ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

 
 
【瀬】
 
 
かんむりをいただいてちぢむひとを
とおくにいるおんなだとみいだす
すそゆれるすかーとがゆめのようだ
きんいろをおびてなみきのいちょうと
半音差なのをわずかにもやさしむ
たたずみがやまの硫黄でゆらぐのへ
くうきをつたってちかづいてゆく
おうせに瀬のあるかぎりずぶぬれで
 
 

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2016年10月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

まいおりる

 
 
【まいおりる】
 
 
きえぬけいしょうもあったはずだが
わすれてぼろをはじる居のこりとだけ
あの世へころがりこむことをした
ときがたちもうろうとしたばんぶつが
やみにかずかぎりなくつらなれば
ふくすうでさえおおきなひとつだと
おもいきりがバサとつばさをたわめて
そこへは黒煙となってまいおりる
 
 

2016年10月29日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

大根仁・SCOOP!

 
 
【大根仁監督・脚本『SCOOP!』】
 
大根仁監督・脚本『SCOOP!』には、よっつの時間相がみとめられる。以下、それを順にたどってゆきたいが、その前提として、「時間」総体について一言しておく。通常、空間はみえても、時間はみえない。とりわけ持続じたいがみえない。みえる=感知できるのは変化であって、それは時間そのものではなく、時間のささえにのせられた物象のうごきや物象それじたいの変貌であり、それらがただ時間性として感官へ反映されるにすぎない。時間がみえないのは、風がみえないのに似ている。
 
ベンヤミンの直観どおり、「みえなさ」にまもられた時間は、もともと無意識状態にあるといってもいい。それが「撮影」により意識化されたとき事物や物象が、時間そのものの放心を事物関係として配置する。時間の無意識が露呈されたアジェの写真へのベンヤミンの嗜好は、悲哀への嗜好の一歩手前だろう。
 
映画『SCOOP!』がとりあつかう職業人は、写真週刊誌に所属するカメラマン、つまり専属パパラッチと、それとコンビを組む編集者だ。芸能人、政治家などのおもに下半身スキャンダルをあばくために、無意識の時間から有意識の瞬間を狙いうち、剔抉し、さらし、それに性器的な意味=外状をあたえる一種の賤業だといえる。静穏にながれている時間のスカートをめくり、スカートをめくりうることで「時間がもともとは裸だった」とあかす。その職業はいまふうに「ゲス」「サイテー」なだけでなく、時間論的認識の転倒にもふれているのだ。
 
時間のなかに瞬間があふれているのではない。それはもともとみえない。ところが瞬間を問題にすることで、時間が秘部をかくしもつ猥褻な媒介へとすりかわってしまう。一旦点火されると瞬間への欲望は肥大に肥大をかさねる。みたい、みたい――ポルノグラフィ、スポーツでの決定的な瞬間、それらは「撮影」という悪行こそがみちびいたものだ。
 
取材スキャンダリズムを基底に置く点で、映画『SCOOP!』はかつての滝田洋二郎『コミック雑誌なんかいらない!』に似ていそうだが、それよりも最近の映画ではイーストウッドの『アメリカン・スナイパー』にむしろ似ている。撮影=「シュート」は照準器を覗く狙撃兵と同等の緊張、ならびに経験をしいる。革ジャン、アロハ、アフロヘアー(巻きはゆるい)という「昭和」のヘタレ風俗に身を構え、初めての「汚れ役」に挑んだ記号アイコン=福山雅治は、セクハラ的な言動を映画の開始時に濫発するが、すぐれた写真家「でもある」属性がもともとあって、カメラをもち、構え、「瞬間」を待機するすがたや手つきが「汚れていない」。手の清潔感そのものから作品の映画性がわきあがってくる。
 
かつての原田眞人『盗写 1/250秒』(未見)の原田芳雄が継承されているという。福山とのちに言及する二階堂ふみのコンビネーションは、「昭和」でいえば根岸吉太郎『探偵物語』での松田優作と薬師丸ひろ子を髣髴とさせる。カメラを構える手が、クルマのなかにあって、「東京の夜」につつまれていることが単純に胸を打つ。このことが、清潔さと孤独に弁別がないとつたえているのだ。芸能人スキャンダルを狙うのだから、時間は深夜から未明、場所は六本木、もしくは恵比寿-中目黒-代官山のラインとなるが、時間の本質的な無包蔵にたいし、それら夜の東京は蠱惑的な包蔵性をたしかにもっている。
 
写真週刊誌のイロハも知らない二階堂ふみが、他部署から写真週刊誌へと配属され、副編集長・吉田羊により、福山雅治とコンビを組まされる。吉田の目的は、すぐれた報道カメラマンだった福山の賦活、それと二階堂の訓育にあるのだろうが、福山に見込まれた何か、二階堂に見込まれた何かが、両者間に引力を発する可能性にときめいているようにもみえる。福山は、特ダネ獲得一本あたり幾ら、というあからさまな成功報酬に釣られ、専属契約まで交わしてしまった。
 
有名人たちの性的放埓をしるしづける「瞬間の把捉」。大根仁の作劇はいつもどおり緻密に推移する。有名男子アイドルグループと女子アイドルグループどうしの、時間差で入り込んだ秘密デートクラブの密会。停車していたクルマのフロントガラス越しに、みだれきったそれぞれの入場を福山が連写で収める。あとは「乳繰り合い」の証拠物件を手に入れればよい。年齢差カップルを装って福山と二階堂が追ってその店にはいる。福山の鞄には盗撮用のビデオカメラが仕込まれている。やがて発情した一組のカップルが、カーテンで仕切られた隠し部屋めいた店の奥にはいり、ソファーのうえでキスとへヴィペッティングを開始したのがカーテン越しにかすかにみえる。ただし従業員、グループ構成員の数からして、撮影後、速攻で逃走しなければ危険だ。福山があたかも規定事項のようなそっけなさで二階堂に指示を出す。俺は店の前に逃走用のクルマをつけておく。お前は隠し部屋のカーテンを引き、そのワンチャンスからふたりの痴態をケータイに収め、逃走しろ。
 
大根仁の正しいところは、上首尾とはいえないが必死で撮った二階堂のケータイ写真が手ブレを起こしていて、福山に嘲弄されながらも、それが雑誌上、一頁もしくは見開き使用とならずに、福山の撮った店への入場写真と組みあわされて、なんとか「写真記事化」されていたことだ。不完全な「瞬間」は朦朧としている。それは縮小され、段階化という文脈を施されなければならない。これにより、観客は「瞬間の完全捕捉」の欲望を増強させられるのだ。
 
