ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

一本

 
 
【一本】
 
 
まぶたふたつがおもくさがり
なみだぶくろが濃ゆくなる
くりやに立ってじぶんの手が
ひくさを掬うのをながめる
前方にたかさあるのをおぼえず
おれまがってゆく感覚がある
そびえているはずのものも
よこたわっているとおもいなし
ねどこへはこびいれてゆく
ろくなものをゆめみないまえにも
ひとの立ちすがたがすこしある
まぶたふたつがおもくさがり
ふうけいが檻のむこうとみえて
蝋齢にはそれでも縦にのびる
なにかの揮発へこころうばわれる
まといなくはだかであることは
ひとの死をおもいいたらすと
わかいむすめをわるくもちいて
かんがえにわるい信をいれる
ねむる寸前でくずれること
ならぶ空き壜のようにせかいは
うちがわだけでできている
核心が澄んでありつづけるのは
まぶしさだけでみたされた
へだたりがかつてあったため
うばう挙にまで出なかったのは
そこへ刃むかうふるまいが
根拠をうつろにしたからだった
ながければながいほどきれいな廊下
線になろうとおくゆきをすすむと
くらさすらふと発散している
どうぶつだったんだとふりかえる
くるみひとつをもってゆきつづける
ひとつをためらわずつたえようとする
蝋齢ではそれがみずからへむけられ
そんざいの不動におちついてゆく
うけとめるためのなみだぶくろ
かおの奥からそれをひく涙骨
うごきとしてはひきしおがつづいて
あらわになった川床もかおにある
くるみがてのひらからころがり
ないものをたばねるだけの
たった一本となりねむるのだ
そのためにおのれをまやみにし
したしたしたのひびきをきくのか
廊下でねむるふかいわざわい
 
 

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2017年04月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

背後論

 
 
【背後論】
 
 
めのまえをとおくみはるかすと
いつのまにか背後に雨がふるとわかる
まえからはただ浸透があるだけで
あるきにおいては背後がのび
それが蕭条と降雨にしろくぼやけ
うしろからひとときを吸われるのだ
うしろはほそくしかもうすまり
身からはなれるほどにきえてゆく
あまみずつたうあさいぼんのくぼが
そんなさだめをおぼえつくす
くさのはえるからだの分布では
さけめをおおうかなしさもあって
盆と窪のであっているあたまに
かんがえのすぎゆく会陰をかんじる
からだをさかいにしてそのまえを
うしろへとながしいれているときには
こころからの感情がなくなっている
塔をたてていきるほこらしさではなく
筒をまよこにしつづけるおそれや
みずに砂糖のとけてゆくありさまが
つぎつぎにものおもいを襲いだし
かんがえがうごきをささえるならば
からだはあらわれよりさらに遅れ
そのあかしに背後がいわばうつくしく
からだいろの尾をひくことになるが
ところどころ横形が縦形をまねき
この世もみずからぬれるためにこそ
あめの枠組へあめをおおくふらし
ざんこくに存分に交錯しつくす
かなめのぼんのくぼをいためつけながら
ぜんしんのところどころを索引する
ひとのからだはしかし再帰性ではなく
その背後によってうごきつづけて
それじたいくるしいゴーストとなり
ぬらす二重のあめのなかさらに
ぬれる二重としていれられてゆく
とどのつまり雨の背後、ひとの背後も
移動のうちにひとしくなるだけだ
 
 

2017年04月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

小さな巨人

 
 
昨日から始まった、TBS系の日曜ドラマ『小さな巨人』、すごい。みていて、肩や眉間に力がはいる。『半沢直樹』メソッドを、本庁捜査一課vs所轄の枠組でやる新機軸。ハイテンション、シーソーのような逆転つづきの超アレグロ展開、陰謀感どろどろ…やっぱりそうなると「最大悪役」が香川照之になってしまう。
 
本庁から所轄に落ちるエリート長谷川博己は、片眉をつりあげて顔を左右非対称にする演技を多用(『夏目漱石の妻』でもやっていた)。『半沢』堺雅人とちがい、ポジションのゆれる不安定感も面白い。「倍返しだ」的な決め科白、いつ出るか。見得を切って発声される香川の「その勘に覚悟はあるのか?」が良い味だった。岡田将生のバリューと役柄が見合っていないのは、今後への伏線だろう。安田顕(またも役得)や手塚とおる(またも悪役)や落語家(今度は春風亭昇太)もこれまでどおり出ている。
 
