感触をせりあげてくる。これが「三十年」を経て生じる感慨なら、「太一」は三十年前に死んだ、という物語までしめされようとしているのかもしれない。「ひとに喰われた」にちかい無慈悲。このとき逆に「聖者の聖性」が、羅漢から「死んだ子ども」「喰われた甘藷」にまで舞い降りてきて、なにか途轍もないもの(「世界構造」といったもの)が追悼されている奥行が生じてくる。
 
「泣きそうになる」「妻」が詩篇のもつ悲哀の感触の中心にあるのはむろんだが、修辞が(空隙をもちながら)満ち足りる全体の構造により、悲哀は世界の容積とおなじに拡散さえしてゆく。それで妻恋の詩篇であるかがおぼつかなくなる。それよりも、妻にかんしてはこういうべきだろう。彼女は詩行の理路を飛躍と捨象によりくるわせる、脱論理の機縁になっていると。それは冷遇ののちの厚遇、もしくは厚遇ののちの冷遇というべきで、むろんそうした存在規定の多元性がこの詩篇を貫通している認識なのだった。
 
《思っているほど/わたしの石は多くない/妻が泣きそうになっている》――発語の運動としては足りているのに――「多」という字さえ一回もちいられているのに――そこから「目減り」が無媒介にはじまる、この詩篇の書きだしにざわつかない読者はいないだろう。いつもどおりの廿楽詩の威嚇性。むろん威嚇はそれがいかめしいときには自己実現がならず、やわらかく欠落しているときにこそ威嚇じたいになるという、ことば(のはこび)の判定が廿楽にできている。とうぜんのことにすぎないが、それがわからない無恥の体系こそ一般にいう「現代詩」なのだった。
 
詩が論理による骨組だというかんがえもあるだろうが、それには与しない。ひとのけしきとおなじように、骨組がはっきりしなくても骨に肉がつく風情がまぼろしにみえたり、そのまぼろしが動作するのがおかしかったりするのが詩ではないか。つまり「空隙」がゆらめくことで、逆に動作だの肉だの骨組だのが阻害されるどうしようもない感覚の相関性に、ことばのはこびの苛酷さがひっそりやどる。逆説的にとられるかもしれないが、詩のことばが存在する時間はそこにしかない。
 
妻をもちだすことでの脱臼工事(照れもある)――むろんその白眉が、次の四行だろう。《冷えたので/妻は/はんぶんでいいから/もう石の姿にかえりたいと振動している》。のちには「石の妻」という言い方もでてきて、「石胎」の気配が不穏に生ずる。あるいは「塩の柱」となってしまう死=崩壊=結晶化の様相もにじむ。ただし骨子は「はんぶんでいいから」の限定だ。これこそが「そうなっていつつ」「そうなっていない」――つまりA=非Aの融即図式を召喚している。見消〔みせけち〕といってもいい。そういうものが「振動している」のだ。
 
「減ること」がえがかれるなかに、「減ってもまだあるもの」が同時に確保されている。この四行のことばのはこびは廿楽詩の真骨頂をしめすようにわたりが破壊的だが、それが同時に芳醇であるようにもみえるため、破壊の痕跡すらはっきりしない点がなんともすばらしいのだ。
 
「減りつつ書く」のが減喩の骨法だ。喩は減る(なくなる)。かわりにことばの空隙が仕種を散らし、書かれていることの残余が空白の身体性をもって「うごく」。ことばの亡霊が、ことばのすがたを温存させたまま、耳目に感知されてゆく。そのことで不気味になる。だが減っているのは意だけではない。作者の位置も減り、すべて世界に包含されてしまうぎりぎりわずか手前に、点のようなものだけがのこるのだ。そこにこそ「ないものの痕跡」が存在している。
 
もともと羅漢の五百は限界飽和数だったが、それをしめすには305になる減数がひつようで、こうした補完作用により、すでに305までもが限界数へと再規定されてしまう。この見切りがくりかえされれば、「わたし」もまた「一体のまま」《五百になる》。ごらんいただいたように、詩篇が最後にたどりついたのはそんな哲学だった。
 