映画『SCOOP!』の「ジャンル」は幾とおりにもいいかえられる。出版ギョーカイ映画。都市風俗映画。師弟間の交情と、精神継承をとらえた伝統的作品。あるいは年齢差を超越、しかも男女という性差すらあたえられたバディ・ムーヴィ。ただしカメラマンの瞬間の把捉がスナイパーの遠隔発砲と似ているなら、やはり映画『SCOOP!』の本質はアクション映画というべきだろう。むろん「撮影企図-成功」という事実提示のみではアクションにならない。大根仁の創意はそこで発揮される。
 
小泉進次郎をモデルにしたとおぼしい与党の若手ホープの政治家と、巨乳が売りの局アナの、SPに守られた深夜のホテルスイートルームでの密会、その決定的な写真の撮影を、福山・二階堂の疑似「師弟」コンビが促進される。とおく対面するビルの屋上から、決定的瞬間を望遠レンズで狙う福山。ファインダー内の画柄はスナイパーの照準器のそれと酷似する。
 
ところがここでも「カーテン=時間のスカート」が真実を遮蔽する。それはめくられなければならない。詭計が案じられた。傍らにいる二階堂が当該のホテル一室の方角に向け、打ち上げ花火を連射しだしたのだ。光の異調と物音とで、おもわずカーテンをひらき、それに見入る斎藤工とその相手の女。バスローブで上半身をはだけた斎藤と、ブラジャー、パンティ姿の女の2ショットが、望遠レンズを介在して次々と連写された。ところがこの陰謀は気づかれる。SPが撮影者の追跡を迅速に開始し、以後は逃走車を驀進させる福山、二階堂との、白熱したカーチェイスとなる。
 
大根的な「付加」とはなにか。まずはカーテンをひらかせる発明的な小道具として一旦画面に登場した「花火」がクルマのなかからでも再使用されることだ。スピードと運転技術にまさるSPたちのクルマをやりすごすことができたのは、二階堂が車窓から打ち上げ花火を福山の指示でさらに相手へ点火投擲したためだ。焦った彼女は、花火を入れているビニール袋そのものを相手のクルマに投げてしまう、しかもなかの一本を点火したまま。袋はSP車のフロントガラスに貼りついて視野をさえぎり、しかも大量爆発を起こし、ついには手先の狂ったSP車は、逃走する福山たちのクルマのリアガラス越しに大爆発を結果する。このときのアクション連鎖のスピードと破天荒はほとんど性的な快楽までともなう。ここで作品のアクション性がはじけた。
 
それまで二階堂は、福山のやさぐれた、しかも不発のセクハラジョーク、あるいは傍若無人な「道具」視、それから自らが語った来歴の無個性への冷たい揶揄により、腐りきっていた。大根の素晴らしいところは、カーチェイスでSP車が助手席方向から寄ってくるだけでなく、逆方向からも迫る転調をあたえた点だ。結果、花火投擲で応戦する助手席の二階堂は、自分側の窓からのみではなく、ハンドルを必死に切る福山のからだごしに、運転手側の窓からも花火を「シュート」しなければならない。このとき、自然に、福山と二階堂のからだが接触する「二次的な」アクションがうまれる。このことがこのふたりの性的興奮の伏流となった。だからスクープ獲得稼業のゲスさを「最低の仕事」だと最初に了解した二階堂がおもわず「最高の仕事」といいまちがえたとき、助手席の二階堂のくちびるが福山の強キスの餌食になる。いや、このキスシーンは、カーチェイスシーンの前だったかもしれない。
 
大根的鉄則にあっては、「アクション」がクレッシェンドしなければならない。写真週刊誌「SCOOP!」はおおきな「ヤマ」に直面する。宮崎勤と酒鬼薔薇聖斗と山口の母子殺害事件犯人を合成したかのような非道な犯人「松永」の「現在の顔」を盗写する案件だ。ブルーシートに保護され、大量の警察官が動員された現場検証の原っぱ。警察はマスコミの位置をひとつに定めている。ところが別方向に廃車場があり、そこからの「撮影リスク」にたいし警察は無頓着でいる。その廃車脇に、シャッターを押すだけに設定された二階堂のカメラ、さらには廃車ごしには福山の望遠カメラもポジションされた。
 
ここではアクションを増大する要素が「倍加」だ。しかもグラビア袋とじ頁で写真週刊誌の部数を伸ばし、報道写真時代の福山の雄姿を間近にした経験をもつことで、かえって福山、ならびにスキャンダル報道に懐疑的・敵対的な滝藤賢一(彼も副編集長)が現場補助として増員されている。ここも「倍加」だ。ここから「松永」の顔の捕捉、その成功にいたるまで、福山、滝藤、二階堂が不規則な運動加算を画面にユーモアも交えて刻印してゆくことになる。大根の演出は見事、というにつきる。
 
滝藤は大学時代、ラガーだった。覆いで囲われて保護された「松永」をブルーシート内に導いた警察官のまえで不規則な旋回もまじえて走りまわり、タックルをいどみ、しかも相手からのタックルをすり抜ける。かつてこの方法で、滝藤-福山コンビはスクープをものにした経験則があったのだが、さすがに加齢に勝てず、肝腎のところで滝藤の攪乱は奏効するものの、息切れも激しく、やがて彼は警官たちに捕獲される。
 
次は廃車場からカメラを掲げた福山が飛び出してゆく。警官たちの標的の場に自らをさらし、大声による挑発で、「敵陣」の統一を乱す。右往左往する福山に、覆いが乱れ、わずかにできた隙間から「松永」の顔が覗く。ここでも「覆い」は脱がされた。その猥褻な隙間に向けて、廃車場にのこった二階堂の望遠カメラが連射に成功する。一時はカメラを振り上げた福山の手が、撮影画角を殺しているという生々しい自己再帰性まで伴って。二階堂はその後の逃走にも成功する。むろんこれはプロフェッショナルな滝藤-福山-二階堂の連携プレイというべきだろう。映画好きなら何に似ているかがいえる。ハワード・ホークス『リオ・ブラボー』でのアンジー・ディキンソンとジョン・ウェインのあいだでの拳銃の投げ渡しがそれだ。
 
