ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ふれる

 
 
【ふれる】
 
 
ゆうぐれはしずかに尾行してごらん
あしあるひとのなかばもかすみだすから
美にこがれむねをかきみだしてごらん
ついにたたずんだそこがとおさにひたされ
そらからの垂線できずだらけだから
ひとのきえたむこうだって垂線の足並み
ものを者がまようと空間でたかさがならび
はなれあう柱状グラフがほしへふれる
 
 

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2016年06月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況6月30日

 
 
【近況6月30日】
 
このごろは原稿掲載報告をするのも、手柄自慢めくので、なにか億劫になってきているのだけども、いちおう――
 
中部圏を拠点にする芸術批評誌「リア」では、「ちょうど良い詩がちょうど良い媒体に発見されていない」を書いています。たまに依頼される「ネットと詩の関係」の最新版というところ。みじかい詩の必要をさまざまな観点からしるしています。
 
「現代詩手帖」7月号の詩書月評では以下の詩集をとりあげました。
・岩成達也『森へ』
・手塚敦史『1981』
・荒木時彦『要素』
・稲垣瑞雄『点滅する光に誘われて』
岩成達也『森へ』に多くの字数をついやしたのだけど(原稿では「身体」に話題をしぼった)、神学的な認識論についてなど、まだ書くことがいっぱいあります。どこかでご縁があればさらに書いてみたい。
 
いずれの雑誌も、巻頭や特集が吉増剛造さん。そういえば「図書新聞」も一面が吉増インタビュー。大洪水、というかんじです。もちろん帰京したら、東京国立近代美術館の「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」に行かなくちゃ。ぎりぎり間に合う。ということは、混んでいるかもしれないですが。
 
 

2016年06月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

浸潤

 
 
【浸潤】
 
 
ふりかえったら顔のとれたおんながいた
ころがるけはいなく顔をもちあげていたえりを
くんぷうがとおりぬけくろくなつかしかった
なみだつ木々とともにさだまらぬおんなは
からだを幹や枝へかえそれじたいへゆるがす
これゆえ箔すらいらないとむなぢがつげて
たちいにすきまのなみだつのもおんきょくめき
あたまなくえがかれたすえめぐりへあふれた
 
 

2016年06月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

比翼

 
 
【比翼】
 
 
あいだをつくるようにたたずんできて
それをもちいもろもろを類比した
ふきつなほどうつくしいおんなと傘
眼路のふたつなど比翼の鳥へかえ
あめつちつきるはてにとばしてみせる
ひとつのからだではできていないことで
ひとつことが発色されてしまうのか
ひとのよは比翼もそうおとろえて
 
 

2016年06月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

おんじき

 
 
【おんじき】
 
 
くだものを食むまえうすさにむかい
くちづけているごくわずかな不意があり
このすきまにこそひかる蜜がながれて
もののちかづきへととけあってゆく
どこからがくち、どこからがおんじきか
かたちをうばうわたしらの歯と舌は
みずからとのとおい接触にも出逢って
よわくなりながら崩壊をひびかせる
 
 

2016年06月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

髪うごく

 
 
【髪うごく】
 
 
首「ヨハネにおいて先行者と洗礼者
このふたつがおなじうなることは
水できよめられたひとらの髪が
こしかたのおくにゆらめくようで
よるだん川の斬首もおもいえがいた
つばさ「みずがあたまへそそがれ
ゆくすえやわらかくほねにみちると
思いより髪のさきゆくひじりがきえた
 
 

2016年06月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

こぼれる

 
 
【こぼれる】
 
 
るいじゃくするせんだつを
だきあげてまぢかにする
この巨鳥のようなおとろえは
うでのなかに空をみせるだろう
「羽根がぬけおち現れるのは
それまでしられなかったほし」
おけとおなじにかたむければ
てもとへふかいあおもこぼれる
 
 

2016年06月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

寡婦

 
 
【寡婦】
 
 
つれあいがきえかたわれだけのこれば
みずべにひとりみが棒となっている
やわらかい捺印の接触がそのひと
おんな名にかぶされたつれの苗字も
みちひきするよわいみぎわだから
おされたこしかたなら人定を潤すが
なみのかぞえかたで対をまどう夕には
あるぺじおのなかみほどなみがふくらむ
 
 

2016年06月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

冥途みやげ

 
 
【冥途みやげ】
 
 
すでにしてふたりぶんがきえ
旧知と会う目盛も二・五だから
霧ぶかい永訣にはいつだって
よぶんなものをひそかにてわたす
さぎりなすひととよばれるが
めのおくにしろさのわたるだけだ
みながさってもこの世はのこる
そこへたどりついた客として
 
 

