かんがえのふたつ
【かんがえのふたつ】
自転車「漕がれれば安定するのだから
うごきのなかにあらわれるしかない
かんがえのふたつをしめる輻をつうじ
かたちそのものの透けるおくれた濾過が
とおりすぎたひとすじをもこしだしてゆく
まえうしろがすくなくつりあっていると
ゆるやかに自をはこぶ自のころがりは
からくりとちがうけいらくを伸べる」
心室
【心室】
いっせいにでていったので
のこされた椅子がかがやいた
うしなったひとびとへ反応して
おびただしさがてのひらをひらき
うすいあげぞこをかたどった
おわりはそうしてつづいてゆく
ものおとのあとのこだまが
ものおとのまえにもどるように
エンタシス
【エンタシス】
ふくらみ「うちがもりあがったのか
おもみからたわんだのかはしらず
なみだふくむゆらいのちがいがあり
おもいだされるようになでられる
あるかいっくのおおもとがむなぢなら
しろをまとうこのかすかなかくしも
はるひでくずれてしたたるのだろうか
みずからにたることなりのさみしさ」
還相
【還相】
「げんそうは減りつくす過程だ
そこにもともとあったものが
そこにもともとあったことになる
みずからのみを媒介にした引き算が
変化の奥そこへと回収されてゆく
かたちのなかでのこわい捕食だから
もはやなごりさえただよわない」
生殖に酔うかげろうがそうかたる
真利子哲也ディストラクション・ベイビーズ
真利子哲也監督・脚本『ディストラクション・ベイビーズ』を観る。大傑作だった。
通常、「暴力」はその必然として自壊する。たとえば日本刀で連続して人を斬りつけてゆけば、骨と接触した刀身はやがて毀れだすし、肉と脂を裁断したそれは血糊でどろどろになり、鈍く滑りだして重く、数人でもう人が斬れないようになる。あるいは拳による肉弾戦で相手をおもうさま殴りつづければ、やがてはその拳じたいも砕けてゆく。対象があることは征服域の充実をおもわせながら、実際は絶望とさえ連絡している。
もっとつきつめよう。暴力は主体である己れにたいして、実際は疲弊してゆくのだ。かんがえをさらに遡行させれば、すでにして「そこにある」暴力の各瞬間に、充実と疲弊が綯い交ぜになるふかい混乱がある。このばあい、映画の「物語」などがおこなう術策はふたつに大別されるだろう。ひとつは、暴力が自己疲弊しないという虚構をつくりあげること。そうしてスーパーヴァイオレンスができあがる。もうひとつは、死に代表される、暴力行使者への応報、あるいは悔悛などの落とし前を物語がつけることだ。
予感されるだろうが、『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽優弥は自己疲弊しない連続的な純粋暴力の行使者で、その存在が神域にある。純粋持続は全戦全勝ではないリアリティを前提に、暴力性が彼の身体により強硬かつやわらかく生成し、しかも暴力の目的が暴力行使以外に存在しない点から観照される。だから鑑賞中に立てた鳥肌は、爽快さにたいして反応しているのではないかという錯綜が起こる。観客は知覚の刻々を微分される。
武器といえば、拳、さらには履いている靴の先、頭突きをする頭部、膝や肘の活用(これらは身体各部の冷酷な物質化と関連がある)、あるいは「投げ」や「しがみつき」や「噛み」にすぎない(つまり武器のない肉弾的衝突に終始する)そうした「喧嘩」は、たとえばショーマンシップと演劇性に彩られ、「順番」を分節化されたプロレス等にたいして、通常は不恰好に映るだろう。映画では拳による男性身体と男性身体のぶつかりあいは、マチズモを隠れた称揚項目にもつ50年代のハリウッド映画に目立ったものだった。アクロバット体技と破壊力を誇ったブルース・リー主演の諸作で観客が目にしたものは、「気」と、それが必然化される速度(憤怒の「溜め」と爆発直後の電光石火のスピード)だった。ジャッキー・チェン主演作は、アクロバット体技の応酬を、編集と撮影のほんのわずかの速度変調で、いわばユーモアの文脈に音楽化・都市化・舞踏化させてみせた。
それらがいわば暴力の映画史の進展経路だったとすると、たぶん「因果化」や「程度較量」を欠いた純粋暴力が連続してゆくときに時間そのものが悲鳴をあげる、絶望と充実の映画系譜がある時期から目立ってくる。そこでは非人間が神域と交錯する逆転がしるされてゆく。対象が神域にあって、その対象にまつわる記述も神域に収まってゆく合致感はそのままいわば光源化する。真利子哲也自身の『イエロー・キッド』、ガス・ヴァン・サントの『エレファント』、タランティーノ『デス・プルーフ』、井筒和幸『ヒーローショー』、ウクライナ映画『ザ・トライブ』などがその系譜だ。ただし拳と頭部などによるリアルアクションが疲弊と無縁の神域に継続できるとしめし、しかもパズル性のある物語展開で観客を眩暈に包む「魔(神)力」は、この『ディストラクション・ベイビーズ』が最も行使した。
手持ちカメラによって、駆り出された俳優たちの不恰好な「喧嘩」を「無編集の持続体」で追ってゆくことは、通常なら速度の停滞や膠着、無展開の退屈を結果する。だから映画では編集こそが暴力の味方、もっといえば暴力の動因そのものとなるのだ。北野武映画の暴力は、「事前」と「事後」の不穏で素早い一瞬の転換であり、それはよくかんがえると「渦中」が欠落している不穏さと結合している。『カリスマ』に代表される黒沢清映画の暴力は、「渦中」だけが一回性の文脈でぶっきらぼうに内挿され、事前と事後が逆になく、たとえば「ぼこん」という鈍い衝撃音だけが耳にのこる、「一瞬から出来した残存効果」が眼目となっている。では『ディストラクション・ベイビーズ』はこの点でどうだったのだろうか。
やがて舞台が松山を中心とした愛媛県と判明してゆく『ディストラクション・ベイビーズ』では、喧嘩に明け暮れた「兄」柳楽が生地・三津浜を出奔したと「弟」(村上虹郎=村上淳の息子)から報告される冒頭をもつ。のち、青い作業着に全身をつつんだ柳楽が、昼間の閑散とした飲食店・風俗店の並ぶどこかの都市の路地を彷徨する姿が、主に、柳楽の後姿を捉えた連続する前進移動撮影で、ゆれをともないながら捉えられてゆく。一瞬振り向く柳楽の顔には殴打された痕跡があるが、その物質的な表情がわずかな歓喜を湛えている意味を観客は了解できないだろう。彷徨のやつれや、敗退の打撃と離反する充実が意識されるためだ。
その柳楽が、ギターケースを抱えた、見た目は柳楽より屈強そうな男を対象化、かんがえられない無媒介さで喧嘩をしかける展開になってゆく。理由のない純然たる暴力の開始。カメラはそれを観察する。対象への同調と、冷静さの保持、その中間にいるような手持ち撮影で。
