みえるのこり
【みえるのこり】
卯月尽はきれいな灰色がとりわけすきで
いぬの風情もまた意中にあるのだから
おくまっては臥せているグレイドッグに
いろなきはなびらのほそくふきかかるのを
おわりのまぶたうすくながめていたが
ありあるはらわたのひそみをめでるため
ドッグのその場でグレイをさらにころすと
みえるのこりすべてが色価だとおそれた
索道
【索道】
まなざしたらみえるということは
そのひとを手に入れたと同時に
迅さをも所有したのだろうか
かおの一瞥のたやすさにおののき
もっとうごきをもっと錯綜をと
めのそこのつなへまじなってみて
あさやけでねどこがあかいなか
ねがえる索道のようにおちてゆく
気配
【気配】
ことばにたまをとられていると
奇体なゆめまでみるもので
ぬかるみをずぶぬく双の脚が
やがて悪しになり葦となり
鶴を病んでいるとおもうころには
ゆるやかに裂をくんぷうがゆき
ひろがりとみわけないわたくしの
ほそくまなこだけがえぐられた
悲鳴
【悲鳴】
四月、風のときにはあまりゆれず
無風のときこそかすかながらゆれる
やなぎは枝の降下というよりも
ひかりをうらぶれるたわみでしかない
皺しわのくうきのあいまへはさみ
うしろはんぶんまでさらすのだから
そのいくぶんかがもうわたしらで
あけてくれえの人声もちいさくもらす
台湾新電影時代
【台湾新電影時代】
映像引用と、周辺の人間の評言によって語られる、一地域の映画史にまつわるアーカイヴ・ドキュメンタリー、『台湾新電影時代』。作品には不思議な感触があり、それは作品の扱う「台湾ニューシネマ」自体の性格と相即している。
台湾ニューシネマは厳密にいえば、オムニバス『光陰的故事』(82)からエドワード・ヤン『恐怖分子』(86)までの時期で、このエドワード・ヤンを起点にした映画史を侯孝賢で語りかえると、オムニバス『坊やの人形』(83)、『風櫃の少年』(83)、『冬冬の夏休み』(84)、『童年往事』(85)の作品群になる。蔡明亮ならあきらかに台湾ニューシネマの後発世代だ。
台湾ニューシネマは、突発であり、必然であり、集中であり、地域限定であり、世界との同調であり、特異性であり、現在性の召喚であり、相互協力であり、侠気であり、すくなさであり、長回しを中心にした時間の発見であり、身体と顔貌の定着であり、親和性と非親和性の葛藤であり、都市や鉄路の(再)創造であり、均衡であり、緩衝であり、異議のしずかな発露であり、途轍もない自然化であり、寓話への覚醒であり、ほんのすこしのポストモダンだった。
映画スタッフから脚本家にいたるまで成員に相互性があったが、それは持続しない。台湾ニューシネマ的な寡黙で脱物語的な映画は当時では基盤がよわく、やがては台湾自体の映画産業が衰退してゆき、とりわけ侯孝賢とエドワード・ヤン、ふたりの映画作家に世界の注目が集中してしまうからだ。結果、王童が世界映画史からなかば脱落してしまう。
「それはあった」は、『台湾新電影時代』に召喚される諸映像にたしかに証言されている。『恋恋風塵』『悲情城市』『憂鬱な楽園』『ミレニアム・マンボ』など以後の作品もふくめ侯孝賢の映画画面にひさしぶりに接したが、高級映像が見られると騙され、建築中に塩漬けになったビルに少年たちが入ったさい、少年たちの別方向のうごきを設計する『風櫃の少年』の一場面に、とりわけ侯孝賢のシャープな資質がみなぎっていた。彼の映画は画面にいる人間の感触、音声、ひかりの変調、それらがつくりあげる時間切片の刻々の延長、どれをとっても新鮮な胸騒ぎをいまもあたえる。
「それはなかった」は、『台湾新電影時代』に語り手として召喚される人間の選別、順番にかかわっている。トニー・レインズ、マルコ・ミュラー、オリヴィエ・アサイアス、佐藤忠男、黒沢清、是枝裕和、シュウ・ケイ、田壮壮、ジャ・ジャンクー、王兵など隣在遠在ふくめ「外」の映画人たち。台湾人は映画以外のジャンルからしか当初、登場してこない。最後になって「後発者」蔡明亮が登場し、最後の最後に疲弊した侯孝賢がみじかいことばを語る。台湾ニューシネマは後発世代に興行的プレッシャーをあたえただろうと。
