ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

生家

 
 
【生家】
 
 
うかんできえていった家、そのかみは
門前の坂へかたむかぬようあらがい
うすいろのさるすべりをうかばせていた
しぬまでのさきをみなわかるこころは
予想と回想をたがえて時間にうつくしく
にわのみずかがみをみはらせていた
表札に「てのひら」の字があった家だ
あいさつのうしろでそらをひきいていた
 
 

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2016年09月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

把捉

 
 
【把捉】
 
 
にくをそのままとおもわせないために
うすひかる皮膚がなかみをさえぎる
やみどこにてふせばわたをぬらし
とおあさにはりつめるよるのなみだを
とおくうるむほしぼしへとつなげた
ひふがいきるのもそうみえるためだろう
まやみではふろしきのようにほどけて
遠心ながらぎゃくにこいびとをつかんだ
 
 

2016年09月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

掌紋

 
 
【掌紋】
 
 
からだのうちがわがあらわになる
そのはずかしさをにぎりかくそうと
すこしだけばらいろなのがてのひらだ
さだめがきざまれているというが
ゆうぞらへ掌紋をつけてなぞにかえる
いんさつのようなひびがあるのみで
うちがわはいちばんぼしとむつみ
ひとどうしのにばんをくずしてゆく
 
 

2016年09月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

苗穂駅にて

 
 
【苗穂駅にて】
 
 
ピントのはずれている写真がすきだ
べつのおくゆきへとカメラがとらわれ
たよりなく放心するのにうながされ
たたずまいからたましいがぬけてゆく
歩廊よりほそく車輛庫をしたがえ
苗穂駅にたつと栓があたまにてゆれ
ひとをひとり以下にするのもその秋の
壜すらみようとしないピントだった
 
 

2016年09月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

幼形

 
 
【幼形】
 
 
希臘という文字あしらいがきれいで
それが陽とにくたいであまっていたとは
まぼろしだったのかとてもおもえない
こどものいない市がさかえたともきいて
いたらないからだのつきあかりや
みちくさの未了がおくへにじんでいた
うすぎぬをしまいながらうれうのだ
いつでもネオテニーがさきゆきにある
 
 

2016年09月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

灰わたり

 
 
【灰わたり】
 
 
そらがそのまましずかにおりていて
つちのとてもあおいところがある
あんなたいらをわたってひとびとは
いよいよかげむしへとなってゆくのだ
ヘヴンが身のなかだときづかんか
こうへいにしぬことがまざっている
そのからだが奏でているときづかんか
ないもののきざしへむけあがる灰を
 
 

2016年09月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

道内名物

 
 
【道内名物】
 
 
食がほそくなりいちばん
ながほそい料理をというと
ゆりねとはっかのあじのする
二尺の紐状がでてきて
からだへくりこむうちに
つちとそらのうれいがましたが
それがどうもられていたのか
音更川のようにおもわれた
 
 

2016年09月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

又隣

 
 
【又隣】
 
 
おんがくへはいるとはかぞえさせられ
なおかつわくらんにみちびかれることだ
おまえの記憶がかたよっているかぎり
かたよってすらいない、そうもいわれた
きれいなはらわたをエスコートしていると
さきへともぐりゆくよろこびをおもうが
それがおんがくならどこにもながめはなく
となりだけならぶまたどなりがつづいた
 
 

2016年09月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

よわたり

 
 
【よわたり】
 
 
はだしで玻璃玻璃とゆくときは
あなうらよりたちのぼるちけむりが
からだぜんたいをけしてゆくので
なんのがらすだろうというほどもない
「わたしは縦一体のあるべき揮発」
たっているさまがとおくあるいていて
いつかみたさみしい不徳のあたりに
きえてまたあらわれる半可にすぎない
 
 

2016年09月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

つりがね

 
 
