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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

リップヴァンウィンクルの花嫁

 
 
【岩井俊二脚本・監督・編集『リップヴァンウィンクルの花嫁』】
 
抒情的な映像美が強調される岩井俊二だが、もちろん彼の脚本作成能力が図抜けている点も、ファンには周知されているだろう。たとえばことなる場所・時間にまたがって同一性がふくざつにからみあうかつての『Love Letter』の物語を、「語り口」そのもので観客に自然に納得させてしまったとき、そこには魔術に似たものをかんじるべきなのだ。ある原理がある。つまり岩井俊二がおこなうのは、分離を融合したのちのズレの拡張により、世界の視角をさらにひらくことだ。もし彼の作品が感涙をみちびくとすれば、それは世界構造に直面した感慨による。そこでは収斂と拡張を分離できず、それこそが世界構造なのだ。
 
拡張とは、まず「判明」の系が徐々にひろがってゆくことだ。収斂とは、それに物語のフックがかかり、全体のなかの一点に注意が集中してゆくことだ。これらが綯い交ぜになる。すると世界は横ズレのうごきをみせながら、ズレたその当面が中心になり、その中心がそれ以前の中心よりも真実味をおびだす。このことに視覚性があたえられていて、べつの言い方をすると、岩井の映画世界では、物語と映像が分離できない。あたりまえのことをしるしているようにみえるかもしれないが、このことを「収斂と拡張が分離できない」二重性によってしめしうるのは、かぎられた映画作家しかいない。
 
『リップヴァンウィンクルの花嫁』もまた、多重性世界の構造について、自然な納得をみちびく語り口がすばらしい。このばあい「多重性の鍵」となるのは、嘘=虚偽の錯綜だ。ネット上の見合いサイトで出会い、すくないオフ会で結婚に踏み切ってしまう男女には体験の短縮という虚偽がある。結婚式へ向かう段になる。結婚式では花嫁側の臨席者に問題が出てくる。まず、両親はすでに離婚しているのに、そうなっていないとする取り繕いがある。臨席してくれる親族の数も満足ではなく、それは特殊業者から、レンタルされてしまう。
 
結婚式用のレンタル親族の情報を花嫁が知ったのは、LINEをおもわせるSNSでの「親族が足りない」という自分のぼやきに、SNS上の友人が反応し、特殊業者の存在を示唆したからだった。この花嫁=ヒロインのSNSでの振舞は観客の共感をよばない。現実の未充足を無防備・不用意に「ぼやく」のが習いになっていて、それでネットで物を買うように夫を手に入れたことまでが無名性の存在、ハンドルネーム「クラムボン」を発信地として吐露される。この意味で花嫁は当初、日常の現れのもとで、それに離反する心情を隠す、「嘘の存在」ということもできる。
 
黒木華演ずるヒロインは、臨時教員で、生徒たちの残酷な、しかしさほど明示的ではない揶揄の対象になっている。うすぼんやりしている。意志表示のやりかたに魅力が乏しく、それが彼女の定位置にふさわしい外見まで伴っている。ところがなにか面倒な事態に直面したときには、もともとの小声は、不用意に不平の文脈をつぶやき、その物理性がゾッとさせる。原理的な驚嘆を亡霊のような共約不能の物理性で漏らすこともある。
 
黒木がすがった親族レンタルなどをする得体のしれない便利屋が綾野剛だった。黒木華のわかりやすい虚偽にたいし、物語をうごかす役割を担った綾野は、多重性がさらにふくざつだ。「市川RAIZO」という俳優名ももつという。黒木が男性他者にとる距離の無防備さが、ものほしげな欲望に起因しているかいないか、黒木の自覚をうながす際には、ビジネスを離れた良心的な人生の助言者のようにもみえる。陰謀家の奥行もある。この点はややこしいので、すこし説明に字数を費やさなければならない。
 
綾野の役割は黒木の結婚式にレンタル親族を差配しただけに終わらなかった。結婚後、無気力のまま平凡な主婦の役割を選択した黒木は、室内に落ちているイヤリングをみつけ、夫が女を連れ込んだ痕跡ととらえてしまう。夫の浮気を疑った黒木は、綾野に調査を依頼する。そのタイミングで、夫が仕事にいって留守のとき、和田聡宏が自宅マンションに訪ねてくる。「あんたの夫に自分の女を寝取られた。あんたの夫は浮気している。それは元・教え子、ふたりが再会したのは去年のいついつの同窓会で、卒業アルバムがあるかい? そうこの女だ」。不用意に和田に入り込まれるままになって、黒木は夫の浮気の具体性を無理やりつかまされることになる。このとき和田の存在と、綾野の浮気調査の関連は、ドラマ上「不自然にも」不問にされている。黒木は疑惑の渦中に、偶然にも真実が飛び込んできたとおもっただろうか。
 
その後――不用意にも和田からの相談をホテルの一室で受ける誘いに乗った黒木。その場で和田は報復を提案する。自分たちもからだを交わせばいい、と。事態進行にたいし恐怖に駆られた黒木はバスルームに行き、ケータイで綾野に助言を乞う。「シャワーを浴びる」などといって時間をかせげ。そのあいだに自分が向かう。このとき、室内の黒木はいくつかの奇妙な固定画角で振舞をとらえられていて、隠しカメラの設置が印象づけられる。
 
黒木がシャワーを浴びているあいだ(不用意にもそれは「振り」ではなく、実際に動作されている)、清掃員姿の綾野が部屋に入ってくると、和田との乱闘ではなく任務継承がおこなわれる。和田が「間がもたなかった、もっと早く来てくれないと」とぼやくと、綾野はご苦労と和田を放免、しかも数か所の隠しカメラを回収していったのだった。その事実を知らず、バスルームにいるところをよばれ、不用意にも裸身にバスローブをまとっただけの黒木は、恫喝して和田を追い払ったという綾野のことばを鵜呑みにしてしまう。
 
法事の席で、夫の母親・原日出子に「両親離婚の事実」「親族レンタルの事実」さらには「和田とホテルの一室にいたときのやりとりの映像・音声の部分」を突き付けられ、黒木はその場から追放されてしまう。酔い寝している夫をよそに、深夜呼びつけられたタクシー。その運転手に原は岩手(黒木の実家所在地)までの大枚のタクシー代を渡して、黒木をなかへ押し込む。黒木はそれにしたがわず、夫とのマンションに戻った。
 
翌朝、夫とのケータイの会話となる。一方的に黒木を叱責する夫に、黒木は夫の浮気をもちだし反論する。けれども相手の名前をいっても夫は知らない。卒業アルバムを出して、当該の相手の写真を探そうとすると、架空の写真が剥がされたのか、当該の場所は男子の写真に「戻って」いる。浮気の事実を和田によって捏造されたとしかおもえない。すべては自分の不用意が呼んだ失態。これで黒木はキャリーバックを滑らせて、泣きながら新婚家庭から出奔するしかなくなる(どこともわからない場所を無意識にさまよう、その「ここはどこ?」と述懐される「場所」がすばらしい――この作品では「判明しないものがうつくしい」という第一法則がまずある)。
 
とつぜん流浪の身となった黒木は、蒲田の安いビジネスホテルに停泊(たぶん原日出子にあたえられたタクシー代が役立った)、やがて連泊のあいだにそのホテルの掃除係という生計手段を得てしまう。その段階で綾野が、浮気調査の結果が出た、と訪ねてくる。綾野の結論も多重性を結果させる。浮気の事実はなかったが、夫が頻繁に夕食を家で食べなかったのは、母親・原がこっそり上京、会食していたためだ。あなたの夫には浮気相手はいないが、ふかいマザーコンプレックスである点が疑われる。和田とのことで逆に浮気事実を捏造されたのは、「別れさせ屋」の仕業で、依頼者も原、あるいは夫ではないか。疑惑の発端となったイヤリングも原か夫が仕掛けた公算がつよい。まんまとあなたは罠にはまったのだ。
 
黒木は納得し、自棄気味の笑いまでうかべてゆくが、観客はそうおもっていない。「別れさせ屋」とはほかならぬ綾野のことで、綾野は多重の依頼をうけ、二重スパイのように夫婦間を行き来したはずなのだ。ところが綾野のしたたかさにすら問題は帰着しない。ネットの見合いサイトをきっかけに夫と結ばれた虚偽から黒木を解放した正義漢のようにも綾野はみえる。「生きにくく」、ときに弱気ながら気味悪い粘着と湿潤を表情に刻む黒木に、無償の愛着をしめしているようにもみえ、綾野はそうした段階を経て、奥深い多重性を発散するようになる。
 
以上、字数を費やして、もうひとりのヒロインともいえるCocco登場まで、作品の前半の物語結節を追っていったが、それらはつねに空間結節の変化と相即している。これが岩井俊二の才能をあかしづける。ヒロイン黒木華の居場所はつねに仮定性に彩られていて、しかもその仮定が「AのなかのB」というトポロジーを色彩づけられる点に注意しなければならない。冒頭が見合いサイトで知ったのちの夫となる存在との、商店街を舞台にした初デート場面だが、相手がどこにいるのかわからず、ケータイで場所確認・存在確認のやりとりがなされる。このときの場所とは「ケータイのなかの実在地」なのだった。
 