 

2015年07月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

あたらしい詩集のゲラをチェックした

 
 
【あたらしい詩集のゲラをチェックした】
 
 
分数においては分子が作用域で分母が作用道具――そう理解しているが、これが数学的にただしいかどうかわからない。いずれにせよ、おそろしい戒律がある――《ゼロはほかの数で割れるが、ほかの数はゼロでは割れない》。
 
なぜそうなるのか。「ないもの」をいくら分割しようとしても、それはないものにすぎない(平穏はたもたれる)――のにたいし、「あるもの」を「ないもの」で分割しようとすると、「あるもの」が悲鳴をあげる。存在からそれ以外の余波がでる。悲鳴など、あげさせておけばいいのだが、分割にかかわるこの干渉的な逸脱が、数学そのものの禁忌にじつはふれるらしいのだ。自己言及パラドックスが露呈してしまうということだろうか。いずれにせよ、《ゼロで割れば、せかいが破裂する》《瓦礫になる》。
 
「わたしじしん」を記述するときに起こるもんだいもこれに似ている。たとえば「わたしは義しい」という自己言明は信憑をえない。処刑直前、刑吏たちにかこまれればすぐにわかることだ。《おまえはじぶんじしんの領域を、ゼロ=「ないもの」で割っているにすぎない。じぶんじしんから要らぬ余波をだしてどうする。さっさと処刑されてしまえ》。
 
そんな局面ではどうすればよかったのか。刑吏のひとりはいった。「みたものを、みたものとして列挙すればよかった」「おまえの感官の所在はわかるが、おまえじしんはきえているだろう」「きえているだろう」「おまえは感官と手にすぎない」「この、すぎないことがおまえだ」「おまえはおまえの反響にすぎないが、そのこだまにはもともとの音すらないのだ」。
 
なにかをしたとか、なにかをかんがえたとか、動作や思考は記録してはならないのだろうか。「ある――やりかたはある――動作や思考は、おまえじしんのものでないまでに、かすませるのなら、それを記述できるのだ。こつは、ぎりぎりゼロでないもので、じぶんじしんを割ること。おまえのしたことから、ぽろぽろことばが落ちていって、やった場所と、書かれているそことが、いよいよ離れてゆく。だから記述されているのも、おまえじしんのしたことではなく、せかいのしたことにかわるだろう」。
 
納得した。さてそのようなものを書いただろうか。めんどうをかんがえるのをやめ、処刑された。
 
 

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森泉岳土について

 
 
【森泉岳土について】
 
 
昨日は市川春子についてしるすなかで、ほんのわずか、おなじ「天才マンガ家」として、森泉岳土につき言及した。実験的なマンガ手法という点で森泉の既刊コミックすべてがすばらしいが、それにしても森泉の義父が大林宣彦監督だという「事実」には、なんど思い返してもおどろいてしまう(彼の細君は大林千茱萸さんなのだった)。
 
森泉はコミックごとに「あとがき」で自己解説をしっかり書いている。2010年ごろ、マンガにとりくみはじめた当初は、「水をつかって描いていた」という。墨を水にとかしこんで、水墨画のようにえがいていたという意味だろうが、容易に想像されるように毛筆がもちいられているわけではない。初期は爪楊枝、その後は割り箸が画筆のかわりになった。線は緻密にこすりつけられ、しかも毛筆をもちいるよりさらに不自由だろうから、密度の反対――いわば「粗度」が拡大することになる。かつて黒田硫黄が毛筆でマンガをえがき、粗度の拡大によって禍々しいリアルを実現した点は、とうぜん森泉の念頭にはいっているだろう。
 