「瞬間」をえぐりだすことで時間の欲望化へみちびくという、映画『SCOOP!』の第一の時間相についての言及に手間取った。シーン説明を付帯させすぎたせいでもある。警察の警戒網をかいくぐって「松永」の現在の顔を盗撮するという、述べたうちの最終エピソードでしるしたことが「加算」だった。じつはこれが本作のしるす第二の時間相なのだった。大根仁の作品は、TV版『モテキ』でも映画『恋の渦』『バクマン。』でも豊富なエピソード、若い世代の民俗学的ともいえる「あるある」考察を盛って、ストーリーを「驀進」させるのが真骨頂だ。ときにそれは観客の記憶容量を越え、脱分節的な「線状脱色」という異常事まで付帯させてしまう。結果、「身体的昂奮だけがのこる」。ハリウッド映画的なのだ。
 
ところが『SCOOP!』には『バクマン。』がもっていた様相がさらに強化された一面がある。それが俳優の「顔貌」に作品が驀進するにしたがって肯定的な加算が起こることだった。福山は登場時、タブーにちかいほどの「やつし」をしいられている。けれどももっと注目すべきなのは、二階堂ふみだろう。最初に画面定着されたときの彼女は、トロい行動で福山のスクープ機会を台無しにした負のスタートをしいられる。スタジャン、茶髪で、とても一流雑誌社の一員とはみえない二階堂は、なにか彼女なりの身体調整で、当初、眉間をゆるく弛緩させ(つまりバカ顔)、福山のひとつひとつの言動にブータレてみせ、魅惑を発しようとしていない。それが上述したような成功裡のスクープ連鎖により、仕事に充実をおぼえだすと、やがて顔に芯棒がはいり、ひとみがかがやいてくる。彼女は加算的にうつくしくなり、それが福山にも反射し、ふたりは相愛の主体として適格性をおびてくるのだ。「第二の時間相」があかすのは、次のことだ。「時間は積まれれば積まれるほどに、価値化され、時間内存在をうつくしくする」。
 
危険すぎる撮影機会に福山が逡巡し、仕事に充実をおぼえた二階堂が単身、福山のカメラを自らもってタレントたちの乱倫の場へ切り込むエピソードがあった。秘密の雰囲気をたたえた深夜のとある店。結果、福山の予想どおり盗撮企図が発覚した二階堂は取り押さえられ、レイプの危機にさえおちいる。なんとかヘルプコールを福山へ発信することができた二階堂。救済に向かったのは福山と、ジャンキーの情報屋、リリー・フランキー(過去に福山とは「いわく」がある)で、ここでは福山の意外な喧嘩の弱さと、ボクシング経験者リリーの意外で笑えるほどの強さというオチがつく。
 
この後、福山とリリーは呑み遊ぶ。ピンサロにも行く。ふたりは深夜や早朝の東京を連れ立って千鳥足で彷徨するとき、幸福そのものを発散するつがいとなる。そのようすを物陰から遠望している者がいる。福山に借りたカメラをいまだに手にもった(事件現場から退場したはずの)二階堂だった。この二階堂に加算が起こる。二階堂は、福山とリリー、ふたつの身体の幸福なたわむれを物陰から望遠カメラで連写したのだった。ふたりのようすに憧れていたとするなら、いずれは福山にたいするリリーの立場へと彼女も昇格する。それが「加算の予感」だ。
 
時間の考察は、距離の考察を付帯する。本作ではもともと距離は、スキャンダル対象への疎隔をしめしていて、それはカーテンその他の遮蔽物に秘匿されていた。ところが人間をめぐる距離はそれだけではない。二階堂と福山のからだは接触し、福山とリリーのからだは幸福裡にたわむれる。リリーの位置への代入願望は、距離の実際を破砕している。時間の推移は、距離の接近によって加算相に置かれ、しかもリリーの位置への代入願望のように無方向化するのだ。それを大根が仕掛けた、時間意識への攪乱といってもいいだろう。
 
完全に朝となった時間帯、福山のマンション居宅に、借りたカメラを返すという名目で二階堂がやってくる。ドアは施錠されておらず、自然になかに彼女は入る。殺風景、物も置かれていない打ちっぱなしの壁が露呈した部屋。雑誌類が雑然とところどころに積み上げられているだけだ。その中央に置かれたベッドで、久しぶりにリリーと愉しい時を過ごした福山が眠っている。相手の寝顔に見入る人物の「時間」はもうすでに愛の実証だ。福山は来訪者の気配に気づく。だんだんと覚醒時の正気にもどっていった福山は、キャパの話をし、それが本作の衝撃的なクライマックスの伏線になる。事後的にいうと、「加算」は間歇することで「交配」するのだ。
 
問題にしたいことはさらにある。救出にたいする謝意を述べるだけではない。もう恋する者のうつくしさを「加算」されている二階堂のくちびるにむけ、福山のくちびるが近づいてゆく。すでに強キスがあったのはしるしたとおりだが、この正常のキスは寸止めされる。福山とかつて交際していた吉田羊が福山用の朝食の食材をかかえて来訪したのだった。ふたりのただならぬ経緯を了解し、あたふたとその場を去る二階堂は作品開始時の「おずおずとした少女」にもどっている。これらはドラマの「加算」を阻害する描写の反動なのだろうか。そうではない。
 
ベランダに出た吉田の見た目で、福山のマンション前の道路を「敗走」してゆく二階堂が捉えられる。むかしのわたしそっくりと、吉田が笑う。このときに決意されているのが「禅譲」だった。いうまでもなく「禅譲」は時間の加算性の最高峰をつくりあげる。継承よりももっと明示的な変型がある。これをしるすために、二階堂と福山のキスは寸止めになったといえる。このように、大根の仕掛ける時間の加算性は、顔の良化とは別の次元で、さらに「真に運動的=多方向的=ゲリラ的」でもあった。
 
そうした「証拠」がほかにもある。愛と叡智に、よりかがやいていった福山、二階堂の顔とはべつに、リリー・フランキーの顔は、作品がすすむにしたがい、逆方向に加算する。より蒼白になり、より狂気をおびるのだ。作品の第三の時間相は、先走っていえば、「過去の総括」にまつわるものだが、ジャンキー=リリーを襲う決定的な惑乱は、フラッシュバック、つまり記憶の総括不能だった。そうして第二の時間相が第三の時間相に連結される。ひとつの時間相に終始しないことが大根仁の法則だった。実際はこの「連結」こそが「加算」の本質で、加算はねじれの位置に組織される。「禅譲」とおなじだ。逆にいうと、「継承」自体(この作品のみえやすいテーマ)は同方向の進展を延長するにすぎないだろう。
 