侯孝賢の登場は待機されたものだが、片翼だ。もういっぽうの翼、エドワード・ヤンがすでにこの世にいないためだ。あるいは写真や記録映像だけに写っている呉念真、朱天文、柯一正、陳国富などが往時を直截証言する実在の現役として画面に登場することもない。証言史としては欠落があきらかなのだが、彼らは侯孝賢との不和を解消できないままこの世から旅立ってしまったエドワード・ヤンをいまだに哀悼しているのではないか。彼らの不在はヤンの不在であり、ヤンの不在は台湾ニューシネマの非存在だ――そのように脈絡が働いてしまうがゆえに、作品は「ある中間」をめぐる「語り方」のエチュードのようにみえるのだった。それがじつは胸をうつ。
ゴダールが『映画史』でついにトリュフォーを回顧的な悲痛で語ったようには、侯孝賢がエドワード・ヤンとの相互協力、相互影響、相愛の日々をふりかえることは「なかった」。この「ない」ことは無重力なのに、そこに重みをかんじてしまうのが、この『台湾新電影時代』組成の不思議さといえるだろう。一種の重力の混乱。そこから、往年の台湾の映画の光が、闇が、うごきが、ひとが、声がわきかえってきて、なにか「運動ならざる運動」の本質をみる気がするのだ。独特の感慨へみちびく、といっていい。
三池崇史が出演者としてクレジットされていたが出番は抹消されていた。黒沢清はエドワード・ヤンのみを語り、侯孝賢を語らなかった。日本で、ヤンと侯を綜合する位置から出現したのはたとえば瀬々敬久だ。話者として彼に登場してほしかった。あるいは侯孝賢を語るジャ・ジャンクーがいるなら、エドワード・ヤンを語るロウ・イエがいてもよかったし、隣の韓国にも取材をひろげ、初期の『豚が井戸に落ちた日』でヤン『恐怖分子』に影響をうけたホン・サンスのことばも知りたかった。いずれにせよ心憎い選定を、作品はわずかに外していたとおもう。
監督=謝慶鈴、新宿K’s cinemaにて4月30日より上映。関連企画として、「台湾巨匠傑作選2016」もおなじ劇場で併催される。ただしヤンの『海辺の一日』『タイペイ・ストーリー』『クーリンチェ少年殺人事件』(3時間版/4時間版)の上映は、まだ先のことのようだ。DVD化が封印されている侯孝賢の80年代の作品なら4本スクリーンで観ることができる。
さほひめ
【さほひめ】
技巧のゆれている頭上がすきだ
はねぼうしがゆっくりとおよぼし
あしもとへ泉下をあふれさせた
ひきあげてみせる浚渫からは
からだのながさがそこだけの瀑布
めぐりまでみなさざなみめいて
あゆみはくりぬかれるムジカなのか
やぶなかでそのものにすきとおる
信じられん。どうしよう
【信じられん。どうしよう】
映像の強度にたいして弱いほうなので、TVの地震映像に失語をしいられてしまった。土曜の未明なども枕もとのケータイでヤフーニュースが音を発するので、即座にTVをつけてしまう。しばらくみていると大地震が熊本で「起こりつづけている」。この災厄はもう終わらないのではないか――そのようにさえ畏れ、起こっていることに比較できないむごさをかんじた。からだのゆれ、その結果の気持ち悪い酩酊が、地震をかんじていない自分にも生じているように錯覚した。
わすられないことばがある。NHKニュースでいくどか反復的に南阿蘇の主婦がとらえられた映像のなかにそれはあった。阿蘇神社の楼門がくずれてつぶれ、地元の主婦がそれを視野に語っていた――「信じられん。どうしよう」。このことばに、本質をおもった。
おさないころからみてきたランドマーク、聖なるもの。それが無惨にも「いま」崩落している。もともとの世界の布置、その予感実感は、そのひとにとって、安定的にその神社の楼門をも組み込んでいたはずだ。これが、世界が世界であるための前提のひとつだったはずで、日々の予想が日々の確認と一致することのなかから、そのひとの生は一日一日再開されていたのではなかったか。これがくずれた。崩れたのは建造物のみではなく、自分をふくめた世界像への確信だった。だから「信じられん。どうしよう」ということばが出た。これはものすごく悲痛なことばだろう。
