ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

よさめ

 
 
【よさめ】
 
 
あめのやんだのに気づかぬふりで
夜道でこうもりをさしつづけた
もとより傘をかざすひとのすがたが
奇体かつはかないのがせつなく
よるには足のはこびがうかび
かおのきえるのさえおもいだした
ささげかかげるもののないこの世に
わかれのあいずをときはなとうと
かるくよるをかかげているのだ
みみのおもいで、こめかみのひろがり
みずからのみをまもりぬきながら
うごく家にすまうやどかりのように
まえへこころをやることもなく
傘そのものがあゆみゆくふぜいで
あやめのあったくろいあたりをすぎ
木橋をわたって、分割されたのち
なにかのにおいを肺腑へみちびくと
くろいほのおというべき身がゆれ
どこをたどろうとありえた草はらに
ことさらあゆみの彎曲をしるした
さんぶんでない日本の詩ならば
ひやくする俳句のかんけつをゆめみ
なおもうたでなさけののびる不如意を
かきものがあゆまねばならないが
傘でかおをかくしくらやみをゆくと
日本の詩がいよいよほそくなって
きれいなおんなになりかわる気がする
ましてや傘をさしたままあいしあう
そのためのだれかれをよぶように
かかげるこうもりのさわぐこえがある
さす傘はひとつを宰領するさまをしるし
ひとつだけしかなじまないともしめす
それでもいきているならからだは
ぬれているとかわいているをわかたず
ここからかしこへとのびゆくだろう
匿名でしかありえない詩をおもいつつ
こうもりへ夜のすべてもおりていて
くらやみがそれぞれのはなやかさになり
いつ傘をとじるのかわからないことも
かかげるからだのいさおしとかわる
よるという、どうしようもないまひる
どうちゃくをくちにすればまたもあめで
ふるあめはひとつをふくすうにできた
 
 

スポンサーサイト

2017年09月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ヨン・サンホ、新感染

 
 
【ヨン・サンホ監督『新感染 ファイナル・エクスプレス』】
 
いっさいが超弩級だ。意味不明なほど盛りだくさんだ。韓国アニメ界のすばらしい才能ヨン・サンホがはじめて実写映画を手がけた『新感染 ファイナル・エクスプレス』は、「ゾンビ」を題材としたノンストップ・サバイバル・アクション・ホラーで、ゾンビ映画に必要不可欠な閉所サスペンスに、驀進するKTX(ソウル―プサン間を結ぶなど韓国の新幹線にあたる――つまり邦画タイトルは音のかけあわせ)の「猛スピード」をみごとに接続している。手に汗をにぎるという形容がなまぬるいほど、一挙に進展へ飲み込まれてしまう。観客じしんが破局的なKTXに乗るのだ。
 
叙述の中心となるファンドマネージャーのソグ(経済エリートだが、最初は自己中心的な性格と規定される)と、その学童期の娘スアンのすれちがい、娘側からの渇望を冒頭かんたんに説明したあと(学芸会での「アロハ・オエ」歌唱映像が作品ラストの伏線となる)、彼らがプサン行のKTXに乗り込むや、エンディングまでたわみのない「一気呵成」がつづく。物語構成的にはあいだに「破」すらない前代未聞の「序-急」といえるだろう。落涙をもよおされるくだりも多々あり、つまりこの映画では観客の感情が原初的に覚醒する。
 
起承転結よりも序破急のほうが、物語構成的にはリアルだ。理性ではなく感覚を直撃するためだ。発端は、病身らしい女が、KTXの発車時刻ぎりぎりにのりこんだこと。ドア付近に臥してあえいでいた彼女は不審がられるが、いきなり上体を起こし、救助者の首を噛む。すると、噛まれた者も「怪物」へと一挙に反転する(次第に了解されてゆくが、首を噛まれてのゾンビ「感染」は限界奔馬的、その他の部位を噛まれての「感染」は遅滞的なのだった)。白濁する瞳、くろく枝状にうきあがる血管、表情の怒気、人間的な抑制を失い、至近者を齧り、噛まれた者が即座にゾンビ化し、倍々ゲームで続々「ゾンビ」が増殖してゆく。この速さが、KTX運行の速さと相即している。
 
ひとつのフレームに空間恐怖的にゾンビと化した異形者があふれみちるだけではない。映画では「充満」は形象のみならず「うごき」によってもかたどられ、それが異常感知をみちびくことになる。蛆の繁殖を目にしたときの生理的嫌悪。あきらかにゾンビ化した乗客たちのうごきには周到な「振付」もなされている。バネをつかった筋肉の躍動は、四肢や首、背中のひねり、屈曲により舞踏的な撥ねあがりをみせながら、同時に各瞬間がぴりっとした静止を介して、うごきが分節される。しかも身体展開がコマ落としをおもわせるほど速いのだ。空間密度がたかまり、たがいのからだがはじきかえされ、「ひとつ」がゆかを転げまわるときにはブレイクダンス的な下方穿孔すらみせる(マイケル・ジャクソン=ジョン・ランディスの『スリラー』を換骨奪胎している)。画面認知の転覆。奥行きは瞬時に現れ、瞬時に異化され、瞬時に塞がれる。
 