注意しなければならないことがある。凸凹ともいえる福山、二階堂のコンビは、本来ならカメラマンと記者に役割分担させられていたはずだ。ところが領域溶融が加算的に増大してゆく。二階堂は福山と「同時の」撮影者の位置へと無理やり拉致されてゆくのだ。芸能人のカーテン越しの隠し部屋でのいちゃつきを、まず二階堂は自分のケータイに収めた。次は、福山に借りたままになっていたカメラで、二階堂は、福山とリリーのこどものような身体どうしの接触と舞踏性を収めた。さらには福山のしめす迷彩行動の後部で「松永」の現在の顔を捉える真打として二階堂が英雄的行動を貫徹した。これらもまた加算の軌跡といえるだろう。
 
この加算もまた多方向的で、結果、個々の「領分」を無化する拡張なのだった。大根は時間の加算をしめしながら、同時に時間は一方向にはながれないと、ふかい留保をつけている。結果、最終的に二階堂は本作のクライマックスで「撮影者」の位置にのぼりつめ(それなりに彼女は責任を負う)、しかも自己を分化させて、記事の記述者の大役をも担うことになる。これが最後の「加算」で、そこに出現する情緒的な演出に、観客は泣かされることになるだろう。
 
未見者の愉しみのために、本作のクライマックスについては叙述しないが、拾うことのできるふたつのエピソードを示唆しておく。これが第三の時間相、つまり時間の事後的な総括にかかわるものだ。ここでは性的体験の初回性が共通の話題になる。クライマックスで惨事が確定する直前、福山は二階堂に一万円札を渡す。吉田羊に渡せ、渡せば彼女は理由を了解すると言い添えて。その後の吉田の反応、それと作品の当初の福山の悪態言辞を綜合して、その一万円は、福山が吉田に負けた賭金だったと観客は判断する。では何の賭けか。ぼんやりダサい二階堂はどうせ処女だと福山はわめき散らしていた。その福山の見込みが誤謬だったと判明するのは、福山が誤謬を実地体験したためだ。事実は、福山と二階堂の、満足のゆく初交接でしめされた。ここでは予想の外れが、「時間の総括」として吉田に投げ出されている。
 
もうひとつ、二階堂を脇に、滝藤が福山を回顧するディテールがある。かつて若手記者時代の滝藤が福山のカメラでついに初めての大スクープを獲得したことがあった。祝儀にふたりは鶯谷のソープへ行き、そこで滝藤は筆おろしをすることになる。ところがその相手はうんざりするほどの肥満体。それで滝藤の初体験は悲惨さに終始した。ことが終わり、福山が慰める。俺の初体験も悲惨だった。相手は50女だったもの。滝藤の述懐は過去の総括。むろん真実だ。ならば滝藤のそのときにたいする福山の述懐は真実だろうか。
 
滝藤は真実だとおもっているだろうが、作品の全体をみている観客は虚言に決まっていると判断するはずだ。福山はかつて美女の吉田羊をモノにしているし、ついさっきはかわいい二階堂をモノにした。それは美形で、撮影に才能と執念を発揮する男性性をもちあわせているためだ。キャパに憧れた高校生の時に、すでに同級生ヌードなども撮っていて、そんな相手と初体験を済ませているにちがいない――観客はおそらくそうおもう。このときは時間の第三の相「過去の総括」が、同時に真実と虚偽の逆方向に分岐しているのだった。
 
第四の時間相。じつは本作ではここに現れる時間論がもっとも抒情的にうつくしい。これは簡単に例示できる。「松永」の現在の顔の撮影に成功したことで二階堂は局長賞(だったか?)を得る。刊行後、販売部数が飛躍的に伸びた(シーンの白熱を数値の推移でいわばグラフ的にしめす手法は『バクマン。』におなじ)。その後は社員たちによるカラオケの打ち上げとなる(このときの二階堂ふみが抜群にかわいい――TV版『モテキ』の満島ひかりのように「悲惨で、かわいい」というのではないが)。会がひけたあと、ジャンプカット、イメージ処理されたような展開で、二階堂と福山の初めての交接が描かれる。描写はロマンティックで、作品当初のポールダンサーのいるストリップバーや、その後のピンサロの無秩序な描写とは次元がことなる(注意すべきだが、大根は本作でいかなる女性の乳首もカメラに収めてはいない)。事後の翌朝、福山はまだベッドに寝ている二階堂の寝顔を、ライカだろうか、高校生時に愛用していたカメラに収めた。これが伏線となる。
 
そのカメラにその後、福山は事件渦中の映像を収めることをしいられた。その福山の「仕事」の確認者として、吉田羊と二階堂ふみが社内の暗室にいる。いまは写真のすべてがデジタルのはずだから、その暗室使用は久しぶり、例外的なものだっただろう(往年のフィルム資料のデジタル化につかわれる以外は)。赤い照明下、福山の撮った写真が次々に現像されてゆくと、それらは対象の尊厳をまもるため意図的にピントが外されたものだと判明する。そのことだけでも泣けるのだが、観客は待望している。最後のフィルム齣に収められているのはあのときの二階堂の寝顔のはずだと。
 
やがて「それ」は赤い照明のもと、現像液にひたされて、ゆっくりと現れてくる。過去のとおさをうちやぶり、ゆっくりと現在化されるこの像こそが、おそらくは「第四の時間相」、恩寵とか秘蹟とよばれるものだ。あるいはエビファニー。プルーストはそれに水中花の比喩をもちい、ベンヤミンならそれをアウラの語で荘厳するだろう。問題は「ゆっくりと」現れるものだけが真実だということではないだろうか。じつはこの緩徐性は、この瞬間まで作品が描出を自制していたものだった。だから落涙をうながされてしまう。この落涙により、時間の欲望に翻弄されていた観客が救抜されるのだった。
 
情報を確認していないが、この二階堂の寝顔の写真は、眠る演技を自然におこなう二階堂を、映画のカメラマン、スチルマンではなく、俳優の福山が、写真家自身として(つまり素の状態で)撮ったものなのではないだろうか。ここでも役柄の境界が侵犯されたとみるべきだ。福山に撮られる信頼が二階堂にあり、二階堂を撮る愛着が福山にあったとしたら、主役男女のいわばメタレベルでも、作品そのものが崇敬されたことになる。
 
――10月26日、シネマフロンティア札幌にて鑑賞。
 
 

2016年10月28日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

橋が言う

 
 
【橋が言う】
 
 
橋「木のにおいでうかんでいるんだ
いぬをたかく拉する気概もあった
ふゆのあさここは霜をつなげて
けもののゆれにこそさきをゆずる
ひとはつれそうと前後ができるけど
ゆめのまましぬにふさわしくない
くっついてそいとげるひとでなしを
霜でひやしみちびいているんだ」
 