以下、現れる空間を順不同になるかもしれないが列挙してみよう。「性悪な生徒の口車に乗って、マイク使用をしいられる黒木の授業の教室」では「生徒の悪意のなかの教室」が、「マイク使用の廉で教員契約の更新がなされなかった相談室」では「絶望的状況に移行する相談室」が、契約更新の打ち切りを寿退社という嘘で取り繕った黒木が餞別として女生徒たちに渡される花束では、「花束のなかのマイク」が現れる。家庭では、「自分のつくった朝食にまったく頓着しない夫によって多重化された朝の食卓・室内」「和田の闖入を受けたマンション室内」が、あるいは法事が終わり、酔い寝する夫のとなりの部屋に呼び出されて原日出子の尋問を受けるその空間で、「仮」であることがそのまま疎外につながってゆく熾烈さが黒木にあたえられ、それが無理やり押し込まれたタクシーの車内へとつながってゆく。
 
岩井俊二がしるしづけるのは、前置詞「in」「to」「beside」「for(代わりの)」などによって補足されることで第一義性をうしない、仮定状態に変化してしまった空間群、その連鎖で、これら空間が物語、あるいは人物の属性の多重化と完璧に相即していることに気づく必要がある。じつはCoccoが出現してくる作品の後半では、これら前置詞のおなじようにくくりつけられた空間が、希望と救済によって語りかえられ、意味変化がみちびかれるのだった。
 
いっぽうパソコンのスカイプ機能をつかい、ひきこもりの中学生女子を遠隔状態で「家庭教師」しているディテールも点綴される。このとき岩井演出はパソコン画面内の相手をとらえることを一切しない。「in front of」を予定された黒木の顔だけが、前置詞のない無媒介性で映し出され、このことで空間は第一義性からの変化を抑えられ、疎外にいたらない。その場所だけが黒木の、仮定ではない場所としてしるしづけられるのだった。
 
物語は、映画が登場人物の「顔の向き」をどう発見・定着してゆくか、その過程とも分離できない。Coccoは獰猛さを印象づける横顔がまず映画的だが、やがてその正面顔を俯瞰で捉えられる。このとき同性愛の予感を散らしながら、Coccoと添い寝する位置にいる黒木華は、天井を向いて「幸せの限界」について語りつづけるCoccoを見ることで、映画的な横顔をあたらえられる。Coccoへの驚愕と同意をクレッシェンドさせてゆき、同性愛的な精神の香気を画面につよめてゆく発信地は、ずっと無言のままでいる黒木の俯瞰された横顔、まさにそのなかの視線なのだが、このときの黒木の演技力は天才的というしかないだろう。表情変化が空間全体に、「ことばにならない意味」の浸潤を付帯させているのだ。
 
そういえば黒木とその見合いサイトで見いだされた夫の結婚式じたいが、多重性をもっていた。まず着ぐるみヒーロー劇というアトラクションの導入があり、いくつかの年齢幅をもつ男女の子役の導入により、両親への新郎新婦のことばは、たくまれた茶番劇となる。その現代的な演出の愚劣さにより結婚式のディテールが多重化されていて、それをまたレンタル親族の統括者かつ親族のひとりとして式場にいる綾野剛がさらに多重化している。「何々の中の何々の中の何々…」という意味の入れ子が結婚式に活用されていた。
 
結婚式でまとった黒木華の花嫁衣裳は「罰せられる」。結婚式直前の控室で、新郎は新婦・黒木華に、SNSでの「クラムボン」の書き込みがあまりに自分たちに符合していることに気付いていて、「このクラムボンはおまえじゃないだろ?」と訊ねていたのだった。花嫁衣裳のなかの黒木華のなかのクラムボンあるいは嘘。この入れ子連鎖によって花嫁衣裳が罰せられる。作品はウェディングドレスそのものを救抜する展開をよびこむことになる。このとき、花嫁衣裳の数が1から2へとダイナミックに昇格し、それを黒木とCoccoという「女どうしが着る」通常性からのズレが生成し、そうした横方向の倍加が、歓喜にみちて赤のレンタカーを運転するCocco、助手席の黒木へのフロントグラス越しの縦構図を得るという、映画的展開をほしいままにしてゆく。岩井俊二の周到なダイナミズム付与は見事なものだ。ここでも収斂と拡張に、弁別がつけられない。
 
蒲田のホテルで清掃係をしているときの休日に、黒木は綾野剛の薦めでアルバイトに駆り出される。任務は勝手知ったるレンタル親族の一員になることだった。このとき姉役のCoccoの奔放な力強さに魅せられる。ところが中心女優のこの接近を演出する岩井の手法はこの段階では、四ツ谷駅前の光景を効率的につかったりするだけでオーソドックスだ。ふたりが駆り出された結婚式での新郎は紀里谷和明がふんしていて、実は妻子あることを秘密にした重婚をおかしている事実が父母役・弟役をふくめたレンタル家族たちだけにつたえられ、それが盛り上がりの動因となった。それでCocco、黒木たちは結婚式での「演技」を終えたのち、二次会にゆく勢いまで得てゆく。
 
四ツ谷駅で方向が別、と父母役、弟役と別れたCocco、黒木は、さらに飲み直す。カラオケのある飲み屋。ここで花束に仕込まれたかつての悪意のマイクは、現下のカラオケに使用されるマイクへといわば変化を遂げる。そうしてひとつの機械的な機能が救済されるのだ。黒木の唄う森田童子、Coccoの唄う荒井由実がとてもいい。役柄が唄っているからだ。退店のさい、持て余し気味にもっていた引き出物の袋をふたりは忘れる。店員が慌ててふたりを追い、引き出物の袋を渡す。場所は渋谷のスクランブル交差点の間近。店員とのやりとりに気をとられた黒木が振り返ったとき、人ごみの奥にCoccoの姿は消えていて、観客は気づくことになるが、これがのちの展開の「予行」なのだった。ともあれ、拡張と収斂の同時性は、時間連関を生き物のように有機化せざるをえない。それで作品の映像は、透明なのに、悲哀にみちた磁気をおびている。
 
Coccoは人ごみの「奥に」きえた。前置詞をつかうと「behind crowd」だ。作品はCoccoのいったんの失踪まで、前置詞類型のうち「behind」を禁欲していたが、このくだりから堰を切ったようにあふれだしてくる。綾野剛が、蒲田のホテルでの掃除係の仕事を強引に黒木に辞めさせ(このとき夫婦同士の演技を綾野が選択し、結婚が笑いのめされることで黒木の結婚の事実がやはり救抜される)、黒木にあらたな生計手段が紹介される。簡単にいうと、かつてレストランに使用されていた巨大豪奢な洋館があり、主の留守居をしながら清掃などして館を守ってほしい、身分はメイドで、報酬は月100万、メイドには先に雇われている者がもうひとりいる――という破格の申し出だった。ここにCoccoの多重の秘密が関わってくるのだが、未見の観客の興味の核心にふれることなので、その後に判明してくる展開については書くのを控える。なお綾野剛は黒幕で、すべてを知っている。
 
この洋館に黒木が入ると、閉じられた部屋が、そこに入るたびに「behind」を分泌するようになる。水を湛えられ、空気注入器を施された水槽群のならぶ部屋があって、「奥」の性質はとりあえずそこに代表されるだろう。水槽に養われている動物は、貝にしてもクラゲにしても猛毒をもっていて、水槽以外の空間にも毒サソリが存在していた。「奥」に「毒」が点在していながら、その毒に干渉されることがない――そのように空間は奥行によって価値を倍加される。このことがCoccoにあたえられた秘密の奥行とからみあってゆくのだ。性質の空間化、空間の性質化が、「拡張的な収斂」によってしるしづけられてゆく岩井の魔術に、観客はとりわけ洋館登場後、のみこまれてゆくことになる。
 
そういえばひとつの忘れられない奥行がある。町歩きする黒木とCoccoがファッションブランド店舗の奥にウェディングドレスを最初に認めたとき、それが奥行に宝石の輝くような感慨をあたえたのだった。ふたりはウェディングドレスを試着し、それを買い上げた。うつくしい散財。さきほどふたりが添い寝する姿をとらえる俯瞰ショットのことを書いたが、ふたりはウェディングドレスをともどもまとい、結婚の擬制のなかにあるかのように高揚していた。むろん俯瞰ショットとは方向を変えた奥行の創造にほかならない。このように作品では「結婚」の近似形が何度も語りかえられる。
 
「behind」は空間の疎隔を予定しているが、それが膚接するとどうなるか。それがたとえばひとをひとが背負う行為になる。黒木華は病身のCoccoを背負った。ただし、黒木にたいしてCoccoが積極的に生産する前置詞が「beside」であるのはいうまでもない。結婚式の壇上であれ、ネットで知り合った夫をはじめ、ほかの人間が黒木にたいしてもつ「beside」の位置はすべて疎外態だった。黒木にたいし愛着と節度をしめす綾野剛は、いっかい不用意な黒木をbesideへ導いてみせ、しっぺ返しをくらわす。Coccoだけが黒木の隣でカラオケに興じ、添い寝をし、そしてbesideの最終形として横からの接吻をなしとげる。
 