ミュージシャン風の男が柳楽を倒し、道路上に組み敷き、馬乗りになった局面。柳楽の眼球をミュージシャン風の男の拳が「実際に」殴打したようにしかみえない一瞬が到来する。寸止めの証拠が見当たらないのだ。経験則のあるひとにはわかるだろうが、画面にしめされた強度で眼球が殴打されれば、眼底出血で失明へいたるか、あるいはそうでなくても視力低下と白目の充血をひと月程度は覚悟しなければならない。だから柳楽の眼球と相手の拳の接触は、「映画撮影上ありえない」。それが「ありえたようにみえる」一瞬が脅威をもたらすことになる。
観客は心理戦を仕掛けられる。寸止めの約束事を刻々に覆しているようにみえる身体細部どうしの暴力的応酬、それにともなう「ごつんごつん」という鈍い殴打音の陸続、この真偽を――つまり視認できない瞬間の解明をしいられるのだ。ポルノグラフィが猥褻物の真芯を確認させようとする心理操作に似る。「時間」は「瞬間」を内蔵していて、「瞬間」は「時間」を転覆させる。それでポルノグラフィではストップモーションやスローモーションやコマ送りといった、病理的な画面操作が伴走してゆくことになる。「瞬間」がみたくてたまらないのだ。それこそが時間の無意識だから。いずれ『ディストラクション・ベイビーズ』がDVD化されれば、利用者はそんなリモコン操作に疲弊してゆくことになるだろう。そうおもわせるほど、本作の持続的時間には証言をほしがっている不穏な「瞬間」が宝蔵されている。
そうした振舞は、もちろん「持続」にたいする冒涜にすぎない。持続相とはそれ自体が充実であるが、そのすがたは筒のような、のっぺらぼうのような退屈さで人を愁殺するものなのではないか。名づけられぬものだけがそこに捉え替えられる。こういえばいい――真の時間は生成されるが、それは人の生成を内実とする。あるいは逆に、人の生成は、時間の生成を内実とする、と。持続でみなければならないのは、微分されて生まれる瞬間の実相ではなく、器官のない円筒の生成なのだ。そう観念してみても、『ディストラクション・ベイビーズ』でのっそりと、やや猫背気味で相手の前に立ち、とつぜん殴りかかり、負ければ執拗に報復戦を挑み、やがては暴力の生成が効率化してゆく柳楽の、その殴打、蹴り、頭突きなどの刻々が、「相手に実際に入っているのではないか」という嫌疑が高まってゆく。この分裂状態こそが前代未聞なのだった。
暴力論ではベンヤミンの『暴力批判論』をまず参照するのが現代思想の儀礼となっている。ところがそこでは「法」が媒介されている。法の行使する、もしくはその法に対抗する必然的な「神話的暴力」にたいし、その神話的暴力を排除する、「それ自体としか捉えられない」ような「神的暴力」の対立。この二分法を拡張的につかえば、『ディストラクション・ベイビーズ』の柳楽の暴力は、「理由のなさ」「無媒介性」「自体性」、さらには「純粋持続性」によって神的だとまずいえるのだが、柳楽が本作で闘っている相手は、もちろん神話的暴力ではない。散文的にいうなら、港町の若い不平分子たち、松山の夜の歓楽街を闊歩するヤクザたち、夜の県道を乗り回すヤンキーたち、さらには善意の庶民などにすぎない。
それらは仮象でしかないだろう。実際のところ柳楽が闘っている相手は、空間を偶有的に占有している通りすがりの身体であり、柳楽の武器は、相手がつけようとしている性急な「決着」にたいする持続力――ということは時間そのものであり、だから瞬間にたいして持続が異議申立をするときの波のような反復だけが、闘争の実相として現前しているのだ。瞬間と持続の対立は観客の視覚上の葛藤を織りなすのみならず、柳楽の存在じたいが補完している――そんな作品構造に気づかされることにもなる。
暴力=時間の持続にたいし、真利子哲也の天才は、持続の下地になる分節化を実に映画的に仕込む点にある。みやすいのは「風景論」の起動だろう。冒頭、松山近郊の漁村、三津浜の港が捉えられるとき、停泊する漁船の隙間をごちゃごちゃしたものがあふれ、それが映像の基底―素地を示唆する。「弟」村上虹郎が自らの居場所である造船所へと、でんでんをしり目にむかうときには山をのぼる捷径が選択されるが、途中、造船所の地所をしめす鉄扉が胸を打つ。その港町の疲弊した光景と、松山の繁華街の光景とが対位法的な展開をつくりあげる。
しかも夜の場面での光量変化が展開ごとに見事に設計される。「ありのまま」が活用される自主映画性こそが風景の真実を掴むうえでの王道だということ(最近の日本映画では武正晴『百円の恋』でとくに意識されたものだ)。裏道の薄明かり、モール街の照明の強度、そこから外れた夜の駐車場の、裏通り以上に寂寥をたたえる暗さ、さらには松山から離れた県道のいわば「夜のなかの夜」状態、そのかすかな冷気。このようにして松山近辺は風景的普遍でありつつ特異性でもある。それをあかすのが方言のもつ身体性だっただろう。
暴力の分析にかまけてしまったが、作品の主要人物は、柳楽、その弟役の村上のほか、頭頂に髷を載せ、フェミ男の華奢な風情をただよわせながら、臆病で不恰好、しかも卑劣という以上に世界観がやがてゆがんでいるとわかる(そういう役柄を演じればいま最も生き生きとしている)菅田将暉、まなざしに邪険さのある美少女・小松菜奈――この四人だ。人物群の点在は、パズルピースが突飛だが正しい隣接を組織されることで、やがて四人が複合された物語を形成してゆく。そう、エドワード・ヤンの『恐怖分子』のように。
作品の無媒介な前提となる柳楽は、ミュージシャン風の男との報復戦に勝利したものの深手を負って(顔が腫れで変形して)公園にいる。ゴミ箱から魚肉ソーセージをとりだしてばくつく姿を、菅田が、そのヤンキー風の学友二人とともに嘲笑う。学友二人は柳楽にちょっかいをだすが、深手を負っても屈強な柳楽に完膚なきまでに叩きのめされる。ここでも持続性と執拗さに息が呑まれる。菅田のへらへらぶり、腰抜けぶりが笑えて、柳楽と好対照をなす(喧嘩に勝利した柳楽は、菅田所有の自転車を、有無をいわさず奪う)。
彼らと柳楽の対峙は、間歇を挟んで再燃する。報復を念じる菅田らヤンキー高校生たち。彼らは夜の路地でヤクザにボコられて衰弱している柳楽をみつける。無抵抗の柳楽をさらにボコる。金属バットでとどめがさされるところを、臆病な菅田が制止する。とりあえず持続を生成しない柳楽を、哀れにおもうこころがこの時点での菅田にはあった。
菅田と柳楽の邂逅は波状の反復があって、最終合流をみるが、その最終合流には、菅田の同化、あるいは菅田がしるす柳楽への憑依が必要だった。経緯を確認する。まずゲーセンで遊ぶ菅田らがいて、菅田に柳楽は接近し、妙な暴力を行使する。「脱がす」のだ。それは悪臭をふりまく自分の作業着との衣裳交換だったとわかるのだが、柳楽の去ったあと、そのダサい作業着の着心地を確認し、しかも頭頂に髷を結う菅田から発現されてくるのは、華奢でしろい少女性といったようなもので、笑える。のちに彼は女性への卑劣な暴力を発揮しだすのだが、ルサンチマンとみえるその行動の動機(これが柳楽の自体的な暴力には一切ない)は、「自身をふくめた領域」の排除、つまり変形的なミソジニーだったといえるだろう。このとき彼は錯誤的に「柳楽を着た」と気づかなければならない。
