又吉直樹・劇場
【又吉直樹・劇場】
増刷で話題をふりまいた「新潮」4月号掲載、又吉直樹の『劇場』をようやく読む。東京で劇作家・演出家・劇団運営を目指す「永田」と、演劇経験もあり、永田の生活を支える少女「沙希」とのボーイ・ミーツ・ガール形式、ついにはせつない破局までもが(予感と残存のからまった形式で)しるされる「恋愛小説」だった。同時に前作『火花』を継ぎ、破滅志向を孕んだ、厄介でわかい創作者にまつわる、逆説的な芸道物=成長小説=ビルドゥングス・ロマンでもあった。
細部に呻吟のすえ確定した「着想」の痕跡が多々あり、さすがに「小ネタ」の連接に拘泥する漫才芸人の小説だと唸った。「小ネタ」というと馬鹿にされがちだが、それが小説のディテールの肉質になるのはむろんだ。それでいて、ちいさいがうねるような全体のながれが、たくみな時間経過とともにある。そう、結果的にいえば、有名性と達成度、この共存によって又吉直樹は、どんなに細部に子供っぽい瑕疵があっても、やはり現在の「文学の星」といえた。
小説の舞台は、「演劇の街」下北沢を中心に、井の頭公園、渋谷、新宿、代官山、羽根木公園のある梅ヶ丘、さらには永田が仕事部屋を確保する高円寺などに設定されている。アナクロな無頼派のただ目立つ中央線沿線に較べ、「あそこらへん」には無頼派とおしゃれ系のひそかな乖離があり、総体としては表現者志向の若年層の生活水準が「やや高い」のではないか。そうした正と負のみえない齟齬が作品の基調に横たわり、さらには演劇という(成功確率と存続の面で)絶望的な表現手段をえらんだ者たちの運命的な陥没が、より際立つことにもなる。
小説を読みすすめてゆくと、永田=「永くん」と沙希が「あそこらへん」をかぎりないように同道=ならびあるいていることに打たれる。都市彷徨者が符牒づけられているのだ。又吉は男女の仲をしるすのにセックス描写をつかわない。「あるき」をつかう(むろんことばのやりとりも表情描写もあるが)。歩行は、たとえば沙希が服飾学校の学友からもらった原付バイクや、永田が生活手段のためにプレゼントした自転車で不吉に阻害される(自転車なら沙希の心移りの証拠物となりながら、その直後、二人乗りを導く架橋物ともなる)。これらの小道具は又吉には意識的だろう。事物に運命がどうあらがうのかはこの小説の主題底流のひとつだった。
「あるき」だけが至上の価値をもつのかというとそうでもない。それは作品が演劇を素材にしているためだ。「あるき」には段階がある。たとえばラストシーン、東京を決定的に去る沙希の、アパートでの荷物整理を名目にしたふたりの別れの儀式。さきに整理をおこなっていた永田は沙希の段ボール箱から、沙希が永田の芝居に出演したときの思い出の台本を見つけている。その台本をふたりは往年の共演時よろしく別れの儀式で読みあうのだ。回顧感覚にみちたそれは一種「同道」とおなじ効果をよぶが、ふたりはそのやりとりのなかに慚愧や謝罪といった自発的な発語までくりこむ。それらの発語が「泣かせる」のだが、その泣かせは同道の崩れを同時出来させる。決定的に。
もともと演劇は極小単位では、科白のやりとりが「同道」的なのだが(永田の発案する演劇にはキャラクター当人に意識されているのかいないのかわからないが、同道性を変奏する実験がくりかえされている)、又吉は作品が終結へ向かうにしたがい、演劇そのものが世界を包含し、人間がすべて俳優としてとらえ返されるというシェイクスピア→ヤン・コット的、「世界=劇場」的な演劇論を開陳してくる。このときの演劇的世界性とは空間重複であり、奥行きであり、アナロジー、アレゴリーでもあって、それは歩行形式のもつ具体的単線性と、一対一の併存期待性とをケムに巻き、かつは傷つける磁場とならざるをえない。「世界」はふくざつにして単調で、この同時性により、同道の明視性を失視させるのだ。演劇は「立つ=停止する」。だから作品では同道性と演劇性が天秤にかけられ、その平衡がかならずどちらかに傾く不如意がとらえられているともいえる。
小説の冒頭、書き出しで大いに苦悶したにちがいない又吉は、たぶん小説ということばの歩行形式そのものの失態をしるせばいいと気づいたはずだ。又吉は、歩行と身体のまさかの脱線を、詩的=哲学的にしるす。おそらくはこの精度にこそ又吉小説の今後の可能性がある。いくつかみてみよう。
●
きっかけもなく歩き出してはみたけれど、それは家を目指して歩いていたわけではなく、ただ肉体に従い引きずられるような感覚に近かった。
*
自分の肉体よりも少し後ろを歩いているような感覚で、肉体に対して止まるよう要求することはできなかった。
*
時々、僕は僕の肉体に追いついたりもしたので、あるいは全ての行動が自分の意志によるものだったのかもしれない。だが、僕が僕の肉体を追い越すことは一度もなかった。
●
こうした物言いは、小説『劇場』のほかの細部には一部の例外を除き、あまり見受けられないものだ。『劇場』ではたとえば饒舌の破滅的な氾濫、話者の自意識への攻撃といった、『火花』からの既視感が主流をつくるが、摘記した「歩きと身体の乖離」は、たとえば又吉が太宰や芥川とはちがいほぼ言及していない川端康成、その『みずうみ』の主人公・桃井銀平からの既視感を反映させている。川端『みずうみ』は同一性が内部的異質を分節しつづける異様な時空間をもち、しかもそのなかで独立構文がどこにも帰属できない不気味な特異点をしるすのだが、「小ネタ」を連接する又吉にとっては、こののっぺらぼうの二重性が今後の参照系のひとつになるだろう。
あるくことは、身体全体と同位ではない。身体はあるくことを媒介に、あるきから刻々乖離もしくは遅延するのだ。おのれからの遅れがあるきには内在されて、あるきは身体を移動させながら、無惨にも遅延を痕跡化する。これが相互化すればセックスになる。その意味でいうと又吉は、あるきの実相に迫ることで代替物もしくは発展物のセックスを秘匿できる。むろんそこには清潔さへの志向がかくされている。
もっとかんがえてみよう。あるきは世界内を単独で線形化できるといっけんおもわれる。ところが世界の眺望そのものが、「夕焼けがおおきくみえてときに怖い」ように、時間と共謀してあるいているのだ。人の歩行が世界の歩行と調和するなら必ず人のそれは世界のそれに吸収され、歩きは調和次元では存在することができない。とりわけ世界=劇場とかんがえると、舞台で歩行は演劇に調和できない難関となる。「私もうすぐ二十七歳になるんだよ」と沙希がとつぜん発語するくだりもあるが、小説『劇場』では時間経過が巧みだと先述した。ここでは懸命に同道した主役男女の上位で、先駆けて「時間があるいてしまっている」残酷が剔抉されているといえるだろう。
「僕」=永田にとって、沙希は「あるき」の共存性によってえらびとられた存在だという点は疑いない。確認しておくと、永田―沙希ふたりの出会いは以下のようだった。画廊でみかけた沙希を、永田が川端「みずうみ」の桃井銀平のように尾行する。それはむろんあるきながら自分自身を尾行することとひとしい。異変に気づいたまだ沙希と名付けられていない沙希は道の反対側へと渡り、尾行を振り切った。そう安心した刹那、永田がふたりの靴がアナロジーをもたないのに、「靴、同じやな」と声をかけるのだ。本当は靴ではなく「あるくこと」がおなじだと永田が予感したとしか受け取れない。そうかんがえると、このディテールは鮮烈な出会いをひつようとするボーイ・ミーツ・ガール形式での「失敗」ととらえずにすむようにもなる(以後は沙希のアパートの調度品で「靴箱」が重要な位置を占めだす)。見事な同道=あるきの哲学の一節がある。
●
沙希は理想的な速度で歩いてくれた。僕は自分よりも速く歩く人は嫌いだし、自分よりも歩くのが遅い人はもっと嫌いだった。おなじ速度で歩いてくれる人だけが好きだった。そうすることによって、歩く速度を意識させない人が好きだった。だが、沙希は完璧な速度で歩くことによって、僕に歩く速度について深く考えさせた。
●
完璧な同調は差異を無化する――そうおもえる。けれども上位意識は、同調とは差異性の特異点だと残酷にとらえ返すのだ。この不可能性認識がたぶん永田の演劇行為の困難と相即している。小説『劇場』はやがて永田と同世代にして、才能あらわな演出により演劇界で地歩を固めてゆく「小峰」を対象化しはじめる。ずっと核心的な用語が回避されているが、永田が小峰におぼえたのは灼けつくような嫉妬だ。この「灼熱」の本質は実際には同調であるのに、永田の心情の地獄のような悶えは、同調がひそかに、あるいは本質的に予定する差異性のむごたらしい露呈を原資にしている。換言すれば、同調領域にあるものにたいしてしか、ひとは嫉妬にまで拡大する差異を見いださない。
ところで恋愛小説では、キャラクターの魅惑化が必須となる。その感情表出の容易性、善意、向日性、笑い、積極性、献身、同調傾斜性(※手をつかわずにアイスコーヒーをストローから飲む仕種の模倣、大阪弁の模倣、永田の台本への落涙を伴った感動)などによってありえないキャラクターとよばれるかもしれない沙希を、具体性へと実質づけているのは、又吉によるその「顔」の描写なのだった。
じつはその表情は永田の志向する演劇性にたいし先験的に演劇的混沌をしるされているのだが、慚愧の段階にはいるまで永田がこの点に自覚的だったかどうかはわからない。小説が進むにしたがい、周囲の反応から沙希が、性格がすばらしいだけでなく容色がかわいいとも間接的に判明してゆくのだが、又吉の描写はすこしめくれあがったようすに特徴のある沙希の上唇に拘泥するだけだ(ここにじつはエロスの秘密がかくされている)。ただしその「顔」は確実に全体性を描写されている。以下のように――
《その人は睫毛が長かった。〔…〕その人の上唇はツンとめくれ上がっていた。不安気な表情のなか、その部分だけがやけに楽しそうにみえた。その上唇の形状を元に、その人が幼かった頃から今日までに、どのような生活を送り、どのように容姿を変貌させてきたのかがわかった》。これは顔の細部が時間的奥行きをもち、細部のこれまでの「歩行」過程を認めた気にさせる同一化の魅惑を表現している。このことが永田の企図した舞台の(観方によってはプルースト的ともレヴィナス的とも映る)次のような着想と共鳴している。《過去は常に現在の中にもあって、未来も常に現在のなかに既にあるのではないか。》(この舞台が結果的に評価を得なかったのは多時間的「同道性」と「共存」にただしい架橋が果たされなかったためだ)。