2016年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

句点

 
 
【句点】
 
 
ひとけのなさにもろうそく犬が臥して
つまりは黙想の法がのべられている
じぶんをとりだしかんがえるのではなく
じぶんをけすようにかんがえてゆくと
けっきょく「。」がすがたとわかる
おとをけしても遠近などざわめかない
火が「。」をゆらし犬のちぢむことのみが
なみだにも引き算の尖端をおどらせる
 
 

2016年06月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

釉薬

 
 
【釉薬】
 
 
やかれつくしときのまふかくかがやいて
あまだれを映すひとみだとおもえばやはり
みることにうわぐすりもかけられている
釉子という名のむすめはそのようにみやり
この世をうすくする雨へとゆっくりはいった
雨のすきまをぬれずにさまようしずけさが
やがてかのじょ珪素的な身から見目をうばい
とおくとぎれるものがひとではなくなった
 
 

2016年06月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

脱再帰

 
 
【脱再帰】
 
 
みずからにふれるのは口腔内の舌でも
くまれる脚でもまばたきでもあるが
やはり手が再帰のすがたをつくりだす
おもかげがそうなってしまうのをはじいり
ひろくひらくそでやえりへかぜをとおし
たたずむひとならとおい短冊でできていて
そのみえないひふで倍音がざわめくと
かおうつりのうらからも箔はふきあがる
 
 

2016年06月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

孔雀のともだち

 
 
【孔雀のともだち】
 
 
かわりのともだちをつれてくる
詩作上の換喩はそのようにはねるが
はじめにおもったともだちとは似ない
ことなりがかなしみまでもつように
まねきもあまのじゃくになされるだろう
にないみどりでくじゃくがゆらぎ
あふれるすがたがしだかれてこぼれ
有漏のおりもぬれてこそ檻となる
 
 

2016年06月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

水の布

 
 
【水の布】
 
 
そのひとがみずからをきらうかわりに
わたしがそのひとをすきになってあげる
そんなキアスムが同伴の旗であり
微速度でとらえられた水の布だとして
それでもくずれゆくみなは川のうごきで
ことなるみずをおなじにながしいれて
ちかいものがもっともとおいためにのみ
永劫をまわるひかりがちつへさすのか
 
 

2016年06月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

とうがい

 
 
【とうがい】
 
 
めはなのうしろににぶく頭蓋のある
にんげんのこうぞうがすばらしい
うすいあつみにうしろだてられ
刻々をかんかくしているすがたが
したたるものもてうちがわをみたす
耳目のうつりへうらがえるためだ
そことここはともどもせせらぎをして
ここにならぬひろがりでもみだれる
 
 

2016年06月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

箪笥

 
 
【箪笥】
 
 
ひかりがくるむ闇は肉体化する
ほそくなる傾向すらあって
事物の端ばしにゆれる光暈も
事物みなをおんなにみせてしまう
たんすをところどころにしていきて
へやぬちへ塔の遠近をひろげる
鳶職「あれらもくらいからだなのか」
内装屋「そのすくなさをどうする」
 
 

2016年06月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

吉田恵輔・ヒメアノ~ル

 
 
【吉田恵輔脚本・監督『ヒメアノ~ル』】
 
古谷実の(シリアス)マンガは映画化がしにくい、というのが定評だろう。コマ展開がスタチックで、第一局相では人物群が多弁(とくに抽象的な論議がこのまれる)。画力の質からか、人物の顔の特質(とりわけ異物性)にこそ作画の焦点が置かれ、その分うごきの描写が少ない。ポーズでは直立性と正面性が基調となり、そこに独特の立居の魅力=ストレートさが出てくる。強調されるのがアナーキーさまで帯びる羞恥心だ。顔の上気の斜線と涙の湧出、くちもとのふるえ。そこで読者はわらう。
 
古谷の第二局相では上記と離反する無音のコマ連鎖が夜間場面を中心にしてあり、そこから気味悪い幻想がすがたを現わすこともある。もちろん物語は長丁場で、その着眼は「現実にありえそうなズレ」=蓋然性をもとにしている。だから偶有的な人物が、そのまま物語の中心に巻き込まれ、物語と人物の布置が不定形に増殖、このことでいよいよ現実感がます。こうしたリアルな現実的ゆらぎを映画化が体現するなら、その映画自体も長尺化をしいられる。原作と同等の質感をもとうとするなら、『ヒミズ』『シガテラ』『ヒメアノ~ル』など古谷の傑作群は5時間くらいの厚みをもつべきだろうとおもう。
 
「顔のマンガ」である古谷的特質は、「顔のちがう」配役をはじき返す。多弁や長丁場も整除しなければならない。マンガとして充満していたものは、この条件下、映画としての不足を結果することになる。それで「改変」が画策される。
 