無理やり衣裳交換をしいられた菅田は、酒瓶を手に柳楽への報復機会を、繁華街をさまよいつつ窺って、柳楽の喧嘩場面に遭遇する。ここでは喧嘩自体への描写よりも、菅田の変貌が映像化される。柳楽は難敵だったヤクザの三浦誠己(彼はフットワークをつかうことから、ボクシング経験があるのだろう)を今度は一撃で倒す。この大立ち回りで、周囲には野次馬が蝟集している。そのなかのひとりとして菅田は、柳楽の暴力の不屈の、しかも自体的としかいえない持続性に感電させられてゆくのだ。「自己にないもの」を認定した彼は、こののち柳楽を仕掛け、その暴力の記録者(ケータイ撮影とネット拡散による)となりつつ、彼の同伴者として、柳楽を縮小した、女性への暴力などを発現することになる。この菅田がなければ、柳楽の暴力の至純性がここまでつよく意識されることのない点に注意したい。
真利子哲也の緻密な作劇は、小松菜奈をも柳楽の目撃者とするが、そこでは夾雑物をくみいれるさらに複雑なリズムが刻みこまれる。たぶん「趣味」と世間への嘲笑が反映されているのだろう、眼付に邪気をはらんだうつくしい彼女は、スーパーで万引きしているところを無媒介に捉えられる。ところがおなじ店内には、まだ作業着姿で顔を腫らしている柳楽が、爽快さまで印象させるように遠慮なく店内の食べ物をとりあげて食べつつ大股で闊歩している。唖然とする小松。店内の万引きGメン(中年女性)が小松の万引き行為をスーパー入口から出た直後に咎めたとき、この柳楽が注意喚起の対象とされ、それが結果的に小松の逃走へつながった。小松にとって、最初から柳楽は、自分を超える異物、理解不可能性だった。
いわば2Rめの松山のヤクザたちとの柳楽の肉弾抗争で(三浦誠己が初登場する場面)では、そのゴロマキを見物する群衆のなかに、キャバレーへ出勤途中の小松がいる。ここでも彼女は、異物性のつよい柳楽に驚嘆することになる。なおこのゴロマキは、キャバレーの運転手の男の、停車中の車中視界によって捉えられる。真利子『NINIFUNI』のラストシーンの応用だ。ところがクルマのボンネットが、身体どうしが闘いもつれあう場へ昇格し、しかもフロントグラスに血まみれの顔がこすりつけられると、恐慌した運転手はクルマを発車させ、それで柳楽が衝撃を受けることになる。
雑踏の一員としてゴロマキを見物することは、開かれた場に守られている(のちにそれが一面の真実にしかすぎないという転覆が起こる)。ところが車内という閉塞した場所で、クルマをも巻き込まれるかたちで喧嘩に直面するとき、閉所の逃げ場のなさが、観客の心理に、驚愕と恐怖をじかに伝播させるのではないか。外延の内包、内包の外延を使い分ける真利子哲也の映画演出は、時間型であると同時に、空間型でもあった。車内からの視点は、のちにさらに増幅形で反復されてゆく。
地元不良との抗争方法を相談するため、松山行きに、村上虹郎がくわわって(スケボー技術が素晴らしい)、そこで彼は兄の作業着をまとっている菅田将暉に気づき、兄が周辺にいると確信、以後は兄探しに奔走するようになる――そんな一節を挟んだのち(これが菅田と村上を唯一おなじ場所に置いたシーンで、以後村上にとっての菅田は、兄とともにすべてネット動画、TVニュース内の人物となる――これが作品における「点の接続処理」のひとつのかたちだ)、小松菜奈はキャバレー出勤前にまたもや万引きしているところを、村上の親友づらをした厭な金持ち息子にみられる。柳楽を手分けして別方向で探すというのを口実に、その村上の学友(北村匠海)は、小松を恐喝したのだろう(ここは作中で描かれない)、「ガキ」のくせに場違いなキャバレーの客となる(点在している学友たちもケータイで呼び出された)。そこでつまらない狼藉を働くのだが、このときが実在する小松と村上が隣接した唯一のシーンとなる。
むろん点在する者たちをつなぐのは並行モンタージュ(シーンバック)だ。ヤクザとのゴロマキで三浦誠己を叩きのめした柳楽にたいし、色をなしたヤクザたちがついに武器をだして、機転を働かせた見物人の菅田は「警察が来た」と叫び、それからふたりもその場から逃げ出すとき、柳楽への絶賛を多弁に重ね、興奮し、通りがかりにむごたらしく制服姿の女子高生二人を殴打する。
やがてモール繁華街へ出るとまだ宵の口で、人が多い。そこで菅田の挑発によって対象化された一般人が、次々に柳楽の殴打の犠牲になってゆく。この無差別暴行も、生々しいカメラワークで捉えられ、実際のエキストラの恐慌にちかい反応も捕捉されてゆく。暴行の場所の直截性と、一般人の外延。菅田はその中間にいて、一般人の対象化、柳楽への励起、そしてその記録化(ケータイの動画撮影)をつづけている。この中間性の位置が道化の位置だ。ところが最外延にいる一般人たちが、菅田を上回る量で、この惨事をケータイに記録しつづけ、のちにそれがネット上で暴発、直截的な暴力とは次元の異なる暴力を映画内に組織することになる。この作品の第一のクライマックスが、キャバレーのシーンと並行モンタージュされていた。
しかしなぜ(第一の)クライマックスなのか。そろそろひと足が退けてきて、店舗もシャッターを下ろしかけているその松山の繁華街モールは、道幅がもとは三車線ていどあったほどに広い。空間的には空漠としている。大人数が走り抜けるなどしなければ映画的光景を現出できないだろう。それを真利子演出は、柳楽・菅田の無方向への挑発・殴打、ならびに群衆の取り巻きの位置関係を捉えつつ、暴行場所をゆっくり移動させることで映画的に変えた。もちろん空間は人物のうごきによって活性化する。人物たちはからだ全体で空間をうごくのだが、そのうごきこそが空間を愛に目覚めさせる愛撫なのだった。だから「映画的には」この場面で無差別暴行と愛撫との同時共存という矛盾をみなければならない。
人物的には、この作品の真のディストラクション・ベイビーズ――柳楽、菅田、小松はそれぞれ対照的な生成過程をたどる。「対照的な三者」は二者の対照とはちがう。「三」は全体で、その内在域が分割を蒙るときは、二者による時間―空間の並行性にたいし、相互の角度を微分して、いわば「結晶」が現れることになるのだ。柳楽は至純な肉弾暴力の行使者、目的のない者の怖さが一定している。菅田は興奮と多弁により、柳楽を自身に「装填」「着用」しながらも頽廃を遂げて、暴力が通常予定する「自壊」をかたどってゆく。悲劇性は彼にこそある。小松は、万引きだの、世間への嘲笑だのの「悪」を担わされながら、ずっと実質的な発語がない。その彼女が殺害という暴力を行使できる至高性へと急速に生成してゆくのだ。むろん窮地に陥ったこと、さらには軽蔑と怨恨という強烈な感情が発条になっている。