ところが永田が劇団を共同運営する同郷出身者「野原」にたいし、沙希の表情をどう語ったかについては無時間的な「共存」=ほんとうの演劇性(じつは同一化とは次元を異にしている)が分析されている。○「怒ってるのに笑っていたり、泣いてんのに疑う顔をしてるときあんねん」。○「主張と感情と反応が混ざって同時に出てしまうねん」。この感慨は、沙希との仲に暗雲がたちこめだしたときの地の文へも発展する。《沙希の表情が怒りで崩れれば崩れるほど、沙希の笑顔を思い浮かべることが容易にできた。》。同一性のなかで異質性は、人にあたえられた受苦にも似る。夜と昼についてのレヴィナス的な見解を、永田は沙希に問う。○「ずっと昼間で人間の体だけ夜になるのと夜になるけど人間の体は昼間のままなん、どっちがきついんかな?」。
小説家としての又吉直樹の美質は、描写を連打せずに、寸止めに抑え、印象をのこす機微につうじていることだろう。これは「小ネタ」的単位性の呼吸、ともいえる(この点で、音楽活動をしていた同郷出身者が〔沙希に先駆けての〕荷物整理ののち一旦の留守を永田に託し、早合点した永田と野原がその家具調度をワゴンで持ち運んだ顛末がギャグとして見事だ)。これがあるから永田と、もと劇団所属女優、現在は作家の卵となった「青山」との短時間でのメールの爆発的やりとり(『』でしるされる)や、飲み屋の店長の自宅から沙希を連れ帰ったときの二人乗り自転車での痛いほどの永田の饒舌など、「氾濫」が見事な対位法をえがくことになる。
さてそうした又吉的法則からすると、沙希の「顔」「表情」の実存的な異質共存性の魅惑は小説のクライマックスにいたっても発展的に明示されることがない。猿の面の向こうにみえた沙希の涙眼の顔が、ちいさくわらう描写はあくまでも恬淡として小規模だし、そのまえにもおそらく最後のデートでの《日が暮れはじめると、急に沙希の指や靴や唇などの細部が鮮烈な印象で眼に入ってきた。どの部分を見ても、それにまつわる情景が頭に浮かぶ。沙希が存在するということが、ほとんど奇跡のようだった。》という、観方によっては当たり前の描写があるだけだった。慚愧とむすびついた郷愁が死に至るものであり、それがかならず複数化、もしくは多様性共存で顕れる点が強調されていないのだ。これはながれとして問題にすべき欠落なのだろうか。かんがえてみれば、この点こそが演劇の最終的な様相であり、それをはじきかえすようにして人間は世界=劇場のなかで役割化という縮減に陥るはずなのだから。
そのことでかんがえるべき細部がじつはさりげなく『劇場』には挿入されている。永田と仲を恢復したようにみえたころの沙希のひとつの発話がそれだ(沙希は恢復の代償に昼のブティック勤務、夜の飲み屋勤めを辞めている)。東京、あるいはそれを体現する永田に被曝した沙希はアル中に陥っていて、永田の心配もあって、酒類をアパートの部屋のなかに隠されている。その沙希がアルコール類をみつけだすとき、探査に、いわばベラ・バラージュ的な「顔貌化」が交錯するのだった。つまり沙希の顔はえがかれないが、沙希の行動の発語が「顔」になる、ということ。しかもそれが、進展そのものが余韻を孕む微妙な筆致で描かれている。又吉は『火花』から『劇場』にいたる道筋で「間歇性」を練磨したのではないだろうか。以下。
●
夜中に沙希の部屋へ行くと、沙希は顔を赤くして呂律が回らない口で「おかえり」と言うと僕に微笑んだ。
「また酒飲んでるんか? 飲み過ぎたらあかんて言うたやろ?」
「これがないと寝れません」
沙希は僕の目を真っ直ぐに見つめてそう言った。酔っている時だけ僕の目を見てくれる。
「もう酔っ払いやん。焼酎隠しといたのに」
「隠すとこすぐわかるよ!」
そう言って沙希は急に立ちあがって押し入れを開けると買いだめしているボックスティッシュの後ろを指差した。
「おっ、偉そうやな。今度絶対見つからんとこに隠すからな」
「絶対見つかるよー。すぐだよ」
「どうやって?」
「目を閉じてな、お前の残像を探すねん」と沙希が言った。
「なに、俺みたいなこと言うてんねん」
「言うてるか、アホみたいなこと言うな」と沙希は真面目な顔をして僕の口調を真似る。
「言うてるやんけ」
「言うてないわ。ほんでな、耳を澄ますねん。ほんなら声が聴こえますねん」
●
おそらく、こうした描写でのまとまらなさが、存在的郷愁の本質であり、永田のかんがえる演劇の真髄なのだろう(作中、目覚ましい才能の小峰がおこなった商業的総括性・展開性にたいして、永田が小峰の演劇には実現できていない、一種の随意性のすばらしさを自らに課そうとかんがえるくだりもある)。そういうものは総体的にみれば混沌なのだが、混沌の各瞬間がかけがえのない唯一性で具体化されている。ところがその具体性はやがて溶解にいたり、ついには静寂につつまれることにもなる。この機微は作品の一節にある。まだまともな沙希と、青山によってもたらされたライター生活の上滑りで乱調をきたした永田のやりとりがそれだ。だれもが「泣ける」というだろう。それを又吉は一過性の枠組に押し込めた。この残酷法則が『火花』を継ぎ、かつ『火花』を練磨したものだった。最後にそれを引く。またもや、要約できない「やりとり」なのに注意してほしい。そしてそのリズムの秀逸さにも。
●
「こんな時間までどこに行ってたの?」
沙希の少し鼻にかかった声は優しい。
「わからん」
「また沢山飲んだの。楽しい?」
「わからん」
「誰と飲んでたの?」
「知らんやつ」
そう言うと、沙希は目を閉じたまま少し笑った。
「もう疲れるから、行かない方がいいよ」
その通りかもしれない。
「疲れたでしょ? 梨買ってあるよ」
沙希は目を閉じたまま寝言のように囁く。
「なぁ」
「うん?」
「ここは安全か?」
キングコング・髑髏島の巨神
【キングコング・髑髏島の巨神】
1974年とはアメリカにとってなんだったのか。個人的には大好きなロックアーティストたちが次々に「足りないアルバム」をつくり、ロック音楽の衰退傾斜を決定づけた年だったが、むろん前年にニクソンはベトナム撤兵をうちだし、最強アメリカの神話が崩れ出したメルクマールだった。アメリカ映画の多くも説話論的経済性をうしなって長くなり、ストーリーのうえでも配役(スターシステム)のうえでも脱中心化、荒れ錆びた雑駁の魅力を湛えるようになる。SF意欲作などまだあたらしい風潮も出ておらず、全体に緩慢化していた印象がある。
ジョーダン=ボート・ロバーツ監督『キングコング・髑髏島の巨神』の基軸は1974年だ。ベトナムからの米兵の撤退作業が依然つづくなか、ランドサットで南洋に確認された未知の島「髑髏島」が舞台となる。島の生物・地質等を確認にゆく科学調査隊をベトナム戦争の従軍兵士たちが護衛輸送するという設定だ。そこに英国SAS出身の精鋭が傭兵として、従軍でありながら反戦写真を撮っていた意欲的な女性カメラマンがくわわってゆくが、「人材集結」をストーリーに乗せる方法は『七人の侍』の序盤に似ている。
こう書いて、この映画がさまざまな映画の既存の枠組、既存イメージをマニアックにパッチワークしたものだと即座にわかる。これまで嵐に包まれて実在を確認できなかった髑髏島は、気味悪い巨大生物群が跋扈しているのだが、これはむろん『SF巨大生物の島』からの設定借用。そこに『キングコング』シリーズが合体するというのが大筋だ。それだけではない、ヘリコプター隊が島に辿りつくまで嵐に巻き込まれるのは、『天空の城ラピュタ』だし、やがて雲が切れて眼下にひらける光景は宮崎駿のクライマックスの廃墟のようだし(「水」がある)、キングコングの家族たちが白骨化している野での巨大爬虫類の対決場面ではその瘴気が「腐海」的だったりする。アメリカ兵たちのやりとりはアルトマン『MASH』などに淵源がある。
なによりも、ヘリコプター隊は島に訪れた直後、島に爆弾を落とし、土壌の反響をみて、「地球空洞説」が適用できるかを調査、島の守護神キングコングの怒りを買い、凄惨な反撃を受けるのだが、ナパーム弾の大量使用と、ジャングルの景観が『地獄の黙示録』そのままの引き写しだ。実際に、兵士たちは「ベトナム戦争がまだつづいているようだ」とくるしい感慨をいだく。つまりベトナム戦争が反復しつづける悪夢のような時間強迫が作品の構造を決定づけている。映画は最終的に島からの脱出に向かうが、それは同時に「時間からの脱出」でもあったのだった。『地獄の黙示録』がドアーズ「ジ・エンド」など60年代ロックの名曲を垂れ流したように、『キングコング・髑髏島の巨神』は「74年のロック音楽」を垂れ流しつづけ、74年論であろうとする。それは衰退をはらんだ強行の実相がなにかをとらえることにつながっている。
作品の地政学はどうか。ロバート・クローズ監督によるブルース・リー主演『燃えよドラゴン』は前年、73年の公開だった。オリエントには奇怪さとキッチュをすべてつめこめるとしたクローズの精神性を、この『キングコング・髑髏島の巨神』が踏襲している。作品はやがて髑髏島の先住民族(彼らには言語がない――おそらくそれゆえに「現在」観念もない)を描写しだすのだが、東洋的な無表情にアラビア文字のような装飾(刺青)をほどこされたその顔は、台湾高地民族、チベット民族、アフリカ民族などを混淆された総称的「オリエント」と位置付けられるだろう。そう、サイードが『オリエンタリズム』でしるしたイスラム圏以東はすべてオリエントという雑駁な把握を作品は批評的に増幅してみせるのだった。
74年が基軸としるしたが、映画には1944年のプロローグがある。やがておなじ島を舞台にしていたと判明するのだが、従属部隊から孤立した太平洋戦争下の米兵と日本兵が大岡昇平小説よろしく一対一で対峙し、どちらもが相手を殺害できる膠着に縛られるのだ(けれどもその帰趨は割愛される)。ベトナム戦争が無限反復される悪夢は、太平洋戦争、朝鮮戦争、ベトナム戦争がすでに反復された歴史的事実に原資を負っている。このときもうひとつの「時間の光」が映画の奥深くから差し込んでくる。つまり『キングコング』第一作の1933年(このとき「偉大な」アメリカは世界恐慌からたちあがり、ニューディール政策に踏み切っていた)が作品の時間を立体化する奥行きとなっているのだ。
奥行きといえば、作品は3D映画だった(ただし3D映画を観ると酩酊と吐き気に陥る連れ合いとの鑑賞だったので、2D版で観た)。アクションが期待される内容だから、3D効果は奥行きからの攻撃性が中心とかんがえられがちだが、3D的な奥行きが水平軸の奥行きだけによらないという是正を進展させている。俳優たちの手許を映すちいさな俯瞰構図にもたぶん3D的立体感が強調されたはずだし、巨大なタカアシガニ(蜘蛛)が米兵を次々捕食する恐怖場面ではジャングルの木立を見上げる視界から、その爪が鉛直方向に猛烈な速度でおりてくるようすがとらえられる(キン・フー『侠女』へのオマージュかもしれない)。仰角構図にも3D的立体感が適用されることで、上下奥行きすべてに馴致できない「奥の潜勢」があるという苛烈な空間意識が実現されていたのだった。
