ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

雑感2月27日

 
 
なぜ前提はそのままに包含なのだろうか。たとえば「不謹慎を笑う。その笑いも不謹慎だ」という二文がかんたんに箴言として成立してしまうのなら、おもわずなされた論理の領域突破というか界面更新に、じっさいことばはあおざめるのではないだろうか。これは思考操作であって詩ではない。ところが詩についてもおそろしい逸脱がおなじような二文で成立してしまう。「詩に感銘する。その感銘も詩だ」がそれだった。こうした同一性の出現には、内部的な隔絶を画策しなければならないだろう。
 
そのみずうみのうつくしさは詩にひとしい、という言い方には、ことばでしかつくられない詩にたいする誤解や欺瞞が侵入している。夕刻の寂寥が濃くなり、みずうみの水面が刻々、ねむたさにかたむきだしている。たとえばその報告をことばでなそうとするときにこそ詩作が煩悶するのなら、なにかが詩だという雑駁な大づかみは、言った気にさせているだけの、真実味をもたない疑似判定にすぎない。
 
「ひといきにつかむこと」でなく「つぎつぎにつまむこと(つまみかえすこと)」の優位がないがしろにされてならないだろう。「ひといきにつかむこと」は想像にかかわり、「つぎつぎにつまむこと」は想起にかかわる。くわえて水面はみずを掬うてのひらではなく、つまもうとして失敗をくりかえすゆびをもとめているはずなのだ。むろんゆびが馴染むのは「少量」の領域にたいしてのみだ。それでも水面はめくりあげられない。
 
時間の時間化、空間の空間化がひつようだし、それらこそが創作物に光沢をみちびく。レヴィナス『存在の彼方へ』から引こう。《時間は存在することであり、存在することという顕出である。時間の時間化においては、瞬間と瞬間それ自体の位相差によって光が生じるのだが、瞬間と瞬間それ自体の位相差、それが時間の流れ、すなわち自己同一的なものにおける差異にほかならない》(合田正人訳、講談社学芸文庫、36頁)。
 
発語のやりきれなさは、それがことばとして生じた「瞬間」に、「現下」性をおびてしまうはずかしさにあるのではないか。この想起が追想であっても事態はかわらない。ましてや想像の恣意性を刻印されている発語の刻々は、煎じ詰めれば現=在への冒涜となってしまう。だれかのみた夢がかたられても真面目には受け入れられないように(なぜならそれがどこまで本当かをあかしする座標が論理的に成立しないためだ)、割り込んでくるだれかの想像についても主体化や客体化ができない。
 
かたられているものの「現下」性には、いまだ「つまむゆび」が関係していない。かんがえてみよう。ありうべき現下は、そのあらわれをつままれて、各瞬間同士の「位相差」が「現下」以外によびだされ、さらにその位相差が光をながす媒質になる、そんな不可能をみずからの「なか」にもっているはずなのだ。そうして時間の時間性が自他間を反射する。このときにこそ「詩に感銘する。その感銘も詩だ」の同一性がただしく差異体験としてとらえかえされることになる。
 
想起が連続しているうちはまだ詩が起こっていない。想起とは想起じたいの孤絶を志向するものだからだ。想起が連続相にあるものは、実際は小説的「想像」によっている。あるいは想起のふたつがひかりを投げ合うのは俳句的「切断」の結果であるべきなのに、詩ではそれが多く冷笑的な箴言性におとしめられている。想起はとりあえず接合面をもたないままにながれだすが、そこに身体性=「つまむゆび」を導入することで各瞬間の位相差があらわれだし、ひかりのながれる詩が形成の過程にはいるのだ。その意味ではいつでも身体がひつようだった。なにかがきえ、なにかがのこる。
 
すべて想像に負っているようにみえながら、まったくそうではない、という詩があるとするなら、そこでは現下から「現下」性をうばう、どんな想起が、自己隔絶のための運動をくりひろげているかが確認されなければならない。詩にあらわれているこの自己隔絶の度量が、その詩を立たせている詩観のきびしさとして計測されることにもなるだろう。
 
確認されるべき事項はいくつかある。詩篇が無媒介に開始され、その説得力ある終わり方に、「読了」にあたえられるべき残酷さもふくまれていること。意味の理路がイメージの図示をよびこまない(カフカ)。空間そのものではなく、空間の空間化が詩の眼目になっていて、それをきわめてゆくと相即的に時間の時間化も付帯してしまう。これはもしかすると減退にあたいすることがらだが、それをよろこぶ倒錯と、詩作が無関係ではない。構文についてはそれを微視すると、つながっているのかつながっていないのかが判別不能になる(ふたたびカフカ)。
 
生起に生じている変貌をことばが報告するときには、生起の刻々を「つまむゆび」が介在している。連続相をうたがってほしいというのがあらゆる詩篇の命題で、その兆候はたとえば自由間接話法、その使用にも転位する。詩に人物が登場している気配があるとして(それは「誰か」とよばれている)、けれどもそれが人称になってゆく安定性へ着地しない。いつでも人物は新規性のまま残存しつづける。これらはつまむゆびが連続性を破損し、瞬間の切片だけがのこされているためだ。ところが用語が簡潔だと、連続性の破損が、円滑性という逆の物質感をつくりあげてしまう。これが光沢となる。以上述べたことは(読みなおしてほしい)、「かわいさ」にもすべてつながっている。
 
だんだん語ろうとしている詩篇が具体化してくる。「糸状藻」という現存するのかしないのかわからない、湖中を起源にもつ、毬藻にはなりえない植物性があって、それを定位すれば詩的には充分なのに、その想起のなかになぜ「たまご」「子どもたち」を主題とした「分割的な」再想起が非連続的に後続するのか。原理的な問題にかかわるだろう。時間の時間化、あるいは空間の空間化は、それらの対象性を「分割」しようとして、その分割じたいが身体的な表情をおびてしまう不如意を駆逐できない。だから書かれたすべては、(創意そのものを)「誰かさんから聞かれたら困る」困惑をにじませることにもなるのだ。
 
(そういえばきのう、入試採点をしていて、漢字の書き取り問題で「きれつ」にかかわる目覚ましい誤答があった。「割裂」と書かれていたのだった。あたかも割礼と陰裂をデリダ的に合成しながら、それをさらに「カツレツ」として美味化させたような新しい語彙。この語彙こそが「誰かさんから聞かれたら困る」ものではないだろうか。とすると、「糸状藻」もこの「割裂」とおなじ系列の、「困る」語彙かもしれない。そうして坂多瑩子の詩では世界が恥かしさのやさしい間歇として再認されてゆく。)
 
以上のような「前提」であれば、無媒介な「包含」なしに、坂多瑩子のすばらしい詩、「糸状藻」を最後に転記できるだろう。どこにも書かれていない「つまむゆび」が詩篇の身体に瞬間同士の位相差をつくりあげ、それがひかりや模様や表情の根拠となっている。大意や全体(的連続)を志向する想像の詩とは成り立ちがちがうのだ。詩集『ジャム煮えよ』から――
 
【糸状藻】
坂多瑩子
 
綿菓子の要領で
糸状藻をくるくるまわすと
そのさきに
しっぽみたいに
誰かが
ぼおっと暗い
暗いまま誰かさんがやってきて
きのうはいい天気でしたね
話しかけられると
月夜にあかるい水槽がひとつ
こんな夜には
糸状藻はつぎつぎと成長して
森のようになって
ひびの入ったたまごをいっぱい産む
もうすぐたまごが割れますよ
そういわれて
あたしは待ってるけど
たまご抱えた子どもたちが出たり入ったり
あっそれ
あたしのなんていえなくて
でも
待っている
ひびが少しずつひろがっていく音が聴こえているあいだは
で考えている
糸状藻ってなにって
誰かさんから聞かれたら困るから
 
 

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2017年02月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感2月24日

 
 
詩はなおせない、そうおもうことがある。一回性によってなった詩篇にたいしてだ。だめなら(そう自分か他人が判断すれば)それは捨てるしかないし、詩篇の出来に拘泥して、事後的な推敲をかさねることもない。
 
詩篇はどう書かれるか。たとえば一行目が「舞い降りてくる」として、そのあとはその舞い降りの以後を「展開」し、しかるべきながさをのこしてただ終わらせるしかない。一行一行が「おわりの準備」になる。推敲はこの過程でのみ内在する。自分の信頼できない身体的発語=手癖を矯めながら、その呼吸に遅延をくみこんでおずおずと連辞を形成してゆく。この軌跡こそがつねに、結果的に、詩としてよまれるだけだ。むろん途中で失敗し、完成を見送るばあいもある。
 
偶然を必然にとけこませる。あるいは逆に、必然を偶然にとけこませる。詩を書く手許で起こっているのはおよそそのようなことだろうが、偶然と必然は自覚面では畢竟、乖離している。これを宥和させ、飽和させるのが、まさにことばだ。ことばのいわばこの自助性によって、詩篇はあるところで展開を「満ち足り」、みずからの土台にあった離反を縫合させるように、おわりをしるす。だからほとんどの詩篇では、はじまりとおわりがやはり面目となる。途中の1フレーズに傍線を引き感銘するのは初学的な振舞だろう。
 
もちろんいまのべたことは、「よりみじかい」詩篇に適用される。ながい詩篇では、推敲によってひとつの聯をまるまる割愛し、目覚ましい「経絡」が詩篇内に生ずることさえある。これからわかる――理路とはたんなる意味上の整合性ではない。連辞そのものの分裂的な連接力は、意味が壊れかけ、なおかつ意味が残存している「低密度」部分にこそわたされるのだ。その低密度地帯が電荷をおびて、驚愕が生ずる。詩が集約として意識されるのはこの局面でしかない。
 
日本的ライト・ヴァースや変型ライト・ヴァースがジャンルとしてすぐれているのは、集約が拡散とやわらかく調和しているためだ。それは了解性がたかく、読者の「日常」から作者の「日常」が類推され、共感をみちびきやすいが、たとえ「詩の顔」がそうであっても「詩のからだ」の本質はそこにはない。低密度が詩的に電荷している構造がさらけだされている決断力のほうに実際はうごかされる。ライト・ヴァースはそうみえないが、主題、意味展開、了解性以上に、組成にその価値がある。このときたとえば文学的な散文詩とは「単位」がちがう点に注意が向けられなければならないが、この点はのち「二物」を例に説明しよう。
 
はなしをもどすと、マラルメ的な推敲概念は(それじたい厳格なものだ)、不可能の「地」にちりばめられる真実の探索だろうが、何度も一回性が更新されてゆく彼の詩は、点的な集合組織としてかんがえられていることになる。細部は明滅し、変更可能性を訴える。そこにロマン派的な自己探求意識がからまっているのだ。ミシェル・ドゥギーが『ピエタ ボードレール』でマラルメからボードレールへの回帰を提唱したのは、「生」に原資をもつボードレール的な自己流露性が、可読的かつ自立的であり、同時にインフレをもたらさないためではなかったか。「そのまま」ではないマラルメと、「そのまま」だったボードレール。そのマラルメに無為の烙印をおすのが現代なのだ。
 
詩作のアポリアは、自分のなした詩篇の傑作ぶりを自分では立証できないことにまずある。自己立証の不可能がもっともミニマルな様相で出来しているのが詩作営為で、それは確たる解釈格子を読者がもたず、作者自身のそれも自己信奉的、自己閉塞的だからだ。益体もないこんな自意識の葛藤を「おおかた」は回避するし、それは「よまれれば」かならず「不気味なもの」の圏域をつくる。忘れていたものの回帰。詩作者はみずからの詩論と批評意識が成熟すればするほど、深刻な葛藤をかかえる。それでも音韻をはじめとしたことばの自助力に引き寄せられ、詩作をくりかえしてしまうのだ。じつはマラルメにはこの機微の反復確認がない。
 
自己点検は詩作時間のながれのなかに組まれる。偏向していない用語(日本語のばあいは格助詞がとりわけ重要になる)により、世界がおだやかに開口してなければならないとするのが批評意識だ。まよいも生ずる。必然(=同)が偶然(=異)を圧殺していないか。SVCを基本とした構文に安直な解決がないか。認識が借り物ではないか。ことばの解析、選好そのものが詩の内容になって、当初あったはずのモチベーション――「体験の一回性」が疎外=阻害されていないか。不明のままでいる勇気が欠落していないか。
 
一回性が一回性としてのみやわらかく成立する場が詩篇で、このときこそことばが面倒きわまりない自意識を救抜する。こうした認証がすこしでもないと、詩作(くわえてその発表)は苦痛でしかないだろう。
 
一回性の最小単位は「2」だ。ふたつがあることをかんがえなければ、詩作は成立しない。それは多数を志向するまえにかならずある問題だし、一語と一語の隣接が、衝撃と照応と相殺、それらのいずれをもたらすのかが推敲的詩作時間の検証要素となる。ひとつの語にべつの語をぶつけ、衝撃をたのしんでいた詩作は、いずれは照応へと、さらには相殺へと、創作細部の感興を移す。
 
「二物衝撃」は俳句の詩法上の嘘だ。まず前提をしるすと――みじかすぎる俳句に音韻があるかどうかは微妙だ。あるとすれば定型そのものの音韻でしかないという見解もあるだろう。いずれにせよ、それは終止形態をもたず、ずんべらぼうに立つだけで、「歌」ではない。俳句はその一回性が記憶される。それは和歌の暗誦誘惑とびみょうにちがう。
 
さて俳句は「切れ」により構文性を内破させながら片言のまま対置をおこなう。そこに感興が生ずれば二物の衝撃に効果があったのだとまずはかんがえられるのだろうが、「二物照応」、さらには「二物相殺」により、音韻性のない土台に擬制的な音韻(これは意味論的なものだ)が生じ、俳句の非容積が容積化したとしたほうがよい。各音が流麗性をもって溶け合う音韻が、事物レベルでおこなわれる、それが名句の条件だと。ライト・ヴァース的なものの傑作は「説明過多」からこの意味での「俳句単位の集積」へと、かならず移行する。一回性を身体にもっているためだというしかない。
 
「2」を詩法にもっている俳句が、「2」そのものを主題にするときはさすがに動揺が走る。芭蕉を引く。
 
 命二つの中に生きたる桜哉
 
服部土芳との、満開の桜の下での再会を、芭蕉がことほいだ一句で、「命二つ」は芭蕉、土芳それぞれの身体の換喩だ。となると桜も生き生きとふたりの再会を内面化していることになる。ところが事情をしらず一句にむかったとき、桜だけが現前し、その桜に「命二つ」が貫流していると錯視される。ぎょっとする。なぜこんな「見立て」なのか。「二つ」を「一」に融解するのが「見立て」なら、「2」が残存している見立ては論理的に変ではないか。それで「2」の本質、生死や光陰や雌雄などがみちびかれ、桜の実在性がゆらぐことになる。ゆらぎが生きている。伝記的註釈はうごかないが、句自体はもともと同定不能なのだ。
 
ところがこれこそが、一回性が本質的にもつ細部なのだった。一回性はみずからに遅延を組み込んで自己軌跡化するとき、細部の照応を相殺に変えて、同定不能性をちりばめるのだ。これを「減喩」としてもいい。ならば原石鼎のつぎの一句はどうか。
 
 秋風や模様のちがふ皿二つ
 
わたし個人のイメージでは、床の間に飾られた藍の装飾模様の大皿がこちらを向いてまずみえる。その幅を秋風がわたる。ちがうものをわたるおなじもの。それで同に異がきざまれてゆく。これを秋風にみたのが手柄だ。ところがこの一句については、中西夏之を追悼した四ツ谷龍の衝撃的な文章があった。「現代詩手帖」2月号。
 
《中西は熟視したのち、句を指さして「この皿は、一つだ」と断言した。これには驚かされた。「模様のちがふ」と書かれているけれども、どこがどう違うのかはこの句には表現されていない。「模様のちがふ」という概念だけがあって、具体的な「ちがふ模様」は書かれていない。だから模様はイメージとしては固定していないのであり、二枚の皿は互換的なものだ――というようなところまでは私も考えていたのである。このシンメトリカルな句を中西がどう読むのかは興味があって、意見を求めた。ところがこちらの想定をさらに超えるように「この皿は、一つだ」と構図の本質を喝破した。何という鋭利な指摘。》
 
