ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

誘惑

 
 
【誘惑】
 
 
ひと日ふた日とながくゆくうち
あせとあぶらにからだがよごれて
どりあんめいてにおいたつので
けがれはかなむ心中をしたくなる
わたしらはとげ、きよらにきたない
さまようまにまものとくだものが
麝香でまざりあってたかぶらせ
まなかいすべてをなんごくにする
 
 

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2016年08月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

日をつぐ

 
 
【日をつぐ】
 
 
てふとてのひらがにているとき
てちょうのぺえじがめくれず
こなだけがそこからながれてゆく
「日をつぐからだのどこかに
けどおい不如意があったあまさ」
じゃばらなみにのびるてちょうで
てふのとびつなぐよいにおぼれ
ふさぐ手のさわりを谿がふかめた
 
 

2016年08月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況8月28日

 
 
「現代詩手帖」9月号では、次の詩集をあつかいました。
 
・永方佑樹『√3』
・高塚謙太郎『sound & color』
・谷澤理衣『世界観をもとめる』
・黒崎立体『tempo giusto』
・野崎有以『長崎まで』
 
それぞれ個性のことなる詩集だが、「流露感(流麗感)」によって詩行が展開されていて、その点に着目して全体を括った。今日は、次の号の原稿を書く。ともあれ、この苦行ともいえる連載も、あますところ10月号・11月号・12月号の3号分になった。
 
すばらしい詩集の刊行がつづいている。いまでも取り扱いに積みのこしがあるのに、そろそろ10月の詩集刊行ラッシュの前兆までかんじられて、これから繙読と対応と選択にいよいよ苦慮しそうだ。
 
最近の年鑑号冒頭鼎談で某氏が、思潮社編集部からピックアップ郵送されたものに、自分宛に郵送された詩集を加えた手持ち分で、「読みのこしはなく、今年の重要詩集はすべて読了した」云々と豪語していたが、たぶんそんなことは例年ありえないだろう。詩集は同人誌とともに、曖昧な領域からも明白でないかたちで刊行されて、だれかがそれをとりあげないと、「なかったもの」にされてしまうはずだからだ(「西脇圏」ということで絶対に視野から外せない今鹿仙さんの第一詩集『マゴグの変体』〔※06年、日本自由詩協会刊、変更なければ電話042-972-3090〕の存在など、廿楽順治さんのポストによって今年ようやく知ったのだ)。
 
たとえば詩手帖9月号でも谷澤理衣『世界観をもとめる』が、黒崎立体さんのものとともに今年度を画する詩集だったが、「グループ絵画」という、詩書圏外が版元となっているその詩集にたいし、どう注文をしていいかわからない読者も多いとおもう。詩壇とあまり縁がない作者らしく、ぼく個人宛には詩集が郵送されてこなかった。たぶん当てずっぽうで思潮社に送られたものが、ぼくの手許に舞い込んできただけだろう。
 
この詩集が仏教的法悦をテーマにしていて、しかもフレーズが前衛的に躍動している。古語を勘案した独自の人工的文体をもつ。ほのおのようであり、水流のようでもある。従順になってきている全体の詩作シーンに、楔を打ちこむ意欲作だった。くりかえすが、このような詩集を一般の詩の愛好家はどう手に入れればよいのか。ともあれ版元「グループ絵画」の電話番号を書いておく。06-6661-9374。
 
作者はいつでも未知だ。既知とおもう作者でも、その新著なら未知だ。このことに畏怖をおぼえずに、詩集をかたることなどできない。さきに言及した鼎談出席者は、このところ諸局面で傲慢さが鼻につくが、それは権威にたいする以外に畏怖を欠いてしまったためと別言できるだろう。結果、多幸症めく詩作じたいも自己模倣におちいって質が低下している。
 
ぼく自身の詩集『石のくずれ』はなかなかアマゾンでの入荷開始にならない(さきごろ書影が出たばかりだ)。ということは、寄贈したかた以外はまだ入手していない、という状況だろう。それで詩書月評をやっていて素晴らしい詩集が舞い込み、そのひとが自分の詩集の寄贈先でないと、ついつい寄贈してしまうことになる。そこには、「ぼく(阿部)が良いとおもった作者は、阿部の書いたものもよろこんでくれる」という意味の相互性が期待されているのだ。これは評価や郵送の互酬性とは似て非なるものだろう。「読まれたい」というだけのことだ。
 