【つりがね】
 
 
くうきがこまやかにぬれてから
ひとみにも秋があふれるのだ
つりがねにんじんがさいて
みることがうすむらさきとなり
つつましくうつむいてゆくと
うつむきにみのりもあらわれる
かわは甲斐なきものに櫂あれ
つりがねに似たきみが舟でゆく
 
 

2016年09月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

秋風

 
 
【秋風】
 
 
風「あなさみしき音すなり
丘には丘のみの音がして
そこらをふきわたることは
くみしくにもひとしい
みおろされてむすめのづも
いよよほそ髪とかわり
ゆるがすにはたやすいが
ふれずして気のよわりゆく」
 
 

2016年09月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

喫魚

 
 
【喫魚】
 
 
さきなくてまがりくねるほそい路地が
わたしらのあいだもせばめていった
たどりついた酒肆でさまざまとおくの
うみからあげられたさかなを喫して
むしろ東京になってゆくとかたられた
千駄木になりその場所の秋になれば
もっとも狭窄するのどがせつなく
うたうすがたにもとおさがきざすと
 
 

2016年09月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

斬首湯

 
 
【斬首湯】
 
 
水にからだのかたちのあなをあけて
しずかに湯のなかをたっていると
うかぶことから追放されたとわかる
このはと身のどちらがふるいのか
たずねるところがまわりばかりなのが
きっとはだかのせいけつなのだろう
なにもうつさないみなもにかこまれて
くびだけが帆布のようにゆきたがる
 
 

2016年09月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況9月10日

 
 
【近況9月10日】
 
北海道新聞本日夕刊に掲載されるぼくの連載コラム、「サブカルの海泳ぐ」はひさしぶりに音楽ネタ。①ジャニス・ジョプリンのドキュメンタリー『ジャニス リトル・ガール・ブルー』、②今年一月に逝去したデヴィッド・ボウイを追悼する目的で、NHKBSにてオンエアされた『デビッド・ボウイ 5つの時代』(2013年英国BBC制作)、それに③YouTubeアーティスト、ナタリー・ドーンの最近の活動、をとりあげました。つまり、原稿には暗黙に、映像と音楽の関係が書かれています。
 
音楽にたいしてもともと映像は「記録するもの」でした。たとえば上記『リトル・ガール・ブルー』ではジャニスのハイスクール時代、大学時代の活動も掘り起こします。家族、友人、当時の共演ミュージシャンなどの証言によって。そのとき貴重な音源が登場します。
 
同じ曲の異なる映像を巧みに入れ替えるし、証言者のことばのズリ上げ、ズリ下げを自在におこなっているのは、女性監督エイミー・バーグ。ジャニス自身の醜形恐怖が彼女のセックス依存症、ヘロイン耽溺にどうむすびついていったかを説くその構成は、還元主義的ですが、現れるものの肌理こまかさによって信憑を得ています。オーティス・レディング、ジョー・マクドナルド、ジェリー・ガルシア、クリス・クリストファーソン、あるいはビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの面々など。
 
とりわけジャニスが家族などに宛てた手紙の文面がすばらしい。教養、ユーモア、孤愁、自負などがナチュラルに変化する達意の文体が共感をさそうのですが、それをキャット・パワーがナレーションして、ジャニスというロック・アイコンの内面化に貢献するのでした。むろんキャット・パワーとジャニスは声質も個性もちがうはずですが、どういうのでしょう、「記録」という大義のもとでこそキャット・パワーがジャニスへと変成できる。「記録」はそれにかかわるすべてを貢献的にするのです。
 
ちなみにいっておくと、ジャニスが一世を風靡するきっかけとなった、モンタレー・ポップ・フェスの「ボール&チェイン」の映像がやはり暴力といえるほどに催涙的。もともとはビッグ・ママ・ソーントンのへヴィ・ブルースですが、夜の雨をみつめながら、我が身に、鉄球と鎖につながれた重たさをかんじ、兆している男との別れを怖れるというその歌詞は、ジャニスによって唄われるとき、ベイビー、ブ、ブ、ブ、ブという畳み掛けからなぜか解放のひびきをもつようになってきます。その逆転性が泣けるのです。
 