この中西の「喝破」はさきの文脈に接続できる。二物衝撃を奪われた皿の「二つ」は二物照応を一瞬経たのち二物相殺となり、「一」の痕跡だけをのこしたのだと。そうなったのは「模様のちがふ」という一種雑駁な措辞が、その一回性のみに下支えを受けて、措辞ではなく意味そのものを音韻化したためだ。ライト・ヴァース的なものにあるすぐれた細部とはこの「模様のちがふ」にあるような減喩だった。「模様のちがふ」は動くようで動かない。一回性のもたらす推敲不能性もここにある。
 
 

2017年02月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

現状2月21日

 
 
きのう東京の編集者と電話ではなした。あたらしい詩集について。8行でつづられた詩が150篇というかたちで、いちおう詩稿が構成案とともに完成していると告げ、つれあいからゆるされている自己負担額もつたえた。
 
本の判型というのはおおむねが縦長で、詩篇特有に字をおおきく組み、それに詩篇タイトル、さらにはタイトルと詩篇本体間のアキをくわえると、8行の短詩でもぜんたいが一頁横幅にはちきれるようにふくれあがってしまう。
 
むろん予算の関係で、あたらしい詩集は、見開き起こしではなく、左右頁どちらも開始ありの両起こしにしたい。ところがそうすると前述のように詩篇の頁大のふくらみによって、一篇ごとの切断があやふやになり、視覚的につながってしまう。余韻もでないし、頁をめくる動作による読みの新規化も、度合が半分に減少する。
 
予定している自己負担額からすると、詩集の総頁数は7台=112頁が限度だという。となると両起こしでも、目次、扉、プロフィール、奥付を勘案すれば、詩篇収録数が100ていどになる。自分で30篇ていど切ったのに、さらに50篇の削除か。いったんため息をついたのち、それもありかなとかんがえなおした。完全入稿ではなく、自分の構成案にさらに他人=編集者の手を介在させること。それが以前からの継続をべつのすがたにかえるきっかけとなる。削除は編集者におこなってもらう。文句はいわない。
 
そのように納得していると、さらに手ごわい編集者はいう。おもいきって詩篇タイトルをなくして、詩篇を天地左右へ余白をのこして置いてゆく手もありますけど、やはり見開き起こしのほうがそれぞれの詩篇に落ち着きがでますよ。
 
そうなると詩篇が8行しかないから、紙面がすかすかになるよ、詩篇をノドに渡すのも短すぎて分離感がでないかなあ、とぼくが危惧すると、それなら右か左かの片頁を、詩篇タイトルをしるす扉にする手もありますよ、という。そう、いま流行りのかたちだ(杉本真維子/小川三郎)。むろんそうすると収録詩篇数が50にまで縮小してしまう。読者にとっては扉つきで強要される、一篇ごとのチューニングチェンジもうるさくないか。詩篇がみじかすぎるからそうなるのだけれど。
 
いいにくそうに、しかし愛情のこもったしずかな口吻でさらに編集者がいう。「阿部さんの詩集が限定的な評価しか獲得できないのは、やはり〈盛りすぎ〉という面があったとおもうんです。読みやすくみえてむずかしいから、ここらで詩篇を削って風通しをよくするひつようがあるんじゃないでしょうか。詩篇をどうみせるかは大事です。しかもその詩篇をていねいに選択しなければなりません」、表現はことなるが、およそそんな意のことを編集者が語った。それもありかなあ、と気弱にこたえた。帰宅したあと、とりあえず判断材料として詩稿を編集者へメールした。それが昨夜。
 
今朝がた、ふとかんがえなおした。8行詩で50篇なら全体で400行。これではあまりにもボリューム感がでない。一行の文字数がすくないのでいくら遅効的了解を目指していてもぜんたいが20分弱でよまれてしまう。大木潤子さんや荒木時彦さんのような明晰な資質がないと、レス・イズ・モアにならない。いうなればボリューム感はぼくの個性なのだが、それでもそれを編集者の提案で抑制するなら、やはり100篇、全体で800行が適当ではないのか。これだっていつもの詩集からは絶対的に行数がすくない。
 
きのうとどいていた「イリプス」最新号をふとみると、いくつかの掲載詩篇が、頁節約のため、詩篇タイトルを頁下方に横組みで、詩篇よりおおきい文字で一行ながしている。ながめはつつましやかだ。一行字数のすくない詩作者だけに成立する特権。「これだ」とおもった。これをいただこう。
 
自分の詩集の組みにかんがえが移る。両起こしにすると詩篇のながれに目詰まり感がでる欠点は以下のように解決できる。判型を正方形か横長にする。両起こし。8行の詩は左右センター合わせにして、とりわけノドからの余裕をたもつ。文字は可能なかぎり大きめ。詩篇タイトルは詩篇下部の定位置に、横組み、詩篇の文字よりやや大きめでながす。詩篇の版面よりもやや小口寄り(右頁)、ノド寄り(左頁)にタイトルがあるのが良いだろう。
 
この見開きレイアウトを略式で図示してみると、なるほど目詰まり感がない。さっそく東京の編集者に但し書きを添えファックスした。いずれ答えをくれるだろう。やはり収録詩篇数が多すぎる、詩篇も見開き起こしのほうが良い、といわれれば、たぶん今度はしたがってみるつもりだ。まあ、どのくらい編集者が詩篇の個々を大事におもってくれ、そこに8行詩にまつわる方法論のヴァリエーションが確認できるかで今後がきまるだろう。それぞれがその時点でのぼくの境涯を反映していて、その具体性も掬してくれるとよいのだけれど。
 
刊行予定は夏。
 
 

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雑感2月18日

 
 
詩は生において局在化したことばの軌跡だ。それは組成をもち、脈動をたたえる。詩作には感官が、思考が、記憶が、体験が利用される(導入される)。そうでなければそれが自分のものといえなくなるためだが、その利用=導入がなぜか離人症的になってしまうことを、つねに作者は銘記している。「自分の体験が原資になっているのに、まるでこれは自分ではないみたいだ」。これは、ことばと世界は膚接しているが、一体ではないことをしるしている。ひとつのりんごさえ命名ではなく命名以外なのだ。
 
ここから詩作にともなう恥辱の意味がわかる。詩作者は詩が生活の糧ではないから詩人とよばれるのを恥じる、というのでは本当の問題に到達していない。それよりも、「これは自分の詩です」と他人にさしだすことじたいに奇異をかんじ、このことが恥辱へと変転するというべきなのではないか。
 
本来的にはことばは空間の構成物どうよう、遍在しているはずだが、詩のことばはみずからの無際限を排除することでその捨身を実質化する(これは美化でも倫理化でもない)。たとえば朝方の散策でパンを焼く芳香がただよえば、パンと芳香のむすびつきではなく、ましてや幸福とのむすびつきでもなく、芳香が多様なものにむすびつくことを真逆の限定でしるそうとするのだ。それでたとえばこう書かれる。「芳香はいつもふたつただよう」。
 
選別が排除になり、一言が排中律になるとき、「現勢」と「その他」で構成された世界が詩作ではその他のほうにかたむこうとする。現勢をいなむことで全体にいたろうとするのだ(「おまえと世界の闘いでは…」)。どうしていつも、「現勢」以外への渇望が割り込んでしまうのか。そんなにつまらないのか。詩作者は連辞をあわくうすく味わいぶかく配備することがふつうだが、その営みをする自身に否定斜線がひかれるイメージをももっている。「自分ではないものの介入がある」。この自己判断が疎隔感となり、詩作者の生産物が、ひろがっていても局在となるのだった。有限性のあかしともいえる。
 
政治的には局在化のない(局在化によって守護されていない)秩序が例外状態であり(いまはそれだ)、秩序のない局在化が収容所だろう(多様化と平準化の並立というよりこの言い方のほうが身体にちかい)。それらはキアスムとして噛み合いをする。身体のうえに起こっているこの意味的咬合が境界になっている詩作者たちは、政治的な意味を超えた難民性をかかえている。だから社会派/言語派などといった詩作傾向にかかわる範疇わけ(二分)が無効になるのだ。境界を突破する者ではなく、自身が境界になっている者はどこにも行けない――移動するだけだ。
 
三群ある――不調和と切断を道具とする者。あいまいを信条とする者。調和をほどこそうと空間に音や構文をよびよせる者。ところがよくかんがえれば調和そのものは不調和とことなり自己記述的ではなく散布的だから調和とあいまいが結託し、二群しかない、というべきかもしれない(これも、カフカの書き方だ)。
 
不調和の形式が、驚愕を盛る繋辞構文だ。この構文は列挙される。なぜかそうなってしまう。意気軒昂にはこうした謎がある。いっぽう調和=あいまいの形式は、列挙に間歇を導入し、列挙から列挙性の実質をうばうことだ。実現された調和はしたがって不穏ともいえる。「あるいた」「みた」「ならんだ」「もたれた」「しゃがんだ」「聴いた」「隠した」「うらやんだ」「あらった」などなど――動詞の「尾」が途切れつつ再帰する。再帰がずれと同等なのだ。これが時間と空間をつくる。動詞は身体にあたる領分を擦過してゆく。そこにわたしではなく、わたしたちが現れ、春野や秋野がかがやくばあいもある。
 
ところがからだや感官でなされた動詞の林立は、軒昂であるべき意気を阻喪させてしまう。動詞の連続は力感的なはずなのに、詩文の時空化に必須の「間歇」が連打性をしぼませてしまうのだ。想定される詩的主体は、注意ぶかく読めば、なにかを忘れたようにぽつりぽつりうごくだけだ。うごきに静止が拮抗している。結果、場所は「ところどころ」になり、可視性は「みえたりみえなかったり」になり、直線も点線になり、ひいては夢想になる。これがあいまいさに侵入された調和の実質なのだ。これを外延にひろげ点在化させれば、まだ藤原安紀子いがいではほとんど詩的に実現されていない「散喩」が成立してしまう。
 
親和的なものが非親和だ――そうかたるのは不調和と切断を道具とする者たちで、この矛盾律にみえるものは実際には同一律にすぎない。逆になにごとも中間域しかこのまず、渦中にさえ余韻を計測してしまう調和愛好者は、非親和的なものが親和的だという排中律のなかに身を置く。以前、わたしは貞久秀紀氏を論ずる文章に「排中律と融即」と題したことがあったが、「Aと非Aの和が全体だ」という排中律は、「ひとつのなかにAと非Aが同時的だ」という融即と、もともとが対だった。そうでなければ石ころすら拾い上げられないのが、調和愛好者ではないか。
 
むろん排中律と融即を記述の同時性とすることは、平叙性からいえば倒錯的だ。だがその機微が書く手許に局在化してしまう。これが調和的詩作者のゆえんだとするなら、その実際の生業はサラリーマンでも商売人でも教員でも犯罪者でも主婦でもなんでもいい。疎外された職業の経験すらむしろ詩作の原資になるだろう。だからこそ非親和な調和へと届く。けれどもたとえば大学教員のように一般的に恵まれているとおもわれる職種では、その仕事内容を基盤に詩をしるすことが禁じ手となる。リア充よばわりするよりも、「非親和な調和」がむかえられないから方策的に誤っているといいたいのだ。それは自慢というまえに誤答なのだった。詩作に自己脱色がない。いっぽうサラリーマンはもともと自己脱色的だ。
 
散策者の散策をたたえること、それは「あるく」を基盤に、その他の動詞系列が間歇化してその身体をとりまき、身体が空洞のままあるく放心をうつくしいとおもうことだ。感情面においては悲哀がもっとも上質だが、表情面において放心ほどの本質があるだろうか。しかも放心に中身があるとすれば、それは益体もない聯想にすぎないのだ。ほんとうの聯想は「以外」にしかむいていない。これが身体だけに局在し、思考を例外化した者とくゆうの表情だ。
 
表情は表情の所在までは感知させるが、畢竟「それはみえない」。顔をうばわれた身体だけが、すこし離れた位置に局在化し、「それがあるいている」。とりあえずこの収容所内はあるける――そのことが散策詩では書かれた。しかも前言のようにそれを「これが自分の詩です」とさしだすのがはばかれる。羞恥はどこまでもつきまとう。だとすれば詩作に自分の顔を添付するなぞもってのほかだ。そんな提案が最近とある編集者からあったが、むろん固辞した。
 
そうだ、詩作のさだめとして――「詩の顔」はきえてゆく。だれかの身体だけがのこる。
 
 

2017年02月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感2月17日

 
 
作為の過剰は、これをみずから抑止しなければならない。わたしたちは、脱色されてこそ草木と調和するからだ。そのために古賢は菰さえ身にまとった。そうしなければならないさだめは、かんがえてみればずいぶんとかなしい。
 
作為の抑止のためにさらに作為が発動される再帰性。現在の詩作における自意識は、ふかみへともぐらざるをえない不如意をしい、これが水圧過多や窒息をまねく。この悪循環を断ち切るには、「同」のなかに次元のことなる「異」をみちびき、自分という宿痾の根源をかえてしまうことだろう。自分自身を証言できないかぎりそうするしかない。こうしるすとなにか深刻めくが、じっさいは自身の有限性をみずからからかうような、いたずらごころを引き入れることが現代的な処方となる。
 
編集者から聞いたはなしだが、井坂洋子さんは詩集をつくるとき、構成せずに詩篇の束を無造作に渡し、ならべて詩集にしてみて、と依頼するという(この荒木経惟的な挿話には荒木経惟的でない尾鰭がつく――編集者は熟考のすえ全体を完成させたが、出てきたゲラをみて井坂さんは、ぐうぜんできたながれの完成のため収録予定の一部を捨て、さらに新篇を書き下ろし、結果、刊行予定日までずれたらしい)。あるいは江代充さんが詩文庫に自分の既存詩篇ぜんぶが収録できなかったさい、収録詩を乱数表的な偶然によってえらんだのではないかと、貞久秀紀さんと話したこともある。これらにあるのが、いたずらごころによる「異」の導入といえるのではないか。命題はこうだ。空白をのこすこと。自分を自分の支配下に置かないこと。
 
部分を加算しきって全体になるようには、わたしたちの部分など、実際は確定していない。詩のフレーズ細部とおなじだ。そのことをむしろ自身にたいする放牧として、わたしたちは愉しんでいるはずだ。たとえば左手で左目を隠す。するとたちまち、身体に奥行き、ひねり、たわみが出現し、できたたわみなどによって、わたしたちは自己身体と、のこった右目でみられた世界とを思考する。実際そのようなしぐさをとっていなくても、わたしたちの認識はそれが不完全であれば、だいたいはそのようにある。
 
からだが全体としてあるのは以前に書いた「ムスリム」状態を指標し、そこではおそろしい絶滅が予告される。収容所という閉域が前提されている。逆に意味が明滅している世上にあわせ、からだの各部分が日ごとの共鳴をON/OFFでくりかえせば、からだは波動のようになる。海は全体だが、波打ち際はその伸縮によって部分なのであり、わたしたちはつつましくあれば海ではなく波打ち際を生きている。海はみえるが、波打ち際はそれを数分凝視すると「みえない」と気づく。うごいているのは、みずからへのいたずらごころだ。あるいはかくれんぼをしてみればよい。すると自分の移動しているどの場所も林間にさえなってしまう。
 
わたしたちは他人にたいし恫喝的であるよりも親和的でありたいととうぜんにおもう。作為の全面化がきらわれる符牒なのはいうまでもなく、みずからなす詩篇内にも無意識や自己放牧やだらしなさによる「作為のほつれ」を置く。礼服を着ている詩であっても、一瞬の部分が菰のようにみえてしまうこと。しかもみずからそんな事態を誘導していること。これはいったいなんなのだろう。前回書いたことと離反するが、詩作は「編集」意識のみではまっとうされない。減圧の本質は編集的ではなく他力的なためだ。
 
