爪
【爪】
つめがうすいのですぐのびて
みずからのあまりやあやまりを
なんどもきらねばならない
とぐためのはしらなどほしいが
おおよそのはしらはとおくにあり
あめのなかでけぶりあげていて
とおくへゆびがふれることはない
あめは聴くものだ移るものだ
ときのまでしかないともされて
みつめているとなにかきみょうだ
ぬれないところがおおくあって
おおきな石のうえがそこなら
こまかなしろののこされもまた
くうきのつめだとおもうのだ
ひき、かくとわれてしまうようで
つめははくへんとしんわする
ひき、かくとおのずからこわれる
ちかさがじんるいのとおさだ
あめはひかりをおびてふるので
まといつけたかげをしずかにして
よのなかへたてすじをつける
爪白癬とまきづめと周囲炎
それらは名のわりにきれいでなく
はなびらをちらした寺院を
ぬれないねこのようによぎる
あめのなか、きみの月齢をきいた
みかづきがめだまにいっぱい
やわらかい身をななめによじり
しろがねをゆっくりながしている
あれもまたといでいるところだ
黒沢清・散歩する侵略者
【黒沢清監督『散歩する侵略者』】
「他の動物にたいし、人間は二足直立歩行する独自性をもつ(それで頭脳と感情が発達した)」――このたんじゅんな事実を映画のなかにどう中心化させるかが、『散歩する侵略者』を撮るにあたっての黒沢清監督の着眼だっただろう。前田知大(劇団「イキウメ」主宰)の作・演出の同題舞台が原作。ただし観劇したわけでも脚本を読んだわけでもないが、なにしろそれは舞台だから、その空間限定性のなかで「歩く動作」をさほど前面化することは困難だろう。つまり「演劇→映画」の変更は、「歩行」の点綴を頻繁にすることでまずはなされたはずなのだ。
速「歩」調で断絶を連続化させるアヴァンタイトル部分が詩のようですばらしい。水槽をおよぐ金魚。金魚すくいをするしろく華奢な手。その官能的な様相が黒沢『アカルイミライ』でのクラゲの水槽をおもわせる。すくいあげた金魚をビニール袋中の土産にして自宅へ帰るセーラー服姿の少女。スカートの裾下だけの(つまり歩行を露わにしない)画角からしろいひかがみのきよらかなエロスが強調される。このとき寓意的機械的といえるほどに歩行エキストラが空間の深浅を縫っている。あるかなきかの時間経過。少女の帰った家屋の玄関から中年女が一瞬恐怖の形相で飛びだすが、みえない手にふたたびひきこまれる(玄関から飛びだす者を全貌のみえない手が家屋内へ暴力的にひきもどす瞬時のシーンは、塩田明彦『害虫』、万田邦敏『接吻』にもあったが、それぞれの角度がちがう。塩田=水平ロング、万田=俯瞰、黒沢=斜め)。
室内。血まみれの惨状。のちの進展からわかるのは、そこで中年の男女がからだをバラバラに惨殺されているらしい(狼藉が過ぎて現状の画面には何があるのかわからない)。ゆかの血だまりに先刻の金魚が撥ねている。少女の手が血の感触をたしかめ、しかも指に付着したその血液は舐められる。時間経過。少女がセーラー服を血まみれにして路上をあるいている。ぎくしゃくしたうごき。とりわけむずがゆく不機嫌に上体をひねらせて、歩行そのものが自分に馴染まない窮屈なようすがつたわってくる。ロングの正面縦構図。クルマがゆきかい轢かれそうになっても少女は一切頓着しない。それでハンドルを切り誤ったクルマ二台が少女の背後で衝突を起こす。そこにタイトル「散歩する侵略者」。カットアウト。
タイトルからすると、黒沢の本作でもドン・シーゲル『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』に代表される宇宙人侵略物がイメージされるだろうが、黒沢は得意の恐怖演出を基本的にほぼ封印している。シーゲルの歴史的傑作にあった、閉域性によるサスペンス演出も、「映画史上最も怖い接吻」もこの映画にはない。ただし同様の、異様な説話効率はある。ところがそれは原作が演劇であることから科白の饒舌、その痕跡をも残存させていて、奇妙な不統一性をかんじさせる。ともあれシーンは演劇的桎梏をとりはらい、映画的に跳び、長いレンジでの空間閉塞は回避される。なにもかもがざわざわした混淆的な感触だ。
この映画のジャンルはなにか。宇宙人侵略SF。侵略者と通常人間との会話の齟齬をうちだすコメディ。その会話が人間の条件にふれることからの哲学映画。宇宙人侵略によってウィルス感染をもたらされたと誤認する人間側から生ずるパンデミックパニック映画。生起しつつある事件の本質に迫ろうとする無頼なジャーナリスト桜井(長谷川博己)が少年少女の姿をした侵略者と放浪をともにすることで印象される疑似家族(父子)映画。厚生労働省・警察・自衛隊が結託し、侵略者と人間のつがいを情報戦により追走してゆく陰謀サスペンス。
あるいは百年たかだかで決定される「世界の終わり」を三分間に圧縮させたらどんな感慨がうまれるかという挑発的な終末映画(黒沢はすでに『回路』を撮っている)。そして主体となる夫婦=松田龍平/長澤まさみが最終的には愛を「彼方」にどう伝播させるかという、観る者が気恥ずかしくなるほどの恋愛=愛情映画(これについても黒沢はすでに「愛の探索」を主題にして『ドレミファ娘の血は騒ぐ』を撮っている)。
いずれにせよ多様なジャンル意識が、ことあるごとに画面連接に侵入し、統一性をずらし、そこでの脱臼感覚がわらえる。リズムが可笑的なのだ。俳優たちの演技がすべてノンシャランで、深刻な場面なのに重みを欠いているのも良い(このことで喜劇的「聡明」が強化される)。つまりノンジャンル映画という映画ジャンルがあるのだ。これとて黒沢清はすでに同様の『ドッペルゲンガー』を撮っている。ただしこの映画に、統一的なジャンル名をあえて付すこともできるだろう。それが「歩行映画」だった。だから先刻例示したアヴァンタイトル部分で中心となるのも、歩行動作を身体に初めて装着したときの存在の違和感を正面ロングでしめすショットだった。この動作の「質感」を過たずつたえた「立花あきら」役=恒松祐里の、映画的奇蹟ともいえる身体的優位性と魅力についてはのちほど別段で考察する。
「歩行映画」――なるほど俳優たちは「歩く」。それは通常人間役でも侵略者役でもかわらない。歩行は時間の物差しになり、映画の進展的実質と混淆する。しかも会話のような意味加算の不純がなく身体的感触だけをつたえる。映画が純化されようとすれば歩行描写が特権化されてゆくだろう(むろん完全には不可能だが)。黒沢清は人物たちの会話の応酬を科白の意味単位の切り返しにして事務的に撮る退屈をきらっている。たぶん動作だけをつないでゆくことで「人間の寓意」を撮りたいのだ。数人の人間が地平線上のロングで会話なしで互いになにかをしている影絵を全篇連続的に撮り切ったら、おそらく彼の作家的欲望はみたされるだろう。
アヴァンタイトル後、最初のショットは、手前、逆さにもたれた雑誌誌面ナメの加瀬鳴海=長澤まさみの、困惑と侮蔑と怪訝の表情。たいする夫・真治=松田龍平との切り返しにすぐ変じ、第三者の医師も布置されて、作品の発端がしるされる。夫・真治が数日間の行方不明ののち発見されたこと。認知能力がいちじるしく欠落してしまったこと。とりわけ初歩的な人間のやりとりに支障を来していること。真治の発語からは、とぼけられ、バカにされている感じもある。のちにわかるが夫の情事の事実もつかんでいるから、直近の過去の消去は彼女にとって安定がわるい。医者はショック症状か若年性アルツハイマーかと原因を推測するがあまり深刻感がない(こうした喜劇的「欠落」に注意)。怪訝なまま鳴海は真治を黄色いクルマを停めた駐車場へと連れ帰る。このとき真治の歩行動作が、まるで機械パーツが分解するように段階的に瓦解してゆく。バカにされているのかとしかとうぜん捉えられない鳴海は、叱りつけ、夫を支えて立たせる。ただし観客はアヴァンタイトル部分をすでにみている。歩行が身体装着によってようやくなる危うい何かだという点はすでに強烈に反復されているのだ。