かつての園子温『ヒミズ』ではそうした要請から原作マンガを歪曲した。主人公「住田」の自殺で終わらない、東日本大震災に無理にむすびつけられた結末。演説を繰り返すヒロイン二階堂ふみも「茶沢」をまったく髣髴させない。映画とマンガでは物語の初期設定と空間が似ていただけだ。これが原作の映画化といえたのだろうか。90年代末期の学生にとっては、絶望的状況をある「不足」から自覚できない「住田」の、心変わりによる自殺は、こころの深層をえぐるものだった。原作は聖書化していた。それを園子温が改竄した。映画を観たその世代の幾人かは、偶像破壊に接して悲鳴を漏らした、とさえ語っていた。
 
俊英・吉田恵輔によってこのたび映画化された『ヒメアノ~ル』はどうだったのだろうか。そう問うまえに確認しておかなければならないのは、吉田が前作『銀の匙』で、荒川弘の原作マンガを理想的に映画化した事実だ。帯広を舞台とした、牧畜業をめざす若い男女たちのビルドゥングスロマン。その「成長」を、葛藤や失敗譚はあるもののスピーディな語りで描写しつくし、「成長」にともなう重力や斥力を慮外に置いた点が賢明だった。なぜなら、それらを正面切って描こうとすると、物語の推進力が「折れてしまう」脆弱さがこの時代を支配しているためだ。こうした徹底的な向日性の土台があったからこそ、「農」にかかわる諸局面を付帯的に作品は観客に啓蒙することもできた。
 
マンガのキャラクターの画柄は、映画の配役を疎外する。それは俳優の身体的な現実がマンガとは異なる、とうぜんの結果にすぎない。主要人物4人について述べよう。清掃員として働くブルーカラーの主人公「岡田」には濱田岳が起用された。幸福の実感をもてず、恋愛を夢見るこの童貞青年は原作では普遍性を帯びさせられ、悪に立ち向かうまではお人よしの無色無臭を結果している。ところが濱田岳はタイプキャストにみえてしまう。濱田には体形と顔の物質感がありすぎるのだ。
 
濱田の勤め先の上司「安藤」は、爆笑を誘う人気キャラクターだ。不細工さ、こじれて面倒くさい性格、執念とそれを自己瓦解させる無定見や惚れっぽさ、ならびに「アタマがわるいのに多弁なことによって、思考にリアルなゆがみを生じていること」。名手ムロツヨシは、エキセントリックな演技、奇妙なものの類型化を得手とするが、そのルックスはマンガのキャラクターに較べすっきりとしている。しかも科白を整除されて、凡庸な者の怪物性がほぼ消えかかっていたといっていい。
 
原作マンガにおける物語軌道は以下のように敷かれる。「安藤と岡田が親友になる」→「安藤が、喫茶店に勤めるまだことばも交わしたことのないユカを意中の(運命の)女性だと告白」→「告白を手伝ってほしいと安藤が岡田に依頼、ユカの勤める喫茶店に赴くと、そこに岡田の旧知の森田(高校時の同級生)がいて、森田もユカの動向を執拗にうかがっている」→「安藤に促され、森田に凌辱の悪意があるか否かを確認させられる岡田(もちろんそんな唐突な確認を森田は相手にしない)」→「ともあれそのようすから、岡田が森田の知り合いと見てとったユカは、岡田と安藤に相談をもちかける――ストーカー森田から、自分を保護してほしい」→「騎士役を請け合う安藤・岡田のふたり」。
 
安藤とユカの相愛の成就のためにしつらえられた場は、その場でズレて森田の存在を焦点化、しかも(経緯の説明を省略するが)岡田とユカの相愛、そのふたりにたいする森田の殺意の浮上、というさらなる横ズレをもたらすことになる。こうしたズレの増殖がまさに「現実感覚」=「実人生の感触」なのだった。古谷の話法はすごい。これにたいし映画版『ヒメアノ~ル』は直線状の因果関係に出来事が連鎖されすぎているといえる。方向性の分岐に打たれる余地がないのだ。
 
配役に戻ると、邪恋の悪意から庇護されなければならないユカは、古谷マンガ特有のヒロイン顔をあてがわされている(古谷マンガのヒロインの顔は、『ヒミズ』の「茶沢」を除くとひとつしかない)。健康優良児的な向日性、長身、のびやかな肢体、けれどもそれらに反する趣味の特殊性があり、打算から外れて恋愛相手を積極的に選択する。選択しながらも相愛成立までの恥じらいが尋常ではない。それらは古谷の「理想」を体現する半ば抽象的な存在、つまりは「空から降りてきた偶有」にちかい。それが美しい裸身をもっているのだ。
 