たぶん「偶然」の部分兆候が、個人的な詩篇をこの世につないでいる緩衝力になっている。詩篇の輪郭、「詩の顔」はそこからほどける。むろん「偶然」だけを志向するような詩作は滑稽なだけだ(結果的にそれは「手癖」の展覧になるだろう)。「偶然」が生じたのは、この世からの介入があったからだが、「こつじき」の眼を装填すれば、この世はやわらかくて、秩序立ってはいない。そうしたこの世の属性によってこそ偶然が詩にも反映されるのだ。たとえば松岡政則や清水あすかの「文体」を確乎たるものとしてみず、そこに偶有の風をふかせてながめるよろこびをかんがえてみよう。
 
あるいは赦し。ふかい情動はけっきょく悔恨へゆきつく。それを収めるのが赦しだが、気づかれるように、他者にたいする終点をもつまえに、あるいはそれが「大悲」となるまえに、赦しは予行段階として自分自身を対象化するものだ。自身を甘やかすのではなく、論理でつくられようとしているなにかの計画性の流産を笑うこと。それは拡散と調和がひとしいとする達観まで喚起する。そうしてこの世が遊牧形態となり、あたらしい草原をもとめひとはそこを真に移動できるようになる。そのような予見にひらかれている詩篇内の「偶然」を、詩作者じしん摘み取ってはならない。むろんそれがない、「意識」に目詰まりした詩篇も数多いのだが。
 
「部分」にあらわれた失敗・破損・乱調・不調和・逸脱・身体・菰を、詩づくりの名手は、いわば恩寵としてのこす。くりかえすが、ひとはみずからを計画しきれない。この事実を名手は親和性に置き換える。同時に、詩篇のしるす奇想が、信念によらず、日常にあらわれた破損のばあいがある。このときは自身の不調和が世界の不調和と共鳴していて、なおかつそこに深刻感がないということが、調和的な文体で書かれるべきなのだ。文体が調和的であれば、主題上の破損はこれまた「部分」の座に落ち着く。しかもその部分性はけっして全体に向けて加算できない。だからこそそこにある生の軌跡が具体性と捉えられることになる。佐々木安美や近藤久也の流儀だ。あるいは金井雄二、さらには八木幹夫まで同根かもしれない。いずれも一方では無時間のただよう無場所に身を置くことをこのむ釣り人なのが示唆的だ。
 
結語としていえば、「顕密」ある世の中の事象で、具体性として「顕」在化されたものが、逆に隠「密」を形成することになる。隠したものが隠密を形成するのではない。しかも顕在化は顕在化であるかぎりけっして韜晦とはならない。投企ある詩は作為過剰の詩とはちがうのだ。そうしてこの世はリズム化し、明滅する。よくかんがえると、顕密とはじっさいは精神と分離できない身体にすぎないだろう。
 
 

2017年02月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感2月16日

 
 
「編集」という概念は自分のなかでふたつある。ひとつめは映画編集に応用される手さばき、ふたつめは雑誌編集に参集してくる思考だ。これらはいずれも詩作と関連している。このいきさつをまずは前者からかんがえてみよう。
 
アンドレ・バザンの所説とは離反することになるが、映画の発明とは、俳優とスタッフに分離した場を前提に撮影をおこなったことではなく、編集によって視覚性の時空間、その質をそれまでの表現一切から不可逆的に変貌させた点にある。しかも1ショットに他のショットを後続させる内在性があることが重要だった。それは物語以上に視覚性の問題圏にある。
 
空間連続性には延長のほかに対置もふくまれる。また部分化もふくまれる。部分化は部分から部分への「全体をしめさない」越境・混乱まで準備するだろう。時間面では、編集の機能はふたつにわかれる。間歇性を容れること、もしくは同時化の徹底がそれだ。それは別次元どうしでも同時性であれば隣接してよい保証となる。
 
もちろんカッティングには、1ショットのながさ、あるいはショット内の動勢からくる、つなげたときの呼吸があり、それじたいが生命化する。あるいは逆に弱体化、倦怠化も可能になる。視覚的衝撃は、明暗、遠近、諸部位、構図、了解的位置関係の変転に編集上は起因するが、その編集はどうしても同一化できない驚異を、放置したまま自身に内包している。それが顔や身体や風景などの「表情」だった。「表情」はもともと「顔」なのだ。
 
以上しるしたことは、比喩学なら徹底的に単純化できる。つながるための、つなげる原理をさがしながら、たえず進行することでそれじたいをうしない、ズレの加算としてしかすべてが結果しないこと――すなわち「換喩」がそれだ。部分→部分の経緯のみではなく、持続と間歇の刺繍そのものも、時間論上の換喩=語りと捉えること。そこまでゆくと、映画編集と、詩作上の編集意識とを、区別するひつようすらなくなるだろう。
 
ずれだけを自明化させること――これが換喩の使命だろうが、ある種の意味的量感により阻まれることがある。この阻害要素を、志向的・概念拡張的に「暗喩」といってもよい。平倉圭は『ゴダール的方法』でゴダール的編集が「et」のみをみえない結節点にもつ無法則だとしたドゥルーズにたいし、ゴダール的編集が身体や場所を基盤にした「隣接」的結合=換喩のみならず、図像や意味の「類似」性を根拠にした暗喩的結合だと、とりわけ『映画史』で詳細に実証してみせた。つまり「et」に予定される不純物と恣意はどこにも存在していないと。
 
ゴダールは換喩、暗喩、ふたつの結合系列をかぎりなく同時化へちかづける。結果、換喩の暗喩化、暗喩の換喩化といった事態まで惹起する。これが映像/音声のズレさえともなったとき、物語性の加算としては一切了解できなくなる「それじたいの透明性」をつくりあげる。だからゴダールを観ると、詩作精神が刺戟されるのだ。
 
詩作に接続詞を多用する者は、論脈を誇示し、読みを誘導している。あるいは読者を貶価したり自身の操舵力に無批判だったりする。ゴダールはしていない。詩作の初学は、まずは接続詞を破砕し、構文の刻々をまるはだかにして、しかも自体性から自体性をうばう「うごき」を詩の刻々に供与することで開始されるだろう。「こうなって」「ああなって」「そうなって」とみずからに生起した時間内事象を列挙することは詩作では基本的に得策ではない。時空のひろがりから言語介在性が剥離され、読者のなかに生ずる「承認」だけがイメージ加算されてしまうためだ。これは小説言語にふさわしいものだろう。
 
むろん詩作者が人生上に生じた「事実」だけを平叙体で(たぶん簡潔と間歇を原理にして)ただ「具体的に」しるしていっても、詩が高度な次元で成立してしまう。たぶん詩作に原理として横たわっている世界肯定性は、「あること」「あったこと」を絶対に救済するようにはたらくのだ。このとき構文や語使用の刻々の飛躍は、「想起」の原理とまったくひとしくなる。「想像」の原理でそれをしている詩文よりも純度がたかく、共感が湧くのもとうぜんだ。
 
いっけん記憶の精度がたかく、みずからの往年が息のながい改行形式でふりかえられているようにおもえる野崎有以『長崎まで』の諸詩篇は、その浸透力のやわらかさを理解できるが、詩文のかさねが、「想起」の原理ではなく、「想像=創造」の原理に負っていることを、前川清への言及などで作者みずからが種明かししてしまっている。詩が「嘘」を書いてわるいいわれはないが、『長崎まで』は改行形で書かれた小説とうけとるのが自然だろう。
 
作者神話に亀裂を入れられたものが同時に詩を自称され、繊細さとやわらかさまで付帯させているそのながめは、実際のところかなりスキャンダラスだ。その醜聞性を掬することはできるが、なにか神経戦の渦中に入り込んだ狭隘もかんじる。証拠は、『長崎まで』の収録詩篇に、叙述と描写はあるが、その編集的刻々に、空白化、飛躍、ずれ、多声化などがないことだ。「空白化」「飛躍」「ずれ」「多声化」「切断」などが、詩的「編集」の肉質なのだった。
 
映画的編集と詩文的編集が合致してしまうと、あらわれるのはカフカ的なものだ(あるいはある時点の藤井貞和的なものともいえる)。それじたいがことばによって実証されているのに、それじたいが不在だという混迷は空間に深度の魅惑をつくる。以前も自著に引いたことがあるが、カニエ・ナハの一節を再度引用しておこう。「永劫回避」(『MU』)。
 
 ある映画のラストシーンでは
 主人公が斬首される
 カメラは今まさに
 斬首された頭からの一人称の視点で
 視界がぐるり、天と地が二転、三転し
 オシマイには首のない
 自分自身の身体を見ていた
 
ゆびにまだ「陶酔」があったころは、詩作渦中の天邪鬼、気散じによって、時空がずれ、行加算が能産的に起こることを自分に開放していた。いずれゆびからは陶酔がきえる。そうなると詩作上の編集原理がかわる。単純な加算が単純さを奪われるためには、意味の自明、修辞の自明が減殺されるひつようがあるのだ。しかも奇想を目立たなくさせ、表面上は平滑性をほどこし、読者の参入を欲しなければならない。つなぎめのないつなぎにより、詩そのものに逃走線をいれる。隣接と明示されていない隣接が横行し、隣接が前提とされる空間の充実に、穴があいたり、それじたいのループが起こるよう企てる。このとき換喩はもう換喩とはよべないものにまでよわまってゆく。それで「減喩」という造語をつかいだした。詩行ももはやモランディのもうろうな壺のようにならぶだけだった。
 
話題を第一段落の後者にかえる。「編集」の別次元――雑誌的なものにかかわる「編集」に動員される概念とは以下のようになるだろうか。「調査」「企画化」「蒐集」「選択」「交渉」「入手」「貼り付け」「空間化」「時間化」「部分強調」「見易さのための風穴ひらき」「パターン化」「美化」「効率化」「入稿」「ミスの抹消」「再精緻化」「索引性の付与」「周知化」「採算化」などなど。
 
詩作に、現状の詩作フィールドへの批判意識が反映されるのはやむをえない。ある趨勢をみて、そうではないべつの傾斜を自分の詩に内在化させる。長さ、語調、語彙、喩法などをみまわし、とりあえず自分だけでも気に入ろうとする詩を書こうとしたなら、そこに介入しているのは世間一般の編集意識と同様のものだろう。
 
手垢がついたためにつかえなくなる語がある。わたしにとってたとえばそれは「少女」だった。語を「むすめ」に置き換えたり、属性としてのネオテニーを主題化したこともあったが、そうした姑息な緊急避難さえ効力をうしなう。やがては主題全体にしめる「少女性」の陣地そのものがうしなわれていった。詩にできなくなったのだ。このことからすると、雑誌的な編集は領域化だが、詩集的編集は消失化といえるかもしれない。
 
消失化は平板化を併存させることでふかまる。書き誤りではない。編集が時空を基底材にする以上、「順番」がいつでもつきまとうのは理解されるだろうが、苦心してしあげた詩行の「順番」は、詩篇の「順番」へと拡大してゆく。詩作者は自己作品を「蒐集」し、全体を「順番」にしなければならない。このとき前述した「編集」概念が縮減のかたちで作者のまえにあらわれる。もういちど減らしながら書こう――「蒐集」「選択」「貼り付け」「空間化」「時間化」「部分強調」「見易さのための風穴ひらき」「パターン化」「美化」「効率化」「ミスの抹消」「再精緻化」「索引性の付与」がそれらだ。項目はだいぶ減少し、その意味で個人完結的、そう、平板になった。
 
ネットは投げ壜通信と同様の拡散性、再帰性を期待させるが、ブログやSNSにアップされた詩篇は孤立し、詩集空間に置かれている救済をうけない。ネット詩がきらわれるのはその多くが横書きでフォントがちいさいためではなく、所属系が切断されているためだ。作者の名さえ孤立詩篇にとって邪魔となる。こうした抑圧を解消させるために、最終的に詩作者たちは、経済的な苦労を負いながら、詩集形を選択するのだろう。
 
順番化、取捨選択、浸透が読者に加算してゆく様相の判断、一篇の詩のきえかた、詩集にみえない索引があると意識すること、語彙と音韻の最終調整、主題の重複と展開の見極め、一篇ごとの詩篇のかたちの再吟味、強調されすぎているものを切除すること、ながれの練磨(流麗化)、発句、脇、第三句、花の座、月の座に類するもの、あるいは最終詩篇の祝言性など連句概念の適用、量感と読者の繙読時間の測定などが、詩集編集にかんがえられるものだろう。
 
詩集は80―120頁が適切だと、だれがきめたのか。むしろ頁数ではなく想定読了時間が詩集の量感を決定したほうがいい。わたしのようにみじかい詩篇を収録するばあいは、読者に頻繁なチューニングのやりなおしをせまることになるが、すこしの増頁がゆるされていいのではないか。
 
詩集に40頁台の縮減的定形をつくったのはかつての紫陽社刊行詩集の功績だった。それは70年代に青春をむかえていた者の縮減傾向と同調していて、悲哀にまつわるひとつの見識だったようにおもう。ところが同時期の吉岡実の詩集などは200頁を超えていた。いまは経済的な理由から、詩集刊行頻度が詩作者の多くに抑圧される。ならば頁あたりの自己負担が割安になる200頁ていどの詩集がもっとふえてもよい。
 
ちなみに何度でもくりかえすが、詩集一冊あたりの想定読了時間はCDとおなじく40-50分くらいが理想ではないか。これが注意と感動が持続できる限度だろう。この幅が再読を促す。あるいは荒川洋治や藤井貞和の詩集のように、たりないことが再読を促す。さらには携行容易性も。
 
 

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雑感2月15日

 
 
中堅の詩作者たちが警戒しなければならないのが、「したり顔」の指摘だろう。まずは評価が部分的にしか定着していない、その台所事情への邪推が読者側からある。「うまいといわれたいのだ」と、「そうではないこと」を嗅ぎつけられる。このとき作動しているのは、作者側の二重性ではなく、じっさいは読者側の二重性にすぎないのだが、世評というものは詩作とことなり、けっして自己再帰的=反省的ではない。
 
意図的に可読性をたかめて書かれている。やわらかくひびくような配慮がある。詩中の会話語尾が偽善的だ。世事を揶揄「してみせた」人工性があって、主題意識の点で迂遠がかんじられる。詩の自体性よりも、みずからの「たかさ」を伝達しようとしているのではないか。書かれているものの深層が読者への訓戒の調子をおびて、みずからの上位性が整理・脱色されていない。終始、作者は安全圏にいて、詩作を利用し常識への容喙をするだけ、自身の書いたものの効果が自身を害する危機意識も稀薄だ。不意打ちや切断が悪用されている、などなど。
 
いずれにせよ、底意と表象の分離(二重性)が読まれているにちがいない。その出来が良いと、かえって作者の達成感が否定要因として詩の裏側に認知されてしまう。読者はみずからがかんじた刻々の二重性を読後意識=作者総括にまで貫徹させようと懸命なのだ。その懸命さを詩作者がわらうことはできない。なんにせよ「懸命」なのだから。ただし無用の論難ほど回避したいものはないだろう。
 
以上のように整理すれば、詩作意識と実際はまったく関連なく感知されてしまう「台所事情」をどのように無効化させるかはおのずとわかる。1.批判する対象があるなら、その対象のなかにみずからも骨がらみに容れ、批判が自傷となるような力線をつくりあげる。2.可読性は会話語尾などの記号的なやわらかさからもちださない。詩自体からもちだす。
 
3.不要な詩脈の彎曲は回避し、読者の読みを作者側から能動的に「運転」しない。4.学殖や語彙展覧はむしろ詩の不純物とかんがえる。5.書かれたものに詩的二重性ではなく、世間的二重性が混在していないかを徹底的に自己吟味する。6.「在ることが在る」としめすだけのぶっきらぼうさを選択し、詩中の語関係だけが純粋に機能するよう語を配備、文体に透明性をたもつ。
 