今クールのドラマは刑事系と原作少女マンガ系のガチ対決だ。前者には上記のほか『4号警備』『犯罪症候群』(これ大傑作)『CRISIS』、後者には『人は見た目が100パーセント』『ボク、運命の人です。』、それにもうじきはじまる波瑠主演の『あなたのことはそれほど』がある。なんと、不倫する人妻の役らしい。情感の薄いのが味なのが波瑠だが、さてどうなるのか。
 
 

2017年04月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

対面

 
 
【対面】
 
 
どうしてちかくにみることが
顔をわからなくさせるのだろう
ひかりに疲れたそうもくのように
ほつれているさまの全体なのが
それをひらかれた憔悴へとかえて
目鼻をひとつのおとろえにゆるがす
きれいでもかなしさをつたえ
みえるかたちは痕跡にすぎない
ふくらみでもさけめでもなく
つまりはわけられる部位でもなく
集積のなかに集積がかくれるだけで
ほおやひたいがかがやくのすら
はだをもつ肉が芯をめぐりながら
顔のときのまを憂いているのだ
テーブルは顔へのまあいをつくり
ひとのおさまるその気配もしずかで
くびが顔をたてているときにも
からだからのひかりの反映が
ひとみをしろく抹消させている
きえゆくものが髪のながれにあり
顔のかこまれかたはたとうれば
じかんの箱庭を標定するだけ
ねむけをたつまばたきのもたらす
ときのきざみも顔のじかんへ
およべぬさざなみにすぎないなら
顔がなんら水面たることもなく
むしろ汲まない井戸の涸れる
不作為のふかみをしるすだけだ
顔をながめておもう、顔がないと
単一でないさまのうしなわれる
そんなおんがくてきなこと以上に
ありのままながめられてゆく
ものである顔のすずしい固着が
表情からごくわずかにくずれるのを
顔以外からのはるかさとした
おのれになにひとつ作用しない顔は
作用なき対象としてあらわれて
みずからに似ることだけをおこなう
せいよくにまとめられない感情が
つつましいおおきさでひろがっても
うしろに顔はおきざりにされる
けれどすこしずつさらにちかづき
性質がべつのなにかでまぜられると
はじめてためいきもあらわになる
きっと対面者のなにかが映ったのだ
はんぶんだけ顔から不如意がなくなり
はんぶんがうつくしかったりする
 
 

2017年04月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ヨブ未満

 
 
【ヨブ未満】
 
 
ゆうがたでの角度によっていちばんぼしを
かじっているようにみえる遠景があるだろう
ひげがなにかでこころよわくぬれそぼって
よこがおのある位置が空ひくくめじるしとなる
そこらからしずやかにたちのぼりたいのだ
はげんだもろもろにひそむほしぼしの配列も
はしごにされてくらい空へと架けられた
へびにはない揮発念慮をにんげんがたもつのも
蒼い髪がそらへなびききえるためだというが
できればひとのにくたいをあわくさだめて
うつりをおのがからだにふやしたいのだった
左右をひくと心にかわるあやとりがきれい
それが上下ならばかけはしは身代わりでのびて
やはりそんざいがじさつをふくむじゃないか
イエスでは縦にされたからだが横へおちついた
むろん再帰はそれじたい咎などをふくまない
みずからへと傘をさしかける強風でのあゆみも
フードでまぎらわすゆきのふゆにはなかった
ゆく橋をおわりとし讃美しつつことほぐと
とまっていたのがいつからうつりだしたのか
もうはやものおぼえすらくずれだしていて
このまずしさをひとにいだかれたいとねがう
あみこまれたくちなわをほどかれるように
うつりのなかにこそおのがおうごんがみえる
うちがわそとがわこれらがひとつのうちで
家族もただひとりゆえほどかれるのもたやすく
くちをてらしあげるとおいいちばんぼしが
あえぎをおそくしようと腐臭まで放つが
いまだヨブではないしヨブのがまんもたりない
みずからをけすエクランがほしいなどとは
ひとからのさつえいをあてにしすぎているのだ
はるのゆきがやんでねどこのなさをうつり
ときにとまって残心を身のうしろへかまえる
 
 

2017年04月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

日に数分だけ

 
 
