2016年鑑号
「現代詩手帖」年鑑号は、居住地が北海道なので届くのが遅く、昨日、郵便屋さんからうけとった。自分の原稿にかんしては「詩書展望2016」という副題がつくのは知っていたが、年度回顧をおこなわず、詩集刊行ラッシュとなった9月10月分の「月評」という体裁を単純にとることとした。あたえられた字数になるべくしたがったが、カニエ・ナハさんのをみるとだいぶ超過している。あらかじめ許容幅をしめしてくれれば、カニエさん同様、あと5、6冊は取扱い詩集をふやせたとおもう。すこし残念。前任者と較べ、書き手と編集者のあいだがやっぱりディスコミュニケーションになってるなあ。
連載最後の号で書いたのは、「変型ライトヴァース」と「譚詩」が詩作の趨勢になってきたのではないか、という観測だった。ただし前言のとおり、年度回顧という枠組ではあまりそれをしるしていない。というか欄の性質上、1月からの連載全体を集積して、年度が回顧されるしかない。それで1月から12月に取り扱った詩集を改めて、以下に列挙してゆくことにする(何かの役に立つだろう)。そのさい、「変型ライトヴァース」の佳作が掲載されている詩集を○、「譚詩」の佳作が掲載されている詩集を★でしるしておく。くわえて今号のぼくの原稿の鍵語、「恥辱」意識のつよく見受けられるものを詩集名のあとに※でしめす。
【1月】
○稲川方人『形式は反動の階級に属している』※
・カニエ・ナハ『用意された食卓』※
・石田瑞穂『耳の笹舟』
○平田俊子『戯れ言の自由』
★日和聡子『砂文』
【2月】
・平田詩織『歌う人』
○蜂飼耳『顔をあらう水』
○大江麻衣『変化(へんげ)』※
・宿花理花子『からだにやさしい』※
★紺野とも『擾乱アワー』
・鳥居万由実『07.03.15.00』※
【3月】
○宗清友宏『霞野』※
○久谷雉『影法師』※
○久石ソナ『航海する雪』※
・野村喜和夫『久美泥日誌』
○相沢正一郎『風の本――〈枕草子〉のための30のエスキス』※
○冨上芳秀『蕪村との対話』※
【4月】
○吉﨑光一『草の仲間』※
○平野晴子『黎明のバケツ』※
○沢田敏子『からだかなしむひと』
○筏丸けいこ『モリネズミ』※
○平井弘之『浮間が原の桜草と曖昧な四』※
【5月】
○瀬戸夏子『かわいい海とかわいくない海end.』※
・榎本櫻湖『metamusik』
○松本秀文『環境』
○大野南淀/藤本哲明/村松仁淀『過剰』※
○青石定二『形R』※
【6月】
○高橋留理子『たまどめ』
○かわいふくみ『ひとりの女神に』※
○mako nishitani『汚れた部屋』※
○伊藤悠子『まだ空はじゅうぶんに明るいのに』※
○来住野恵子『ようこそ』
○最果タヒ『夜空はいつでも最高密度の青色だ』※
【7月】
・岩成達也『森へ』
・手塚敦史『1981』※
・荒木時彦『要素』※
○稲垣瑞雄『点滅する光に誘われて』※
【8月】
・山田亮太『オバマ・グーグル』※
○廿楽順治『詩集 怪獣』※
○夏石番矢『夢のソンダージュ』※
○川上明日夫『灰家』
○宇宿一成『透ける石』※
【9月】
○永方佑樹『√3』
○高塚謙太郎『sound & color』
・谷澤理衣『世界観をもとめて』
○黒崎立体『tempo giusto』※
★野崎有以『長崎まで』
【10月】
○金井裕美子『ふゆのゆうれい』※
○河口夏実『雪ひとひら、ひとひらが妹のように思える日よ』
★中森美方『最後の物語』
○★荒川洋治『北山十八間戸』※
○北原千代『真珠川 Barrocco』※
【11月】
○大木潤子『石の花』
○神尾和寿『アオキ』※
○坂多瑩子『こんなもん』※
○★林美佐子『発車メロディ』※
・萩野なつみ『遠葬』
【12月】
○小峰慎也『いい影響』※
○大橋政人『まどさんへの質問』※
○能祖將夫『魂踏み』※
○武田肇『られぐろ』
・和田まさ子『かつて孤独だったかは知らない』
○★瀬崎祐『片耳の、芒』※
★草野理恵子『黄色い木馬/レタス』※
★加藤思何理『奇蹟という名の蜜』
・カニエ・ナハ『馬を引く男』※
・齋藤恵美子『空閑風景』
