鏡人
【鏡人】
月光のしずかににあうひとが
そこが野の里程標だというのか
あしもとをくらい雪塵にしている
ちりしくのがくだりゆくこころだと
あしうらをぼんやりうかばせてもいる
微塵であることのうたに口ずさまれ
やがては佇つだけのとおさへさだまる
連載開始
「現代詩手帖」のこの1月号より、一年間にわたる詩書月評の連載がはじまった。みなさんお手もとのこの号では、「音韻」に着目して、以下の詩集を論じた。稲川方人『形式は反動の階級に属している』、カニエ・ナハ『用意された食卓』、石田瑞穂『耳の笹舟』、平田俊子『戯れ言の自由』、日和聡子『砂文』。
昨夜、連載第二回めを書き終わり、けさ編集部へメールした。それで徐々に調子がつかめてきたかなという感もある。
もともと月単位でのたんなる詩集、詩論集の羅列紹介にするつもりがなく、手もとにあつまった詩集から共通して適用できる詩論をたちあげたい希望なのだが(編集部もその要請をした)、むろん相手市場だから、その方針が決壊することもあるだろう。いまのところ10月刊行ラッシュの詩集群が大量にのこっているので、主題に選択の自由がきく。3月号まではなんとかやれそうだ。
詩集、詩論集は毎月20日ごろ段ボール函にはいって送付されてくる。多かった最初は、なんと50冊、収蔵されていた。〆切は翌月のはじめ。たんじゅんにいうと、10日あまりで、学校での仕事のかたわら、それらを読了し執筆する仕儀となる。むろん無理難題だ。
そのためには編集部経由ではなく、ぼく個人宛てに送られてくる詩集をさぼらず読んでおく前準備が要る。それで主題いくつかの当たりをあらかじめつけておき、材料不足を舞い込んだ詩集などであてがうのだ。「万難を排して読む」――このことの価値がわからないものは、およそ「作品」など論じることができないだろう。
ぼく個人へも月平均で10~20冊送られてくるから、うっかりすると毎月毎月、詩の関係しか読まないことになってしまう。それでは莫迦になる。だから原稿を仕上げたあとは自分のために、詩関係以外に率先してむかう。そうでないと均衡がとれない。おかげで空く時間のすべてが読書中心となり、映画鑑賞がおろそかになりだした。もしかしたら、このサイクルがつづくと、自分が壊れるかもしれない。
1月号にも書いたが――ぼくは速読派だが、詩集の是非判断じたいが遅い。くりかえし読み、対象を自己身体化しないと、語るべき特質がみえてこないのだ。ところがこの連載は、たしかに読みへの要請を職業的なものへと、つくりかえてしまう。初読時に気になるポイント、感銘をうけたフレーズなどに付箋を入れてしまうのは、再読を予定しない消費の振舞だろうから、詩の愛好者としては邪道とおもうが、読みおわるごとにおとずれる忘却にたいし無策でいると、繙読も執筆も、たぶん間に合わなくなるだろう。ジレンマだ。
じつはストレスのたまるのは、個々の詩集の出来ではなく、この付箋を入れてしまう振舞がもとになっている気もする。消化ではなく、たんに読むこと。いつでもその初心をつなぐ必要がある。そのためにからだの調子をたもち、冴えたアタマで詩集などにむかえるよう、食事・飲酒・睡眠などの日常まで整備しなければならなくなった。やれやれだ。
たいへんなことは目にみえていた。それでも引き受けたのは、詩論や詩作の状況を率先して変えてゆく責任が自分にあるとおもったためだ。片方では詩の授業をやっているし、片方では詩作をおこなっているから、月単位での詩への思考は自分の現実をも下支えする。「無縁」ではいられないのだ。
