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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

男性の抒情詩

 
 
【男性の抒情詩】
 
いいおくれましたが、今月(3月号)の「現代詩手帖」詩書月評では、男性による抒情詩集をあつかいました。ラインアップは以下。
 
・宗清友宏『霞野』(石風社)
・久谷雉『影法師』(ミッドナイト・プレス)
・久石ソナ『航海する雪』(私家)
・野村喜和夫『久美泥日誌』(書肆山田)
・相沢正一郎『風の本――〈枕草子〉のための30のエスキス』(書肆山田)
・冨上芳秀『蕪村との対話』(詩遊社)
 
これらの抒情性に共通しているのは、換喩的なうごきです。なにかをいいさして、発語がずれてゆく。このとき詩=詩文=詩行の直線性がたわみ、あらわれに容積のようなものができるのです。最も意欲的な若手女性詩人の詩が「ストレートな」「ゆがみや散乱」をいまヒリヒリと印象づけているのにたいし、男性的抒情には影をはらんだ含羞=恥辱がある。ぼくは詩作の原動力は自己流露ではなく恥辱だとおもっているので、今回あつかった男性詩作者たちの「手許の温かさ」をより掬したい気になっています。
 
引用部分からもおかわりのように、ぼくにとって未知の詩作者・宗清友宏の言語感覚がすばらしい。いまはちょうど、彼の別の「作品集」(そう、「詩集」とはよべない結構をもつ)『時量[ときはか]師舞う空に』(石風社)を読んでいて、そこでも学殖と狷介さがあらわです。読んだところまででいうなら、ラテンアメリカにまつわる民俗と地理が全篇に貫通し、空気をつくりあげている。それが「歌」ごとのスタチックな構造反復から光景の背脈としてあらわれるのです。
 
それにしても――もうじき〆切日の次回・詩書月評をどうしようかなあ。ネタ切れということでないのだけれど、とりまとめ(二号分のふりわけ)に何案かあって、構成を決めかねているところです。あまり知られていないだろう詩作者では青石定二詩集『形R』を最近読んで、瞠目しました。
 
 

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2016年02月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

あわくのこす

 
 
【あわくのこす】
 
 
かおをみなかったことはたしかだ
とおくそのものがふりかえると
あらわれてみせるほのじろいかおは
とおさゆえとたんにきえていって
すがたのすべてをかおのない
あらすじめく二列にみせてしまう
ひとはおのがじし並行であって
風ではなくへだたりにくだけ
ふりかえる容積のみあわくのこす
 
 

2016年02月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

横浜聡子・俳優亀岡拓次

 
 
【横浜聡子脚本・監督『俳優亀岡拓次』】
 
トンネルのうす闇を男が逃走している。憔悴した表情。女子高生とぶつかると、ふところから拳銃を落とし、女子高生に恐怖をあたえる。一挙に逃げ足をはやめる男。刑事が追う。線路際の階段を駆けのぼると、視界のひらけた先は神社。そこでホームレスの男とさらにぶつかる。逃げている男と刑事たちの、怒号とびかう葛藤。平常心を失った男が発砲しようとすると、警察による発砲の反撃をくらう。くらったまではいいのだが――神社の賽銭箱あたりを背に、男は七転八倒しながらも、立ち上がり、また倒れ、また身を這いあげて、なかなか死なない。展開が止まらない断末魔演技。思い入れたっぷり、未練たらしい。そこで「カット!」の声が飛ぶと、フレーム内へ映画スタッフが侵入してくる。
 
記憶ちがいがあるかもしれないが、これが横浜聡子監督『俳優亀岡拓次』の第一ショットだった(つまり長回しだったとおもう)。映画を撮影する映画では、むろん映画内映画が駆使される。映画内映画から現実への転換は、オフフレームからの「カット!」の音声が多く契機となるものだ。これが鉄則だとすると、『俳優亀岡拓次』の第一シチュエーションは、仕掛けが大がかりすぎ、映画内映画なら「おもわず」映り込んでしまうはずのスタッフを死力で遮断して、画面推移そのものの内部性をもちすぎてしまっている。『アメリカの夜』のトリュフォーなら、これをやらなかった。映画を撮る映画として何か錯誤があるのではないか――最初はそんな危惧が走った。
 
いそいでつけくわえておくと、この映画が中心化するのは、さきに紹介した第一シチュエーションでいえば、のちに駆け出し中と判明する、逃げ惑う男を熱演したイケメン俳優ではなく(彼はのち再度登場する)、彼が神社でぶつかった、風貌に何ひとつ冴えたところのないホームレスのほうだ。むろん観客はそれが主演・安田顕と知っている。「カット!」のシチュエーションのあとは、監督、さらにはスクリプター女性(助監督?)への伝言という迂回をつうじ、「なかなか死なない」目立ちたがり屋の俳優にたいし、クレームがつく。「撃たれてあっさり死ぬ」範例をその場で端役の安田顕が若手俳優にしめすことになる。スクリプターの指拳銃+「バーン!」。うしろに跳ね飛び、余剰ゼロで即死してみせる安田。
 