○清水あすか『腕を前に軸にして中を見てごらん。』※
付けた符号そのもので詩集の良しあしがはかれるわけではない。絞った書き方をしたとはいえ、とりあえずつごう68冊。フーッ。もっとも、このみでいえば「○」と「※」のあるものがぼくのストライクゾーンかもしれない。むろん12回であつかったものはすべて傑作とおもっている(わずかに話題性でえらんだものもある)。
年鑑号ぜんたい。まだ流し見の段階だが、相変わらず。自社出版物中心、「中堅」を軽視しての、ベテラン/若手中心、意味のない男性・女性分離などはもう年中行事だろう。詩作フィールドのほんとうの容積部分は伏流状態のままだ。巻頭鼎談では稲川方人さんの発言に筋がとおっている。彼がだれのことを具体的にいっていないかがおもしろい。可能なかぎり詩書に眼を通した、と語っているが、もっと眼を通せば見解もかわったとおもう。詩の例の「特需」が2016年度の話題ではないのも自明だ。稲川さんは気づいていないかもしれないが、ほんとうは「恥辱意識」のない詩作者を批判している。
自分自身のことでいえば、『詩と減喩』『石のくずれ』の話題が「適当比率で」さまざまなひとからのぼり、まあ、こういうものだろうなあ、という感じがした。自分とだれのソリが合わないのかは、ほとんど例年変わっていない。
それにしても、「今年の収穫」アンケートの回答者数が年々減っているのが気になる。詩の資本は、「年度代表詩集」に集中させたいのだ。そのほうが整理をつけた販促ができる。東宝的な論理。あるいは麻のようにみだれた詩作フィールドの多様性を、70年代ぐらいの水準へと復したいのだろう。それで回答者数を少しずつ、少しずつ、こっそりと絞る。詩の資本が本当に敵対しているのはネットかもしれない。旧弊な「紙の優位性」誇示。巻頭鼎談、稲川方人さえそれを無意識になぞってしまっている。「無意識」はきらいのはずじゃ…
一軒家
【一軒家】
まどはたてもののかおをつくるが
そのいえはねむっているようにみえた
ゆうがたのまどのなかへ象嵌されて
わたしはわずかにながれることで
すむひとともども紙くずとかわった
なんのよくあつもない分身だから
のぞきこむエゾシカもそこへ映った
なああれを八方とよんでいいのか
ころな
【ころな】
ころなとはぐうはつの所与だとおもう
ゆきでしきさいがきえたとおくにうんで
かたちのふちがひかるからだをまえに
こころもしろくろにぬりわけられる
ずれるさきのないズレをえるべく
こきざみがゆれるさすりのえごいずむ
だきあげにピエタをもとめてしまうなど
わたしはなにいろのけいるいなのだ
つぼ
【つぼ】
たがいがたがいの鈴となる
ほねのしろさきよらかさ
みずからのしんだあとをおもい
つぼのおのれはそこかしこへ
移葬されてきたのだろうか
おいてきぬずれもよわくなり
れんさのみがころころと
なかの耳小骨を三とさだめた
手芸
【手芸】
世には手芸というけんいきがあり
うっとりとみずからをとおくおもう
あたまでなく手さきがおこなって
すい、はく息のへってゆくときのま
かたちとくりかえしがあらわれる
りりあんをあやつる手のしずかから
ちいさいかがやきが身につたうと
あみだすさみしさもひとがたとなる
油膜
【油膜】
円に内角の和というものがあれば
それもむげんということなのか
ふしてひざをだくおんなのすがたの
休みのおおさにふれたつもりだったが
他界から虹をみおろしているのか
みずたまりをよけてあるいてきたのか
わからないゆまくのうごきもあって
おいる性ならば天上的にながれる
眼圧低下
【眼圧低下】
日ごとなみだとかかわきとかを縁語に
まなこへとふかいくすりをさしてきたが
みえかたがなおされたにまちがいない
このきれつはひとのなめらかを知る
じぶんに井戸があるとおぼえることも
かおのおくをみずですこしゆらして
あらわれよりもくりかえしによわされる
ゆききだけが道にかがやいているので
対象
【対象】
両の掌でひかる穂をつつむようには
ひとのこころねをおさえきれない
なにかがあまっているとおののいて
