だいだら坊
【だいだら坊】
ぼうばくとなってそぞろあるき
あたまをなみきのうえへ出す
ぱぴよんのきえあとのみをゆく
どうたいのながくなった日があり
あしもとのこもれびでおんなの
さんだるを履くのもきらきらした
荷台に椅子をのせもえてはしる
けだものじゃないなそれほどでは
杉山平一・金貨
仕事に踏み切れず(臆病になったのかもしれない)、昨日到着した岡井隆さんの新著『詩の点滅』(角川書店――しかしここ十年くらいの岡井さんはなんという刊行ペースなのだろう)をぱらぱらめくるうち、「あっ」と声をだした。杉山平一さん(杉山さんの生前=ぼくのキネ旬時代、伊藤大輔『忠次旅日記』にかかわる原稿依頼で、電話で愉しくおしゃべりさせていただいたおもいでがあるので「さん」づけにする)の、詩篇「金貨」が引用されていたのだった。『木の間がくれ』(1987)所収――。
【金貨】杉山平一
私の父 私の母
両側にそびえた樹が
頭上で互の枝を組みあわせ
私は木洩日の金貨を
ひろってあるいていた と
落葉のしとねを踏みながら
いま 私は思うのです
簡潔にして、余情ゆたかな流れだ。一行目(一聯目)の《私の父 私の母》が二聯一行目の《両側にそびえた樹》と同格だという、ふしぎな読み筋が成立してしまう。その樹木=父母の庇護に濾過されて、〔幼年時代の〕「私」は「木洩日」の黄金のちらばりを、「金貨」としてたしかに「ひろってあるいていた」はずだった――そのことに、秋もふかまり林をさまよう老年のいまになっておもいあたる――理路でいえば詩篇はたぶんそう語っている。最終一行での突然の時制飛躍にいったん虚をつかれたのち、全体へゆるやかな遡行が起こり、その心理変転により感慨がさらにわきでるような名篇だ。
「あっ」とおもったのは、この詩篇の秀逸さもさることながら、とうぜん加藤郁乎『球体感覚』中の伝説的な一句が下敷きになっているのではないかとかんがえたためだ。すなわち
五月、金貨漾ふ帝王切開
ご存じのかたもいるかもしれないが、この加藤郁乎の前衛句は、ぼくが鮎川信夫賞を受けたあとの貞久秀紀さんとの対談(『詩と減喩』にも収録されている)で貞久さんが、ぼくの『換喩詩学』から引き出して、話題にしたものだった。貞久さんは、句の4パート「五月」「金貨」「漾ふ」「帝王切開」はたがいに離れた換喩といえるが、同時に、意味化できない暗喩関係にもあると受けとるべきではないかという意味のことをおっしゃった。つまり暗喩/換喩の弁別が無効になる領域があると。対談上、ぼくはその問へ即座に返答していない。だが、やがてこんな意味のことをいう。「金貨」が木漏れ日だとして、「五月」のあとの同格の「、」が曲者で、五月の形状は、木漏れ日がただよいひらける形状として把握されていたのではないかと。
風景からなにかが帝王切開のようにひきだされる宝石状の感触にまぶしさがあると、そのときさらに補足説明すべきだったかもしれない。いずれにせよ、同格を提示してから、ずれがもたらされ、外延がさらに外延化するこの一句内の運動は、合致を予定する暗喩というより、やはりふらふらとみずからをただよわせる換喩的な非・的中性をもつといまでもおもう。かんたんにいうなら、ゆらぎが良いのだ。
ちなみに帝王切開は、出生時のカエサル=シーザーにほどこされたのが初めてで、だからその奇異な名称を獲得したという俗説がある。日本では中井正一が帝王切開でうまれたのが有名だ。加藤郁乎がどうだったのかは知らない。ただし「帝王切開」の語は子宮切開による胎児摘出という字義から離れ、「帝王そのものを切開する」「子宮を切開して帝王を摘出する」など、あらぬ妄想へひとをさらにみちびいてもゆくだろう。さて加藤郁乎がみずからを帝王視していたかどうか。
いずれにせよ木漏れ日はおのが出生にかかわる眺望だ――理由はいえないが、それが詩的直観だろう。資質からして杉山さんが加藤郁乎の文業に親炙していたとはかんがえにくいが、自分の起源を木漏れ日にむすびつけたのは詩篇「金貨」にみられるように事実だ。それなら加藤郁乎と同様の詩想をたまたまもったということでいい。ところが問題は、加藤郁乎の句にある「、」の同格と、杉山さんの詩篇の第一聯と第二聯一行目の同格までもが照応していることだ。これらは偶然なのか意図なのか。