ところが森泉は画筆の不自由「によって」もっと過激にえがく。このときペン画―トーン―スキャニング系のマンガ家にはない別要素、つまり「こすれ」「にじみ」「よれ」「ゆらぎ」といった、精確な線描よりもさらに逆に精度のたかい、「ニュアンス上のなにか」が読まれることになる。しかも粉彩などオルタナティヴな絵画技法が部分的につかわれたり、たとえば映画でいうディゾルヴがコラージュのかたちでコマ時間を多層化したりすることもある。風合いが木版画をとつぜん喚起するばあいすらある。フキダシも作品それぞれで表象方法を変えるなど往年の岡田史子のようだ(彼女もマンガ的な装飾性を離れ、ムンクや腐食画を参照したことがあった)。
 
絵柄の前衛性(なおかつそれは感触としては温かい)にたいし、さらに驚嘆すべきは、森泉のネームづくり(コマ割構想、ネーム構想)のスタチックで古典的な精密さだろう。ネームづくりに充分に手間をかけ、作画にも多大な労力を傾注する森泉のやりかたは、たとえば高野文子をほうふつさせるものだ。しかも大胆な画角による大胆な構図、ときにコマを頁ぜんたいで縦に三分割したり、見開きの大ゴマをもちいたりするなど、コマ連関のリズムに、画の精度を拮抗させるなども高野の技術・着眼を踏襲するものだ。むろん踏襲があっても、マンガ表現の可能性は一作ごとに開花している。
 
森泉マンガは異端視から重要視へとポジションを変化させてゆくにしたがい、とうぜんながら徐々に画柄的な可視性がたかめられ、コマ割・構図・画力の創意的な適確さへとシフトをうつすようになった。画筆としてもちいられるものが、爪楊枝から割り箸にかわったとき、抵抗圧のなかで点をゆれながら線にする爪楊枝よりも、ちいさいながらも角材的な稜のある割り箸のほうが、操縦性がたかいのだろう。
 
爪楊枝時代に起こっていたのは、黒化=腐敗(ニグレド)、対象の凝集化・瘢痕化・逆光傾斜といった、ジャコメッティ(彫刻でも絵画でも)につうじる事態と、それにより目鼻をなくしシルエットのみとなった人物たちが必然的に織りなす、やりとりのアレゴリー化だろう(これはカフカ的であり、黒沢清的でもある)。
 
いいかえれば事態は正接でもあり逆接でもある。読み手がいまみている「界面」に不安をおぼえればいいのだ。そうすればたちどころに、凝集は膨満と同時的になり、不可視化(朦朧化)は可視化(明澄化)と同義となる。ゆらめいてくるのは、動物的な、アレゴリー特有の「磁気」(カフカや黒沢清にあるもの)だろう。
 
ゆらめきは、画法と物語相互を分離不能に双対化する。だから森泉の初期作品の体験は、「ひとつのものを双子としてとらえる幻惑」と不即不離になる。これを融即といいかえてもいい。このために彼のマンガは「詩的」とよばざるをえなくなる。
 
このあいだ詩の朗読をして気づいたのだが、朗読と詩が離反しないためには、「物語詩」が選択されるのがいちばんだろう。ところが小説の朗読ではなく詩の朗読に接しているという感慨を聴き手にあたえるためには、「なぞらえてなす」アレゴリーの屈折がひつようとなる。
 
この「なぞらえ」は森泉のマンガではどこに出てくるか。読み手の眼が不可能性を突破して、画柄という言語化不能なものの「朗読」に、自他の弁別をこえて巻き込まれている感触にそれは顕れる。どういうことか。ざわついているものはいつもイメージであると同時に言語だから、いわばその動勢に物語―画の双対が出来し、だからこそ画のなかにアレゴリーが生物的に混在してしまうのだ。
 
画は破裂すると同時に破裂を定着する。その定着の痕跡が刻々と物語になってゆく。そういう経緯だから物語は事後的・二次的という「なぞらえ」の経緯をおぼえさせるともいえる。ところがその「なぞらえ」は付与されている装置のおこなうものではなく、徹底して無媒介性がおこなう。読者は自己身体と弁別できない「読むことの界面」がしずかな幅でうごく不安をかかえるだろう。
 