あるいはこの作品にはNYチェルシー・ホテルに滞在したビッグ・ブラザー&ホールディング・カンパニーの面々が、コロンビアのスタジオでアルバム『チープ・スリル』用の録音をおこなっている貴重な「記録」が出てきます。とりわけ「サマータイム」のアレンジをめぐる論議が生々しい(ちなみにぼくは、ジャズ曲をアルペジオと演歌的なロック、マイナー・バラードに変えたあの曲のアレンジが大好き)。その曲でも「夏には綿花がひらき、安寧が支配する。だからベイビー、泣かないで。おまえも翼をはやして空ふかくへ昇ってゆけるよ」と慰める子守唄の内容が、「泣け、泣け、ホットサマーは地獄のように暑い」と聴こえだす二重性をもつことになります。
 
それにしてもジャニスは、自己蕩尽的な破滅シャウトで、いずれ声が出なくなると自身もかんがえていたらしい。それが『パール』録音時に多彩な発声を会得し、以後は数十年唄いつづける希望を抱いていた、その矢先、不慮のオーバードーズ死だった、と作品は結論する。けれどもぼくは、ジャニスが歌手として歌唱を蕩尽してしまう絶望を予見していたのではないかとおもいます。じじつ、高音のハスキーウィスパー→シャウトの「サマータイム」は録音時から2年後の70年にはもう唄えなかったといいます。歌も尽きる、セックスも尽きる――その暗然とした予感と孤独が相俟って、やめていたヘロインにジャニスが久しぶりに手をつけ、死へとさらわれたのではないでしょうか。ともあれ、『リトル・ガール・ブルー』はそういう暗部を裏箔にもつ「記録」です。
 
音楽と記録ということでは、その後、音楽を記録する、という目的格構文がくずれだした。契機になったのが、マイケル・ジャクソンで頂点に達したビデオクリップ映像でしょう。そこでは「音楽と融合した映像が現れ、そのことが記録になっている」。刺戟性に向けられたこの状態によって、音楽=資本力=ポピュラリティというトリアーデができてしまったのは、なんとも残念でした。このことによって、インディアーティスト、ルックスに遜色あるアーティスト、若くないアーティスト、リズミックでないアーティスト、難解なアーティストなどが真の音楽シーンからはじき出されることになります。ビデオクリップの監督たちの画一性といったら! これらは現代日本の詩作シーンのありようをも暗示しています。
 
ところが貧民のメディア=ネットによって、音楽と映像の関係がまた変わりました。スタジオに使用できる自宅、据え置き撮影ができるカメラ複数台、スイッチ編集ができる編集アプリ、などがあれば、自宅で「手作りビデオクリップ」をつくることができる機会平等の時代になった、ということです。「手作り感」には機知とスピードとシンプリシティが要る。
 
この点で群を抜いたのが、ジャック・コンテとナタリー・ドーンのコラボチーム、パンプルムース、とりわけその後、ソロでもYouTubeアップを繰り返しているナタリー・ドーンでしょう。すべて「室内」で撮られて(=録られて)いるのが味噌です。そこでは現在形の「室内楽」がどのようにあるべきかの志向が現れる。こういう機制です。①ひとりから数人、とりわけふたり。②女どうし。③フォーキー(アコースティック)。④次善として音楽にコンピュータ活用。⑤なによりも機知。⑥それで既存曲のアレンジをシンプルに縮減してしまうカヴァーが、そのまま「戦略」となる。
 
ナタリー・ドーン自身には複合性があります。エレキベース、アコギ、キーボード、何でもパーカッション、コンピュータ操作が可能なマルチミュージシャン。コーラスも自身の多重録音が多い。大卒の高偏差値とナチュラルな色気、適度なルックスの可愛さ。女ともだちの多さ。母親とのコラボまで可能な女性性の継承。そして何よりもフランス語圏で育ったがゆえに、英語発声がどこかたどたどしいのが、実に「良い味」なのです。逆に彼女はアレンジを変えフォーク化したエディット・ピアフなどは実に流暢なフランス語で唄っていました。
 