じぶんのからだの双構造がむしろ
なみしぶきめくとかんがえなおした
とおい左右はじぶんのみぎひだり
それだけで双つあるものが四だろう
ここからなげるやわらかさなども
お知らせ11月17日
【お知らせ】
12月2日(金)19時~、赤坂ミッド・タウン7Fの「d-labo」(dラボ)で、樋口良澄さん、杉本真維子さんとともに、詩についての壇上鼎談をします。ぼくが東京の公衆のまえで喋るのは久しぶりです。題目は「詩はいま、どこにあるか――鮎川信夫と最果タヒ――」。
ぼくとしては、副題のふたりの新旧作者にさほどこだわらず、今年、「現代詩手帖」の詩書月評を担当したときの実感をもとに、話ができたら、とおもっています。実感とは――いわゆる「変型ライトヴァース」を収めた秀逸な詩集が、なぜ中堅世代に集中したのか、現代詩の可読性にいまやさしい変動が起こっているのではないか、ということです。たぶんこの趨勢には確たる理由もあります。いま詩を書くのは恥かしい、この意識が逆説的に詩作をうごかしているのではないか。あるいは詩篇のすばらしさとは、この「恥辱」の痕跡が再帰的に出現していることにさえあるのではないか。
会場にはふだん詩にさほど興味のないお客さんもいらっしゃるだろうということなので、この自分の着眼を、文化環境、ネット環境などとからめ、わかりやすく語るつもりでいます。じっさい「恥辱」は、表現の多様な分野に共通しています。もちろん、先達の樋口さん、天才肌の杉本さんの発言に、フレキシブルに対しながら、やわらかく臨みます。彼らもなにか創見を披瀝するでしょう。愉しみです。当日は、ひとり三篇の枠組みで選んだ、「今年の秀作」アンソロジーを、参考資料として配布します。
入場無料ですが、事前予約制なので、下記のサイトにしたがい、手続きをしていただければ。
ぼくじしんはこのイベント出席の翌日、札幌にトンボ返りですが、イベントの二次会で、旧知のかたがたともお会いできたら、とねがっています。よろしくおねがいします。
http://www.d-laboweb.jp/event/161202.html
椅
【椅】
かけてくれるしずかな腰をまちながら
まつことは坐面をすこしもかえない
そこにつぎつぎうつるひかりがみえて
のざらしのままこしかけはひとつだ
部位の名のあかるいほどのたりなさで
ちいさな換喩をつなぐあのかたちの系は
ふたつともに背凭れと脚がうつくしく
あるともすきとおるともおぼえかえした
捨身
【捨身】
からだをきよく捨身といいかえながら
ちいさなものごとをひきいてゆくと
れつをなしてながれたようになり
わすれつつみえているなにもかもが
めのさきのおもたさをいろいろかえた
精いっぱいはじぶんではなく世界にあり
あふれるようすをつうじてはかられて
あのうちのひとつというのもよいことだ
八六年
【八六年】
わたしはわらうとさみしいかおになるが
あなたならわらうとえれがんすがこぼれる
ふたつのからだのありかたをうごきで
ぼうとくしてゆくとまざるのはほほえみ
こまかいあわのみるくが電球にひかり
かくはん棒がうでのごとくぶらさがった
まぶしくみあげれば石のかおにかわり
あなたはみあげると「自体がきえた」
逃げ恥
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が掲載されます。今回串刺しにしたのは、10月クール話題のTVドラマ(エンドロールで俳優たちが踊る「恋ダンス」もかわいいと評判の)『逃げるは恥だが役に立つ』(以下、「逃げ恥」)、海野つなみによるその同題原作コミック(講談社Kissコミックスで現在8巻まで刊行中)、さらには市川崑の名作をバカリズムが拡張的に脚色した連続TVドラマ『黒い十人の女』です。
で、いつもどおり、新聞原稿の補足になることを書きます。
コメディの原理というのを、ぼくは二重性だとおもう。現在、俳優たちはたとえば80年代などに較べるとものすごく優秀になっていて、その理由も二重性にかかわる表現力が飛躍的に向上したためではないか(ベタ/ネタの二重性ととうぜん関係がある)。