ところが「したり顔」を誤解されないためには、以上のような世間知的配慮(自戒)よりも、もっと本質的な選択があるのだ。つづけよう。7.詩に自走性をほどこす。どういうことか。詩がそのように書かれていることを作者じしんが制御できないほどの衝迫があった――この軌跡を詩篇の「部分」がのこすということだ。俗にいう、「ゆびがとまらなかった」というこの「おぼえ」は、たとえば罵倒がとまらないのとはことなる。罵倒では自己保守が攻撃性に転化するのにたいし、詩の自走性は自己保守こそを攻撃している。だからそこに「したり顔」的な傑作意識の介在する余地がなくなるのだ。結果、「嗅ぎつけられる」のは自分をあらぬものに供した残酷さだけになる。
 
こう書いたからといって、べつだんオートマティスムを称揚しているのではない。むしろ詩作の自走では、詩篇上の文法的な「傷」が、詩作がみずからを制御できなかった痕跡として現れているひつようがある。「同」を根拠にするオートマティスムは陶酔の蓄積だろうが、詩篇内にみいだされる奇妙な自走性は「異」を根拠にし、陶酔直後の痛覚や冷却までしるしづける。陶酔と痛覚、それら双数から二重性がみいだされないかの危惧はいらない。ふたつの時差は最少可知差異以下にまで詩作では近接するためだ。経験者には自明だろう。
 
8.揶揄とペーソスの不透明な混淆、攻撃性を減殺したちいさな針刺し、すくなすぎる読者属性にむけての同意提案、みずからの身体性の隠匿は、じっさいは詩作者の位置を無謬として温存させるだけのものだから、これをしない。9.詩作はなにかにまみれるものだが、まみれてよいのは自己身体だけで、たとえば卓抜な社会批評にまみれることはできない。「王様ははだかだ」と詩が真実を投げるのではなく、「わたしは裸で、王様ではない」とする屈曲で、自己が折れるべきなのだ。
 
ホモ・サケルの転身となった収容所内の「ムスリム」たちが、自己身体を記述するには離人症的なアプローチしかなかったとアガンベンが検証したのをおもいだすべきかもしれない。対象化されたものは、個人の符牒を剥奪された、ぶっきらぼうなものにすぎなかった。アノニムをめぐるこのぶっきらぼうさが詩の憧憬だろう。とりあえずそれは詩作上の文体選択に影響をおよぼす。「在るものを在らしめるべく書くこと」の純粋は、じっさいはみずからのからだの反映なのだ。からだはほんとうなら優越感から出来する世間への揶揄をふくんでいない。かかわりを抑制する自体性にくるしんでいるだけだ。そこに「顔」はない。だから「したり顔」もない。
 
ここから「したり顔」を読まれることを回避する最後の手段が記述できる。10.感情ではとりわけ「かなしみ」を選択する。前述の自体性は、むろん存在論的には充実すら発露するが、それが記載行為によって裂かれるときにはかならず「かなしみ」をともなう。自体性の裂けは「怒り」にも共通するかもしれないが、怒りは自己身体によって摩耗すれば即座に揶揄へと劣化してしまう。逆にかなしみは渇望を原資としていて、対象が判然としない愛へ転化されやすい。ひろがるのだ。
 
むろん詩の最良の感情は、古来からかなしみだった。よろこびは「現在」をよろこんでいるひとらを架橋する。それは多く、浸透性をもたない反射にすぎない。いっぽうかなしみは、注意ぶかい読解により共苦の圏域と機能を拡大するもので、反射が予定される皮膚ではなく、深化が予定される「肉」を想定している。当該の詩の最良性はかなしみのあかしによって測られる。これは分量がすくなくても、決定的に量感上の体験としてながれてくる。このとき読者側の二重性があっけなく消失する。共感にたいしては抵抗がならない。
 
以上しるしたことが謬見だとする自己診断もある。なにしろ意味生成と構文生成を一致させるぶっきらぼうを志向するわたしは、「したり顔」を多く無用に感知させているだろう「ですます調」を詩の文体に選択できないのだった。「ですます調」は不可思議だ。改行形でそれをおこなうばあい、適している機能が「分解」となる。構文の分解が改行をともなうことで、伝達意味が強調されながら、語調のやわらかさが強調を否定までするのだ。だからそれは再帰的な二重性をつたえてしまう。
 
「ですます」詩の特質は一行の字数(音数)におおきな多寡の差があることだろう。そのぶん構文そのものが緩徐化=自己疎隔化し、「ですます」語尾の出現頻度が減る。逆をかんがえてみればよい、一行字数(音数)をあるていど均質化して一行15字くらいの「ですます」詩をこころみると、「ですます」の多さに胸やけがおきるだろう。
 
以上は詩作技量と詩作意識が真摯な次元で拮抗し、しかも恥辱意識が自己穿孔している中堅の階層にむけての提言だ。提言が厚顔尊大でないだろうとおもわれるのは、その階層に自身も内包されているためだ。書かれたことはかすかに「吐血」している。つまり内出血から書かれたのではない。
 
会話語尾の女性性が愛着期待性として自身に反転してしまう若い女性たちの詩のあまさは、ここでは対象化されていない。もちろん学殖を全面化して音韻性がめちゃくちゃだったり、些少な「アイデア」をペーソス詩に誇ったり、みずからの詩篇の迷惑なながさ(それは権益領土面積の誇示と直結している)に無頓着だったり(ちなみにいうと鈴木志郎康さんは徹底して自覚的だ)、あるいは既得権化を根拠に既得権である「手癖」をだらしなく継続させている、詩精神の空洞化した「大家」たち(なんとそこには若手すらいる)のことも相手にしていない。それらでは「したり顔」が疑われるのではなく、「したり顔」そのものが表面化している。その詩も「かたまり=膠着」としかみえない。外延が存在していないといえるほどに、なにもうごいていないのだ。
 
 

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雑感2月14日

 
 
自画像の描き手では、デューラーとレンブラントが歴史的に突出しているとおもう。前者は自画像をしるす昂然たる意義をそのまま画柄にとらえた。個の粒立ち、世界への反抗。後者は逆に、自画像の脱自明性を自画像へと不敵に展開した。むろんどちらも顔貌が良く、これがしるした「昂然」「不敵」と調和している。
 
詩歌もしょせん自画像の域かもしれない。叙事詩のジャンルをかんがえなければそうなる。日本の詩歌中、自画像性がすぐれて「表現主義」的だったのはむろん岡井隆だ。最近はそこに倦怠がしのびこんで、うつくしい綾もできている。『ネフスキイ』から一首。
 
 しま馬の群が駈けてく映像をちらと見たあと〈私〉に沈む
 
風呂あがりかもしれない岡井隆が、伴侶がTVでみている動物ドキュメンタリーの画面を横目で確認したのち、そそくさと仕事の継続のため、書斎へむかう。その一瞬の「顔」がたしかに結像している。短歌はみじかいから、ただしく主題が提示されれば、ストップモーションの最終ショットまで形成する。
 
ちなみにいうと、シマウマの白黒の「縞」は群として密集すると界面異常をきたす。奥行きを判別できない恐怖の全体となるらしい――天敵であるはずの肉食獣たちにとっては。自然界にあらざるうごく抽象模様、その脅威。このことが、岡井の歌の〈私〉にもかすかに反映しているかもしれない。もしその〈私〉が一者にして同時に群であるならば。ならば岡井の〈私〉も結像性にして結像不能性なのではないか。
 
みじかくはあっても確実な量感をもつ改行詩では、そのうつわの恩寵に、時間の属性がさらに活用されている。時間は「未来」といった漠然とした前方をおもいえがけば即座に他者化する。ところがその一刻一刻は、まえの寸刻があとの寸刻ととけあって自体性をとろかし、調和的な進行感をおぼえざるをえなくなるのだ。散策は、そうした進行感に自己身体を添わせながら、無為と有為を渾然とさせる営みだろう。自己身体が時間と見分けのつかなくなるまで、ただしい散策は継続される。散策の成果がなにもないことが散策の本懐となるのはそのゆえだ。
 
改行詩のながさは、自画像を、写真的静止ショットからあいまいにうごくセルフドキュメンタリーへと拡張する。ただし「わたしはこうした」「わたしはこうした」という誇らしい報告は、恥辱意識の点から避けたい。どうするか。書かれている詩が日本語なら、まずは一人称主語を省略する。それは一種の斬首だ。そうして首なしになった詩的主体の行動が、行の転換単位そのままに連鎖されてゆくと、行の底にいわば「動詞の脚」が林立してきて、その推移がそのまま時間性となる。しかも動詞は日常性の域にある。構文連鎖に自然化とともに不如意もあるのだから、確実に(これが「自然化」の結果)悲哀が蓄積してゆく(これが「不如意」の結果)。くわえて主語が斬首された構文の連鎖は、動作そのものを不在の場所に内面化する。それは読者の内面にまで架橋され、読者もまた首をうしなう。そんな同調が起こるのだ。
 
理想とする類型は、西中行久の「週日レッスン」だった。拙著『換喩詩学』の一七一頁から一七三頁に全篇引用してあるので、おもちのかたは確認してほしい。現代詩中、最重要の一篇だということはすぐにわかる。寂寥、しかも最終的に到来する「世界のあふれ」が只事ではない。それなのに語調が慎ましさにより終始抑えられているから、泣けてしょうがない。
 
さて和田まさ子さんの個人誌「地上十センチ」14号(ゲストは宿久理花子)が送られてきた。和田さんは西中行久に匹敵する詩の快挙をなしとげた。彼女の四篇中三篇は散策詩、そのなかで「極上の秋」と「抜けてくる」がとりわけすばらしい出来だ。
 
はたからみれば散策する身体は連続的な自明性のうちにあるが、それを屈曲した脱自明性へとみちびくのは修辞のずれやねじれだ。このことで顔が不可視化する。しかも身体や思考にともなう作用性と対象性、それらの弁別がうしなわれると、散策者のいる世界の構造には判明しない結節が充満してきて、空間的に豊饒化をむかえる。そうして西中詩同様、悲哀とよろこびの同時化が起こる。「極上の秋」の行頭に序数をのせ、全篇引用することをおゆるしねがいたい。その序数にもとづき註解をほどこす。
 
【極上の秋】和田まさ子
 
1 シュウメイギクが咲いている団地の
2 角を曲がった、その角を
3 同じ角度であとから曲がる人がいて
4 真似られているから
5 今日のわたしを一枚めくる
6 もともとはがれやすい皮でできている
7 おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が
8 ひとつに集合し、かたまりのなかで
9 じぶんと親密になる
 
10 五反田川のわきを通る
11 明瞭でないものをふたつ抱えて、いつか
12 捨てるはずだったが
13 きょう心を離れた、欲望の命令に
14 服従した過去も捨てる
15 きれいな指だった
 
16 支持する人を
17 始末して
18 生田の公園はからっぽだ
19 もう、ここに用はない
20 理由があってもなくても
21 靴底は新しい
22 行きなさいと声がする
 
23 角を曲がって
24 にんげんが逆さに立っている野原まで
25 重石のような川水に
26 男が話しているのを
27 耳でも目でも聞きながら
28 たくさんの比喩に
29 負けないで通り過ぎる
30 極上の秋だ
 
【1行目】「シュウメイギク」は「秋明菊」で、アネモネの一種。赤紫の大柄な花だが、地味でありきたりといえるかもしれない。植物名を精確に見抜くのは女性性の特質。いっぽう「団地」もありきたりの場所属性をつげる。気取りの一切ない開始で、行末が「団地の」と連体形になっていることが詩に推進力を喚起する。こういう改行は凡手にはできない。
 
【2行目】「角を曲がった」は眺望変化をしるしづける。世界の退屈は「角を曲がる」ことで減殺される。だがそんな曲がり角に停滞をおぼえる感性もある。たとえば《曲り角を曲る時に 曲り角も曲ってしまうので/いつまでもここにいる》(松下育男「椅子は立ち上がる」部分)。
 
【3―4行目】《同じ角度であとから曲がる人がいて/真似られているから》中、ミミクリをしるす「真似」はおそろしい語に昇格した。《もしも/遠くから/私がやってきたら/すこしは/真似ることができるだろうか》(高木敏次「帰り道」部分)。他人がいる。分身がいる。私が分立している。共鳴している。どうであれ、「世界のあふれ」は恐怖によってひそやかに充実している。
 
【5行目】《今日のわたしを一枚めくる》。こう書かれて、動作の作用域・対象域が混乱する。関係項をつたえることばがたりないのだ。ともあれ「わたし」は分離可能で、蓄積体で、わたしによって作用される対象だということはわかるが、この認識に出口がない。そうして主体から顔がきえる。前行がめくる動作をみちびいたとすれば、「他人に真似されることをきらって」という理解になるが、一枚めくれば、わたしの「今日」は「今日以外」もあらわにして新規化されるのだろうか。いずれにせよ、わたしの身体は表面性をもち、日めくりのように「枚数」単位で算えられることになる。わたしは束なのだ。次行の展開をみれば、この行末で句点が打たれているという補足が読者に生ずる。
 
【6行目】《もともとはがれやすい皮でできている》。前行の「一枚」から「皮=皮膚」が召喚された。剥落容易性がしるしづけられる。けれども具体的に「皮」と書かれると逆に物質変貌が起こり、蜻蛉の翅のような透明性をイメージしてしまう。冒頭の「シュウメイギク」に「秋」が潜んでいることの間歇作用かもしれない。この行も次行の展開からみて、行末に句点を読者は補う。
 
【7―8行目】《おはじきのようにからだじゅうに散らばった感情が/ひとつに集合し、〔…〕》。前行までとはことなる身体観が無媒介に到来している。読者は論脈をつなげようと躍起になる。色とりどりのおはじきを畳にぶちまけるのは童女期にふさわしいしわざだろうが、その点在性が体表に残存している。おはじきのひとつひとつが別感情をしるし、感情においてわたしは複数なのだった。ところが5行目《わたしを一枚めくる》更新は、「めくる」という作用をつうじて、感情の点在を一挙に局所化してしまう。あたらしい感情が芽生えると、それがとりあえず一枚岩の全体になる――そう示唆されている。
 
【8―9行目】《〔…〕かたまりのなかで/じぶんと親密になる》。同じ動作をする他人との共鳴により一身性をうばわれたわたし、あるいは一枚めくられることで束状をあかされたわたしは、新規化によって「同一性」「自体性」を再獲得する。この体感が親密だとしるされている。もちろん女性性がここに介在している。けれどもそれは恥辱意識により、明示されてはいない。
 
【10行目】「五反田」に幻惑されそうになるが、調べると「五反田川」は「神奈川県川崎市麻生区・多摩区を流れる多摩川水系二ヶ領本川支流の一級河川」とある。のちの「生田」とも空間的に符合する。
 
【11行目】《明瞭でないものをふたつ抱えて、〔…〕》。「ひとつ」なら一般化されるが、「ふたつ」にはどこか個人的なひびきがある。しかも「明瞭でないもの」はたとえば「心配事」などではない。いっけん謎解きを迫る迂遠的な措辞だが、「明瞭でないもの」「ふたつ」とはたとえば「たましい」と「からだ」ではないかなどとふとかんがえたりもする。それで圧をおぼえない。以下、行のわたりが意味形成と息の面からシンコペーションをかたどりはじめる。それがそのまま論脈の把握に混乱をきたすよう意図的に差配されている。この詩篇でもっとも文法破壊的な5行だ。読みはとうぜん遅延化する。文法破壊は「わたし」という措辞をしゃにむに消去したい傾きによって生じている。
 
【11―14行目】《〔…〕いつか/捨てるはずだったが/きょう心を離れた、欲望の命令に/服従した過去も捨てる》。文脈の混乱じたいが詩的だという前提をいいつつ、論理的に文脈を組み替え、この一帯を散文化してみよう。「欲望の命令にあえなく服従したなさけない過去がわたしにはあったが、そのわだかまりが、さきほど今日のわたしを一枚めくったことで、わたしから離れた。もともとそのわだかまりはいつか捨てるはず、と念じてもいて、わたしはそれをあるきながらようやく挙行したのだ」――たとえばこう書いてみて、以上が詩篇の実際のように「詩分解」されるときには、語順が換喩的に入れ替えられ、行が「立つ」ような分離がおこなわれなければならなかったと気づく。つまり心情の分離と措辞の分離とが、ここでは見事に相即していた。読者はことばの潜在性を咀嚼するが、ことばはありのままに書かれているから、暗喩解読をしていることにはならない。
 