お気づきのように、ぼく自身はひねくれたライトヴァースがこのみで、文学的な詩を遠ざけているかたむきがある。詩は詩だ――文学ではないというのが、これまで披露してきた自分の立場だし、詩の可読性を音韻と切り離すこともない。ライトヴァースのほうに親和するのは、「詩の構造化」が確実におこなわれている佳篇が比率的に多いためだ。
ところが詩書月評の担当は、たぶん単機能、単独趣味ではやれない。自分と似た詩風の作品を褒め、自分の田んぼにのみ水を引く独善は、詩作の独善どうように醜いものだろう。自分とちがう詩風のものに親和するのは、むろん自分の詩風をひろげるためだ。「いつもおなじ形式で詩を書くひと」はこれができず、あらゆる変化にたいし排他的になる。しかも旧いものと新しいもの、どちらかしかとりあげられないのなら、後者を選択するのがジャーナリズムだろう。連載担当者はジャーナリスティックにならざるをえない。
「わからない」「のれない」「むずかしい」とは書かない。自分の詩にたいしそういわれたら、どんな気分になるだろう。詩仲間でもこの点に鈍感なひとが多い。むろん対象にたいし否定しか浮かばないなら、そもそも俎上にのせない。それでもとくに知己にたいしては、発言機会をのがさない。侠者のように状況を把握している必要はいつもある。振舞の清潔と、反動化の抑制はじつは相補的なものだとおもう。その確信のためにこそ、この厄介な連載を、ぼくは引き受けたのだった。
うちがわ
【うちがわ】
ゆきふる日のおわりはいつもあいまいで
日をうつりすむ遊客の宵のからだには
中間色と好色がともどもしめって
そのゆびが灰なるものをかきまぜた
もくざいの芯のように生誕の恥はみえ
偶合でさえかんぬきをとおすだけのこと
でぐちがとじられてひとへのこころも
ひとにひろがる心もみなうちがわとなる
接近
【接近】
これ以上の傍はないというところまで
ちかづけることをいきものへすると
すきまじたいがただのくうかんなのに
ときがひかりをおびてくるようだ
さしだしたてのひらのうえに綿の舞う
しずかなおんがくを総身ではこびながら
ふれずあるいたのはゆきむしではなく
じつはおのがこころでそんな微温が
やがて疎林もぬけていったのだろうか
湯神
【湯神】
せっけんのいまだよわき日は
みずのみで身をきよめてきたのか
してみるといちばん湯にも
湯いがいがかがやいていただろう
あらうあらわれるまぼろしが
ゆぶねのただなか、きらをなし
てりかえるそこは献身湯とも
よび名されていたのじゃないか
薄刃
【薄刃】
ついにおもい荷をおわない
かすかにも破線のあらわれる
ふさわしいせなかだとおもった
それゆえからだへみえかくれする
どうぶつの部位を思想できるし
またがりをもらえればかるさから
なみだを汲む桶もまたうごいた
位置そのものを置くことはできるか
できるのならそこのかこいでは
いっときに似る薄刃がゆれる
均衡
【均衡】
ここではおちるおとはしない
しずかだとそこへしるせば
詩がしずかになるわけでもない
てにをは、などのかたみが
ことなりながら秤りあいする
ふるさの均衡をみあげるだけだ
北に柿のみのりがないから
なかぞらもひとつの無底となり
すきま舞う雪のくろいことがある
おぼえなくしてかるさにうんで
ものみなおくゆきのみだれる
あれらがエポケーだ均衡だろう
襯衣の唄
【襯衣の唄】
くちびるはねじるようにシャツをかみ
いっぱいつめこんだまましんでゆく
あやうくなった息がやがておもむろに
ひとつきほどで切れるのがよい
かげろうのぬまべで荷ぐるまを駐め
馬とともにすきとおってゆくのもよい
もう草ではなくしずくのみを口に
客分
【客分】
にんげんのつくるあかりはおよそまやかしで
よなかの大通をあるいてもあたりなどまっくらだ
ひかるものならにくたいでしかもそれらは
幽明のさかいにあってのみ微光をはなち