つきあいと別れの記憶を、抒情的に「旅体」化したネーム構成・コマ構成の奇蹟が短篇「耳は忘れない」だとすると、アレゴリー型マンガの不気味きわまりない達成点が短篇「トロイエ」だろう。頁単位すべてで、画の抽象性と具体性とが拮抗している。しかも童話性が組織されている。爪楊枝による線画はたとえば人物・事物の輪郭をゆらす。ところがそのゆれが抒情的な愛着までも吸引するから、「不気味」は「かわいさ」と弁別不能になる。むろんこれもまた、人口に膾炙した寓話の流儀だ。
 
それでも恐怖の芯がある。物語の構造は単純だった。漠然とした西欧が背景。時代もさかのぼっているとおもわれる。おおきな邸にメイドとして奉公を開始した若いむすめが、勤め先にいるはずのない「兄」の干渉をうける。兄は稀薄を病み、みずからの存続のため、日ごと妹を「吸い」にくるのだ。こうした奇抜な着想は画柄的な意味性と見事な連関をみせる。つまりすべての人物がシルエットの黒化状態でえがかれているために、命を「吸う」ことと、影を「吸う」こととに混淆が起こるといっていい。
 
妹のエキスを得た兄は次第に黒い身を怪物的に膨張させてゆく。実直に、伝授された邸の家事にとりくむ妹はその反動で次第に縮減化してゆく。愛(性愛)の差引勘定。妹の痩身化や体長の短縮化を怪訝におもうメイド長にたいし、メイド長の錯覚をいいつのる妹の粉飾言辞に、いわば愛と宿命両方にわたる、ゆがむ叙述形式がある。ところがやがて窓外に、巨大な黒のかたまりとなった兄が顕在化し、異常事態が隠せなくなるにおよび、いわばラカン的な「しみ」がすべての前提になってしまう逆転もしくはクライマックスが成立してしまう。制御不能性のもたらす破局。
 
すべての人物がシルエットで、目鼻がない。ただし圧倒的な黒なのに、微細にはそれがかすれている。兄の黒の膨満は、したがってそのかすれの審級では自己矛盾的な亀裂であり、界面は膨満を体現するが、界面間をしるす亀裂はむしろ空間占有の疲弊により、存在の凝集へと転化する――そういった二重性をうごきのなかにただよわすことになるのだ。事態は古屋兎丸「エミちゃん」の死体描写に似る。そう、こうした怪物性にはたしかに既視感があった。
 
逆に妹の「縮小」には既視感がない(『不思議の国のアリス』の細部にはそういったものが揺曳していたかもしれない)。縮小はそのまま「生」「性」の減少であり、喩の減少――減喩であり、病弊化のせつなさにも転じられる。ところがコマは必然的に構図選択をおこなうのだ。だからちいさくなった妹がおおきくとらえられ、シルエットの長髪の形状が妖気化する。無性だった妹はその影をメス化させてしまう。ここでは兄と逆に、凝縮が膨満しているといえる。
 
では界面はどうなったのか。構図が矛盾を生産することに、森泉の天才はとうぜん自覚的だった。つまり膨満が凝縮を画柄上覆ってしまう逸脱にたいし、森泉はそこへ濃度変化を対抗させる。それでおおきくとらえられた、ちいさい妹は、逆の状態の兄がそうだったように、「うすく」なるのだった。
 
巨大化と淡彩化とがひとつの界面に同存するのが想像力の恒常性だとすると、じつは凝縮化と淡彩化の同時性は世界法則上ほぼありえない。「宝物」のみにありえるものだ。それが化学変化的に出現、この悲劇的な妹にたいし「情」をおぼえることになる。気づくと、ほぼ黒として表象された妹の顔から、たしかに具体的な哀しみの表情がみえてくる。そうして不可視性と可視性の同時化が出現したのだった。
 
だが、わたしたちは知らなかっただけではないのか。もともと「惻隠」とよばれる念そのものが、凝縮化と淡彩化の、心情裡における化学融合だったと。おおきくなるときではなく、ちいさくなるときにこそ、わたしたちは真実にふれる宿命をもつ。これこそが「気品」という問題圏にかかわるのだ。
 
 

2015年07月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)