「ユカ」役を映画で宛がわれたのは、容貌に地上的な現実感のある佐津川愛美だった。彼女は役柄に、科白発語の局面局面に、心理主義的な裏打ちをかける。それでキャラクターを地上的に縮減してしまう。ところが古谷マンガのヒロインは、「お人よし」と「恥じらい」が混淆して光源化、このとき発せられることばが神聖な「直言」に変貌する。矛盾形容となるが、その理想性は、ひらべったい奥行なのだ。
 
『ヒメアノ~ル』でもその手の科白は、岡田―ユカの笑うしかない相愛確認場面に、安藤を出し抜こうとふたりが決意する場面に、あるいは安藤からの懲罰を怖れながらふたりが気持ちいいセックスに延々励んでしまう場面に用意されていた。ところがそれらに佐津川は心理主義的な奥行や翳りをあたえてしまう。初交渉のとき童貞と判明してしまう岡田に避妊具をつけてあげたりして手練をついみせるユカは、その後、自分のそれまでの男性体験が10人と告白させられるが、性的遍歴の恥辱が、そのまま光源化してしまう古谷的存在の逆説を表現できていなかった。なにより「直言」の唐突さが運営できないのだ。
 
肝腎のシリアルキラー「森田」はどうか。原作マンガでは、古谷特有の眼と眼のあいだが離れた「サカナ顔」として表象されるこのキャラクターは、顔だちの整った、しかも性格の温順さが表情のどこかに滲みだす森田剛によって演じられている。森田剛の「人間性」には、存在の物質的な共約不能性はない。むろんそれはマンガのキャラクターと俳優とのあいだに必然的に起こるイメージの齟齬にすぎない。
 
ところがこの森田剛は映画『ヒメアノ~ル』の終末20分ていどで起こる「不穏な爆発連鎖」を予備するふくみを彼なりに表現していた。原作でのズレと蛇足と無計画によって偶発的に連鎖する森田の殺人遍歴は映画では極端に省略され、行動の迷走から逆照射される、本当に怖ろしいシリアル殺人の無思想性(というか思考不可能性)は物語形成からは感触されない。それでも森田剛は、高校時代の残忍きわまりない「いじめ」に巻き込まれた体験、その報復として「ワグっちゃん」とおこなった殺人を「因果関係」の基軸にしながら、その端々でみせる無気力、自己把握の不能、頭痛、放心、(どうでもいいという)投げやり、無計画によって生じた偶有性を踏破してしまうこと、本質的なバカであること――などによって、(反)哲学的な存在へと昇華するのだった。いま述べた属性こそが、「悪意」「計画性」よりもさらに怖い――それこそが「現代」で、作品に現在性の色彩をあたえたのは、森田剛といえるだろう。
 
たとえば公園のベンチで森田が、岡田を待ちながら喫煙している。路上喫煙禁止の啓蒙係として老人が、森田の喫煙を咎める。森田はすぐに煙草を消す。このとき「直前まであった喫煙を注意する」老人にたいし、「いま煙草を吸っていない自分が無謬であること」で抗弁する森田。通常の時間性が飛び越えられた論理を森田は展開しているのだが、この逸脱に気づかない彼には、思考の深部に穴が開いていて、それが恐怖の文脈におさまるのだ。原作の物語をスピーディに消化しながら、このディテールを外さなかった、脚本も手掛けた吉田恵輔の優秀さはこの場面からも伝わってくる。森田が欠いているのは「的中」だ。かさねられる殺人は、行為上はそのひとつひとつが的中していながら、森田自身の感覚には、あるいは意味形成にはまったく的中していない――おなじ事態がこのちいさな喫煙注意のディテールからも窺われたのだった。
 
古谷実のマンガの映画化のしがたさは、古谷的人物が何らかの行動を起こす空間=舞台に選好性がなく、ただ現実的な通用性のみを帯びている点からも生じている(となると『ヒミズ』の主舞台、池に面した淋しい「貸しボート屋」だけが例外を形成していることになる)。吉田はそうした宿命を、作品終盤の爆発のために、変更しなかった。たとえば冒頭、ビル清掃を通じて、岡田と安藤にはじめて交情が生じる場面では、変哲のないビルの玄関部分が捉えられ、しかも画面中いちばん大きな比率を占めるのがその灰色のゆかだったりする。
 
