ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

すきだ

 
 
【すきだ】
 
 
ほしうらないの良い目のあさは
詩をかこうかとおもいたち
手をいれながらしあげてしまう
もともとに主題すらなくて
丸かっこをつかわずする留保
つまりながれのぶんかつが
めんせきとてつがくとをうむ
ふしぎにひかれているのだ
みずをうかべたすいめんがみえ
ひふではなくものごとの
実相をたたえるうすさがすきだ
花をうかべたのみものをのみ
おこないをかぎわけさそう
くちのまえのぶんかつもすきだ
想像のからだと現実のからだなら
ここにもとめるのもあわさで
くうきのそうなっているときに
わらいながらするじさつ劇が
しらないとおくへ花をちりしく
二、三人くらいのあのひとがいる
もびーるのような可動性は
からだのはんいにあるゆらめき
はりがねでできたしぐさの
その呼吸へとひかりがはいり
すがたがト音記号だとおどろく
かけらを調性にならべれば
あらわれてまたきえることも
リードでひっぱられたおんがく
みたいないぬになるだろう
すきだ、もののかたちがかわる
すきだ、きえごとが多になる
かきながら発端をわすれて
どうながのいぬがもびーるから
すうほんのひもにへってゆく
そんなのもぶんかつだから
さんぽするあのひとの公園は
おもさの不在をひいている
 
 

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2017年06月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

私の好きなもの

 
 
《私の好きなもの》
 
ある食べ物が飲み物に似ていること(たとえば山芋のすりおろし)
剥かなければ食べられないもの
負担のない詐術のような上り坂(明治大学の脇からアテネフランセへゆく径など)
ちいさな疲労
疲労によりみえにくくなっている遠方
デミニッシュ・コード
伏し目のうつくしいひと(女優ではなく)
色彩のこぼれる声
先メロにより文法破壊の生じた歌詞
胡椒のにおい
廃園(なおも花が咲いていれば)
ヴァルター・ベンヤミンの過去のかたりかた
傾向としてのセルフ・ネグレクト
主格のきえた構文連鎖(しかも動詞の終止形連鎖)
幾何学的な木造建築
回転一般
護岸されていない水辺
メランコリックな大型犬
とつぜん出会った八〇年代ふう雑誌文体の発展形
「線」「比例」など視覚原理を考察する文章
「展開」「和声」など聴覚原理を考察する文章
順延
敬虔さ
自分自身を待つこと
論理でわらわせるもの
湿度のひくい曇り日(秋などの)
少年的な女性
裸身の賞玩
調和のとれた三人で出歩くこと
廃サイロ
断章でつながれた映画
与謝蕪村
エクスタシー発作にいたるまえの前兆的文章(みじかければ注意が要る)
動物番組
音色と楽想の縮減をそのまま展開している演奏(マーク・リボーなど)
繊細に調理された鶏胸肉
遺書のない生
かつてした鉄道旅行(大糸線、三陸鉄道、根室線が三大路線)
間歇的でみじかい睡眠
パウル・クレー
にんげんの手を精巧にしるす画
放棄をうたう詩句
古代中国にあらわれた奇妙さの体系
「分割」論ともいえるアートっぽいマンガのコマ割り
クライマックスで「悔悛」をえがくドラマ
うすいサンドイッチ
こもれび
寓喩
 

 
授業であつかうため、ひさしぶりに『彼自身によるロラン・バルト』を再読している。《私の好きなもの》の断章にいたり、むかしをおもいだした。立教での授業のため、当時仲のよかった諸賢(いまや故人も絶交者もいる)に、バルト同様の「私の好きなもの」を書いてもらい、それをプリントで配布したのだった。委細ご覧になりたければ「阿部嘉昭 私の好きなもの」でググってください。ぼくじしんの流行と不易もわかります。
 
 

2017年06月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

くびと肩のふたり

 
 