物語の結末部に何が起こるかは書かない。ふたつだけ暗示的にいっておこう。りりィの登場するシーンがあって、それまで一人対一人としてつくりあげられていたbesideがそのシーンで初めて三人で形成されるようになる。このときびっくりする行動の飛躍があり、登場人物とともに観客が涙にかきくれるようになるはずだ。花嫁衣裳はCoccoと黒木華の初夜をとらえるような俯瞰ショットのあとは、ある儀式に名残として出てくるのみ。ところがそのあと、ひとりになった黒木が、新居の分相応のアパート一室でスカイプ家庭教師の女子生徒と話すとき、白いひかり、白いペンキの窓枠、壁等に囲まれて、まるで花嫁衣裳を着ているかのような擬制がうまれてしまう。
 
一瞬黒味が入り、今度は「ネコカブト」をかぶり、眼を消した黒木のイメージショットが入る。これは角隠しの変奏ともとれるのだが、ストーリーのなかに記入できないこうした換喩的な「部分」こそが、なんと作品のラストショットだった。異様な感動をおぼえる。つまり収斂とは部分化に負う換喩にあらわれるが、最終的にそれは、「物語」内部にある外部、空白地帯を形成するというのが岩井俊二の結論だったのではないか。このラストショットで時空論映画としての本質が現れでた。岩井のほどこした時空化は、大傑作だった『リリイ・シュシュのすべて』の達成すら超えた。
 
おもいかえせば『リリイ・シュシュのすべて』は第一部・第二部という二分法のなかで、時空論的には序破急をくりかえし、それらの緩衝地帯に、田園でヘッドホンをしながら林立する少年少女たちのたがいに離れたすがたを置いた。それにたいし『リップヴァンウィンクルの花嫁』では終始、緩徐調が保たれ、俳優の一挙手一投足の「生成」を時間切片、空間切片のなかで眺めるよう促されてゆく。たぶん黒木華という女優のもつ空気感が速さによって疎外されるという、岩井の見込みがあったからにちがいないとおもう。
 
この作品では「観察」が観察そのものによって刻々、救済されてゆく。とくに黒木の行動から歯がゆさがとれだした後半から。科白上の明示がないままに、観客が中心的に視るものがある。それが黒木の瞳に、あかるさや力感がましてゆく「領域のクレッシェンド」だった。この意味では収斂そのものが作品内で拡張している。これこそがbehindの属性だった。むろん岩井俊二がしめしていることを哲学的にとらえるべきだろう。たとえば希望の哲学として。
 
3月30日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。劇場内で笠井嗣夫さんと会う。鑑賞後、ふたりでいった焼き鳥屋等で映画話に興じた。
 
 

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2016年03月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感3月30日

 
 
【雑感3月30日】
 
遊牧民的な感性があるとして、その感性のなかで「数」はどう処理されているだろうか。たとえば「味方」はかぞえられる。員数がいくつで、それらの個性がどう分布しているのかは遊牧民たちの意識にみな点灯されているだろう。「敵」はどうか。それらは地平のむこうから現れてくるかもしれない暗数だが、現実的な遊牧民の感覚では、暗数もまた、「かぞえられない」が、なおかつ「実数」であるものとしてとらえられている。 
 
遊牧民たちは「かぞえられない数」がやがて出現してくるとはおもわなかったかもしれない。すなわち数が数そのものへと再帰的におれまがり、数である痕跡をみずから抹消してしまう、うごきや実在ですらないものを想到だにしなかったのではないか。そうした数の不能性が、「みずからのみを不当に運営する者」とよばれる。「こちら」に関わらない徴候や影。

たとえば詩でいえば、「他人のためにではなく、自分のためのみに書き、ひたすら他人の承認を待つ者」がそれにあたるが、こうしたひとたちのもとめる承認は、よくかんがえれば他人からのものではなく、自分からのものであって、この閉じた再帰性こそが、数にあるはずの現実的な外在性を破砕するのだ。
 
じつは、遊牧民ということばはネット市民を部分的に指している。同時に、味方/敵の弁別も、非対称性の観点へと昇華される。たとえば、「自分の書いた詩をネット的な挨拶をともなって評価しない他人」と「他人の書いた詩をネット的な挨拶をともない評価する自分」、それらのあいだの、敵/味方関係に似た非対称性。ところがこうした非対称性は、やがての対称性、やがての合致(相互評価)にむけられた可能性であって、この非対称性に憤懣をおぼえると、ネットでの振舞がなにひとつ不可能になる。自分自身との非対称性をえがく相手など、とりあえず「かぞえられない」と総括すればそれで済む。
 
こうしたことどもを前提に、ネットでおそろしいのはじつは「同意」のほうなのだった。相手が詩を書く。ときたま「だけ」その出来に同意する(ふだん良い詩が書かれていないためだ)。ところが相手はつねにその場での評価を出し惜しみ(たとえば書かれている詩篇が縦書きでないなどの理由で)、対称的な相互性の場へは参与してこない。このとき相手への賛辞の贈与そのものが、相手の硬直・不寛容・瞬間判断回避にたいする攻撃になってしまうのだ。「わたしの寛容はあなたの非寛容のようではない」、これが最後まで濾過された段階でのメッセージ内容となるだろう。
 
同意のほうがむしろ攻撃となってしまう逆転は、遊牧民の世界ではかんがえられない。遊牧民たちは同意を同意する。ならば現在的な価値錯綜の理由はなにか。「本質的にかぞえられないもの」を「かぞえた」逆転そのものが、じっさいあたらしい数となってしまう踏み外しがここにあるのではないか。この踏み外しが遊牧民たちの歩幅や乗馬にはもともと存在していない。自分と非対称の位置にある者を敵ではないとする寛容は、もう対称性のつくりだす座標空間そのものすら外れていて、この位相ぜんたいにひかりがあふれている。
 
 

2016年03月30日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

詩の暗数

 
 
【詩の暗数】
 
「現代詩手帖」4月号の詩書月評で扱ったのは以下の詩集でした。
 
・吉﨑光一『草の仲間』
・平野晴子『黎明のバケツ』
・沢田敏子『からだかなしむひと』
・筏丸けいこ『モリネズミ』
・平井弘之『浮間が原の桜草と曖昧な四』
 
「現代詩手帖」的にいうと、有名性のあるのは筏丸さんくらいではないか。ぼく自身も筏丸さん以外読むのが初めてというひとたちでした。それぞれの詩作者の生年・出身地を原稿内にしるしましたが、みな初老以上という世代に属しています。版元も、ひとつも思潮社ではない。
 
毎月毎月おそらくぼくの家は、あたらしい詩書の集積地という点では、日本国内で随一をあらそう場所になります。予想されるように年長、一般には知られていない「地方詩人」の作品の割合がたかくなるのですが、大方は、自分の経験・感慨等がただ改行形でしるされていたり、詩観が旧弊で素朴だったり、という退屈な域にとどまっています。ところがなかに、書き方が峻厳だったり大胆だったり、省略や少なさ、中心性からのズレが戦略的だったりというゾクッとするような名手もまざりこんでいます。
 
そうした未知の名手、才能の幅広い分布にたいし畏怖をおぼえる。「詩の暗数」という概念・感覚がここでもたげてきます。それはひとまず空間的なのですが、第二義的には時間的なのです。実数のすきまに、あるいはその向こうに潜在する、みえない数。認知不可能な奥行。となると原理的に「詩の暗数」とは「詩の潜勢」そのものというべきなのではないか。老齢者によることが多いとはいえ、そういう領域がたしかに形成されている/いた。もちろん「論理的に」、「詩の潜勢」域である以上、その場所が詩の今後をほんとうにつくりだす。ただしこの奥行を強調しすぎると詩壇ジャーナリズムと対立的になってしまう。月評の書き方では、この点に注意するひつようがあるようです。
 
潜勢域というかんがえは、往年の毛沢東の革命路線とリンクせざるをえない。例の、革命は地方=農村から起こる、それが都市を包囲する、とした見解です。むろん多くの革命は都市を出火点としてそれが空間的につながってゆく。燎原の火。あるいはひとつの川筋が暴動域として電荷をおびるなどする。
 
もちろん現在の日本で地方は、疲弊化・破産化・過疎化・限界集落化・シャッターモール化などに浸食され、空間的暗数ではあっても、詩の潜勢などたたえていない。ただし老齢者には暗数状態がのこっている。それで詩の潜勢が時間性としてとらえられることになる。むろんこの時間は限定的だから、いずれは地方から中央への転覆の可能性がすべて途絶してしまうにちがいない。畏怖の念は、ほんとうはこの認識から生ずるのかもしれません。
 