画面からの消えかたに「消滅」しか現象させないその潔癖さというか恬淡さは、あきらかに川谷拓三に代表される「脇役伝説」に反している。ピラニア軍団の川谷ならいつも「数瞬をいた――生きた」。一方この安田は「いないようにみえて」「いたようにもおもえる」――それだけだ。これは何か安田顕の俳優としての存在感にふかく接触しているようにみえる。
 
近年のTVドラマでなら、安田はさまざまな振幅をもつ「脇役」(「端役」ではない!)を演じてつよい印象をのこしている。実年齢よりほぼ20歳下の、しかも庵野秀明という天才型のおたく。やたら泣く厚化粧オカマのパティシエ。町工場の実直な技術者(社長に忠誠だが、多弁さが取り払われている)。
 
ところが安田本人の、たとえば「顔」はどうだろう。「奇異」を目指す設定の眼目以上に、それじたいが不安定な振幅をもっているとはいえないか。たとえば――目鼻のみをウルトラアップしてみるなら、安田の顔の造形・骨格はもっと面長のはずだが、それが縦方向に微妙に圧縮され、むしろ四角い顔を現象させている。気弱そうにみえて、顎全体から強靭さをおぼえさせる。目はいわゆる「くりくりまなこ」でかわいげがあるのに、眼光上では妙なヴァリエーションをえがく。ときに目力ゼロの「死んだ目」をみせるとすると、眼底の奥底にめらめらと不測の焔も揺曳し、しかもそれがあっさりと途絶してしまう。つまり不安定でつかみがたいのだ。
 
あるいは存在全体を「要約」しようとしても、からだ各部に装填されている多様性が、どこかで要約をはみだしてしまうかたむきがある。しかも安田はその多様性を誇示するのではない。それらをも演技の刻々で「あっさり死なす」のだった。しめす分量ではなく、捨てる分量の多さのほうが特異で、しかもそれが目立たない。「ゆれる俳優」――脇役に適用されがちな「存在感のたしかさ」という美辞では何かがずれてしまう俳優――それこそが安田顕ではないのか。とりわけ彼の真骨頂は演技でみせる「覇気のなさ」に叡智がこめられていて、ときにオフビートよりももっとタルい外しまで結果させることだとおもう。
 
まとめると、安田は「多さ」を、ひとくくりのなかで、ときに不安定に明滅させる新しい類型だった。その自我の遮断には狂気がひそむ。同時に、『俳優亀岡拓次』で横浜聡子監督がとった方策も、「多元性をひとくくりにしてしまう圧縮」だった。安田の面長のはずの顔が、四角く圧縮されている現実とそれはちかい。もちろん前言した、独立性のつよすぎる冒頭シチュエーションの「映画内映画」がその範疇に入るし、あるいはやがて「ことばなし」のリアクションだけで安田=亀岡拓次が、ひとめぼれしたと見事にわかるシーンも後続する。相手は、長野の飲み屋街のちいさな居酒屋「ムロタ」の若い女将・安曇(というか大将=不破万作を手伝う出戻り娘)=麻生久美子だが、このときもちいさいながら「多元性をひとくくりにしてしまう」術策が露呈する。手前に安田、奥行に麻生を置いた顔向け構図が、カット割りされず、あからさまに古典的なピント送りでしめされたのだった。
 
カウンターの向こう、厨房内にいる若女将にみえる麻生に、自分の熱燗をおごる安田。「ボウリングの球のセールスマン」という安田の嘘の自己紹介や、何気なくふたりが見上げるTV内、スペインのバルでのタコ料理の紹介画面、艶っぽい麻生のおちょこの傾け方と嚥下、それと注文のつまみ=タコブツと寒天のもつ清冽、あるいは紙おむつの話題――驚くべきことに、巧まないそれらの話題がすべてのちの展開の伏線になっていたと判明する。
 
タコからタコに飛び火したかぎりは、TVのスペインは映画のスペインをのちによぶ。しろいとっくりセーターに小振りのラインがやたらに色っぽく目立つ麻生の胸元は、やがてはフィリピン娘「ベン」ちゃんの胸元、さらには安田=亀岡が慣れない舞台出演のオファーをうけて共演した、杉村春子めいた大女優、三田佳子の、芝居上、安田によって揉まれる乳へと発展してゆく。ピント送りの話題を出したが、飲み屋「ムロタ」のシーンでは麻生の父親役の不破万作は、画面オフしているか、ロングにいる場合は必ずピントを外されていて、声とぼやけた風体のみで不破と「予想」されるだけだ。これは俳優への不当な扱いなのか。ちがう。つまり不破は最初の画面でそう処理されることで、ちゃんと写されるのちのシーンを「予期」されることになるのだった。
 