【15行目】《きれいな指だった》。「捨てる」動作をおこなった指が「きれい」と振り返られているが、「きれい」と「指」の接合は「しろさ」「ほそさ」をよびだす。ところがこの指の持ち主は論脈上、はるか5行目にある「わたし」になるから、意味的には気味悪い自己愛を結果すると一見おもえる。だが、逆に自己愛の禁忌にふれることで「わたしの指」は「わたし」から離脱し、わたしの離人症的なまなざしがたちのぼってくる。この転換がはかない。ここが詩篇中、もっとも戦慄した一行だった。往年と現在が残酷に分離されている気配がある。同時に自由間接話法的に、独白内容が無媒介化されてもいる。
 
【16―17行目】《支持する人を/始末して》。前聯の論脈混乱によって遅延化した読みを受け継ぎ、ここでは行を構成する文字数(音数)のすくなさによって遅延と視覚集中がともなう。「始末して」の殺し文句にふさわしい措置だ。「支持」という生硬な語が意図的にもちいられているが、こうした衝撃付与は福間健二由来かもしれない。だが「支持する人の始末」は具体性に転化できるのだろうか。できたとしても補いがひつようだ。前聯からももちだしてそれをあえてすると――相手を欲しいとおもい、理知をうしなった女性的な過去を心からそそぎおとしたのもわたしの女性的な指だ――わたしは欲望と切除意志の双方に女性性を反映されていて、その再帰性をことほぐひともいた――けれどもそうした「支持」さえもわたしは切り捨てたのだ――。どうだろうか。読み過ぎかもしれない。いずれにせよ、詩文の要約は、原文よりもかならず冗長化する。だから詩文はほんとうなら「かんじる」だけで解剖してはならない。
 
【18―19行目】《生田の公園はからっぽだ/もう、ここに用はない》。「始末」の余勢を駆って世界が空虚になった。訣別の範囲がひろがった――行のわたりはそんな動勢にのっている。筆者は以前、生田の南を伴侶と散策したことがある。うっすらした記憶では駅前からすこし離れた小高く鬱蒼とした崖の森が公園となっていた。もし詩中の公園がそれだとすると、それは「からっぽ」になるという措辞に向かない。となると、逆に「抹消」の意志がつよいことがわかる。意味解読では必然的に過去のしがらみからの脱却が強調されてしまうが、散策の呼吸でのみ行がわたっている点がむろんすばらしいのだ。あるくことで刻々のわたしが捨てられつつ、その棄却を継続させることで身体的な同一も同時に保証される。
 
【20―21行目】《理由があってもなくても/靴底は新しい》。掲出前行は虚辞と映る。語調面から挿入されたと一旦かんがえつつ、前行までからの反映も同時に斟酌する。すると妙な文脈がみえる――この生田の地への散策は心身の更新のためにおこない実際それに達したのだから「気分として」靴底はひとつも磨りへらず新しいとおもえるが、現実にもこれはあたらしくあがなった靴なのだと。すると「生田」が「わたし」にとっていわくのある地とおもえてくる。だが、やはり前言のように散策の継続性により心情の凹凸が前面化しない。時間とひとしくなった「身体のようなもの」だけが詩の空間をながれ、湿潤はひとつもない。
 
【22行目】《行きなさいと声がする》。前聯の意味的破調にたいし、抜群の音韻性をたもった今聯はこのフレーズで終わる。自己確信を補強する何者か(もしかしたら神性)の声がわたしのなかに再帰的にひびく。けれども「おまえは行け」は熾烈な命法で、換言すると「おまえはすべきことをすればいい」となるが、たとえばそれはイエスが自分への裏切りを見破りながらユダに語ったことばなのだった。だから「行きなさいと声がする」はあらたな分裂の予感をはらむ。ただし一読ではたしかに大団円の音楽性をもつ。
 
【23行目】《角を曲がって》。前行での祝言を受けて、二行目へのメインテーマ回帰が起きた。意味よりも音楽的調子によりフレーズが招かれているのではないか。
 
【24―27行目】《にんげんが逆さに立っている野原まで/重石のような川水に/男が話しているのを/耳でも目でも聞きながら》。掲出の2行あとに「通り過ぎる」があり、掲出一行目「野原まで」はそこにかかっているととらえられるが、ふくざつな構文がつむがれていて、二聯のように読みがいったん混乱する。書かれていることは嘘=「比喩」(28行目)のように現実的ではない。「にんげん」をひらがな書きにするのは当代の流行で、それは人間一般にたいするゲシュタルト崩壊をふくんでいると同時に、道義性への反撥を分泌させている(たとえば坂多瑩子「春」〔『こんなもん』〕にも《自分で自分の予想絵を描いて/首にぶらさげ/にんげん屋の店さきに/立たされている》というフレーズがある)。異常性は各行に散布されている。「にんげんの逆立ちする」野原。川水にたいする「重石のような」という直喩。「川水」に話しかける行為。それら黙示録的な幻影を正常値に着地しかえすのが、「耳でも目でも聞き」の措辞だろう。そこには「眼で聴き」「耳で視る」共感覚の幸福が伏在している。地上の異変は共感覚が平定するのだ。
 
【28―29行目】《たくさんの比喩に/負けないで通り過ぎる》。比喩が異常性を出来させるのなら、通常の詩的言語は狂う。ところが音韻と意味を分離しない(散策のリズムを貫通させた)穏やかな詩作精神は、狂気に「負けずに」、音韻重視に付帯する共感覚を代置する。詩論により裏打ちされた透明な詩作が立証されている細部だ。だが勝利するのではない。「通り過ぎる」のだ。通過だけがある。悲哀の水位も上昇している。《「ひとはただゆっくりと移動するだけだ……」》(稲川方人『われらを生かしめる者はどこか』エピグラフ)。
 
【30行目】《極上の秋だ》。秋は前行までを修飾節にしているのではなく、単独の一行。これも自由間接話法的な内心吐露だ。冒頭から気配としてあった秋の季節感がここで全開、前聯末部「行きなさいと声がする」の祝言性と協和した第二祝言となる。この「第二」性に、過去を断ち切った第二現在のふくみがあるだろう。単純な物言いにより透明化が起こり、それが読んできたこれまですべてに遡及する。感情も景物も、散策中出逢った他人も、曲がり角も、すべて明澄にかがやきかえす見事な結末だ。詩の本質とは運動なのだ。ちなみに詩を読むことは、その読んでいる詩を読者が書くこととひとしい。能動的参入が必須となる。そのさいの端的な参入こそが、詩脈を吟味して意味上の句点を補うことだった。
 
 

2017年02月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感2月12日

 
 
電車的、というすこしまえの瀬尾育生による、すぐれた詩論=状況分析をふとおもいだす。瀬尾は想起をうながす。杉本真維子『据花』の各詩篇が右頁でおわり、対抗頁=左頁につぎの詩篇のタイトルだけが印刷されていると。読者はしたがって一篇を読了した余韻を切断し、左頁になにか続篇的な予感をおぼえ、頁めくりをすることになる。読者のおこなうことをわたしなりに微分化すればこうなる。置き去りの自覚―その置き去りの渦中に必然的にまいこんでいる空白―うすい時間幅にうまれる期待―頁をめくっての「見知らぬものとの再会」(語義矛盾ではない)―自己更新と自己訂正。この経緯(それは連続する)をまず瀬尾育生は「電車的」と説明した。
 
瀬尾論文「電車的」を精読する場ではないので、おもいきりそこに展開された論旨を短絡してしまおう。ちなみにいっておくと、この「短絡」も電車的だ。そうかんがえると「電車的」の立案は、それに対応する言説すべてを電車的にしてしまうとも気づく。禁句の再帰的発生。かつての蓮實重彦『物語批判序説』の前半部みたいだ。
 
瀬尾は「電車的」に「機関車的」を対比する。機関車が領域突破的、境界創造的、国家発生的なのにたいし、電車は国家内ですでにつくられてしまったシステムであり、そこで乗客は脱個性化し、しかもその軌道は都市の都市性が全うされるために環状が理想化される。瀬尾はまさに「電車的に」、宮沢賢治と石原吉郎を通過駅にして、杉本真維子から安川奈緒まで当代話題の女性詩作者を乗り換えてゆく。時代錯誤を意図したカサノヴァのように。
 
宮沢賢治からは『銀河鉄道の夜』が召喚され、失踪と再帰が同時に起こる電車的旅程がそこから剔抉され、その精神性が当代話題の女性詩作者たちの電車詩にも共通して影を落としていると指摘する。瀬尾がサブカルにあかるければ、『エヴァ』から『千と千尋』へと結実した車内場面を論旨に加えたかもしれない。乗客の顔がみえないこと、無時間を電車が走ること、疎外と郷愁の同時性などはそこでも共通していたのだった。『エヴァ』にいたっては無名性のナレーションが画面を痛覚的に摩擦しつづけた。
 
状況が都市的になればなるほど、車列をつなげたような車輛の連続性をもって電車ははしる。かつて蓮實重彦は「井の頭線は凡庸である」という繋辞構文を弄したが、たとえばやたら車輛数が多くそのぶん入構数のすくない東西線は「お下品である」。ほぼ走行中の運命を共有する乗客たちだが、もう車輛がことなればたがいを認知できない。それでも「飛び込み自殺」が「人身事故」と抽象的・迂遠的に換言された車内アナウンスの毒消しには、電車が不当に停車を継続されれば「おなじように」「やれやれ」、と無言の口をうごかすだろう。都市的疎外と反復が(詩作者たちの)身体の基盤になっていると瀬尾にいわれれば説得されてしまう。
 
望月裕二郎の歌集『あそこ』から五首、掲出しておこうか。
 
 満を持して吊革を握る僕たちが外から見れば電車であること
 
 つり革に光る歴史よ全員で一度死のうか満員電車
 
 もし空が海だったらと考えて考え終わってドア閉まります
 
 鈍行が急停車して夕暮れのポストが見える灰色と思う
 
 高架橋を走る電車に乗ったまま朝焼けを見てしまう気がする
 
瀬尾は京王線のおおきな支線のつくりあげる郊外に住まっている。ところが京王線にはミニマルきわまりない支線がひとつ存在している。東府中と府中競馬正門前の一駅分をつなぐ単線だ。車輛数はミニマル、路面電車的に家屋の軒先が迫る街なかを走り、しかもその軌道の多くが彎曲をかたどっていて、そのミニマリズムはとうぜん異世界連絡性をもつが、上りでも下りでもあっけなく終点を迎え入れてしまう。諦念がちいさくなることで幸福化をみちびいているといってもよく、それが悪場所へのみちびきと結託しているのだ。それは不完全な中央駅の構造をしている。
 
この路線が開放性をもつことはピンク映画ファンにはしられている。京王電鉄は、痴漢場面の撮影のために、この路線の走行車輛を安価で提供したのだ。ピンク映画の撮影班は痴漢の作用者、対象者を置き、さらに「何も知らない乗客」として大量のエキストラを仕込み、リアリティを確保するが、なにしろ一駅分の短い走行なので撮影は迅速におこなわれなければならない。楽園的解放区に迅速性が必定となるこの条件がべつの意味で電車的だが、それは瀬尾のしめした電車的とは領分がことなるだろう。
 
ひとつの「電車的」に、べつの「電車的」を対置するのは、しかし不毛かもしれない。そこで対立概念としてもちだしたいのが「自転車的」だ。ともあれ瀬尾が言及した石原でいえば、「葬式列車」から「自転車にのるクラリモンド」への移行となる。いうまでもなく「クラリモンド」は人称化直前で泡のようにきえてしまう音韻であり、色彩だ。詩篇はいう、「目をつぶれ」と。そうすると瞑目のまぶたのうらに風にのる「空中のリボン」がかわりに結像される仕掛けになっている。バカみたいに明澄でやさしい詩篇だ。とうぜん意味よりも音韻が先だっている。
 
札幌にいると、街が無限に自転車を吐き出していると錯覚するときがある。だれもかれもが条理的で退屈な空間に、平滑な逃走線を自転車の軌道で引いているようなリトルネロをかんじるのだ(以上、ドゥルーズの換喩的な縁語化)。札幌が自転車と異様に親和的なのには、いくつか理由があるだろう。商店街をつぶさにたちどまって冷やかすほどには、街は差異的細部をかかえもっていない。すべては通過すべき過程だ。市街地中心部は北海道では例外的におおきくひろがる平坦地で、自転車走行に適している。また、それにかわるだろうバス便は「便」というほどに便宜的ではない。中国人留学生が多く、彼らは自転車にもともと馴染んでいて、自転車により中国と北海道の差異を脱領土化している。
 
とりにくい均衡が走れば容易化する自転車は、乗って走ってこそ「それ」になるという意味で、何か遅延をしるしづけられた媒質だろう。疾走と遅延が同時的というか融即しているのだ。自転車は、走る機構、載っている者、速度、軌道を、周囲に明示伝達する透明性をもつ。運転手と乗り物のかかわりはミニマルきわまりなく、注意を向ければ乗り手が露呈してしまう。しかも車体は人体と奇妙な再帰的連続性をもつ。車輪は双数によって組織され、双数性こそがほんとうは「一」の位置にあるという原初的な直観をよみがえらせてもくれる。
 
ペダルを踏めば、チェーンをつうじて力動方向が変換され、自転車がうごきだす。その前進は結果にすぎず、運動の内実は回転なのだ。自転車は乗り手をはこぶが、乗り手は自転車をはこぶ。つまり自転車を媒介に、乗り手は乗り手じしんを自力で移動させている。その意味で自転車は再帰構造を最少の機械性で可視化させている。She brings herself by bicycle. 暗喩はない。背景がずれてゆく換喩だけがある。サドルに股間が乗せられる性的な構造に、再帰性の延長にかかわる暗喩をかんじる向きもあるかもしれない。かつて天井桟敷の小竹信節は、自転車への動作を延長して、永久機関的な自慰器械をしあげた。
 
自転車は乗り手を明示的にするとつづったが、実際はそうではないかもしれない。反射的にあらわれるのがトリュフォーの短篇映画『あこがれ』だろう。美少女ともみえるベルナデット・ラフォンは「クラリモンド」という通称でもよかった。彼女は自転車にのり、髪とスカートの裾をなびかせる。彼女を追うカメラは、ほとんど彼女を全身ショット以上の遠景でとらえる。
 
ベルナデットが「つくっているもの」はなにか。へだたりであり、風であり、軌道としての周回運動であり、エレガンスであり、余暇的な余裕であり、身体の気配であり、タイトルどおりの「あこがれ」=渇望だろう。いっぽうで「つくっていないもの」が明瞭にある。それが「顔」だ。陽光にかげろう彼女の顔は遠景にありすぎて、予感化された状態のまま終始定着されないのだ。つまりここでは顔と渇望の離反という、反レヴィナス(の他者)的な事態が生起している。それがベルナデットの「顔のあたり」(実際は「余白」)をきれいにおもわせている。それはもう減喩だ。のちにトリュフォーの『私のように美しい娘』で彼女の顔が画面定着されたとき、細部や表情の物質性がはっきりとした「ごつさ」であらわれた。幻滅した。
 
顔のみえなさ、これがじつは札幌の自転車での通過者たちにもあるのだった。明視性が脱明視性と速度のなかでとりむすぶから、『あこがれ』のベルナデットのように、札幌の自転車の女たちもみなうつくしい。
 
根雪のない季節、自転車走行者が札幌の街路や北大のキャンパスをゆきかうと、避暑のために大雪山にこもっていたトンボが大量に下りて街なかを飛び交うすがたをおもいだす。何が似ているのか。透明な翅をふるわせることで不可視化するトンボは、その胴だけを限界的線分として明示させ、線分として翔んでいる。しかもその飛翔は線分が断続的に更新されるようすを「水平方向だけに」あやうく展開するのだ。スイッスイッというオノマトペが召喚されるとすると、それは生物的であるというより、かるさが機械性と融即した「些少さ」をむしろ幻覚させる。
 