『逃げ恥』のヒロイン、新垣結衣(ガッキー)がものすごくかわいい、と称賛されていて、ぼく自身はすでに去年10月クール、さほど話題にならなかった変格推理ドラマ『掟上今日子の備忘録』でも確認した現象です。ガッキーのルックスそのものに、じつは二重性がある。顔の特徴は――眼が通常のひとより、頭部の上方についている(瞳はすごくきれい)。それは基本的には童顔ではない、という印象を惹起するはずです。なのに、童顔。そうなると、おでこが狭くなるはずなのに、ひろく、利発そう。そのおでこに前髪がゆれる。ならば髪の毛がすくなくなるはずなのに、側面や背面からは毛髪がゆたか。つまり、「なのに」で顔の部位の連関がふしぎにむすびつけられている結論になります。
ガッキーの最大のチャームポイントは微笑時の口角が、上向きになることでしょう。あどけなさ、やさしさがそこからにじむ。ところがさすがにデビュー当時からは時間が経過したので、その口角上がりの微笑のとき加齢のあかしとしてちいさな皺も出る。このことも矛盾撞着です。ガッキーの肌は、顔にしても、脛にしても、ちらりとみえる腋窩にしてもツルリとしている。よくいわれるのは、天使的というよりサイボーグ的ということではないか。
ところがなにかがナマナマしいのです。まずは頭部の骨格がうりざね-ラグビーボール系で、実際はモジリアニの絵画ヒロインのように存在論的な質感がある(これに中心のたかさがさらに加わると、ぼくのもうひとりのフェイパリット女優、波瑠になります)。相手の見た目により、ガッキーの顔がとらえられるときにも独特の呼吸がある。みられることを誇らしくおもうようすと、相手に自分を差しだす逸脱を恥じるようす、それらが複雑に同居し、結局は二重性がコケットリーになる次元に到達するのです。そういえばジンメルもこうつづっていた――《コケットリーとは、yesとnoを同時に言うことだ》。
ガッキーの利発さ、献身、優艶、従順、逡巡は、なにか未来形の空隙によって刺繍されているかんじがする。それはいっけん軽い。軽いのに、生物的な物質性を手放さないのです。
ガッキーの外見のみを云々していて、ドラマの前提をしめすのを忘れていました。ガッキーは大学院で心理学を修めたのち就職するも、賢くて厄介とみられて派遣社員にしかなれず、しかも派遣切りの憂き目にさえ遭う。たまたまIT系エリート星野源の家事代行(掃除、洗濯、買い物代行など週一回だったかの勤務)という臨時職が転がるが、両親の引っ越しでその職も手放さなければならない雲行きになって――唐突に、契約結婚(≒偽装結婚)の提案を星野にする。住居シェア、家事専念、家賃分担、給与支払が条件。星野が利便性と収支をシミュレートすると、結果は上々。それでふたりは周囲に結婚を公言するが、ふたりの仲は性愛どころか情愛も前提しない、ビジネスライクな雇用-被雇用の契約にすぎない。ところがあまりに「新婚感」がない、とふたりの仲をあやしむ詮索好きが続出。それでふたりは「新婚感を醸す」ためにまずは「ハグ」日を決め、その練習にいそしむようになる(ここまでが第五回)――
ラヴコメで、「同居」が「相愛」に移行してゆくというのは、妄想中の理想。TVドラマでも『雑居時代』などの金字塔がありますが、ここでは1対1のミニマリズム、しかも起点がビジネスライクであること(偶然ではなく作為であること)、当事者ふたりがサイボーグ的なのに、そこに人間的な血がかようことが「エロチックな破綻」になるなど新機軸や逆転が仕込まれています。海野つなみの原作コミックそのものがアイディア満載なのですが、それをドラマは、エピソードの合体、整理、おもに「場所」を変えることでよりドラマ性をたかめ、物語回転を促進するなどの施策を講じて見事です。野木亜紀子の脚色の技量は特筆もの。