 

2016年10月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ときのおと

 
 
【ときのおと】
 
 
ときなり、というのは時がこすれて鳴る
むふう無雲のふかいあおからしずかに
おなじいろのうすぎぬがはがれおち
はだかをのこしさってゆくものひびきで
ふゆのさきがけがひずむのをみあげた
ときならすひとへみみかたむけるように
なじまぬ造語もからだによいだろう
ちがいのつづくとおくこそがおなじい
 
 

2016年10月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

縄痕

 
 
【縄痕】
 
 
いっせいにまえがあけはなたれ
いちょうのおうごんはいれられた
ひかりへにおいがわずかまじり
わけえないものをめぐるうれいで
ふかくしんしんはとどこおった
やまはなかわぞえぎんなん臭にて
たどれば去来もはずかしかった
みみのあなが縄痕だらけとなった
 
 

2016年10月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

並行

 
 
【並行】
 
 
そらにそらがいるとみえる日は
さかをひとりくだっていたりする
きだがあるしかもとおくある
おりるたびそらをおもえるのは
このからだがなげかけとなり
ながめをいちいちわけているのだ
「はるかさなら並行でつづく」
はじめあいすればおわりもそうか
 
 

2016年10月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況10月23日

 
 
【近況10月23日】
 
本日の朝日新聞の「売れてる本」コーナーに、ぼくの書評が載っています。対象は、朝井リョウの『何様』。直木賞受賞作『何者』の「アナザーストーリー」です。ふたつの関係を説明するだけでも字数を食うのに、そこに公開中の映画『何者』もからんでくるから、結構、原稿作成にアタマをつかいました。その痕跡をご確認いただければ。
 
朝井リョウは、現在の心性にシフトしているから見過ごされがちだけど、ものすごく「文学的」だとおもう。というか、話者を変換しながら章立てしてゆく連作短篇で、一人称独白体を使用する作家はみんなそうでしょう。それまでとの「連関」が不明なまま、とつぜん「だれか」が語りはじめ、徐々に既存世界との整合点がみられはじめる。その経緯はサスペンスフルなんだけど、話者の年齢・性別・性格・学識などによって、独白文体を変化させるときに、実際は「書くこと」そのものがはげしく「外部化」している。
 
ぼくは最近の小説の動向にさほど詳しいわけではないけれど、かつて川上弘美の『どこから行っても遠い町』(08)を読んだときに、外在的な条件によって「書くこと」が緻密に変成してゆくありさま(というか「コード化」)にびっくりした記憶があります。それで実際には太宰治「女生徒」「駆込み訴へ」のような事例がもう過去のものとなった。あれらは情動の流れるような塊に物語機能がくっついたものだったけれども、現在の作家は一人称独白でむしろ「空隙」を語っているのです。空隙の身体性。
 
朝井リョウは張った伏線を作品の後半になって消化してゆく構成力にどんどん磨きをかけてゆくのだけど、出世作『桐島、部活やめるってよ』では一人称独白体の斬新さ、その印象だけがつよい。「話者」の属性により、独白が徹底して質的に書き分けられている。むろん彼が目指すのは、ジョイスを現代へズラしたような「意識のながれ」(それでもそれは「充満」していない)。外界からの刺戟として周辺人物の発話が話者の「意識」を寸断する手法も得手なんだけれども、句読点使用や改行の仕方が現代詩の実験性からもちだされている。この意味で「文学的偏差値」がたかいとおもうのです。
 
『桐島』は朝井リョウの学生時代の若書きだからまだ構成力が十全ではないのは確か。そんな朝井を刺戟したのが、吉田大八監督による映画版『桐島、部活やめるってよ』ではなかったでしょうか。人物名を章題に置き、一人称独白を人物ごとにつないだ朝井の連作短篇にたいし、映画は時制で作品世界を分割したうえで、原作の人物ごとの把握ちがいを角度ちがいに変える。しかも人物の属性の整理・入れ替え、出来事の起こる場所の特化、力点の移動など、大技の変更をつぎつぎになしてゆきました。具体的にいうなら、朝井の小説では、「屋上」論が展開されていないし、神木くんたちもゾンビ映画を撮ろうとしていないし、東出くんも映画カメラに迫られて泣いたりしないのです。
 
そうして「構成」の見地から、映画は緻密な結晶体をつくりあげてしまった。朝井リョウはこのことに打たれたのではないでしょうか。完璧とはなにか、という問題です。この映画が起爆剤となって、たぶん朝井リョウは自分の小説で「構成」に磨きをかけてゆく。それで『何者』の(文庫でいうと)最後の50頁の驚愕が生まれたのではないでしょうか。
 
小説家を映画監督が「訓育」してしまうという文化的相関。むろんそれには第二段階があって、今度は小説『何者』が映画『何者』の、演出をも練磨させてしまう。それで三浦大輔が一般俳優を起用して大傑作を撮りあげてしまったのです。こういうことこそ面白い、とおもいます。そういえば、『何様』の最後に収録されている短篇「何様」も映画へ膨らませることができるだろうなあ、映画人の創意さえあれば。
 
 

2016年10月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

架空

 
 
【架空】
 
 
なづきがあっても顔などはなく
腹からねばい糸をからだ以上にはき
すうせんのあさつゆでたたえた
じぶんのかわりのめだまをあんで
ゆれながらかくだいしようとしても
あさやけをとらえてしまうことがある
みにくい八脚にてささえほそれば
あみのなかへにじむゆめともなって
 
 

2016年10月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

時鐘

 
 
【時鐘】
 
 
ときがねはときでうたれて
日のつらなりを点線にしてゆく
ああこころがからだにしめる
みえないひろがりさながら
うつくしい一刻のときがねが
それをうつもののありかを問う
いつかがだれかとまざりあう
この世のあきらめかもしれない
 
 

2016年10月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

映画の犬

 
 
【映画の犬】
 
ぼくが所属する北大文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌『層』(発行=ゆまに書房)の第9号ができました。ぼくはそこで映画における犬の表象を考察した、「映画の犬――『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』をめぐって」という一文を寄せています。自分からいうのもなんですが、「くらくらする」論文になっているとおもいます。
 