【くびと肩のふたり】
 
 
詩集ゲラをよみすすめてゆくと
わたがしのなかへとくびが
はめこまれるとかんじた
いきがあまくうすくつまった
そのまえに波動かなにかで
そいつがはずれていたのだが
みずからなした詩の時空は
はずれてゆくからだの部位を
うけとめたうえでなおさら
かすかにするはたらきもあった
はずれたくびが双肩にむけ
よわくふかくよびかけていて
頭上図のかんけいというものだ
聖性をはかりつつ線をひいた
はずれるとは松下育男の
へんな詩にもあった動詞だが
はずれた主体のさいごは
玄関からそらへとみちびかれ
その恐怖がうつしかった
きっとひとみながみずから
くびをはずしむかうあいてに
わたしたいとねがっている
このことをなしたむこうみずが
ことばを脈からはずしたてがらで
ひじりともよばれるはずだが
はずしてわたそうとすると
こころみるまにかたちをなさず
あわくただようのがふしぎだ
わたそうとする場所も舟になり
くらげ島へかえるみちすがら
しぬのかとふとかんがえる
詩集ゲラをよみすすめてゆけば
きしからぼやけたわだつみへ
さいごのわたが舞っていて
雌雄の異株のさみしさは
ぽふらをこえひろがっている
くうかんがふめいになれば
おのれをしわぶき頭上へなくす
かばんもかけられない肩とくびの
この世には雌株もまれだから
ふたり以下のみえないふたりへ
ひとりがかわるだけだった
 
 

2017年06月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

排列

 
 
【排列】
 
 
耳の立つひとをかたわらに置き
わいてくる風を聴いてもらう
どのみちふたりでいることなど
ちいさな列になるしかなくて
このよこはばになにかをいれる
さそいとしてめのまえはみち
ふくらんだというおぼえもある
にわかにうまれでるものは
そのうまれたものいがいにも
にわかさの表情をもち
うすいみずけをかんじる
ときごとに列ができてゆけば
きみのかおすらみぎひだりある
ちいさなうつくしい列となり
均整はもちまえのしずけさから
へんぼうをけしてゆくだろう
みえるをきこえるにまぜ
ちからをうばうのもたやすい
そうしてすこしずつくるい
ふかい水魔をまたいでいって
わたしらのかたどる列が
みかたでは刑ににてくるが
約と延のかきものよりずっと
たんなるふたつをつづけるから
あるきながらでも左右をたもてる
ここのろくがつは本土の五月
とりどりの咲く両側がかこんで
べつの道がひらけているのは
幅があいだをときほぐして
たおれるよう列をしるすため
たおれるまでのたかさにも
しぜん横をみとおしてしまう
そえないものに恋するのは
あるきながらうるんでゆくのは
こういうしだいではないのか
川さながらにゆくあれらの列は
きみのからだからはなれる
善悪の双数をもとにしていて
時間もふたつをつなぐのではなく
ふたつある時間がひとつなのだ
うすいこの心身のかたわらで
きみじしんがあふれていた
 
 

2017年06月20日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

減衰のうた

 
 
【減衰のうた】
 
 
いやらしいことを
かんがえるといっても
おんがくのへびが
みつにおぼれるなど厭だ
ましてやおんなの髪を
かばしらとみるのも御免
とどのつまり生家の
のきしたのわびしさや
いぬのあほうめいた
はらみせで濁しながら
はなのしたをのばし
とろりとさゆをのむだけだ
それよりも劣情するには
むっつの具体でできた
あれごりーをうかべ
まばたきのさきで
かたちがだしいれされる
不定こそよいのではないか
ほしをやむというなかれ
きっと効能はかおみずから
ふられる手旗のような
白あれごりーにまとまる
あぐらをほこりっぽくしつつ
みぢかなけものにたくした
にんげんのものがたりが
ただたださしせまった
ふいごや蟻や棒術の
うごきとなるのが妙味で
けいれんする仙術といえた
すなわち幽暗のたぐいを
もろくもふるくゆらしては
へやのいちばんとおくへ
いやらしさをとばしてみる
あたまのきれ味いいのと
あたまのくるっているのが
わからないあわれさなら
ゆらすほど濃くなるもので
ともだちにしてくれるかなと
おのれをまるめてもいい
あれごりーはむっつを裂いて
あなをひらいたりしていて
かたるにひゆがまずしくとも
ゆれればゆれのひゆになる
その骨皮のぼろぼろな
近似値あればじゅうぶんに
ひとでなしのひものだが
もちろん申すにおちる
近似値がいやらしいのだ
 