作品では「恩讐」「回収」が徹底的に敗北する。護送隊の長パッカード大佐=サミュエル・L・ジャクソンは、島にヘリコプター隊が到着した当初、キングコングによって米兵とヘリコプターが壊滅的な打撃を被った怨念を忘れない。軍事的な判断ともいえる。それが米兵や武器の回収という誤命令を発しつづける要因となる。物語の説明を端折るが、そのときにはキングコングが島の巨大怪物の脅威から先住民を護衛する「神」に配置がえしたことは、1944年のプロローグから生き残っていたマーロウ中尉=ジョン・C・ライリーの証言により判明しているし、バラバラになっていた調査隊と兵士たち全体も合流して、「川をさかのぼる映画」(蓮実重彦)の『地獄の黙示録』にたいし、島の北端を目指すべく、「手当をした残留船」で「川をくだる映画」になろうとしていたのだった。
作中の死者は政治的に配慮されている。サミュエル・L・ジャクソンなど米兵たちは、勇猛さと自己犠牲精神を発現したためにすべて死に(むろん犬死の兵士たちも数多い)、髑髏島の危険を秘匿し、ソ連に先駆けるためだけに調査権をかちとった調査隊の長ビル・ランダ=ジョン・グッドマンもその自己中心的な卑劣さを断罪されたのかあえなく死ぬ。生き残るのはリベラルで勇猛な英国傭兵コンラッド=トム・ヒドルストンと、女性カメラマン・ウィーバー=フリー・ラーソン、さらには科学調査隊がらみの「文民」たちだ。あるいはキングコングや非人間的な印象をたたえる先住民族たちが、天空の城ラピュタのロボットたちのように、時局から外れた遠い永遠のなかに「生き残りつづける」。
ところで1974年はモンスター映画の空白期だった。だから76年にギラーミンの『キングコング』リメイクが冴えないかたちで再召喚されたのだ。モンスター映画は迫真のサスペンス、宇宙密閉空間、そして爬虫類からの変型形象をともない、『エイリアン』であらたな画期を迎える。『キングコング・髑髏島の巨神』では、その間の空白期に旧来のモンスター=キングコングと、まだ潜勢の状態にある新モンスターたちとが共存しているという過激なパッチワークの様相を選択する。
まず神話創造的だったのが、シシ神をおもわせる巨大バッファローだろう。創意的だったのが先にしるした巨大タカアシガニと、巨きな枯れ木にしかみえない巨大ナナフシかもしれない。だがキングコングと対決するモンスターは、やがてすばやい匍匐的前進をおこなう巨大爬虫類に収斂してゆく。哺乳類=猿=ゴリラの巨大化にすぎない、「顔」のあるキングコングはイメージとしては体毛もあり親和的で、やがてはストーリーの進展にしたがい人間化する宿命にある。逆に非人間性にたもたれる「咀嚼不能な脅威」が爬虫類型のモンスターなのだった。
蛇の「顔」がどこからどこまでを指すといえるのか、そう疑問を呈したのがレヴィナスだった。「顔」の確定できないものは他者ではない。爬虫類的モンスターは「脱他者」という規定不能性なのだ。しかもその顔は裂ける。上顎と下顎のあいだがおおきく開示されると、口腔とみえたものが女性器の襞をもち、舌との境目がわからず、しかもそれが有歯性の気味悪い複数をかたどることで、身体内壁がめくれあがったという以上に、「顔」部分に脱定位的に女性器の攻撃性を内破させ、表層から一貫性を奪う驚異=脅威をもたらすのだ。この複合性がないとモンスターたりえない。
魚類の変型とみなされる『グエムル』の怪物は、脚をもち、反転し、倒立する素早さも怖かったが、こうした口腔の開示性を増幅されていた。酸と粘液の中間にある唾液もおぞましい。『シンゴジラ』のゴジラにも性的に不気味な口腔開示性があったが、それは同時に震災後の日本の停滞のメタファーでもあったから歩行以外の運動性をころされ、最終的には東京駅のうえに廃墟として凍結された。現在批評だった。
キングコングは人肉食の恐怖と一瞬連接されるが、基本的にその形象は、いかに眼や口を遠隔操作されようとも、着ぐるみ怪物の延長線上を離れることができない。かつてのキングコングはよじのぼったエンパイアステイトビルの窓から、窃視的な両眼を捉えられる程度の大きさにすぎなかったが、それ自体が高層ビルのおおきさになった『髑髏島の巨神』のキングコングは、それでもそのおおきさを嵌め込みCGによる別縮率の共存として把握されてしまう。キングコング的怪物は「了解」(伝統ハリウッド的了解)に刺繍されるほかない。だからモンスター恐怖の真髄に迫りたい『髑髏島の巨神』では、怪物性の特権化として爬虫類型モンスターを登板させざるをえなくなったともいえる。
爬虫類型モンスター映画の系譜はそこで展覧される。キングコングの肉親たちが白骨化している瘴気あふれる荒れ野で、爬虫類モンスターは最初の猛威をふるうが、その殲滅方法に火炎がもちいられ、口腔が炎上する。むろんそこでは英国傭兵と女性カメラマン(このふたりのツーショットは『ロマンシング・ストーン』の主役男女をおもわせる)のハワード・ホークス的連携もあって『グエムル』のクライマックスをおもわせる。他の映画のクライマックスを消化要素として蕩尽するのが、怪物系映画の文法だ。それ自体が怪物なのだ。さらに巨大な爬虫類モンスターとキングコングの肉弾戦的な直接対決が『髑髏島の巨神』では用意されるが、ここでは参照軸はなんと『ゴジラ対キングギドラ』へと逆行する。ベトナム戦争の永遠の反復という悪夢的時間の突破口は「遡行性」であり、そこから33年の初代キングコングの活躍が期待されることになる。
最初は怪物的他者として定位されていたキングコングは、「正義」の色彩を帯びさせるドラマ的要請にしたがい、次第にその主観を形成されるようになる。とりわけ大きかったのが英国傭兵と女性カメラマンのハリウッド・カップルの間近に、その「顔」を寄せたときだった。ゴリラの「顔」でしかないキングコングを荘厳化(=列聖)したのは、その神秘感に落涙をもってこたえた女性カメラマンの「顔」だ。そこには「顔」から「顔」への反射があった。
キングコングに期待されるのは賛意や勝利の陶酔をしるす「胸への両拳による太鼓打撃」、さらには女のうつくしさに打たれてその裸身を掌に掬うことだろう(そうして33年のキングコングはほぼ裸身のフェイ・レイをいとおしげに掌にのせた)。キングコングの正体は「手」なのだ。ご覧になればわかるが、この手の特権化は、『髑髏島の巨神』では満を持したタイミングでおこなわれる。水中にほうりだされた女性カメラマンを、爬虫類モンスターと死闘をくりひろげる渦中のキングコングが水中から掬うのだが、てのひらでカメラマンをやさしく握ったままのキングコングが拳を握り爬虫類モンスターの口腔に突っ込み、舌を引き抜く(?)などの壊滅的な損傷をあたえる。惜しむらくは、てのひらのやわらかさと、拳のつよさという内外の離反するサスペンスを、弁証法的に解決する詳細が描かれなかった点だろう。宮崎駿ならそれを実現したはずだ。
髑髏島ではなぜ生物が巨大化したまま残存しているのか。解答はあまりはっきりしない。地球史的には嵐に囲まれたこの島の酸素含有率が異様にたかかったと予想がつくが、昆虫類、鳥類、爬虫類、それにキングコングが巨大化していても、先住民はそうなっていない。巨大化とは逆叡智だということだろう。ところで先にしるしたように、巨大化した爬虫類モンスターはその口腔開示性により、脱他者化している。この規定不能性が、実は『エイリアン』以降のモンスターの色彩となった。この規定不能性は、たとえば領土と国民があるのかないのか不分明なままにテロリズムをアメーバ増殖させるISといまでは似ている。ISの脅威下では「映画の怪物」は脱他者性=究極の規定不能性をまとうほかなくなった。
ところで映画の示唆するところによれば、生物の巨大化の要因となっているのは「地中の空洞」ということになる。「地球空洞説」は、ある程度「物理学」が進展をみた近代初期の疑似科学として英国から発祥し、以後神話化した。地球空洞説は西洋的な同一性が迷妄とふれあって起こった、いわば同一性の影にすぎない。深読みすれば、ISを映画は、西洋の同一性の影ともとらえているのではないだろうか。
――3月25日、TOHOシネマズ新宿にて鑑賞。
雑感3月23日
詩の構造をかんがえるにあたり、使用されている品詞を分類するというのはたぶんただしい。吉本隆明が『言語美』のはじめのほうで、それをおこなったのも至当だった。ただし、吉本のように、品詞を「自己表出」「指示表出」、それぞれの濃淡の混淆ととらえ、品詞おのおのをそれなりの座標に置くだけではもはや足りないだろう。品詞間の作用性の問題が脱落しているのだ。
論文作法のうえでは、「AはBである」という構文が尊ばれるが、「AはBだとおもう」としるすと途端にNGとなる(指導教員のおおかたはそのように学生に示唆する)。「おもう」の媒質が書き手の脳髄だとすると、論理によけいなもの=身体が媒介され、不純が生じるとみなされるためだ。この「不純」をつきつめてゆくと、寂寥、憂鬱、不快、欣喜、瞋恚など、そこから感情がいいあてられるよすがにもなる。とうぜん感情と純粋論理は対立する。それで動詞(身体的な品詞)は論理の対立物だという短絡が生ずる。綜合すれば論文作法はたぶん繋辞以外の動詞の極力の排除、という一種の人工性に則っている。
品詞への注目は、この意味で対立への注目につながる。たとえば品詞間の対立は、副詞、接続詞のような非本質を除いてゆくと、畢竟、主格を形成する名詞と、その帰趨をひといきにしるす動詞、このふたつの対立となる。動詞はほんらい不明性である名詞を、時空間化しそれを実在性に向けて開放するちからがある。さらにはそうした実在性を並立させるために動詞はさらなる連携をおこなおうとして、繋辞〈である〉を除外し、世界を動態や布置の明視性に純粋にまとめあげようとする。これはみえない主格「わたし」を基軸に構文のヴァリエーションのみを展開する哲学には成立しないことがらだろう。
名詞には固有名詞のほか、植物名などの一般名詞、さらには代名詞などがあるが、名詞の宿命は詩では朦朧化、さらには無名化を辿ろうとするのではないか。「さみしい葬儀屋がため息をつく」という詩文の書き出しで、恣意的に喚起された「葬儀屋」という主格がダメだといまおもうのは、主格の朦朧化が構文連鎖のながれのなかで起こるのではなく、「葬儀屋」と書きつけたその場で起こってしまうためだ。運動論でとらえるなら、その場での抹消は無運動だということになり、「さみしい葬儀屋がため息をつく」という詩文の書き出しは、以後、列挙という「運動」のみしか形成できない、と容易に想像がついてしまう。