相手にしているのは、動物性という領域から引き出された「それ自体」、これにまつわるメランコリーの問題です。サミュエル・フラー監督のカルト怪作『ホワイト・ドッグ』は犬の映画として定番感があるとおもいますが、カアン・ミュジデジ監督の2014年ヴェネツィア審査員特別賞受賞作『シーヴァス』は、トルコ(現在、ニューウェイヴ映画が族生している)が不当にも映画の辺境地とみなされているからか、さほど話題になりませんでした。けれどもぼくは、おととし東京の試写で観て、主演のカンガルードッグ「シーヴァス」のメランコリックな威容にくぎ付けになりました。生涯の犬映画のベストかもしれません。巨きな躯体、筋肉の連動を裸性でつたえる短毛、ものうげなうごき、さらには悲哀にとんだ哲学的な犬の風貌がわすれられない。
 
ぼくの論文は、註記がひじょうに多く、それじたいが「展開」しています。ハンス・ペーター・デュルの本みたいな体裁です。したがって読むときも、一回めが、本文を通し読み→後註を通し読み、二回めが本文細部と註の連関を確認、といった「順序」をしいられるでしょう。直線性だけでない構造があり、空間がうねっている、ということです。
 
どうもぼくは出典註のみで終わる論文が好きでないみたいです。学術論文=註、みたいな風潮が世間にあり、註が学術性を保証するような擬制もありますが、出典註なら本文に括弧で繰り込めば消せる。もともと註は基本的には繙読の直線性を疎外する、不親切な権威なのです。となると註をもちいる文章では記述空間の多重化をもくろまざるをえない。そういう構造をしている論文は日本では少数派です。このことをぼくは疑問におもってきた。海外の優秀論文ではむしろこちらが主流なのに。
 
ぼくに関わりのある学生のためにしるすと、たぶん三読四読に値する論文の執筆には踏むべきパターンがある。今度のぼくの書いたものを例にとると、次の手順となりました。1.『ホワイト・ドッグ』『シーヴァス』に照準を合わせる(本当はそこにイニャリトゥの『アモーレス・ペロス』も入っていたのですが、この作品への言及は紙幅の都合で、註記内に圧縮してしまった)。2.映画の細部への見解を補強するため、現代思想系の「動物論」(デリダ、ドゥルーズ、ベンヤミン、アガンベン、間接的にはハイデガー、レヴィナス、それに加えてピエール・ガスカールの『人間と動物』)を再読初読し、引用箇所をテーマ別に抜書きなどしてゆく。3.あらためて映画を細緻に分析するとき、テーマの相同性を軸に、2を編入してゆく。つまり多重性の論文をつくりあげるときにこそ、ぼくのいつもいう「参考文献表」がおおいに機能することになります。この手間を厭ってはいけない。
 
ともあれ、このようにして書く論文は、面倒は面倒なのですが、今回の「映画の犬」は展開が複雑な示唆にとみ、映画のディテールにも哲学的な肉づけ肉薄ができたとおもいます。それが文章効率、画面のうごきの描写とともに、ぼくの個性になっている。レイシズム映画という先入観から解放された『ホワイト・ドッグ』はむろんですが、『シーヴァス』もDVD発売されているので、ぜひ論文を読むときの参照にしてください。
 
「層」9号全体についてのべると、同僚の押野武志先生の企画した、「特集1 世界内戦と現代文学」、「特集2 忍者と探偵が出会うとき」のふたつに、情報度の高い好論文が集結しています。「層」は大書店などで注文できるので、ぜひ。ちなみに9号の価格は1800円+税です。
 
 

2016年10月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【顔】
 
 
たぶん晩秋にくちもとのまぼろしは
ことばのなかみなどともなっていない
ao系の母音をふりしぼるかたちが
ひとのかおをいぬとかアジアとか
そんなかなしみにまとめあげるので
しぐさのまぼろしすべてもすこしあおぎ
ほねっぽさをあおくはなっておわる
かわくすがたからかおのみぬれて
 
 

2016年10月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

気化

 
 
【気化】
 
 
くちのなかをはしるすっぱさにがさで
あたまがしかられている気がして
やっとあまいものへ遁走するときに
フーガが起こりうっとりとはするけれど
ななかまどの実にあらわれるのは
ならんでもおんがくにならない音階
みのりへのキスもけずられてゆき
恋とはちがう気化にふととらわれる
 
 

2016年10月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三浦大輔・何者

 
 
【三浦大輔監督・脚本『何者』】
 
 
本日公開された映画『何者』は「就活」をノウハウもふくめて描く「つらい映画」とおもわれているのかもしれない。ふだんは客が数多く入る札幌シネマフロンティアも、ぼくが観た初日午後は半数弱の客にとどまり、どこか倦厭の雰囲気をかんじてしまった。そういう先入観をくつがえすTV露出も管見のかぎりさほどなかったようにおもう。残念なことだ。
 
以下は、映画鑑賞後、女房に打ったメールを省力化のため、そのまま転記うちする。
 
・情報や描写が多様な朝井リョウの同題原作小説にたいし、映画はぜんぜん「ダイジェスト」になっていない。科白ではなく演技だけで役柄の性格を造型している。主要配役6人のうち、俳優名でしめすと、とりわけ二階堂ふみ、岡田将生の役柄が「イタい」。ところが主役、佐藤健の「イタさ」は自分とおなじだとおおくの観客はおもうのではないか。抒情的な俳優にこそ観客は加担するのだ。結論的にいうと、複雑な原作のテーマが、複雑なままに伝わっていた。
 
・菅田将暉のうたう姿と、うたそのものが良い。ラスト、佐藤健の隠れブログの内容が列挙暴露される原作の衝撃的なくだりは、映画では大技が導入される。空間が「ありきたり」から、鈴木清順『結婚』ばりに演劇的に変化するのだ。そこで「演劇的なのに」映画的な昂奮が起こる。映画と演劇の配合は逆説であるときに魅惑を発する。
 
・冷徹きわまりない、人間の、仕種の、ことばの端はしの、類型学。成瀬巳喜男にも似ている。こういう能力があるから、原作を「間伐」しても、ダイジェスト感が出ない。映画そのものの語り口も流麗。むろん「間伐」とはおそろしいことばだが、連続にひかりをあたえる施策でもある。
 
・人物はみなリアルにふくらんでいる。家族的な絶望を負わされ、就職先の選択に妥協した有村架純に逆説的なことだがもっとも「希望」がある。ラスト、面接時の「1分間の自己アピール」課題で、佐藤健が失語してしまうことにも、真実と、真剣な悔悛があり、それゆえにそれも逆説的に「希望」へつうじる。菅田将暉は生活力のある「いいやつ」にほぼ終始する。
 