 

2017年06月15日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

密着

 
 
【密着】
 
 
きみがおぼろげにみえるのは
へだたりが密着てきということ
もともと顔はたとえば眼の領分と
鼻やひたいの領分とが密着していて
あらわれがひしめいてもいるゆえ
まきばさながらながめられるが
つつましさとはじらいとがあふれ
それらが決意にもなるときには
きみの顔はみわたすそらのひろさ
またはそらのせまさでうごいている
くれなずみをみるようだとにじみ
ひとつひとつへだたる牛や馬に
ホームというべき帰りもおもうが
さだまりをいったんとりはずし
みるごとにみえるをわすれてゆくと
再帰てきな落着をことさらいなむ
かたむきだけがながれだして
それが眼や肌へもふれるのだから
よみすすめながらきえてゆく
詩に似るものこそがたっとばれ
かんけいもまたいつも対峙で
きえながら触知される消えごとに
このながめやりが密着している
まなこのなかへとかぜをいれ
かたちをくだくのがおこないならば
きみをくみしくまでもないのだ
うでをとりひきよせたことがあり
髪のにおいをすいこんでみたが
そうするうちむしろ密着がこわれ
しだれやなぎの葉よりもほそい
なにかの舟が川下りしてしまった
ふくらみやまるみよりも線が
さきだってきみからうまれることが
そうだかたちをゆくおもいに
ひそやかながらよりそっていて
とすればきみをねがう内面に
きみいがいも怖く密着している
 
 

2017年06月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メッセージ、あなたの人生の物語

 
 
きのうは朝日新聞用にテッド・チャンの短篇集『あなたの人生の物語』評を書いた。とうぜんドゥニ・ヴィルヌーヴ監督『メッセージ』公開の余波を受け、増刷を繰り返している同書(ハヤカワ文庫)へのオマージュとなった。
 
それにつけても、短篇「あなたの人生の物語」を換骨奪胎した『メッセージ』の脚色はみごとだった。短篇自体は、人生の諸局面にいる娘へのひとりの女性言語学者の呼びかけ、それと無媒介に交錯するエイリアンの表義文字の読解過程、この二元的構成になっていて、むしろぶっきらぼうな作りともいえる。映画はラグビーボールをまふたつに割ったような形象の「宇宙船」(それは地上数メートルのところに浮かんでいる)への乗船をつうじ七本脚のエイリアンとファーストコンタクトするヒロイン、ルイーズの行動の積み重ねにより、話を見事に線形化した。そこでは火星人ものとちがい、他者は他者のままだ。しかも宇宙船のなかは腸管のような空洞で、その外観と矛盾がある点もすばらしい。宇宙船内はやがて鉛直軸の弁別が無意味化(無効化)される。無重力なのではない。重力が多方向・無差別に遍満している空間で、それゆえに鉛直性が障碍なく水平性になりかわるのだ。
 
映画の冒頭は、娘への呼びかけをつうじ、その娘と「体験した」日々が間歇的につづられてゆく。そののち作品は「現在時」に到着した気色となるのだが、学生世代の娘を失ったとつづられた割に、ヒロインである母、ルイーズ=エイミー・アダムスのルックスが若い。これがまずは終幕の大逆転への伏線となる。あるいは表義文字の読解がとつぜんなされ、「意味」が字幕表示される奇異もまた伏線だった。それらを観客は、過去と未来が同在するエイリアンの書字=意味体系の影響を受けた、未来から現在時への陥入として理解してゆく。かつてあったものは、いまもこのさきも永遠に具体性として身体のまえに存在する(そうなるとたとえばセックスのよろこびは相手と別れたのちも生涯つづくことになる)。さらには中国の武官へのヒロインの接触でも、武官の亡妻にまつわる知りえない過去が、作品の現在時に陥入してゆく逸脱を観客は認識することになる。
 