「自分をこじらせている」という点では元カレに小賢しいといわれたガッキーもそうなのですが、「恋愛における自尊感情がひくい」(恋愛での成功体験が皆無で、外界へ壁を設け、恋愛的葛藤にたいしては逃避をつづけ、恋愛上の楽観や自己愛を徹底的に遮断する)星野源は、もっと性格=人生をこじらせています。几帳面、精確、ビジネスエリート、他者干渉にかかわる厳格な自己抑制――といった現代的な「美点」をもった彼は、草食系どころか絶食系とガッキーにみとられます。ジャズバラードに「ユー・ドント・ノウ・ホワット・ラヴ・イズ」という名曲があり、ダミアのシャンソン「人の気も知らないで」にも「あなたは愛するすべを知らない」という絶望的なフレーズがありますが、星野の精神上の「愛の未踏地帯」がいわば「厄介な希望」を指標する点が、このドラマの政治的な機構なのです。
星野源に、「ゆるやかに」「愛の良さ」を知らしめなければならない――それが第五回時点のガッキーのひそかなねがいですが、むろんここには性差の逆転がある。ゴダールのSF『アルファヴィル』がけっきょく異星人アンナ・カリーナに「ジュテーム」をいわせる訓育過程だったように、通常は男が愛を訓え、女が訓えられるのです。ところが『逃げ恥』の性差の逆転はそれほど倒錯的ではない。むしろ「無風」への複雑性の干渉、ミニマリズム破産への使嗾、現代的なアンドロイドの、人間化をつうじての逆説的縮減――これらをもくろむドラマのメタ次元こそがじつは不道徳なのです。それがスピーディな作劇によって回転する。結果、ドラマ『逃げ恥』はスクリューボール・コメディの換喩となったのでした。すごく精神性が高度。これは今年のドラマでは、嵐の大野智と波瑠がカップルを演じた『世界一難しい恋』にすでに前例がありました。ここでも男性が「開墾」対象になっていました。
ヘイズ・コードの規制下、30年代ハリウッドの奇妙なジャンルとなったスクリューボール・コメディは、セックス・ウォー喜劇とも別名されます。たとえばライバルのようにビジネス上張り合う美男美女がいる。いがみあいの科白が漫才のやりとりの速射砲さながら過密。ところがその過密性が一種の「同居性」ともなって、ふたりは恋愛精神を装填されたロボットよろしく、忽然と相愛状態に陥る。恋愛と機械性のこの同居がじつは不道徳かつ性的で、きわどいセックスジョークすらこっそりと仕組まれているのですが、ドラマ進行のスピードがそれらすべてを未承認のまま迷彩化させてしまう。いまならクドカンが得意にしている作劇です。
「性」を暗示領域に置きながら、画面上は男優女優を性的に露呈させるスクリューボール・コメディ(むろん衣服はまとっています――「仕種」「発語」「表情」だけが高速のなかでインフレ化するのです)と、ドラマ『逃げ恥』は類縁もしくは隣接を描くことになります。ここでも「なのに」が連接剤となっている点に注意が要ります。メタレベルでは男女の性の価値転覆が狙われている「のに」ふたりの逡巡により清潔感が醸され、セックスは露呈されない「のに」視聴者の五感全体にその物質性を訴えかける。よくよくかんがえれば事態は経済不況をもとにして深刻「なのに」可笑性がある。星野源は一種の珍獣「なのに」ありきたり。キャラクターはこじれている「のに」、対象肯定的なドラマ自体の視線がやさしい……
すべて二重性の指標です。俳優の記号性がドラマの本質となるものは映像の傑作ですが、はじめのほうに書いたように、こうした二重性の淵源は、ガッキーのルックス、身体性にあります。だからドラマ『逃げ恥』が傑作になった。視聴者もドラマの刻々を笑いながら、文化記号上このドラマが異様に高度だということに気づいているのでしょう。口コミが口コミを呼び、ドラマ『逃げ恥』は放映回ごとに視聴率が上がるという例外をしるしているのです。
ドラマ『逃げ恥』だけで、ずいぶん字数をつかってしまいました。これまたスクリューボール・コメディの亜種といえる『黒い十人の女』についてはまたべつの機会に――
恍惚
【恍惚】
らざろのはだにはよるだんの川がながれ
とおいひがしのざくろのようにさけていた
なによりおわりとしてきつく匂った
くさりはてへこそよみがえりあれとは
どこからくるひかりのみことのりだろう