どの細部も映画内で有機的な連絡をもち、それじたいのみでは独立していない――これがこの映画の、「多元性をひとくくりにしてしまう」荒業の次に成立している法則だろう。これらがやがてシチュエーション同士、さらにはシチュエーションの内部性=展開を、みたこともない創意へと織り上げてゆく。もともと多元性は、横浜作品の特許にちかいものだった。『ちえみちゃんとこっくんぱっちょ』の女優三人、『ジャーマン+雨』での子供たちの夢幻的な落書きシーン、『ウルトラミラクルラブストーリー』におけるエンディングの多肢性、さらには『真夜中からとびうつれ』の展開そのもの。ところがそれを今作で横浜監督は、俳優のいる現場へとさらに過激に適用したのだった。
 
それぞれが複雑な展開なので、説明が長くなってしまわざるをえないが、びっくりしたのは次のシチュエーションだった。とある現場。亀岡はフィリピンパブで酔客を演じている。彼についたのが、麻生とともに出番は限定的ながら、その人の良いあかるいラテン系の外見が観客を魅了せずにはいないメラニーふんする「ベンちゃん」。彼女は外見を買われて起用された素人という設定で、日本語は喋りが堪能だが、台本が「読めない」、しかも映画と現実との虚実の振り分けもできない厄介者だ。ともあれ彼女の意気の良さを活かすため、ふたりのシーンは亀岡リードのアドリブとなるが、映画の虚構を食い破り、現実をバラしてしまう「ベンちゃん」の数々の暴走により、NGつづきとなる。しかもベンちゃんの主張により現実にアルコールを飲まされている安田が酔眼朦朧としてくる。この流れ、NG原因に多様性があって、じつに可笑しい。
 
ともあれ撮影は難航した。気分入れ替えといった風情で、パブの外が写されると、ベンちゃんはいろいろグズっているし、亀岡はマネージャーにケータイで撮影進捗状況を伝えている。おどろくべきことが起きる。このときベンちゃんは画面に「実在している」のに、亀岡はマネージャーに「相手役のベンちゃんが逃げちゃいまして」と告げていたのだった。亀岡はケータイで話しつづけ、道の角を曲がる。話柄が変化する。亀岡がひそかに憧れをいだいているスペインの監督からの、出演向けオーディションがマネージャーによって話題に出されたのだった。角を曲がる際に、カットは割られない。ところが画面全体がその前の昼間から一瞬にして夜に変貌する。場所も街中から夜の倉庫街めいたノワールな雰囲気をたたえだす。すると、亀岡はそのスペインの監督の作品の登場人物へと変化、「幻想」を確約された映画内映画へと審級がさらに進展するのだった。
 
こう書けばわかるように、この展開は、「多様性をひとつなぎのなかに組み入れた」この作品の法則実現であるとともに、長い1カットのなかで大時間を経過させてしまっているアンゲロプロス『旅芸人の記録』の大胆な手法をもおもわせる(それに影響を受けながら、派手にそれをスペクタクル化してしまった相米慎二『雪の断章』の冒頭よりも、さらに)。横浜聡子とアンゲロプロス――この予想外の配合に動悸しない者はいないだろう。
 
「映画を撮る映画」、あるいは「映画を撮れない映画」「映画を撮る直前の映画」という鉱脈が映画史にはある。さきに言及したトリュフォー『アメリカの夜』のほか、フェリーニ『8〓』、ゴダール『軽蔑』、ヴェンダース『ことの次第』、イーストウッド『ホワイトハンター ブラックハート』、北野武『監督・ばんざい!』などをあげることができる。安田が長野に行った映画の現場では共演者によって「ミシェル・ポワカール」「ラズロ・コヴァックス」と、ゴダール映画の役名が出てくるがゴダールに影響されているわけではない。多元性の一括、細部の間歇的な連絡により、結果的に映画内と現実の虚実が連絡しても、それはこの映画の独自性をむしろつくりあげるといったほうがいいだろう。
 