この映画に『ボディ・スナッチャー』的恐怖が欠落している理由は、この「装着」の様相に負っている。宇宙人はひそかに人間を侵食し、存在を乗っ取るのではない。のちにわかるが宇宙人は「周囲すべて」ではなく個体明示数としてはわずか三人だし、みずからが人間を調査するための「ガイド」となるべき者には明示的に自らを宇宙人と言明し、存在にはいりこむのも個体利用のためで、はいりこまれた者が固有にもつ記憶まで「装着」する。ただし人間の多くもちいる初歩的な概念がわからず、それを偶有の対峙者からさらに奪い取ろうとするのだ。それすら奪取というより装着にちかい。だから恐怖感覚が低減する。
もっともそれはうわべだけのことで、やがてわかるのは概念を奪われた側の人間が、概念欠落によっていちじるしく劣化することだ。人格が変わり、概念を奪われすぎると廃人化する。これがウィルス感染と間違えられる。しかも人間の使用する概念が収集されたのち、その結果は彼らの故郷へと通信機で送られる(彼らは地上で、かつ自前でその通信機を創出しなければならない――そんなとぼけた設定もある)。それが予備認識どおりならば、地球から人間がすべてきえるだけのことだ。侵略は波のように渡来する。それが恐怖かどうかはひと次第だろう。黒沢清自身がたぶん恐怖をかんじていない。うつくしさはおぼえているだろうが。
この映画に恐怖感覚が基本的に欠落していることは、最も恐ろしい詳細が会話で間接的に語られるだけの処理をなされてしまう点にもあきらかだろう。アヴァンタイトルの映像のながれに秘められていた意味は、のち、ばかでかい放送局支給のワゴン車を運転する「ガイド」役のフリージャーナリスト桜井、その助手席にいる天野(高杉真宙)にたいし、後部のあきらにより、「失敗談」としてなんと自嘲的に語られてしまう。論旨をより説明的にして内容を転記しよう。
地球に来て勝手のわからぬ自分(あきら)は当初金魚にはいりこんだ。違和感をおぼえた。自分は金魚すくいの女子高生に「ポイ」で掬われ、居場所を移した。虎視眈々と寄生先を乗り換えようとしているうち目についたのが一家の主人。乗り換えを実現すると一家の妻が大騒ぎして逃げようとしたので、それを引き戻し、勢い余ってからだをばらばらにした。人間の内部構造をさらに知りたくなり、みずからの腹を手で裂き、はらわたを分解的にとりだしているとなぜか意識が遠のいてきた。やばいとおもったとき、部屋に自分を掬ってくれた少女が入ってきたので、今度はそのからだのなかに入った。――いま綴ったことはおぞましさの一語に尽きるだろう。それをあきらは車中で、淡々と、省略たっぷりに、わらいのめして語ったのだ。
この映画で最も歩行に感情を要求されているのが、鳴海役の長澤まさみだ。彼女は諸感情の伝達を歩行でみごとに実現した。なにしろ彼女はイラストを描くデザイナーの仕事に就きつつ、とつぜん精神に変調を来した夫の勤め先に退職届を出し、「人間」学習のためTVのザッピング視聴を一日中つづける夫をケアしなければならない。出勤にさいし怒りながら玄関を出ての「歩き」。家を出ないでと釘刺しておいたのに帰宅したら夫が行方不明になっていて、外に出て小走りに夫を探す不安な「歩き」。「宇宙人」を自称するまえの夫の浮気が心のこりながら、「ガイド」としての自分への全幅の信頼にふと心をゆるし、夫と同道するとき往年の幸福な記憶をよみがえらせているあまい「歩き」。尾行者が数多くいると直観、知らぬふりで歩いたあと、角を曲がった途端、夫の手をとり、それまでの「歩き」を増幅させてみせる危機的な「走り」。
この映画のメインキャストたちはみな脚の線のきれいな男性陣=長谷川博己、松田龍平、高杉真宙で揃えられているが、女性陣では繊い脛(それはたえず素早くうごく)の恒松祐里と、そこにやや女性的なふくらみをおびた長澤まさみとが好対照となる。ちなみにいうと、実は女優を魅惑化することでは定評のある黒沢清が、長澤まさみをとてもうつくしく画面に定着している。額を出したワンレンの髪型に、ややほそみをおびた顔の輪郭があり、しかも顔色が聖なるしろさをおびて、造型の女性的な落ち着きをきわだたせている。まなざしにこれまでの長澤に多く印象された邪険さや驕慢がまったくとりはらわれた浄化がおこっているのだ。それで身体性の全体までもがなつかしさの文脈にはいる。
対峙する「人間」の歩行についてもあきらかにクレッシェンド型の増長が作中、意図されている。当初はアヴァンタイトル部分に代表されるように、無関係な住民の歩行が機械的に、しかもどこか謎めいた作為性をもたらすよう画面のここかしこを織り上げた。通行エキストラの無意味性の運動は、やがて有意的な尾行者の集団となり、尾行の気配が見事に画面に点在的に表象される。対象=加瀬夫妻が逃走しだすと、集団疾走が組織され、彼らは動勢と区別がなくなる。
あるいは主治医から真治の精神的退潮がウィルス感染の結果だという連絡が入り病院へ夫婦そろっておもむくと、院内はパンデミックパニックの様相をしるし「感染者」家族の長蛇の列ができていて、その列を乱すように精神変調者が「歩き」「走り」、自衛隊服と感染防備服の列が「縫い」、さらに新患関係者や厚労省関係者が入口から危機的に「侵入」するなど、歩行の増幅的諸形態が多様な運動性をともなって集中展覧される。このとき芦澤明子のカメラが満を持したように回転運動をおこなう。
ただしそうした事実的な歩行のヴァリエーションよりも、この映画の「語法」が歩行的だという点が重要だろう。前言をふくめていうと、加瀬夫妻の陥っている状況は、夫の失踪と再発見、精神の変調、夫による「人間」調査などだった。いっぽう書き落としていたが、アヴァンタイトル部分の映像はつぎのように発展する。警察と自衛隊が異様なうごきをしているとすでにつかんでいたフリーライター桜井が、つまらない取材の依頼をクライアントからうける。立花一家惨殺事件。父母がバラバラ死体のまま屋内に放置され、女子高生の娘あきらが失踪しているという。気乗りせずに現場に赴いた桜井が、そこで少年の風情の天野から干渉をうける。会話に精確さを要求しながら、目上への尊称も知らぬ奇妙な奴。彼は自分が宇宙人で、おなじ宇宙人である、失踪したあきらを探しているという。桜井と天野のやりとりは、冗談めかされながら相互の飲み込みが早く、省略的・核心接近的で、深刻な事柄を軽く語りあう長所をもつ。ところがそれでも、やはり作品の複雑な前提をも説明するため、演劇科白的な冗長さをまぬかれないし、多くは切り返しでなされる会話進展がカッティングと空間創造に凡庸さをもたらしてもいる。
ともあれ、この「加瀬夫妻」パートと、やがてあきらと合流することになる「桜井」パートとが並行モンタージュで進むのが、前半の作品法則となる。並行モンタージュの原理が右足を出し、さらに左足を出す「歩行」と通底するのはあきらかだろう。並行モンタージュはそれじたいが時間体験としてサスペンスをうむという三浦哲哉の指摘があるが、いっぽうでそれは人間性や緩徐性の付与でもある。喜劇性を意識した本映画では後者のほうが優勢だろう。とうぜんこの2パートはやがて加瀬夫妻の家に桜井が待ち伏せているところを加瀬夫妻がもどって収斂する。しかも家の手前に停めたクルマから妻の鳴海が「近づく」という具体的「歩行」を召喚するのだ。