「ないもの」(地方)が「浮薄なもの」(都市)に起こす転覆。この想像の図式はたしかに空転をかたどるが、空転そのものが「運動性の転覆」の域へも回収されてゆく。ユーラシア大陸の最深部から力が外延的に拡大しながら、モンゴル人たちの占拠は、すべて行く先々で同化した。かれらは占拠しながら、なにも支配しなかった。つまり外延志向と内包志向の弁別不能、それだけを崇高に現象させたのです。これを「ないもの」による転覆にも適用できるのか。できるとすれば、内包と外延が通底したように、一数と複数とが通底することが前提される。しかもその一数が破局的であることが。
 
まあ、以上がぼくの書いた原稿の暗流にあったはずの副筋です。とりあえずは本論を読んでいただけたら。畏怖すべき名手をとりあげたことはただちにおわかりになるとおもいます。五人の詩作者をつなぐ概念としては「浄化」、ならびに「可食物の出現」をもちいました。
 
 

2016年03月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

島影

 
 
【島影】
 
八丈島の清水あすかさんから個人誌「空〔から〕の広場」がとどく。掲載されている「あらわれる緑。」という詩篇がとてもよい。というか、清水さんはいつも良い詩篇しか書かない。
 
最近の「空の広場」は一篇しか載せていないので、全篇引用すると元も子もなくなる。それで書き出し、第一聯四行のみを転記しておく。
 
次にはまちがえず椎の木の一本になる。
目に入りきれずこぼれる色の数になる。
言わない声は石になり、やればよかったことを土にする。
なに一つを拾い残さず、見ているこの風景にする。
 
萌えはじめた新緑をまえにしての、からだのふるえのようなものがつたわってくる。まだはだら雪と枯れ木しかみえない札幌在住者にはうらやましいかぎりだ。
 
さて、「いつも良い詩篇しか書かない」ひとには、どんな条件があるのだろうか。
 
1) 語調がそのひとのみのワン&オンリー。だから身体の所在が一定している。
2) それでもそのことが反復を意識させない。なぜなら連辞に、書く事前から書いた事後への作用がくっきりまちまちに息づいているから。ようは展開の創意だ。
3) 「それ以外」を書かなかった慎み深い留保も詩篇のそこここにある。これが平面としていったんは顕現する詩を、この世の容積へまでつなげてゆく。
4) 詩そのものがその詩作者が在世していることの祝福になっている。それはとらえかえせば、その詩を読んだ者への祝福をも反射している。これこそが詩の互酬の正体だろう。
5) 詩は発語でしかないが、それでもそこに「性格」が関与している。この「性格」が詩作の一定性をつくりなす法則は峻厳だが、だれもが孤島のようにそうして海原に島影をあらわしているだけだ。
 
逆にいうと、いつも詩を、あるいは詩の方法を〈発案〉してしまうと、詩作は一回ごとの射幸的な賭けになってしまう。たしかに詩作の刻々では疲弊が襲うものだが、それを自分自身に柔和化させ無化しないと、神経的な痕跡が詩の世界現出よりもさきに読まれることになる。こういうひとの詩作には、おだやかな一定性などとてもかんがえられないだろう。
 
 

2016年03月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

よんでくれさえすれば

 
 
【よんでくれさえすれば】
 
きのう近所へ買い物にゆくとき、鼻唄でうたっていたのが、キャロル・キングのYou’ve got a friendだった。まなかいの雪景色とマッチするような気がして。
 
鼻唄マイベストテンのようなものがあるとすると、中学生時代に買って愛聴したアルバムの収録曲がおおい。トシだな。キャロル・キングの『つづれおり』は、ビートルズ以外では最初に買ったレコードで大好きだったが、その事実がバレるとオカマあつかいされるとおそれ、高校のころだれかにあげてしまった。以来すべて記憶のなかでのみ再生されている。
 
で、You’ve got a friendのリフ部分の訳詞は以下のようなものがいいのではと、うたいながらかんがえた。
 
はるなつあきふゆ
よんでくれさえすれば
のぞみのばしょへきっとゆく
だってともだちなんだから
 
唄ってみると、この曲の歌詞ぜんたいは、シンプルなんだけど、適確な省略があって、結局は詩的におもえる。鼻唄のコツは、ジェームス・テイラー調ではなく、黒っぽく、ビブラートをかけて唄うことだ。すると、気持ちが良い。
 
友情をねがう歌は恋愛ソングよりも泣ける、というのは、はたして星菫趣味なのか、ホモソーシャルなのか。
 
はずかしい話をすると、ぼくは「きょうの日はさようなら」でさえ、それをおもうと、ウルウルしてしまう。かつてそう告白すると、おもいっきり軽蔑した人間がふたりいた。「バカか」と。ひとりは女房、ひとりは某シンガーソングライター。ヘヘへッ
 
このはる旅立つ院生たちはいっしょにカラオケにいくと愉しかった。とりわけ女子。うまいし、かわいかった。もうカラオケであの面子が揃う機会がないかも、とおもうと、さすがにさみしい。ほかに良いものがあまりないから、札幌はカラオケ依存度が東京よりもとうぜん高いんだよね…
 
そういえば、立教で教えていた時代、教室で催された卒業証書授与式でした挨拶で、あとから学生にしきりに「泣けた」といわれたものがあった。こんな内容――

自分が出た大学が良い大学かどうかは卒業後にわかる。良い大学の学生は、卒業後も交流をつづけるんだ。人間関係をリセットなどしない。卒業後、人生がうまく行くひともいれば、そうでないひともいるだろう。とりわけそんな「そうでないひと」のことをおもいだして、励ますでもなく、ただ会おうとするのが、良い大学の卒業生じゃないか。だから合言葉はひとつ。All you have to do is call
 
 

2016年03月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

あたらしい詩論集、完成!

 
 
新しい詩論集『詩と減喩 換喩詩学Ⅱ』(思潮社)が完成しました。408頁、3800円+税、装幀=奥定泰之、編集=出本喬巳。今日あたり、版元から献本発送されます。オビ文は表が《詩の現在、その真髄にひそむ“減喩”とはなにか? /鮎川信夫賞受賞詩論、その続篇にして新機軸。/玩読ふたたびーー》、背が《解釈詩学の精髄》。
 
目次は以下になります。
 
Ⅰ 換喩と減喩
 
真実に置き換える換喩
喩ではない詩の原理
排中律と融即――貞久秀紀『雲の行方』について
夢からさめて、同一性に水を塗る
断裂の再編――杉本真維子「川原」を読む
第六回鮎川信夫賞受賞挨拶
近藤久也の四つの詩篇
中本道代について
江代充について
減喩と明示法から見えてくるもの――貞久秀紀・阿部嘉昭対談
 
 
Ⅱ 詩と歌と句
 
詩のコモン
アンケート全長版
杉本真維子『袖口の動物』
廿楽順治『たかくおよぐや』
清水あすか『頭を残して放られる。』
小池昌代『ババ、バサラ、サラバ』
高島裕『薄明薄暮集』
詩的な男性身体とは誰か
佐々木安美『新しい浮子 古い浮子』
喜田進次『進次』
柿沼徹『もんしろちょうの道順』
加藤郁乎追悼
坂多瑩子『ジャム煮えよ』
方法論としての日録――岡井隆のメトニミー原理について
性愛的に――、初期の大辻隆弘
木田澄子『kleinの水管』
望月遊馬『水辺に透きとおっていく』
 
あとがき
 
 

2016年03月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

支度

 
 
【支度】
 
 
外への支度でとりあえず
ほおのひかりをみずにかえ
こころへかぶせるものを
ゆれるきぬいちまいにすると
おのがじしがゆきすすみ
内にあったもの、とりわけ
ゆびのくみたてなどを
ひとめにさらされなくなる
ゆびならほどけるままに
くうきへかるくながし
さんそを暗号にするのも
ゆきすすみをふやす支度で
まがりかどのたびごとに
かどのまがりはふえた
 
 

2016年03月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
【坂】
 
 
さかのぼるためにいるものを
もえながら手にしたゆめは
そのもえながらもあって
ついにさかのぼりへ組まれえず
わたしの途中だけをこがした
 

2016年03月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

第3回北海道横超忌

 
 
【第3回北海道横超忌】
 
昨日3月19日の北海道横超忌の会合は、北川透さんの講演にしても、そのあとのふたつの懇親会にしても、とてもおもしろかった。
 
北川さんは吉本『言語美』の「自己表出」「指示表出」を、「価値表出」「意味表出」と読み替えた。この「価値」「意味」は、純粋思弁一辺倒だった哲学に「価値」「意味」をニーチェが組み入れたとするドゥルーズの見解を出発点としていて、北川さんはニーチェ、ドゥルーズ、それにフーコーをくわえた系譜学者たちのしめす「力への意志」が吉本にあったかを再考する。
 