「ありのまま」が映るこの作品にはきれいなものが実際は存在していない。小松の容姿が美の範疇に入るようにみえるが、その邪悪なまなざしが阻害要件となるだろう。ただひとつ小松のまとう薄地、花柄のガーリーなワンピースの、布の質感だけが、作中の脅威のようにうつくしいのだった。
徐々に作品の作劇の真芯、ならびに結末にふれてゆく気色となるが、未見のひとのためにディテールの記述を抑制したい。モール街の無差別暴行ののち、同様の手口の「四国制覇」を興奮した菅田が欲望する。それは逃走と神出鬼没と攻撃とをリズミカルに反復させることでしかない。隘路に嵌るのはわかりそうなものだが、菅田はそこに自分たちの未来の栄光をみている。彼はバカで、いよいよその昂奮が多弁に拍車をかける。彼らにとって逃走手段にクルマが必要になり、それで運転手を殴打してクルマを強奪する展開となる。このときそのクルマに乗っていたのがキャバレー勤めを終え、帰路につくはずの小松だった。小松と菅田はここが初対面だが、柳楽とはじつは三度目の邂逅で、いわば反復が反復され、合流ができたかたちだ。これは音楽的な躍動とよべるだろう。
もともと科白発声が稀少な柳楽。自壊に向かうためにうんざりする多弁化へと傾斜してゆく菅田。それらにたいし車外の暴力をまのあたりにしてクルマとともに暴力の搖動を恐怖裡に味わったのち、車内にいわば「保険=人質」として拉致された小松は、当初、後部座席にガムテープで後ろ手を縛られ、口も封印され、物理的な沈黙をしいられている。ところが俳優は発声のみならず動作でも発語をおこなう。悪と驕慢に汚れた小松は、ふとしたすきにガムテープを口から外そうと躍起になり、実際に口から半分ほどガムテープがめくれ、そのとき隠しもつケータイが鳴って、通話マークを舌で押そうとするアクション主体となる。だがケータイは残酷にもその瞬間に電源切れとなった。
ひそかにガムテープを外し、隠しもっていたケータイで助けをもとめようとしたこの小松の「陰謀」が菅田に露顕、その怒りを買って小松はクルマ後部のトランク内に「収納」されることになる。トランクに入れるその前後でようやく拉致したそのキャバ嬢が美形だと菅田が認める。この菅田の迂闊さが興味ぶかい。前言したように菅田はもともとフェミ男で、しかも自分の華奢さにつうじている自己愛者だろう。それが暴力の至純さに憧れ、罹患し、通りすがりの女子高生を殴打するなど、自己の隣接領域へのミソジニーを発現させてゆく。菅田にとって、女性的身体は、自分自身を別にすると「遅れて現れる」。だから小松の美形ぶりにも気づかない。それに気づくのも小松の夏着のワンピースの柄がきれいだったからで、まず彼は小松の胸をワンピースの布ごしに撫でるのだ。第一義的な位置にあるのは、服のしたにある乳房ではなく、布そのものではなかっただろうか。
いっぽう柳楽は女性美というものには不可解といえるほど興味をしめさない。ただしのち小松が菅田の陰謀にしいられて郊外の農村で農夫を轢き、その瀕死のからだをトランクに入れる苦行を菅田にしいられたとき(本質的に脆弱な彼は手伝わない)、農夫の突然の眼ざめに「激昂」、それを怒号とともに撲殺してしまう急展開となる(このときのおおむねは音声による間接表現)。途轍もない暴発を成し遂げた小松が青ざめて車内の運転席にもどったとき、「どうやった?」と柳楽が二度訊ねる。「悪」「暴力」を敢行したときの充実について訊いているのだ。つまり女性自体に興味をしめさぬ柳楽は「女性の悪」についてなら性的な欲望対象となるのではないか。これが作中、ひそかに戦慄したディテールだった。
監督真利子哲也は、基本的には柳楽の位置にいる。その証拠――クルマの後部トランクに反逆心をもつと露顕した小松を菅田が「収納」するとき、収納の途中からたぶん小松のうつくしさ(それを彼女の逆境が倍加している)に惹かれた菅田が凌辱行為に及ぶ。ところがそのディテールは小松の女優価値もあるのか描写されない。就眠準備にはいった助手席の柳楽が捉えられるだけだ。その姿が間歇的なリズムでゆれることで、クルマ後部での凌辱が示唆されるが、それも早々にカット変換がなされてしまう。監督もまた小松の女性美に興味がなく、その悪に興味があるだけ、というように。詳しくは書かないが、このあと小松は何重の意味での決断的存在となり、何重の意味での悪/暴力を完遂し、いわば至高性へと到達する。感動的だった。
ディストラクション・ベイビーズという「複数形」が画面的にたしかに成立するのは、逃走的犯罪者たちが拉致対象とともにクルマを発車させ、ロードムービー過程を開始するそのときだ。「三」を「全体」とする擬制が成立、それが暴力の至高点にむけ三様の微分を開始すると前言した。ところが真利子演出はそこから引き算を採用する。「三」の全容をしめしたのち、そこに誰かが映らない「二」が出来することで、のこりひとりについてのサスペンスが起こり、それがそのまま物語の進展に拍車をかけるのだった。作品のおわりは「柳楽がいない」局面が連続し、それが不穏さを湛えるが、「小松のいない」局面のみ、最後にしるしておこう。
さきに部分記述した農村の場面。昼間の農道ともいえる場所に強奪したクルマが停まっている。50歳くらいの農夫が激しく柳楽に怒号をぶつけている。なぜ何も悪いことをしていない自分の息子を一方的に殴打したのかと。その剣幕にやれやれと対応するのは柳楽ではなく、菅田のほうだ。卑劣な彼は、相手の年齢と体力を推測、楯となったのだった。ちなみにこの前に起きたのが、小松のトランクへの収納だった。画面は燦燦たる夏の陽光と、うだるような暑気の気配をつたえている。その小松が一切、画面上に存在していない。まだトランクのなかにいるのか。熱中症で死んでいるのではないか――そんなサスペンスフルな不安がわきのぼる。
農夫を腕力で制圧したのち、やけくそのようにトランクの扉を菅田がひらく。鬢の毛が汗ではりつき、衰弱した小松がうつくしい。やはり熱中症で瀕死の状態にある。ところが女性身体にたいしリアルな把握のできない菅田は、その窮地とうつくしさの共存に気づかない(これまた興味ぶかい欠落だ)。「運転しろ」とだけいって小松を引きずりだす。朦朧としている小松。やがてからだをうごかす力があるとおもむろに自覚にした小松は、運転席の前に挟んでいたミネラルウォーターのペットボトルを呑むためからだを躍動させて走り、それを一気飲みする。脱水と体温上昇で瀕死だった彼女の、「生の本能」がとらせた反射行動だった。このあとの彼女は、菅田に「アクセルを踏め」と怒鳴られて農夫を轢くまで、世界把握の不能、混迷、自意識の未点灯といった諸状態のなかを浮遊している。このときもうつくしかった。