そのときはだがひだをのばすように狎れる
ゆきのはずれのひとを他者とよんではいけない
すがたはかたちとはちがう客分をふくみ
この世の旅を伐りだす幽へといざなうから
うつくしさというよりもやはりみじかいのだ
ダム
【ダム】
ふもとよりみあげると
ダムが築城にみえてさみしい
治山が治水になったいびつ
たくみがひらきあっておらず
みずもおのれをながれていない
うすいえぼしをかさねかぶる
ふるときのとおさならいいのに
半分
【半分】
イヌであるはずかしさが
そのひとみをうるませているとき
じっとみつめてやればよい
たよりないいっぴきのうちに
種族のはんぶんがひしめいていて
みつめることはこちらあちらの
わけめをためいきするに似る
はんぶんのさかいをぬいながら
いのちをことなりでそそいで
はんぶんにはずかしいわたしも
にんげんのままにうすまるが
むかうまなざしだけイヌをきざし
ほそさをきそいあっているのだ
三角みづ紀さんが
三角みづ紀さんが共同通信の詩集月評、その担当最終回で、ぼくの思潮社オンデマンド『束』をとりあげてくれた。きのうの北海道新聞夕刊で知った。内容引用のないのがいささか残念だが、10月の詩集刊行ラッシュからピックアップしてくれただけで感謝です。これを跳躍台にして、北海道新聞でも単独評を載せてくれないかなあ…
まがる
【まがる】
ゆがんでいるものがいつもあかるい
あいされるときしろくほそくある
おんなのそりみめいたとがりは
ぬけてゆく冬木の枝えだにもみえて
ああこの世はきえようとするせんたんで
あかるいまでにおのれをふやしている
まっすぐな省略をゆがみはいなみ
ないことのなみでくりかえしひびく
ふれるきこえるがここらにみちて
みずみずしく感官をふくらますから
ひとつの彎曲さえひとつの世の中だと
まがりゆくこころばえがおくふかい
分銅
【分銅】
さっぽろへくるときがらくたといっしょに
ふれっと音痴のぎたーをすててはきたが
ないぎたーをいまもつまびくことがあって
はじきだす二音へと声をのせるうたいかたが
つぎつぎにものごとをはかる天秤のように
ときの蕩尽をゆるやかにおさめるのだ
はかりあう発声はかたちをひらめかせるから
ことばがみだらにつるみあうのをふせぐ
それでもことしはなぜか十二月にゆきがきえ
した草だけにまだらゆきがしろじろのこる
てんびん、ふんどうおとしてどこへかたむく
ふかぶかと風のとおってゆくこの歌ののち
2015年の笑い
本日の「北海道新聞」夕刊に、ぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が載ります。今回、串刺しにしたのは、又吉直樹『火花』、10月放映の「キングオブコント」、そして先ごろの「M-1グランプリ」。はい、今年のお笑い界の総括という気色でした。
コラムに書かなかったことをいうと、『火花』は人物の出し入れ、脇役の利用法がすばらしい。井の頭公園など場所の召喚も生き生きしている。ラストの破滅的な衝撃のまえに、熱海の花火が再登場するなど、円環構造がびみょうにゆがんでいる点も良い。文章は一瞬危なっかしいこともあるが、その小説的結構には創意がみちていて、そこが話題となり239万部の発行に達したのだろう。
ただし爆笑を呼びこまない。「非凡」を目指す、神谷と「僕」のやりとりは、「非凡」の論理化のみを経由していて、脱論理性そのものを運動できないままなのだ。これは又吉のコンビ「ピース」、その笑いの質とも共通している。脱論理性の欠落のかわりに、『火花』では漫才芸人たちの青春の悲哀、さらには時間そのものの悲哀が代置されている。「充填」感があり、戯作小説の看板は、人物「神谷」の墜落性のみではない。太宰のみならず、織田作なども想起させる。