 

2016年08月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

果葬

 
 
【果葬】
 
 
くだものぎらいのわたしだが
しぬまえには宗旨替えがおこり
すいみつとかたるべきもので
はかなくうもれてゆくのだろう
夏のおわりのひかりのつるに
しばられたかおへと白桃がふれ
すがたは百のうつろでしわみ
しばしもけいれんをなみうたす
 
 

2016年08月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

玄関

 
 
【玄関】
 
 
とびらをあけ風のようなものが
ひとみをかすめてはいってきたとき
そのなにかの移動がこころをうつのか
とびらの蝶番のなすわずかな開閉が
わたしをうごかしたのかわからなかった
とびらがひとだそれははいってこない
うす目がうらがなしくみえるだけで
背後のひかりこそが掟のからだだった
 
 

2016年08月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

けむりながし

 
 
【けむりながし】
 
 
霊「けむり帽をほうき星にかぶり
葉かげのみちをうつりうごいてゆく
いろどりのないあたまがわたしだ
かんがえにうすあおすらもたず
そのかるさでけむりをながすから
みのうつしかたもくさぐさへわかれ
四肢さながらにひとりではないが
水鏡でもぶんりしないわたしだ」
 
 

2016年08月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

又吉直樹・夜を乗り越える

 
 
本日の朝日新聞の読書欄(9面)の「売れてる本」コーナーに、ピース又吉直樹の『夜を乗り越える』(小学館よしもと新書)の書評を書いています。豊富な読書経験者でも「読書指南書」として読める、なかなか行き届いた本です。
 
今日の朝日新聞は、昨日の陸上男子400メートルリレー、第三走者から第四走者にバトンが渡った瞬間を横位置で捉えた写真が圧巻です
 
 

2016年08月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

空葬

 
 
【空葬】
 
 
しんだらはずかしいので
できるだけ早く焼いてほしい
些少でもたましいがあったゆえ
からだもしぜんだったのに
それなくしてうごいたら
くるしみがきわまってしまう
焔さながらそらにありたいのだ
ひとみをとじて遇してほしい
 
 

2016年08月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

深田晃司・淵に立つ

 
 
【深田晃司監督・脚本・編集『淵に立つ』】
 
昨日、試写で観た深田晃司監督『淵に立つ』(10月8日公開)は、人間洞察にみち、演出も一種完璧な映画だった。感触のするどさは一級品だ。先の読めない、驚愕を盛り込んだストーリー(深田脚本)なので、ネタバレをしないよう以下を書かなくてはならず、暗喩的な記述を採ることにしよう。
 
一般に「聖画」とは、あつかうものが東方の三博士でも磔刑でも、聖書的記述との「合致」を目指す。その範疇に、たとえば聖書映画といったジャンルもある。いっぽう、「ズレた聖画」というべき表現形式もあるだろう。詩では江代充の作品などがおもいうかぶが、映画ならさしずめドライヤーやブレッソンの諸作がその代表だろうか。深田監督『淵に立つ』はあきらかにこの系譜に属する。
 
深田演出は、生起してくる出来事の原因や結果をただちにあかさず、画面に物語の不明部分の奥行きをつくることを得手としている。人間の彫り込みがふかく、謎めいた何かの伏在が聖なる感触もみちびく。金属加工を小さな町工場で営む古舘寛治、筒井真理子が夫婦の家に、浅野忠信が訪れてくる。古舘の旧知らしいが、久しぶりの再会で、その久闊の叙しかたが不自然な緊張をたたえ、みた目は品行方正きわまりない浅野の挙止からは得体の知れない威圧感もただよってくる。浅野の、娑婆との離反期間の長さはふたりの発話のやりとりでただちに知れるが、浅野の服役終了が容易に予想できたとしても、映画は浅野の犯した罪、ならびに古舘と浅野との本当の関係をすぐには語ろうとしない。後者にいたっては作品が終了を迎える手前だった。
 