・「アタマのなかにあるうちはすべて傑作、でも10点をくらってでもいいから自己表現しないと何も始まらない。わたしたちはそんな段階にもう突入したの」という有村の主張は、若い世代に突き刺さるだろう。けれども中年世代には、佐藤が準拠した「観察行為」そのものの悲哀のほうがさらに胸に迫ってくる。佐藤健の心は「黒い」が、彼は悪人ではない。そう感じるのは表面的な「ことば」の裏にある心情が作中にこまかく表現されているためだ。演出家としての三浦に、天才的なメソッドをかんじる。
 
・それにしても朝井リョウの一人称独白小説を、よくこれだけ肉化した。「意識の流れ」は通常、映像化に向かないのに(この点はよく誤解されている)。現在の若手俳優の演技水準のたかさがむろんこれにかかわっている。
 
・佐藤健の演劇パートナーだった男(「烏丸ギンジ」)の顔を映画は表象しない。その処理が効果的で、彼は結果、神になる。それも滑稽な。むろん現代批評だ。このことで、そのギンジと岡田将生が似ていないという先輩・山田孝之のことばがふかい意味をもつようになる。表象の寸止めは『ゴドーを待ちながら』『サド侯爵夫人』に先例がある。映画では恐怖映画の一部にある。
 
・さすがに監督が劇団ポツドールの主宰・三浦大輔だから、映画中の舞台表象は冴えかえっている。これは朝井リョウの原作にはなかったことだ。むろん人物の愚かさを類型学的に展覧させるという点で、『恋の渦』(原作が三浦大輔の舞台、監督が大根仁)、『愛の渦』(三浦大輔原作・監督)、そして今作が、一本線でつながっている。本作を「就活映画」という素材で括りきれないのはそれが理由だ。世間はこのことをまだはっきりと認知していないのではないか。かつて『恋の渦』を渋谷の映画館で観たとき、客席は学校帰りの女子高校生でごった返していた。彼女らは、人物たちの底意、バカさ、黒い向上心、スケベさが言動の端々にほころびて現れるたびに爆笑していた。そういう反応をする先取的な観客が、札幌の映画館にはいないように見受けられた。
 
・佐藤健の美男子ぶりはスケール感がないけれども、まなざしがまっすぐ、真摯で、ひそかな悲哀をおびているのが今日的だ。こういう学生は数多くいる。その意味でいい俳優だとおもう。『何者』の主役は彼なしにはありえなかった。
 
・作品で揶揄される精神態度。たとえば「構想中の案件の途中経過を熱いことばでかたること」「決意をかたること」「人脈をかたること」「勲章をかたること」。それらがすべて「イタい」というのはよくわかる。これらはリア充にみえてそうではないひとがすることなのだ。FBでもよくみかける。
 
・ともあれ、「演劇的映画」の可能性をかんじる。とはいえ、寺山にもアンゲロプロスにもカサヴェテスにも似ていない。オーソン・ウェルズは経歴からすると演劇的ともよばれそうだが、徹底的にバロック映画のひとだ。ギトリは観ていない。『何者』の各ショットはちゃんと映画的な単位性をもっているし、長回しを三浦監督が誇示することもない。それでも宮藤官九郎や赤堀雅秋が映画的な変容を映画でおこなうのにたいし、三浦大輔の映画は演劇の残滓をとどめている。ひとつだけ確認しておく。同一空間が連続しても、映画は成立するのだ。ドライヤー『裁かるゝジャンヌ』のように。
 
・朝井リョウは幸福な作家だ。ほかの作家とちがい、例外的に映画化作品がすべて良い。徹底的な構成替え、力点ずらし、設定変更、「場所」化のうえ吉田大八が監督した『桐島、部活やめるってよ』が、飛び越えるべきハードルのたかさを設定してしまったのだろう。
 
 

2016年10月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

逆分娩

 
 
【逆分娩】
 
 
はこのなかへ箱がきえゆくように
いっそひといきでくうかんをつぶし
いたみが手からつらぬかれたのだった
ちからなくうすじろいてのひらは
はこのふかみにそれでもふれていた
かまえて下方へおもみを課すうごきも
それじたいうみだすさまになやみ
にじみながら事前と事後でわかれた
 
 

2016年10月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

おんなのように

 
 
【おんなのように】
 
 
おんなのように市電は撮影をまねく
ゆうぐれほそく弧をしいられて
かどをまがりきるさなかがほしい
なにごとかひばなにまどはくるしむ
すわっているひとらのあたまがならび
となりあうりぼんもあおみをおびる
うろこかがやくたっぷりのなかみ
途中であるすべてはきえかかる
 
 

2016年10月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

密会

 
 
【密会】
 
 
こんなふうにねんごろをかわしあえば
縁がふかまってゆくというときには
そのかたごしにとおくのきりをみやる
ひろがるのではなくおりているはるかを
かたちなき無魂のまこととするのだ
たましいいちまいのうすおおいがやぶれ
かわぎりが身の川そのものになるなら
ここもみえなさのながいねんごろだろう
 
 

2016年10月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

手による愛

 
 
【手による愛】
 
 
「てぶくろをぬぎさえすればだれもが
たやすくヌーディストへとなれる」
もっともふくざつにうごく部位、手は
うらとおもてとわかれとふくらみでできて
ゆらめかせるとゆううつもみえなくなる
からだがないというためのまはだか
ときおりゆうかぜになろうとつないだり
なでたりしてきぬのいろにもえあがる
 
 

2016年10月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ10月10日

 
 
「自己を代理する自己」は含羞を介在させると縮減する。それが「愛」(伝達性、可読性、普遍性)にかかわる詩の技術だ。
 
 

2016年10月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況10月8日

 
 
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が掲載されています。今回串刺しにしたのは映画。具体的には、イエジー・スコリモフスキ監督『イレブン・ミニッツ』、クリント・イーストウッド監督『ハドソン川の奇跡』、黒沢清監督『ダゲレオタイプの女』の三本です。これらを比較対照することで、「空間表象」が主体とおもわれがちな映画が、いかに創造的な「時間表象」を、それぞれ独自におこなっているかをしめしました。とりわけぼくの指導学生に読んでもらえたら。
一部50円です。道内ならコンビニでもキオスクでも買えます。
 
 

2016年10月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

みえる

 
 
【みえる】
 
 
「輪郭線などない」そうつたえるために
まくったうでをよこへのばしまわした
うごく不確定より明度の差がつよいのなら
このことがにくたいのはずかしさだろう
とらえきれないのにうきあがっているのは
星のながれがわたしらにあるゆえで
にくたいがみえるのも輪郭線ではなく
むしろ抹消のあとかたにこそ負っている
 
 

2016年10月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

飴色

 
 