笑いということでぼくがまずかんがえるのは、道化の知性だ。無頼派文学の好きな又吉は、たぶんそのながれで、花田清輝の『大衆のエネルギー』中、「スカラベ・サクレ」を読んでいるだろう。笑いとは、虫が糞をまるめ転がしはこぶことだとして、しかもその道化のすがたにはシェイクスピア学を経由すると三種ある。愚行でひとを笑わせるビター・フール、悪辣さで共感をみちびくスライ・フール、恐怖ですべて凍らせるドライ・フール。
花田はその三類型を日本の文学者に適合させた。おなじみ、安吾、荷風、石川淳だった。又吉の標的に石川淳ははいっているのかいないのか。微妙だとおもう。たしかに『火花』のラスト、「神谷」の変貌は笑いというより凍結のすごみがあり、同時に哀しいためだ。
コラムでは現在の笑いの趨勢が「言語化できないもの」にシフトしていると説いた。これには魯鈍化、幼児化、転覆化、音楽化、脱論理化など、さまざまな要素がもつれている。笑いの急進が、かつての松本人志、かつての千原兄弟(ライヴ)をたどっていった経緯を、ぼくは単著で追ったことがあった。その笑いを描写するとき、文章が異様に精密化していった。だがそこまでだった。第1回「M-1グランプリ」で「われがちにボケまくる」「交替リズムが高速化するだけの」「無償性のたかい」笑い飯が登場したとき、ついに言説化不能とシャッポを脱ぐしかなかった。日芸の放送学科でぼくの授業をうけた学生なら、そんなぼくのすがたをおぼえているかもしれない。
「キングオブコント」のバンビーノとコロコロチキチキペッパーズの「リズムネタ」は言語化できないが、まだ「カワイイ」領域にある。リズムがじつは論理化されているし、他愛のなさにこそ共感をまねく縮減も機能していて、彼らのもたらす笑いを「演奏」ととらえると、それは妖精的と定義できるだろう。花田の分類では、ビター・フールにはいる。それは不要な混乱をこのまない現在の世相と合致している。
「M-1グランプリ」でもっともラディカルだったのは、ボケ役の風合いそのものに脱論理性が窺えた「馬鹿よ貴方は」とスーパーマラドーナだった。どんなパフォーマンスをしたかはコラムで書いたのでくりかえさないが、彼らはいずれも最終決戦にのこれなかった。審査員席にならぶ歴代の「M-1」覇者たち(のうちのネタ担当、アンタッチャブルの柴田のみ欠落)が評価にあたって既得権を保持、笑いの構造的な瓦解(それは「恐怖」にむすびつく)を認めなかったためだ。「世のなかの洗礼」とはそんなものだろう。コラムでは言外に、この点に異議をとなえた。
あ、そうそう、関係ないが、最近の笑いで最も知性的なのは、バカリズムだとおもう。スライ・フールとドライ・フールのあいだを高速に振幅している――そうかんじるときがある。多才なのはむろんだが、多才さが振幅振動的なのが肝要なのだ。
まあ、気になったかたは、本日の道新夕刊を――
ロンド
【ロンド】
ゆきがいっときやんでそらがひらけ
わずかにも落葉の舞がよみがえったので
日に透かされる落下それぞれの遅速を
眼にとおいものとしてみつめあげていた
まわりからはなれたひともとのいちょうは
たしかになにかをつらぬかれていたんでおり
あふれるおんがくをおんがくいがいにして
ゆきおおうあしもとまでならせつづける
そらとつちをふとくむすぶなんの川だろう
逡巡があるからロンド、そうかこいはつくり
さいごの褐色をさいごのなることにそわせ
ふるい幹だけのこしうちらへきえてゆく
声の鳥
【声の鳥】
しずかにうきしずむ声をもっている
しぐさをつかいホノカのまことをかくす
その声は大小ではなく遠近をかえて
こころのまなかではなくへりをつかむし