ただし亀岡出演の場面は何ひとつ流産していないが、そこには徒労感がひびく。「ベンちゃん」現場失踪による撮影中断がたとえば意識されるものだ。このとき『ことの次第』の空気が撮影にしのびこんでくる。『監督・ばんざい!』にあった、虚実の分離不能や「虚それじたいの判別不能性」はどうか。長野で撮影されたのは、やくざがホテルの番頭に自分たちのもとめる宿泊客を出せと迫る場面だが、最初画面に現れたのは若頭格のやくざが亀岡、という設定だった。ところがやがてそれが彼の願望で、彼は灰皿の灰でくしゃみするところをやくざに押さえつけられる、みじめな番頭へと現実化する。このときに虚の多元性が分泌される。さらに亀岡の出演シーンはビューアーでスロー再現される。すると一瞬、痛めつけられる亀岡の演技の迫真性として、彼の目玉が飛び出している冗談ディテールが混入される。これらの空気は北野映画との類推を誘うだろう。
 
それでも映画内映画は、横浜聡子映画じたいへの類推をさそう。じつは横浜作品には「減退の加算」という隠れた主題系がある。その頂点が、『ウルトラミラクルラブストーリー』における、松山ケンイチの農薬吸引による病態進化(ただしこれは知能進展という皮肉な様相をも外化する)だった。これにあたるのが、アクションシーンでなぜか予想外に亀岡が鳩尾(胃)を、相手の装備する何かで突かれる、という描写の蓄積だろう。彼はしかもげっぷを作中で数多くもらしていて、たとえばこれを亀岡の胃病死の伏線と予感する観客も多いはずだ。
 
ところが、間歇的連絡を旨とする作品法則は、やがては亀岡の鳩尾への不測攻撃を、彼の橋からの落下という別の事態へと結果させてしまう。その時代劇を撮っていたサングラス姿の黒澤明然とした監督・山崎努は、橋からの落下をも演技として構築しつづけた亀岡をみていた。重々しい間ののち、山崎は「偶然を必然にかえた」亀岡を絶賛する。つまり映画を支配しているのは、「段取り」にたいする覚醒ではなく、アフォーダンス的なものだ。これが、そのまえの、舞台大女優として亀岡を叱責励起する三田佳子がいう、亀岡のからだには「舞台の時間ではなく、映画の時間がながれている」という分析とも符合する。
 
亀岡がかかわる映画人で最もつよい印象をのこすのは、むろん親友にして飲み友だち、おなじく脇役俳優という設定の宇野祥平だろうが、アラン・スペッソという名のスペインの架空の名匠は、意外なことにその実在性が稀薄なことでかえってつよい印象をのこす。実在をとらえられるかどうかはべつに、彼は三度画面に召喚される。スペイン―ポルトガルの隣接類推でオリベイラをもおもわせる彼の出番を、終わりから遡行してみよう。
 
彼の指揮のもと、砂漠で映画が撮られている。オーディションに落ちたはず(日本人配役の座を射止めたのは冒頭のイケメン俳優だったと間接説明される)の亀岡が、頭に鉢をかついで疲労困憊しながら砂漠を移動するすがたがロングからの望遠でとらえられている。監督の絶賛の声。存在ぜんたいが不毛性と接触しているこの感触はアントニオーニ『砂丘』やベルトルッチ『シェルリング・スカイ』にちかい。
 
そのまえは、亀岡と、宇野祥平ふんする宇野泰平(配役名から判明するように、もともと戌井昭人の原作小説で、宇野自身をモデルにして造型されたキャラクター)が山形の飲み屋で飲んでいる。「ブレイクしない同士」という前提で飲みあい、しかも宇野は先輩亀岡に敬意を払うが、どこかで「より売れてやるぞ」という自意識も垣間みえる。その自意識が亀岡の目立たないとはいえ着実にしるしている実績により打ち砕かれる反復が、じつは笑える。このときに、スペッソのオーディション(日活撮影所のがらんどうのスタジオが使用された)に亀岡が出た、という話題になって、スペッソの指導に俳優・亀岡が応え、麻生久美子とのダンスシーンをふくめ、あからさまなスクリーンプロセスをまえに、亀岡の演技が情熱的に白熱してゆく。やがてスクリーンプロセスが移動風景になると、ひとりカブにまたがった亀岡が、長野の麻生=安曇に会いに急行しているシーンへと、「平面展開のまま」変化してゆく。
 
砂漠でのロング(それが望遠レンズを介在させた映画内映画になると比較的近景となる)、平面的なスクリーンプロセスを背景にしたコミック的=セルアニメ的な亀岡の実在による遠近のわずかな二重性というふうに、この遡行過程が変化してきたわけだが、では日活のがらんどうの映画スタジオを舞台にした最初のオーディションはどうだったのだろうか。
 