ぼくじしんは「う」ひとつの音素のみで古代の海を現出させた吉本の自己表出論がそのままに詩作者的な「力への意志」だとおもうが、狷介な北川さんはそういった「起源」を信じない。ぼくも講演会場で質問したのだが、音素はひとつでは表現衝動直前の沈黙をゆたかにしないだろうとおもう。もんだいは構文にならない数音の音素連関のほうだ。それこそが口腔と舌に悦びをもたらす運動感覚の初源なのではないか。
 
北川さんの考察は『言語美』にむけられていて、のちの吉本『母型論』などは対象外になっていたが、泣く、呼吸する、母乳を吸う、喃語するなど赤児のエロチックで自己表出的な口唇口腔運動が、発語そのものの前駆になっているはずだ。こういった認識こそが吉本のいう「自然」だとおもう。仏教の「自然(じねん)」、とりわけ親鸞のいう「自力」が――つまりオートマティスム=「おのずからそうなる」が、「自己表出」中の「自己」の語にこめられている。そうした前提を定位して「他力」―「横超」をかんがえるべきだろう。このことで力は自己にたいしても外界にたいしても段階的決定になる。
 
北川さんの講演前半で吉本と学生運動渦中の北川さんがどう出会ったのかが語られたが、とりわけ強調されたひとつが、「大衆」としての吉本の原像だった。吉本とドゥルーズの共振はこの把握によって起こる。『千のプラトー』で爆発したドゥルーズ的な生成変化は、女になること、動物になること、遊牧民になることなど、すべて「マイナーになること」の圏域を旋回していて、これが吉本『最後の親鸞』の往相・還相と反響する。知をきわめたのち下降をえがきながら非知へとついにたどりつく親鸞の生の理想は、マイナーになろうとする「力への意志」そのものではないか。このマイナーと大衆に径庭がない(これがネグリのいうマルチテュードともつながる)。晩年の吉本は「老人になること」で還相を果敢に生きた感触がある。
 
「価値表出」「意味表出」に「力への意志」をくわえたニーチェ、フーコー、ドゥルーズのトリアーデ的な生の布置にたいし、『言語美』段階の吉本には一項を欠いた「自己表出」「指示表出」の対概念しかなかったというのが北川さんの総括だったが、吉本は内在的・予感的に「力への意志」の方向を織りあげていたのではないか。その「力」が、還相など、一見、通常の「力」とはちがってとらえられるとしても。
 
北川さんのとりわけ優秀なところは、「自己表出」―「価値表出」の力線そのものに「時間」がかかわっているとした点だろう。北川さんは起源論につき懐疑的だとしるした。ところが時間は切片ごとに「はじまり」を充填させている。その「はじまり」に、あらゆるものの表出がまつわるということだ。だから表出史が発現するまえに、時間そのものの厚みが潜勢態=可能態として意識されることになる。この「時間」と不即不離となって、個々の表出が開始されるのだろう。この時間把握はベンヤミンにちかい。
 
北川さんはかつて《真の伝統とは、過去から現在をつらぬいている価値ではなく、未来から現在へ、そして過去へとつらぬいている価値でなければならない》という鮎川信夫のことばを真摯に考察した。「力」をもって未来を意志すれば、それが過去=劫初への遡行を付帯させてしまう。ニーチェの「永劫回帰」の直観はそこにゆきとどいているはずだし、差異をふくむ反復こそがおなじものの反復の本来だとするドゥルーズの『差異と反復』も永劫回帰にさらなる「力」をあたえるものだろう。なぜ発語はあたらしくなろうとすると、混沌を招きよせながら、それじたいの様相が恐怖をあたえるほどに「ふるくなる」のか。とりわけ詩作の場合。
 
むろんちがう視座もひつようだとおもう。ニーチェの「権力への意志」は現在、「力への意志」という訳語に馴化されている。ただしぼくはかつて、ジョン・レノンの「パワー・トゥ・ザ・ピープル」を「人びとに力を」ではなくやはり「人民に権力を」と訳すべきではないかとおもったことがある。フーコー、やがてはアガンベンが「死の権力」から「生権力」へとうごくパワーのシフト移行を分析した。ところがそこではパワーそのもののもつ外延性がただ内包性へと縮減してしまう不如意があらわれているのではないか。
 
ここでもあたらしい力のかたちを、ふるさからたぐりよせたドゥルーズが先駆的だった。たとえばチンギス・ハンの版図拡大では、力の外延志向がそのまま内包化までもたらす、平滑空間の特異性がかたられている。しかもその特異な空間のほうが普遍なのだ。この外延・内包の同時性はドゥルーズ的な「マイナーになること」、たとえば「女になること」「動物になること」などすべてに適用できるだろう。
 

 
北海道に詩壇というものがあるとして、それの良いところは、それぞれの詩、詩論がじっさいに「読まれて」、点在的な平滑空間のネットワークがひろがっている点だろうか。点在をむすぶ線ではなく(条理空間)、無方向な諸線のあいだに点在があるという、可能的な空間。昨日は工藤正廣先生、田中綾先生、小杉元一さん、海東セラさんといった旧知の面々にくわえ、眷恋のひと金石稔さんとついに出会うことができたし、長屋のり子さんという年長者の愉快さにもこころがうれしくゆれた。
 
平滑空間のつねとして、とうぜん可能的な不在者が話題になる。たとえば函館の木田澄子さんの才能の特異さ。それに肉薄しようとしたぼくの論が、ネットを使用できない老齢者たちにも打ち出しコピーの郵送によって幅広く流通しているのに驚いた。セラさんの暗躍による。長屋さんが自分のことのように、ぼくの木田論をよろこぶ。
 
金石さんがぼくの詩のひらがなづかいを絶賛してくれたのがうれしかった。その金石さんとぼくは「おカネもうけ」の秘策を謀りあったが、内容は秘密。それと、関西の倉橋健一さんがいらしていて、たのしい会話をかわしたのも光栄だった。
 
 

2016年03月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ながれやまない2

 
 
【ながれやまない2】
 
 
ながれやまないものがある
地上でいえるのはそれだけだ
とおくをわたるあいだも
あゆみごと地軸のかたむきを
こまやかに知る脚があって
そのひとたちはながれやまない
ひるのたびよわい日の南中が
ひとらのまうしろでみずをこぼし
はてなくふとい風にかわるとき
とおくのおおくは球体をなし
あゆみゆくことが自転へとける
おおきさではなく粉のように
列のうちがわも列をながれやまず
ゆきかいにして倍音がふるえる
 
 

2016年03月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ながれやまない

 
 
【ながれやまない】
 
 
ながれやまない雪には耐性があるのに
やがてながれだすしらかばの花粉で
かおにある感官を直撃されてしまう
そんな北のかおのうつくしさをこのむ
ほんとうにながれやまないものなら
こなではなくむしろおとのはずなのに
みみをしまいわすれたそのままに
めはなだけうれいにかわるかたよりだ
はるなど頭蓋のようにおおきな球で
ひとはそこへあたまをいれこすれるが
かんがえのこまかな粉にさいなまれ
しらかばのきばがどこへならぶか
それだけを方向にしてながれやまずに
あゆみのほんのすこしをまとめられない
けれどもまるいものをまるさでつつむ
ほうびがめのまえにあらわれている
 
 

2016年03月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況・3月12日

 
 
【近況・3月12日】
 
本日の北海道新聞夕刊にぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が掲載されます。今回串刺ししたのは、大森靖子+最果タヒ『かけがえのないマグマ』(毎日新聞出版)、三村京子『いまのブルース』(kiti)、それにETVで2月18日に放送された『岩井俊二のMOVIEラボ』中の1分スマホ映画『私は明日から恋をする』(井口崇監督)です。
 
『かけがえのないマグマ』は大森靖子の一人称語りおろしの体裁ですが、聞き書きを最果タヒがやっています。つまり最果さんの質問が消えて、大森さんの解答が連続している。そのなかで大森靖子の自己形成期と音楽活動が、赤裸々というしかない様相で語りつくされ、このときの「口語表現」に現在形の感情があふれかえっている。といえば最果さんの詩集『死んでしまう系のぼくらに』と内容に類縁性があるとわかるとおもいます。
 
三村さんの去年暮に出た新譜『いまのブルース』は愛聴盤のひとつになっています。曲がシンプルでうつくしい。彼女の学生時代、ぼくが最初に出会ったときはラグタイムブルースの華麗果敢な奏法に驚愕したものですが、このアルバムではアメリカンルーツミュージックからの影響を断ち切っています。アコギの弦の数本をゆるやかにはじきながら、おおらかに歌声を載せてゆく方向に舵を切っていて、そこにインディ系音楽の現在を感じます。「等身大」「身体性のひびき」ということです。
 
ぼくの作詞協力がなくなってから歌詞のありかたについていろいろと思索をふかめたようで、そのなかで三村さんに発芽してきているひとつが、「みんな」の「連帯」というテーマかもしれません。「すくなさ」の詩法で余韻をもつ――しかも可聴性を重視した歌詞が多いのですが、三村さんの魅力は逆説的にきこえようとも不安定さにあります。連帯を唄っても、歌詞の最初につくりあげた定着が、終局にむかってくずれてゆく。一貫性ではなく、唄われているその瞬間が目指されているともいえます。その機微がアルバムを聴きふかめるにつれわかってきた。
 