みずのまぢかを上下してなみもかたどりする
なにかの鋳型かとおもいまえから圧をかけると
もんしょうはかなしくつぶれけむりにばける
声の鳥、とおくの鳥をよこぐもする声
ゆきぞらがいつでもひとのまとなのだろう
そこを井戸にしてとりあえず声はせりあがり
おおわしのまぼろしがこれにすぐともなう
北地にいて声もかわる、さけびはしない
「層」8号
とうとう、ぼくの所属する北大、映像・表現文化論講座の機関誌「層」の8号が発売となりました。ぼくはそこに、90枚の長稿「『私の男』と結晶イメージ」を寄せています。2014年公開の熊切和嘉監督、二階堂ふみ、浅野忠信主演『私の男』に、ドゥルーズ『シネマ2』での「結晶イメージ」の概念がどこまで適用できるかを実践したもので、今年紙媒体に発表されたぼくの映画論では唯一、まとまった分量をもつものです(執筆は昨年末)。意欲的なアプローチをしているとおもいますので、ぜひ読んでいただければ。学会誌ですが、ジュンク堂などで購入できるはずです。本文160頁、1800円+税。
同号誌面ではほかに、日本の現代思想の「台風の目」、廣瀬純さんをフィーチャーした第一特集「シネマの大義」が充実しています。それと同僚の応雄先生も、ドゥルーズとゴダールを交錯させた重厚な論文を寄せていて、これにも注目していただければ。
誌面全体を概観すると、映画のディテールを視覚的に描写しているぼくの文だけが例外を形成しているとも気づきます。ぼくは思考と視覚体験を分離できない。そのあたりを誌面から汲んでいただけたらとおもいます。
べつのルドン
【べつのルドン】
あかるいほうへ、が
まぶたのうらにみちる
やっとした瞑目のふちの
しずくとともにあるおもいが
ひとつの破船をかたちする
ふゆのまもみるめはまかれて
ひかりがこぼしたおとのように
あらなみからはこばれてくる
みることのいきつぎのあいだで
なにをつつましくきいているのか
沖か磯辺かともかくとして
粗衣であるかぎりはさまよう
そのゆめみできみのかおが
なみにひたされ座礁している
消界
【消界】
とおくゆくゆったりしたうごきが
きんいろをはなちうつくしいのなら
うつりすべるかげにはその起点が
つかまえられてならないだろう
中途だけがあるとおもいきることが
ふれあわぬそらとかぜをたわませ
とおさのうちへときえる雅量を
こがれいるときのまにこぼしうる
朝湯
【朝湯】
じぶんがふたりになるときは
そのかたほうがおもくはり
かわききった流木をかかえる
すがたのまんじなどあるものだ
あさぶろにいれば朝のなかへいて
双のひととくゆうの科をする
あらうなみとあらわれるいそべ
ふたり以下ひとり以上のあわいで
ゆあみゆあみにあやめられる
雨世
【雨世】
そらからはあめがたちかえり
ゆきがいきかえってぬれつくす
おもうかおがやわらかくかたむき
ほとりのくさをみにゆくによい
よわいまなざしの縦長な日だ
みわたせるかこいとおなじ
あめの筒のなかでかんがえる
ふるあめのゆるんだひろがりを
くりかえす歩にうまれあわせ
あんぶれらのみホノカをぬれる
にすがたのけむりへむかうと
こころがとけかかってもいると
アンケート全長版
「詩手帖」今号(年鑑号)のアンケートについては、最初、依頼文中の「800字」以内という文言を見落とし、フリーハンド(それでもなるだけ短く)で書いてしまった。編集部にミスを指摘され、あわてて800字に短縮し、送りなおした。だから全長版と短縮版がある、ということになる。もったいないので、その全長版を以下にご披露。
1
刊行順に――
細田傳造『水たまり』(書肆山田)