ロングの位置にいるスペッソ監督は、ぎりぎりのシャッターの隙間からスタジオに入ってきた亀岡を、自分が愛着している俳優として呼びよせる。亀岡はがらんどうの空間を斜めに横切るが、監督の指定するエチュードに入るとき、スタジオの壁から離れられない存在へと変貌させられる。このとき亀岡のエチュードの相手役になるのが、ロマンティックなことに淑女のシェイプをもった影絵なのだった。奥行きへの「層」という点では、亀岡の実在と、この影絵が、騙し絵的に同一の奥行きに入って、いわば「虚実」を共演する。演出の遊びを超えた、演出の発想力・展開力に息を呑む。
 
ところがこの一連の最後で、同一の奥行きという基準が崩れる。照明投影されることで実現していた影絵が、より奥行きに入って、実在女性の完全に黒いシルエットとなるのだった。むろんこれはシルエットとはいえ実在だが、現れは影絵とほぼ区別がつかない。そのとき虚実の二層があるだけでなく、虚にも各層がある、という作品の映像哲学が告げられることになる。見事だし、ここでダンスシーンのフェリーニ『カサノヴァ』との共通性も交え、とりわけ作品がフェリーニ『8〓』に親炙しているような感慨が生じてくる。
 
じつは、虚実が複層化しているあらわれ、あるいは虚のなかに複層があるあらわれとは、それじたいが「内部的全体」とよぶべきものなのではないだろうか。その内部はぬくもりをもつ。この『俳優亀岡拓次』は、多様性の一括表現といってもいいのだが、その内部性のなかにある層の多さによって、内部的な温度をにじませている点が稀有なのだった。演出上の仕掛けやカットを割らない英断によってこうした印象が生じるのも確かなのだが、この内部性がじつは横浜組の現場のもつ、家族的な内部性とも並行しているのではないか。
 
横浜監督が数年前、北大内での横浜作品特集で来札したとき筆者は彼女と壇上対談したのだが、自分はカットを割れず、カメラマンにカット割りをまかせていると、彼女が語った。ただし創意的なカット構築を「誘導」しているのは、じつは横浜組の現場の内部性なのではないか。それはちょうど、亀岡役の安田顕の演技が、安田いわく「死んだ目」を通したとされながらも、眼に「死んだ目」以外を数々、非定着的にゆらめかすように「誘導=励起」されていたことにひとしい。いずれにせよこの作品で観客は、「内部性のなかの深度のちがい」を微妙に体験しわけ、それを幸福感につなげるようになるはずだ。反応の中心は、もちろん笑いだとおもう。
 
さて上述した「映画を撮る(撮れない/撮る直前の)映画」においては、中心化されるのが監督か主演俳優かプロデューサーだった。つまり脇役=端役俳優を中心に据えたこの作品は、その意味では同列に属していないことになる。それら先行作への不従属が、この作品に着実な結果をもたらした。つまり亀岡=安田の「俳優としての生」は短時間連鎖で複数的であり、このことが複数の舞台と層を作品に招きよせているのだった。複数の舞台(撮影地)は亀岡の移動そのものをもともと基盤にしていて、それゆえに作品では列車の車内風景、車窓風景が反復される。
 
これが移動のリズムをつくりあげていたとすると、やがて、スクリーンプロセスを配したオーディションスタジオから長野への移動、芝居現実的には山形から長野への移動というように、移動の真偽が定かでなくなる。あるいは終幕の砂漠への「跳躍」にいたっては、飛行船内シーンはあるものの、移動の実際すら脱落して、それにより虚実の判明までもが不能になる。これを「内部」が「外部」を併呑する過程が生まれたといってもいいだろう。作品の時空変異はそのように、挑発的・哲学的なのだった。
 
むろん付帯的な果実がある。可能性としては「あらゆる生」を、「目立たないがそこにいた」というわずかな保証で生きる亀岡がいて、その前提に反映されるように、一部の人物にも複数の生が湧き出す、いわば祝儀が生ずるのだった。亀岡が麻生=安曇に用意した紙おむつと花束が、モノあるいは生理の間接物としてどのように画面にすがたをのこしたか、それを秘匿したいので詳述はひかえるが、「安曇はじつは……だった」という判明は、ドラマ上は亀岡の失意を呼んでいるのに、その多様性が画面内では見事に謳歌されている。それは「宇野がじつは……だった」という一種の結末提示でもみられたことだった。
 
いずれにせよ、この作品では細部がすべて連絡しあって、有機的な時間=内部的全体を哲学的・躍動的・騙し絵的につくりあげている。たとえば人間の手には、てのひらのくぼみという「内部性」を幻想させる経緯があるが、作中、手を怪我した亀岡がその手を差しだし、安曇の手によって包帯を巻かれるシーンなどは、「内部と内部のやさしいたわむれ」とよぶしかない美しいディテールで、それもあって、ほんとうに見事な快作となった。
 