【飴色】
 
 
とどのつまりこの世ですきなばしょは
カーヴか橋かまがりかどだとかんがえる
ながくカーヴをゆくときは片耳がそげ
橋ならばあるくからだが稀薄にひろがる
まがりかどではこころじたいのかずが
きのうの秋きょうの秋というようにふえる
どうしてみちもおんなめいたつながりなのか
女坂へふみいれた足があめいろにとろける
 
 

2016年10月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

コマドリ

 
 
【コマドリ】
 
 
いのる手からふとわきだしたように
おぼえちがえたロビンがその橙で
てもとをゆるゆるともやしていった
おもいだすのもあまやかといえず
いっしょにおちるうれいにそまった
それでもひと齣ひと齣の分離があって
てんせんにしかついらくがならない
視のとびいしにまざるきれいなロビン
 
 

2016年10月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

近況10月2日

 
 
【近況10月2日】
 
本日の朝日新聞の読書欄、「売れてる本」のコーナーに、映画大ヒット公開中の吉田修一『怒り』(中公文庫、上下)にかかわるぼくの評が載っています。内容はともかく、新聞原稿がどのように専門的な言い回しを避け、穏当化しなければならないか、その実現のために苦労した痕跡が行間から窺えるとおもいます。じっさい書き直しは向こうの「欄の編集長」、それと女房からもふくめ数々の試行でした。とりわけ「メタ性」を指摘したい箇所など、その用語がつかえず、換言に四苦八苦しました(本書および映画化作品についてのより詳しい内容は、FBのあるときのポストで、山下晴代さんの旺盛な書き込みにたいする応答としてしめされています)。まあ、それでも新聞原稿はパズルをしあげるようで、おもしろいです。その意味ではいまやっている八行詩に似ている。
 
もうひとつ。ご報告が遅れましたが、「現代詩手帖」10月号には、ぼくの詩書月評第10回が掲載されています。これも内容はともかく、とりあげた詩集に自信のある構えになっているかなとおもいます。対象の詩集を契機に、「幽邃」という理論化しにくい概念を展開してみました。どんな媒体であれ詩集月評は紹介しやすい作品をとりあげるだけのかたも多いのですが、それではまったくつまらない。ぼくじしんは今回、荒川洋治『北山十八間戸』にも言及したのですが、じつは荒川氏の作品につき、ちゃんとした何かをいうのは初めてで、すごく緊張しました。荒川氏はいうなれば、「すきだけど、きらいな詩作者」。ちなみにライバルの稲川方人氏なら「きらいだけど、すきな詩作者」ということになるのかな。
 
ほかにとりあげた詩集は、金井裕美子『ふゆのゆうれい』、河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』、中森美方『最後の物語』、北原千代『真珠川 Barroco』。傑作ぞろいですが、金井詩集、北原詩集は、本年度の収穫にかかげるひとが多いのではないでしょうか。ぼくの『石のくずれ』もそこに混ざらないかなあ。礼状ではみなさんから、派手な絶賛をいただいているのですが。
 
 

2016年10月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

チェルシーホテル第二番

 
 
【チェルシーホテル第二番】
 
 
『ジャニス リトル・ガール・ブルー』の初動成績は良かったようだが、この週末はどうだろうか。ジャニス・ジョブリンの深層にせまる、きめ細かいドキュメンタリーで、音楽史的な価値もふくめて感動的だったが、ゆいいつ惜しかったのは、ジャニスと交わした愛の記憶をフォークバラッドの名曲にした、レナード・コーエンへのインタビューのなかったことだ。いまや老齢のコーエン自身に、死期が迫っているのかもしれないなあ。その歌、「チェルシーホテル♯2」を、すこしジャニス寄りに意訳して、以下にお届けしておこう。ちなみにコーエンは当時、『嘆きの壁』は著していたが、まだシンガーソングライターとしては駆け出しだったとおもう。
 
 
【チェルシーホテル第二番】
レナード・コーエン(作詞作曲)
 
チェルシーホテルに連泊していたきみのこと、あざやかにおぼえている
きみの話しかたが誇りにみち、しかもあまやかだったから
まだメイキングされていないベッドのうえで逸るきみはぼくにあたまをあずけ
ホテル前の路上ではスタジオ行のリムジンがきみの出を待ち構えていた
そんな特例だったからおぼえている、ニューヨークでのこと
ぼくらはみな、カネと肉体だけ追いもとめていた
歌づくりの者らにとってはそんなことすら「愛」とよばれていたんだ
それはいまそこらに時代遅れのままたむろする連中でもおなじだろう
 
でもきみはファンから死にむけて背中をひるがえした、そうだな?
きみの死は・背中をひるがえした・だけなんだ
きみはたしかに去っていった、それでもぼくは喧伝されるようなことを聞いたことがない
「あなたしかいない」「嘘よ」「あなたしかいないの」「嘘よ」
そんなバカげたゆれにくるしむきみの混乱など
 
チェルシーホテルに連泊していたきみのこと、あざやかにおぼえている
きみはすでに著名で、きみの乱心も伝説だった
くりかえし、しつこいくらいに言っていた、「ハンサムがすきなの」
でも(みにくい)ぼくにも例外でしてくれた
きみは(注射のために)こぶしを握りしめた、ぼくらみたいな者
そうぼくら、美の幻影に取りつかれた厄介者のために
きみじしんはまぜかえしてわらうだけだった「気に病んじゃダメ、わたしらはみにくいけれど
そのゆえにこそ、わたしらには音楽があるんじゃないの」
 
それからきみはファンから死にむけて背中をひるがえした、そうだな?
きみの死は・背中をひるがえした・だけなんだ
きみはたしかに去っていった、それでもぼくは喧伝されるようなことを聞いたことがない
「あなたしかいない」「嘘よ」「あなたしかいないの」「嘘よ」
そんなバカげたゆれにくるしむきみの混乱など
 
きみが最愛のおんなだったというつもりはない
墜落していったコマドリのひと齣ひと齣までははっきりしない
チェルシーホテルに連泊していたきみのことをたしかにおぼえてはいるが
おもいだすのももういまでは、ひんぱんでなくなってしまった…、それだけのこと
 
 

2016年10月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

地上

 
 
【地上】
 
 
犬「あるじにつれられひくくゆくのみで
ほらいぞんというものならおぼえない
眼路のかぎりにたいらのみえる日はあり
みちのみか灰などのもりあがる結界が
それでも天上を近づけ球面のむこうをとじ
ささいなつらなりを感におくりつづける
まるさすなわちとおさとなって視はみだれ
もちづきへのながぼえもしらずおこなう」
 
 

2016年10月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)