幼年記憶、朝鮮テーマ、現状への反訴、語彙の驚愕、詩法の発見、ペーソスなどが、独特の韻律意識のなかに不逞にも複合していて、わくわくする。老いこそが若さに反転している奇観。《きのうの朝のほおずき市で/江戸から来たほおずき売のおやじが/わたしの顔をしみじみと見て言った/したいだな/何度も言った》(「したい」)。
望月遊馬『水辺に透きとおっていく』(思潮社)
母の喪失をうたう序詩、悲哀と透明にみちた改行詩群、少年少女にフォーカスをあてた魔術的小説文体の――それでも隙間ある飛躍によって詩とよべる――散文詩群、これら「ひらかれた閉じ」による全体の妙が何度でも繙読を誘う。ひとすじ縄では括れない抒情派。ことばが跳ねないから、この作者を信頼している。《詩はいつも、ぎりぎりの生存にかけてしまうひとの、手のひらへ、はかなく降りてくる。かざした手のひらには闇がある。》(「距離感の愛へ」)。
川田絢音『雁の世』(思潮社)
すくないことばを、くりかえし噛みしめてゆくと、厳格な叙景精神が着実につたわってくる。東欧での体験がもとになっているのか、「テレジーン」(チェコでのナチス強制収容所所在地)、「オシフィエンチウム」(ポーランド、アウシュヴィッツ所在地)、「ラシナリ」(ルーマニア、シオランの生地)の地名もみえる。川田は雁のように時空間を渡っているのだろう。世界人の風格。《なにを浴びても/外にものごとはないという度量で/川は外を流れている》(「長い橋」)。
高木敏次『私の男』(思潮社)
離人的自己把握というのが第一詩集『傍らの男』以来の高木の主題で、この第二詩集でも《私のことを/私の男と呼んだ/まるで男を見つめるように/私を見つめていた》と連作が始まってゆく。以後、台湾の具体性を捨象した場での、私と私の男との彷徨が前作を超えたスケールでつづいてゆく。これほどの膂力があったとは。しかも私の男にかかわる修辞は「減喩」というほどに構文構築性を砕かれている。たりない連語からひろがる希望のようなもの。《係われるものは/姿ではない/失われたものは/仕草ではない/呼ばれたのだから/きっと/誰かがいる》(「十二」)。
松岡政則『艸の、息』(思潮社)
「艸」の出自をもつ作者からの視界はいつも転覆性に富んでいるが、そこには力ある肉体がひかりあふれて貫通している。詩の男性性の鑑。形容詞・動詞の名詞化という松岡文法は、ここに来て荒々しい修辞的綺語をさらに加算するようになって、詩法の更新はどこまで行くのだろうと幻惑される。往年を回想するときの器量も得難いが、以下にある恋愛の気配に息を呑んだ。《くさのさなえの幼きものや/しどけないまで混じりこんできて/そのままバスのなかに住みつきたくなる/家庭がなんだ/一篇の詩とはそういうものだ》(「詩のつづきにいると」)。
2
これも収録詩集の刊行順に――
「夏の果は血のように滴る」(川口晴美『Tiger is here.』〔思潮社〕所収)
原発銀座とよばれる福井県小浜市に出生した作者の、JK時の放課後への回想から始まるこの詩集の第一部、そのクライマックスをえらんだ。改行詩篇における一行の長さが散文的説明を超えた「たゆたい」を付帯させ、「記憶は存在しつつ非在だ」という厳格な認識をたちあげてくる。これほどみごとな自己記述は稀有だろう。詩篇は父の事故死に際しての母の行動をしるしたもので、向田邦子のドラマをおもった。《母だけが話し続けながら〔…〕/ゴミ袋に両手をつっこんですっかり色の変わった作業着を広げ/内ポケットの底にあったキーホルダーを素手でさぐりあてて取り出しました/「ほら、あった」と幸福そうに笑っているこのひとは/誰なのだろう/〔…〕/わたしはこのひとを知らない》。
「街角」(金井雄二『朝起きてぼくは』〔思潮社〕所収)