もうひとつ、挿話の点綴がそれじたい等時的移行を組織して「歩行的」となる。『散歩する侵略者』はロイ・アンダーソンの名篇『散歩する惑星』と題名が似通うが、『散歩する惑星』は断章分けされたようなエピソードの羅列映画だった。意識されているだろうか。
『散歩する侵略者』の挿話単位はすべて、人間のどんな「概念」を「宇宙人」が「もらう」「うばう」かでとりあえず分割される。そこで前述したような会話齟齬コメディと、人間の本質を剔抉しようとする哲学映画性が混入する。その会話シーンの多くで、会話当事者同士が当初空間的に離れていて、だからこそやりとりに「歩行」が混入するのがミソだ。しかもレヴィナス的にいえば、会話のやりとりはもともと「同道」だ。ところが本作では会話的同道はかならず齟齬する。宇宙人の本質的な質問によってだ。黒沢の頭には酒鬼薔薇事件「余波」時の「なぜひとをころしてはいけないのか」があったかもしれない。もともと黒沢は会話を同調させないことで、「加算」をしるすべき映画的時間に脱臼をあたえてきた。記憶障害により相手の寸前の会話内容が欠損、おなじ本質的質問を相手にくりかえした『CURE』の萩原聖人。会話の本質は同道ではなく反復であって、そこに別の音・光の反復が混入、相手が催眠術にかかり、殺人願望を転写される。会話は多く空洞空間でなされ、そこがきみわるく磁場化する(これを発語のシンコペーションと粘ついた表情各部の遅延的連動によっておこなったのが『クリーピー』の香川照之だった)。ところが黒沢的空洞をもちいない『散歩する侵略者』では、相手の本質を乗っ取る会話が成立したその空間が磁場性をかんじさせない。「欠落」もまたこの映画の法則なのだ。
最初に犠牲になったのが真治によって「家族」概念を奪われる鳴海の妹・明日美(前田敦子)。「犠牲になった」としるしたが、この映画の法則どおり悲惨さは強調されず、ことの次第に気づいたのちの鳴海にとっても、明日美のゆくすえがさして案じられていない残酷が事後的に笑える。明日美はその日、姉とちがって手許に束縛したい実家の意向に倦んで姉のもとに家出してくる。ところが記憶朦朧とした真治は明日美を関係同定できない。「義妹」のことばを明日美にもちだされ、さらに混乱する。彼はもともとひとつの胎から生じた姉妹が出生順の前後をもつ同血だとすら認知すらしていないのではないか。明日美は成り行きで「家族」とはなにかをたどたどしく説明することになり、それで興味の灯った真治が、鳴海が眼を放したときに、その概念をもらう。「なるほど、それもらうよ」。仕種と変化ふたつがある。概念をもらうとき真治のゆびは相手の顔にふれる。もらわれたほう、この場合の明日美は涙を一筋ながす。それで概念移譲が完了する。明日美はこの瞬間からにわかに性格まで変え、帰るといいだし、真治が機嫌を損ねたのか案じる姉を背にして、「家」の束縛を断ち切った意識から生じた奇妙な笑顔を捉えられる。こうして宇宙人による概念奪いの様相が、最初は謎めいたままではあるが観客につたえられる。
あきら探しの準備のため天野の実家に天野とともにおもむいた桜井は、天野の両親がそこで廃人化しているのをみる。ただしそれは「自由」その他の概念をもらったためという事後説明しかなく渦中がない。つぎの概念奪取は、真治が散歩がてら丸尾(満島真之介)の自宅庭に不法侵入したときにおこる。自称の方式を知らない真治は、丸尾の「俺の家」ということばに反応、丸尾の家を「俺の家」と認識して不躾になかへと入ろうとして、前提認識を改められる。「の」に人間特有の「所有」概念が介在しているのだ。興味を点火された真治は丸尾から「所有」概念をもらう(ゆびをその顔にあてる詳細はあるが、落涙が「欠落」している――ともあれその概念放棄でひきこもりをかこっていた丸尾に解放がおとずれ、のち彼はユートピストとして戦争反対を訴える広場の説教者へと転身する)。松田龍平に負けないシンコペーション発話を「あかるく」おこなう満島の演技力が印象的だ。
つぎの「概念」奪取は、桜井の情報収集力によりついにあきらと実現された邂逅シーンで起こる。あきらはじつはすでに病院に身柄を拘束されていて、しかも乱暴を働いたのか麻酔薬で昏倒させられていた。直接的な警備はノンキャリ刑事の車田(「アンジャッシュ」児島一哉)たったひとり。ここではシーンの経緯じたいがみごとに混在的だ(並行モンタージュも挿話分割も組成が混在的なのだが)。①上司との電話のやりとりから職業柄「自分」の一人称をつかう児島に、ふと覚醒して興味をいだいたあきら。②そのあきらを、見舞客を装い訪ねる桜井と天野。③ふたりを排除しようとする車田に仕掛けられるあきらのカンフー俳優ばりの肉弾アクション。④さらには攻撃にずたぼろにされた車田から概念「自分」「他人」をもらうあきらと天野。以上四つの異質な列が、タイミングのたくみさにより連接されてゆく。黒沢演出はすごい。器用なのだ。
冒頭、歩きの動作の異常性でその身体能力を印象づけた恒松祐里は、児島への眼の覚めるような攻撃を展開する。いわゆる性的体位でいう「駅弁」姿勢から両腿で児島の胴を締めあげたり(彼のからだにのしかかるその身軽さにニホンザルのような獣性がある――トレーナーから臀部の割れた形状が透けるのも生々しい)、殴打、蹴り、投げ技など、打点が高く、速く、しかもやわらかく、展開性が目覚ましい。相手を「物」に貶める叡智が攻撃性に結集されている。なんという運動能力だろう。もともと性差と脆弱性の意識のない宇宙人が少女のからだを借りているという設定だから、自己身体を自損的に扱って厭わないということにもなるが、むろんそれを実体化させているのはこの若い、名前を売り出したばかりの女優自身なのだ。しかも八頭身で、そのちいさい顔が少女的抒情をおびている。身体自損的な意識は、蹴りあげやその他の日常的躍動でスカートの裾を気にしない放埓さももたらしながら、同時にそのなかを決してみせない慎重な自制もそこに窺える。運動神経はこの点にもつかわれているのだ。「走り」に圧倒性をみせた黒沢『Seventh Code』の前田敦子以上だ。
宇宙人にからだをはいりこまれたゆえのつよさという設定ながら、恒松の身体能力はプロレタリア革命的だ。国家権力から奪取した武器を自らのものにするという瞬間逆転じたいを革命力にするためだ。彼女の役柄だけが作中、殺しの許可を特権的に得ている。まずは警官。彼女は警邏中の警官に、失踪中の「立花あきら」と見破られる。有無をいわさず警官に攻撃をしかけ電光石火、拳銃をとりだして紐のついたまま発射、絶命させたのち、紐を剛力でちぎり、異変を知らせようとする同僚警官のパトカーに早足で近づいて、そのフロントガラスをじかの拳で突き破り、さらに拳銃を発射、死へとみちびく。連動動作の根底にみえないほどの速さの「歩行」があるが、それらは手の動きと連接して孤独化しない。全身がうごいているのだ。それは鉄道高架下にワゴン車を置いてひそんでいるところを追っ手たちに張られていると気づいたときも同様で、今度は追跡者ふたりを「同時に」相手にして、投げ技、蹴り技を展開、ひとりから奪った先刻からはスケールアップされたマシンガンを、相手それぞれに連射する。一連が華麗な舞踏のようだ。このときはラガーシャツにミニスカート姿だった。