「信仰」が作品の背景になっている。筒井とその娘(小学校3年くらい――正統美少女とよぶべき篠川桃音・扮)が食事ごとに、主への感謝を口にする。とつぜん一家の住み込み従業員になった浅野(古舘から筒井への事前相談はない)に、やがて筒井は自らが親から受け継いだプロテスタントだと語る。浅野は信仰には二つの型があるという。ひとつは猿型(親にしがみつく猿のように神をもとめる)、いまひとつは猫型(勝手気ままに親のあとを追う猫のように神への執着がフレキシブル)。浅野の前科も知らぬまに、浅野の美男ぶり、挙止の清潔さ、滲む教養に心を奪われてゆく筒井――その構図により、浅野が「聖者にとっての聖者」に位置づけられてしまうのが、作品が第一につくる前提だった。
 
聖なる闖入者によって家庭そのものがかき乱されるという構造は、「ズレた聖画」映画のひとつの定番だろう(『テオレマ』『家族ゲーム』『ビジターQ』――この構図を逆転すると『ビリディアナ』になる)。白をまとう、聖フランチェスコのように、不幸で清貧な聖者にみえた浅野の変貌は素早い。自身への筒井の執着(それはオルガン指導を受けた娘・篠川桃音も同型反復する)をみとるや、浅野は「裏切りのキス」でまずは筒井のくちびるの貞操をうばう。筒井の外見価値と相まって、その際の筒井の放心・法悦がむごい。
 
作品は二部構成になっている。前半、聖なる闖入者による家庭の化学反応をえがくとみえた結構は、その最後、途轍もない残酷さによって暗色化し(ただしここで残酷さを起動させる色彩は「赤」だ)、あらたにはじまる8年後の後半で浅野はドラマ上、登場しなくなる。登場しなくなるのに浅野は「気配」として作中に残存しつづける。具体的にはあらたに通い従業員として雇われた太賀(朴訥で真摯なイマドキの低層の若者を見事に好演)にゆっくりと判明してくる出自が、過去になってしまった映画の前半と、ドラマの現在である後半との蝶番の役割を果たす。浅野の残忍さに観客が心底戦慄したはずなのに、気配としてある浅野の幻は、それがまぼろしであるがゆえに聖化されている疑似印象をあたえる。それこそがこの映画の「ズレた聖画性」のまず中心にあるものだ。
 
救いのない映画、と多くの観客が感慨をいだくにちがいない。美少女の娘・篠川桃音が8年後の設定で真広佳奈に配役変貌されたときに現れている運命的な酷さだけが問題なのではない。太賀の出現が契機となり、浅野と古舘がどんな共同性をもち、娘の変貌を、あるいは8年前の筒井による浅野への性的執着を、どのように、古舘自身が受け取っていたのかが古舘から筒井へ語られる。その内容が違和感を覚えさせるほどに酷いのだった(実際、古舘の独白に、筒井がはげしい拒絶反応をしめす)。
 
あえて抽象的にいうなら、「罪」とともにある者にはすべてが「罰」として機能する、という容赦ない見解が語られたのだった。一切の恢復の不能。このとき家庭生活に積極性をしめさず、朝食のときも母娘の主への感謝を黙殺し、先に朝食に箸をつけながら黙々と新聞を読んでいた古舘のやる気のない振舞――その奥底に潜んでいた諦念の実相へと観客が踏み込むことになる。
 
ブニュエルの『ビリディアナ』がそのクライマックスで「最後の晩餐」の活人画を実現したように(それは森田芳光『家族ゲーム』のクライマックスで発展的に反復された)、この作品でもいわば「活人画」的再帰性が意図される。それが8年前の前半と8年後の後半を真につなぐものだ。
 
娘のオルガン発表会の前、一家と浅野、それにもうひとり知人をくわえて川遊びがおこなわれる。『ほとりの朔子』を撮ったこともある深田晃司にとって、水辺はたぶん「洗礼」にかかわる聖なる場所のはずだ。そこで定着されるのは、感興と疲労ののち河原のちょうどよい岩場で古舘と、それに寄り添って眠る娘・篠川桃音を、筒井が見つけて微笑ましさをかんじ、その眠りの列に浅野と、自分を加え、自撮りで撮影された、他愛のない家族画だった。仰臥する姿勢で平穏に並ぶ四人、うち両端の浅野、筒井がカメラ目線で、目に温和さを湛えていると一見おもえる(精確には並びの順は、向かって左から、筒井、篠川、古舘、浅野)。
 