【日に数分だけ】
 
 
日に数分だけすきとおっているところを
つめたいあめのなかでみつめられた
めぶきだしたやなぎのようだといわれて
とうめいがあまたの線でゆれるらしかった
ひかりの帯でわかれているへだたりに
あやうさをみつめるひとみだけおきたく
病むか歇むかするじかんをうすくまとった
在も不在もきっとてつがくのうちにあり
詩はおもうままおもわない不作為でつきた
かんがえるまえのそんなおもうがなぜ
ことばをわりだすおとになってゆくのか
すきとおっているから発語に主部がおちて
あたえないやりかたがあたえを黙契する
からだのめぐりといきさつの日めくり
脱衣後のゆめをてつがくと詩があらそい
ことばのさわりどころをたがえていた
おぼえぬほどゆるやかな花いかだは
うすいかなしみでうかびながれて
おわりのコーダは聴けばひだにとむが
ちいさなひるがえりをのこすにすぎない
スローモーションをみていたのだろう
こばむこころねがゆれることばでゆれた
いうそばからきえてゆくとうめいを
てつがくは生きず詩はきえにしたがう
みらいはさきではなくあいだにある
それでさけているくちびるがかなしんだ
日に数分だけすきとおるあやうさが
いきるうえの自慰に似てしまう度量を
いまもみやこにいるならよこたえた
 
 

2017年04月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

イーストウッド漬け

 
 
あすからのクリント・イーストウッド研究の院ゼミにむけて、ここ数日間、イーストウッド漬けだった。記憶のあやうくなっているところを補正してゆくと、イーストウッドの、ソンドラ・ロック時代が生々しくよみがえった。
 
イーストウッドの愛人として衆目の一致していた女優ソンドラ・ロックは、70年代末から80年代初頭にかけ、イーストウッド映画の多くに起用されたが、日本では――おそらくアメリカでも――あまり人気がなかった。色白、小柄、「おびえたひとみのような」までをふくめて、知的でつめたく鳥に似た神経質な風貌。イーストウッドはあきらかに嗜虐的に彼女を画面で蕩尽している。『アウトロー』や『ガントレット』では彼女にたいするレイプ未遂シーンがあり、そこでロックのゆで卵のようにつるりとした白磁の裸身が、ひつよう以上に画面でひんむかれるのだ。冷感症の予感もある。
 
イーストウッドの193センチの長身に帰属しきってしまうロックのからだの小柄さ。それをイーストウッドは、なんとアメリカ映画の遠近をしるす消失点にした。ソンドラ・ロックほど、イーストウッドに「ジャンル映画」への欲望を掻き立てた存在はいなかったかもしれない。
 
『ガントレット』は「巻き込まれサスペンス」を祖型にもちながら、呉越同舟の道中物=キャプラ『或る夜の出来事』を髣髴させるスクリューボール・コメディともなり、しかも救急車、パトカー、貨物列車、バスを乗り継ぐ「乗り物乗換え」映画になる。ラストの、バスの市庁舎にむけてのゆっくりとした走行は、速さと遅さの弁別を無化するイーストウッド特有の速度の質を画面に記載している。
 
『ブロンコ・ビリー』は「西部劇の挽歌」をキッチュさで満載しながら、これまたイーストウッド=ロックの相愛成立の過程がスクリューボール・コメディ的だった。むろん「仲間」の結束もハワード・ホークス的。しかも満を持して使用される無限ともいえる星条旗が精神病を内包した皮肉なアメリカ讃歌ともなる。能天気なジャンル映画法則が高度な批評性と合体している。ソンドラ・ロックの役柄の高飛車さは、痛快に懲罰され、観客はそれにとろける。そこにマチズモもあるが、同時に「挽歌的」だった点には注意が要る。
 
作家映画時代に転じる前の「ジャンル映画」時代、その豊饒=完成形をイーストウッドに導いたのは、たしかにひ弱い女優・ソンドラ・ロックだった。仮定で物をいわせてもらえれば、彼女に、キャスリーン・ターナーやキム・ベイジンガー的なタフネスがあれば、その後のイーストウッド=ロックの泥沼の法廷闘争などありえかっただろうし、「ジャンル映画」時代のこの最後の発火が、これほどふくざつな感慨をもたらすこともなかったかもしれない。ソンドラ・ロックにより、映画の中心にはよわさの焔がゆれている。イーストウッド映画のアメリカ性のルックが、ストーリーと配役と撮影と編集にあるのはむろんだが、この時代は、ソンドラ・ロック的な白い誤謬が、映画に奇妙な遠近をあたえているのだ。
 
イーストウッドとジャンル映画というなら、フィルム・ノワールについても考察されなければならない。「女性」から懲罰されなければならないオブセッションをもつイーストウッドは師匠ドン・シーゲル監督『白い肌の異常な夜』、イーストウッド初監督作『恐怖のメロディ』で、それを奇妙に発現してゆく。一方で『ダーティハリー』シリーズでは、コミック的な軽快さながら、イーストウッド演じる刑事ハリー・キャラハンと凶悪な犯人とが同型になるおそれについても叙述してゆく。暗い画面。それがイーストウッド自身の唯一監督したシリーズ第四作『ダーティハリー4』で、ソンドラ・ロックと化合する。
 