あったものが「いま」ない――喪失の原理とはそういうものだが、それは心理のみならず、自身の視覚、あるいは皮膚感覚をつうじてもあきらかに現象されてしまう。このとき視覚や皮膚感覚そのものが減少し、自己もまた減少し、自分と世界との通路につねならぬ無秩序、もっというと気持ちのわるい狼藉が出来するのではないだろうか。異物を呑みこむということは口腔のみならず、眼や皮膚にも起こり、感覚上からひとは修復不能におちいる。消化不良、吸収不能。この修復不能性がみずからのからだぜんたいをいわば「ごみ」にする。カメラをむけられた女性は、そのようにしてたちすくんでいた。
この「ごみ」「廃墟」「機能不全」「無秩序=臓器連関喪失」となったからだを救抜するのは、とても「ゆっくりしたもの」だとおもう。ゆっくりしていても、それは「喪の仕事」に先験する。これこそが共苦=コンパッションではないか。たとえ相手が神社の楼門であったとしても、その無惨な変貌を「ともに苦しむ」とき、楼門の現状を反射して陥っていたからだの廃墟状態が徐々にやわらかくなってゆく。くるしみといえども、それが情動だから、瓦礫となった物質性に「血がかよう」ということなのかもしれない。
共苦は本然的なことだとおもう。とりわけ神社の楼門に慣れしたしんでいたその主婦にとっては。ところが共苦のつよさが距離に反比例する熾烈な現実法則もある。それを是正するのが想像力で、そうかんがえると、共苦の契機をなす災厄映像の強度も、それなりの意義があることになる。東日本大震災の津波映像では、津波は共苦の情動、そのながれそのもののようにみえた。今回の熊本の被災は、夜から未明が第一報というパターンをくりかえしたから、まずは暗闇がみえた。むろん暗闇もまた、想像力の対象となりうるだろう。
ヤクザと憲法
【ヤクザと憲法】
昨日ようやく話題のドキュメンタリー『ヤクザと憲法』を観た。たしかにおもしろい。暴対法、暴排条例でヤクザたちはシノギどころか基本的人権まで奪われ、疲弊の一途にある。疲弊すると意外に人間的にもみえる。それで彼らの生活のディテールが微苦笑をさそう。銀行口座がつくれない。給食費がはらえない。保険がかけられない。クルマをこすって直しをしようとして、ヤクザの身分を偽ったと詐欺容疑になる。
東海テレビのクルーは、大阪・堺に本拠を置く二代目東組二代目清勇会にはいった。冒頭に撮影方針が出る。撮影にともなう謝礼は一切なし。映像そのものは公開までみせず、内容にヤクザたちの容喙をみとめない。モザイクは基本的にもちいない(ここが通常のTVドキュとおおきくちがう)。
なぜヤクザたちが撮影を許可したのか。ひとつは窮状の訴え、ひとつは「それでものこる」自己顕示だろう。「ここは写すな」というヤクザ側の「撮影中の」検閲があり、画角を変えてでもカメラを回すクルーたちの執念がある。駆け引き。しかも誇示できる「いいところ」などヤクザたちにはほとんどない。だからもろもろがバレてゆく。そのようなかたちで撮影が一見成功しているようにみえる。だがはたしてそうか。
たしかに会長の男ぶりは抜群だ。惚れ惚れする。部屋住みの子と叔父貴との交情もある。こわもてだがやさしい組員が日本国籍をもっていない。些少な罪での服役、それから出所という苛烈な反復もある。「いろいろ」が写される。あるいは電話があってシャブを夜間、クルマで配達する(シャブとは明示されない)営業にもクルーは同行する。
ところがないものがある。刺青の描写、部屋住みの子への、扉を隔てた折檻(音声のみの描写)がただひとつあるほかは、ヤクザがヤクザたるゆえん、その怖さが描かれない。だから観客は安心して微苦笑のなかにいられる。女たちからの搾取がえがかれない。多様な種類で存在しているだろう恫喝、怖さを演出する会話の「間」なども作中に存在していない。
作中にヤクザがどう発祥したかの歴史的説明がテロップでながれる。江戸時代の火消から発祥した一説を紹介、賭場の仕切りと祭りの露店商の差配をしたと。意図的にテキヤと起源が混淆され、ヤクザの特殊性がきえている。みかじめ料をまきあげる自助組織の擬制、芸能や売春の元締め、人足の差配と搾取、それから昨今にはいっての企業恫喝、非合法経済活動、クスリ……ヤクザのつくりあげる闇はほんとうならもっと膨大で濃いはずだ。新世界の飯屋のおばちゃんを例外に、女が画面にほぼ映らない。撮影になにか浄化の作用が介在していると気づかなければならない。