この画柄が再帰的かつ変貌をともなって反復される。それこそが「ズレた聖画」だった。作品後半のクライマックス。浅野の幻の出現、さらには絶対にあると予想された墜落運動と聖なる水中撮影ののち、事態は緊急性から停止性へと復する。このとき根岸憲一の撮影は、ひとつの構図を、満を持してつくる。それが先の家族画の変奏だった。向かって左から右に、太賀、篠川桃音の8年後の少女=真広佳奈、筒井、古舘。仰臥の姿がならぶ点はおなじ、順番は入れ替わる。あるいは瞑目者の数は微妙におなじだといえる。むろん太賀と浅野には存在に連続性がある。もともと8年前の写真は、太賀が誰かをしめすための、作品後半の重要な小道具で、その8年後の疑似家族画そのものに、太賀が入り込んだ恰好になっていて、哀切もきわまってゆく。この画柄により、それぞれの「ドラマ後の」帰趨が予想されるのだが、その内容も酷い。
 
ただし最も聖画的な一瞬を湛えたのは、真広佳奈の顔に太賀の顔が近づいている一瞬を筒井真理子が発見したモニター画面だったかもしれない。太賀は悪意や色欲の不在を主張するし、太賀の略歴や性質からいってもその主張に信憑性があるとうなづける。それは無償さに貫通された「存在の確認」儀式のはずだったのだが、母親の筒井は無垢なものへの侵入と色をなしたのだった。ここでも聖画性のズレが主題となっていた。
 
いまや聖画性はズレを介在してこそ真正となる――深田監督のこの見解に異存はない。ただし、罪のなかにある者には生起するすべてが罰となる、よって一旦の罪により一切が無為となる、というのは本当だろうか。恢復可能性は、この作品の主要人物には訪れなかった。
 
筆者自身は、むしろ逆をかんがえる。罪のなかにあってこそ、その者の恢復可能性はすべての瞬間に充填される、と。作品題名「淵に立つ」はたしかにこのひろがりを予感させる。あるいは太賀が真率に語る一瞬の科白、「いいすよ、殺されても」にも瞬間にうめこまれた恢復可能性がかんじられる。この可能性をもっと随所に押し広げてくれれば当たりも柔らかくなっただろうが、潔癖な深田監督はそうしなかった。よって観客は衝撃のただなかに突き落とされるのだ。
 
 

2016年08月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ひとなし

 
 
【ひとなし】
 
 
ひかる路傍にひっそり楽器があって
それをかかえてかなでたくなった
たてごとならばうながされるだろう
ひとにたいしてこじきになるのも
ひとのこえでうたうこのときだから
ひとりうつりすわったこかげから
いくいろにもしらべがわかれてゆき
だれかでさえないひとなしがかげろう
 
 

2016年08月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

庵野秀明シン・ゴジラ

 
 
【庵野秀明『シン・ゴジラ』】
 
昨日ようやく、女房と『シン・ゴジラ』を観た(@109シネマズ木場)。いやあ、おもしろかったの、なんの。映画館は満員、しかも夫婦50割引のカップルが客席に目立った。第一弾の感想を、簡単にメモ書きしておきます。
 
もちろん怪獣映画=ゴジラ映画だが、危機管理をめぐる皮肉な政治コメディでもある。無限に飛び出てくるとおもえる俳優たち(政府関係、技術者中心――マスコミの扱いは軽減されている)。それぞれの発話が早く、いきなりの飛躍的確信に突っ込みすら入れられないほどだ。速度そのものが解決、というスクリューボールコメディから50年代後半の日本映画にわたる映画法則が作品全体を覆っている。川島雄三『愛のお荷物』あたりの雰囲気をおもった。オマージュの中心はまずは岡本喜八。冒頭に出現するプレジャーボートの所有者、さらにはゴジラの存在を確認し、巨大不明生物を「ゴジラ」と命名していた先行者として、岡本喜八監督が「写真出演」している。
 
語りのめまぐるしい速度が全篇を猖獗する結果、「憶えられない」という身体の第一反応が出る。この「憶えられないこと」はしかし映画鑑賞の難点ではない。「憶えられなさ」がむしろわけのわからない体感の昂揚につながるためだ。ハリウッド大作はすべてこの領域にひっかかるようにいま製作がなされていて、監督・庵野秀明が全篇にわたらせた編集リズムも世界性を視野に入れている。往年の実写作『ラブ&ポップ』の余栄があるかどうか。
 