不如意さもふくむ日常をやわらかい措辞でつづる金井はライトヴァースの現在的名手と評価されているだろうが、詩想のプンクトゥムが詩の形成そのものをゆるがす、じつは怖い書き手であって、松下育男などの系譜につながっている。どの詩篇も達意で唸ったが、ここでは終結部に複雑なひかりの交錯する「街角」を。《街角の向こう側/ほんとうは/それはただの/曲がり角でしかなく/〔…〕/たまに人生の吐瀉物があったりするだけで/おお、今/ぼくの息子があの街角を曲がって行くよ》。
「白粉花」(斎藤恵子『夜を叩く人』〔思潮社〕所収)
女性的な奇想という点で、斎藤恵子の詩のゆたかさにずっと敬意を払っている。今回の詩集は恐怖など原初的な感覚を幼年記憶から掘り起こした詩篇が多かったが、「白粉花」へしめした伴侶のちいさな戯れに焦点を当てたこの夫婦年代記(しかも一人称「おれ」の余命が幾許もないことが暗示されている)が紛れこんでいて、これが新機軸をしめすものだろう。泣けた。その終結部――《おれはいっぱしの男だと思っていたが、今から考えるとほんの小僧だった。女房はねんねだった。幼い子どものする花遊びで喜んでいたのだ。白粉花のひらく夕暮れ、子どもじみたおれと女房がほの明るさの中、見つめ合っている姿だけがくっきりと浮かんでくる。》。
「晴れの日」(小川三郎『フィラメント』〔港の人〕所収)
小川三郎が以前より「ちいさい」詩集を出した点に清冽な衝撃をおぼえた。逆接の論理が順接の叙法に回収され、滋味たっぷりにねじれてゆく詩作にはさらに磨きがかかったが、その詩が徐々に静謐さをもおびてゆく経緯に動悸している。「晴れの日」の冒頭と途中を引こう。《小さな橋を渡るとそこは/私の場所ではなかったから/私でないひとたちが/たくさんいた。》《突然の雨のように/後ろから私を/抱きしめるひとがいた。/固く固く/私がどこにも行けないように/ぎゅっと抱きしめ耳元で/何かとても/さびしいことを囁くのだった。》。
「黒札」(岩佐なを『パンと、』〔思潮社〕所収)
改行末のヴァリエーション、語調変化、意想外と既視感への復帰、淡々とした自己の位置――これら練られた「技術」というしかないものによって、岩佐なをの詩はさざなみのように読み手をくすぐり、笑いを繰り返させる。それでも眼前の些末ではなく、なにか遠いものが現出して「詩の体験」を確実に所在化する。名人芸だ。菓子パン等をさまざまにうたう、すばらしい第一主題のあとも名品が目白押しだが、そのなかでとりわけ怖い奇想詩篇がこの「黒札」。換言不能の着想なので計三聯分を抜き書き紹介するしかない。《街を歩いていると/ときどき見かける/うしろすがたがある》《肩から踵にむかって/表裏ともにまっ黒けの小札をばらばらと/なんまいもなんまいも/落としているひと》《だあれも指摘はしない/あなた、内臓が見えてますよ。/なんて誰も口が裂けても言わない/ましてそれが黒い札で出来ていて/瀧のようだなどとは/誰も言わない/ばらばらばらばら/肩口から落ちて/踵で消えるだけ》。
3
国内の詩論書関係を刊行順に――
筑紫磐井『戦後俳句の探究〈辞の詩学と詞の詩学〉』(ウエップ)
一般には短歌とちがい「詞」の詩とおもわれている俳句の分析に、時枝文法の「辞」「詞」双方を導入した。白眉は、音律の自在さのなかに「辞」がやわらかに組織される阿部完市の詩学へいざなう七章・八章。触発されて読んだ完市の著作、とりわけ『俳句心景』(81、永田書房)、『絶対本質の俳句論』(97、邑書林)には震撼した。藤井貞和詩学どうようの汎アジア的スケールで韻律が熟考されていたのだった。
川島洋『詩の所在(主体・時間・形)』(∞booksによるオンデマンド)