垂直性も彎曲性もうばわれたトンボの飛翔軌道により、たとえば夕空がいくえにも層化し、空間の容量的潜勢がそこで露顕の契機を得る。ベルナデットの自転車は周回していたから、その空間に「あこがれ」を容積化したのだ。線分が水平方向に錯綜して運動の段〔きだ〕をつくるトンボや自転車では、速度にたいする以外の「あこがれ」を運動内に内破させてしまう。「純粋通過」とは消滅を運動の渦中に実体化されるさいの、「すでにしてある」残像ではないか。その容積には「あこがれ」は内包されない。ただ外延があるだけなのだ。
 
一緒に校舎を移動するとか、ぐうぜん信号待ちで学友どうしが出会ったとかの僥倖がなければ、自転車は併走しない。それぞれが孤独に走るだけだ。電車的な様相であれば、孤独は満員電車にすし詰めになっているが、自転車的な様相であれば、孤独は身体と自転車の輪郭どおりにしかならず、いさぎよく周囲の空間と非連絡的に連絡するだけだ。
 
自転車走行者は電車的ではないから、それを車輛や乗換手順のように、電車的に列伝化することもできない。それぞれがそれぞれのようにあって、どこかを走り、その予想だけがへだたりの相互性をもつ。だから一括分析するには躊躇をおぼえる。これがなににたいしての寓喩かは「自転車のように」自明だろう。変型ライト・ヴァースの詩作者たちにたいしてだった。自転車走行者について書いたことはすべて彼らに妥当する。読み返してみてほしい。
 
 

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雑感2月11日

 
 
俳句の手軽さ、記憶容易性は、やはりかぎりない魅惑と映る。ところが俳句のみじかすぎるからだは、畸形的な「片言」をまねくしかない。日本語の構文構造としてはいちじるしく壊れた前例のないものであって、この事実が平滑化されてきたのは、季語、切れ字、月並などの周辺要素が詠み手たちにとり調和的だったからだろう。「座」も機能していたはずだ。
 
いっぽうの短歌は最小単位の「歌」や「情」をもりこむうつわとして愛着されてきた。そこには単純だが構文が存在している。平叙体を音韻的有機性に超越させることをとりあえずの造語で「詩分解」といってみると、「詩分解」が成立直前ですでに気配に変わってしまっている俳句にたいし、短歌では「詩分解」がきれいに一回的に成立しているようにみえる。しかも短歌の記憶容易性は、みじかさそのものからではなく、音韻のよさによってうながされているのだから、文芸ジャンルとしてはとても強靭なのではないか。
 
ところが現代口語短歌では、歌唱性、詩分解の一回性がいわゆるベタに変じる。七〇年代、「復活」後の岡井隆の、アララギ調に前衛詩の精神を交錯させたような音韻=情=新規性の図太い光芒などとてももてない。ネオテニーの魅力があるとしてもスタイルがこどもっぽいのだ。口語では斉藤斎藤の歌のような奇矯性をはらまないと、足りないことが陰翳や可笑性や明晰さにいたらない。笹井宏之が駆け抜けた、偶然の天使的無謬はむろんその飛躍的詩性が一貫していたことによるけれども、第二の笹井の出現が禁じられるのは、短歌じしんのもつ一回性に抵触するためだ。現代口語短歌は蔓延度のわりに(ゆえに)隘路を通行しているとおもう。
 
よく指摘されることだが、海外からみれば日本語の詩は、「俳句」「短歌」「自由詩」、その全体が「詩」として一括されている。翻訳熱は、芭蕉、蕪村を詩聖に戴く俳句に集中しているとみえる。ところが語感や典拠や季節感以上に、俳句音律の基礎にある日本語の等時拍音が翻訳不能だ。シラブル数を五七五に嵌めるなど苦心については聞くが、たとえば仕上がった英訳をみても、こちらの英語力の貧弱さも相俟ってか、それがとても俳句だとはおもえない。内在されている構文の壊れ、畸形性も、日本語でそれが起こっているのとは質がちがうように映る。
 
もともと詩は翻訳不能なもので、ベンヤミンの翻訳理論ではないが、ドイツ語⇔フランス語を想定しても、逐語訳によって翻訳された詩文が異言化することで、未来に展望をつくるしかない。ところが俳句翻訳は異言化にもいたらず、詩としては不全化・塵芥化してしまっているのではないか。日本にたいして神秘感をもたなければ、とても咀嚼嚥下できる代物ではないとおもう。
 
エズラ・パウンドが西脇順三郎をノーベル賞に推奨しようとしていた六〇年代、その英訳はどのように一般化されていたのだろうか。常識的にかんがえれば、西脇詩は音韻と色彩、それらのながれの良さ=異常感覚(それがながさとして発露されるのが後年のならいとなる)に加え、散策速度と聯想速度による独特の認識省略が行どうしでスパークする点に唯一性があった。外景が脳髄(のさみしさ)。詩の最少可知単位が俳句性にさしもどされ、その全体は連句独吟さながらに組成され、しかも全体が滔々とながれるのだ。
 
西脇的音韻は、たとえば植物名など和語の基礎に、西洋由来の学殖語がやわらかさとして載るとき、その構造的双数性をかがやかせる。これもまたたとえば英語などには変換できないのではないか。「ぽぽい」の驚愕はたしかに日本語の土壌にこそ起こっている。しかも西脇的「双」は同時に「あいだ」「無」でもあって、生起しているその瞬間をつかまえられない。翻訳がなんらかの(つまり異語化もふくめての)「定着」でしかないのなら、西脇詩の翻訳はその瞬間の定着不能性と抵触してしまう。総じていうなら、さきに造語した「詩分解」がゆるやかであればあるほど、それが翻訳可能性からはなれてゆくことになる。「ゆるやかさ」が「時間的不能性」と溶けあったものは置換できない――そうもいえる。他者のしぐさとおなじだ。
 
こうつづってみるとわかる――主題論、韻律論、喩法論からはなれ、詩を自体構造的に再検討するには、「同異」に着目するといいのだと。さきにしるした詩分解は、「異」への運動だが、それが内在性として起こるのであれば、まさに「同」中の変転として捉えるしかなく、ほんとうはことば全体の「同」こそが不可視的になるのだ。
 
なにかがことばに起こっている気配がする。言い回しの平易さに、事件が仕込まれていて、事後的に(たとえば一行離れたあとの前行に)意味上の踏破が起こってしまっている。阻喪が推進とみわけのつかない逆説。これが一篇の詩をよむときの記憶野に沈澱してゆき、一篇の詩はそうして「内部性」の体験だったと振り返られる。
 
わたしはこのみでいうなら十五行前後の行わけ詩の自然さを重宝するが、そのことは次のようにいいかえられる。その内部性はすくなさによって外部性に似ているから、ことばの空間に自己身体を容れることが、同時に外延の開放性につながるのだと。現象学的には「みえるもの/みえないもの」の回転が体感しやすいのが十五行前後の詩篇なのだった。
 
内部性は「同」だ。外部性は「異」だ。ところが「同異」はことば(のはこび)そのものが予定する「対」にすぎない(中国語圏ならこれを「陰陽」と換言するだろうか)。ところが詩分解は作用側と対象側の区別を無効にする。分解であるそれは同時に回転なのだ。だから逆に内部性が「異」で外部性が「同」だとする反転もただちに起こる。そうして詩に垣間みえる日常的な境涯に価値化が加わる。日常なのに界面を規定できないこと、自他が消耗することなく双としてならびあい眼下の空間から自体逸脱の生じてしまうこと――それがたとえば変型ライト・ヴァース的な詩体験なのではないか。坂多瑩子の詩はそのように読まれなければならない。
 
詩分解は使用語のうえで限定的であり、同時に個性的だ。だから翻訳不能性と癒合する。逆をかんがえてみればいい。詩分解があるようにみえて稀薄なシュルレアリスム詩は、実際は翻訳にすごく適していて、だからいっときは世界化した。そこでは「異」があるように使嗾がおこなわれながら、「同」の連鎖があるだけで、詩脳的には痩せてみえる(もちろん名手はいるけれども――あるいはそれが詩ではなくほんとうは驚異を盛る小説の叙法に適しているとわかっているけれども)。西脇の「超現実詩」は「同異」の弁別を、わらいをふくむ鷹揚さでゆるがしながら遊星規模の共鳴交響をつくりあげるものだから、西脇じしんがどういおうと、シュルレアリスム詩とは成り立ちがちがっている。
 
「同」を自己、「異」を他者とするだけではたりない。対面性が顔の尊重をともない、相互間の切羽詰まった発語をうながすというのは哲学の問題だ。詩では「同」がことばの通用性、「異」が詩分解とまず規定される。しかも「同」を保証するものが「異」であり、「異」を保証するものが「同」であるその相補性が、渇望にもかよう美的な「双数性」を付帯させる。いずれにせよ、もっともつよい魅惑は、詩性をおもたく鎧ってしまっている逸脱からではなく、日常語の詩分解から起こる。界面異常はひそやかであればあるほど優雅だろう。
 
優雅さの化身といえば三井葉子、それとはあらわれがちがうが川田絢音もあげることができる。以下は三井の二行。
 
 わたしは茎のようにやわらかくなりながら
 かたちないあなたにかける傘をかける
 
「わたし」「あなた」の双数、「茎」「傘」の双数。「やわらか」さの範囲が、書かれていないわたしのからだにとどまるのか、傘をさす姿勢まで想定することで傘までふくまれるのか、それら一切が自明ではない。しかも掲出二行目の最初の「かける」がことばのはこびのすきまにふと漏れ出た「文中蛇足」のようにおもえることから、「同異」の回転が起こる。どこにも難読語がなく、日常的な相聞の範囲に終始しているはずなのに、相聞が化け物どうしで起こっているのを覗いたような動悸が生ずる。これが典雅なのだ。以下は川田の三行。
 
 なにを浴びても
 外にものごとはないという度量で
 川は外を流れている
 
川が浴びるものは、ひかり、雨、雪、夜、風といったものか。「度量」の語の斡旋に風格と凄みをかんじる。「ものごとはない」の断言で、外=外部性が無化される。ところが掲出三行目でさらに「外を」としるされることで(これも文中蛇足=冗語に似ている)、かえって「外」が規定不能になってしまう。さて「外」を規定不能にしているものはなにか。詩文にかくれている「内部」というしかない。このとき「外=同」とするか「内部=同」とするかの軸がくずれだし、こうして自体的な回転が起こる。川の眺望に、日常語に、それを穏やかに詩分解する回転が、最少可知範囲で起こるのだ。
 
 

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雑感2月10日

 
 
ふだんわたしたちは、そこにあらわれている羞恥の分量、分布、貫流によって、詩篇そのものの出来を判断してしまう。恥辱のない詩は、その存立さえおかしいのだと。「詩人」(もちろんこの言い方をするときは鉤括弧つきだ)は恥かしい。冗談めかして、その理由を「それは職業ではない(詩人であることでは食えない)」「一般から揶揄される夢見がちな性質が詩人のレッテル」などということができる。けれども問題は、ことばへの渇望をそのまま生きている倒錯が「詩人」性に露顕してしまうこと、それこそが恥辱なのだった。かぎりない、自足からの追放がそれら類型の裏箔となっている。
 
みずからに恥辱をかんじている「詩人」を、慎みぶかいと印象するだけでは足りない。それは縄張りをあらそうけもののようにも防衛的で、これが立場を替えれば物欲しげなのだ。ある事象に、詩作者たちは旗を立て、それが土地でないのに自分の占有をつげてしまう。そうして実際に、後進を意気阻喪にみちびく。こうした貪欲者が「詩人」だ。
 
たとえば葛原妙子によって、白アジサイが葡萄が鰈が、夕暮れの卓上の壜が、詩的に占拠されてしまう。永田耕衣によって揚雲雀や死蛍や鯰に唾つけがおこなわれる。もちろんこうした占有宣言はドン=キホーテ的妄想にすぎないが、ことばの美的なトリックによって事物が完璧に素描されたとき、事物はそれを語ったものにみずからの存在を明け渡す。事物のほうがさらに慎ましいのだ。そうして、「それののこる場所」と「それが消え去ったあとの空虚」とに等号がむすばれる。
 
幻想裡の占有は、「事物がそこにそうしてある」とただしくいうことでのみ招来される。名指すことは救済ではあるが、救われるのは事物であって、それを語った者ではない。そうした非対称性によって、語りそのものが「まっすぐなのに」ゆがんでいる――そうバレることが恥かしいのだ。
 
なにがしかが「何々のように」ある、「何々として」ある――このような語法は、「ある」を比喩によってよわめ、当の対象の存在手前を撫でているにすぎない。それは届いていない。このような物言いを駆使する者にはとうぜんべつの恥かしさがある。「下手糞」にまつわる恥かしさだ。文飾はいつもこの領域から頭をもたげようとする。
 
井坂洋子のすばらしさは、ことばの質量にそれにふさわしい意味が精確に載って、ことばのながれがたえずただしく輪郭づけられる点にある。逆にことばの質量と意味の不均衡は、ことばをつかう者、その息の恥かしい「ダダ漏れ」を多く結果する。うすい多弁の連鎖がそれだ。そうではなく端正に息をとめ、自己を抑制すること。そうしてことばが事物や世界を(偽)所有する逸脱が回避される。井坂洋子的なありかたは終始、恥辱から離れている。それでも彼女は、自分が在ることの恥かしさをどこかで滲ませてしまう。自らが女性であることが真摯に問い詰められた結果だろう。性差のなかでこうして女性におもたさが引き受けられると、男性ではなく世界に、恥辱以下の汚点が反映されてしまう。
 
ことばが事物を所有しないことはありえる。事物の亡霊性を引き寄せようとするか、得た事物が穴だらけで、かたちをなしていないと慚愧をつげれば済む。これらは文飾の削ぎ落としによって付帯的に言明されるものだ。「在ることが、こうして在る」、それだけの構文がさらに不安にゆれなければ、たぶん減喩効果が出てこない。これもまた恥辱の軽減だろう。もちろん恥辱の軽減は、あらかじめ恥辱が横たわっていることを前提にしている。だからもともと恥辱がないと錯覚している単純な恥かしさとは別次元のものだ。
 
所有が愛とからみあっている――そのように露呈して恥辱を塗られることがいわば人間の無惨なのだが、愛は多触手となって貪欲に他者へと自己領域をのばしてゆくしかない。一者への切羽詰まった盲目愛の表明、これが抒情詩の高原をつくりあげるのだから始末がわるい。
 
中原中也の言語感覚はみとめるが、その恥かしさの質がこどもっぽくてとても容認できない。だからエロチックな欲望を漂わせながら、それでも事物を、唄うことなく静謐につづりはじめたその後の吉岡実に軍配をあげる。たぶん現代詩の立脚はこうした判断から方向づけられたもので、それじたいはまちがっていない。ところが「中原中也たち」は現代の領野に何度も再生されてしまう。これらが無方向の、それも効力のない占有宣言をくりかえす。特許取得競争の当事者のように。結果、詩ではないものがインフレ化する。
 
恥かしさを回避するためには、絶対に占有できないものを対象化すればよいのだ。思想など占有宣言に恰好のもので、それは詩では恥かしい。たとえば「何々がある」といわず、「なにがしは何々である」とかたってしまう構文は、詩が論文ではないのだから、恥かしい出番間違えとしか映らない。繋辞(be=「である」)を動詞系列からあたうかぎり除外し、動詞を多彩化、それで世界を善き多きものにするしか手はない。繋辞はもっとも低劣な所有の刻印だ。暗喩構文の根源がA=Bだとおもいだせば、暗喩そのものが所有を貶価する「紛い」だとさらに理解されるだろう。嘘をかたってはならないとデリダはくりかえしいった。そのために暗喩が放逐されるべきだと。
 
錯綜した書きかたをしてしまったが、詩を書くという契機は、恥かしさをこのように多層化し、そこでは「高度」「分布」が問題になってしまうのだ。くりかえすが、恥かしさを回避するためには、絶対に占有できないものを対象化すればよい。原理的なことをしるすなら、絶対に占有できないものの総体が所与とよばれる。白アジサイや死蛍は、実際は所与と加工可能性の中間に位置していたはずだ。
 