ドキュメンタリーのクルーたちはなんとかヤクザの生態や生活の実質を、こっそりとでもいいから捉えようとする狡猾な面があるにせよ、基本的には撮影対象=ヤクザたちと狎れあいになった。ドキュメンタリーで望まれるのは、稀少社会からの真実の剔抉だけだろうか。撮影主体と撮影対象の関係そのものに観客は打たれるのではないだろうか。
両者が過剰に劇化する例なら原一男『ゆきゆきて、神軍』にある。撮影主体が主体化して対象を幾何学的に再組織、情動の直線をつくった例なら大島渚『忘れられた皇軍』にある。撮影主体が過激に透明化し、記録の起点が零度になる例なら想田和弘の「観察映画」にある。過激な主体透明化が「しかも」いかがわしい例なら中国の王兵にある。ドキュメンタリー『ヤクザと憲法』はそれらのいずれでもなく、それらの折衷的な中間でもない。だからこの作品に満足することは、ドキュメンタリーへのリテラシー低下とも対なのではないか。
疲弊は現代的な主題だ。いっぽうメランコリーは超時間的な主題だろう。メランコリーはひとを愁殺するが同時に暴発する。じつはこの作品を観なければと思い立った理由は、そのまえ授業準備で(『ソナチネ』から『極道黒社会』『helpless』にいたるポストヤクザ映画の嚆矢となった)川島透=金子正次の『竜二』を観なおしていたためだった。ヤクザ生活に疲弊し、倦み、困憊し、「放心」し(ここがメランコリーの第一弾)、いったんはカタギになったものの、おなじ疲弊以下が起こり(ここが第二弾)、最終的には暗示の状態でひとりの男のヤクザへの復帰がえがかれる(ここがメランコリーの暴発、そのまえには永島暎子が特売コーナーに並んでいる)。金子の身体が自己愛的だが鉛色に捉えられ、金子の声がふかく響いて、いわばフィルムの質感の問題も起こる。ところが『竜二』に触発されて観た『ヤクザと憲法』にはこの質感の問題がなかった。
たしかに「異物」を徹底的に排除する政治どころか人心の「ネオリベ」的現実に、ひそかな異議申立をしようとする作品の立脚には共感できる。だが肝腎なことが閑却されていないか。端的にいえば「一般人社会」と「ヤクザ社会」は非対称だ。この非対称性は解決不能性であって、そこからうごきだしてくる希望も絶望も、とうぜん「一般人社会の尺度」とは次元がことなる。ところが作品はTV的な平準性により、それを「一般」尺度で描写してしまった。清勇会事務所内の空間の明瞭性、もっといえばあかるさは、この点と関係しているだろう。視界をふかくするのは、地霊をもとめる朝倉喬司的な流浪のはずだ。
いいおとしたことがひとつ。作品は傍流として、山口組の顧問弁護士・山之内幸夫の現在の疲弊もとらえてゆく。ここもなかなか良い。監督=土方宏史。4月13日シアターキノの満員の客席で鑑賞。客席からはちいさくだが、笑い声がしばしばひびいていた。
長い論文
【長い論文】
すこしまえに「長い詩」(投稿詩の傾向)について書いたが、長さをかんじる論文というものもある。分量的に長大ならそれはそれで立派なのだが、論述効率がひくく、無駄をかんじる論文が、とくにぼくの職場にかかわる院生の、映画関係の論文に目立つ気がする。そのような論文はたとえ二万字であっても読む最中から「長いなあ」と不平が漏れでてくる。
そうした冗長性の理由をかんがえてみよう。
●まず場面の起こしではたぶん小説の描写に魅せられたことがない欠落が作用しているのではないか。それで「言外」を操作することができず、カメラの運動、構図などを逐一的に書いてしまう。これはむろんDVDのリモコン操作にも裏打ちされているが、そうしたディテールを書かなくても場面上の意味・運動などは、修辞が正しければ具体化する。一をしるして十をつたえるように。
●たとえばカメラ運動のみを考察するなら、数学的な書式を選択すべきだが、そこでも低効率の問題が起こっている(これは「動詞」にかかわる感性、運動神経が惰弱だということ)。詳細性に字数と注意が移行してしまうため、俳優や場所の質感などをぎゃくに適確につたえることができず、立体感が失われる(これは「形容詞」のヴァリエーションの問題とも関わっている)。