丸括弧内にある三副題の観点から詩作行為が原理的に考察される。詩誌「すてむ」などに掲載された詩論の集成だが、これほど精緻な書き手のいたことを不明にして知らなかった。《詩を書きながら、普段話すときのようにすらすらと言葉が出ないのは、「表現」に四苦八苦しているためではない。それはむしろ、言述を支える内的な文脈と言葉とを同時的、相互的にそこに発生させなくてはならないためだ。そのとき詩の書き手は、世界を日々埋め尽くし続ける膨大な発話――話し言葉だけではなく書き言葉も含めて――の圧力による不快感をこらえ、それにあらがっていることになる》。
北川朱実『三度のめしより』(思潮社)
日常を、体験を、記憶を、つまり生を、詩が補完する――じつはそんな途轍もないことがやわらかいエッセイ文体にさりげなく綴られている。ライトヴァース系の教養ゆたかな引用そのものにこれほど心を打たれた詩書は初めてだった。しかも鑑賞が引用詩篇にたいし換喩的になっている。たとえば松下育男「はずれる」にたいし書かれた文章なら以下。《飛行機雲を引いて横切っていたはずの旅客機が、よそ見した瞬間に消えたことがあった。動悸がするほど青い空は、もうひとつの空を隠している気配がしたが、半生が、ボートのように回転して、まっさらな時間があらわになったこの詩を読んで、ふいにあの空を思い出した。通過しなかった夏を思った》。
神山睦美『サクリファイス』(響文社)
書評集、講演記録集といえる構成なのだが、一気呵成に読ませる一貫性をもっていて、そのなかで拙著『換喩詩学』への言及が白熱の一部をなしている点を嬉しくおもった。それは換喩への思考がミメーシスへの思考へと神山のなかで連接されるためだ。神山思想の中心概念「共苦」は、離接を原理としていて、だからこそ時空間を自在に連接してゆく逆転も起こる。この意味でもともと彼の批評原理に換喩が作動していることになる。たとえば岩成達也の『レオナルドの船に関する断片補足』中の「皮膚病に犯されながら昇天していくマリア」はどう思考されているか。《マリアとは、すでにして死んでいるとしかいいようのない存在であり、だからこそ、そこにあらわれるのは、「激越な空疎」とそれゆえの「形骸としての奇蹟」にほかならない》。
大辻隆弘『近代短歌の範型』(六花書林)
伝統文法にあかるい当代きっての歌よみによる近代歌人論。詩の書き手は、大辻の一首考察における「辞」(助動詞、助詞)への繊細な着目に同意をおぼえずにはいない。助詞ならば構文内のズレの機能へもひろがっていて、そうした換喩性は何も現代詩のみの特権ではなく、伝統詩型が伏在させてきたものとわかるためだ。とりわけ斎藤茂吉、島木赤彦の読み方を教わったが(現代短歌では山中智恵子も)、大辻歌論は佐藤佐太郎といつも相性が良い。たとえばその一首《冬の日の晴れて葉の無き街路樹の篠懸は木肌うつくしき時》についてこう述べる。《「篠懸は」と来たのなら「木」といった名詞で歌い収めるのが普通なのだが、彼はそれを「時」という名詞に繋ぐことで意図的に文脈をずらしている〔…〕。〔…〕客観描写の油絵の上に、さらりと一刷き、時間感覚の上塗りをする》。
※久谷雉がツイッターで話題にしたが、つぎの「詩手帖」1月号から、一年間の「詩書月評」の担当となった。レイアウト変更の一回目なので原稿を書き上げてから字数が変わって書き直しを依頼されたり(しかも事前交渉ミスで取扱い対象についての錯誤も指摘された)、なにしろ送付されてくる詩集が大量だったりで、繙読と執筆作業にはものすごく疲労感をともなう。なんとか大過なく連載をつづけられればいいのだけど。
――積雪のうえに雨が降り、翌朝が0℃前後だと道がつるつるになる。最も滑りやすい状態。今日はそのなかを、あるきまわらなければならない。転んだら、久谷のせいだ