つぎの「概念奪取」相手は鳴海の仕事先の社長(光石研)。奪取は仕事に行く鳴海を尾けてきた真治による。〆切ダンピングぎりぎりのチラシデザインの依頼にこたえ、仕上がり案をデザイン事務所にもってゆくと、もともとセクハラを仕掛けていた社長の難詰をくらう。事務的なデザイン踏襲を要請されていたのに創意を発揮してしまったのだ。クライアントのOKさえ出ればいいんだ、きみは「仕事」のなんたるかがわかっていない、と社長がヒステリックにいうのを真治が聞きつけ、「仕事って何」「イメージしてみて」と執拗に近づいてゆき、後ずさりして怯える社長から「仕事」の概念をもらう。このあと「仕事」の抑圧から解放された光石が幼児化してほとんどご愛嬌のおバカ演技をする姿が挟まれるのが笑える。
最後の犠牲になるのが、公安にちかい働きをずっとおこない、加瀬夫妻や桜井たちを追う黒幕的中心となっていた品川(笹野高史)だ。真治との出会いを果たし、黙契による瞬時の情報交換を経て、壮絶な最期をしるしたあきらからの置き土産=接続器をつなげ宇宙への通信機を機能させる寸前だった隠れ場所に、品川とその部下がたどりつく(ちなみにいうと、宇宙人の用意する「世界の終わり」よりも、それを阻止しようとして「人間」のしるす陰謀や、危機を訴えても聞かない「人間」の無関心のほうがずっと不純だと感じていた桜井は、父性意識もあって、天野をずっと手伝っている)。桜井と天野にたいする品川の面罵のことば「邪魔者」「迷惑」、さらに「目障り」「ウザイ」まで加味し、「排除意識」の概念を天野は品川からうばう。銃弾に身を貫かれても。結果、見事に陰気な威厳を湛えていた品川の顔に柔和以上の痴呆性が兆す。
ひとつだけ奪えない人間の概念が真治にあった。「愛」だった。追っ手を排除したあと、真治と鳴海のふたりは、とおりすがった教会から自分たちの結婚式でも唄われた讃美歌を耳にする。なつかしさもあり、しかも「愛とはなにか」という説教主題がしるされたポスターも貼られていて、ふたりは教会内にはいる。愛の讃美歌をうたう聖歌隊のこどもたちに「愛とはなにか」を訊ねてもはかばかしい正答が出ない。そこに牧師(東出昌大)がやってきて、さらにその問いをくりかえす。「愛」はあなたのなかにあります。ないからそれを訊いているんです。そんな問答のあと、牧師は聖書の訓えをつなげ、愛を刻々と定義しかえる。複雑すぎて背景、前提を真治はイメージできない。それもあり、「愛」という概念を牧師から「もらう」ことをあきらめざるをえなかった。これが愛情面でのクライマックスへの伏線となる。
最終局面の加瀬夫妻は、とりあえず天野とあきらのふたりから離れたほうがいい、という桜井の助言を容れ、世界から逃走しようとしていた。鳴海は、真治がウィルスに感染した病人だという指摘を信じなかった。宇宙人だと信じたのだ。それまで口にしなかったかぼちゃ煮をこのみだし、就寝中の自分の足うらをてのひらでひそかにつつみ、自分のなかの真治と宇宙人の区別がつかなくなってきたとかたり、自分たちのおびている使命=「侵略」を隠さず披瀝した真治に、彼女はあたらしい愛着をいだき、すでに「世界の終わり」を受けいれる達観にいたっていたとおぼしい。夫の変貌を蔑していた時点から翻心にいたった具体的な展開はあまりないが、この作品で聖化されている長澤の魅力的な顔がそんな「言外」を告げる。逃走のためのクルマに同乗しているふたりをフロントガラス越しにとらえるときも「ロマンチックラヴ」モードに車窓外がスクリーンプロセス的になり、しかも音楽のハリウッド調がしのびこんでくる。あるときは雲を割り、フロントガラスから荘厳な夕光が射しこんだ。この作品で最もうつくしいやりとり。鳴海「侵略が始まったの?」/真治「いや、あれは夕日だ」。
ふたりの帰趨がどうなるのかは書かないし、天野に託された、人間消滅を決定させる通信機の起動がどうなるのか、あるいはどのような逆転をみるのかは、ネタバレを避けて書かない。ふたつのことだけをしるしておこう。この映画には「泣ける」メロドラマというジャンルも混淆していた。最も催涙的なのは、逃亡の途中で天野夫妻が立ち寄ったモーテルでのこと。世界が終わるのなら、その前に自分をころしてほしいとばかりに、鳴海は自分の首を絞めるよう真治に依頼する。大島『愛のコリーダ』ばりの局面移動だが、真治にはそれができない。「愛」の所産によるものだとふと気づいた鳴海は、そういえば「人間」の概念すべてを判定用に収集したといったけど、「愛」の概念を人間からもらっていないじゃない、これなくして人間の全体は判断などできない。それならいまあなたを愛しているわたしからもらうのが捷径だし最も適切だというようなことをいう。廃人化は必須だというのがこれまでのドラマの経緯だから、その自己犠牲精神が泣けるのだ。しかもその直前、ベッド上に横たわる真治のからだを、うしろから包み込む鳴海の仕種が、静謐さにおいて「仕種の完成形」をしるしていた。それは「同道」の永遠状態なのではないか。はたして真治は鳴海の愛の概念をイメージしきり、その顔にゆびをかけるのだろうか。
作品では「歩行」をころすのが転倒だとさまざまに示唆されてもいた。最初の真治の転倒から作品全体を経緯して、最終的な転倒を受けついだのは、バカでかさによって笑えるCG機影(とうぜん『回路』終景をおもいだす)から散々な爆撃を繰り返された桜井だった。地面にうつ伏せになって死んでいるとおもわれた桜井。演じる長谷川博己の身体能力が、恒松祐里の身体能力がカンフー俳優並みだったのに比例し、前衛舞踏の踊り手のようにたかい。その臀部だけがもちあがってゆき、彼は尺取虫のような「くの字」になる。おそらくは腹筋を駆使した連続動作のままたちあがり、「歩き」だそうとするが、片脚を完全に破砕されており、歩行がままならない。畸形性を内包されたまま、やっとくりだされる歩行がゆがみまくり、足の甲を地面にひきずるようにして不安定に重心を移すのだ。息を呑む。むろんこれは「歩行動作」を不機嫌不安定に身体に「装着」するしかなかった冒頭の宇宙人たちへの、「人間」からの最後の応答だ。人間のゆがみやくずれは人間を装った宇宙人よりもさらに崇高だという、根拠のないゆえに真実となる発見。サングラスを爆撃粉塵で真っ白にし、衣服を炎で穴だらけにされ、なおもその歩行のまま不敵な笑みを浮かべる彼は、人間消滅後の参考サンプルとして生き残ることができるのか。
――九月九日より、全国ロードショー。
台北ストーリー
【エドワード・ヤン監督『台北ストーリー』】
エドワード・ヤン(楊徳昌)の映画の特質、そのひとつに「複数性」がある。登場人物の数が多く、たとえば「顔」が台北の背景と相俟って、アジア的外観を一種「みえる闇」として緊張度高く繰り広げるばかりではない。挿話、場所、運動、光陰、感情、それぞれの「数」が映画一篇のなかにはちきれんばかりに具体的に多いのだ。それらは破裂寸前にふくらみきっているようにみえて、映画組織、その静謐の全体のなかに、緻密きわまりなく配剤されている。伏線とその消化、自然化、一過的に存在したものの事後的な了解、映像の不吉な強度、非親密性、つめたさ、これらがみごとに調和し、反復的な鑑賞により、観るごとにさらなる魅惑を決定づけてゆく。
台湾新電影〔ニューシネマ〕の双璧エドワード・ヤンとホウ・シャオシェン(侯孝賢)が理想的な共働を樹立した記念碑的な傑作、『台北ストーリー』(『青梅竹馬〔幼馴染み〕』八五)をひさしぶりに観た(ホウは本作の製作、脚本〔クレジット上はヤンと朱天文との共同〕、主演)。かつて作品を最終確認したのがダビング劣化した英語版のVHSによってで、それも九〇年代の前半だったから、ほぼ四半世紀ぶりの再会となる。上映はマーティン・スコセッシ、ホウ・シャオシェンらの共同作業により復元されたニュープリント版。ヤン映画の一時期の特質、鈍色に統一された無彩色性のつよい画面の、くらくひきしまった「映像の肉」が鑑賞する眼にいまも新鮮にからみついた。動悸した。