KTX内の車輛が主舞台。ゾンビがゾンビを増殖させようとする力動にたいし、正常な乗客(だんだん減ってくる)がドアを塞いで身を守ろうとする攻防がとりあえず描写の主体となる。縦構図が駆使され、たとえばその奥行きでドアのガラス部分に、白濁した瞳で野卑な痙攣をくりかえすゾンビたちがひしめき、うごめき、ガラスを叩き、頭突きをくりかえしている。ガラスが血で汚れる。縦構図の奥行きはみえない「機械仕掛けの神」の鎮座する場所ではなく、希望を感知できない、ひたすらな混乱の現前なのだ。車輛の連結はもともとつながった「腸詰」をおもわせるが、肉を切断したとき切断面が内部的にこまかくうごいていれば、時間は外在と内在にも二重化される。静止の不能。縦構図サスペンスとしてこれほど出色な提示をおこなう映画は、ほかにあまり記憶がない。
 
人物が列車の車輛を渡りあるくすがたを通路にカメラを構えた縦構図で美的にとらえたといえば、吉田喜重監督『女のみづうみ』のクライマックスシーンをおもうだろう(その直前の先駆となった今村昌平監督『赤い殺意』も)。軍隊がゾンビの群を制圧したとの誤報を受け、途中のテジョン(大田)駅で主人公たちが下車、ところが兵士たちがすでにゾンビ化しているのを目の当たりにし、もとのKTXへとUターン逆走する緊迫したくだりでは、驀進を開始した車輛、その扉に主要人物たち――子役のスアン、車中で知り合いとなった臨月間近の妊婦ソンギョンが、別の扉にはファンドマネージャーのソグ、ソンギョンの夫にして格闘技経験者=けれども朴訥なサンファ、純朴な高校野球の少年ヨンググが、別々に飛び込むことになるが、列車の驀進性と「身体」(女たちにはそれぞれハンデすらある)がからむ点では、ロバート・アルドリッチ監督『北国の帝王』をも想起させる。ゾンビたちの攻勢から逃れるため最終的に主人公たちはKTXから地方駅の車庫にあったディーゼルの発進部(という形容でいいのか)に乗り継ぐことになるが、この乗り継ぎは列車映画ではないがクリント・イーストウッド監督の『ガントレット』をも継承しているだろう。
 
さほどゾンビ映画に通暁しているわけではないが、ゾンビものという恐怖映画の1ジャンルは、巨匠ジョージ・A ロメロが若くして手がけた『ナイト・オブ・ザ・リビングデッド』を超えられないだろうとおもっていた。ゾンビを媒介に人種差別が複層で浮かびあがり、同時に低予算をものともしない「アイデア」により、ゾンビと対峙する「境界」の緊張が高まる。「夜」の利用が大きい。閉所サスペンスとしてもすこぶる上出来だが、手柄はその時代性にあった。腕をだらりと下げ、ちいさな痙攣を伴ってゆっくりと歩行してくるゾンビたちの様相には、たぶんモンキーダンスのスローモーション化がもくろまれている。それが眼を剥き、頬を齧られ、血糊をほどこされた彼らのサイケデリックな顔面メイクと相俟って、ゾンビにニューエイジ世代の不気味な跳梁をおもわせたのだ。
 
『ナイト・オブ―』は人間の「分断」を複層のまま剔抉することで成立していたが、その批判力はアンダーグラウンドからの角度によってなされたといえる(『ナイト・オブ―』のアングラ映画としての強度を印象づけられたのは、当初『生ける屍の夜』のタイトルで、サトウオーガニゼーション〔黙壺子フィルムアーカイブ〕にて上映された機会が鑑賞初体験だったからかもしれない)。これがその後のロメロのゾンビ映画では稀薄になった。いずれにせよ、ゾンビはゴジラやエイリアンなどとおなじく、なんらかの暗喩ととるのが批評の道筋だろう。ちなみにゴジラは核の脅威の暗喩、エイリアンは異物性すべての脅威の暗喩だった。
 
韓国内での脅威といえば「北」とかんがえるのが相場だろう。ところが賢明な映像作者たちはその短絡をきらう。ポン・ジュノの『グエムル』ではソウルを貫通する漢江にひそんだ複合的な巨大怪魚は、じつはそれじたいの意味を脱色されていた。アメリカの技術ミスが怪物を生んだという発端はあったものの、グエムルのうごきの狡猾な速さと、多様な生物体系を合体されたうごきの意想外な連接がそれじたいの恐怖だったにすぎない。形象はあるが実体が「無」でしかないもの。いわばそのような「無」をまえにして、ソン・ガンホ、ペ・ドゥナなどの「崇高なバカ」ぶりが純然と反照された。くわえて「不屈であること」が金科玉条となった。韓国映画の符牒となる粘つくほどの「ガッツ」――この「不屈であること」は、『新感染』でも中心的に価値化される。ところがゾンビたちもまた、世界終末を背負うだけで、政治的背後をすこしも負わない形象であるにすぎない。それは映画の進展をじかに追って判明することなのだが、実際はここには段階化があった。
 