映画的粉飾とは無縁な美術上の貧しさは、これまたユカの働くレストラン的な喫茶店でも踏襲される(これも「ありもの」の借用だ)。しかもユカ―彼女の職場での立居をチラ見する安藤・岡田―それとは別方向のテラス上でガラス窓ごしにさりげなさを装っている森田、この3位置の関係性すらさほどカッティングで強調されていない。前言したことだが、ムロツヨシ演じる安藤は、蕩尽的な多弁とその奇怪な恋愛論理を封殺され、ドラマ上の恋の迷走も省略され、原作マンガのような爆笑装置とはなっていない。好演はしているが。
 
森田が往年の殺人事実の公開をネタに送金を強要するホテルの跡取り息子「ワグッちゃん」(駒木根隆介・扮――その恋人役「久美子」に扮する山田真歩の風情はすばらしかった)が、久美子の使嗾により、恐喝主・森田の殺害を決意するのは、原作ではセックスの高揚が引き金になっていた。それも割愛され、原作にあった森田の偶発性の高いパチプロ殺害も省略され、運転免許のない森田が死体運搬・埋葬のために運転手役を必要とするという設定も除外された。ワグッちゃん―久美子の森田殺害計画は、岡田殺害の助力をすでに電話でワグッちゃんに依頼していた森田のアパートの部屋で実行に移される。原作では半分すぎあたりに出現するこのエピソードは、映画ではまだ前半にあたる部分に置かれ、物語の転調を効果的にする物語の「溜め」すら等閑されている。
 
彼らは返り討ちにあってしまう。失敗したのは、首絞めのための縄の差出しを滞った久美子の動顛からだ。ワグッちゃんは包丁でめった刺しにされて大量出血、末期の痙攣をかたどっているし、久美子の殺害も残忍きわまりない。吉田の演出は、物語をスピーディに駆け抜けても、殺人にともなうディテールは省略しない――これによって低予算映画に緊張の芯棒を通すということだっただろう。
 
このとき初めて編集の荒業が出来する。初交合渦中の岡田とユカはいつしか後背位での性交をおこなっており、ユカ=佐津川の臀部が画面手前に突きだされている暗示的な構図が選択されている。これとシーンバックされて、臀部を突きだした久美子=山田真歩にのしかかってその背中をめった刺しにする森田がその背後から捉えられるのだ。あってはならぬ同調。首筋を斬るなどの手練がなければ、包丁で致命傷を与えるためには不恰好なほど回数の多いめった刺しが要る(この点は、そののち屋敷に闖入して一家の主人を玄関口で殺す森田にも踏襲される――なお、原作マンガで森田が闖入したのは、絶望感にさいなまれる奇妙な天涯孤独の女の家だった)。とりわけ殺傷箇所に肋骨があれば刃こぼれをも付帯するだろう。そうしたリアリティを、行為の物質感として吉田恵輔は過たず画面運動に転写させたのだった。
 
観客は気づく、この映画では暴力が二重になっていると。まずは包丁による、やがては警官・鈴木卓爾から奪った拳銃発射による、森田の暴力の直截性。包丁では不恰好な反復、拳銃では不気味な間合いを突き破る突発性が主眼となる。もうひとつは、岡田―ユカ―安藤の織りなす「ひねくれた」恋愛映画的な日常性と、その周囲に頻発する森田の殺人とが、ドラマ上、因果がふくめられているとはいえ、感触としては無媒介に織りあわされているその組成そのものが暴力的だということだ。これを運動的には「攪拌」とよぶべきかもしれない。
 
とうぜん攪拌は、岡田たちの第一世界と、森田の第二世界との合流を予定することになる。このとき満を持して脚本・監督の吉田恵輔がおこなったのが、原作の結末の大胆な改変だった。原作からは「外れた」新規な展開が、終盤20分くらいをおおいつくすとき、観客は異様な恐怖と興奮へ導かれるだろう。しかもこの改変は『ヒミズ』における園子温の「歪曲」とはまったく似ていない。吉田がおこなったことは、原作に潜勢していた内在域の純然たる増幅だったからだ。
 
ネタバレになるので、以下は迂回的な記述をとらざるをえない。事態はタイトル、キャストクレジットが出てくる作品中盤から変化してくる。あるいはユカのアパートの部屋の扉を森田剛が執拗に蹴って、それを隣の住人が咎めるあたりから厭な感じに変化してくる。執拗さそのものがおぞましいのだが、その執拗さに「放心」がふくまれる森田の存在的な不如意のほうがむしろ衝撃なのだ。
 