間接描写されるソンドラ・ロック(とその妹の)レイプ回想。画家として現れるロックは暗い自画像をテーマにしている。『ガントレット』よりもさらに彼女は、イーストウッド自身の科白を語り、その鏡像となり、とうとうクライマックスの遊園地の場面では、アンソニー・マン的な高低差=サスペンスフルなアクションへとハリー・キャラハンを導く。鏡が多用されるばかりではなく、イーストウッドとマンの関係もが鏡像となるのだ。フィルム・ノワールを底流にもっていた『ダーティハリー』シリーズは、ロックを媒介とした鏡像反射の不気味な作用をつうじてフィルム・ノワールの出自を全面露呈させる。このあとに、リチャード・タッグルが監督した(とはいえイーストウッドの演出場面の多い)、非イーストウッド的な「不安定性」によってフィルム・ノワールの金字塔となった『タイトロープ』が来る。だがそこにもうソンドラ・ロックの姿はなかった。
 
イーストウッド映画には「娼婦」テーマが間歇する。ソンドラ・ロックが学生風にして娼婦だった『ガントレット』がすでにそうで、それは娼婦たちが気概をもって設定したお尋ね者の賞金付与が物語を起動させる『許されざる者』へと結実してゆく。そのなかで『タイトロープ』は「娼婦殺し→仲間の娼婦捜査→捜査対象の娼婦と寝る刑事→その捜査対象の娼婦をさらに犠牲にする連続殺人→犯人と刑事の同化」という陰惨な経緯を描出する。このときはもはや「娼婦」がいればそれでよく、ソンドラ・ロックがすでに不要となっていたのではないか。『タイトロープ』はその不在により、ロックが顕在化する、逆説的な作品だった。
 
自分がなにをしていたのか。イーストウッドはやがて鏡に顔を向けて自覚するのだろう。皺がふかく刻まれる顔になった彼は、やがて自作自演の映画の主題を、以前よりももっとはっきりと「悔恨」に収斂させ、前人未到の作家映画を確立しだすようになる。ソンドラ・ロックはその踏み台となった。その監督作をおもいだしても知性のはっきりあったソンドラ・ロックをいま対象化するのは、つらい。
 
「ポジティフ」を舞台にしたマイケル・ヘンリー・ウィルソンによる数々のインタビューをなぜか「カイエ・デュ・シネマ」が2007年に集成・単行本化した“Clint Eastwood”(邦訳『孤高の騎士 クリント・イーストウッド』2008、フィルムアート社)が、いまのところイーストウッド把握を厳密にする最大の好著のようにおもえる。ただしそこではソンドラ・ロックの名が禁句だった。だから「ジャンル映画時代→悔恨を主題にした作家映画時代」の流れの分析が完璧になっていない面がある。ソンドラ・ロックそのものがのちのイーストウッドにとって「悔恨」のルックをしているだろうこと、それを院ゼミでは指摘しなければならない。それは暗鬱で恐ろしいことだろう。
 
 

2017年04月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

 
 
【馬】
 
 
ひとがなにかの正義で騎乗すると
それら馬は画面からかなしくはみだす
引いてはだか馬だけ撮ってほしい
そうねがうことがひとをゆうれいにする
ひとみだけみても縮率がちがうのだ
血管もふとくなみだだってけむりに似る
わかものの身の丈ほどあるのだから
くびはからだからはなれるようにたち
ながめのおくゆきで墓をならべる
それらがくうきにかすれてゆれると
おそれがくわわってはしりへとかわり
地表そのものが帯状でながれてゆく
そうだ荒地とリボンにはゆらいがある
つながりが歌なんて前世がとおるみたい
とおくは熱でもえさかっているのに
あかるくないからみたされてもいない
余分をもやしてごらんみな腑におちるから
余分のなかへきえてゆくみななのだから
いくたびもとおい内部が円筒になる
かけつくしやがてとまりくびをたれた
あんなくさはらさえさきのみえる
おぐらくおおきい筒の切り口となり
たてがみとひづめでできたうちがわも
ものをかんがえるにはかたちすぎて
むれが群として居のこりつづける
 
 

2017年04月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

顔の見分け

 
 