主格として現れたその植物が朦朧化するのは、形状、季節、場所、それをとらえる者などが徐々にあらわになって、その植物の「そのもの性」が顕著になる一方で、それが偶有化されるためだ。見えない動因は、花がむらさきだ、葉が長い、幹が鱗状だといった形容詞・形容動詞が受けもつ。このとき実際は、その植物をしめすための主格が、その植物のみならず、そのまわりを旋回してゆく。「運動」の本質がこうした旋回=気散じにあるとすると、集中化を裏打ちされた脱集中が朦朧化の引き金になるともかんがえられ、構文は列挙よりも内化された関係性を更新するという理解がえられる。身体は、気散じにこそ介入するのだ。だから詩の本質は意気阻喪だともいえる。
むろん動詞には顔の系列と身体の系列がある。顔の系列の動詞は感官の反映過程をしるすもので「みる」「きく」「かんじる」などがそれにあたる。これと対立するのが身体の系列の動詞「たつ」「あるく」「なでる」「すくう」などで、顔系列の動詞が志向化をしるすとすると、身体系列の動詞はそのふかい水準では脱志向化にまきこまれてしまう。「あるく」は領域をあるいているようで、実際は領域を超えてしまうか、領域になにもしるさないか、どちらかでしかない。となると、朦朧化をしるす品詞は、身体系列の動詞であって、構文はそれを中心にして、顔系列の動詞、名詞へと遡行がさらにしるされることで、全体の朦朧を達成するともいえるのではないか(レヴィナスの「実詞化」〔『実存から実存者へ』〕とは逆の論旨なのに注意)。
この朦朧はちかくてとおいなにかなのだ。「ちかくてとおい」ありようは、ベンヤミンならアウラの本質と喝破する。ところがもっとあやうげなものがあり、植物でならそれをたとえば「帚木=ははきぎ」と名指すことができる。それに近づいても近づいたという実感があたえられない魔法の樹。虚子《帚木に影といふものありにけり》は源氏の出典を度外視しても「ある」のおそろしい実態を剔抉したもので、この句の作者が師・子規の《鶏頭の十四五本もありぬべし》を否定(無視)しきった理由がわからない。
さてこれまでの論旨で重要な品詞を書き落としている。それが「格助詞」だ。虚子《帚木に影といふものありにけり》では「に」の機能が綿密に吟味されなければならない。植物をしめす名詞「帚木」にたいして格助詞「に」を後続させることで一挙にその帚木が眼前の偶有の実在なのか一般性の提起なのかが不分明にされてしまう。この「に」は、たぶん日本語以外の外国語の品詞には存在しないものだ。「に」をもって「起こし」をおこなった最短詩文が「ありにけり」の「詠嘆=過去」へと急転直下してしまうことは一種、「抒情の暴力」とよべる。「ありにけり」の日本性もなるほど凄いが、もっと戦慄すべきなのはこの「に」なのではないか。このことと、冗語とまで印象される句の全体とが相即している。
格助詞は配置により、構文を見た目以上の迷宮へといざなってゆく。たとえば方向をあらわす格助詞は日本語では「に」「へ」、ばあいによっては「を」などがかんがえられるが、英語のto、on、in、under、into、over、at、forなどよりも汎用的なことで、方向内実の中間域といったものまで指示してしまう。「に」は単純に対象の表面に行き届くのか、それとも「そのなかに」「そのむこうに」までもふくむのかが分明ではなく、結果「帚木」なら「帚木」を、朦朧をともなって怪物的に実在させてしまうのだ。
「ありにけり」という奇怪な慨嘆はなんだろう。そうつづってしまった途端、すべてを脱力させてしまう慨嘆などありうるのだろうか。詩的には最悪の「である」という繋辞にかわり、「ある」という、ただ存在だけをしめす純粋な措辞までもが、その消滅寸前をみずからに引きうける受苦として虚子の句では再組織されている。このとききえようとしているのが、句に書かれていない主格「われ」であることも自明だとおもう。
「ある」はハイデガー→レヴィナスの考察をもむろん参照すべきだが、レヴィナスを拡張適用するならば、顔系列の動詞と身体系列の動詞との、唯一にして純然たる混淆体としてとらえるべきなのかもしれない。あらゆる動詞は、「ある」をふくんでいる。だから詩篇最後の聯に書かれた《帰って/泣いた》も「ある/ある」の同語反復をその裏に隠している。
赤尾兜子の名吟には《野蒜摘み八岐に別れゆきし日も》がある(「八岐」は「やまた」と訓むが、「やちまた」の置き換えで、造語の気配がある)。ここでは末尾の「も」が慨嘆をふくんでいる。春の日に野遊びをした、その後〔われらは〕八方へ別れ、野蒜の匂いをゆびにのこし、平穏へと戻った、そのことがおもいかえされる、あの春の日はきえた、――分解すると「卒業的な」感慨が透けてみえてくるこのうつくしく憂鬱な句は、「ある」がないのにそれが伏在性としてかんじられる奇蹟めいた一句でもあった。
文法破壊によって、一句は全体に片言の様相にまで畸形化されている。その哀しみも充分にあるのだが、「あった」主体は、「野蒜」でもなく「〔春の〕日」でもなく、句ではあらわれていない「われら」であるのは隠れようもなく、その言い刺しの気配が悲哀をうずまかせている。だから断言+慨嘆に、迷宮が感覚できる。
句を補ってみよう。そこには理想的な品詞の消長がある。A「野蒜(名詞)」「を(格助詞)」「摘み(動詞連用形)」「八岐(名詞)」「に(格助詞)」「別れ(動詞連用形)」「ゆき(動詞連用形)」「し(助動詞連体形)」「日(名詞)」「も(助詞)」B「われら(代名詞)」「に(格助詞)」「あり(動詞連用形)」「き(助動詞終止形)」。句はB以下を言外に置くことでAの最終辞「も」に詠嘆の色彩をくわえたのだ。この「も」が一句を逆流する。結果、「野蒜」も「日」も「われら」もはるかに朦朧化する――死後から眺めかえしたように。しかも身体的な動詞は陥没している。なんとせつないのだろう。
句の全体は名詞・動詞の錯綜を、助詞があやうく支えているその様相でしかない。その様相が喘いでいる。喘ぎながら、「ある」こそが動詞の根源だということを一句は言外の域でだが、たしかにつたえている。この呼吸に、すでに赤尾兜子を死に追いやった鬱病がみえる。泣けてしょうがない。
雑感3月18日
一篇の詩を作者が「完成」したと自覚するときには、ある徴候がふくまれている。「それがすべて自然な発露によっている」――これはたぶん自明に属する項目だろう。同時に、「もう削るべきところがない」――これがたぶん「完成」にまつわる特有の表情なのだ。詩作者は推敲の過程で生じた多数の抹消線をそのときには記憶している。できあがった作品〔=のこったもの〕にたいする満足よりも、過程で生じたそれら抹消線の英断性を、たぶん自負の道具にするほどなのだ。だから詩篇の出来はつねに「秘密」と関連している。
むろん「もう縮められない」は、みじかさを価値とすることと表裏している。ただし詩脈はいわゆる通常の文章における文脈とはまるでちがう。たとえば反復は詩においてはリズムであり強意であるのだから、それが冗長とみとめられなければ、そのままに抹消要因となることなどない。逆に、文脈の論理性は詩では抹消要因となる。文脈が切断され、そこに謎や飛躍や空白や乱暴が生じれば、それがかえって詩脈の実質となることは、詩作者ならとうに経験済だろう。平叙から離れるためにまず内化されるひそかな猛威、その最初の相を抹消とよぶことができる。この意味で詩作は、自殺そのものではないが、自殺的ととらえることも可能だ。
抹消の欲望はやわらかさをうばっている語彙を標的にし、説明過多の構文や言外の域にあるべき形容詞、もたついている接続詞、厭味な学殖などに「褶曲」を浴びせかける。襞をつくりながら、それを奥へと消す。物質的な側面における詩の伝達可能性は、襞の秘密をのこしたままの襞の平滑化から生ずる。この作業が「そのまま」が「そのままでないこと」にまで格上げをおこなう。
詩作とは平叙からの格上げをそのようにして刻々加味することなのはたぶんまちがいないが、同時に抹消の欲望は、頻度の問題にも敏感なはずだ。格上げが多すぎれば、それがかえって単調を結果するとして、格上げそのものまで抹消して、一種の「整え」をさらにほどこす。「整え」が「調え」と同音なのが示唆的だろう。不必要の徴候が音韻のみだれとしてあらわれることを、詩作者の多くは知っているし、構文に負わされる荷重が、それが荷重として露呈されているかぎり音の面からみにくいともわかっている。
文の連鎖が「いきもの」性をもつかぎり、「もう削れない」とは、死の宣告なのだろうか、それとも放生のはなむけなのだろうか。なるほど詩作者の手には、その詩を書くまえよりもさらに、死が蓄積されるかもしれない。ところが抹消の果てに「のこされたもの」は、逆転をけみして、放生される際のはなむけにそれじたいかがやいている――この点が肝要なのではないだろうか。
「いきもの」として余分な肢や首などをもたないこと、それが削りおえたあかしだろう。ところがそれが人間にない尻尾や鱗や甲羅や蹄鉄をもっていたとしても、それが「いきもの」であるかぎりさらにかまわないのだから、詩は本来が可笑的というべきかもしれない。「もう削れない」ことが、わらいを惹起しているすがたが、詩の至高性なのではないか。
いっぽうで、「もう縮められない」さみしさといったものもある。切羽詰まってはいないが、そのときには「とつぜんのおわり」が感銘をあたえることがおおい。「とつぜんのはじまり」と同断だ。ともあれ、わらい、さみしさ、いずれであっても、もう縮められない詩篇のなかに「詩の機能」が充実している点はたしかだ。ところがその機能性は、おとなしさの表情をたたえることでさらなる至高性を得る。そうして、たとえばまど・みちおと杉本真維子とがつながれる。
他人の詩を読んで、感銘をうけながら、「まだまだ削れる」という判断が働き、細部をまともには読めないばあいがある。ひどいときは飛ばし読みまでしてしまう。「なにをこんなに説明しているのか」。これは一見、精神的に不衛生のようだが、みずからが他人の詩篇にほどこした抹消線が、みずからのつぎの詩作の原資にもなるのだから、やはり詩の繙読がおもしろい。残酷なようだが、事実だろう。
もちろん矯められていない冗長な詩が、現象としては多すぎる。逆にいうと、あらわれている詩そのものに「抹消の痕跡」をみとめ、昂奮することは、稀少な恩恵に属する。ところがいつでも「もう縮められない」詩篇を提出してくるおそるべき作者が十人ていどはいたりする。
雑感3月17日
詩集が一回性でのみ読まれることを、詩作者じしんが回避しなければならないのは、とうぜんのことがらながら、なかなかつらい仕儀とはいえる。自分自身にかんしても、寄贈されてきた詩集が一読のすえ、再読のひつようなしと判断され、部屋の隅につみあげられてゆくときたしかに後ろめたいきもちになる。残酷なことをしているのだ。だから再読誘惑性とはなにかという問題は、とりわけ自己保守にたいしておこなう体験的な設問とまずはならざるをえない。