ゴジラは上陸し、東京を中心として歩行、歩行域を廃墟に変え、最後はその歩行を中断するのみだ。つまりその行動は知性や心性を承認させるものではない。ところがゴジラは同時に「象徴」でもあって、その象徴化は人間側のなす定義、右往左往、「駆除」の方法などから逆照射されることでなされる。ゴジラは過程であり、定義の生成であり、実体なのに実体ではない。ゴジラのうごきと人間側の反応しか描かない本作には物語=ストーリーがないともいえるだろうが、「刻々」がすばらしく生き生きしているのは、「刻々」がまさに「刻々」として描かれているためだ。庵野秀明の英断をかんじる。道義臭をもつ教訓など何もないのに、「カフカ→ベンヤミン」ラインのアレゴリーが、ゴジラをつうじて生物感たっぷりに「うごめきつづける」のが見事だ。むろんベンヤミンの浮上は廃墟化にかかわる。
 
分岐・融合する、あるいは融合・分岐するゴジラの象徴系=暗喩系をまとめておこう。
 
映画史上の神話といってもいい『ゴジラ』第一作は、アメリカによる太平洋上の水爆使用、あるいは空襲記憶という「尾ひれ」がついていたにしても、神性の「出現=エビファニー」にまつわる純粋な映画的運動だった。ゴジラは山の端からの気配として、さらには尻尾などの部分=換喩としてまずは徴候化され、出現にいたるまでの間合いは、逃げ惑う人々、彼らの見上げる視線などにより、間接的な「影の位置」に曖昧に定位されてゆく。超常現象=化け物映画はこの出現の呼吸を描かなければならない。そうして『ジョーズ』『未知との遭遇』『エイリアン』『グエムル』など諸傑作の系譜が『ゴジラ』を嚆矢として映画史を縦断することになった(先行作といわれる『キングコング』は実際にはこの系譜外といえる)。
 
庵野が造型したシン・ゴジラは、ゴジラ映画史上、最もグロテスクだろう。尻尾などの換喩的示唆があったのち、その出現はあっさりと画面定着されるが、その定着がゴジラ造型の完成形ではない点にふかい洞察が窺われる。成形が完了していないがゆえの「ルック」の野蛮な拙劣さ。海底火山など他の異変可能性が消去されたのち「巨大不明生物」として定位された初期段階のゴジラの歩行を振り返ると、それは「這いずり」と歩行の曖昧な中間を動態化され、ひどい腐臭をもつ血痕を進行域に付帯させる。そのゴジラが内的変態を経て成形を完遂させ、ついに直立歩行を可能にしたときに、伊福部昭のテーマ曲が鳴り響く。これがゴジラ「出現」の瞬間だった。「出現」を遅延=差延させるこの手つきに、デリダ的な知見をおもわざるをえない。
 
ゴジラの体表は、例のごとく、鱗というよりも硬い葉片をちりばめ、その隙間から地肌が覗く態のもの――その後の円谷プロの怪獣造型ではピグモンなどに継承されるもの――だった。地肌が赤く、その赤が血とマグマ的な地熱双方を指標するのが造型上の手柄だろう。血は、もちろん「生きている機械」「肉でつくられたロボット」「腐敗可能な人工性」という逆説的な組成に結びつく。これが『ナウシカ』の巨神兵(庵野が造型+アニメートさせたもの)、さらには庵野自身のエヴァにむすびつくのは明らかだ。エヴァンゲリオン化されたゴジラが、シン・ゴジラだった。
 
宮崎アニメとの関連でいえば、ゴジラは放射能をふくんだ熱光線によりビルディングを寸断させ、その周囲の秩序を不可逆的に変容させてゆく。前者は『ラピュタ』のロボットだし、後者は『もののけ姫』での、ダイダラボッチ化したシシ神だろう。ただし全能性だけが強調されているのではない。とりわけ変態前の未成形状態をもつこと。そのときの前肢=腕が極小なこと。サリドマイド禍の児童をおもわせる。そういえばピグモンも腕=前肢が矮小化していた。いずれにせよシン・ゴジラには幼児性も装填されている。ここから庵野自身がゴジラに入れ子させられている見解も浮上してくる。
 