中国人と韓国人と日本人がいる。中国人と韓国人と日本人の顔写真が多数ある。それぞれに、どの写真が自国人かを問うと、百発百中で中国人と韓国人が当てるのに対し、日本人は誤答率が高く、とりわけ、中国人の写真を日本人と錯視するという。村澤博人の『顔の文化誌』にあった逸話で、それは実際ぼくが聞いた、「札幌や北大にいる東洋人が中国人か韓国人か日本人かは一目瞭然でわかる」という中国人留学生の述懐とも一致する。ぼくはわからない。村澤の見解によれば、正面顏の文化の浸透した日本では、実相をみないで顔を抽象化するゆえに顔の把握からリアルが欠如するのに比して、顔を顔として見る大陸、半島では、横顔文化も浸透し、近隣民族の差異特性が物質感として別々に把握できるためではないか、という。面白いと思った。ぼくはさらにこう考えたのだ。とりわけ眼と眉の配合は個人反映的で、それが日本人には抒情化する。眉目が情緒の微差をこまかさのなかに確定するのだ。その際のかけがえのなさが自国中心化と相まって、たとえば中国産美人を自国人ととらえてしまうのが日本人特有の誤りなのではないか。日本人は分析的に近隣民族の顔をみず、たえず情緒的に歪曲する。それはみないこととかんじることとが通底する恥辱の文化が発達したためでもあって、いわば自分の肌でみるから民族的差異ではなく、個々の造型的イデアの孕む、民族とは無縁な差異のみに、伏目のもと遠隔性を伴って感応してしまうのだ。じつはこれこそが「高度にみる」ことでもないのか。偏差は民族的な分析学ではなく、個々の造型の偏差そのものに脱民族的にあるのだ。高度にみることがゆたかな、そしてお人好しの誤謬を呼ぶのだとすると、判断面での日本人のとろさも決して悪いことではないだろう。視覚的誤謬がみることの本質に接触して、この点でむしろ生産的なのは日本人のほうなのだった
 
 

2017年04月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

大辻隆弘・子規から相良宏まで

 
 
【大辻隆弘『子規から相良宏まで』】
 
大辻隆弘さんから、新著『子規から相良宏まで』(青磁社刊)をご恵投いただく。アララギ歌人について、歌人ごと、論点ごとの七つの講演をまとめられたものだ。最初のご送付は、当方が東京へ長く離れ、またポストの口が狭いために受け取れなかったが、再度、ご送付いただき、たいへんに感謝恐縮している。さっそく拝読させていただいた。
 
大辻さんは講演の名手だ。資料の誠実な博捜を前提に、論点を端的にまとめあげる。近藤芳美への違和など個人的な嗜好も隠さない。同時に聴衆へ「つたえること」に過分といえるまでの配慮をする。結果、七つ収蔵されているこれら講演により、アララギの全貌が、読みすすめるうちゆたかに立体化していった。
 
大辻さんの着眼は、僭越をかえりみずつづれば、当方と似るところがある。たとえば斎藤茂吉の助辞についての繊細な解読。助辞が感情とニュアンスと容積と「時間」を拡大するというのは、現代詩にも共通するところで、よって大辻歌論は現代詩論と接合する。微視性があって、総体視が確立するのだ。
 
大阪を拠点にした中島栄一などは当方の記憶からきえていた。彼がアララギのなかでどんなに衝撃的な偏差をしるしたか、読んでいて戦慄が走った。もちろん大辻さんは基本的には落ち着きと敬虔をこのむ。言外をふくめ幾度か印象される、「詩作こそが詩作者の生を浄化する」という大辻さんの信念に胸を打たれた。
 
すべて圧巻といっていい講演集だが、最後の相良宏についての講演は、岡井隆さんから預かった、まだ公になっていない一次資料が駆使されていて、とりわけ驚愕にみちびくものだ。たんに理科系とおもわれていた相良の、苦渋にみちた青年期が浮き彫りにされるが、とりわけ相良の作歌ノートにおける歌の第一発想形が、完成形へとどう段階的に変貌していったかを大辻さんはこまかく論証してゆく。松下育男さんなら「詩想ふたつを一篇に同在させると詩は失敗する」というところ、相良は一種の奇蹟を演じた。「ふたつ」により、「ひとつ」を抽象性へとみちびいたのだ。合体と同時的な抹消。捨象と弁別のない移行。初形の絵札と終形の絵札の交錯。この「ありえない」推敲過程は、詩作にまで突破口をひらくものとして映った。
 
岡井さんの相良論などからこれまでなんとなくイメージしていたのは、相良宏の「天使的」明澄性。それは夭折の事実と相まって、相良をいまでいえば笹井宏之の祖型とおもわせるものだった。ところが大辻さんが語りながら彫り込んだ相良は、その才能が苦闘と不可分だという点で、みごとに生々しい。それも人生論レベルからではなく、作歌論レベルから生々しいのだ。大辻さん、相良宏の全集を編纂してくれないかなあ。
 
 

2017年04月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)