古谷の原作マンガの終盤では、主要人物のうちユカ、安藤はなかば忘れられた存在になってしまうが(これを構成の不備ととるか、蓋然性計算ととるかは微妙なところだ)、映画は①「森田の領域」と②「岡田・安藤・ユカの領域」を近接性によって密接に縒り合せる。絲が軋む。「伏線」によって物語をより進めなくてはならない映画が①②の距離化を踏襲すれば瑕疵となるだろうが、敢然と吉田はそれに抗った。しかも①②が重複すれば、色合いは①のそれへと集約される。結果、映画はただ「暴力」によって、ありきたりの「できあい空間」に深甚な色彩を付加したのだ。スピーディな作劇からは一見判別しがたいが、監督吉田のおこなったことは、攪拌とミニマリズムが離反しない奇蹟のような融合だった。
 
森田剛によって、ムロツヨシ、佐津川愛美、濱田岳に何が起こるか――その原作にないディテールは、マンガという基底を底からぶち破る、真の暴発といっていいものだ。このために序破急の呼吸が作品全体に選択されているのだが、その「序」すらスピーディで、全体がノンストップにおもえるのが映画版『ヒメアノ~ル』の特質だった。吉田はマンガ原作の桎梏から逃れるとともに、語りの形式をも発明したのだといえる。
 
起こったことは書かないが、原作から付加されたものを最後に暗示的にしるしておこう。まず森田が運転免許をもっていない原作の設定が外されたことは、最終局面で映画的な果実をむすぶ。このとき「犬」が活用される。さらには、濱田岳=岡田には、高校時代の森田=森田剛を救出できなかった決定的な瞬間があった。濱田の森田剛への説得などにはそうした因果法則・心理機制が働いている。それが抒情的な音声を展開に侵入させもするのだが、決定的な事柄は別にある。岡田が慚愧する過去の具体性を、まったく非対称に森田が記憶していなかったことのほうがむしろ骨子なのだ。非対称性そのものが鈍く「非―的中領域」を的中している――そうした「世界のざらついた感触」こそが、映画『ヒメアノ~ル』の真の主役だったのではないか。最後の森田の右脚の断面から血がしたたる音もそこから発せられていた。
 
――6月12日、ディノスシネマ札幌にて鑑賞。書き忘れていたが、映画の上映時間は、ありえないほど圧縮された99分だった。
 
 

2016年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況6月11日

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載「サブカルの海…」がまた載ります。今回、串刺しにしたのは、宮藤官九郎監督・脚本『TOO YOUNG TO DIE』、宮藤官九郎脚本のTVドラマ『ゆとりですがなにか』、それにバラエティ感覚あふれるNHK土曜ドラマ『トットてれび』でした。つまり「クドカン的なもの」についての考察です。
 
『TOO YOUNG…』は自殺と誤認され地獄に落ちた高校生・神木隆之介が赤鬼・長瀬智也からのロック・スピリッツの注入を受け、現世へ、天国への執着を繰り返す一種の「無間的」な反復劇。原稿に書かなかったことをいうと、茹で釜、針山、髑髏だらけの地獄など、出てくる場面の多くが赤い。その赤さが定見的な地獄イメージとリンクしてチープでかわいい。このあたりは中川信夫『地獄』をも髣髴させるのだが、地獄表象に、因果応報などはあまりからまず、からっとしている。
 
輪廻転生、地獄と現世の時差をつかった場面転換により、局面が飛躍的にすすんでゆくなど、クドカンならではの工夫が満載なのだが、それ以外にもロック小ネタがおもしろい。地獄から現世に「メジャーデビュー」した人材としてオジー・オズボーン、ジーン・シモンズ…が数えられて、そのつぎに葉加瀬太郎で「落とす」など。あるいは地獄の山野楽器みたいなところでは物故ミュージシャンの身体細部が売られていて、ジミヘンの左腕を地獄のロッカーが装着するとどうなるか、などもある。
 
神木くんのチャラいキャラがやがて真摯さにむけて成長するすがたもいいが、ぼくはなんといってもクドカン脚本と相性の良い長瀬智也が大好きなのだった。「バカ」の瞬発力がこれほどうつくしく華やかな俳優などいない。おまけに沢田研二ばりの「王子さま」型美声、美形。近年はギター奏法に磨きがかかった点も知られているだろう。それらが十全に活用されたうえで、彼は劇中、アリスのように伸縮自在、それでモンスター的な可愛さまで加味されていた。
 
劇中歌(演奏)は地獄だけあってヘビメタ―パンク系の爆音強調。すべてをバンド活動でも知られるクドカンが作詞しているが、作曲陣は多士済々。なかにナンバガ―ZAZEN BOYSの向井秀徳もいて、彼の作曲したものが意外にフォーキーだったりする。しかし向井さん、映画音楽にフル稼働だなあ。真利子哲也監督『ディストラクション・ベイビーズ』についてはすこしまえにこの欄に書いた。
 