成形完了後のゴジラでグロテスクな発達の中心となるのが口腔と歯だろう。「口腔空間」とよべるものはサーモンピンクの襞が重畳する形状をなしていて、かつてのバイオ怪獣「ビオランテ」の頭部形状をおもわせる。歯はこまかい多数性・雑多性・猥褻性をほどこされている。「有歯膣」をおもわざるをえない。一般にゴジラ型怪獣の頭部は男根象徴だが、歯と口腔は有歯膣で、その意味では雌雄同体なのだった。典型が、未公開ビデオで大人気だったデッドリー・スポーンだろう。しかもそれは腐食侵食をほしいままにする粘液もしくは漿を吐き散らした。
 
シン・ゴジラにあったのは、粘液でなく、放射能だ。海中でのその成長過程に、放射性物質の捕食があったと推測されるがゆえに、この作品のゴジラはその進路のあとに放射性物質を残存させる。ところがやがて核ミサイルを撃ち込まれると、とうとう全身から熱光線を放射させるようになる。順序があったはずだ。戦闘機の攻撃を受けたゴジラはいったんうずくまった。それで「最初は」放射能とおもわれるものを、その口から「嘔吐」したのだった。嘔吐という動作の人間性、動物性。そういえばそういった人間性がかつてのエヴァや巨神兵を不気味にさせていたとおもいだす。怪物性と人間性の境界消滅そのものが不気味なのだった。つまり庵野は怪物性のみの先験的な不気味さを承認していない。
 
ゴジラは解析の結果、遺伝子数の多い、最高度の成長生物、しかも世代間ではなく自己内で進化を遂げる生物の未知形態といった「診断」を受ける。融合されたものの無限性がそうした見解の後押しをしているだろう。ところがそれは記憶にあたらしい領域を「忘れてはならない」と賦活させる。まずは3・11東日本大震災と福島第一原発事故。羽田沖から大田区吞川への未成形ゴジラの最初の侵入=上陸の際、人々の「逃げること」が至上とされたのは、むろん震災時の津波の記憶によっている。のみならず、ゴジラののこす放射性物質が厄介なこともくりかえし強調され、作中「除染」の語も反復された。
 
本作の政治コメディのディテールには、望まれるべき国際協調に横たわる「思惑の落差」「大国支配」への揶揄もある。ところでゴジラが東京駅で凝血剤を撃ち込まれるまえ、いわば弾道化した山手線、京浜東北線などの無人車輛がゴジラに突っ込んだのち、丸の内などの高層ビルをミサイルが貫き、倒壊崩落したそれらがゴジラのうごきの自由を奪ってゆく細部がある。むろんこの高層ビルの崩落映像は、9・11同時多発テロの変奏だろう。
 
着ぐるみ的な不恰好さをあたえられていたとしても、ゴジラのうごきは着ぐるみにはよらない。公開時に、ゴジラの外観とうごきがどうCG表現されたかがあきらかになった。輪郭となる身体のポイント、ポイントにマーク標的をつけた狂言師・野村萬斎にゴジラとしてうごいてもらい、そのマークの位置変化からゴジラの「うごく身体」が立体合成されたとのこと。「モーション・キャプチャー」の技法だ。ゴジラは歩行しかしていないとしるしたが、その歩行は能=狂言系譜の「すり足」で、そこに動作の日本性が込められていたことになる。
 
以上、ゴジラ的身体に凝縮・錯綜している暗喩の系譜を示唆してきたが、問題はゴジラの身体は単独に顕れるのではなく、背景となる風景との複合として表象させる点だろう。したがってゴジラは東京の風景論を付帯的に起動させる。とりわけぼく自身は大田区の呑川周辺に育ち、少年期を、ゴジラが第二次上陸する鎌倉で育ったから、実写召喚されている風景の個々に身体的なリアルをおぼえてしまった(とりわけ極楽寺と稲村ケ崎のあいだ、江ノ電の鉄路の下の小さなトンネルが画面定着されたときにはアッとなった)。
 
風景のなかにあるすべてはじつは惻隠の情をおぼえさせる――ゴジラ的暗喩の最終形とはそのようなものではないだろうか。風景のなかに屹立する巨大性とは、それ自体が悲愴だということだ。このときには、風景のリアルと、怪獣身体のリアル、その双方のいわば陥入が要る。そのために実景をもとにしたミニチュアや書割ではなく、実景がきめこまかく作品に召喚された。しかもそれは多摩川を境界線とする差別論、あるいは皇居を度外視する中心空無論といった、風景論に通暁する者にはさらに重層的なふくみまであたえるものだった。
 