再読誘惑性とちかい感触をもつのは、こう書くと意外におもわれるかもしれないが、「中間性」だろう。「わかりすぎないこと」と「まるっきりわからないこと」との中間。「魅了されすぎること」と「ぜんぜん魅惑をおぼえないこと」との中間。これら中間性を時間軸に移せば、レヴィナス用語にいう隔時性ともなる。ある細部を調伏すれば、べつの細部が目覚めてゆくような詩集空間の平定不可能性は、それらがざわめきつづけるもの、死物ではないものという詩集固有の属性をあかしする。この属性をもって、詩集が再読誘惑をもつことになる。こういえばいい――再読誘惑性とは「いきもの」にたいする殺害不能の感慨なのだ。
詩を別水準から分析するならば、それが多様多層な「順番」で織られていることはあきらかだろう。音の順、語順、構文の順、詩行の順、聯の順、収録詩篇の順。順番が明視的だというのはたんに物理的な眼前性に支配されているだけの錯覚で、詩篇が読者に咀嚼され、内化されてゆく段階では、記憶力の優劣によらず、順番はいつもなにか迷路のような不明性をたたえてしまう。そうおもって、あらためて詩篇などをみると、語順など微細のレヴェルにかんして「なぜこの順番なのか」がそれじたい挑発的な表情をもちだし、ことばはほとんど顔の幻惑とひとしい独自性をくりひろげている。顔では目鼻がそのように表情をもってならんでいる代替不能性が誘惑なのはいうまでもない。
詩は、「存在」からうまれている。同時にことばからたんにうまれている。この判断の同時性が中間性ともいえる。詩篇細部に視線をいろいろ移せば詩は隔時的な「分離層」をもちはじめ、途端に要約不能となる。さらにはその「層」こそが顔貌性をたたえている感慨まで生ずる。とすると、詩集の再読は、ほとんど会いたい顔との再会にひとしいことにもなってしまう。観念化できない残滓がそこでは残滓ではなく本体なのだった。
ほとんどの詩篇では意味をつたえようとすることばが、その詩篇内に一回的に生じている法則により、順番化されているにすぎない。けれども「わたしは・きのう・丘を・きみと・あるいた」などの平叙組成のみでは、書かれたものは詩文とならない(むろんこうした文体が構文連鎖で詩文に変容することはある)。順番をくもらすものが順番そのものにくみこまれて、空間的時間的な整序性がどこか「文字通り」になっていない変調が、誘惑する多くの詩にかんじられるものだ。しかもその原因がたんに昂揚ではなく、認識の練磨によるところが、ほんとうに再読誘惑性をもつ詩篇・詩集の要件となる。オブスキュアなものが逆に明白性を救出する転倒。これは少数派が多数派を解放することに似ている。
いいかえよう。順番は磁場に現れた途端に「非―順番」となり、ことばのつらなりはこの乱調を平定できない。ことばの物質的な現物性のすきまに「中間」がさまざまみなぎっていて、用語と用語とを、正順のみならず、逆順/間歇(隔時)/照応不能など多くの不測性へと攪乱してゆく。この面倒な事実に愛着を呼び込むのが詩文の磁力だろう。
愛着は想像する。詩篇の細部を書きつけている作者の手は、順番と非―順番の双面性を立体として手許に転がしていて、その平穏な表情のなかには受苦が仕込まれていると。たとえばことばのつらなりが哲学的な示唆をおこなおうとして詩は破産する。ことばの物理的な順番が非―順番として逆露呈してしまうことにより、示唆が示唆の途端に破綻する。このとき哲学文より優位なのか劣位なのかわからないのが詩そのものをとりまいている救済なのではないか。
語彙の謎ではなく、順番の謎。着想の謎ではなく、そのもののあらわれの謎。それじたいはほとんどがさびしい表情をしている。そこに「顔」の誘惑がある。手柄意識で書かれたものの「したり顔」には駄目な自分をふりかえるようなつらさがあり、拙劣な詩よりもさらに再読の誘惑をかんじない。読むたびにことなる表情をおびる点滅性がそうした類型の詩集では殺されている。いつもと・おなじ・したり顔。点滅性は、順番と非―順番の分離不能の交錯からうまれ、おとなしい反作用であっても、さみしい挑発であっても、全体の調伏不能を印象させる。むしろさみしさが量的なすくなさとかかわるとき、すくなさがたんにすくなさではない戦慄が、ことばの表面的な順番のあいだに、なにかの中間性を覚醒させるつよい要因となる。
アクセルがある。けれど、理に落ちないための、常識に復さないための、ブレーキもあり、そのブレーキは意識ではなく、ことばそのものから組織されている。行け・退け、相反するふたつの方向力のなかで、ことばじたいが割れ、表面がすでに奥行きになっている。たとえば謎〔エニグマ〕とつぶやいて、それがそのまま《沖は在る》と、なにに貢献するかわからない断言を呼び、詩篇が閉じられ、この中断が深甚な余韻となる(吉岡実「楽園」)。そこになにが起こったのかを哲学はいうことができない。
「在ること」の示唆はなんど挫折し、その挫折をもって読者を再読に付かせただろう。《鶏頭の十四五本もありぬべし》では「強意推量」が「十四五本」という存在論的不確定性とむすびつく哲学上の幻惑が起きている。《草二本だけ生えてゐる 時間》では時間に物象の干渉が起こり、時間の限定性が無限定性へと解放寸前になっている。順番と非―順番との交錯とは原理的にはこうした俳句的措辞に裸出されている。とりあえずこうした詩に現れている「在ること」が再読誘惑の郷愁と無縁ではないとおもう。
再読誘惑性はだから、書きすぎないこと、自意識を露出しないこと、下手なものを書かないことの防備からもはや生まれるのではなく、詩が詩であることの原理から生まれるとかんがえなおすべきなのだろう。そうした誘惑をもつ詩集をつくりあげることは、はたして「注意力」の賜物なのだろうか。そう自問して、気がとおくなる。自分に舞いおりてくる恩寵を頼みにせざるをえない。そうか、詩はそれで「生」なのか…
雑感3月14日
むかしカッパブックス、多胡輝の『頭の体操』にこんな命題があった。「二者のあいだで食べ物などの好物を、文句の出ないように分けるにはどうしたらいいか」。答はこうだった――「はじめにひとりが、対面する相手にどちらを選ばれても後悔のでないよう対象を綿密・完璧に等分割し、どちらか好きなほうを、のこりひとりが選ぶ」。
そう、隔時性をまたいで有利性を相互に付与するというのが命題を解くポイントだったが、思考上の技術的な突破口は、最初の分割実行者が、みずからつくった選択肢の双方を支持できるほど精密な分割ができると想定する点にあった。ひとつの羊羹の切れ端をふたりで分ける実際などをかんがえてみればわかるように、ことはさほど簡単ではなく、この命題の解決法は机上の空論にちかいという反論も出るだろう。
ましてや詩集の収録候補詩篇を、編集者が収録数を減らして再構成するといった現実的条件では、作者がどの詩篇を選ばれて、どう並べられてもいいと当初は達観していても、すごく落ち着かない心情におちいるだろうことは眼にみえている。それでこうおもうはずだ。「約束は約束だ」。あとは運命の問題へと移行してゆく。最初に案を提出した者は「よりすくないほう」を甘んじて受けざるをえない。
ネット発表の詩篇をオンデマンド出版などで著者が自発的に詩集化する風潮が年を追うごとによりつよくなって、詩集空間を宰領する編集者の不在が危険だ(悪書蔓延の源泉だ)とは良くいわれるようになった。「詩集は作者単独でつくられてはならない」。とりわけ夢見がちな詩作者が自己領域にたいして盲目になっているためだ。
編集者不在が広範にみとめられるようになると、経済的な問題を度外視すれば、たぶん詩集刊行頻度がたかまる傾向が裸出する。詩作者はオンデマンド出版や自費出版であっても詩集刊行の直前には昂揚しているから、勢いで自分のかんがえたままの詩集が出てしまう。それで刊行後冷静に再読し、構成や詩集刊行頻度の失敗に気づき、臍を噛むことにもなる。自身の冷却装置としても「正しく物のいえる」編集者がひつようだったと。とつぜん謙虚さに立ち返る反省が起きてしまうわけだ。
詩作はもともと奇妙な均衡に乗ったフィクションめいたところがある。たとえばひとつの詩篇を最も精密に、最もくりかえし読んでいるのは誰か、と設問を自分に投げかけてみればいい。とうぜん答は自分自身となる。だから詩作者たちの不満も、「自分が自己作品を分析しているような精度では他人が読んでくれない」という点に尽きてしまう。もちろんこの不満が自己閉塞的な点に気づかなければ、自意識地獄が延々とつづくようになるだろう。
詩作者が自作に「気づく」もろもろは、たしかに特定的な深度のなかにある。それらはたんなる出来不出来の判断よりももっと微妙だ。わたしのばあいならこうだ。「当初思い描いたモチベーションにたいし、自然な流露ができ、その一方で自然なズレも呼び込むことができた」「近さから遠さへの架橋がうまくいった」「他人の既存詩篇からのひそかな参照が、それが露顕することなく独自性に達した」「修辞が達成意識に落ちるところをうまく回避し、ある種の消極性へとシフト替えした結果、当該箇所があたかも他人が書いたような新鮮味を帯びた」「その意味では受け身的自走をうまく導入できた」「これまで自分の既存詩篇に使用してこなかった語彙が巧まずして出てきた」「進行中の詩論を創作にうまく溶け込ませた」「現実の存在をあたたかく救抜できた」などなど。
もちろん他人は、研究するのでもなければ、ひとりの詩作者の使用語彙の歴史にさえも頓着などしない。大雑把に、たとえば詩風や文体や長さが変わったくらいのことを「印象」するだけだ。とりわけ他人と詩作者自身の齟齬は、難読性にかかわる判断に乖離が出る点だろう。詩作者は自分の作品をモチベーションの段階から自己吟味し、推敲過程の逐一を手中に収めているのだから、自分の作品のこまかい機微までを十全に理解している(のが理想だ)。
当事者性のない他人ではそうはいかない。この「そうはいかない」点を納得し、無前提の者がいま書いているこの詩篇を読んだらどんな反応が出るだろうか、それを場合分けまでして緻密に追い詰めながら、詩篇を完成させてゆくのが、他人に向けられた詩作の良心、ということにはなる。むろん「わかりやすさ」だけの観点から、自分の詩脈を枉げるのはおかしいとかんがえる均衡意識も一方で要る。
そういったもろもろを視野に入れてゆくと、自意識を他人の読みに変型応用することがなんという苦行か、詩作じたいのよろこびからいかに離れているか、それらを詩作者は絶望的に捉えるようになる。盲点はたしかにある。ただしその盲点をもっと単純な領域に限定できないか。そうでなければつぶれてしまう。
詩作者が最も自己判断できないものとして、頁数、収録詩篇数、行数、字数など「量」に、問題をまず局限してみればいい。詩篇の巧拙ではなく詩集全体の「量」の吟味ならば、じつは詩作者自身と読者の判断はともに一回性のイーヴンだとフィクショナルにとりあえずかんがえてみること。それならば「量」の吟味を自分自身ではなく編集者などの他人の判断にゆだねればいいのではないか、とべつの方向に考えがうごきだすのだ。