木漏れ日が同格をひきだすのか、あるいは杉山さんが加藤郁乎を延長したのか。どうであれ杉山さんの詩篇も、時間内にわけいって、外延を再外延化する換喩的なひろがりをもち、人間本性的にうつくしい。換喩は点在をつくりだすが、語や措辞単位の着想それぞれはねじれの位置にあって、一直線ではむすべず、それでこそそこに容積ができる。杉山さんの詩篇と加藤郁乎の句が同属になる点を探すとすれば、以上のことになるだろうか。
それにしても、岡井さんの詩歌にむけられる眼目は、いつも途轍もなくすばらしい。
近況7月28日
「現代詩手帖」8月号の詩書月評では、アレゴリー(ベンヤミン的な定義によるもの)を媒介に、以下の詩集を紹介・考察しました。
・山田亮太『オバマ・グーグル』
・廿楽順治『詩集 怪獣』
・夏石番矢『夢のソンダージュ』
・川上明日夫『灰家』
・宇宿一成『透ける石』
8月号・詩手帖の本特集は、「2010年代の詩人たち」。こういう、世代別の詩作者特集ではお呼びのかかったことがなく、さみしくはある。アンソロジーも年間だけ。中堅はいつもはじかれてしまう。
それはともかく、久谷雉・鳥居万由実・森本孝則の鼎談がすばらしかった。それと井坂洋子さんの論考も。彼らの考察を読むと、2010年代の詩作者がべつにあたらしいわけではないとわかる。詩は詩であるにすぎない。掲載されていた詩篇では、最果タヒ、高木敏次、疋田龍之介などのものに瞠目した。
ぼくも来月の詩書月評では若手の詩集を紹介・考察する予定。きのうは仕事がいろいろあったのに、気分が沈んで不調だった。こういう日はたまにある。昨日一個だけしたのは、森澄雄の一句について、同世代の院生に以下のメールを打ったこと。ペーストしておく。
●
岡井隆さんの「けさのことば」は中日新聞に連載されていた朝刊用の小コラムです。朝日新聞で展開された、大岡信「折々のうた」の岡井版という位置づけですね(塚本邦雄も「けさひらく言葉」をやっていた)。ただし岡井版は俳句・短歌・詩のみならず、箴言、哲学書の抜粋などもふくんで射程がひろい。森澄雄のこの句については、最近岡井さん自身が送ってくださった『けさのことばⅦ』で扱われていました。
短いので、リクエストにこたえ、全体を転記しておきます。
●
稲終へて淡海〔あふみ〕見に来〔き〕ぬ越後衆
(『浮鴎』森 澄雄)
越後は、いわずと知れた米どころ。稲を収め終えた「越後衆」が、琵琶湖へ遊びに来ている。言葉がすべて現代離れしているので近世の句のように思えるが、昭和四十七年の作。澄雄の近江の句はその量と質において高名である。単なる叙景ではなく、現代のお米事情がらみで詠まれたため一層深みの出た句だ。
●
みじかい岡井さんの鑑賞ではぶかれているのは以下でしょう。
・十七音のなかで地名がふたつも入った異例句であること
・「稲終えて」=「稲〔の仕事の一連を〕終えて」という措辞の省略に味のあること
・古地名の使用により、時間を超越した永遠性がにじむこと
・物見遊山そのものが肯定されていること。しかもそこに、「海水地→淡水地」という「より淡いもの」への傾斜があること。
・そこから人間の休暇の本質がまぼろしのように現れていること。
ものみ
【ものみ】
ものみ遊山のいそぎのみをすれば
あげてこの世はうつくしいから
しゅうげんを追う蝦夷衆もくるう
央をとばして道北へつらぬくと
はなそばのしろさがまなこにこまかく
くるいまたぶんかつのはてないさま
ものみななみだっているんだろう
ひろがりをおのがきえにそえるべく
きいろい画
【きいろい画】
ふりかえってみたのはうしろだった
瀧はこくうをおちていたおのれを知り
きいろのままかがやく回内となる
うごきがまえきざしにかわる刻々で
むしろ刻々のほうがひとらしさをなし
みずあかりもまちがいにおもえる
もとがただのふりかえりだったのか
すだまだったのかさえ画があかさない
双無双
【双無双】
並行「もっともちいさな単位のえいえんが
ふたもとにてならびあうわたしらだろう
あることのいまに無限遠点のかなたがゆれ