ヤンの画面の多くでは、棚や障子などによって画面内に矩形(四角形)がこまかく繊細に重畳する成瀬巳喜男映画とはちがう形式で、矩形が重畳する。二間をつなぐ部屋の開口部、窓、鏡などがそれら矩形の「材料」となるが(そこに反映や影が生起する)、独創はそれががらんどう空間でのショット分解においてとりわけ強度を発揮する点だろう。
『台北ストーリー』冒頭、永すぎた春をかこつ幼馴染みとのちに判明する阿貞(アジン=蔡琴〔ツァイチン〕扮)と阿隆(アリョン=ホウ・シャオシェン扮)のふたりが、父親と折り合いがわるく実家からの引っ越しを決意した阿貞の要請で、マンションの空き室を検分している。静かな立地もあって物件を気に入り、家財の置き方を夢見がちに構想する阿貞にたいし、阿隆はバッティングフォームを仕種するなど気のはいらぬようす。やや不穏に開始されたそんな映画時間のなかで、間取りの細部を確認するふたりの別々のうごきにしたがいカットが割られる。その一連で確実に「空舞台〔エンプティ〕ショット」を織り込むのがヤンの流儀だ。結果、「エンプティ」こそが不吉に増殖してゆく(それはのち、エレベータの開扉時などへと飛び火してゆく)。
作品内における「がらんどうの空間=空き部屋状態」の反復の多さは只事ではない。すでに結婚を留保しつづける幼馴染み阿隆との倦怠に耐えていた阿貞が、のち阿隆が「東京の恋人」と帰国前、東京で密会していたと露顕、腹いせのように妹の若い男ともだち(年齢差がおおきい)と火遊びをし、それが作品の最終的な悲劇を招く導火線となるが、この束の間の若い恋人が仲間とたむろするのが、ちかくに富士フイルムのおおきな電飾看板のある、繁華街のなかの廃ビルだった(それは不良仲間たちの秘密のアジトとして機能していた)。むろん取り壊しが予定されているのだろう、建物のなかにはなにもなく、打ちっぱなしのコンクリート壁面が寒々と露呈されている。阿貞とのアメリカ行を一旦は決意し、その資金捻出のため阿隆が売り払おうとする実家もすでに家財が整理された空虚状態だった。
あるいは、当初、不動産ディベロッパー会社のもとで経営者の有能な「助手」として働いていた阿貞は、施工ミスの係争事の弱り目につけこまれ所属会社の買収をくらい、その役員でも秘書でもない役職を買収先から難詰され、一旦は意地で退社するが、作品ラスト、旧知で年長の女性経営者から、コンピュータを分野とした新会社の経営補佐の話をやっともちこまれる。このときもその相談をもちだされる場所が、借り手を待つ空き家状態の社屋空間だった。この空間から異様さによって伝説となったラストカットが招来される。いつしか建物外に出たカメラが、外壁を構成しているとおぼしい、山並み状につなげられた反射性のつよい強化窓、その連続表面を凝視する。窓の鏡面は、角度がつけられているのかなんと地上を映す。高度成長下の「交通増殖」をしるす台北の道路があり、そこにクルマが行きかうのだが、数の多さのみならず、鏡面の不連続が原因となって動く車影も不吉に寸断される光景の惨状が、台北の疎外的風景論もをしるすようにうかがわれるのだ。
そう、「エンプティ」増殖の地になっているのが、「ただの増殖」だろう。クルマの所有台数が殖え、しかも信号機設置が未発達な台北ではうんざりするほどの交通渋滞が日常化し、住民はうごいているクルマを縫いながら道路を渡るのが一種の景物としてずっと語られているが、阿隆、阿貞ともに、そうした道路横断のすがたを作品に刻印される。阿貞は影ぼかしなどのサングラスを作中着用することが多く、キャリア女性特有の神経質な自己防衛の所産と想像されるが、彼女の部屋にも眼鏡=サングラスのコレクションが異変の印象をあたえるほど増殖している(眼鏡についてはギャグも織り込まれている――買収先の面々五、六人が不動産ディベロッパー会社にはじめて乗り込んできたとき、社長室の経営者と阿貞が「そのうちの中心文物はだれか」と確認しあう――「眼鏡をかけている男だ」と経営者はいうが、サングラスをふくめ全員が眼鏡を着用しているようすが念押しされる)。阿貞の父親は愚痴の多い肥り肉の老年だが、権威のおしつけとともに家業の経営才覚のなさを疎んじられている。しかも筋のわるい金融会社からの借金が、もう立て直し不能なほどに「増殖」している。
印象的なやりとりがある。窓がロングに高くならぶ建物内での引き構図のなか、窓際階上の渡り廊下部分で、阿貞と不動産ディベロッパー会社の経営者が話し合うくだり。ヤン映画らしい逆光の照明設計が異様だ。やがてふたりは窓外を見下ろし、ふたりの主観である地上の台北光景が俯瞰される。建物の外観がこまかい矩形重畳をしるすが、かつてはモダンビルとして建てられ、いまはふるびてしまった特性のない輪郭がつづいているだけだ。経営者がおよそこんなことをいう。あのなかには自分の建てたビルもあるが、みな似たり寄ったりで、いまではどれが自分の設計か見分けがつかない。増殖は台北では個性差の剥奪、殺伐たる平準化の所産として機能するしかないのだ。風景の選択にそんな恐怖感覚を容れるのがヤンの感性だが、むろんこの形式はヤンの次作『恐怖分子』でさらなる彫琢と沸騰と非親密化を迎えることとなる。
上述のほかにも、『台北ストーリー』において「場所」は多い。義兄の経営する食品商社の運営をロスで手伝っているとされながら、台北にもどると阿隆は少年野球指導のかたわら古い零細商店の櫛比する迪化街で布地商を友人と営んでいる。商売は栄えておらず布地を棚にならべる商店空間じたいエンプティな感触がある。阿隆の住むマンションの一室はあまり定着的でない成り行きでいつも捉えられる(不在時に電話が鳴り、阿隆のメッセージを入れた留守番機能の作動するようすこそが反復される)。くわえて、極貧と混乱にあえぐ阿隆のリトルリーグ時代の盟友・アキン(阿欽=呉念真・扮)が子供たちと住まう長屋の陋屋。育児放棄してやがては出奔することになるその妻が入り浸る雀荘。賭け事といえば阿隆が所有する自慢のクルマまで失うことになるポーカーの賭場。阿貞とディベロッパー会社の経営者が食事する庶民向けの料理店と、その経営者の自宅(彼と妻の仲は冷えていて、阿貞との親密な間柄も関係しているとおもわれるが説明は明示的ではない――しかも「子がかすがいとなった」のだろうか、のち妻との仲を彼は修復させる)とでは「豚レバー麺」の重複ギャグが仕込まれる。
もちろん作品でもっとも風情があるのは、旧知の間柄として阿隆もが出入りする阿貞の実家だ。日本式建築が取り入れられた重厚で伝統的なつくりだが、阿隆饗応の場面があっても、戸主の経営は逼迫し、長年押さえつけてきた老妻も蚊帳の外、ましてや阿貞につづきその妹までが姉の新居に移ったのだから、家屋内は空虚感を湛えている。土間から奥座敷を見渡す構図に夜の家闇の落ちているのがとりわけ素晴らしい。恐らくその旧式の風情にこそ阿隆が惹かれているはずだ。だから彼は血縁者ではないのに長年の交情から、阿貞の諌止もかいくぐって借金にあえぐその父親に義侠にとんだ資金援助をするのだろう。阿欽にたいしてもそうだが、彼は「敗北」の決定された者にたいしてやさしい義捐を淡々とくりかえす。それは「侠」しか自らの存在意義がないとひそかに焦燥しているためではないか。