いいたいことはこうです――『リトル・ガール・ブルー』では「記録」は「大義」としての多流性をもっていた。ところがパンプルムースやナタリー・ドーンのYouTubeビデオクリップでは、「記録」は記録というフレーミングとぴったり一致し、その室内映像のなかにナタリー・ドーンが余剰のない輪郭として現れ、その「自体性」が享受者を魅了するということです。アイコン神話の剥奪。ところでこの「自体性」はイリガライの用語でもあります。女性の本質を夢想して発語されたこの用語は、いまやそのままに女性のみえかたを規定するものになった――そうおもいます。
 
 

2016年09月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

色身湯

 
 
【色身湯】
 
 
おのれにくらいひろがりをふくみ
胡蝶がゆらめいてゆくのをみた
露天湯にひたるとほねがゆるんで
やがてむしばむあなもひらきとじる
そとから湯へはいってくるひとを
うそにもえがこうとするのだが
ねっとりと波紋だけがくりかえされ
水のくぼみとひとしい色身ひとつ
 
 

2016年09月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ハドソン川の奇跡

 
 
【クリント・イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』】
 
2009年1月15日、USエアウェイズ1549便がニューヨーク・ラガーディア空港を離陸した直後、左右のエンジンが鳥の群れを吸い込み機能停止、空港に戻るか別の空港に移れという管制塔からの指示を機長は聞かず、ニューヨーク市内をつらぬくようにながれるハドソン川の水面へと不時着した。厳寒の季節の出来事だったが、機体への浸水をものともせず乗客乗員155人は全員が無事。ハドソン川に浮かぶ機体の両翼に、乗客がびっしりと並び立っている衝撃的な空撮写真を記憶しているひとも多いだろう。
 
その「ハドソン川の奇跡」とよばれる「実話」(またしても)をクリント・イーストウッドが映画化した。ただし映画ジャンルは、パニック映画や危機脱出英雄譚ではない。事故調査委員会が振りかざす、空港に戻れたのではないかというコンピュータの判断と「人間の決断」がどのように交錯するか、そちらの闘争のほうにむしろ描写の重きが置かれている。
 
昨日、試写を観たあとに女房へ打ったメールをもとにして、以下、映画評としよう。
 
「上映時間96分。なんたるコンパクトさ」「それゆえの傑作」「イーストウッド映画は基本、2時間20分なのでびっくりした」
 
「初期作品のように爽快なエンディング。話法が抜群のアメリカ讃歌」「タイプはちがうが『ガントレット』や『ブロンコ・ビリー』の《読後》に似ている」「いっぽうでお馴染みの《悔恨》の主題がない」
 
「どう撮ったかわからないところが満載」「技術的に凄い」「とりわけ機体がハドソン川に着水してからあとの撮影」「多いときには百人近くが画面に収録され、しかもそれらのうごきが多様だから、ひと捌きが奇跡的」「機体をつくりあげておいて、《水》をCG合成したのだろうが、そのことがすでに意表を突く」「大規模撮影にはちがいないのに、運びがもたつかない」「編集の妙技を吟味する必要がある」「映像はハドソン川に実際に機体を浮かべ、当時のようすを精確に再現したようにしかみえない。この《活人画》へのこのみが『父親たちの星条旗』のラストとおなじ」
 
「語りの形式の幸福さが、そのままアメリカ映画へのオマージュになっている」「飛行機を襲った異変は、幾度か語り替えられる」「その意味で黒澤明『羅生門』への意識がみとめられる」「こういう順序」「悪夢(夢オチ)→部分再現→白昼夢(客観的視点が偽装される)→着水後の機長、副操縦士、CA、乗客たち、救助艇の人々の行動の詳細→条件を入力したうえでの空港回帰などのシミュレーション映像(実在操縦士を起用した版もある)→公聴会での採集音声レコーダー確認の場面に《付随する》資料としての完全再現映像――そうして《真実は逆説として開陳される》」「乗客を避難させた最後に、浸水した機内に乗客がのこっていないか確認をする機長をとらえる前進移動が、とりわけ英雄性と孤独が複合したショットとなっていて忘れられない」
 