一詩篇をつくることと、一詩集を編集することにはおおきな径庭がある。このことに気づいている才能をたとえば「詩集巧者」とよんでみよう。巧者の詩集には、いろいろな外観が共通している。装丁と内容が「つきすぎ」ではない状態で相互に補助をおこなっている。詩集空間の安定性の下支えをうけて、個々の詩篇の位置がきれいに決まって、全体が粒だった印象をのこす。ヴァリエーションもある。冒頭詩篇と最終詩篇のあざやかさ。流れが巧まざるそっけなさのなかで実際は綿密に吟味されている。章扉や白紙挿入が見事。字の大きさなど詩篇の組みに愛着がうまれる。とりわけ、文体と主題が精密に考慮されることで、詩集全体の「量感」がその詩集の幅でしかうごかない。
この詩集巧者のもろもろの美点のなかでなにがいちばん巧みなのか。やはり「量」の自己測定だという気がする。けれども文字量の多い詩集にも少ない詩集にも、いわゆる詩史的傑作があるから、ことは一筋縄ではゆかない(そういう詩集が、自分ひとりで出せるのがいわば「天才」なのだろう)。
たとえば井坂洋子の第一詩集『朝礼』はみごとな「すくなさの空間」だった。書いたこと=詩がそのまま詩行になっている詩風と相まって、そのすくなさが清潔をつたえてきた。逆に石原吉郎の第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』はその圧倒的な量感が主題選定の重みからして「正しかった」。以後の石原の詩集はすべて量感においては過っている。すくなすぎたのだ。ほかにもいろいろな例を出せるが、ともあれ「量」がひとつの批評、主張、表現内容、生き方になっているものが、その量が多/少のどちらに振れようとも、正しく編集された詩集ということになるだろう(そういえば往年の「正しかった」ころのH氏賞の授与は、そういう詩集にたいしてのみなされていた気がする)。
たぶんいまわたしの警戒しなければならないのは、「量が多すぎることで」「台無しになってしまう」詩集だろう。というわけで、詩集原稿を信頼する編集者にあずけ、再構成案を待っているところなのだった。最初の『頭の体操』の話題にもどると、わたしは「よりすくないほう」にむかう運命を甘受しようとしている。これが諦念ではなく論理的な問題だということをしるしたかった。
近況3月11日
本日の北海道新聞夕刊に、ぼくの連載コラム「サブカルの海、泳ぐ」が載ります。1月期のTVドラマをあつかいました。串刺しにしたのが、『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』。複数主役ドラマという括りです。
じつは、先月は2月11日が第二土曜日で、ぼくはうっかり夕刊がない建国記念日なのを失念して原稿を書いてしまいました。とうぜん没原稿。そのときはまだ放映のつづいていた『お母さん、娘をやめていいですか?』を『東京タラレバ娘』のかわりに組み込んでいました。これも複数主演、具体的には波瑠と斉藤由貴の主演でした。一か月後の原稿では、『お母さん、』を『タラレバ』に差し替え、その他も3、4回放映分までを話題にしていた内容を、7、8回分までに延長しています。
それにしても、『お母さん、娘をやめていいですか?』はすごかった。以前、雑誌「ユリイカ」でも母娘の相互依存がどれほどの惨状をもたらしているかをレポートした信田さよ子の著作を中心に、母娘の対構造を考察する特集が組まれ、ぼくも原稿を書いたけど、その信田さよ子を監修に、母と娘の相互依存ドラマを、名手井上由美子がサスペンスを基調に脚本化した。その手さばきが見事だった。
娘・波瑠、母・斉藤由貴、その夫・寺脇康文の一家がマンション暮らしから一軒家への引っ越しをのぞんでいる。購入地に新築を進めている現場の監督に、建築会社から派遣されている柳楽優弥。波瑠と柳楽が自然と恋仲になるうち、たんに仲の良いとみられていた斉藤と波瑠が虚偽を隠していたとあかるみになる。母・斉藤は娘が幸福を掴みそうになると容喙し邪魔し、娘を終始、自分の思いどおりの「人形」にすることを、つまり娘の全人格と全人生の支配こそを、欲望していた。ずっとかんがえようとしなかった現実に直面してもがく波瑠、その波瑠のかよわい抵抗にたいし無意識に糊塗をかさねようとする斉藤。母娘間の仲は回を追うごとに「最悪」が「さらに劣悪」になり(斉藤が娘の動向をうかがうストーカーめいてくる)、恐怖化、だれもが母からの娘の悲劇的な独立劇を予想するようになる…
ふたつの特筆すべき見どころがあった。まずは眼。波瑠の透明で吸い込まれそうになるおおきくきれいな眼にたいし、斉藤由貴もおおきく飛び出したギョロ眼のもちぬし。くわえてどういうのだろう、柳楽優弥が独特の眼をしている。眼じたいは切れ長なのだが、そのアーモンド形が全体に大きく、しかも濃い眉、濃い睫毛が相俟ってのことなのか、両目それぞれに横一筋のつよい光が走っているようにみえる、じつに不思議な印象をあたえるのだ。「眼千両」といえるのは波瑠だけかもしれないが、いずれにせよ物質的なレベルでたんに大きな三俳優の眼が、まさに「物質的に共演」しているのにワクワクした。
当代最高の美人女優・波瑠の演技は受け身型で恬淡といわれている。その顔を以前、ぼくは同コラムでたしか以下のように表現した。大きく透明で美しい眼。口許のうごきのおばあちゃんめいたやさしさ。横顔の中心突出性。頭蓋の形状の実存的な重み。不安の表情が刻まれるときは顔全体が魚っぽくなり、意識のたかさがドラマで強調されるときはそれが未来人っぽくなる。顔全体が和風か洋風かは一概にいえない。清潔感だけが印象につよく刻まれる、じつは不定性がつくりあげている顔。オードリー・ヘプバーン以来のショートヘア美人。いずれにせよ、「たんなるお人形さん美人」ではない複数性がつるりと清潔な顔をひそかに分割していて、たぶん波瑠のファンはその分割を女性性としてみている。
うつむいただけ、あおむいただけ、瞠目しただけ、瞑目しただけでふくざつな表情変化のニュアンスをつたえることのできる波瑠の顔は、実際は対面する相手の演技を「受け」、反応するだけで、いわばドラマ張力をみたすことができる。受け身こそが能動性というのは、いわばレヴィナス的な「顔」の要件でもあり、その顔は現前の領域から「みているこちら側の」痕跡の領域へと翻訳をくりかえされる。しかもその顔は分割的で、顔じたいの清潔な陰裂をこちらにさしいれる。だから美に直面した以上の動悸を現象させることになる。
身体的にはいつもより内股に下肢を自己設計していたとおもわれるが、基本的に波瑠の顔・挙止は一定性の振幅内部に自己を保とうとする。すくなさを微視してほしいという提案じたいが波瑠の存在性なのだ。たいする斉藤由貴は、演技の各瞬間が動物反応的で、振幅がおおきい。本来ならふたりの演技が融即されることはできないが、たったひとつ、これもレヴィナス的な条件=「近さ」がこれを可能にする。
最終回、波瑠が自分用に新たに買ったカップが、斉藤由貴のこのみにあわないと悶着があり、結局、感情のきわまった斉藤が平手打ちというかたちで初めて娘・波瑠に「手をかける」。そのとき波瑠が「痛いじゃない!」と条件反射的に初めて平手打ちを返す。こうして、ついに受け身に能動性の陰裂が瞬間的に生じて、そのちいさな悲劇性にぼくは泣きそうになった。斉藤由貴の能動的な演技が波瑠の受け身の演技の聖域に干渉したのではなく、波瑠のそれが、みずからが対の能動性を帯びることで斉藤のそれを「赦した」とおもえたのだった。現れたのは、近さであり、距離であり、点滅性同士の架橋であり、隔時性ではなかったか。いずれにせよ波瑠は演技の、顔のミニマリズムの価値をつたえてくれた。
『バイプレイヤーズ』『カルテット』『東京タラレバ娘』についてはしるす余裕がなくなった。みなカルトドラマで、とりわけ『カルテット』は回を追うごとに感銘がふかくなっている。いずれ機会があればまた書きたい。
ロウ・イエ、ブラインド・マッサージ
【ロウ・イエ監督『ブラインド・マッサージ』】
全盲者の経験している世界は健常者の想像を絶している。デリダ『盲者の記憶』にもあるが、彼らがどんな夢を見るのかさえ視覚偏重の価値観では記述不能なのだ。デリダはほかの何かの本では自己触覚が自己身体を定位すると示唆していた。「瞼を閉じ合わす」「唇を閉じ合わす」「膝を閉じ合わす」「手で自己身体に触れる」――それらの再帰的触覚、その内部性が身体をただしく有限化するのだと。健常者にはこれが「愛」の基礎に映る。このことは、対象への視線を愛撫的にうごかす「触覚的視覚」を拡大してゆけば類推が可能だろう。本質的にさわれないものにふれる、とはそういうことだ。
ジャ・ジャンクーと中国第六世代監督の双璧をなすロウ・イエの映画『ブラインド・マッサージ』(畢飛宇のベストセラー小説『推拿』が原作、白水社から刊行されている)が、寓意的な着眼なのかどうかはわからない。南京のマッサージ院「沙宗琪按摩院」が主舞台。視覚上は健常の賄い婦がひとり、あとで判明するが全盲への過程を進んでいる金嫣という女性マッサージ師がいるほかは、すべて全盲のマッサージ師により労働と運営がなされている按摩院がはたして現実的な立脚なのかどうかはわからない。ロウ・イエの作品ではたえず物語をしるしづける俳優身体の流浪=漂泊性がすぐれて主題化されている。自己の視覚的定位がならない盲者が蝟集する按摩院ではおおむねの「顔」は漂泊性を超えて歪形化されていて、それが漂泊の果ての「吹き溜まり」を形成しているとは看取できる。
ちなみに中国の古都・南京はロウ・イエの『スプリング・フィーバー』では男色者が享楽の生を謳歌する現代的な魔都だった。グランドステージをもつゲイバーの華美な虚飾に、カラオケボックスの寂寥や雨が同在していた。全盲者の感覚をえがく『ブラインド・マッサージ』では街の詳細の描写は、性風俗店と飲食店などを除いてはほぼ割愛される(後述する一場面を除く)。限定的に生じている南京の街の様相は、それでも『スプリング・フィーバー』よりも旧い感触がある。
視覚性と触覚性が混淆すると起こるのは、実際は視覚上の非判明性が触覚的な動態をつくりだすことだろう。映画の冒頭から、レンズに分厚くワックスを塗ったのだろうか、対象性の判明しない何かが、脱焦点化もふくめ揺れる手持ちカメラで捉えられる。曖昧な暖色のなかにシルエットを強調されてぎりぎり判別できるのは、時計やオルゴールの内部のような機械性だったか。
そこに中立的な(つまり人物によらない)ナレーションが加わってゆく。物語の中心人物・小馬が幼少期に母親と交通事故に遭い、母親と自らの視力を失ったことが小説的文体(原作からの移入だろう)で語られる。しかも視力喪失が脳医学的には原因不明だという示唆がのちの伏線となる。小馬のちいさな伝記。結局、医者に匙を投げられ、小馬は頸動脈を切る自殺を図り(未遂)、のち立ち直って、マッサージ技術を習得、沙宗琪按摩院に勤務していると。