クドカン人脈、クドカンへの信頼があって、ミュージシャンのカメオ出演も多い。CHAR、野村義男、ローリーなどのほか、嬉しかったのが元・憂歌団の木村充輝が出てくるくだり。ゴスペルをオオっとおもわせるかんじでうたっていた。風情が好き。
 
神木くんが執着する現世の存在が、森川葵。クドカン脚本『ごめんね、青春』ガールズのひとりで、黒島結菜とともにブレイク中だが、いたずらっ気と抒情のブレンド具合により、森川のひ弱さがじつにかわゆく撮られている。『ごめんね、青春』ガールズはノスタルジーの産出装置。そこに波瑠をくわえてもいい。「にっぽん女子」はいまとてもいいかんじだ。
 
『ゆとりですがなにか』は「ゆとり第一世代」と「ゆとりどっぷり世代」の葛藤を中心とした世代論ドラマ(その象徴が太賀)。そう書くと荒井晴彦みたいだが、クドカンはクドカンの流儀で「荒井さん」をやろうとしているのかもしれない。瞬間恋愛をのがれられない人物たちの「機械性」はとうぜんクドカン印だが、ドラマ全体を幾何学的に設計する特徴は減少した。しいていえば「バディドラマ」に「3」を導入するときにできる「余り」が考察されている。人物の多くが可変的で、それがドラマに結節をつくる。ともだちの妹、ともだちのカノジョと接近しつつ、そこに「中間性」がえがかれる。このドラマはそうした中間的感慨の切なさを、ありきたりの都市風俗、都市風景のなかに剔抉しようとしている。
 
俳優では――吉田鋼太郎の役柄がヘン、柳楽優弥の風格が絶好調、美男子と受難が掛け合わされる岡田将生の「ケーリー・グラント感」に磨きがかかり、松坂桃李がこれまでのドラマのなかで最も良く、ひねくれた安藤サクラが上質な悲哀をかもしだす。ネットでは彼女が上司の手塚とおると寝てしまうところで道義性をめぐり論議が起きたようだが、都市に生きる軽さ、その偶有と有限の諦念にふれたものはなかったようにおもう。
 
ほか女優陣では、吉岡里帆が収穫。教育実習生の折れそうな「生真面目」と、恋愛傾斜性(つまり「スケベさ」)が不思議な感触で共存している。これを前髪のノスタルジーと、胸元の豊満さとに身体的には分離できるかもしれない。いずれにせよ、このごろはグラビアアイドル出身の女優が豊作だ。夏菜もそうだし、『グッドパートナー』の第何話かでみた逢沢りなもそう。やはり「にっぽん女子」はいま、いいかんじ。
 
『トットてれび』は黒柳徹子という崇高な自己中心者の、ふわふわ感と、それに離反する原理的な洞察力を見事にえぐりだしている。むろん演ずる満島ひかり(『ごめんね、青春』のヒロイン)の対象分析力がすばらしい。演技は「まなび」からはじまる。これは初期TVの生放送ドラマ、生放送バラエティの舞台裏をアクション連鎖として描いた大森一樹の往年の傑作『トット・チャンネル』、その斎藤由貴では精確にできなかったことだ(彼女は巻き込まれヒロインとして画面展開を右往左往していた記憶がつよい)。
 
『トットてれび』には昭和という時代を客観的に対象化できる時代になったがゆえの「的中感」といったものがある。まずは上述した配役の髣髴性。顔の同異など関係がない。吉田鋼太郎の森繁久彌など絶品だったが、新聞コラムでは向田邦子に扮したミムラを称えた。『トットてれび』の「的中性」があぶないバランスに乗っている点も銘記されてよい。たとえば往年のNHKスタジオと、新橋にあったとされる松重豊が主人の中華料理屋は、かたほうが虚構産出の場、かたほうが実在性の場のはずなのに、どちらもがおなじ質感なのだった。つまり虚実の境が不分明になったそのあわいから、「的中」が現れる――そういうことだ。ところが黒柳が入り浸ったとされる向田のアパート内はそれ自体の「的中」に変化している。あるいは一時代がこれだけ典型的な少数人物群で形象できるわけがないとおもいながら、人物群の隙間に「的中感」が見事に揺曳していたりする。場面から場面の転換が見事な脚本は、大森美香による。音楽には大友良英が加わり、往年の名曲の隙間で彼なりの色を塗っている。
 
そうじて、「現在の的中は中間域(過程や周囲など)にたいして多く起こり、的中感をあたえない」。そうした的中が機能不全を出来させても、当該箇所ならほとんど痣のようにみえるだけだ。今日の話題にした作品では神木くん主演の映画だけが真芯への的中を果敢に志向している。リーダビリティを保持するためだ。宮沢りえのあつかいが象徴的だった。
 