「お約束事のように、ラストの公聴会で、機長トム・ハンクス、副操縦士アーロン・エッカートの劣勢が鮮やかにくつがえされる」「こういう順序」「鳥の群れがエンジンに突っ込んだとしても、人間は状態を確認したうえで善後策をさぐるから、コンピュータ・シミュレーションのような即座の判断などできない――この点がシミュレーションの条件に入力されていない」「左のエンジンがぎりぎり機能を保っていたというのはコンピュータの誤認だったことが、川から回収されたエンジンの状態から判明した」「ハドソン川への不時着は機長の奇跡的な英断で、これが唯一、乗客を救ったと結論できる」「このように一種の裁判劇だが、形勢が逆転して一挙に光明があふれてくる展開には既視感がある」
 
「根底にあるのはハワード・ホークス」「技術信奉、男の友情(トム・ハンクス、アーロン・エッカート)、航空性、が柱になっているから」「その意味で近作では『スペース・カウボーイ』とつうじている」「ただしいわば《行動の回春》を捉えた単純構造の『スペース・カウボーイ』にたいし、『ハドソン川の奇跡』のテーマはもっと複雑」「《タイミング》を離れての決断はない、決断は生き物、といったその主題は、動物行動学やアフォーダンスにも連絡している」「この意味でより複雑な感慨の傑作となった」「大団円でのリズムの畳み掛けが見事。これがアメリカ映画だと感涙にむせんでしまった」
 
――これで映画評となっただろうか。ネタバレととられるかもしれないが、この作品は物語ではなく、演出をわくわく確認すべき作品だから、べつに以上のように書いても問題はないとおもう。ともかく大好きな映画。能天気にみえてそうではない。9月24日、全国ロードショー公開。
 
 

2016年09月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

黒沢清・ダゲレオタイプの女

 
 
【黒沢清監督・脚本『ダゲレオタイプの女』】
 
昨日は試写で黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』を観た。監督にとって初の全篇フランス語使用映画、フランス人俳優オンリー、外国人スタッフオンリー、全篇フランスロケの映画なのに、やはりヘンな味のある黒沢映画になっていたのが嬉しかった。
 
ゴシックホラー&ニューロティックホラー(ポランスキー『反撥』など)という絶妙のブレンド。ダゲレオタイプ写真機(分厚い立て板が物々しく重畳する構造そのものが、幽霊と機械の融合のようだ)による銀板現像がおこなわれ、黒沢好みの階段と吹き抜けのがらんどう空間があり、植物が育成される温室がある広壮な古屋敷そのものが「ゴシック」を醸成する空間となるが、再開発地域に指定され、いわばそれ自体「褪色」への傾斜をもっている。腐食の原因となるのが銀板写真撮影にもちいられる溶液内の水銀だろう。この作品は、像を不当に採取し静謐化し永遠化する(それゆえにベンヤミンはそこに、礼拝価値+一回性+遠さ=アウラ、をみた)銀板写真に、水銀との連接をとりわけ意識させる。しかもそれが瑞々しい水滴とともに画面に定着までされる、ヴィジュアル上の極点すらもっている。水銀との連接は、むろん完璧な像の成立が不当性を裏箔にする事実を証言する。
 
狂的な父親ステファンがいる。強圧者であるのみならず、彼は「レベッカ」の位置にもいる。亡妻ドゥーニーズのまぼろしの、屋敷内の跳梁に悩まされていたのだ。亡妻はかつてダゲレオタイプ写真のモデルだったが自死した。彼の現在のモデルは娘のマリー。その撮影の助手に写真学校などに行くなどして写真ずれしていないジャンが選ばれた。
 