――2月24日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
 
 

2016年02月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

サイロ

 
 
【サイロ】
 
 
すこし列車でゆけば
サイロがすべて廃墟となった
その迅速がしられるだろう
おわりが塔のすがたで
すぎてゆくのはすばらしいが
まことは点在とひろがりに
うすくなるちからが
とおく並みあうままだ
たがいへの補完がながれてゆく
このことがすでに視認ではないか
ひとつをみようとして
みこぼれてゆくきもちに
きっとなにかが均されている
ゆきけぶりをわって
あやしいサイロがひとめあらわれたら
どのかんのんをなげけばいいのか
吊るもの、建つもの、ちがいのない
まことのはんぶんをさがしている
 
 

2016年02月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

抱擁

 
 
【抱擁】
 
 
ほんのすこし長崎となったうでに
ぎやまんのおびをかぞえていた
ひとのせなかへまわされてかこむ
肘でも手でもない棒のぶぶんが
もろともひろげる瘢痕のひかりを
棒のうちがわも棒で、もようがあると
よふける鎖の歩廊でつたえあった
ひとのかたへこそさわにゆきふるが
うでにおかれるそれならば鳴った
 
 

2016年02月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

反論

 
 
【反論】
 
 
はなあかりするきれいなことばを
あるぺじおめいてちらす詩には
さきゆきなどながれていない
和音ひとつのさだまりにたいして
ずんぐり音階がはいずってゆくと
ひとの正面ではなくよこがおがふえ
どうぶつのゆめどのもさきわう
ヘムのひるがえるうたはおおいが
はだかの声帯にじしんの穴開く
あることのひろがりならまれだろう
すうこくをつくりなす音階では
きえゆくさまさえ当の差延なのに
 
 

2016年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

春潮

 
 
【春潮】
 
 
よく聴くとひとの袖口や襟元は
そこにみちひきがあるかぎり
ちいさくなみおとをとどろかせて
めくればいいとそのからだが
とうめいなゆびをさそっている
ころもにあかるい開口があり
裾も季節しだいで上下して
スカートが春をのぼりつめれば
ことごとくがなみおとをならべて
みえるをなみだにかえてしまう
 
 

2016年02月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

亜流

 
 
【亜流】
 
 
亜流とよばれる川のほとりへたち
そのべつのおとにこころときめいた
支流をとりちがえたゆめだろうが
あぶらぬくいはるのおんながひとり
両岸のはばいっぱいにうかびながれて
あおいまなこに藻などゆらしていた
 
 

2016年02月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

慮外

 
 
【慮外】
 
 
四十年もおなじまどからのぞんでいると
そらにゆっくりと城の建つのがわかる
あれはなにかのきざしで婚をなしているが
はんぶんほど影のうかがえるそびえが
はんぶんと完璧のつながりもおもわせる
めをのべつのないこのひとみはわれて
なかばだけがくりかえしなみだされてくる
すべて慮外のとおいひびきとなるのは
ひといがいをこがれすぎたためだろうか
 
 

2016年02月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

これからの語調

 
 
【これからの語調】
 
 
わずかわが古典とはことなる
アララギがゆいいつの語調となり
大正の詩作をまきこんだように
これからの詩作のにくたいも
きっとはじらいのはるかにある
愛のことをするいずれかのときに
わきいでるゆがみがぬれひかり
ときのふちからみちるゆくたてを
ただめぐみからの椀と唄いなす
つつしみの旧縁がどこかのあいに
 
 

2016年02月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

こつじき

 
 
【こつじき】
 
 
ゆきのなかったすうこくをへて
かわきだしたベンチへすわり
おおきくもこの世を統べている
それでもちいさなひとになる
背もたれのあるようにいませば
ぽつねんとからだが椅子のかまえ
すわりのみ雪を置くとみえるか
まえなどないそのいずまいに
やがてはしろいものがまいおりて
よきことすらさんびをともなう
 
 

2016年02月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

付託

 
 
【付託】
 
 
かなしげというのは
なにかのかたむきにおもえるが
つねのあらわれでしかなく
それですべてがかたむいている
というかんがえがえられた
だちょう、にわとり、うずら
おおきさはちがえど鳥の
たまごもみなおなじあじで
いきもののおくをたどりながら
食卓が霧中にあってぬれる朝
とびたってゆくのちの霊鳥にも
かなしげがたくされていった
 
 

2016年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

まじない

 
 
【まじない】
 
 
手をまえへさしだすと
からだがうしろにしりぞき
そのかぎりでふたしかに
みずからをけすことができる
ふるゆきのなかでのことだ
手そのものが供花と似て
ささげつくしそなえつくし
つぐないのなさをしるすとき
くらくするみなもとのてまえで
さきわるいあかるみがゆれる
ゆれてそこのみに絮もまく
 