さて『シン・ゴジラ』の行き着いた哲学は以下のようになるだろう。暗喩が一物体に集中すると、それは神性化ののちに、凝固と、意味作用の停止までもたらす。『シン・ゴジラ』はゴジラへの人間たちの作用をつうじて、文字どおり、「未解決のままの中断・停止」に行き着くが、それは、実際は戦闘の結果というよりも、イメージをもつものの招き寄せる一種の必然なのではないか。このことはもちろん時間性にも影響をあたえ、中断こそが正しい結末だという託宣まで導く。「結晶イメージ」にかかわるドゥルーズ『シネマ』の諸考察を、庵野はさらに発展させている――そうおもって震撼した。
 
 

2016年08月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

タナダユキ・お父さんと伊藤さん

 
 
【タナダユキ監督『お父さんと伊藤さん』】
 
昨日、試写で観たタナダユキ監督『お父さんと伊藤さん』がとても「いい味」だった。人間はもともとほとんどが「言い足りない」存在で、その言外の域が、そのひとのいる環境と見分けがつかなくなる。そこに切なさや可愛さが揺曳すると、ドラマの表面的な起動部分以外の細部――いわば空気のようなものに惹かれてゆくことになる。
 
10月8日公開なので、まだ具体的な細部分析は控えるが、概要ならこうだ。34歳、書店でアルバイトしている、どこか人生の運営に的中感のない上野樹里がいる。その上野より20歳年長の同棲相手が「伊藤さん」=リリー・フランキーで、彼もまた仕事は「小学校の給食のおじさん」で、飄々としているというより得体が知れない(彼の得体の知れなさはドラマが進むにしたがいいよいよ深化してゆく)。そのふたりのこじんまりした生活の巣に、長男(長谷川朝晴)の嫁(安藤聖)と折り合いのわるい上野の父・藤竜也が飛び込んでくる。狭い生活空間が共有され、それぞれの居心地わるい身体が一触即発の危機を迎える――作品の設定は一見そのようにおもえるが、そうではないだろう。一触即発ではない身体の相互治癒力、その萌芽のほうを、見据えているのだ。
 
藤竜也の役柄が強烈だ。まず語尾が癪に障る。気に食わないAという事象が彼にあるとする。すると彼は「Aでいいのかな」「Bだとおもうんだがね」という言い方をして、「Aをやめろ」「Bにしろ」という命令形を避ける。この回避により、相手に選択の余地をあたえるようにみえて、実際にはそんな余地の一切ないことが、ことばのやりとりのみならず、空間じたいに逼塞感をあたえてゆく。面倒な者、ウザイ奴、KY――いかようにも彼を形容できるだろう。
 
藤が長野という教育県で小学校教員を勤めあげた、履歴上は実直な男とわかってくる。こどもだった上野や長谷川には、たぶん父・藤にまつわるやさしい思い出がほとんどないのではないか。徹底的な堅物、抑圧類型、自己信奉者。たとえばとんかつにかけるソースに中濃ソースしかなかったことで、藤の厭味な物言いが飛び出す。「ウ-スター」ソースしかありえないと藤は言うのだが、返す刀で披瀝される中濃ソース批判の舌鋒が必要以上にするどく、執拗で常軌を逸していて、この否定力は、たぶん家族をも対象にできるという予断をうんでゆく。
 
たぶんその藤と上野ではドラマにならない。そこに緩衝剤としてリリー・フランキーが介在し、いったんは生活の甲斐性のないリリーを藤が白眼視する気配がつたわりながら、やがてリリーの多趣味、余裕、地に足のついた生活感を藤が認めだす反転力も伝わってくる。それらすべてはほとんど科白として明言されない。すべては空気のなかにただよっているものだ。
 
気づくと、父親を嫌がっているはずの上野にもどこか不逞な自己治癒力があって、父親からの強圧を無意識の図太さで跳ね返している。それに上野自身は気づいておらず、気づいているリリーだけが面白がっている。このときに空気的な領域をなだめてゆく身体のアンサンブルといったものが観客に意識されることになる。科白のやりとりからは出てきにくい三人への印象がうまれる――「可愛い」。
 