アルバムの「音」は基本的に彼女のアコギのみですが、ごくまれにほかの音、ほかのミュージシャンの音がたったひとつだけ寄り添うことがあります。これがフックとなり驚愕となる。アルバム全体は音響系として見事に設計されています。それでも清澄感のみの冷ややかさとはちがう。
 
井口崇の1分スマホ映画は細かいカットをつなぎ、女子の日常を追った一作で、神業といえるほどの瑞々しさがありました。音のズリ下げが、ケータイの会話などで多元的にもちいられています。1分映画というジャンルはあるのですが、ヒロインのすばらしさにより異様に感動してとりあげました。ひとつひとつの構図が神域にありました。そのなかでいつもヒロインの視線が「ごくみじかく」定着される。
 
コンテンツ産業のつくりだす「ガーリー」は、範例をつくって、その鋳型にガールズを嵌めようとする権威的な使嗾になっています。ところが大森靖子のガーリーは地上に多様に存在しているガールズのドキュメンタルな採取と共感だし、三村京子のガーリーはその不安定さによって鋳型を形成しない。井口崇の1分スマホ映画のガーリーは、ひとりの女子から多元的な時空が現れることでこれまた「鋳型としてのガーリー」を否定している。
 
コラムでは和泉式部《物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる》を引きました。この蛍は無限多数でしょう。オブスキュアなゆらめきが無名のままに自分のまなかいの下方にあふれていて、それらすべてが自分自身に淵源しているという見立て。さらに淵源の意識により、自己身体に稀薄化のよろこびがきらめく。この蛍=魂こそが、資本が定位できないガーリーなのではないでしょうか。
 
以上、コラムに書かなかったことを中心に補足をおこないました。本論についてはぜひとも本日の道新夕刊で。
 
あ、本日から女房が来札。ポスト、しばらく休みます。
 
 

2016年03月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感・3月11日

 
 
【雑感・3月11日】
 
「わたし」という把握の根本はちがうのではないか。「わたし」を前提に対象が感覚されるのではなく、対象を感覚した直後に、「わたし」が遅れ、あいまいなあつみとして逆照射されるだけだ。恋に似ている。そこに、なにごとかの鼓動めいた生物実感があるにしても、とりわけそれを再帰的に追究することなどできない。なにしろ「わたし」はことばではなく、ことばとまみれあった領域にしろもともと領域ではないのだから。
 
ふたつまえのポストに書いた。詩集を構想する過程で、ワードに貼りつけた既成詩篇をいくども読みなおし、そこに手を入れたり、割愛にふみきったりすると。こうした作業が自家中毒におちいらない要件とはなんなのだろうか。そこにたぶん、詩の発生の奥義や要諦がしめされている。
 
記憶力がわるいので、書いた詩篇などいったんはわすれてしまう。ところがそれぞれを再読すると、詩発想のもとになった実体的な日常や体験、思考がそのたびごとにうっすらとよみがえる。ところがそれは「わたし」への再逢着ではない。なにかそこに、「わたし」「以外」が書いてしまった逸脱(それは文法的逸脱や、つかっていなかった語彙により特化される)もしずかに貫通していないと承知がならないのだった。「わたし」以外のこの存在をつきつめると、あたまのおかしい、ほんとうの匿名ということになるだろうか。
 
自己の他者化・離人化といった、とおりの良い論理の都合をいうのではない。時間と空間の幅のなかでゆらぐ「わたし」は、それじたいが「くずれ」「ほころび」「敗走」「瀕死」といった負のうごきなのではないだろうか。それが感覚になかだちされた対象までをゆるやかにこわしてゆく――たぶんこのうごきの写しに、すでにままならない詩が発生している。
 
書かれたものは「わたし」と無縁ではないが、構造的に「わたし」と同致できない。詩は媒介性の無慈悲・不用意な侵入であって、この媒介性がひかりにこそ似てくるとき、詩の有限性が「有限状態の並立によって」、無限だという了解もえられてくる。詩の権能はこうしてすくなめにたもたれる。
 
むかしミクシィ全盛のころ、よくやりとりした詩友がいた。かれは自分の詩集のゲラを校正すると疲労困憊におちいる、といい、それは書きかたに無理があるためではないか、と応答した。これをつきつめると、詩篇は他人事の位置にいるやがての「わたし」の再読にたいし、向かいをやわらげる、なにごとかの馴化をふくみ、それが野心の抹消と相即する多元性をあらかじめもっているべきだ――そんな見解にもなる。未来の、わずかであれ衰えのましたみずからにやさしくあること。
 
この必要を世上では音韻的推敲や脱論理化などと要約するのだろうが、詩が詩であるためには、「やわらかさ」のみならず、「くずれ」なども湛えられるべきなのではないか。「減喩」をべつに規定するなら、そうなる。「くずれ」がスローモーションをかたどって詩篇を生き生きとさせ、しかも破局が最終顕在しない「手前そのもの」が、すきまの稠密さによって現れているのが良い。こういうものこそ、詩であると同時に、「時間」「空間」でもあるのだから。この感覚をゆらしていると、「わたし」以外への逸脱が起こる。
 
「わたし」は書く。ところが「書くわたし」に自明性の前提などない。そういえばこんど出る『詩と減喩』の一節に、カフカと石原吉郎をもじった、こんな箴言も書いていた。《わたしは身体だ――けれど〈この〉身体はわたしではない》。これは変奏も効く。《わたしは追悼だ――けれど〈この〉追悼はわたしではない》。
 
 

2016年03月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

トッド・ヘインズ、キャロル

 
 
【トッド・ヘインズ監督『キャロル』】
 
トッド・ヘインズ監督『キャロル』は、レスビアン心理劇を、まなざしという道具をもちい、ゴージャス、エレンガントに描いていた。叙法は「ある時点での対峙」からふたりの女が最初に出会うクリスマス・シーズンの、デパートのおもちゃ売り場のシーンへ遡行、やがてホテルのレストランを舞台とした前述・冒頭の「ある時点」へもどってゆき、さらにその後のふたりの帰趨も描かれてゆく…という、いわば「9の字曲線」をかたどる。
 
アイゼンハワー大統領の就任という話題がもちだされ、主舞台となるニューヨークが50年代前半と判明する。じっさいニューヨークはアメリカ内の唯一のヨーロッパだが、第二次大戦でハワイ以外は戦地とならず、戦争を勝ち抜いたことで、ヨーロッパ全体を出し抜いた戦勝国アメリカの、ヨーロッパを踏み台とした繁栄がとりわけ体現されている。
 
そのニューヨークでエレガントな富裕層の女は、大量消費の匂いをきらい、ヨーロッパ的な美徳を揺曳させる。それがアメリカ50年代の実相だろう。作品は終盤ちかくになって、同性愛カップルのうち年下のピースとなる「テレーズ」の、パーティ後の煉獄体験をわずかながらにとらえる。そこでアメリカ60年代の頽廃的・平俗的・キッチュなスノビズムの「萌芽」がひろがるから、作品の用意する対立軸は「貧富」「年長年下」のみならず、「50年代的なもの・60年代的なもの」の対があるとも理解される。
 
50年代ニューヨークの描写は絶品だ。往年のニューヨークと街並みが似ている現在のシンシナティがロケ地に使用され、それにたぶんCGによる加算と消去が施されている。50年代のクラシックカーが路上をとおり、50年代のアメリカン・プラクティカル、アメリカン・ゴージャスな紳士淑女が画面をよぎり…映画はある種の時代劇、コスチュームプレイ特有の閉域を全体化する。
 
このとき閉塞を打ち破るものがある。それが「まなざし」だ。時代色によりノスタルジーを築きあげる作品の視界のなかで、えがかれている視線だけがいまもふるびていない。これが作品の最大メッセージだろう。矛盾した言い回しになるが、「固定した」視線が「動態的に」とらえられる、このことによって視線がふるびないのだ。
 
デパートのおもちゃ売り場に毛皮のロングコートで現れた「キャロル」=ケイト・ブランシェットは往年のジーナ・ローランズをおもわせる獰猛なエレガンスに包まれている。「ある全体性」をもっていることは確かだが、瞳の開口部はすでに存在の亀裂をしめし、洞察力いがいに、不幸や瞋恚を湛えている気配もある。「ある全体性」とは、「タイプ」そのもののまとまりのことだ。同性愛では、タイプがタイプを選択する、効率性にとんだ交流法則がある。変更がきかない。運命的なものだ。「キャロル」=ケイト・ブランシェットの「タイプ」は、「テレーズ」=ルーニー・マーラの「タイプ」により、過たず選択された。逆もまた真だった。「タイプそのものが惹かれあう」ときの恋愛美学は、ふかい人生体験のなかでの「うすさ」への希求を表現しているはずだ。
 