その他の場所――阿貞によばれて阿隆が赴いたダーツバー。阿隆の紹介の段になり、「生地商」と説明したのに、何度も「紡績業(経営)」と取り違えてみせる阿貞の男ともだちに驕慢な悪意をかんじた阿隆は、五、六人でなされている会食の席を離れ、店の端にあるスペースでダーツに興じている。そこへ厭味な男の「からかい」がさらに入る。そろそろ会食の席を辞去したいという阿隆に、男はダーツ勝負をして勝ち点を時間にしよう、つまりあなたが勝ったら望み通りの辞去は構わないが、自分が勝ったら勝ち点に比例して店にのこるようそそのかすのだ。時間が賭博に付された恰好。展開から男がダーツの名手と判明する。投擲された矢がすべて的の中心に刺さるのにたいし、相手のつよさにさらに平常心を失った阿隆は、的の中心を次々と外すようになり、負けが異様に「増殖」してしまう。このとき男が揶揄する。リトルリーグのかつての名物エースが、こんな俺に負けるなんてと。阿隆に刻まれた能力喪失、不能。阿隆が隠しつつも実はその中心となる略歴を知悉しての男の振舞だったのだ。阿隆は怒気を発し、掴み合い、殴り合いの喧嘩になり、会食は陰惨さのうちに終了したことがやがて間接的に判明する。阿隆の頬に痣がのこる。
先取りしていえば阿隆は、『勝手にしやがれ』のベルモンドと比肩するような「犬死」を路上で迎える結末となるのだが、少年時代の阿隆の、リトルリーグでの活躍ぶりはその犬死の場所に、TV受像機などが不法投棄されているのをきっかけに、画面部分が往年の試合経緯を「ふと漏らす」作品唯一の「幻想シーン」として召喚される。一九六九年、台湾の少年野球チームは世界リーグで優勝する快挙をなしとげたのだった。これは史実で、これが大陸中国との対比から世界内で孤立に向かいだした台湾に、成長をもたらす象徴的原動力となった。劇中では幼くしてその英雄となったのがエースだった阿隆だとわかる。
彼はその後の人生がうまく運営されていない。それは金融業者にも賭博者にも悪い因縁がのこっている点にあきらかだし(誠実な顔だちの阿隆は作品の限定局面でときおり不良時代の片鱗をみせる)、米国と台湾(と東京と)で宙吊りとなり、曖昧に少年野球チームを指導しているのにも如実だ。呉念真演じるかつてのチームメイトの阿欽はさらなるその陰画だろう。小学校高学年時に体格が良く野球選手として将来を嘱望された彼は、その時点で身長の伸びがとまり、また投手として変化球を駆使をしたため腕を故障して撤退を余儀なくされる。刑務所暮らしも経験、前科もちとなった彼は現在、就職がならない。賭博依存症の妻とでなした三人の子供が重荷となり、妻の家出に泣くしかないのだ。瞬時の栄光が永劫の挫折の引き金となる熾烈な運命法則が支配している。
渡米してコンピュータ・プログラムを学んでも家族の反対を押し切って映画の道に踏み込んだ実際のエドワード・ヤンは、アメリカン・アイビーの服装をこのんだが、自己形成期には日本のマンガや映画にもふかく親炙した。ヤンはサブカルチャーや哲学をつうじ世界的感性を養った。ところが台湾全体ベースでみると、『台北ストーリー』の撮られた八五年は、日本文化の浸透はまだ勃興期。「カラオケ」だけが日本からの表立った輸入文化だった。作品には阿隆の行きつけという設定で「銀座カラオケ」という雑駁なネーミングのカラオケ酒場が何度も映る。
むろんそれは国民全体のアイデンティティ・クライシスと連接している。象徴が阿貞の妹だ。彼女は姉と住まうマンションにのこされている阿隆のバッグから引きずりだしたVHSカセットをデッキに装填、映像をたのしんでいる。東京を迂回せず、じかに米国から台湾に帰国したとする阿隆の映像資料には少年野球指導のための大リーグ野球の録画映像しかないはずだった。ところが妹のみているものは日本のプロ野球を録画したもので、そのようすに接した姉の阿貞は阿隆の虚言を見破ることになる。ところが野球に興味のない、しかも渋谷や原宿を熱く語っていた妹は、そのCF部分、つまり物質文化のみを早送りを介して飛ばし見していたのだった。
ヤンの配剤が冴える。CF映像で印象づけられたのは、八〇年代当時放映されていた、美少女のおもかげを誇るナスターシャ・キンスキーの起用された美容品の宣伝。彼女は画面では英語で語り、そこに日本語テロップが付されるので、それが日本で録画された映像だと即座に了解されるのだ。「英」語圏で活躍する「ドイツ」系女性を「日本」人が撮った。その映像をさらに「台湾」の少女が熱狂的に観る。このばあい「増殖」は入れ子的に深化し、内破寸前にいたっているといえるだろう。
「世界差」はあるのか。「ない」というのが阿隆の所感ではないか。職を意地で辞した失地回復のため、結婚と米国への移住を夢見る阿貞にむけて阿隆はいう。それらが実現されてもなにもかわらないと(むろん「なにもかわらない」は、のちのヤン監督『クーリンチェ少年殺人事件』でもヒロイン小明が表明する)。ロスには台湾人社会ができて、米国にいても台湾人は自閉するばかりだ。TV漬けにもなっているが、その映像も世界各地で差異はなく資本からの浮薄な使嗾に富むだけ。人を疎外する平準化は世界大に及んでいる。どこもが辺境で、どこもが中心だ。生きるための苦労も、一時の慰安も、結婚を回避するしかない不毛なサスペンド状態もまた世界の普遍相ではないか(そうして作品は、アントニオーニへと接近する)。
そうかたる阿隆、対峙して阿貞のいる室内空間(阿貞のマンション)では仲の修復のため部屋灯りを消そうとする阿貞と、むりやり点けなおそうとする阿隆との、スイッチをめぐる葛藤がある。部屋は長いスパンをつうじ明滅しているのだ。それは最初にその場所に住もうかどうか検分しにきたとき、阿隆がまだ電気の通っていないながら点灯スイッチをかちゃかちゃいわせていた動作の反復だった。むろん「点滅」「停電」は、『恐怖分子』『クーリンチェ少年殺人事件』にも反復されるし、『台北ストーリー』のディスコのシーンにも停電のディテールがある。ひかりの不安はヤン映画に必須の材料だろう。
そういえば日本から一時帰国した「東京の恋人」(彼女は阿貞演じるツァイ・チン〔台湾の有名歌手だ〕とちがい美形といえる)と阿隆が夜、再会をする抒情的なシーンがあるが、その「東京の恋人」もまた日本人の夫と離婚寸前という危機を抱えていた。だれもが人を愛する才気をもてない。ちなみに「東京の恋人」の台北の実家には日本語の流暢な祖父がいる。彼女は日本人の血をクウォーターで受け継いでいるのではないか。言い忘れたが、彼女は学生時代、阿貞の親友だった。だから阿貞はその「東京の恋人」と阿隆の再会をゆるさないのだ。阿貞は少女時代、家庭内で孤独だった。彼女は野球の練習帰りの阿隆をひそかに見るのをこのんだ。野球道具と空の弁当箱を抱えた彼の鳴らす物音に和んだとふりかえるが、それはその親友もおなじだっただろう。
「東京の恋人」にたいする阿貞のルックの劣位。これはエドワード・ヤンが意図的におこなった配剤だろう。阿貞とラストシーンをともにする女経営者も、阿貞の妹も、あるいは母親も美観的には阿貞の上位に属する。「悪相」ともいえる阿貞のルックは通常の映画ヒロインからは逸脱していると感じられるが、それがないと台湾映画のルックが保たれないとおそらくヤンがかんがえたはずだ。つまり無表情を基底に、感情が奥底からゆらめいてくる深浅の不気味さが、ポストモダン建築が並びはじめた当時の台北光景と相即するのだ。むろん、サングラスのコレクションをもち、キャリア女性として気概を崩さず、同時に(性描写はないが)妹の男ともだちを熱くさせる火遊びをおこなう阿貞、その行動の端緒となっているのも容貌コンプレックスではないか。妹の男ともだちのバイク後部にまたがり、海へとデートするとき着用される最も濃いサングラスによって、阿貞のハードボイルド感が極まる。もちろんそれは「ゆれ」のなかにある。