ちがうかたからひびく鐘の音ふたつなど
ものみなどうじにきこえる地上をゆるがす
あふれるのではなくたりないえいえんが
ふようどのふもとをうすくひからせるなら
わたしら双も無双ながらよわまるきのこ」
翌朝
【翌朝】
すぐちかくにしりあいがきている
そうおもえるのがはなかげで
そこからのひかりに背をむけた
うしろすがたはふくらみなく
つばさをたたむ板状のさみしさ
てのひらを銀貨がしわにして
こえかかるさらばえにまつならば
いすかりおてへも鶏鳴がとどく
ナタリー・ドーン
昨日はYouTubeサーフィンをしてしまった。はじめはポール・サイモンの「スティル・クレイジー・アフター・オール・ジーズ・イヤーズ」の実況をスマホでみていたのだが、関連リストにナタリー・ドーンという少女っぽいひとのカバーがあがっていて、それをクリックしたら、一挙に彼女のとりこになり、YouTubeにあがっている彼女の全曲を閲覧してしまった。
まず、エロキューションが良い。フランス語なまりなのだろうか、どこかがたどたどしい。80年代、イギリスのインディレーベルに「プレシャス・ラヴ」とか「スリル・イズ・ゴーン」とかをヘタウマに唄う歌姫(名前がおもいだせない)がいたが、その彼女に似ている。ただしときに歌唱力は爆発的にふくらむ。得体の知れないかんじなのに、顔はアメリカ娘の平均的なうつくしさをかたどっている。画像をみると、からだがすこしエロい。のびのびしている。
楽器は、ギターのほか、鍵盤、ベース、それからそこらのものを叩いてドラムがわりの音をだしたりもする。たとえば「スティル・クレイジー・アフター・オール・ジーズ・イヤーズ」のコード進行はジャジーでむずかしいのだが、それもたどたどしい指づかいながら、弾きこなす。複雑さが複雑につたわってくるとき、なぜか少女性へのいとおしさが発露しだす。くわえてナタリー・ドーンの弾き語りギターは、すこしマーク・リボーをおもわせる。音を響かせきらないのだ。
それにしても、ポール・サイモンのみならず、クイーン、ビリー・ジョエルなどの有名曲を、フォーキーな範囲に縮減し、独自性を帯びてカバーしてしまう発想力が只事ではない。偏差値のたかいのがすぐわかる。原曲から粉飾をとりはらい、単元性によってべつのかがやきをあたえているのだ。そのときにこそ、たどたどしい歌唱のすばらしさがフックになる。しかもフォーキーなもののみならず、フォーク・ラップとでもよべそうなリズミカルなオリジナル曲を愉しげに唄ったりもする。底知れない。すべての画像でリラックスし、かつ素人的な新鮮さをうしなわない。淑女的なのにガーリーなのだ。
幾人かの女性ミュージシャンとの個別コラボもある。相手に導かれてハモると意外な声量を発揮、しかもピッチが精確だ。女性性へのこうした親和が、どこかで彼女を内部的でたかい存在にみせる。YouTubeの映像はすべて室内。室内楽ということばがあるが、それは室内で奏でられる音楽ではなく、室内そのものがつくりあげる音楽だと、ナタリー・ドーンが訴えているようにみえる。
ナタリー・ドーンはまずYouTubeのみを自分の音楽の発表媒体にして、そこから広範な人気を獲得したらしい。ここ5年のことだ。映像形式はさまざま。フィックスで演奏&歌唱をとらえるものから、多重録音の過程を編集して、その編集がミュージックビデオ的な文脈に乗るものまである。どれもに手作り感があり、複雑なスイッチング編集や、セットと照明に凝る美術的なものはない。手持ちの室内が活用されるだけで、その場のひかりがやわらかく画面に反映している。
手作り → フォーキー → シンプル&一見のヘタウマ → 女性性の複合→ やさしさ&自体性。そうラインをのばしてみると、ナタリー・ドーンの戦略の勝利をかんじる。日本的でない、ナチュラルな少女性への、崇敬と驚愕とやわらかさ。アメリカ美学の新形式がそのYouTubeにはつまっていて、ひたすら感動した。ぼくが疎いだけで、もうすでに有名なのだろうか。