このあとの場面の記述はおこなわない。予測不能性と予測可能性が縒り合わされ、緊密な作劇がつづいて、最後、見事に「ディストラクション・ベイビーズ」というタイトルが画面に大書され、戦慄にみちびかれるとだけいっておこう。柳楽、菅田、小松には、それぞれまったくかたちのちがう見せ場がある。しかも音楽。フリージャズ・プレイヤーと共演する向井秀徳のパンキッシュ・アンフォルメルな多重ギター中心の音楽はもともと作品の暴力と同調して作中に効果的に流れていたが、エンドロールに流れる向井の弾き語りも、鳥肌が立つほどすばらしかった。
――5月24日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。
創成川
【創成川】
着想を八行にくぎってゆくのだから
はじまりとおわりはかくも頻繁で
その日ごとは始終についての練習を
ただおこなうからだがわたげしている
「それはもうけむりだろ」ちがう
もちろんかたちなきはからだの危機で
うまれなおすためにうごきをおもい
ならぶ八行、日ごとのぽぷらへむかう
やまぶき
【やまぶき】
やまぶきいろのそぐうひとがすきだ
ゆうやけに映えひときわ炎えるからだ
あるものがなるものへかよいだすと
かまいたちさながらそのめぐりがきれて
したたりをはじるそんざいのむこうも
ゆれうごくのみのこわいやまぶきとなる
「ものどうしから色価がにじむのだ」
諸々の位置すらすでにそのひとだった
調律
【調律】
川「倍数はとおくへと層をなして
そとのうちがわをせせらぎする
おぼえるのはとなりあうものみなが
それでもはなれている充満であり
あれらこそを調律とよぶべきだろう
ことばどうしも起点より倍数でならび
みずをわけながれゆるくつながって
声をもつそのモナドがかなしい」
島が言う
【島が言う】
島が言う「わたしほどりんかくが
ひたされつつめだつものなどいない
このいきのこりはみどりを戴き
ゆっくりとあらわれつづける
ちかづかなければ沖の領分にあり
しかも洗浄が翻訳と似てくるのなら
ひとりぼっちとはあらわれつづけ
そらと海のあいだをうけわたしする」
追う
【追う】
おわりにておもいだされるひとは
ときのふちどりをあまくうけていて
はるかふかくみずへしずむ紙さながら
こわれながらひかりかえすものだし
こんなおそれあって傷みつくすに
あたいするうごきもくりのべてゆく
そもわかれゆく腑を追うのだから
ひろげられるとおさへかようだけだ
峡中の歌
【峡中の歌】
あるひとをきらいになりこころ
まずしくふかくうれいさまよった
こころのままみおろすひかりの川も
ほそくてただすみとおるだけで
すくなくあれとはいったいどんな
遠望からのぼりわいてきた命題なのか
やがて川がつちとみわけのなくなる
おわりへの脚だけをかなめにした
道南的
【道南的】
「はるのさなかあわい譲渡をちりばめて
一帯のまんなかに身をかくす地主」が
おとずれてゆくはるかへほのみえる
桐の北限地で桐とともにふかくあって
ともにあるおんなたちもなかばみえない
かずがふえれば花のむらさきの筒が
楽をわたらせてにおいある下方ができ
上下をわたくしする地主はうかんでいる
銀河
【銀河】
まやみへはいりみつめあいだしたそのまに
かぞえうるくみあわせがひとめぐりして
もう一万年の経ったつかれでしびれるのは
からだにもめぐりといえるものがあるためだ
かたみの眼にはむすうの箔のごときが舞い
よわいのもとからふくむ空前まであらわれて
「ときのまは捕食のつながりで浸食され」
いりちがうみつめあいがかおだちをけずる
瀬々敬久・64
【瀬々敬久監督『64―ロクヨン―前編/後編』】
本日の北海道新聞夕刊にぼくの連載「サブカルの海泳ぐ」が掲載されています。今回串刺しにしたのは、先週、満を持して公開された瀬々敬久監督『64―ロクヨン―前編/後編』と、原作・横山秀夫にかかわるいろいろ。この連載は三題噺形式で、本当はその瀬々映画と、その映画の中心となる出演陣・佐藤浩市、榮倉奈々、綾野剛がゲスト出演した情報エンターテインメントバラエティ「ジョブチューン」、さらには映画の公開前に映画の製作母体TBSが放送した2本の「月曜名作劇場・横山秀夫サスペンス」中の『刑事の勲章』を三分割フィーチャーしたつもりだったんだけど(いってることがややこしいね―笑)、映画版の説明の前提として導入した去年のNHK土曜ドラマ『64(ロクヨン)』の部分が、「ジョブチューン」にかわり、見出しにつかわれてしまった(異例なことにいつも見出しは三本立てとなる)。
NHK土曜ドラマ『64』はおそらくドラマ史上の白眉。警察内の警務vs捜査一課の葛藤と、県警広報課と記者クラブの「情報戦」対決が複雑にからみながら、しかも昭和64年の誘拐事件と平成14年に反復される誘拐事件が主題になる。緻密で重厚な原作小説を、NHKドラマは見事に演出した。光量の少ない画面と、フラッシュバックを多用する時制不安により、一級のノワールドラマとなっていたのだ。とりわけ主演の県警広報官に扮するピエール瀧が、その持前の異相(しかもその面皰痕までもが照明で強調される)をつうじ、ハードボイルドな物質感を醸しだしていて、TVドラマの主演発想としても画期的だったとおもう。ブルーレイボックス化されているので、未見で興味をもたれたかたはぜひ。
ともあれそれほどのTVドラマと対決するのだから、瀬々監督のプレッシャーはたいへんだったとおもうが、彼は見事にはじき返した。ピエール瀧の演じた広報官は、映画版では「情」の濃い変化が心を打つ佐藤浩市が演じ、彼を主軸に置いたことで、作品全体が大スケールの情動シンフォニーになったのだった。もともと瀬々敬久は傑作『ユダ』などで利根川周辺に拘泥している。先鋭で現在的な「風景論」の映画作家といわれる彼は、今回も利根川の川筋を活写しながら、エキストラの数とともに、風景論の起動で、TV版のもつシャープネスに対抗し、見事な映像の流れをつくりだした。「夜」の導入、「水」の横溢もある。何よりも冒頭の昭和64年の誘拐事件で、犯人の指示にしたがい移動しつづける誘拐事件被害一家の父親と、それを追尾する警察車両が、ドローン空撮でとらえられて、わくわくした。ドローン空撮はヘリコプター空撮とは質感がちがう。吉本隆明のいう「世界視線」が、ある虚点的な仮定から出現することで、地表にかかわる転覆力をさらにあらわにする、といえばいいのか。