自己占有可能なものとして自己身体があるとする謬見がまかりとおっている。そこから責任論まで生じている。ところが大地や天空が所与であるのと同様、自己身体はあずかりしらぬ領域から到来した途端、それを「論理的に」自己所有できなくなるのだ。だから自殺と自傷と拒食は本質的には不可能で、その不可能がもし突破されるのなら、逸脱に分類されるしかない。となると、自己身体を自己所有しているという誇らしげな自己愛は最低の審級で恥かしい。うぬぼれやともだち自慢が恥かしいのと同様だ。意気軒昂な若手女性詩にはときにみられる傾向だが。詩はむろんJポップの歌詞ではない。共感の材料として肯定性を橋渡しするひつようなどないのだ。
 
所与であることで自己所有できない自己身体は、その所有のできなさを詩のなかでどう綴られるのか。たとえば視野には盲点があり、そのように客観性が自己身体により減算されていると気づく。この事実から、事物のすきまに自己身体が、画定されるのではなくあいまいに揺曳することがただしい記述法だと気づくだろう。「所有できないものは、脱定位的にしるされなければならない」。初期の井坂洋子(の性愛詩)はこの点を賢明に主題化した。こうした自然法則が守られた記述(いまでは中堅の女性詩に多い)なら恥辱を脱するはずだ。
 
それでも〔※所有していないのに〕身体がいつも恥かしいという人間の鉄則は崩れない。亡霊につきまとわれている、この諦念こそが書かれる。むろんレヴィナスのいうようにたとえば女性は慎ましさの顔として他者化されているのが本当だが、渇望が詩の動力である以上、詩は慎ましさをみずからに完全反射させることなどできない。このためにこそ、詩に恥辱が「ただしく」刻印されるのだ。
 
恥辱が次善の叡智だというのは、なんという逆説だろう。むろん恥辱は次善のうつくしさともかかわっている。こうしるすと、ポルノグラフィをかたっていると錯覚されてしまうかもしれないが。
 
 

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雑感2月9日

 
 
往古の和歌が、伝達意志も伝達内容もなく詠まれたとはとてもおもえない。詩はその原初的形態ではたしかな伝達性をふくんでいたというべきだろう。現代詩ではそれらがないと多くの口がいう。妄説であろうと謬見であろうと、そういわれることが、詩のどんな形態を想定しているのかをかんがえてみるのは、詩のつくり手にとって無駄ではない。
 
とりあえず詩を「難読詩」(読むのが困難な詩)、「可読詩」(読める詩)に二分してみる(のちにこの大別に面白みのないことをつづるつもりだが)。詩は漢籍・古語・雅語を満載した象徴詩であっても可読的でありえた。多く七・五の語調が可読性を保証していて、その語調のうえにもうろうな意味と像を、ひとは口にのぼすことができた。これは快感だったはずだ。その後の萩原朔太郎や中原中也にいまだにぶあつい人気がとりまいているのは、可読性を詩じたいがそのまま分泌しているためだろう。さらにその後のモダニズム――ダダ詩などは、新規=新規性の自同律のなかにあることが詩の形態的な自明性をみちびいていた。北園克衛の詩をむずかしくて読めないというひとなどいないだろう。
 
戦後詩でもある時代まで可読性問題は起こっていない。荒地派の詩は暗喩満載で見た目が堅牢、政治意識と疎外意識からくる絶望を多く射程に置いているが、その構造じたいはこれまた自明的だ。世界像も素朴。初期の田村隆一の詩ではその飛躍が美と恐怖にかならず変換する機微が「伝達」されるし、初期の北村太郎の詩ではくらい躊躇が空気のしめりを「伝え」、そこに時代的共感が「かならず」わきあがってくる。
 
モダニズム詩と荒地的暗喩詩はそれぞれの自明性、伝達性を分有していた。ところがそれらが混淆しだすと、自明性、伝達性ともにゆらいでくる。あえて乱暴な詩史観を披瀝すれば、自堕落な「野合」が起こったのは、六〇年代詩ではなく「六八年詩」、それを受けて助詞の誤用などを意図的におこない詩のフォルムに衝撃をあたえた男性七〇年代詩の一部、それにそれらを偶像化して成立した「文学的」「学習的」男性八〇年代詩だという整理でよいだろう。時代はランボー狂いだった。こういう記述は退屈なので、さっそくここで中断するが、この時点から難読詩の対概念としてライト・ヴァース(それも日本的な)がたちあがり、後づけ的な詩史観では辻征夫などに憧憬が集中している点は一言しておく。
 
「詩は可読的であるべきか」という設問への答は、「是」でゆるがないように一見おもえる。伝達性を手放した詩には贈与の意識が欠如している。脆弱な文芸ジャンルにおける前提=「無償性」が等閑されることは自己存立条件の破壊にすぎない――こういった揚言はいっけん経済論的におもえるが、境界突破的な贈与が孤立者から孤立者へとなされる「世界の真層」を勘案するなら、もともと贈与性を前提しない作品論そのものが破綻をきたしているとかんがえなおすべきなのだ。哲学的にはそんな問題機制となるだろう。
 
整理のため難読詩の特質をめぐってみる。前提的にあるのは、上述のように、伝達意志の欠落と、それ自身が贈与体ではないということだ。そのほかには――
 
【構造の非前面化】
すぐれたライト・ヴァースにあるのは、ひらがなや日常語、口語性の導入による語調のやわらかさではなく、あくまでも構造の明視性だ。ライト・ヴァースのいさぎよさは、それらを改行のつみかさね、段間空白、さらには「みじかさ」によって明示することにある。難読詩の多くは、モチベーションが書きながら探られ、ながくなるのみではなく、その構造性が陥没している。
 
【勘所が作者―読者間の割符となっていないこと】
あたりまえの話だが、商業的に成功している大衆小説などのばあい、作者が仕込む勘所は読者の読みの勘所へそのまま変換されている。「ここが味読の箇所」「ここが感涙の箇所」「ここが伏線消化の箇所」「ここがわらいの箇所」といった分節により、小説のながさが組成されているのだ。そういう分節じたいを組成にみちびくことが創作動機なのだとすれば、これが詩作に適用されない理由もない。ところが「構造」があやふやになってしまった、決断力と自己裁断力のない詩作では、読者と作者が着想面で合致する「割符のようなもの」が作中に形態化しない。それで作品が無惨にも読みながされ、読書も「体験」をうったえない。
 
【自分の詩が他者によって書かれていないこと】
「語り」を基盤に、時空間に綜合的な演出をほどこす小説家にたいし、詩は通常そのちいささを金科玉条とする。自分の書きつつあるものはより自明的なのだ。詩作ではこの条件をみずから奪わなければ退屈が起こる。難読詩ではそこで「陶酔」がもちいられる。いっぽう可読詩ではそこで「他者化」がもちいられる。他者化は「後年への約束」へと結実する。のちに読み直し、「これが自分の書いたものか」と驚嘆することがさいわいとなるのだ。ために、自己のしるし=「陶酔」が遮断され、付帯的に構造化がみちびかれる。陶酔は多く不注意によるが、自己の他者化は綿密な注意をその内実にしている。ライト・ヴァースの一見おだやかな口調に、他者化という峻厳な乖離が裏打ちされている点は看過されてはならない。
 
【語調や趣味の異様さなど、そこにあるノイズを了解できないこと】
詩作が身体性の残存なのはたしかだ。含羞にみちた詩作者はこのことをできるだけ回避しようとして、いわば余白や行間にだけ自己身体をのこす挙にでる。詩空間はそれで透明化し、読者の透視性と割符をあわせあう。すっきりした読者がすっきりした詩を読む典雅。詩をおもく濁らせるのは作者の余計な身体性が刻印されていることだろう。転倒して了解できない哲学が語られている際におぼえる疲弊。ところがよりちいさなところでは詩の細部にあらわれる「趣味」や「語調」への違和感も、じつは難読を形成してしまう。「人間的であること」をことさら詩にもとめるいわれはないが、非人間性を誇られるような倒錯に直面すると「伝達そのものの価値」がいちじるしく阻害される。
 
【音韻上の解決がないこと】
さきに象徴詩にかかわり言及したが、経験則でいうなら音韻のよさは難読性を溶解してしまう。もともと詩の伝達性は「志」だけの問題で、意味は伝達性のさほどの内実ではない。かんがえてみれば詩を読むことが体内での無音の音読へと転化した途端、詩の伝達は達成されてしまっている。難読性は身体によって解消されてしまうのだ。ということは逆に、難読性によって害される対象が読者の頭脳ではなく身体だという確認もできるだろう。
 
【詩論が透視できないこと】
あるていど詩作経験をつんでみればわかることだが、詩作者は自分の詩を定位しているものが、自分に湧いてきた詩論だと気づきはじめる。詩作は先賢の模倣から起こるとはいわれるが、語彙やフレーズなどを蒐集してくるだけでは詩にならない。ところが先賢から詩法が奪取され、それら蓄積物が醗酵しだすと、たとえ本人が模倣したと主張しても独自性をおびている詩ができるものだ。一篇の詩を定立せしめるものは、そこに潜勢している詩論なのだ。貞久秀紀が「明示法」をおおやけにするまえに、ことばにできないながら、その詩作上の明示法にすでに気づいていたファンは多かったとおもう。詩論によって詩がささえられているとき生じる印象が明澄感で、それは事物や当該身体の復権をもうながすのだから、よろこばしい。一方では詩法の斬新さにも打たれる。こういう機微のないものが、やはり難読詩となる。
 
【勿体ぶり、迂遠】
詩は詩でしかない。文学ではないのだ。そう捉えることが逆に詩を復権にみちびく。ところが詩の本来的権能を測りそこねると、いま現下につくりつつある詩が異様な方向――つまりは「文学」と天秤をつりあわす自己粉飾へと触手をのばしだす。むろんむきだしの承認願望や野心はとても読めたものではないが、この自己粉飾がたくみに自己神秘化と野合するばあいがある。これが叙述における「勿体ぶり」「迂遠」で、詩を書く者がより疎外されてきた(つまり詩を書く者の「性格」そのものがおかしいと一般的にいわれるようになった)八〇年代から目立つ傾向となった。性格がわるいから勿体ぶるのか、勿体ぶるから性格がわるいのかは鶏と卵の問題に似るが、詩を書くことと性格が癒着してしまうのは癪ではないか。ほんとうは「思考」が書いているはずなのだ。勿体ぶりの震源地がだれかはいうひつようがないだろうが、震源地そのものはフォロワーに較べ清澄で、その「怒りやすい」身体性がすばらしいとは銘記しておくべきかもしれない。
 
【過剰なこと】
詩は集中力を鞭打って、喘ぎながら書くものではない。自分をなだめ、自分そのものを間歇化し、自己冷却をかさねながら、些少ずつのばし、成立してくる構造の再帰的確認を刻々しいられるもののはずだ。読者がほんとうに再帰的に読むのは、そうして現れている「生成の構造」だろう。過剰な詩はそういった詩の清澄な贈与形式を破砕する。ここで過剰なものを一息に列挙してしまおう。「圧」「喩」「語彙力」「構文のかたち」「典拠=学殖性」、それらだ。これらが複合すると、それを盛るうつわはフレキシビリティのある散文形のほうが良いとかんたんに理解されるだろう。圧が高く、暗喩だらけで、語彙展覧を誇り、複雑な複文ばかりの衒学的な散文詩が、難読詩の恰好の標的として攻撃をくらいやすいのは必然だった。いま掲げた属性は、よくかんがえればそれぞれはわるくない。ただし野合はわるい。ここでもおなじ命題が回帰してくる。つまり構造が明示的でないものは、詩では贈与体とならないということだ。
 

 
むろん可読性をたもつ詩は連綿とうけつがれてきた。場所でいえば地方、属性でいえば老齢者、主題でいえば境涯、種類でいえば抒情に。それらの詩のつくりあげる層の厚さは度外視できない。というのは「構造」が見事で、さらなる詩論形成に資するめざましい作品が数多いためだ。これは一年間、「現代詩手帖」で詩集月評を担当してさらにつよく確認したこと。同時に、可読性のたかさを導入するため、あらたに流行しているものもある。「譚詩」がそれだ。
 
けれどもここでとりわけ対象にしたいのは、「変型ライト・ヴァース」だ。ライト・ヴァースの概念成立はW・H・オーデンの提唱による。俗謡性、遊戯性、洒脱、皮肉、口承性といったフォーキーな要件をもつものが、文学的な詩と対置された。日本詩では文学的な詩の深刻癖をわらうためライト・ヴァースの概念導入が自然だったが(七〇年代)、たぶんそこで日本語の特質がライト・ヴァース概念を即座に日本化させてしまう。ペーソス、日常性といった目的や主題にかかわるものの擁護のほかに、脚韻よりも頭韻がおこないやすいこと(頭韻の原動力は換喩だ)、文字系列がおもに漢字・ひらかな・カタカナの三種あるなかで、ひらがなが措辞を途端に軟化・溶化させてしまうこと、主語の省略構文が馴染まれていること、等時拍音によって強弱のない音韻を魅惑にみちびくのに和語・日常語の系譜があること、これらへの気づきにより、日本的ライト・ヴァースはやわらかく研磨されていったのだった。
 
では変型ライト・ヴァースとはなにか。最初の前段として、俗謡と言語遊戯詩を掛け合わせながら、一方で可読性そのものが清澄な十四行詩などを量産した谷川俊太郎がいる。他方で音韻アナロジーをフル駆動させながら極上のペーソスで読者を感銘にまきこんだ岩田宏がいる。ではその次の段階はというと、たとえば奇想とヴァルネラビリティによって感情の新規化をつづけた松下育男がいて、時空、存在、うつろい、身体、動物といった哲学的テーマを卓抜な技術で詩篇化する大橋政人がいる。これらにあるのはライト・ヴァースの「ライトネス」とともに、やはり詩篇構造の清澄な明示性なのだった。この「ライトネス」と「詩篇構造の明示性」を出発点にして、おそらく変型ライト・ヴァースが出立している。
 
ライト・ヴァースに短縮(圧縮ではない)を導入し異常接合を味わいにした神尾和寿。ライト・ヴァースに再帰的原理をもちこんだ金井雄二。ライト・ヴァースに切断と多声化を繰り込んだ廿楽順治。ライト・ヴァースに過剰生成を容れつつ可笑化を忘れない坂多瑩子。ライト・ヴァースに物語素の対立性を連続させることで譚詩から一線を保つ小川三郎。わたしじしんなら、ライト・ヴァース的なもの(境涯)に欠落と遅延の効果を交錯させているといえる。
 
これらはもちこまれたものによって、「構造性の継承」を再構造化にかえる不明地帯を形成するしかない。自明であり、自明でないというのが、これらの詩作者の感触なのではないか。むろん可読性にかかわる動力もかわる。通念的には可読性の擁護が詩の存続のためにひつようなのはいうまでもないが、変型ライト・ヴァースは、なんと可読性/難読性の弁別そのものを無効にしてしまうのだ。「それらは読める/同時に読めない」。「それらは読めない/同時に読める」。これらふたつの同時性が連鎖し、ループしてゆく。だから一読のみには適さない。この連鎖は、ドゥルーズが状況とアクションにかかわってしめしたS―A―S‘―A’―S‘’―A‘’―…に似ている。
 
もともと可読詩/難読詩の対立じたいに、おもしろみがないのだ。二項対立全体が退屈というのがひとつ。もうひとつ、(現代)詩の本懐は、「わかること」「わからないけどおもしろいこと」の中間に立ちあがっている。その事実がこの二項対立では無化されてしまうためだ。「わかればいい」というのは読者のリテラシー低下と傲慢をあとづけているし、その読者への詩作者側からの迎合をもふくんでいる。「贈与体」が親密ながら、謎のかがやきを放ってこそ、ひとは「詩魔」に憑かれるのではないか。
 