結論。ナタリー・ドーンの最もシンプルなYouTube映像は、前言したように、たったひとり演奏し唄う自分に固定カメラを据え置く、自写像型だ。そこでは、商業的に了解されるだろう「自己イメージ」を超えた、真の女性性の遊戯的な数分間が自然体で写っている。音楽性もたかい。緊張感もある。この自然体が、「野心」や「努力」や「底上げ」よりもつねに優雅だということ、それがナタリー・ドーンの批評であり、主題だろう。そうおもわす表情変化や姿態変化、うごきが、天性のものとして彼女には備わっていて、それさえ写ればYouTube映像がミニマルな状態のまま成立してしまうのだ。
ゴテゴテと粉飾された重みも、過剰に強調されたカッティングリズムも、MTV作家の芸術意識も存在しない彼女の映像、その中心にただよっているのは透明性だ。透明性――それは映像の性質であるにとどまらず、聡明さと接する女性性の感触をも指標している。これをもって彼女は「音楽における」YouTubeアーティストたる資格を得たのだった。音楽資本と代理店と映像作家が跋扈するか、素人のつつましさとインディシーンがむすびつくだけの日本にはない進展的事態だろう。
あんたれす
【あんたれす】
むらくもを天外へおしあげているひとの
うでのながさはみえずはかりがたい
のびするかかとからとうめいなちからが
しせいのゆうびをたかくそびえさせ
まなつのなまあたたかいゆうかげには
やまなみのようなふくすうがきらめいた
途中からきえたうでのゆれる丘はるか
いつかはあかく大火もあかりされた
河口
【河口】
ほんとうの河口をかんがえると
ながれこまない青などはない
そこには岐路も樹々さえもみえず
砂洲のてぶくろがわかれながら
そらとみずをささえているだけで
そのなみあいのはじらう対が
ひえたくうきのおんなもとらえ
とおくうみへはらいもどしている
水泳
【水泳】
だきとめようとさきばしるうでが
湾のひきいれをあがきだすとき
ひとにもなみしぶきがふきあげた
すきまへひかりのぶんりをため
ぜんしんがすうほんになるように
ととのえないで喫水をぬいすすむと
ひとの対偶もうちへひとをおこし
双であることがうつりにあまたいた
べつのはなし
去る6月29日は、ビートルズ来日50周年記念日だった。本日の北海道新聞夕刊掲載コラムではそれにちなんで、ビートルズ関連の番組・本、さらにそこからアナロジーされる音楽本をあつかった。NHKのドキュメンタリー「アナザーストーリーズ・運命の分岐点・ビートルズ旋風」、大村亨『「ビートルズと日本」熱狂の記録』、大山甲日『フランク・ザッパを聴く アルバム・ガイド大全』。記事の紹介は書かない。北海道在住のかたには、ぜひ実地に読んでいただければ。ポップな記事だとは保証しておきます。
ここではべつのはなし。
ぼくは自分の四大ミュージシャンを、ジョン・レノン、ジミ・ヘンドリックス、フランク・ザッパ、筒美京平だとよく説明する。それに加えるなら熱狂対象は、ザ・バンドとニール・ヤングとルー・リードとエリック・ドルフィとスティーヴ・レイシーかな。マニアックな名前もさらにいろいろあげられるけど(そういえば少しまえに、大阪からいらした近藤久也さんご夫婦を、岩木誠一郎さん、海東セラさん、それとぼくが札幌の居酒屋で歓待したとき、なにか70年代音楽の無茶苦茶マニアックな話になったなあ――エイモス・ギャレットとかジェシ・エド・デイヴィスとか、スライド・ギタリストベスト3とか)。
ジョン・レノンはビートルズ結成時から解散時までずっと好きだが(なにしろ歌詞発想に飛躍のうつくしさがあり、歌唱力のみならず変化能力という点でも稀代のヴォーカリストだった)、とりわけジョンのテンション・コード、テンション・メロディの独自性を大切にしている。ルーツミュージックの「構成」に驚くべき冴えを発揮するポールとちがい、ジョンは身体性あふれる発想のゆがみによって、曲をべろんべろんに曲げたり、ひしゃげさせたり、憂鬱きわまりなく悲哀化させる。アマルガム合金というかキメラ的コラージュもアートっぽくて、「ストロベリー・フィールズ・フォーエヴァー」の曲展開(未定着的な中途と、ぐにゃりとしたフィニッシュが交互する、真にサイケデリックな小歌曲)など、いまだに奇跡的だ。そのジョンの魅力については『精解サブカルチャー講義』でくわしく語ったこともある。