横山秀夫の警察リアリズムを芯に置いたサスペンス小説は、もはや松本清張の社会派リアリズムサスペンスから完全に覇権を奪った。同時代性に拘泥した清張小説の「昭和」はもはや「時代劇」としてしか現出できない。判明する犯罪動機の社会因果論、あるいは還元主義は、「人間」のもつ不定形な恐ろしさに肉薄できず、昭和の最後の十五年間の「内出血」型犯罪(by朝倉喬司)を捉えそこなってノスタルジー化した。
横山秀夫はどうか。横山はたぶん昭和の最後の十五年に起こった「犯罪の脱因果論的な変質」を基盤にしている。しかも推理を優秀な刑事による一本線にしない。むしろ警察「組織」の内部的葛藤と、犯罪自体の内部性が相似だとしめすために、時代設定が現在からすると十年以上前のものであっても現在性をたもっているのだ。ただし清張にしても横山にしても、リアリズムが「展開の目盛のこまかさ」からくる点はよく承知されている。この意味で絵画的リアリズムの細部は、ドラマという時間芸術へも転位できるのだ。「こまかいものが気持ちわるい」という感覚論のその一点において。上毛新聞の記者時代に横山が知ったのは、警察組織のこまかい内部的な区分けだけではない。リアリズムのもつ内部性の、臓腑的な連関の繊細さもあったはずだ。
松本清張の小説を完全に現在時に単純潤色するとたぶん享受者に感覚的矛盾が起こる。小津映画を現在時に設定を替えてリメイクできないのと同断だろう。横山秀夫はどうか。「組織のきしみ」を描く点で現在時に簡単に応用できると一見おもえるが、そうではない。昭和の最後の十五年に兆してきた不気味な変調は、いまや実感が難しくなっていて、それを摘出するためには、昭和64年、それに呪縛された平成14年という微妙な時代枠がやはり必要なのだった。むろんその変調が現在に内出血の痣をあたえている。だからこそ「痣のリアリズム」というべきものがそこに出来する。
そうかんがえてみると、横山秀夫の小説を映画にするのに、瀬々敬久ほど適した人材はいないともおもわれてくる。瀬々は平成元年にピンク映画の分野でだが、商業映画デビューした。彼のいとなみは時代論的な視野にかぎれば単純に約言できる。昭和が昭和天皇の霊力によって封印してきたものを、平成へ露呈させて、分裂やら分離やらを不整合やらを映像にもたらし、多時間的なアレゴリー(ベンヤミン的な意味)をつくりだすことがそれだった。瀬々もアレゴリカーにしてメランコリカーだった。その資質が横山小説の深層と同調するのではないか。たしかに瀬々は「昭和」として『64』の平成14年を撮っている。
「大規模映画」を商業ベースで撮らされる監督には不安がつきまとう。ニコラス・レイの悲劇などが脳裡をよぎるためだ。ところが「細部」によって「全体」をつくり、しかもそれを流動させてゆく瀬々の堂々たる演出はどうだろう。『感染列島』よりもさらに『64』は部分→全体の連絡が緻密になったが、俳優陣の「座長」として佐藤浩市がもたらした一体性が今回はおおきかったかもしれない。
けれども監督の「空間」にかんする感覚のするどさも忘れるわけにはいかない。前編は、広報官の佐藤浩市が「原則実名」の情報提供を自分の首を賭けて地元記者クラブの面々に約束し、なおかつ「補足」により交通事故で死んだ老人の地味で不如意な一生を語った会見場面がクライマックスだった。このときの「空間」もすばらしかったが、平成14年の誘拐事件が起こり捜査本部がたちあがったため、署内の各部署ががらんどうになったすがたもすごかった。まだ何も描写されていない大スペースの捜査本部のもつ予感性も。後編には「階段昇降」「特殊捜査車両への佐藤の同乗」といったさらに空間的な見せ場が用意されているはずだ。前編はそうした後編の「爆発」に向けての緻密な導火線だったといっていいだろう。いまから6月11日の後編封切りをおもって動悸している。
法師
【法師】
ひとしずくひのきの香水をふくみ
ひとからはずれているのをうべなう
あぐらとなったからには琵琶をいだき
うつむいてほのあかるかまえみなを
あだなみのとおるあばらにしてしまう
「とどかないのがうたごえ」とは
あんなあめつちのさかいをいうのか
うたえばあでやかに視力もおちる
黒沢清・クリーピー
【黒沢清監督『クリーピー・偽りの隣人』】
黒沢清監督の『クリーピー・偽りの隣人』がすばらしい。もともと前川裕の原作『クリーピー』に黒沢テイスト的な細部があったのだろう。黒沢監督と脚本の池田千尋は、原作の前半を中心に物語を再構成、2時間強の全体におさめるよう作劇を磨きあげた。
「隣人ホラー」と一括されてしまいそうだが、たとえば現在TV放映中、ユースケ・サンタマリア主演の『火の粉』などとは成り立ちがちがう。「隣接」が「合致」する瞬間の、形而上学的な恐怖が熟考されているのだ。隣接原理が換喩、合致原理が寓喩だとすると、黒沢の演出では換喩的寓喩、あるいは寓喩的換喩が映画にどうあるべきかが追究されている。細かい作品分析は劇場公開時にもういちどみてどこかの媒体用におこなうつもりなので、以下はメモ書きていどで思索ポイントを列挙するにとどめる。
西島秀俊は四年前までは刑事で、しかも犯罪心理学者的な傾向をもっていた。彼は、興味ぶかい「症例」として取り調べ中のひとりのサイコパスの聴取をおこなっていたが、署内逃走をゆるし、結果的にそれが大惨事となる。ひとりの一般人の死、西島自身の負傷、さらには当該サイコパスの射殺を招いたのだった。「刑事の蹉跌」から一切がはじまる点で、『クリーピー』は『カリスマ』と同様の端緒をもつ。となれば以後の彼は「世界の法則」と直面せざるをえないだろう。
物語は、ふたつの層を縒り合せるように――つまり軋むように、進展してゆく。配合、不整合、分裂、合流予感といった原理的な「物語恐怖」に肉薄しようとしているのだ。まずは日野の一家三人失踪事件(未解決)に、大学へ犯罪心理学者として赴任した西島が、学術的な興味をもって接近してゆく(その家族はもともと四人で、8年前の事件当時、修学旅行中だった娘〔その現在が川口春奈〕だけが失踪対象から除外された)。川口は事件の衝撃で記憶が間歇化していて、事件発覚当時の聴取では脈絡あることがいえず証言能力なしと結論づけられた。その意味で統合失調症者の色彩を負わされている。
ところが現在の西島が接近すると、記憶が部分的に再生されている。よみがえってきた光景は家族が「誰か」と電話で話していたときの切迫したようすに集中している。〈「誰か」とは一体「誰か」〉という再帰的な命題が、そのまま作品の使嗾する「世界法則」をふくんでいると気づく必要がある。