タナダユキの演出力が実際は突出している。シーンの移行にかんしてはジャンプカットにつうずる飛躍力のある運びが多い。たとえば藤竜也には、上野の尾行などもあって、意外な側面が次々に判明してゆく。ついには「箱」の秘密も暴露される。穏当で繊細な音設計のなかで、最大限の驚愕に巻き込まれる一節もある。ところがタナダの演出は基本的に平叙体をつらぬき、驚愕に驚愕性をあたえない。飛躍を充填する柔らかい空気がいつもある。つまり描出が待たれているのは、たえず驚愕であるより空気なのだった。
 
そこで機能するのが家の空間で、映画は上野・リリーのいる小振りの(家庭菜園のある)アパートから、大町の古屋敷という空間上、見事な動線をもっている。その古屋敷に舞台に移ったときに起こるもろもろは、リリーの設けた「設定」を度外視すれば、あるいはある一瞬を度外視すれば、基本的には「ありがちな」事柄が中心なのに、忘れがたい目覚ましさがある。示されるのは、たえず未遂にしかたどり着けない身体のもどかしさ、身体の寸止め性で、そこにこそ家族の相互性に関わる深い洞察が介在している。
 
飛躍が空隙を意識させない。空隙があるとすればそれもまた平滑感でみちあふれる。そのときに「色彩」の一貫性・集中性が機能している点なども見逃せないだろう。たとえばこの作品では「柿」「枇杷」「二度にわたる料理のフライの衣」「ウスターソース/中濃ソース」という橙色から茶色へといたる系譜が強調される。それが生の色なのだ。「枇杷をよろしく頼む」「ついでに娘をよろしく頼む」という藤竜也のズレを孕んだ発語の展開は、「Aでいいのかな」という語尾の欺瞞が、平叙の領域に侵入してきたものだ。それに人物たちは気づいている。あるいは気づくことなく気づいている。最後に上野樹里のとる行動が何なのかは、この点から判断されなければならないだろう。
 
ともあれ人物たちとおなじように、映画もまたうつくしい寸止めで終わる。けれども未遂で終わるものすら、明察者にとっては完遂でしかない(リリー・フランキーがまずそれをしめし、それが藤・上野の父娘にも伝播してゆく)。潜勢とは、つねにすでに実在性なのだ――『お父さんと伊藤さん』が提出したものもそんな哲学だった。
 
 

2016年08月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

桃幻

 
 
【桃幻】
 
 
きずながら二生をおくっていると
桃さえまぼろしとおもえてくる
うちをはばむきみわるいうぶげが
すいてきのままそとみとなって
みいらに似ない円寂がゆれる
かおりある蜜のどこが一身なのか
蝋とかようものかげがまどにうつる
きんいろとはももいろのとおさだろう
 
 

2016年08月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

典礼

 
 
【典礼】
 
 
ゆっくりと耳のもえてゆくような
うたのはこびがあるから生きてられる
それいがいがそのうちにあると
かたりかけるひとのながれをそれ
星へふれたてのひらのにおいがする
この耳のきえさりにしょうぜんとして
こめかみのかけたかおがうかんだ
ひとつすらさわとなる夜のてんれい
 
 

2016年08月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ありそ

 
 
【ありそ】
 
 
あなたの舌、あなたのくちびる
母音だった愛語へと子音をかさね
うすく構音をこころみるうちに
ひとおもうことがなみだっていった
くちはくぼんでかおをほりさげ
子音できずついてこころにおくれる
かおの音便もびふうのへりに花ゆれて
あいさないまどから荒磯がみえた
 
 

2016年08月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ひな

 
 
【ひな】
 
 
ゆううつふかいぼんのくぼの
うえがやぶだかっこうなどいる
いずれは巣をやぶる托卵のおとが
みみのこのよをつらぬくだろう
たくらんで石よりおもいたまごの
からだをふればかわきが鳴って
おるがんもむらぎもへわかれてゆく
ことなるひなとはひなびとのこと
 
 

2016年08月02日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

終景

 
 
【終景】
 
 
ないことをぜんていにひとつある
顔でおわる映画をおもいないた
かけがえのたたれたうすまりとは
あめ夜のさみしいむこうに如かなく
かたらぬこころなどがあったなかった
決意にきりとられたもの、顔のまま
あることのぜんていがひとつなく
あったもろもろもひとりへくずれた
 
 

2016年08月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)