レヴィナスによれば、愛撫とは他人=隣人=対象の限定不能性そのものを撫でることにほかならない。対象は愛撫により峻烈に拡散してゆき、その触覚は視覚とはべつの働きをする。ロウ・イエはたぶん作品にふたつの描写禁則を設けている。ひとつは来客へのマッサージ施術の詳細をえがかないことだ。もうひとつは盲人杖が足場の継続的確認のため地面や床を叩く詳細をフレーム外に置いてしまうこと。そうして触覚はまず音の拡散をしるす聴覚にのみ転位されてゆく。
なぜそうするのかといえば、マッサージ師どうしの「他人と他人」の出会いがしらの衝突を「運命法則」にするためだ。作中、クルマと人が衝突すれば事故だが、人と人が衝突すれば愛だ、という言明がある。そのとおりに小馬はぶつかった女性マッサージ師への性的欲望をつぎつぎ反復し、のちに説明する新人の美人マッサージ師・都紅も、ぐうぜん衝突した相手=小馬への執着に殉じることになる。いっぽう小馬がおこなう、欲望対象の乳房を中心とした愛撫はいつも十全ではない。
視覚喪失者の内観と環界は「空間的には」整序的ではない。それが物語の多中心構造、逸話同士の相互溶解によってしめされる。作品は要約が容易ではない。按摩院は沙復明、張宗琪、ふたりの院長により運営されている。そこに沙院長の旧友でベテランマッサージ師の王先生が、恋人の小孔とともに深センから辿り着く。作品の性愛描写をおもに引きうけるのはこの王先生と小孔との交接だが、ロウ・イエのこれまでの作品に較べ描写は抑制されている。小馬の多触手めいた欲望の拡散は、相手が性風俗店のマンに定着するまで彷徨をくりかえすのみで、関係定位がおこなわれない(欲望の狂奔に悩む小馬は先輩の導きで性風俗店に筆おろしにゆき、そこで風俗嬢のマンと相思相愛となった)。
作中の逸話は脱定位的なブラウン運動をくりかえす。たとえば賄い婦が従業員の弁当に入れる肉の数で依怙贔屓をしていると判明する詳細がある。女性マッサージ師のひとりが指でつまんで肉の数を算えあげる。賄い婦は仕事を辞めると深夜に泣いて大騒ぎする。ところがこのエピソードは物語的には着地をみず、数の算えが触覚でなされる侘しさだけを残存させる。
作中、中心人物になるのは、小馬のほか、まずは沙院長だった。ゆがみのまま固められた表情でつい見逃しそうになるが、演じているのは『スプリング・フィーバー』『二重生活』のチン・ハオだ(その意味でいうと、小馬に扮しているホアン・シュエンもアン・ホイ、チャン・イーモウ、チェン・カイコー作品への出演をつづける若手人気俳優で、俳優たちの中心化は芸歴と声望によっている――ところが俳優たちは表情のゆがみにより、ロウ・イエの俳優起用法則=顔と身体の漂泊性を体現することになる)。
沙院長は按摩院の経営で社会的地位は盤石なのに、見合いでは相手にされない。それで「美人」と評判の新人マッサージ師・都紅に執着することになる。ここで映画全体に最初の結節点ができる。演ずるのはこれも多彩な映画出演歴をもつ、ややトウのたったメイ・ティン。疲弊と素人性と抒情性と漂泊性と生々しさが綯い交ぜになったその容色は、これまでのロウ・イエ・ヒロインの系譜をみごとに継いでいる。ロウ・イエは女優の「顔」の現世的定着のために通常の女優演技を否定する。
沙院長は都紅の「美人」という評判に欲情する。それで言い寄るが都紅は相手にしない。自らが衝突した相手=小馬への一種の貞節に殉じているのだ。むろん全盲者の世界にあって、視覚的なうつくしさなどまるで意味をなさず、主観に訴えかけることもできない。ところが沙は都紅の顔を愛撫して、そこに美の痕跡を探ろうとする。「「顔」が現前性を超えて痕跡になる」「愛撫は対象の限定不能性を撫でる」というレヴィナス的主題がここにふたつ生起する。ところが都紅はその振舞を嘲笑する。出口なしの沙院長の欲望、その絶望性がそれで逆照射される。
全盲者の繊細であるべき触覚は、マッサージには奏効するが、欲望には混乱を呼び込むだけという「引きはがし」が生まれる。作品は障碍者にたいする保護精神にはほとんど立脚していない。全盲者の感覚の内部性を熾烈に外部化させる反転のほうに注力がおこなわれるだけだ。結局、いつものロウ・イエ作品どうよう「愛の谺」のようなものが作品そのものの視覚性をむなしく愛撫=摩擦することになる。
触覚は蔑視されるのか。このときに「血」がふくざつな働きをする。触覚の至高点は刃物と皮膚の接触、その切迫性にあり、触覚は血によっていわば高貴化されることになる。幼少期の小馬の頸動脈切断による自殺未遂については前言した(画面には血が噴き上がった)。作中、一瞬伏線化された王先生(『天安門・恋人たち』の主要人物たちのひとりだ)の実弟によるギャンブル放蕩。それはやがてその実弟が恋人とともにヤクザに軟禁され、借金返済がならなければ殺されるドラマへと発展する。
王先生は溜めていた小孔との結婚資金を横倒しして、救済に宛てようとする。タクシーでヤクザの居座る実家に向かう。ところが自分を取り巻く葛藤の理不尽に憤慨し、王先生はヤクザの面前で、恐ろしい気魄で裸の腹への浅い切腹を繰り返す。カネは払わない、自分は死ぬ気だ。血が滴る。やがて刃先が頸動脈におよぶ寸前で、ヤクザが借金の取り立てを断念する。
全盲者たちの身体は、打撃や傷を吸着する。都紅は命綱の手に恢復不能の傷を負った(彼女はそれでも沙院長の庇護により退院後も按摩院に置かれることになるが、自ら点字メッセージを遺し出奔してゆく)。風俗嬢・マンとの希望のない性愛関係を断ち切れない小馬は、柄のわるい客に性的サーヴィスをしている渦中のマンの部屋に乗り込んで、返り討ちをくらいボコボコにされる。ところがこのとき受けた脳への衝撃により、とつぜん視力恢復にいたる。
レンズにほどこされたワックスか何かによる脱自明的な手持ちカメラ運動が復活する。メインテーマ回帰のようだか、冒頭が文脈からいって視力喪失ぎりぎり手前の、世界の薄明性を暗喩していたとすると、今度は視力復活ぎりぎり手前の、世界の薄明性が真逆に暗示されている。マッサージ施術の詳細を描かなかったこの作品において、「みえるもの」を撫でさする触覚的視覚は、その半―判明性をもってこの場面で頂点をきわめる。血だらけで風俗店を出て、蹌踉と南京の街をあるく小馬の視界が、復活を謳歌しつづけるように延々と詳細を替えて連続するのだった。「出口」が兆したようにみえる(もちろんロウ・イエ的希望はいつでも「半分」の状態をキープする)。
いずれにせよこの一連と冒頭の、半―判明的で触覚的な視界のゆれは、それ自体が「ブラインド・マッサージ」的な、感覚の内部性と抵触している。身の毛がよだってくる。ゆれる視界のいくつかに判明不能の小域があり、それが手持ちカメラのうごきにより、ふくざつに内部移動する。片目の失明とリンクさせるようにレンズを叩き割って撮影をおこなった荒木経惟の「右目墓地」シリーズがあたかも動態化されたかのようだ。
その後の小馬の行動が聖人を髣髴させる。彼は世界の真理を告知するためにうごくのだ。按摩院に戻った彼はまず、言い寄りを跳ね返し泣かせていた都紅の顔を見る。彷徨のうちに「美」の概念をまとめていった彼は、都紅へ、きみは美人だと告知する。それは受胎告知に似ている。もちろん対象化できなかった一般的真実を個人へと引きおろし、価値を救済することにつながっていた。ただし彼はその架橋をしただけで、その場を去ってしまう。マンのところに行くのだ。
彼は風俗店にいるマンの顔をみる。たぶん美人だけではない「漂泊の活性」(形容矛盾だが)がその顔にみとめられた。苦界にいる者の特性かもしれない。小馬はたぶん自分の選んだ相手のもつ適性によろこんだのだろうが、その詳細は描写されない。代わりに、以後、小馬とマンの姿は界隈から永遠にきえた、と中立的なナレーションが驚愕をあたえながらはいるだけだ。いずれにせよ、ロウ・イエの話法は透徹している。
小馬の失踪、都紅の出奔。映画は対象化に適した美形の存在をふたつ失って、いよいよ終幕へむかう。勤務体制の立て直しと慰労のため沙院長の音頭でひらかれた飲食店での食事会。沙院長が中座し、トイレに向かう。彼は便器に身を屈めて吐いた。通常の吐瀉物ではなく大量の血液だった。「血」の皮肉な復活。全盲の沙自身は通常の嘔吐だとおもっているが、異変に気づいた周囲が大騒ぎになる。
刃物と皮膚が接触して結果される「血」が全盲者たちの触覚の紋章だと前言した。ところが沙を襲ったことはちがう。刃物のとの接触なしに胃から「自発的に」噴き上げた血は、愛撫とおなじように「それ自体の限定不能性」を表象する。沙は自己再帰的愛撫を流産させ、世界への定位を壊滅させたようにみえる。惨状をあかししたのが吐血の血だった。触覚性の内破が作品の主題だった点がここにあきらかとなる。
作品はそうして終わりに移行する。都紅をふくめ、「その後」が中立的なナレーションで報告される。按摩院は沙の療養にともなって閉鎖、マッサージ師たちは多く生活の糧をもとめ南京を去って行ったと。主要人物たちの最終的な帰趨が列挙されるのは『天安門・恋人たち』のラストとおなじ。ここでも作品のすべてが集合離散のはかなさ、存在の漂泊性に依拠していた点が露呈される。
以前にも書いたが、それが中国人の宿命だった。農村部から海岸部への大規模な人口移動は「盲流」とよばれている。ブラインド・マッサージは人民レベルで大陸の地におこなわれているもので、ロウ・イエはその事実を見据えている。そういえば真実は多数性によっては決して確定できないとしめす格言「群盲、象を撫づ」も中国起源だった。つまり盲人性とは普遍性なのだ。
その後の帰趨報告で除外されている主要人物がひとりいた。小馬だ。作品の画調がかわり、8ミリ映像に似た懐かしい朦朧性をおびる。小馬が経営している按摩院のぼろ看板。その案内する方角にむかい歩いているのが、時間経過ののちの小馬自身だ。ひなびた、場所標識の不在な地方都市。やがて極貧アパートへと視界がいざなわれると、玄関前の通路の洗濯機で洗濯しているマンの懐かしい「漂泊性」の顔が捉えられる。朦朧映像の意味は確定できない。一旦復活した小馬の視力が、ふたたび喪失の過程にはいったことまで指示しているともかんがえるためだ。
このやりとりは無言で、バックには奇妙で繊細なギター弾き語りによるバラードがながれている。配給のアップリンクの資料では名前がわからないが、現在の中国でその特異な才能が人気を博しているシンガーソングライターによるものらしい。一緒に観た中国人留学生たちによるとタイトルは睾丸を表す「他媽(タマ)的」。破礼歌と抒情歌のダブルミーニングなのだろう、樋口裕子による字幕では「媽」を「お母さん」への頓呼法にして歌詞翻訳をおこなっていた。記憶による大意――「お母さん、ぼくは自分の青春をすべて彼女のからだに捧げたのですが、その彼女をもう思い出すことができないのです。お母さん、ぼくはたしかに虹を自分の眼でみたのですが、その色をもう思い出すことができないのです」。