ニューヨーク郊外の豪邸に住む裕福な家庭婦人「キャロル」ケイト・ブランシェットの、威厳のあるうつくしい外観については観客も予想済だろう。たいする写真家志望で、ステディとの結婚に踏み切れないでいる若い「テレーズ」ルーニー・マーラのまなざしにまずは心底驚愕した。彼女は異なるふたつの感情をひとつの顔にゆらめかせる見事な女優技量をもつのだが、まなざしについての真理をも繊細につたえてくる才能だった。
 
まなざしは相手の属性をかすめとるのではなく、相手に巻き込まれる自分の運命こそをうけとる。だから欲望を秘めてはいても、自己にたいしてもともと謙虚だといえる。みつめることのなかに、みつめられる期待があるとつづったのがベンヤミンだった。そうした瞳の二重性を、まなざしが微分するわずかな差延により観客に刻印してくるのがルーニー・マーラだ。そのルーニーの視線がケイトの魅力をまず射止め、運命によって停止しているルーニーの視線に、ケイトの視線が気づく。視線がサスペンスフルに交錯する。わくわくした。視線を自己装填することで「女になる」、その昂奮にみちびかれる。
 
誇り高いケイトの視線の質にたいしては大方の観客は類型をもたないだろう。ところがルーニーの外延と内包を交錯させる視線の質には見覚えがあるはずだ。少女の視線の理想だからだ。視を先鋭化・成熟化させてゆくうちに、翳りとパッションをおびてゆく共苦のひとみ。やさしさではない。そのひとみは残酷さに翻弄されているのだった。ルーニーの視線に表現性のある点は、作中、ルーニーの撮った写真をつうじさまざまに付帯的にしめされてゆく。彼女の写真は50年代調アメリカの最も素晴らしいものと溶け合っていた。そのなかで彼女が撮った一連のキャロルの写真が、対象への距離のちかさによって、極上の自然さをかちとっていた。
 
話をもどそう。デパート売り場では最初、ケイト・ブランシェットは愛娘用の人形を、売り子のルーニー・マーラに所望するが、あいにく品切れで、そのときケイトはルーニーの売り子の身分を越えた深域にむけ質問を発する。あなたは幼年時代、クリスマス・プレゼントに何をもらって幸せになったのか、と。ルーニーは、「鉄道模型」とこたえる。少年の符牒。そのとおりにケイトは娘へのクリスマス・プレゼントを選びなおし、売り場から消える。しかも手袋をルーニーの眼前に「忘れてみせる」。これを罠、あるいはラカン=ジジェクのいう「しみ」といってもいいだろう。
 
売り場のルーニーからケイトの自宅への手袋の郵送、お礼の食事、という自然のながれで、ふたりの恋が発芽してゆくが、そのような進展の物語と調和をなすのは、ケイトの家庭における不幸の昂進、いわば逆進展の力線だった。妻を社会にむけての「飾り」としかみなさない、開明性のみならず意志力もやさしさもない凡庸な夫は、暗示的ながら妻の同性愛の性向を口実に、離婚をまえにして娘の親権独占を、母親の指示もあって主張しだす。優雅な女、「キャロル」に隠されていたのは典型的な不幸の様相だった。その不幸に「テレーズ」ルーニーが同調し、一種の犠牲的な踏み台、架け橋として自己組織をおこなうことで、キャロルとテレーズは、施主・被施主から、いわば双対の関係になったのだった。それは性質がちがえど美をふたりがわかちもつ点にも後押しされている。テレーズの美は野暮ったさのひるがえりとして当初は現象しているが。
 
最初の食事のとき、キャロルがテレーズの姓名ぜんたいを訊き、そこから出自の由来を訊ねたディテール。「テレサ(アメリカの俗なひびきをもつ)ではなくてテレーズ」というファーストネームは、テレーズの東欧の出自に淵源していた。『嘆きのテレーズ』をもちだすまでもなくテレーズは運命的、ヨーロッパ的なファーストネームで、エレガンスがヨーロッパの範型へゆきとどくキャロルは、「ロ・リー・タ」の名を舌と上あごにころがすハンバート・ハンバートのように、その呼び名を口腔に増幅させる。
 
気づけば作品は、まなざしに代表される視世界のエレガンスとともに、聴世界のエレガンスとも連絡していた。キャロル=ケイト・ブランシェットとテレーズ=ルーニー・マーラの声音と口跡の偏差は、そのものがそのままに音楽的だった。ルックスではなく、音楽性こそが「天から降りてくる」。「あなた、天から投げ落とされてきたようなひと」という感極まる述懐は、キャロルからテレーズにむけ二度だされる。一度目は最初の会食のシーンで。二度目は、キャロルの離婚にむけた家裁の空白期、キャロルとテレーズとが宛のない自動車旅行をし、その旅先のホテルでついにからだの交渉となったとき、露呈されたテレーズのうつくしい乳房にむけて出される。「天からの降臨」という判定は絶対的かつ運命的なものだ。その讃辞を惜しげもなく吐露するときの不吉さ。泣けてしまった。
 
むろんニューヨークから西部へむかいつつ、やがて頓挫してしまうふたりの自動車旅行は、アメリカ開拓者の足跡の中断だった。やがてその軌跡は、ドアーズ「ジ・エンド」中の「ブルー・バス」が虚無の方向性として逆説的に定位することになるだろう。それと音声に基盤をもった「天上からの降臨」という恩寵は、音声そのものからしっぺ返しをくらうことにもなる。卑劣な小道具としてテープレコーダー、オープンリールが顔をのぞかせることになるのだった。
 
近年話題になったレスビアン映画としては、アブデラティフ・ケシシュ監督のフランス映画『アデル、ブルーは熱い色』があるが、心情がことばと愛し合う身体で果敢に語りつくされる『アデル』にたいし、『キャロル』は発語のすべてに暗示と抑制をふくみ、映画そのものの叙法がずいぶんと大人っぽい。発語的な抑制は、テレーズにかんしては性格のつつましさ・敬虔さから招来されているだろうが、キャロルにかんしては精神性からもたらされている。最後の家裁の場面で、夫や相手側の弁護士に、キャロルが啖呵を切る場面がある。そこでは共同親権の主張をかなぐり捨て、キャロルは自分の性向をみとめ、娘への限定的な謁見権利だけを要求するようになる。このときの性向のみとめかたに、発語のうつくしい寸止めがあった。このキャロルの発語の質は、のち、急速に自分と距離を置きだしたテレーズへのメッセージのみじかいが美しい文言のなかにも反映されるようになる。自らの美にたいして傲岸とみえたキャロルが慎ましさを基盤にしていたとわかるこれらの点にも泣けてきてしまった。人生の質感にとどいているためだ。
 
発語において寡黙であることが、映画の視世界がこまかい差延に富んでいることと拮抗する。適合しない適合の対が映画の奥行をひらくのだ。物語の帰趨そのものについてはここでは言及をつつしむ。けれども最後、まなざしの切り返しだけの無言によって描かれるラストシーンの劇的な例外性、そのしずかにみたされる衝撃性だけは強調しておこう。「みつめることの期待」と「みつめられることの期待」、その邂逅はベンヤミンによればひとつの瞳のなかで交錯するものだったはずなのだが、ここでは微妙に時空をたがえたふたつの瞳――つまり映画の詐術性が露呈する「傷口」でそれがなされるのだった。メロドラマが音楽性であると同時に、偏差であることを、感動のなかで痛感した。見逃しているトッド・ヘインズ監督の『エデンより彼方に』、観なくては。

原作はパトリシア・ハイスミス。サスペンス小説で知られる彼女が、別名で書いた先駆的な同性愛小説だが、貧困層の富裕層への同化という点で、『太陽がいっぱい』と構造に同一性がある。
 
――三月九日、札幌シアターキノにて鑑賞。平日午前の上映開始時間だったのに、中年以上の女性客でほぼ満席だった。
 
 

2016年03月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況・3月9日

 
 
どうやら、一詩集の詩稿が完成したようだ。去年、『束』用の詩稿がなってからの春ごろは、連作のモチベーションをなくし、依頼された詩を書くだけで(これには最大行数の設定があって詩篇が長くなる)、むしろふだん書きすぎる詩を書かないよう謹んできた。それが秋ごろ、ふと、たまにではあるがそれまで書いていた詩を活かすことのできる連作性をみいだしてしまった。形式的には単純で、二十行未満の詩篇。あとは、作者みずからがひそかに決めた語調をたもつこと。「減喩」にかかわる叙法を追究するのは『束』とおなじだ。
 
その気になると、詩篇はほぼ日録的にできてしまう。日常がさみしいからだ。朝、起きてあたまがはっきりしだすと、冒頭一行がうかんでいる。それなら終わりにむけ詩行をかさね、完成にみちびけばいい。十行ていどの詩篇なら、推敲をあわせて30分ていどの作業だろうか。
 
連作詩篇と自覚したものは、あるていど蓄積すれば、ワードへ縦書きにして、できた順に貼りつけてゆく。日録型の創作では「できた順」が物をいう。それにより日常や季節の推移を裏打ちされ、ながれに作者の身体が定位されてくるためだ。詩が日常の体験や感慨から離れた空論として出現することは、いまはまったくない。詩的なアレンジがあっても。
 