そういえば昨日は長い教授会のあと、文学研究科恒例の屋外ジンパ〔北大キャンバス内ジンギスカン・パーティ〕。途中、蔵田さんが「阿部さん、プログレ好き?」と訊いてきて、研究推進室の森岡さんをまじえ、「同世代」ロック談義となった。ぼくは、フランク・ザッパをプログレというならプログレは好きだが、イエス、ELP、クリムゾン、ピンク・フロイドなどはほとんどスルーしました、とこたえた(カンタベリー・ロックの話まではゆかなかった)。
そのザッパ音楽を説明するのに、やはり「テンション」を出した。テンションとは楽理的誤謬、自己解釈、歪曲のことだが、ザッパはテンションを楽理化できる。ふかいレヴェルで現代音楽につうじているためだ。その立ち位置は、ブルースっぽいギターアドリブに教会旋法や半音階スケールが入り、それらがアドリブでありながら作曲の産物であることにも似ている――そうふたりに説明すると、ちんぷんかんぷんだったようだ。アドリブのすごさはどう規定したらいいのか、というおふたりの問いには、驚愕付与力とともに、引用力、記憶力による自己フレーズ反復回避と展開力のすごさと答えたら、森岡さんなど、「わぁ、むずかしい、こんど酔っていないときにゆっくり聞かせて」ということになった。ザッパの作曲は、それと同時に編集(往年ならテープ編集)の要素も加わることになるのだが。『200モーテルズ』までのオリジナルアルバムはロック、ジャズ、現代音楽、奇形ポップスの融合したロックの到達点。これは今後数百年変わらないだろう。
まあ、それでも音楽の魅力は声、音色〔おんしょく〕の唯一性かもしれない。声や音色だけで、才能のつたわる唯物的な絶対条件が音楽だというと、元も子もないかな。じじつザッパの当時の音も、カンタベリー系とくらべると絶対的に「おいしい」(スラップ・ハッピーだけが例外)。そこで美は可食的〔食べられる〕、といったダリをおもいだす。といって、ダリはさほど好きではないけど。
そういえば、森岡さん、ぼくの詩がお好きなようで、ぼくを「ひらがなの魔術師」と褒めてくれたなあ。うれしかった。
双肩
【双肩】
なで肩「なだらかなまるさで
しるされひびくこの突起は
ただものたりなさをかたちして
しかもどうぶつにない双極を
とおくからでもはかられる
手がまわっても肩はとどまり
かなしく光塵をすいよせながら
ねもとというべきをふかめる」
鬱王
【鬱王】
おんなのながいくろかみを枕にして
ゆめがはいぜんたる豪奢をおびる
王であればやがて首からおきあがり
あめつちのしずくをこぼすだろう
ひくさのまま盲目のままくろがみえ
うつぼつと雷鳴もて刺繍された
かたちなくゆれるへやでくるしみ
おきぬけごとおんながきえていった
譲歩
【譲歩】
あるところ、あるときのあるひとは
限定にまもられてあわくなるものだが
ゆめのなかのかんがえかもしれない
そのひとがなにかとともによぎるのも
うごきというより場の衡量にすぎず
ゆめのきじをゆらめかせるあるときが
ひとのあしもとといううちがわを
あるきにそってなみださせるのみだ
憂憤
【憂憤】
渇愛、ふるえるからだがおおくを書き
からだをふほんいにもけしてゆくと
ふるえといえるものがそこらにのこった
「こんせきなし」とされるこんせきも
ことばにある内部や絮の組みあいを
たくまずおもてがえしにしただけだろう
このまえなどゆうふんするゆるがせのまま
あきらかなおんなのまえをとおりぬけた
空棺
【空棺】
ちからでたてられた樫の木の恋と
そうではないうしろ髪の恋があって
後者ならそのひとよりもほそくみえる
あたりものみながひのくれをつげ
山河のそらさえくらくなずんで
おちこちがあきらめつりあっていれば
ほのみえる樹間もそのひとと以外の
さらなる爾余をしるす空棺となる
毛愛
【毛愛】
毛愛「むすめの髪を老いたおとこが洗う
こがねいろのしずかなシーンをみて
このてもとにも洗馬があればいい
いきるなやみをけしたいとかんがえた
なにごとかまれなるぐうぜんをおぼえて
てもとがひかりでみちるのはなぜか
かなしみのささえをしなくなった手も
くうばくにただよう靄ならばぬすむ」