よみがえればおのれではないとおもい
あしうらだけゆっくり明こうしていると
さだまらなさをあのひとみにとらえられた
餐
【餐】
しんでからさらにじさつすれば
しんだことまでくつがえる
それでじさつをとりおいてきた
ゆどうふにしたしむ夜のかまえだ
しばし息をとめこころのなかが
うすあおむかもさぐりだした
きれいだ、こいのようなものが
ふちどりをひかりでゆらした
万華鏡くずれ
【万華鏡くずれ】
えきたいのまま標本されたい
うつくしいむすめはいるだろう
しぐさのうるおいのなかで
あるかなきか見得がきられて
じかんへのながめのおくゆきに
いとのようなひかりをのこす
しんめとりーがあやしくかしぎ
ぜつぼうまでかくめいされる
藤田晴央さん
詩誌「びーぐる」は定期購読しているが、北大図書館経由ではいってくるので入手できるのが遅い。その33号はこちらも特集が黒田喜夫。特集は未読だが、詩集時評で『石のくずれ』をとりあげてくれた藤田晴央さんの文章がとてもうれしかった。みじかいので全文、転記打ちさせていただく。凝縮されてしかも滋味と余韻のある、藤田さんの書きぶりを堪能してほしい。時評文の手本だとおもう。
●
阿部嘉昭『石のくずれ』(ミッドナイトプレス)。近年、著者の詩論に共感することが多い。暗喩よりも換喩を重視し、さらに減喩へと論は深化している。その実作もまた、この詩論と重なるものだ。
すこしずつ――になってゆくという
述部をひそかにすきなわたしは
ゆくすえのかさねにくらんでいる
ひとつとただみえたながれへ
しずかにべつのひかりがしみいる
ときとときとの同道のようで
そのものがたかいけはいをまがり
まるみをまがるフーガをおもわせる
ごらん分岐はならびにあるのか
いきごとのえらびでしかないのか
とおい二羽が二音のはなれを
すこしずつえいえんにしてゆく
(「すこしずつ」)
まさに、「すこしずつ」ずれてゆく詩の言葉たち。多くの詩が、フーガ(遁走曲)のように、ひとつの詩行が追いかけられて変奏されていくうちに、詩はいつしか異なる景面へと運ばれている。詩には二重フーガであることもある。
よく聴くとひとの袖口や襟元は
そこにみちひきがあるかぎり
ちいさくなみおとをとどろかせて
めくればいいとそのからだが
とうめいなゆびをさそっている
ころもにあかるい開口があり
裾も季節しだいで上下して
スカートが春をのぼりつめれば
ことごとくがなみおとをならべて
みえるをなみだにかえてしまう
(「春潮」)
大正期、それまでの文語詩から口語自由詩の世界を切り開いた福士幸次郎も萩原朔太郎も、自由詩における内在的な音韻にどれほど心を砕いたことであろう。今、著者は「音脚」を調え、詩の一行一行の走者になめらかにバトンを渡させている。
●
ついでにしるすと、坂多瑩子さんの『こんなもん』では、藤田さんはつぎのような紹介(分析)をしている。こちらもみごとだ。藤田さんの着眼が、ぼくにたいするものと共通している。やはり転記打ちさせていただく。
●
坂多瑩子『こんなもん』(生き事書店)。換喩、を使いこなした詩集と言っていいのだろう。数行は、同次元の言葉が書かれているが、いつしか、すっと、ずれている。まったく違った次元の言葉ではなく、前と関連しているのだがずれている。「春」という詩では、前半は種をまく話である。途中で「いまはこんなことをしてくても/いい苗を売っている」と、詩は苗に移る。
苗がずらっと並んでいるのを見ていると
にんげんもずらっと並んでいて
育つとこうなりますと書いて
どんな絵にしようか
自分で自分の予想絵を描いて
にんげん屋の店さきに
立たされている
という形で終わる。種と苗は近似値だがにんげんは並んでいることでその前にある言葉と同族となる。そして、にんげんは苗と異なり「立たされている」。そこに批評や洞察がある。発想の飛躍を行う詩人は多いが、坂多さんのそれは、どこかくねくねとつながっている。それが妙にさっぱりしていて、人間の在り方や機微に触れている。
そらのぞうもつ
【そらのぞうもつ】