 

2016年02月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

水上縊死

 
 
【水上縊死】
 
 
くびはからだを吊っている
古代音階はそこにひびく
そうおもうとからだ以前になり
あるき以前をあるくことができる
やがてははるの湖面へおりたち
めぐりにぬくみをひろげると
くうへうかぶ身がすでに縊死だと
かんがえにもくびれがうまれる
 
 

2016年02月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況

 
 
昨日(2月13日)の北海道新聞夕刊は、ぼくの連載コラム「サブカルの海泳ぐ」の掲載があったのでずが、3月末に出る新しい詩論集『詩と減喩 ――換喩詩学Ⅱ』の再校ゲラチェックに熱中、ついコラム掲載の報告をフェイスブックにするのを失念してしまいました。
 
コラムで「三題噺」にしたのは、①2月1日、札幌のニトリ文化ホールでの玉置浩二+札幌交響楽団のコンサート、それに②去年11月23日に放映されたNHK「SONGS・星野源」、さらには③今年1月放送の「亀田音楽専門学校(シーズン3)」の第2回、GLAYのゲスト登場篇。
 
一日とはいえ報告時機を逸してしまったので、いつものような別角度からの内容紹介は断念します。かわりに、女房とみた玉置浩二だけ、新聞原稿から断片的に転用することにします。
 

 
 2月1日はニトリ文化ホールへ、札幌交響楽団を従えた玉置浩二の歌唱を伴侶と聴きにいった(指揮=栗田博文)。伴侶がチケット発売開始直後にうまく注文してくれたおかげで、席はど真ん中の第3列。玉置の呼吸音まで聴こえる4メートルの至近距離だった。
 
 いま玉置は男性歌手のなかでいちばん歌がうまい。唄い回しが良く、ビブラートはソウルフル。ウィスパーでも声量があり、オペラ発声をしないからメランコリックな地声がそのまま伝わる。しかも自作のバラードが名曲揃いで、心優しい歌詞のすべてが聞き取れる。グッドオールドなアメリカンポップスのゴージャスさもある。
 
 圧巻はアンコールでの「夏の終りのハーモニー」。ノーマイク、アカペラで玉置の歌声が響き渡る。声の物量が抒情的なニュアンスを伴って聴衆の躯をこじあける。歌が終わりスタンディングオベーションに加わって、自分が涙しているのではないかと思った。魂がふるえた。
 

 
さて『詩と減喩』の再校チェックをしていたら、わずかとはいえまだ「てにをは」などの斡旋ミスがあって、結局すべての原稿を素読みしてしまいました。減喩や換喩の原理的考察もありますが、収録文それぞれは徹底的な「解釈詩学」を展開しています。ぼくじしんは鮎川賞をいただいた前著『換喩詩学』よりも馴染みと創意をかんじますが、むろん感想は読者諸賢におまかせするしかありません。
 
確定済の同書目次をこのさい披露しておきましょう。ぼくの書きものをよく読んでいるかたは、「ああ、あれか」と合点がいくとおもいます。全体は二章構成、こんな内容です(総ページ数407)。完成をお待ちいただれば。
 

 
Ⅰ 換喩と減喩
 
真実に置き換える換喩
喩ではない詩の原理
排中律と融即――貞久秀紀『雲の行方』について
夢からさめて、同一性に水を塗る
断裂の再編――杉本真維子「川原」を読む
第六回鮎川信夫賞受賞挨拶
近藤久也の四つの詩篇
中本道代について
江代充について
減喩と明示法から見えてくるもの――貞久秀紀・阿部嘉昭対談
 
 
Ⅱ 詩と歌と句
 
詩のコモン
アンケート全長版
杉本真維子『袖口の動物』
廿楽順治『たかくおよぐや』
清水あすか『頭を残して放られる。』
小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』
高島裕『薄明薄暮集』
詩的な男性身体とは誰か
佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』
喜田進次『進次』
柿沼徹『もんしろちょうの道順』
加藤郁乎追悼
坂多瑩子『ジャム煮えよ』
方法論としての日録――岡井隆のメトニミー原理について
性愛的に――、初期の大辻隆弘
木田澄子『kleinの水管』
望月遊馬『水辺に透きとおっていく』
 
あとがき
 
 

2016年02月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ヤコブの梯子

 
 
【ヤコブの梯子】
 
 
みじかい詩をよどませる
箴言的な機智をいとうだけだ
すきとおったほのおがあがるまで
とおくで樹々をゆらしてゆくと
樹々のまだらとまばらこそが
ときをながしているとかんじる
時をとめる繋辞をはずせば
機智よりもずっとせいけつな
はしごがはるかのぼりはじめる
瀉血と血をともどもつたえるのだ
とおさをたかさとしたかぎりは
 