詩集のアナロジーはフルアルバムCDだという持論がある。CDの趨勢的な聴取時間40~50分ていどに詩集の繙読時間も設計されなければならない。そうであればこそ、読者の負担もかるくなって詩集がたびかさなる再読に供されるようになる。一枚のCDがくりかえし聴かれるように書物があること、これこそが単純に詩集の音楽性の条件なのではないだろうか。
 
20行未満の詩を意図して書きだすと、最長19行、最短5行、中心分布が10行前後という気配になってきた。こうしたものをあつめて繙読時間40分へいたるためには全体が100篇ていど必要なのではないか。それならば連句独吟よろしく実際に100篇をなし、最後の一篇を「祝言」にしてみよう。やがて雪の季節となり詩の表情が沈潜してゆくだろうが、祝言ではおとずれてくる春をことほいでみたい。だいたい50篇めくらいからこのように構想がかたまっていった。
 
ワードに貼りつけた詩篇のながれはたまに確認する。あたまから読んでいって、不用意なミス(助詞の斡旋に多い)を正したり、ながれを阻害している詩篇を割愛したりするためだ。どんなにSNSで「いいね!」を頂戴しても、あるいはもとになっている体験に愛着があったとしても、あまいものは詩集内のながれを膠着させる。そういうものはいさぎよく捨てる。改作などしない。やがては書いたことすら忘れてしまう(SNS上にのこっていることがあっても)。
 
さて今回は、99篇めの完成と自覚したところで異変が起こった。小池昌代さんの編著『恋愛詩集』に触発されて書いた詩篇「舌」が、出来に愛着があっても、祝言手前の99篇めにふさわしい余韻を発散しないのだ。このあたりになるとふくざつな余韻が交錯して、詩集がいよいよ感慨をもって終わる気色にならなければいけないのだが。とりあえず、100篇め、一学生への思いをこめた「乾杯」を完成させてはみたが、このながれでは詩稿が完成していない。
 
どうするか。昨日の午前のことだ。体調が冴えないのをむしろ奇貨として、しかたなく全体をあたまから読み返し、ながれを確認してみると、まだものほしげな表情を湛えたまずい詩篇があった。それを割愛して、なにかを足さなければならなくなったが、「乾杯」のあとにあらたに組み込むと、「乾杯」のもつ祝言の湛えがきえてしまう。
 
すぐ代案がうかんだ。三月初旬の雪あらしのとき、書こうとおもっていながら、なにかほかの用事にかまけて書く機会をうしなってしまった詩を「いま」書けばいい。幸運にも着眼と角度をおぼえていた。硝子を主題に、永田耕衣の名吟《白桃の肌に入口無く死ねり》を変奏するというものだった。その詩篇をつくり、三月初旬の位置へ組み入れた。以下――
 
【出口入口】
 
がらすのひょうめんじたいには
ことごとく出口などなくて
むこうのすけてみえることもまた
あかるく死へとちかづいている
桃のいりぐちをよむ仙人がいたが
ひかりと腐れのむつみぬれあう
いれものの肉こそめいだいで
がらすはこのあつみをもたない
ゆきのまいしきるうちらでは
ゆきのつらなりもこわれていて
がらすごしががらすをけしてゆく
入口めいたこころがおそろしい
 
これでまた100篇となったが、祝言へのながれという問題がまだ解決していない。どうするか。とりあえず詩集ぜんたいの目次をつくるうち、創作順の厳密をこわすことになるが、終わりのほうの詩篇のならびを入れ替えればいい、と気づく。じつは「祝言ちかくの余韻」を意図せずもってしまった詩篇がすでにあった。それらをいかし、結果的に終わり五篇のならびを、「椀物」「舌」「無内容」「遠浅」「乾杯」へと組み替えた。
 
詩篇群が満尾する手前、のこりわずかな詩篇をつくっているときの感慨はたしかに幸福だ。詩集設計がほぼなっているので、着々と満了に近づいて時空の眺望に飛躍が起こる。このときたとえば詩集前半の語彙の帰還といった、メインテーマ回帰のようなものまで出来してくる。なにか自分の身体が時空にうるおい、別物になってゆくような消滅の予感につつまれる。
 
あたまの痛いことがある。詩集が短詩100篇をおさめるとして、これを両起こしで収録したとすると目詰まり感がつよすぎる。横位置に頁をあわせる、高塚謙太郎さん『ハポン絹莢』のような体裁もかんがえ、左右それぞれの頁に一篇が余白たっぷりにおさまってはどうかと目算してみたが、どうもちがう気がする。読者が頁をめくることにより、詩篇が更新されなければならない。短詩篇をあつめた点で範例となるのは、江代充さん『昇天 貝殻敷』のような組みかたなのだった。
 
左頁が白となっても詩篇の見開き起こしを遵守する。となると短詩100篇を収めた詩集は総計200頁を超えることになってしまう。これでは製作費がかさみ、著者の自己負担もふえる。頁数に関係なく自己負担が低額で一定なのは思潮社オンデマンドくらいだが、そろそろあの刊行形式にも飽きがきている。字数のすくなさを勘案して自己負担額を軽減してくれる、詩歌専門、瀟洒な詩集をつくれる版元がないか。目下の悩みとはそこなのだった。
 
新詩集用の詩稿は、完成の昂奮がおちつく来週あたりにまた読み直して、出来を確認する。あとは、頼りにしたい版元に刊行のアプローチをしてみるつもりだ。ともあれこれでまた詩作の空白期が再開する。かわりになにかまとまりのある論考を、単行本用に書いてゆかなければならない使命がある。
 
 

2016年03月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

乾杯

 
 
【乾杯】
 
 
四月になればとおくにも壜がたち
なかみをなみがあふれるだろう
ひとのなかをみたい欲までふくらむ
壜がおもかげをろうそくとなす
ときのくれがたはおもわないだろう
ひとときのこまかい気泡のひとみ
まなこの恋を肌の恋へとかえるには
かおがゆれていなければならない
かたむいてこぼれてゆきそうな
あえかなわらい、うつろな乾杯を
あふれるみんなでひとにしなければ
 
 

2016年03月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【舌】
 
 
におう舌だとおもうが
あじわえるからきらいではない
川のほとりを上下してくらし
くさの実をすきにほおばるうち
いとやうすと似た歯とともに
いつしかあおごけでおおわれた
こうぶつはどうるい
それもあゆのようないろだ
かぜにふかれるくちをこじあけ
にくのあつみではなく
ちろちろするうごきそのものを
なんのことばだろ、あじわう
 
 

2016年03月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

遠浅

 
 
【遠浅】
 
 
とおあさとかんじるひろがりがあって
うすくひたされたまなかいつづきに
まげられたひかりがつながらずただよう
どこにも垂直のないあかるいたいらは
きのうからもちこしたなんの懸案だろう
なみないほとりになみだつ椅子を置き
時間のとおあさをふかくみとおしてゆくと
みずうえをゆくひとのとおいさらばえや
ゆあみするひとのくずれがほしくなる
さらばえやくずれがひたすらほしくなり
なくように午前のじぶんをはじめても
なみだのなかなどなにもないていなくて
いまの頭韻のみをとおあさとおもう
 
 

2016年03月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

椀物

 
 
【椀物】
 
 
あけからふかくからだをうごかしている
ひののぼるけはいとまぐあっているようだ
よごれやすいくつしたを手にはめれば
ぼんやりとひづめをおぼえるように
どうぶつは一身のはしばしにひそんで
あらいものにあられもなくむけられたり
れんこんを擂りながら根菜のゆくえに
ゆっくりしろくなっていったりする
ながすおこないから朝をはじめること
眼をひらきすぎずに薄目をかたどり
かおからも表情をながしきること
くりやにある空き壜のとおい並みだちへ
もちこんだしゅうじゃくをふりわけつくし
せかいをあやうくするあさげの手順へと
からだのどうぶつをにんげんてきに馴らす
あけには森の髪がうごきくうきのくらさから
わんものを料るさばきがぶんさんしてゆく
 
 

2016年03月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

無内容

 
 
【無内容】
 
 
ひとつとしておなじ時間はないのだから
つづめればひとつとしておなじ場所もなく
くもまのひかりのよわいうつりかわりを
ひらけゆく無内容なそれじたいとおもいあげて
はなあかりのないからだをそまみちへゆかせ
みずからとちがうひとはいつのときでも
うつりかわってみえるのがまことだろうと
無内容におさまる相対をかんがえては
かおのめがねすがたへとうめいをうわばりし
ちかづくあやめ橋までてんびんにしてゆく
 
 

2016年03月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

華奢

 
 
【華奢】
 
 
たくましいおとこのからだは
それとむつみあうおんなのからだを
華奢にするどころか粉や糸にもかえて
もろい材質をほろほろとこぼさせる
このように漏刻となるものこそが
あることのゆううつをつつみいれる
出没というからにはもともと没していた
そんなてんめつがねやにあるにすぎず
華奢である日はすがたまでうしなう
 
 

2016年03月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)