ゆきぞらをのしかかる脅威とするか
そらのぞうもつとするかはひとしだいで
わたしはとおい内部だとかんがえる
ねむたくこころもとなくみあげていると
あわいぬのがいくほんかまいあがって
消化のすすむはらわたすらみいだすけど
みあげのうながすねがいのなげかけが
ただうすじろをめいろにかえたのだろう
ひといきひととき
【ひといきひととき】
およそ風はなにがふいているのか
ある領分がひといきでうつってゆく
そのありさまがふいているとして
九尾でのたうつからだに雪がまざると
えれきてるのはんもんがつたわり
みずからをふるわせはがれだすので
うつむくあゆみも稜をうすくして
ひとときはすがたへとほそめられる
近況11月4日
【近況11月4日】
ご報告が遅れましたが、今号の「現代詩手帖」詩書月評では以下の詩集をあつかいました。
・大木潤子『石の花』
・神尾和寿『アオキ』
・坂多瑩子『こんなもん』
・林美佐子『発車メロディ』
・萩野なつみ『遠葬』
「たりない詩」「みじかい詩」の収められている、すぐれた詩集を考察しました。大木さんの詩集は、ジャンルとしては長篇詩に属するとおもうけど、ほれぼれするほど「たりない」。神尾さんの詩もごく「みじかい」。そんな詩篇がなぜゆたかな容積をもつのか、考察にあたいする。坂多さんの詩集も変容を盛り込んでいるが、修辞が平明で、「すくない」感が見事。林さんは、今年の詩風の特徴、「変型ライトヴァース」のすばらしい達成だった。もちろん各詩篇はみじかい。萩野さんの作風では詩的修辞が峻厳に切り詰められている。
もうずっと、詩が「サーヴィス」であるためには、「みじかい詩」しかありえない、とぼくはいっていて、その主張を体現するような、充実した詩集群でした。
月評ではこれだという詩篇が全篇引用されていれば、それでまずはいいのではないか。ただ、引用のさいには導入・解釈などがなければ、たんに佳篇の羅列になってしまう。そのためにやはり字数が要って、結局、毎月だいたい5冊ていどの詩集を紹介できただけでした。詩論としては濃くなっただろうけど、詩壇のうごきをなるべく網羅するべき月評としては異例だったかもしれない。わがままをゆるしてくれた編集部には、感謝しています。
この号であつかう詩篇をかんがえるときに、すでに詩集刊行ラッシュの前兆がありました。連載最後の――年鑑号では、いくらか頁数がふえるとはいえ、大量の「積みのこし」が出るだろうな、という不安をすでにおぼえていた。ひと月に5冊ペースで来たことのツケともいえますが、「積みのこし」はここ数か月で加算的にふえていって、この号の原稿を書いたのち、大量の傑作詩集が舞い込めば、もうにっちもさっちもゆかない。予感は的中、結局、年鑑号では、一冊を例外に、たんに十月に出た詩集のみを対象とするしかありませんでした。この詳細は、年鑑号が出たときにまたお伝えします(年鑑号の原稿では、ずっとのどにつかえていた「いいたいこと」を、冒頭でかなりぶちまけた気もします)。
さて今号の「詩手帖」のメイン特集は、「黒田喜夫と東北」。とりわけ、黒田喜夫論を詩にしたというか、黒田喜夫の詩の記憶をあわく通過していったような、佐々木安美さんの特集向け詩篇「この部屋の仕組み」の出来栄えにうなりました。
小特集は「詩論集を読む」。ぼくの『詩と減喩』にたいし竹内敏喜さんがすばらしい書評を書いてくださっています。勘でいうのだけど、ぼくの詩論集の書評は見開きのスペースでは字数がきっとたりない。なんらかの方向をつけ、石切のように空間を連続跳躍するひつようがある。竹内さんはその見切りが見事で、しかもあたたかい余韻をくださった、ぼくの詩集『石のくずれ』にも言及する、うれしいオマケつきで。
収納作業
【収納作業】
じぶんのうでをみおろしていると
ちからがどこからでるのかわからない
それらはぶらさがっているだけで
うごくこととちからもかかわらずに
ありえなくひかるものをなでる
そこからちからがわきだすのならば
むかうなにかのかたちのなさに謎があり
いぶかしさをじぶんへおさめられない