こうして今日の夕刊の記事掲載告知をしていて気づいたが、最近の雑誌掲載報告を怠っていた。ひとつは「現代詩手帖」6月号の詩書月評。美術(油彩)用語「色価」を分析の鍵語として、以下の女性詩作者の詩集を通覧した。
 
・高橋留理子『たまどめ』
・かわいふくみ『ひとりの女神に』
・mako nishitani『汚れた部屋』
・伊藤悠子『まだ空はじゅうぶんに明るいのに』
・来往野恵子『ようこそ』
・最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』
 
「色価」とはフランス語ではヴァルール。もろもろの「位置」への色彩付与により、諧調的に視界の真実性がます様相をいう美術用語で、往年はよく分析語につかわれた。絵具によってキャンバスに現出できる色が有限だという観点は、色彩付与の隣接性により覆される。たとえばフランドル絵画でガラス器がなぜひかってみえるのかは、そのように色が塗られているためではなく、そのように色彩同士が隣接しているためだ。
 
ただしリアリズム色彩絵画にもちいられる色価はいま別の分析道具になりそうな気がする、モランディなどの作品をふりかえると。モランディの色彩のシックな朦朧感は絵具に白が混ぜられているからだといわれるが、それで全体がグレー(埃)の諧調にあるとみえる。ところが色彩の音楽的な諧調だけではモランディの魅力が伝えられない。事物の厳密な配剤、かたちのおもしろさ、さらに厚塗りの絵具によってうまれる線や面のゆらぎが、「はかなさ」と「たしかさ」を共存させている。このときモランディ的「色価」は事物の配剤(外延)以上に、厚塗りのもつ「時間性」に内包されているといえるのではないか。「デザイン」と「実在」はこのようにして結びつく。
 
「北大短歌」四号では、山田航の圧倒的な現代短歌アンソロジー『桜前線開架宣言』をネタに、現代短歌(口語を中心とした)からにじみだす「あたらしい感情」について分析した。これは以前、最果タヒさんの『死んでしまう系のほくらに』で書いたことを、短歌をつかって延長、短歌の修辞上の宿命「たりなさ」が、いかにあたらしい感情創出に貢献しているかを分析していったものだ。じつはこの延長線上で、朝日新聞読書欄の「売れている本」コーナーに、ふたたび最果タヒさんの、今度はあたらしい詩集『夜空はいつでも最高密度の青色だ』についてもしるしている。こちらは身体と感情と都市の「中間」を考察したが、まだ掲載がなされていない。
 
 

2016年06月11日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

エポケー

 
 
【エポケー】
 
 
れんあいのつかれたかんじで
きみがゆっくりぬけるのは
いつも門から門にすぎないが
おなじもののなかなのだろうか
「動物円はそれじたいにある」
ひとりのすがたをうめるように
なみのこしかたがよせかえし
「中断にも肉漿があふれる」
 
 

2016年06月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ゴースト

 
 
【ゴースト】
 
 
春「はるかとおくをのぞむと
いろのとてもかわるのがみどりで
うすあおくかすんでいるものだ
蒼白「世界がうつくしいのも
ちかさにとおさがまざりあって
身体「ゆうれいがうまれるためで
背後「みるだけでしんじこむわたしは
あろうことかわたし以外に似ている
 
 

2016年06月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

はるもにあ

 
 
【はるもにあ】
 
 
たてておくべきしらべはみえ
なおも筝を爪ではなく鎚で打つと
小数点以下のほうがふくらむ
いならぶ弦でかなけはふえ
中洲に似たなかだけがけずれる
いろはいくつかそのにじのといも
はしらなみにそらへたてられ
奏者ひとり屏風からでられない
 
 

2016年06月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

手稲山麓

 
 
【手稲山麓】
 
 
そら「みおろすと手稲の地までもが
はるのおわりをとうめいにひろがって
軽川を沿いのぼる中年のつがいが
いきをきらしてよろめくのがわらえる
やがて谿にたかくかかる橋へたどりつき
わたしより下からやつらが見晴すので
橋を折ってやろうかときえつつうずまくが
ひとつのはるかなのだひとなどはおとせない」
 
 

2016年06月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

とめがね

 
 
【とめがね】
 
 
くるぶし「くだものにも星にも似て
そとからうちをつらぬくこのふたつは
あゆみをとめようとするひかる留め金で
おなじたかさのあさせをもとめている
ふきつにも鋲がかがやくのだろうか
いちばんすきなものなどなにもないのに
すきなものだらけのにばんのあたりに
くるぶしわたしがみだれるまえうしろを」
 
 

2016年06月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)