●論文はふつう、要約性と詳細性を箇所によって選び分けるものだが、このふたつが一定の度合に終始するのも問題だ。これは作文練習の不足による。リズムや遠近感が単調。たとえばある映画のあらすじを百字、五百字、千字、二千字というふうに、語りかえる練習をしてみたらどうか。それがうまくいくようなら、その場で最良のギアチェンジが可能になる。これが勢いをつくる。
●自分が調べて、対照できる文献をすべてつかいたくてウズウズしている気色がみえる。これはちがう。論じている映画に使用する参考文献(箇所)は(ひとつの文献からでも)多様に用意したのち、自分の指摘ともっとも良い共鳴をするものをさらにその場で再選択すべきなのではないか。すべてを選び参照系を展覧してしまうことで冗長になる。これは精神の吝嗇傾向とリンクしている。少ない文献で論文をしあげようとするタイプにこの様相がつよい。もともと参考文献が多様ならば、ふくれあがりを防ぐため、端的効率的な引用をせざるをえなくなるのは明らかだろう。
●これは「長い詩」にもかかわるのだが、主題なり結論なりの「目標」があって、ことばという「道具」をつかっている意識がそもそも審問に付されなければならない。はたして「目標」と「道具」に弁別などつくのだろうか。「目標」はすでに「道具」であり、「道具」もあらかじめ「目標」とかんがえれば――「目標」と「道具」が溶けあった分だけ、字数の無駄が抑制される。それがいわゆる「名文」というもので、このことは感性の成熟が約束する。こういうと元も子もないが、「若い論文」が「長い」のだ。
●あるいは身体が鍛えられていない。冗長性と反対のものは、流暢さであったり、筋肉であったりする。柔らかさと胆力、それらに支えられて、あきらかな描写なり、かんがえの明確な文章なりをつくりだされる。むろんこれらがないと、先行研究にたいしほんとうの独創性の上乗せなどできないのではないだろうか。
●そもそも一文が複文構造などによって長い。短文もまじえると文章が活性化するという「文章教室」の議題が現在、閑却されているようだ。ここでも「うねり」がつくれない。それと、文章の方向性を安直にするのが「繋辞(=である)」の存在だ。いちど各文の末尾に使用する動詞を一般動詞にしてみたらどうか。
さて、以上のような問題を抱えた論文を、文体論の見地から是正することは意外とむずかしい。というか、ぼくじしんが文体論を信奉していないのだ。ただ個別に論文にむかえば、それに多量の赤字を入れ、圧縮することができる。ほとんどすべての学生の論文は、半分ていどに圧縮できるだろう。
女ふたり
【女ふたり】
本日(4月9日)の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海泳ぐ」が載ります。今回串刺ししたのは、前クールのドラマ『ナオミとカナコ』、まだシアターキノで大ヒット続映中のトッド・ヘインズ監督『キャロル』、それに現在ディノスで公開中、岩井俊二監督の畢生の傑作『リップヴァンウィンクルの花嫁』です。そう、こうならべてみてわかるように、「女ふたりの映画/ドラマ」の特集です。『キャロル』と『リップヴァンウィンクルの花嫁』についてはFBなどに長い文章を載せてしまったので、あまり補足することがありません。
基本的に美人女優ふたりがダブル主演する映像作品というのは、大好きです。『テルマ&ルイーズ』あたりから女性版バディム―ヴィという認識も出たとおもう。それでTVドラマでもW浅野主演の『抱きしめたい!』などが登場してくる。ここらあたりは女性同士の性愛の雰囲気までうすくただよう。ぎゃくにいうと往年の増村保造監督『卍』などは若尾文子と岸田今日子のレスビアン映画で、すこし濃すぎる。どうも女ふたりの映画ならレスビアン20%、バディ80%くらいの比率が、ぼくにとってのストライクゾーンらしいです。こう書いて、ふと林由美香が最高だったサトウトシキ監督『ペッティングレズ 性感帯』をおもいだしたりして、矛盾もありますが。