作品は冒頭、タイトル提示部分で、盲人観客のためというように、メインキャスト、メインスタッフを中立的なナレーションが読み上げる異例の措置を講じていた。もちろんそれは救済だが、同時に閉塞でもある。ところがエンディングロールの画柄では作中登場したマッサージ師たちの記念撮影的ショットが視界移動をあたえられて展開される。そこでは実際に盲人としてティパージュされた素人とともに、盲人を演じた俳優たちが眼のあいた健常者として画面定着されている。これは種明かしを超えている。「救済は閉塞でもある」というタイトル提示部分の印象の逆をおこなったのだ。すなわち――「閉塞は救済でもある」と作品は結論を提示した。
――三月七日、ディノスシネマズ札幌にて鑑賞。
恋する顔
北大大学院文学研究科では、社会人等を対象にした公開講座を例年開設していて、2017年度は5月17日~7月19日の毎週水曜18時30分~20時の枠組でおこなわれる(W103教室)。ぼくはなんとその第一回め、5月17日の担当をおおせつかった。公開講座全体のテーマは「恋する人間」、ぼくは「恋する顔」というアプローチで講じます。要旨をいままとめたので、公開しておきます(事務局へ提出したものに、ほんのすこしアレンジを加えた)。
「恋する顔」
「恋する顔」というと、通常は、瞳がうるみ、頬が上気し、唇のかわく「恋わずらい」の表情をおもいうかべられるかもしれません。ただしそれは表情を記号化しきったマンガなどにみられる描法であって、顔の各部位の微動、さらには身体との対照、周辺世界との照応によって「存在」を構築する映画では、俳優が魅力的になればなるほど、感情をそのまま表情に転写することをつつしむようになる傾向が洋の東西を問わず、あるようにおもえます。このとき「恋する顔」は、現代の映画俳優によって、どのように表現されているのか。
いくつかの仮説を考えてみます。「顔は手ほどには恋情表現が直截的ではない」。「みつめるまなざしには、みつめられることの期待と懲罰があらかじめ内包されている」。「表情は〈そのもの〉ではなく、無表情と有表情の交錯のあいだに生起する」。「恋を自覚する瞬間があるとすれば、それはよろこびというよりむしろ後悔を先取りして刻印している」。「恋は受苦の別名」。「ひとつの顔はいつも対面する顔にたいして実存的な決意を迫られていて、恋する顔はそうした要請にたいして最大の試練のなかにあり、それは決して夢見がちではない」。「顔に現れる恋を条件づけるのは、実際は表情ではなく、対象との近さ・遠さにすぎない」。「接吻はかならず相互的になり、恋の個別性を消去してしまう」などなど。
いずれにせよ、映画における「恋する顔」は、観客に潜在している「恋する顔」を浮上させ、そのことで同化とともに不如意にさえも導くものでしょう。もちろんそれが映画を観るときの大きなよろこびにもなります。
今回の講義では古典的なうつくしさを湛えたトッド・ヘインズ監督のレスビアン映画『キャロル』などを素材に、「恋する顔」をつうじて、映画を微視的に観る意義を考えてみます。ジンメル、レヴィナス、ベラ・バラージュ、アガンベン、鷲田清一、西兼志など、すぐれた「顔」論も参照します。
近況3月5日
本日の朝日新聞の読書欄コラム「売れてる本」に、ぼくの書いた森見登美彦『夜行』の評が掲載されています。躍動的ファルスが代名詞だったそれまでの森見小説が一転、みごとに透明感のあるファンタジーホラーになっています。怖さは周到に配備された細部にじわじわ滲んでくる。あいかわらずの超絶技巧と古典参照とストーリーテリングでした。酷似と反復が活用されています。8刷16万部の由。ぼくの書評も情報量満載ながら全体を流麗にしたつもりです。ぜひご覧いただければ
雑感3月1日
放心からなにかの感情がすこしずつ復活しだす――その最初の「戻りっぱな」を詩が書きたい。最終形ではなく。むろんそれはかすかすぎるのだから感情のことばでは明示されない。表情を書こうとして、書かれたことばがむしろ表情になってしまう機微、それだけが「すくなく」現れる。あの再帰の感触がなつかしいのだ。
蛋白石の刻々かわるかがやきにみとれるように。大理石の模様のしたに視線がはいりこんでゆくように。うすぐらいものはうすあかるい。くらさ・あかるさのあいだでうごく。そういうのがたとえば再帰の感触で、そのままそこに「顔」がおぼろげに形成されている。しかもそれはすこし隔絶した位置にあり、それゆえにひとと、ひと以外とを、同時に生気させている。
詩作がいちど死んだあとに蘇生が起こる。その最初の「戻りっぱな」はうすく、ゆれている。経験があるだろう。だから疵のようにもみえる。それは顔の疵なのか。いや、ことばの疵ではないのか。
ゆめの放心の十代が、感情のもどりゆく二十代へ突入して、その最初の体感が客気をもって報告された――そうおもわれたのが最果タヒの『グッドモーニング』だった。一九八六年生の著者がつくりあげた二〇〇七年刊の第一詩集。
あたらしい感情をつくりだすために、自―他を創意的志向的に架橋してゆく、現在の最果にみられる修辞の果敢なフライングはまだ全開的でなく、ところどころその鮮やかな原型が開口している。夜明け前。朝。睡蓮の開花。ながれはそのようだが、語りの「単位節」の分布はもう現在の最果の詩とおなじだ。ただし字下げや符号のトリッキーな使用により、連辞のなかにふくざつな視覚的空白が介在、かたちどおりの転記がネット画面ではむずかしい。だから単純化して一節だけ引く。
●
(き
こえる
怒声
ひとがですね
ひとをおこる
ときはですね
、土星のわっ
かがですね、
あたまにでき
るんですよね
。わたし、そ
れを目で追っ)
ていて、何度も殴られるんですけれど、
●
「怒声→土星」。音韻による別地点への架橋はみやすい。けれどもおおかたはメランコリーにむすびつく土星(の輪)が、ひとのいかりのとき天使の輪として現れるとされている。この着想は不当使用だろう。換言すればこれもまたあざやかな架橋性で、しかも同時にオブスキュアなのだった。架橋は「おこるひと」「おこられるひと」「わたし」の三者の圏域を説明なしに形成する。その「三」が開花の様相にみえる。前提のない開始。いや、前提としてひとつの無表情だけがあるともおもえ、そこへ読者はかくじつに遡行できる。その土地の名が「放心」なのではないか。ともあれ三者には顔がなく、その不在が顔になっている。
もちろん放心とは世界の表情だ。世界は表情において放心している。それが「ほどかれる」とすれば、ひとがそこをうごき、静止に動勢をすこしずつ摩擦させてゆくしかない(犬をはじめとした動物は、世界の放心のなかに放心としてとけこんでしまう)。それで散策詩がたっとばれる。散策詩とは放心に上書きされだした、あるかなきかの表情、その「戻りっぱな」の表情ともいえるだろう。なつかしさが必定なのだった。
今鹿仙の、ほんとうにちいさい、二〇〇六年刊の『マゴグの変体』。たぶん第一詩集だろう。だから傾向はちがうのに、最果タヒ『グッドモーニング』同様、放心を経過し脱出した、その瞬間の空気がかんじられる。ちなみに「マゴグ」は聖書中の神の敵対者。それが「変体」する(この「変体」は「変身」とたぶんちがうはずだ)。敵対は各詩篇にかんじられない。散策のうごきが伏在的敵対を馴化し、自―他の放心の幅に変体をくりひろげている――そう読んだ。詩篇「秋のひびき」、その出だしから全体の中途くらいまでをまず引く。
●
十月の終りにかもめ人は
苦悩したのだ
すすきを食う魔人の封筒は
果ての世界にあてた
秋の矢印だ
詩人は何も言わないでデ
カルトを変形したような
さびしみをきく
「冬は雪に埋もれて小屋
が経文でいっぱいになる」
心はへき地に向かうのだ
ただ石碑を崇める牧人の
通過に遭いたいものだ
虫の鳴くまひるの路で
頭を皿のように傾けた
歴史があった
ひたすら水霊の唄をさげて
天国へ行け 女神の
庭のがらくたのひびき
知覚のアポローン的角
聖歌隊と茄子の畑の起伏
これらも二度とは同じ輪廻
をめぐらない
●
今鹿は「詩作がいちど死んだあと」の「いちど」がかなり長かったのではないだろうか。それで学殖というべき教養の間歇のされかたが、そのまま詩行の呼吸にすばらしい意味的空白をつくっている。詩集に収録されたどの詩篇にしてもそうだが、西脇順三郎が現在的に参照されている。語彙、散策経緯と同調した改行経緯、しかも西脇がごくたまにおこなった語の途中の不規則改行がさらに頻繁になることで、ノイズ要素の交響がより濃密になっている。
わかるようでわからないことのすばらしさが詩行に展開されているのは、ごらんのとおりだ。ただし明白につたわってくるのは、放心のあとに兆してきている感情が、感情語ではほとんどしるされず、ただ表情化されていることだろう。それが再帰の感触をおびて、なつかしい。
「ひと的なもの」がばらばらに布置され、それらが交響を誘引している。そのいくつかは判明性をうばわれている。列挙してみよう。「かもめ人」「魔人」「詩人」「牧人」「水霊」「女神」「アポローン」「聖歌隊」。これらは相互関係でもあるが、相互の無関係でもある。この同時性に、「世界の放心」がにじんでいて、そこを「何者か」が、自分ではないもの(たとえば牧人)を身代わりにして通過しているのだった。
掲げたなかの「水霊」は「水妖」ではない。もっと物質性をあたえられた「水そのもの」にちかいもので、美には関連できないだろう。誘惑するのではなく、それは「ある」。この「水霊」を媒介にすると、詩集最終篇「放物線のリリク」後半へと上記の詩篇前半が接続できる。転記して終わろう。ここでも逐一的解釈はつつしんでおく。とりあえずは先の掲出部分との同一語彙、発展語彙に注意してほしい。
●
「我々は悲しみを持たない
マゴグの変体の臼のようにのろく
水にもぐる」
未だあらゆる詩人の恐れる
(ルサンチマン)は来ない
水霊の作用だろうか
あの建造物にすみつくのは
余程の哲学か奴隷である
こうもりと楽人
日付を知る紙の神話的
ざくろの垂れ
円頭形に女は傾いて
秋人と竹林をそれる
のが習いだった
「この世には川魚を食う
人種が少ないのか
あまり知り合いが居ないのです」
女は夫人になって嘆いた
没薬の天使のゆがみや
温泉を司る男のつまらない
くらやみも捨てて
平らさを憧れとする日に
近づくのだ
詩人と連れは遡って海に
植物の顔を覆うたそがれを探した
「それは大きくそれている」
放物線に