西島は妻・竹内結子、総毛が目を覆う大型犬マックス(彼は「映画の犬」だ――うごきを非人間的にくりかえす)とともに、大学への通勤の便からか、「四年後」(ここが映画の現在時制となる)には都下(「稲城市」と作中設定される)の一軒家へ引っ越していた。しなければならないのが隣人への挨拶。最初は隣家へ西島・竹内が連れ立って訪れるが、呼び鈴を押しても応答がなく不在と判断、翌日に竹内が単独で再度挨拶にゆくとまたも応答がなく、挨拶のチョコレートを入れた紙袋は門扉につりさげられる。このとき、「遅延」の感覚をもって香川照之が登場してくる。
絶妙の演技と形容するよりも、その演技の異常事態を指摘したほうがいいだろう。不機嫌と上機嫌。恫喝と寛容。それら相反するものを奇妙な間合いで点滅させ、その「点滅」状態でいわば対象を催眠性にまで陥らせる香川は、まさに『CURE』の萩原聖人に似ている。端的にいえば「発語が行動と一致していない」。彼のメッセージは、内容というよりもそのシンコペーションのリズム様相にこそ集中してしまうのだ。観客は確実に呑まれる。恐怖はひとまずリズムの「不規則な規則性」から生じると、身体的な確認を促されるのだ。
この「発語と行動の不一致」は、大学の研究室(なんとガラス張りだ――講義教室もそう)に助手・戸田昌宏、警察時代の同僚・東出昌大とともに川口春奈を迎え入れ、彼女に失踪事件を再想起してもらうときにも生ずる。奇異なことに、彼女は座った安定状態で話そうとはせず、発語中絶えずうごきまわるのだ。それは失踪事件の重要項目や関係図をしるしたホワイトボードに向かうためとドラマ上の方便が与えられても、動作の開始が無媒介だから、統合失調的な「浮遊」「発語と行動の不一致」を印象させる。しかも満を持したように撮影の芦澤明子の十八番、光量の非現実的な変化がそれに伴ったりする。
「発語と行動の不一致」は、画面上は「信憑と現出の不一致」へとずれるだろう。ひとつ例を出せば、自身にサイコパスのおもかげがわずかににじむ西島は犯罪例を嬉々として学生へ語る。その階段教室も、この少子化時代にはありえないような聴講満席状態となっている。ガラス張りの研究室のむこうではたえず大量の学生(エキストラ)がうごいていて、しかも画面奥行きにもピントの来ているパン・フォーカス状態、ゆえに学生の挙動にも眼が行かざるをえない異様な多元状を呈している。カブトガニをひっくりかえしたようだ。「世界はあふれている」――これもまた「再帰性」「ズレ」とともに、作品の「世界法則」だ。これらがすべて「悪」の属性を物語る点に、注意しなければならない。
「信憑と現出の不一致」が、「一致」をみせる映画的蠱惑も随所にちりばめられている。「場所」自体が犯罪的な瘴気を徴候的にしめしているとき、それが実際に犯罪の現場性をのちに証言するのだ。このために黒沢はお馴染みの半透明のビニール幕のほか、「ゴミ」「市街地の未整理部分」「形状のおかしさ」を活用する。これほど美術達成的な黒沢映画はこれまでになかった(美術は安宅紀史)。上述のように主舞台は日野市、稲城市と、どちらかといえば被差別的な都下の「非繁華地帯」となるのだが、人物が移動する「道中」には工事中の囲い、不法投棄気味のごみ集積部分など、かならず未整理性が悪意にみちて加味されている。
あるいは香川の隣宅の敷地が工事中の囲い(そのなかには用途不明?の鉄塔がある)が前にあるために奥まっていること、逆にかつて川口の住んでいた日野の一家失踪事件現場、現在は空き家のその敷地が、門扉部分が空き地へ不自然に突出しつつ、すべてが交差する鉄路のもとにあることは、そのまま「ヘンな空間じたいが恐怖を産出する」事例となっている。
自然状態なのに、そのなかに不自然が横たわっていること。これも「世界法則」で、これは詳述しないが、やがて香川の住む隣家が、その内部展開において予想不能の細部と連絡しはじめる映画的恐怖をも用意するだろう。ちなみに当初、映画では香川の一家は、父・香川と仲睦まじくみえる中学生の娘・藤野涼子、それとなぜか理由をつけられて顔をみせない母親で構成されていると紹介される。それがのち、香川を対象化して藤野が「あの人、お父さんじゃありません。全然知らない人です」と西島に宣告する事態へ移行してゆく。世界「成員」に不明性がはらまれている原理的恐怖。その恐怖のために、香川の「言動」はシンコペーションのようにぎくしゃくしているのだ。
詳しい物語展開は書かないが、やがて日野の未解決事件と、現在の香川の隣家の違和感に、時空を超えた同調が引き起こされてゆく。西島はあるとき、日野の一家と自分の一家が隣在をどう抱えているかで共通したトポロジーをもつと直観する。その映画的瞬間。これは「隣在が一致する」という点でなにかの溶解をしるしていて、言語学的・詩学的モデルでなら、換喩と寓喩の同時性が出来したことになるが、「隣接が距離をゼロ化されること」は「愛情の露呈」でもあるだろう。
結果、西島の妻、竹内は、なにか不思議な力をさらに加えられて、香川に完全籠絡させられ、抵抗意志を奪われてゆく。思考の不可能体=アルトー的な余剰、器官なき身体へと、存在ぜんたいが変容させられてゆくのだ。これを黒沢は端的な映画性で表現した。ふたつの身体が重なってみえる逆光構図をつかい、いったん竹内の輪郭を併呑させたのち、香川の輪郭から竹内の輪郭が不安定に溶出するさまを時間的変容として描出したのだった。むろん「重ね」(空間/身体)にかかわるこのような演出は『LOFT』の細部を踏襲している。
『LOFT』といえば機械性(とりわけ回想部分でのズレの復帰)だが、機械性一般は自動性のみならず、むしろ誤作動性をもって強調される。「発語と言動の不一致」「信憑と現出の一致/不一致」「換喩と寓喩の一致」「結果としての悪」といった作品上の現象的な命題はこの点にこそ集中しているのだが、誤作動はうごめき、それじたい生物的な気色わるさを喚起するだろう。
カブトガニを裏返して五対の触肢のうごめきをみれば、「悪」だとおもうだろう。なおかつ、カブトガニの体内組成では脳と心臓と消化器を分離できない。この融合性もまた悪なのだ。作中、こっそりやりとりする電話を西島に咎められたこともある竹内は、香川と親和状態になるにつれて疲弊してゆく。それで怒りにまかせるように剥いていた木の実をジューサーの攪拌にかける。そう、映画『クリーピー』では不一致が攪拌され、その最大値として日野と稲城が一致してしまう。だが一致は不一致でもある――これが作品の最終の「世界法則」だろう。
統合失調的なリズムで、隣接を「呑む」異様な「機械」だと徐々に判明してゆく香川は、悪の造型として現状の映画のいわば頂点にあるが(香川の役柄理解はすさまじい――同時に不一致の奇妙さは彼に対峙する西島にも、竹内にも、香川の「娘」・藤野涼子にも、やがて作中に顔を出す香川の「妻」最所美咲にも、さらには西島の「研究対象」川口春奈にも、飄々としてみえてそうではない刑事・笹野高史にもみんなある――驚くべきことに)、作中、最もショッカー演出を形成するもう一軒の隣家のガス爆発も、不一致の一致であると同時に一致の不一致なのだった。忘れていた隣家領域が「再燃」するためだ。