きれいな女たちがおなじ画面に映ると幻惑が起こる。相互が照りあい、美を増幅させるのです。それで女たちの実在が不明になる。恐怖にちかい感覚。そういえばプルースト『失われた時をもとめて』で話者が「女たち」から恋人アルベルチーヌを分離するのには充分すぎるほどの時間がかかっています。バルベックの海岸で遊ぶ美少女たちのすべてに幻惑され、区別がつかなくなっていたからです。こう書いて、なぜか大学時代をおもいだす。笑。
そうそう、『ナオミとカナコ』は最終回までサスペンスフルだったけど、佐藤隆太の夫役が殺される前後がドキドキのピークだった点が惜しまれた。それとTVコードがあるからだろうけど、主演・広末涼子と内田有紀、その親友どうしのレスビアンの暗示がすくなすぎたようにおもう。みつめるだけ。それでふたりの罪を確信する吉田羊にドラマの中心が移り、いわば「追跡劇」の様相を呈すのだけど、この吉田に最後、「追い詰めすぎた」ゆえの悔恨がえがかれなかったのも惜しかった。
「女ふたり」の分野では3年ほどまえのNHKドラマ、羽田美智子と板谷由夏がダブル主演した『第二楽章』が忘れられないなあ。あれには『ペッティングレズ 性感帯』同様、すごく濃密な時間がながれていた。ボブ・ディランは「神は女だ」といったけど、「時間は女だ」という言い方もあるかもしれません。
近況4月8日、あるいは註について
【近況4月8日、あるいは註について】
北大大学院文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌「層」のための原稿を仕上げ、いましがた編集長の押野先生に、データ入稿した。題して「映画の犬 ――『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』をめぐって」。サミュエル・フラーの往年の問題作と、トルコのカアン・ミュジデジ監督の2014年ヴェネツィア映画祭審査員特別賞受賞作をならべることで、犬の獣性の本質、またそれを描く映画性に何が必要かの考察をつむげるとおもった。媒介項として、ピエール・ガスカール、ヴァルター・ベンヤミン、ドゥルーズ=ガタリ、ジャック・デリダ、ジョルジョ・アガンベン(間接的にはハイデガーとレヴィナス)などを参照、詩作者ではとりわけジュール・シュペルヴィエルと村上昭夫を導入した。
ぼくは「映画批評」「現代思想」「詩歌」に引き裂かれているとおもわれているかもしれないが、上記三つは自分のなかでは分離していない。たとえば自分の映画批評には詩的な飛躍が瞭然としているし、自分の詩論には映画批評と同等の物質性への注視がある。このあいだ北大から日本女子大へ栄転した川崎公平さんからは、だから阿部さんの映画評論は日本一エロチックなんですよ、といわれて嬉しかった。そういえば昨年最も優秀な修論を仕上げたK君も、ぼくの評論系の著作ばかりでなく、詩集も愛読して、ぼくの評論/詩を分離していなかった。このあたりのことを昨日、新修士課程、新博士課程となった院生に話した。指導教員の研究に近づきすぎると危ないなどという言い方があるが、臆説でなければ都市伝説のたぐいだろうと。
それにしても瞬間発想によるズレもつかうぼくの換喩的な書き方からすると、学術論文の作成はじつに面倒くさい。それでも基本に立ち返り、引用文献表は事前につくる律儀さがある(内容構成案はあまり事前に綿密にしないけれども)。今度の著作『詩と減喩』では岡井隆論などでそうした。掲載誌が学術誌だとおもったためだ。ただし註記は分離独立させていない。文献註だけとしたので、文中の括弧に繰り込んだ。
「層」掲載のこれまでのぼくの諸論文では註記は立場上、独立させてある。それで註記部分の長いのがさらに目立っただろう。したしい院生には「註があれば学術論文だとおもっているんでしょう。厭味ですか」と笑われたこともあった。しかもぼくの論文は、出典註のみならず、註のなかでさらに考察が展開されてゆき、本文の傍流、裏打ちが複雑にわきあがって、全体がバロック化する。