いっぽう相手役・阿隆役のホウ・シャオシェンはどうだろうか。映画神話のなかの聡明な自然児、義人という印象のつよいホウは、この作品の撮影でヤンから具体的な演技指導はなかった、だから「自分自身」を画面に存在させただけだと述懐するが、それもあって、瞳の澄んだ「少年」のおもかげを湛えつづける。軽く額にながされる自然な前髪から、往年の時任三郎にすこし似ているともおもう。しかも同時にたたずまいは気弱で、意思表示がなく、ときに沈鬱な自己抑制の曇りまでかんじさせる。
彼が作中でしめす怒気はいくつかある。前述したダーツバーでの厭味な男にたいして。無力な阿貞の自宅に押しかけ残酷に借金返済を迫る非合法金融業の男たちにたいして。麻雀にうつつをぬかす阿欽の妻にたいして。「東京の恋人」との密会発覚で悋気を沸騰させ、阿隆のもちものをドア外の階段へと放擲した阿貞にたいして。阿貞のストーカーに身を堕としバイクで乗り付けマンションの玄関口で帰宅を待ち構える妹の男ともだちにたいして。いずれも怒気の沸騰して構わない局面なのだが、世界との均衡意識のゆえ阿隆の表情は爆発一歩手前で聡明に抑制されている。だから怒気は対象ではなく彼の内面に向かい、彼自身を傷つける。観客は怒りではなく傷を視る。ホウ・シャオシェンの「存在」なしにはありえなかったことだ。
前述のようにホウは、ヤンの演技指導がなかったから、自分自身をただ画面に存在させただけだといったが、気をつけなければならないのは、都会っ子、米国帰り、結婚に慎重、台北の歴史的深部に愛着する義人、といった阿隆にあたえられた属性は、じつはヤン自身からの由来だという点だ。この作品の阿隆=ホウ・シャオシェンのうえにはヤン自身が投影され、ふたつは混淆をえがいている。この混淆の感覚が、傷の感覚と似通うのだ――ほんとうのふたりは個性差がつよく混ざりあわないのだから。阿隆の造型が澄んで哀しいゆえんだろう。本当の名演。だからその後の人生でのふたりの齟齬をおもい、かなしくなる。
物語の説明を間接的にし、作中のいろいろな「屋内」をこうしてふりかえってきたが、じつはこの作品の最大の空間は「路上」だった。最後にこの点を説明しよう。「路上」とはなにか。それは徒に何事かが擦過するだけのむなしい空間だ。加算があるとすれば、それは事故としてしかおこらない。ヤンの映画では運命の直進性としての路上の奥行きが遮断され、選択の可能性としての四つ角の葛藤が銘記されない。そのぶんだけ路上は生き物の動脈となって、室内を外部から縫い込む恐ろしさにすりかわる。ただしそのばあい必要とされるのが多く「夜」なのだった。
阿隆との仲が疎遠となり、阿貞が廃ビルの悪ガキたちと付き合いをふかくしていった段。なにかの間違いのような成り行きだが、その間違いは荘厳される。後部席の阿貞をふくめた彼らバイク集団が夜の台北中心部の路上をおもうさま疾駆する幻惑的な光景によって。「複数」で組織されたバイクの走りは、台湾総督府をはじめとしたいかめしい中心部の建造物を、その速度によってこすりあげる。摩擦の痛みが画面を走る。しかもその夜は国民の祝日らしく建造物に細かい電飾灯がほどこされ、夜がだれもいないまま「夜以上」になっている。既視感がある。ローマの諸相をエッセイ形式でとりあげ、ローマの実質に肉薄しようとしながら、しかもついにローマを掴むことはできないと自覚した映画が、ローマの中心部にバイクの暴走集団を走らせ、それを無為に脈動させる一連をラスト映像とした『フェリーニのローマ』がそれだ。対象把捉の不可能は、対象のなかを走る暴動により転位される。『台北ストーリー』『フェリーニのローマ』、ふたつの呼吸はおなじだ。
阿隆が阿貞の父親の借金を肩代わりし、ついに阿貞との米国移住資金をとりくずしてしまったのち、阿隆はその父親を呑みに誘う。自分のだらしなさを恥じるその父親は当初固辞するが、義侠心に富む阿隆は、恥かしさにこそ酒がそそがれるべきだという考えなのだろう、その父親を酒場に連れ出した。ふたりがしこたま酔って路上――具体的には戦前建築ともいえる豪勢で風格のある建物の玄関部分に坐りながら並んでいる。一体化したふたりに交わすべきことばはもうない。
編集された画面は次々に歴史的な建造物のファサード部分を連鎖させる。そのいずれにも少し離れた道路から、通過してくるクルマのヘッドライトのひかりが投影される。ひかりの「複数」が反復され、曲線移動し、彫りのふかい建物ファサードの質感をやわらかにかつつめたく撫であげるのだ。ひかりは届いている。ただしそれは一時の感覚にとってそうおもわれるだけで、ひかりは建物のもつなにものをも変えることができない。ところが無為には無為なりの運動があって、それに魅了されることは虚無に親しむ心性をつくりあげる。美と虚無の繊毛を介在させたような接触、幾筋ものひかりによる建物の深部への絶望的な愛撫、これまた『台北ストーリー』では忘れることのできない映像のながれだ。ひかりが画面を撫でることを、さらに視線じたいに変貌した観客が撫でる。映像にはそんな再帰性しかない。
そうして、阿隆が「路上で」犬死するむごたらしいシーン、じつは散文性をもたせるため周到に上記のようなうつくしさが除去されたシーンが到来する。ただし上記ふたつのくだりにあった「分解」については、小道具「タクシー」がべつに役割をうけもっている。ヤンの映像的洞察が素晴らしい。どういう経路か具体的にえがかれないが、阿貞は火遊びでつきあった妹のともだちの少年を厭いだした。タクシー帰宅しようとすると、バイクをマンション玄関前に付けて、少年が阿貞の帰宅を「張って」いる。タクシー内の阿貞はクルマのさらなる発進を運転手に依頼、少年をやりすごす。行き先をぐるぐる探す昼間のタクシー、そのフロントガラス越しの光景が一旦不安に迷宮化する。迷宮化が都市を増殖させるのだ(ベンヤミンはその機能を最大に負うのが路上客引きをする娼婦だとつづった)。やがて彼女は帰宅を諦め、阿隆行き着けのカラオケ屋に入り、問題が起こったからそこに自分を迎えにきてほしいと阿隆に電話をかけるが不在、メッセージだけをのこす(阿隆は前述のように阿貞の父親と吞んでいた)。
やがて阿隆と阿貞がタクシーに同乗し、阿貞のマンションにもどると、玄関先に不穏に待ち構える者はいない気色だった。部屋まで送ってほしいという阿貞と、部屋に入れられた阿隆のあいだにさきほどしるしたようなスイッチ点灯をめぐっての悶着があり、阿隆は結婚にもついに同意しない。相手を傷つけ、阿隆が辞去する。タクシーが停まっている。乗り込もうとして、ふと問題の少年がバイクを乗り付けてその玄関前に待機しているのに気づく。阿隆はタクシー運転手を待たせ、少年に近づき意見をいう。阿貞はもうお前には会わない、諦めろと。
タクシー車内。路上は都市部を離れ、寂寥を増している。リアウィンドウに捉えられるバイクのフロントライト、ふたつのひかるめだま。運転手が阿隆に注意喚起する、さきほどのバイクが執拗に尾行していると。話をつけるから一旦クルマをとめ待機してくれと依頼するが、運転手は、最近は物騒な事件が多く、面倒は御免とその場での阿隆の下車をうながす。料金を払い阿隆は下車する。タクシーは去る。