もともと映画ではたとえばロング位置で人物同士が何かわからぬ動作を規則的に繰り返していれば、それが寓意的にみえる。黒沢的映画演出の発端はそこにあった。人間というか生き物は、その意味で機械にして脱機械となり、そうしたものの最も崇高な原理が誤作動だということになる。さらにいえば空間的な隣接は決してもともとの寓意ではない(これをたとえば前述『火の粉』は誤解している)。ところがふたつの隣接状態がさらに隣接してしまう寓意を映画『クリーピー』はえがく。そうして換喩と寓喩がつながってしまう機械状、それが一種の頓挫か膠着として成立する。このことが現在映画的な強度ともなる。『CURE』『カリスマ』『LOFT』、そしてこの『クリーピー』はすべてその系列上の作物なのだった。
悪の最強造型である香川扮する「誰か」は、隣家の本当の父親ではないとやがて判明する。出自や始原を欠く者、「一致の不一致」。このとき香川は「相補的に」、「不一致の一致」をも分泌しなければならない。それが誤作動の帰結で、ゆえに「殺人を自らおこなわず、かならず代理者を立てる」億劫さを現象させてしまう(これを臆病さと理解した西島は、事の本質の把握に、どこかで挫折している)。実行性ではなく代理性を猖獗させる者は、単独の恐怖を陰謀的な連鎖へかえる増幅をおこなう。フリッツ・ラングのドクトル・マブゼ、さらには『CURE』の萩原聖人がこの系譜だが、そこに「悲劇的に」、『クリーピー』の香川が回収されてしまうのだった。
その香川の「慢心」を作品の終結部は攻撃する。しかしそれは「とってつけた」ようにおもえる点で、「悪意」ある描写になっていないか。解決感がありながら、同時にバッド・エンディングでもあること。これもまた「一致の不一致」「不一致の一致」といっていいだろう。いうまでもなくこのことはニコラス・レイやサミュエル・フラーをはじめ黒沢清の親炙する50年代ハリウッドの呪われた映画作家たちの特徴でもあった。
黒沢清は復活した、実にクリーピーな(薄気味わるい)映画運動の物質性によって。6月18日より全国ロードショーされる本作を再度観て、さらに画面展開を具体的に起こしたい。5月12日、札幌プラザ2・5の試写会にて鑑賞。
讃歌
【讃歌】
はなのわずかにのこる葉ざくらが
よろこびのような混色でゆれる
どんなまだらがひそむかわからぬ
そのかこいのそのひろがりをも
ひとがゆきかうのはふしぎだった
「あることがあるという二重肯定が
ものみなのすきまに緩衝をなし」
日はからだをともなって雌熟した
穴が穴を
【穴が穴を】
「生命論のほうへすこし軸足をうつせば
らたいのようにあたまのなかが繁茂した」が
やはり花鳥風月に魚のいないのが嘆かれた
おおい、つりびとらのかくもののそこぶかさ
ぽせいどんのいないさみしさへまむかって
あながあなをみているとかんじていると
「みずからくろいなかみがひきあげられる」
のんでいるスープもみずみたいにかげる
かげろう
【かげろう】
きのうをいきたあつみがあって
ほのおのからだがくぐもっていたので
円くかけられた橋をわたるときには
そこからやまぶきがこぼされてみえた
「細部を反射して物語はかさなる」
うつくしさは自分の膝ののこる後方を
ふりかえりながら真円をかたどり
相似に実質がきえるまでゆらめいた
血風録
【血風録】
殺気あふれるななめをかんじさせて
えだぶりのよいとおくの桐などは
ゆがむすがたに背後をおおくふくみ
つみとがのおちてゆくならいだ
ものかげやほうぞうをかかえない
全裸の幹へやがて添うていると
はじめにここをみとめた窪もみえて
直立とちがう乱心がのぼってくる
通夜
【通夜】
たったひとりの客というなら
やがてのきみの通夜にはゆこう
てもとがさけてつらかったんだろう
なきがらへそう語るかもしれない
あしびに酔った並み足のさきに
くだりゆくまちがよるをひろげて
高低をつなぐだけの連夜の坂も
そらへふれるつやをつたえた
近況・五月二日
【近況・五月二日】
今月(5月号)の「現代詩手帖」では、阿部執筆、あるいは阿部にかかわる、以下の記事が載っています。
まず、特集「江代充が拓くもの」では、「事前と事後の、幸福な浸透」という記事を書きました。江代詩における時間の特殊構造、さらには主客一如の空間性について言及したものです。詩論集『詩と減喩』では大きなスペースを割いて書き下ろし「江代充について」を収録しているのですが、現代詩手帖での論考は、『白V字 セルの小径』までに限っていた、その書き下ろしでの江代詩の対象領域を、『梢にて』『隅角 ものかくひと』にまで延長しました。よって論旨、対象に重複はありません。
連載「詩書月評」では、「瞬間の王は死んでいない」と題して、フレーズに瞬発的な印象のつよい詩作者たちを連続して考察しました。扱ったのは、以下。
・瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海end.』(書肆侃侃房)
・榎本櫻湖『metamusik』(私家)
・松本秀文『環境』(思潮社オンデマンド)
・大野南淀/藤本哲明/村松仁淀『過剰』(七月堂)
・青石定二『形R』(現在実験箱)
とりわけ藤本哲明という新鮮な才能をフィーチャーできたのが意義ぶかかったか。瀬戸夏子については、いずれ時間に余裕のあるとき、歌をピックアップして「詳細味読」をやろうとおもっています。大好きな才能なので。
時里二郎さんは、「現代版よみ人知らずの詩学」と題して、ぼくの詩集『束』『空気断章』を書評してくださいました。詩人のアイデンティティをぼくの詩篇からは析出することができない、「詩人の時代」の終焉を詩集が告げている、というのが時里さんの書評の趣旨です。とりわけ嬉しかったフレーズを抜いておきます。
声に出して読んでみると、実に耳触りのいい音楽が鳴っている。明らかに、調和に満ちた和声的な操作がほどこされている。このハーモニーは、和語とひらがな表記を意識的に行うことで生まれていることはすぐにわかる。つまりは、音韻的な流れを意識したリズムを詩の骨法に据えて、言葉の意味内容の方はそれに従属している。
しかし、ただ「従属している」だけではない。言語規範を突き抜けた特異な言葉の流れが、ひらがなの音楽に鞣されてみると、実にみずみずしい、今まで経験することのなかった音韻と意味のたゆたいがかもしだすふしぎな意識のほぐれを経験する。
――札幌は昨日からさくらが満開。今日は授業日ですが、あす以降、来札している女房と歩き回ってみるつもりです。