 

2016年02月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

同型

 
 
【同型】
 
 
ひとみであることは眼にかげりをあたえる
わたしたちの視はしめりと肉質をとおり
まつげのひさしにもたあいなく濾過されて
ただもとめにくいまなざしへなりかわる
それでみあげる巨人もぬれた肉と映り
ぶなにくらべたりなさをおぼえてしまう
このたりなさがものごとのひかりだと
わたしたちはかのじょにたいしてでさえ
かんがえそのもののかたちを移すしかなく
みえるのもみずからのからだにすぎない
 
 

2016年02月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

間化

 
 
【間化】
 
 
なぞりはあいだをつくることで
てもとにいきいきとなされる
そとのうちがわにはすきまがあり
それをはかりうつしかえるとき
おそらくことばのあいだまでもが
あわれかがやきをもってしまう
あいだはふたつをかためつつ
はなれさせるちからでもあるから
みなきえゆくことへかようのは
へだたりのことわりかもしれない
なみにちりこむ、あをまつば
いつもなにかとにてしまうこえは
さみずのいきおいへくぐらせる
 
 

2016年02月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

一本足

 
 
【一本足】
 
 
しぬまえにうたうという
白鳥のそんざいはきみょうだ
かぜのたかみでうたうのか
それともみずのうえでなのか
むしろそのころの十七音を
みのうちへ辞世としてかがめ
くつわむしめいて鳴いた
たびごろものかげをこのむ
傘だったあたまをたたみ
みちにぬれたおれているのを
棒のかわりとみて忘れない
 
 

2016年02月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

むなぢ

 
 
【むなぢ】
 
 
おのれをとおくはこびながら
まえにむなぢのあることで
おんなはかたちの不測をえた
それは両目であり臀であり
ふくらんだこころでもあったから
うごきに明察や転倒や情をもち
身を屈めるとそれじしんの
ひかるうちがわさえかこんだ
ひとりあるさまが倍数となって
あたまの素数をゆらめかせた
 
 

2016年02月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

すこしずつ

 
 
【すこしずつ】
 
 
すこしずつ――になってゆくという
述部をひそかにすきなわたしは
ゆくすえのかさねにくらんでいる
ひとつとただみえたながれへ
しずかにべつのひかりがしみいる
ときとときとの同道のようで
そのものがたかいけはいをまがり
まるみをまがるフーガをおもわせる
ごらん分岐はならびにあるのか
いきごとのえらびでしかないのか
とおい二羽が二音のはなれを
すこしずつえいえんにしてゆく
 
 

2016年02月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

休む

 
 
【休む】
 
 
ひとつことにこころが占められたら
やりきれず壁へもたれてしまう
たとえ倦みでもみやる時計に
ちがう円光をあたえてほしいのだ
《こいびとになったら愛のほかには
なにもないんだろう》かたりあい
からだを檻とする関係にひるむ
せたけなどただの毛管だから
そのひとよりたかくゆれていて
しずかに木であるおもいびととは
ふたりながらに休の字をつくる
 
 

2016年02月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

大玉小玉

 
 
【大玉小玉】
 
 
みだりにかすめたおおだまこだまは
みなおもいでのなか、またまへかわる
おのおのにぶくかがよっているのは
たまのまにまがさかいめとなって
さかいめのさがのいでるゆえだろう
よきものとこがれたのはからだでなく
なべてなにごとかのさかいめだった
あまたひとよのおおだまこだまも
もものよのひろがりにやがてこげる
 
 

2016年02月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

圧延

 
 
【圧延】
 
 
引用、転記打ちするたのしみに
てもとをほそめてゆくと
みめぐりのまぶたもまぶしんで
ものすらうるむすがたをおびだす
ことばならずからだがひかれ
つづられのこしたほのかな思議は
どのたまさかに背もたれているのか
かぎりなく書くことを明うして
見えでも聴えでもない箔へと
いまただなかのなごりへと
この世をうすく手が伸してゆく
 
 

2016年02月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

曲線分割

 
 
【曲線分割】
 
 
かたちのやわらかさにひかれてゆくと
あらわれているほんのすこしの曲線
それをぜんしんが掬するようになって
よのなかがとりどりのくだものへと
分割してゆくような印象にかわる
樹がひつようとなるのはそんなときで
たかさをみあげ果と枝との相関をみあげ
それに風がふけばよいとまでまどって
しまいにはじぶんのひとみのなかが
曲線をちりばめてばらばらにわかれる
桃のくににいた日のあかるみを背に
 
 

2016年02月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)