最初の面接のとき、すでに黒沢的な長回しによるパンニング(ダゲレオタイプの銀板写真とは対極的なもの)が現れる(階段のある空間が利用される――いわば『ドレミファ娘の血は騒ぐ』の驚異的なショットの奥行軸のうごきを横軸へと変換したもの)。無人の気配のままドアが不気味にひらき、階段のうえを黒いドレスの女性が垣間さまよう。事物の定着のなかには脱定着がふくまれるという視覚上の真理。ジャンとマリーは暗さと明るさの複合として、やがてリラダンの「ポールとヴィルジェニー」のように相思相愛となる。
 
黒沢清の流儀がいつもとちがう面もある。「唐突さの感じられない唐突」「衝撃性のかんじられない衝撃」といった、演出呼吸の二重性がほぼ全篇にわたり遵守されているのだ。これはヴァル・リュートン調のエレンガントな抑制美と誤解されがちだが、「定着と脱定着の共存」という視覚上の主題に添ったものとかんがえたほうがいいだろう。やがて画面に生者の気配を失ったものがしばしば現れてくる。使用されるのは、横軸であれ奥行軸であれ、移動撮影だ。視界移動のあとの予期せぬ場所にそれらは「いる」。「いる」ことは衝撃なのに、移動そのものが調和的だから、効果の複合が生じるのだ。様式の折衷(それは物質的には蛇腹状だ)、そのさなかに亡霊性がぼんやりと揺曳するというのが本作の第一原則だろう。
 
あっと驚くのはヒロインの「階段落ち」の大きすぎも小さすぎもしない衝撃の規模だが、やがて、マリーが「いつ死んだのか」で、黒沢映画特有の「ヘンな味」(リラダン、カフカからボルヘスにいたるまでの通念脱臼)があらわになる。むろん死の決定不能性とは、黒沢の以前の大傑作『LOFT』以来のものだ。おもいかえせば黒沢はその作品で、ミイラ(身体は残存するが魂がない)と幽霊(魂は残存するが身体がない)、この相異なる想像力の葛藤と融合をもちい、たとえばダニエル・シュミットの『ラ・パロマ』における死の決定不能性を増幅した。これにくわえ過去作でいえば、ヒロイン、マリーの、「水銀」にたいして植物を擁護する見解に、『カリスマ』の余栄がわずかにみとめられる。
 
相思相愛カップルは共謀をおこなう(そこが逆説的だが「崇高」だった)――これが『ダゲレオタイプの女』のさらなる基軸だろう。そうして作品は複式夢幻能の結構を超える。順序はこうだ。「死んだのか否か」「死んだとしたらその死期がいつなのか」定かでない、「その意味で」魅惑的なマリー。理由のわからない(フレーム外で事件が生起した)階段落ちでゆかに横たわってしまったマリーにたいし、父親ステファンは死を認定する。ところが助手のジャンは、それを承諾せず、病院に連れてゆこうとする。この過程でマリーにさらに水死の詳細が「加味」される(「死+死」の図式)のに、マリーは画面上に「生きて」再臨する(視界移動の果てに――してみると視界移動とは無限の順延、あるいは前項否定をともなうことになる――くりかえすがこれが銀板写真の属性とするどく対立する)。
 
このあとまさにふたりは「共謀する」。ステファンがマリーの死を疑わないなら、いっそ死んだことにして、彼の絶望を、館の売却に利用しよう、と。ところがそのマリーにはすでに死者の気配が濃厚なのだ。それで死が死の、虚偽が虚偽の尾を噛む、異様な再帰性が以後の物語を推進してゆくことになる。素晴らしい、の一語に尽きる。その帰趨がどうなるかはしるさないが、『カリガリ博士』的なラストの誤謬が悪用され、全篇にB級のテイストが浮上するとだけはいっておこう。
 