短篇「あなたの人生の物語」ではエイリアンの表義文字は、線形の交錯としてしるされていた。映画はそれをおおきく改変した。あたかも水中に吐き出されたイカ墨のような勢いで、しかもそれが円周(細部はもつれている)をかたどる水墨状の軌跡として「ぽわっと」現れるのだ。円そのものに永劫回帰が潜在しているほか、もともと漢字という表義文字をもつ中国文化への、すなわち中国系米国人テッド・チャンの出自への、敬意がそこにある。ただしそうとらえるためには前段が要る。じつは幼年時の娘の発語・行動はエイリアンたちの哲学とふかく同調しているのだが、そのなかの逸話に「ノー・ゼロサムゲーム」を母親に問うくだりがある(原作にもある)。個々の勝敗が相殺され総和がゼロになるゼロサムゲームの風土ではなく、すべてが勝ちをしるしながら総和が計測されえないノーゼロサムゲームの概念はそれじたいが道教的で、それでこそ円は十全と同時に無を含意するのだ。映画はテッド・チャン以上の「形象」の選択により、エイリアンたちの哲学を段階的に観客の身体に理解させてゆく。卓抜な音響設定がその導きともなっている。
 
それにしても――単位的な一字ではなく、いくつかの字を連鎖させてゆく書字行為にあっては、たとえ語順が自由であっても、文字同士の「差異」により意味が形成されてゆくしかない。ところが映画『メッセージ』では、エイリアンの円周的な「字」、そこに未来と過去がひとしく侵入した一世界が統一的に表わされていると定義される。むろん意味はまず時間それぞれの差異を前提にして、書字はそれこそを空間化するものだ。エイリアンの文字は過去と未来の同時化により、現在が陥没した無意味しかつくりあげないのではないか。その意味で原作者テッド・チャンには有意の極致=永劫回帰にかかわる矛盾撞着があることになる。たとえば『差異と反復』のドゥルーズは同反復がそれでも差異をしるし、それが「いつもおなじ」なことの強度が永劫回帰の本質だとした。あるいはラブレーを讃えたバフチンは、より人間的な農耕的時間の循環を永劫回帰の本質にみていた。つまり娘の名HANNAHが正順読みでも逆順読みでもおなじになるという可逆性のみでは現在時の無化は達成できないのだ。
 
言語によって意味の特性が形成されるという常識を覆し、特性は言語形態の質そのものから招来されるとする考えを「サピア=ウォーフの逆説」という。短篇「あなたの人生の物語」も映画『メッセージ』もこの考えにもとづき全体が作劇されている。ところが過去と未来の現在時への同時陥入による無差異性を、ヒロインの世界観に注入してゆくこれらでは、「未来をおもいだす」ことの情緒性が観客の身体に自然接木されても、差異体系=ストーリーでは自身を記述できないというアポリアにさえ陥ってしまう。さらには、メッセージはメッセージであるかぎり「伝わる」というメッセージ論は果たして本当なのか。たとえばアメリカ先住民の哲学を最深部に刻印した往年のショーン・ペン監督『インディアン・ランナー』では「メッセージは伝わらない」という深甚なメッセージを貫いていた。あるいは伊藤大輔監督『下郎』ではメッセンジャーは己を殺せとのみしるされた封書を携えて放浪するカフカ的不条理を負わされていた。むろん「己を殺せ」というメッセージをふくんだ表現は、究極的には実現不能となるしかない。
 
けれどもテッド・チャンにあるのは、同時に砂漠宗教的な苛烈さなのだった。天に無限に伸びようとするバベルの塔、その形状と空間性を、詩的な矛盾を孕んだ修辞でしるし、言説の有効性を内破させた短篇「バビロンの塔」のすばらしさ。ところが、それはやがて天上と地上の等号化という結末により、やはり物語上の円環に帰着してしまう。
 