ライト・ヴァースを土台にしなくても、可読詩/難読詩の弁別無効が実現できる。江代充がそうだ。その詩には独特の再読誘惑がある。ゆるやかに読みながら、同時に音韻に間歇をくわえるような危ない遅読を禁じているのはその構文と哲学的清澄性と隠れた抒情によるのだが、そうして再読すると、江代詩は難読詩から可読詩へとすりかわってゆく。しかも段階的にすりかわってゆく。日本語の奇蹟というしかないだろう。
 
 

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雑感2月7日

 
 
とりあえず自分が良い詩を書いているというおぼえがなければ、とても詩作などという、役立たずで面倒で、実りすくない営みをつづけることなどできないだろう。悪作しかしるせない絶望はむろん詩作を存続させない。このために批評能力はひつようだ。それでも自分の詩作が他人の作を圧するほどの絶対的な優位性をもつとする「自負」は、おこがましく、みにくい。ひとそれぞれはまず有限なのだから、そんな自己抑制が人間性の前提となる。
 
承認願望はとうぜんあるが、いつでも他人からの評価は、期待するほど到来しない――それどころか、励ましてほしいひとの無反応で失意がつづくばあいすらある。だが失意も無駄だから解除されなければならない。そのために詩作が更新され、いわば「次善」が手許にうまれつづける。傑作を書ききっていない渇望こそが、あらたな詩を書かせる。
 
承認は、とりあえずは他人ではなく自身が自身にするものだ。しかもそれが自己愛ぬきであるためには、熾烈な表現をつうじそれがおこなわれるしかない。心情は遮断される。
 
表現はかならず再帰性の圏域を形成する。詩を書くひとは、詩作の繭のなかにいて時に明視性をもたない。その気配は繊細な他人にはつたわる。秘密の線分がそのひとから放射されるのだ。詩を書くひとは倦み、しかも倦むことにさえ倦んでいることで、その皮膚が多重にみえる。おそらくは繭の内部性、あるいは多重の皮膚のすきまに、「それでも」なにかのあたたかみや光明があって、それがそのひとを了解可能なものへと変貌させている。表面でしかない天才自負者にはこれがない。
 
いまはだれも、自分の作品を理解してくれないが、死後をふくめた後年に、評価的栄光が訪れる――したがって現状の無理解は笑止なものだ――そう状況をとりかえてみせることが、なぜ滑稽なのか。こうかんがえる。
 
時の進展はたんに無惨な延長であり、身体を除けば、ひとつの時はつぎの時と親和しない。だから希望は再帰性の枠組に現れない。そうでなければ希望の峻厳さがうしなわれる。このことが等閑されている思考など虚偽にすぎないだろう。それは、詩の行を書き足してゆくときにすでに自明になっている。時間認識の練習をしていたのだから。報酬はいまこのときの再帰性のなかにしかない。孤独と契約をむすんでしまったことは、何度もおもいだすべきなのだ。
 
救いはないのだろうか。絶望そのものではなく、絶望にかぎりなく漸近する見通しには、そのなかにやはり再帰性がある。わずかなすきまが機能するのだ。空間、かんがえてみればそれは、実際には自己の身体まで形成している。頭ではなくその身体が叡智をもつから、絶望は希望との混色でにじみだし、言動にニュアンスをあたえることになる。
 
他人の詩を良いものとして読むばあいは、かならずその再帰性の審級が読まれている。それが「身体」を読まれることとおなじだというのは、上記から理解されるだろうか。身体が身体に伝播する。もっといえば伝染する。だから詩の繙読は、顔のないままに身体をことばのながれで装填する離魂体験へと様変わりする。身体を原資にした再帰性は、「そのひと」であると同時に、脱個性なのだった。この事実は、希望/絶望の二項対立さえ超越している。「ただ、ある」「そのひとに即した空間と時間だけが、そのひとの身体に前提的にある」という観察は、希望的でも絶望的でもない、味のない世上の事実にすぎない。その味のなさが渇望をよびたすのだ。
 
一音の発現にまで還元された音楽が、そのひとつの時にそれじたい再帰性をもつこと。詩の身体はそれを模倣する。くりかえすが、絶望そのものではなく、絶望に漸近した自身の状況は、身体的な再帰性をもつ。ほんとうのところは、それが読まれる。それでも顔のない身体が詩に現れると、それが渇望の対象になってしまう。行間にそんなものがさまようのは、音楽的なものにかぎられ、その一角に詩もある。それは希望や未来ではなく、あくまでも「現今」なのだ。かなりの時が経過して振り返られてもその「現今」性が手放されない。だから未来の評価という視座が無意味になるのだ。
 
おそらくこの「現今」性の承認が、自己承認の用法なのではないか。気弱でありながら、事実を予感しているこの繋辞構文に、あらゆる「作品」がひとしなみにもつ運命がきざまれている。「作品」はいずれ散逸するかもしれない。それでもかつてそれのあった場所に、自己再帰の感触だけがのこる。繭の内部や皮膚のすきまは、対象性がなくても対象性を発現するていのものだ。
 
良い詩を書いているというおぼえがわずかでもあれば、あとは「もののさだめ」のかなたへと、作品を抛りやればよい(ネットはその便宜をはかる)。このために詩作者は詩で生計などたててはならない。必敗主義からはなれ、そうおもわなければならない。それでも詩を書く手許は、生きて詩を書くかぎり、「現今」にたもたれているだろう。この「現今」が人格を超えたもの=作品自体から承認される。この体感があれば、評価はともかく、良い詩は書ける。野心など、もたないことだ。
 
 

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雑感2月6日

 
 
朗読イベントなどで、何ももたず正々堂々と自作詩篇を暗誦披露しているひとに接すると、背筋の立派さに畏敬の念をおぼえる。記憶力のわるい(さらに詩の公然朗読のきらいな)わたしは、そんなことが自分にできるとおもったこともないし、じじつ自分の書いた詩篇の一篇さえおぼえられずにいる。現在書いているもののほとんどがごくみじかいのに、何としたことだろう。けれども詩にまつわるこうした記憶阻害性には、自分の詩そのものの資質がさらにかかわっているのではないか。
 
あまりすることはないが、あえて詩集形などにならべられた自分の詩篇をつづけて読んでゆくと、詩篇内部のことばのはこびはむしろ生々しいのに、繙読を継続させれば、それぞれの詩篇が読むはしからきえていってしまう。あわゆきをくちにふくむがごとしだ(そういえば笠井嗣夫さんには「あなたは自分の詩法変化を、札幌に来て、雪の属性からみちびいたはずだ」とつげられた)。
 
まず、ことばのながれそのものが自己定着的ではない。自体をあかしするために自体がもちいられていない、といってもいい。ことばはそれ以外をたえず志向しながら、瞬間定着をおこなわず、つぎの次元へとずれてゆく。暗喩の「釘打ち」にたいし、換喩のあいまい、気散じがある。体験した映像が転写されるばあいにも視角が一定しておらず、つたえようとすることがふくざつだ。同時にいつも語がたらず、説明的な描写が排除され、穴がひらめいている。感覚を思考化しようとしながら、自己思考が自己感覚によって動物的にうたがわれている。書かれているものが文であるのはまちがいないが、平叙性とは種類のちがう電圧と変貌がそうしてある。
 
表記の問題もある。漢字が像を映す窓だとするなら、ひらがなは像を音韻にさしもどす、それじたいがことばの溶解要因なのだった。「刻々の壊れ」が「刻々の定着」に代位されている。漢字は時枝文法でいえば「詞」を志向するが、ひらがなは「辞」に集中する。とりわけ現代日本語の限界にいどむように、助詞の斡旋が多様で、ときにずれをしるすことは、複文の使用とあいまって、眼下の文をうごかし、そのものの瞬間をつかませない。文はまず「辞」によって脈動する。しかも脈動はしずかで、しずかさとうごきの共存すら了解できない。
 
品詞論でいうなら、文中での動詞の登場は、文そのものを動詞化する契機をつくりあげる。文に「あるく」とあれば文の全体があるき、「きえる」とあれば文の其処がきえる。それでも動態が微視の状態から浮上してきて、そこにあるべき主体=顔を抹消してゆくのだ。文は像関係の定着から、動態の無名的な連鎖へとすりかわり、結果、「自体」が悲哀のうちにうしなわれるといってもいい。現下に文のあることが、そうして信憑を剥奪され、「ある」すら「あったが、いまはない」と融即をとりむすんで、記憶にあたいする媒質性を摩耗させてゆく。
 
詩文が「ある全体」をかたちづくるのなら、そこにも「顔」をおもわせるものがあるはずで、記憶はむろんそこへ向かおうとする。ところが説明的中心が斬首され、首なしでうごいている詩は、読み手をことばでくるみながら、うごいている感触のみを体感させるだけだ。初期段階の絵画では、顔は静態的な定位をつうじて像化=記憶化される。ところがうごいている、愛の渦中の身体は、それじたいが無顔の情動であり、抽象的な音韻として、記憶媒質を欠いた、不可能な標的となるしかない。動詞は普遍化の道具である以上に固有性への悪干渉であって、しかもそこで起こる溶解が、死のようにあまやかなのだった。この極点こそが音楽化する。
 
器楽曲の三要素、「メロディ」「リズム」「ハーモニー」が詩ではそれぞれ順に「音韻」「音律」「意味」になる。こう書けば、「ハーモニー=意味」という見解が異様という印象をもたれるだろう。ところが一義的に伝達される意味を詩はもたない。だから詩篇を要約しようとすれば、その要約が詩篇じたいよりもながくなってしまう。しかも詩の意味は、助詞などもふくめた用語個々の交響としてあらわれるだけだ。そこでは並列が、対立が、照応が、展開が、脱落が、分布が協和し、「それじたい」から離れた次元に「あるべき意味の痕跡や残響」を複数的ににじませてゆく。分散の総体が意味であり、意味は和音的な同時性としてあるしかない。それはへだたりであり、とおさであり、渇望でもある、定形性を欠いたなにかだ。こうしたものらこそがまさに記憶できないのだった。
 
 

2017年02月06日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

随想1

 
 
楽曲の三要素、「メロディ」「リズム」「ハーモニー」を、詩では順に、「音韻」「音律」「意味」へと置き換える。とりわけ「ハーモニー」=「意味」の収めかたが要だが、べつだん「意味」の貶価をかんがえているのではない。
 
 

2017年02月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

雑感2月3日

 
 
【雑感2月3日】
 
一行目が「ふっと下りてきて」、たちまち詩魔にとらえられる。その一行目はすべて日常の体験と記憶に即していて、だから詩そのものに純朴であるためにというより、あやふやな自分の精一杯な定着のためにこそ、詩が書かれ、完成されなければならない。
 
技術的な自己検証というのが第一だ。もとより、「詩人」とよばれてしまう恥辱は、世間的にももってのほかだ。あまいもの、こどもっぽいものなど書けない。くりかえしがもっとも忌避する頽廃だから、語彙と着想と文体と哲学にも、更新をくみいれなければならない。その蓄積もたのしいのだ。かなしみを書いてはいるのだが。
 
一行目が「ふっと下りてくる」詩魔、それじたいは視認できる貌などしていない。ただ「展開を」と衝迫してくるだけの、波動のしるしみたいなものだ。体験を整序しようと書きはじめると、とたんに意地悪な反転もしるす。
 
たとえば詩篇のフォルムを全体で八行とさだめてしまうと、書きだした数行後に、最終の八行目が迫ってくる。八行中、もう四、五行目以降が、「詩篇がどう終わるか」の試練にすりかわり、書きだしのときのきもちよさも、終わりの練習にまつわるしかない痛みへと降下する。ほぼ毎日の詩作は「どう書きだすか」ではなく、「毎回毎回どう終えるか」の煩悶のほうが本質的なのだった。推敲が必至となった。
 
たった八行の詩というのは、「数」にまつわる問題をとうぜん形成する。「八」そのものを練磨し、超越させなければならないのだ。「八」は「八以外」であろうとする。より多い行数で書いているような錯覚を使嗾し、物理的には八行でしかないのに、その自体性をゆるがしやまないもの、これがたとえば「八」だ。
 
「より多く」を八行に圧縮するのではなく、八行でしかないものが八行以上にみえるよう細心に差配すること。このために構文が折られ、あいまいが容れられ、修辞を「減らす」もくろみがたどられ、語間がひろげられ、余韻をおもんじ、動詞と「辞」を多用し、名詞によらない詩の「うごく」からだをつくり、詩の刻々が「それ自体」以外を同時にふくむようにする。喩のなさがそのまま反転的な喩にすりかわる「減喩」がここで志向されなければならない。
 
むろんそれは普遍性をもつ詩作法則でもないが、詩作そのものをやはり同様に恥辱とする、他人の秀作のある割合に、こうした詩作意識がひそかに閃いているのが現在なのだ。「和す」「伍す」、それ以外なにがあるというのだろう、詩作に個性などをとっくに除外してしまったあとでは。こういう感度なしで、詩作フィールドの全体が変化することもないだろう。個性神話にいまだに眼を血走らせているひとはみにくい。
 
わずかな古語などをのぞき平易な語彙で詩をつづりだしても、あるいは和語とひらがなを基調にやわらかさやたわみをあふれさせても、みえない「穴」が、ほかのみえない「穴」と連動しあって、詩脈がつかみがたくなり、難解をいわれてしまう。けれども詩作とは「穴」を自明ではない様相で連辞へうがち、字数では測れないよう、構文そのもののからだをひろげてゆくことではないのか。平叙の自明性だけでは八行詩がゆたかにならない。
 
この俳句の国では語のならびはそのようにしかならないだろう。ところが俳句は構文ではない。だからかわりに短歌を置くと、しらべも必然化してくる。独善的な散文詩はこうした日本語の属性にうといというしかない。いまでは見た目の目詰まりをほぐすのもおっくうなのだ。
 
詩にうがつ「穴」のなかに日常の自分を装填する。しかもわたしをへらす。そうすればこそ、読み返したときにかつての光景や音響や「ひと」がみえてくる。それで寂しさがまぎれるのだ。こういう個人的動機なしに、無駄の最たるもの、詩作などありえないだろう。
 
去年の夏、畏敬する佐々木安美さんが訊いた。「どうして毎日、詩を書くの」。「さみしいからですよ」。「毎日」ではないのだが、からだに詩興がみちると、たしかに毎日にちかくなる。一年のうち、そんな数週が何回かあり、まるっきり書かない月もある。
 
八行がみじかすぎる――ときにそうおもい、くるしむ。技術的なことをいうなら、意味量を自己保証すると、詩に音韻を約束するフレーズの反復が八行詩ではほぼつかえなくなるのだ。詩中に一回だけならつかえる、けれど相次ぐ詩作でこれを連続させると、詩篇連関が単調になる。音楽性に強圧をかける「八行」の枠組をしゃにむに音楽化させること――そこに詩作とくゆうの反世界性があった。俳句に俳句の詩体があるように、八行詩の詩体をつくったのだ。可読性は確保できたとおもっているのだが。
 
八行詩の連作は、総数150篇の全体でとうとう満尾したようだ。ここ一、二週はかつての詩篇を捨てるかわりにあたらしくつくる詩篇を全体に容れ、しかも詩集形そのものの「終わりの練習」をしていた。ために最後だけ、創作順を外し、ほんのすこし詩篇の並びを調整した。
 
 
 

2017年02月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

じんかん

 
 
【じんかん】
 
 
みずからをぞんざいにあつかう
かんけいの病巣なのだひとり棒立ち
じんかんをみたしている寂光を
ふるゆきのおくにながめつづける
なみだぐんでみせるのがよろこびで
あまたたび愛がはやりものへのぼるが
橋ひとつまぢかにこおりつくなら
ゆきあえずじんかんもわかれてゆく
 
 

2017年02月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

間釘

 
 
【間釘】
 
 
ものうげなままひくくゆくすがたは
ゆきのなかさえいぬにかわらない
ところどころみえるあのほねぐみが
点在のうつるけはいをあらわして
ふるゆきのおくゆきに跡絶えそうだ
「処どころのみえる日うつくしき」
みせけちをたわむれるいぬといぬなら
ゆばりでましろへとあいくぎもうつ
 
 

2017年02月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)