再帰性、それはダゲレオタイプの撮影がもともとふくんでいたものでもあった。露光時間に120分まで長時間を要するその撮影では、被写体である人物は背筋を伸ばし、しかも左右に揺れないように、背後からひそかに拘束機械での固定がおこなわれる。それは被写体のからだをしめあげる意味では、苦痛をともなうサドマゾヒスティックなものだ。固定=定着を実現するためには再帰性の干渉が要る、という哲学。黒沢としてはめずらしくこの作品ではジャン、マリーの接吻シーンが連打され、かつ暗示的ながらベッドシーンもえがかれるが、真にエロチックなのは、ステファンの助手ジャンが、マリーの身体の至近に寄り、マリーに拘束機械をほどこすとき、マリーがちいさく漏らす、恍惚とも苦痛とも判別できない喘ぎだっただろう。
 
脚本も黒沢清。ジャンとマリーの命名はストローブ夫妻に拠るのだろうか。ステファンはとりわけ『イジチュール』のマラルメだろうか。マリーを演じたのは『女っ気なし』で注目された新星コンスタンス・ルソー、ジャンを演じたのはロウ・イエ『パリ、ただよう花』のタハール・ラヒムだった。欲をいえばこのふたりに、溝口健二『近松物語』での長谷川一夫と香川京子の風情と体臭がもうすこしあればよかった。10月15日より新宿シネマカリテほかで全国公開。
 
 

2016年09月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

淵に立つ・余談

 
 
【『淵に立つ』余談】
 
女房の話では、黒沢清監督が『淵に立つ』(10月8日公開)の深田晃司監督にたいし、作品前半できえる主演の浅野忠信が、作品後半をも支配していると対談で指摘したという(この点はかつてぼくも書いた)。たしかに『淵に立つ』の後半では(逆説的な意味で)聖者然とした浅野忠信が失踪を原因に画面からほぼ存在しなくなるが、後半で浅野がいなくなるのは、自死により作中後半から表面上消えた黒沢清監督の『アカルイミライ』とおなじ。だから黒沢さんは深田さんに、『アカルイミライ』からの継承を示唆したのかもしれない。
 
問題は「使徒」のあつかいだろう。『アカルイミライ』ではオダギリジョーが、浅野を継承・伝播する使徒となって後半、中心化する。いわば使徒ヨハネだ。クラゲはそうして増殖し、彼方へ消えた。ところが、『淵に立つ』では太賀がたぶん予感的な使徒の座に入りながら、しかもそのことが分明でない。たぶん『淵に立つ』の構造的な卓越性はそこにある。「聖画」が不可能性に浸食されているのだ。太賀がふと口にする「いいすよ、殺されても」がどのような帰趨を迎えるのか。そのこと自体に「聖者の物語」がしるされていたとおもう。同時に真広佳奈も不可能な聖者だった。
 
 

2016年09月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

こいびと

 
 
【こいびと】
 
 
ふかくうれいあるそこを
ゆびでゆっくりおしひらく
これがよむことのほしだ
肉のそらというべきかなたは
にくいろなくもえる井戸が
むごんのつらい声でくちをなし
あのよのおとをしぼっていて
さかいめがえいいきだった
 
 

2016年09月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

加護

 
 
【加護】
 
 
加護されたほそながさとなるため
へびはかたちをといでいったんだろう
あわいはらわたはやがてひもから
いとみたいなまぼろしへうつりをとげ
とぐろにまくことがけむりだたせる
きずぐちへ塩などぬるとうっとりするが
よろこぶかたちもにがよもぎを這い
あおむ縦でしずまりおえる午後がある
 
 

2016年09月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

加減

 
 
【加減】
 
 
ためいきをふかくつくと
べつのかたちがあらわれる
まえと時だったかげんが
いまと秒のかげんをおおい
てのひらのみつがおもるのだ
かおをしぼってかがめば
といきも舌のようにぬれて
なかばがからだの坂だ見ない
 
 

2016年09月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)