そうした彼の奇想の限界をつきやぶる好短篇が「地獄とは神の不在なり」だろう。脚のないヒーローとヒロインがつかず離れずの関係で関わりあうこの短篇では、脚の喪失が恩寵であり、脚の再獲得が失寵であり、天使の降誕が砂漠への落雷に比すべき災厄であり、失った伴侶のもとへ自殺でゆけなくなることが地獄から天国への分節化だというような倒錯神学が語られてゆく。もちろん災厄まみれの日本では、たとえば東日本大震災のただなか、割れる空に幾柱かの天使を視たひともいるにちがいなく、神学は脱神学化してこそ神学だという逆説も行き届いているだろう。
 
最後に報告。北海道新聞のこのあいだの土曜日の夕刊に、ぼくの「サブカルの海 泳ぐ」の最新回が載りました。あつかったのは、これほど面白い音楽情報バラエティは空前絶後とおもう「関ジャム完全燃SHOW」です。
 
 

2017年06月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

単位

 
 
【単位】
 
 
おもいがけずたかさを得ることは
とおさをも得ることだという
そのようなにんげんのことわりを
にくみつつあるのかもしれなかった
観覧車やテレビ塔をみわたせる
よろこびはからだにはかかわらず
じぶんの眼の位置をいぶかしむだけだ
むしろたけがちぢみそんざいがまがれば
下草のうれいがものかげとからみ
ひくさとちかさとがあわく親和して
ねころんだ苑生にげんみょうな
けいらくのひろがるおぼえがある
そうもくへと這えばしべがたち
きんいろのせかいがゆれやまない
ことばかたるもののたぐいでも
だいだら坊ではなくこびとをこのみ
その場のしぐさをじっとみている
無辺ではなく単位のはかりへと
つたえたい詩もむかうはずで
とあるすがたをかたちしている
そのときの関節をおもいかえしては
書きかたにポーズをあたえているのだ
これからどのくらいながめることを
つつげてゆくのかわからないが
おもうあいてへひくさからむかえば
そびえるものはすべてうつろになって
うすいままつながりをしるし
それらが災厄のさなかのそらの割れに
ぼさつのような柱をたてあうのだし
ならぶものみなたかさではなく
ただ、ときのなかのひくさとして
はやさのてまえでわかれてゆくのを
むらぎものおわりだとみおくっている
はなれあううごきとことばの単位
ひとのうつりはにわたずみにも似て
かつてありまたあるとしかいえないから
とおさとむすぶたかさが統べると
しめくくることもできなかった
 
 

2017年06月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

学校

 
 
【学校】
 
 
ひとりいで、ふたりいでする
あのおくまりにあるいえが
無尽とおもえおそろしかった
せんよりまどのふえた気もして
いずれはいえかべすべてが
まどとなってしまう破局がみえた
いえのなかからでてきたのに
むすめたちのひとみはなにゆえ
人どおい碧空をうつしているのか
きっとたかみと脳髄がつるむ
いかがわしいさそいをうけ
それが教育とおもわされたのだ
ほそいこえでうたいもしたが
これがおもわぬ多声だったため
構成のなすじゃばらのぬかるみに
しずかな舌がとられたのだろう
しろが死に、あわが些少になって
うつろな放心をえがくかおは
もともとこころのあったことすら
ただ福音書のかたりにさせた
かおはところではなく時間
だからたがいをゆるしあうなら
そこへエスのようなものもはいる
おもいえがくといえのなかでは
はしごが論につかわれたとおぼしく
ほおにかすかなしるしがのこり
見目にある位階をうるわしくさせる
みえるものではなくのこるもの
あれこそが身熱での映えとなるのだ
ひとりはいつもふたり以上だから
路次をふさいでさそいかけてみたい
むすめらは夕映えあるあのいえの
木像ならぶ二階にみないたのか
うたういがいはだまっていたのか
けれど一階はいえの底面よりおおきい
電動昇降機のゆかにもなっていて
むすめたちはおがくずとともに
矛盾してきりだされてきたはずだ
ひとりいで、ふたりいでする
ときのながれに倦みつかれ
しるしをつけてゆくうちにも
ライン作業のくだものがあふれた
 
 

2017年06月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)