今回は、ついに註の文字数が本文の文字数を上回ってしまったみたいだ。まあこれは、アレハンドロ・ゴンザレス・イニャリトゥ監督『アモーレス・ペレス』への長い考察を註に組み入れたためなのだが、たしかに常軌を逸しているといわれるかもしれない。たしかに註が本文よりも長い書き手はいる。まずおもいうかぶのが、ドイツの民俗=歴史学者のハンス=ペーター・デュル。彼の本などは、本文から註をめくらずに、本文を通し読みしたあと、註を通し読みする。ぼくの論文もそうされるのだろうか。
長い詩
【長い詩】
あたらしい「詩手帖」投稿欄選者にきまった廿楽順治さんのポストに、「新人の詩篇の多くが、いま長すぎる傾向にある。それをまずは叱咤是正してもらえたら」と書きこみした。それにしてもいまの投稿詩篇は「なぜ」長くなるのだろうか。妥当するだろう理由をまず箇条書きにしてみる。
・モチベーションが書くまえにはっきりしておらず、書きながらそれを探すから長くなる。
・饒舌体そのものが、承認願望を鏡の裏箔にして、時代の傾向になっている。そこへ小説的な散文体がさらに野合する。これはあきらかに詩というジャンルのとりちがえだ。
・簡素な詩篇は、じつは総体がみやすいことで、その「肉体」がつよい。その意味では若い世代を中心に、「詩作の身体性」が脆弱化している。身体性は体験の裏打ちとともに、決断力にもかかわっている。
・詩作における音韻意識が稀薄。みじかい改行詩篇のほうが音韻意識もはっきりするはずなのに。
・参照される先人の作品に、文学性のたかいものが多い。つまり投稿者の多くは、通用している詩史のもとに隠れている才能の本質、本当の秘宝、みじかさの詩篇を体験していない。おそらく他人の詩をあまり読まないで、自分の詩が書かれているのだろうが、そのひとたちは着想が一回りするとすぐに詩作が停滞するだろう。
・スペースの占拠面積が達成感と比例する世知辛い「数値性」が作用している。だがはたして投稿欄は「何坪の庭に家を建てた」で済むのだろうか。せまい集合住宅暮らしが実勢なのに。
・短い=全体をつかみやすい=読みやすい、という全方向サーヴィスにかかわる等式が成立しなくなってしまった。やはり自己中心主義がそこに介在している。
・ネット的には「短いもの」がこのまれる趨勢がはっきりしているので、「長い詩篇」は紙媒体用の特性といえるかもしれない。つまり「紙に乗るのだ」という特殊な意気込みがある。
・じっさい投稿欄は一行字数がすくない。それで息の長い一行を書くのを得手とする人間も、実際の改行形態の不恰好を惧れ、散文形へと逃げる。ふたつはちがうのに。
ところで投稿者は意外と選者の性格にたいし「傾向と対策」をかんがえるものだ。『化車』の長篇詩を除き、廿楽さんはだいたい20行ていどの詩篇を得意とするから、目ざとい投稿者も詩篇を「自然と」短くしだすのではないだろうか。もうひとりの選者は日和聡子さんというから、彼女狙いの投稿者は、古典語彙の目立つ譚詩をさしだしてくる公算もある。廿楽さん狙いなら「非連続性」の織り込みと脱文学性か。猥雑詩篇がふえるかもしれない。
もちろん投稿者への評価と、選者への評価は相即している。廿楽さんが反動志向をだして、あたらしいものを拒絶するのもたしかに価値だとおもうが、やりすぎると叩かれるだろう。ご注意を。
まあ廿楽さんは自分が新人投稿欄で山本哲也さんに見出された往年の記憶を適用するだろうなあ。ふたりは似ているわけではないが、風通しの良い詩作という点ではたしかに共通点もあった。熱気だけあって、自分のしるしたことを自己検証できていない長い詩篇は、目詰まりして、そのなかにけして風が吹かないし、おおむねは詩行そのものが構造すらあらわにできない。そういう詩篇はたとえ独創を認められても、からい評価がなされるのではないか。愉しみだ。そういう、「詩作の未来」にむけた断行を廿楽さん、日和さんには期待している。
いずれにせよ掲載詩篇が長く、しかも選者のとりあげる詩篇にかぶりが少ない(割れる)ので、いま「詩手帖」投稿欄は大量頁になっている。これがたとえば詩集評のスペースをも浸食していると自己チュー型の投稿者はかんがえないだろう。長い詩篇の掲載に、もっと「(以下略)」の断行がくだされれば、自然と長い詩篇も書かれなくなるのではないか。まあこれはちょっと怖い提案だとはおもうが、このていどの恫喝は、いまの甘ったれた投稿者には有効かもしれない。