阿隆は少年に近づき、バイクから引きずり下ろす。バイクは倒れる。少年を殴る。抵抗する気配がなくなり、阿隆は背を向けて歩きだし、くるだろうタクシーを拾おうとする。そのとき身を起こし近づいてきた少年に不意に抱きつかれる恰好となる。怪訝な身体表情。少年はバイクで去ってゆく。阿隆は存在の本質的な不如意により、当初、痛みをかんじることができない。脇腹に異変をかんじそこを押さえ、あたらめてみるとてのひらが血まみれになっている。痛みより光景が先行しながら、先行した光景が痛みを事後確認させる「遅延の法則」。あらたなタクシーが一台近づいてくるがあげられた阿隆のてのひらが血まみれなことからそれは通りすぎる。こんどは現実的な「擦過」。数歩すすんでとりあえず路肩に腰をおろした阿隆は、そこに不法投棄されたTV受像機の画面部分から前述の「幻」をみて、からだを横たえてしまう。
彼の今際はしるされない。時間経過のあった翌朝、そのからだがさらなるタクシー(だったか)の通報により救急車へと搬入されるのを冷徹に記録するだけだ。運転手は通報の役目を果たし一服している。むろん映像の呼吸だけでなく、横恋慕するちんぴら少年からのとばっちりで犬死してしまうその経緯も冷徹なのだが。もんだいは、その死の経緯すべてに、運命の運搬人としてのタクシーが介在しながら、タクシーそれぞれが阿隆の孤立無援をふかめる点ではないだろうか。阿隆をめぐる計三台のタクシーのうち最初の二台が阿隆に「味方」すれば彼は死なずに済み、三台目も発見者にならなかったかもしれない。運命は近づき、その近づきにより対象を放棄するのだ。だから悲劇が醸成された。
――八月二十五日、札幌シアターキノのレイトショー(最終日)にて鑑賞。
ポスト戦後詩ノート第7号
杉中昌樹さん編集「ポスト戦後詩ノート第7号」阿部嘉昭特集を、昨日、親しい詩友と先達に郵送した。現物が一部しかなく、コピーで申し訳なかったけど。貞久秀紀さんの冒頭論考をはじめ男性陣がぼくの詩篇詩論を契機に鮮やかな思弁を展開している。モランディの静物画と自分の詩の共通性をFBにちらりと書いたことがあり、貞久さんの記述細部との符合にびっくりした。いっぽう女性陣はかわいくかろやかな論述ながら、ぼくにたいする辛辣なスケッチをもふくんでいて、手ごわい。ぼくを、あたらしい詩をかんがえる跳躍台にしてくれた男性陣と、ぼくの固有性に愛着してくれた女性陣。さみしさがすくわれた。詩作と詩論提示が同調しすぎているか警戒されていると危惧していたためだ。ともあれすべてぼくの詩業やふるまいが対象となっているので、照れくさくて、自分ではなかなか感想が書けない。だれか書いてください。
目次を以下に転記しておきます。
手/阿部嘉昭
「石のくずれ」鑑賞/貞久秀紀
「詩学の開放へ/川島洋
長い詩史や映画史に立って発せられる阿部嘉昭の詩論と詩/藤田晴央
空から眼に与えれるもの/斎藤恵子
阿部さんのこと 『石のくずれ』について/金井裕美子
減喩詩の可能性について/竹内敏喜
「日録」と生成のばとしてのFacebook、そして換喩/大木潤子
阿部嘉昭さんをめぐる断章/船越素子
阿部嘉昭詩集『石のくずれ』は何を達成しようとしているのか/秋山基夫
「阿部嘉昭」のむこう/坂多瑩子
阿部嘉昭、物を存在させること/杉中昌樹
あれごりー
【あれごりー】
おちもせず巨岩ひとつが
ピレネーのそらをうかぶままだ
ためにからだがやせていると
ひとらがそろってかたる
それはみあげられることなく
ふりかえったときどきに
くろくそらをおおっている
ぜんぽうではなくいつも
こうほうにあるとするのは
まわしうる身に矛盾だが
さきだってうみをみとおすと
そんなおぼえがよくおこり
あるといわれる巨岩も
この世でないのかもしれない
つかれたかおでわらうと
ななつのあなをうがたれて
しんでいった渾沌こそが
あいすべき巨岩とかんじる
それはそのものではなく
岩質をはばむあたりの紺青
わけへだてのすみきった
周囲のもんだいなのだ
あれごりーをつかう以外は
ゆううつもえがけない
いぬしらずおおかみしらずの
絵師しかかつていなかった
そのものをかこむほそい輪が
みなのしるしとなったが
うかぶ巨岩のどこにも
輪をよびこむすきがない
どころかかたちとよびうる
れんぞくすらないまま
そらにありと目されていて
たしかにおおきいのに
星さながらとおくふるびる
ふりかえるときどきの
はんどうなのかもしれぬ
みずからのうちらにあると
ひとらがそろってかたる
ふるくさいみなのぞうもつ
いろさえかたれないまま
峻厳のほころぶさまを
そらのほろびにまで格上げて
その位置を巨岩とよぶなら
あるものもありながら
ないをつづけるしかない
こぼれる
【こぼれる】
かならずうるんでいる
けしきがあるとするなら
それはおくのほうで
みずのあかりをうけて
ひとのさったあとだろうか
二〇一七年なつのおわり
けしきにほそさがあるのは
そこをうすめでみやる
ためらいがかかわっていて
ゆらぐ線のかずでこそ
そこ以外からのうつりも
はかってゆくしだいなのだ
ああひとのいないことは
きえたことにずいぶんかよう
まなざしをなげうてば
みえているとみているとを
わけいるてだてばかりだ
みているくるしいおもいは
はるかをおもくこがして
まなこのあやまりまでいうから
みえているにこのかおを
あわせるひつようがあった
さんだるのすきまから
しろいあなうらがきらめくと
わたしはあるいているのか
そんなうたがいもわきおこる
なにびとかのまばたきのなかに
身をおいているありかから
なみだのこぼれるさまがみえ
みんなわたしじしんだと
こぼれるがくつがえってゆく
わたしでかかれたものは
きみをかならず代入しうるし
それがきっとやわらかい詩法だ
しろいあなうらがきらめくと
きみはあるいているのか
そんなきぼうもわきおこる
天使ということばを詩に
つかうのをとうにわすれたが
わたしときみとを架橋する
くうかんのなかだちとしては
いきものでなくわるくない
きみの鳥がとびさって
みずのなか骨をのこしたが
いきものでないしわるくない
波紋はきえるいまのため
あやうくおのれをこぼれるが
おおくみなもにはうすいだけだ
彎曲
【彎曲】
わかいころにあった
まじわるという感覚が
あわくほぐれてくる
かたるにしても美酒が
まじわりをつないで
からだがとけかかるだけ
ねんごろはわすれていった
おのれにこそわだかまり
まむかうゆめなどしらない
すくないものを想定し
それごしにはるかを
ながめる気にもなって
むしろせかいをあみだす
視点はふえているが
さきざきで花にであうと
花の眼でみつめられ
さわになめられることの
うつろもかんじられる
つづく花蕎麦の白を
ここからさきへ追うと
はじめられておわりまで
カーヴをえがく詩を
しるしたいとかんがえる
捷径しかたどらない
もののまなざしがいやで
こまかくひろがる面は
なですてるにしかないから
想像がおこるおりには
カーヴがかたちとなるのだ
おんなをこのむのと似る
ながれをまがるときの
体側めくつづきへと
なつのいろがあたたかく
あつまってくるようで
それらと風とをわけるのが
大曲りするはなやかな
おわり紀行といえた
のぼりみちと海岸線でだけ
たどるさきがカーヴする
ナヴィの機械とかたりあう
運転席と助手席の姉妹
そのうしろにすわり
じぶんのねむけをみている
ものみはものいみにもなって
すぎてゆく、るべしべ
おとふけの名がきれいだ
後部の者はカーヴにゆられ
しずかにしんだようにしずみ
なまえの寸刻ではなく
そのまえうしろにはせる
きのうもそうだった
きりたっぷ、あっけし
みずとむすばれたきしの
てごわいカーヴぜんたいを
みすぎるまでにみていた