当初、KTXに乗った客たちは、列車の密閉空間のなかで、国内から遮断されている。ところが国内では燎原の火のように異常事態がひろがりつつあった。各所で群衆が暴動を起こしている。たぶん国民のゾンビ化が大規模、同時多発的に進展しているのだが、解読格子をもたないマスコミは、それらを「デモ」と告げるしかなかった。それがKTX内の車内放映で判明する。かつては軍独裁、現在でも政治不正にたいし韓国では大規模デモが頻発している。正義を冠されるデモは、その対抗軸となる巨悪が奇怪であれば、実体は奇怪にひとしい。ただし「うごき」だけが解読格子に合わない至純な個別性をもつ。おそらくはそんな達観が監督ヨン・サンホにもあるのではないか。ゾンビの跳梁をも「デモ」としか形容できない無能。このとき真のデモが分節される。それは個別的かつ群衆的で、しかも無能と闘う決起行為の不屈性として「孤独に」分節されるのだ。それは無からの反映であって、たとえば北の脅威がそこに含意されていない。運動のための運動――この継続の質に、おそらく半島民の感情の中心、「恨」が反映されているだけだ。
 
映画のディテールにもどろう。この「腸詰」の内部を透視した(その意味で歴史をあつかった)映画は、車輛連結の文字どおりの「数学性」により、観客を眩暈に導く。どの車輛でなにが起こっているか。生存者はどこにいるか。それは連続する空間に、数学的なマーキングをすることだ。この数学性はケータイ電話のやりとりで知られてゆく。
 
より詳しくは――車輛内部で主だった配役の「説明」をしたのち、ゾンビの増殖があり、観客はトイレのある非客席部(連結部ちかく)や特定客席部に閉じこもり、ゾンビの侵入を全力で防ぐことになる。ところが先刻しるしたようにテジョン駅での下車を諦めた乗客たち(ここでも大量のゾンビ化が結果された)のうち、主要キャストがふたたび元のKTXの再乗車にからくも成功するが、ゾンビへの反撃に手をとられた高校野球選手のヨンクグとともに、ファンドマネージャー・ソグと屈強な中年男サンファは、家族とは別の車輛扉からの駆け込みを余儀なくされる。それぞれ娘、愛妻との「分断」だ。ソグとサンファは、離れたトイレに立てこもり孤立している娘スアン、妊娠中の妻ソンギョンを救出しに行かなければならない。ところが南北朝鮮の分断にしめされているように、相互を分断する「大きな境界」(ゾンビたちの跋扈する車輛)にあるのはリアルポリティックスではなく無の妄動だった。そこを突破するときに最大のサスペンスが生ずる。しかも突破はしずかにおこなえ、というのが作品の使嗾なのだった。
 
トイレに立てこもる、客席部から自分たちの居場所を遮断する――このとき攻防の境界となるのは、「一枚」と形容できる扉だ。その映画性を充分に連打したあとで、作品は車輛という長さをもつ「腸詰」空間へと案内してゆく。ゾンビの殴打に抜群の技量を発揮する屈強な中年男サンファの風情がすばらしいのだが、それは純朴さ、自己犠牲精神のみならず、叡智にも反映される。この叡智が、自己中心的なソグにも転写された。車輛内はすでに照明系統が機能せず、トンネルに入ると真っ暗になる。そのときゾンビたちのうごきが停まるのだ。ゾンビたちはおそらく昆虫のように、対象(のうごき)を視認、その刺戟により、正常者に害をくわえる反射行動を起こしているとおぼしい。ソグはケータイで自己位置を確認、列車が長いトンネルにはいる段で、盲目化したゾンビたちに気づかれずにゾンビたちのいる車輛を潜行移動する提案をする。緊迫した移動。薄闇のしずけさ。
 
ところが物音が立ってしまい、ゾンビたちがこちらへむかってくる。このときすでにサンファのケータイと自らのケータイをつないでいたソグが、サンファのケータイを向かってくるゾンビたちの後方に投げる。サンファのケータイに電話をかける。不恰好に鳴る着信音。その音に向かいだしたゾンビたちにより矛先が躱され、彼らは第一の車輛移動に成功する。先刻、ゾンビたちは暗喩化がなされていないとしるしたが、対抗手段にはそれがなされている。対抗は移動の形式をとり、しずかさが必須で、しかもケータイによる通信が重要手段となるということだ。
 
第二の移動。トイレには娘スアン(当初は少年とまちがえてしまうすこし異質な少女=キム・スアン扮)、妊婦ソンギョン(ホン・サンス作品にも出演している美人女優=チョン・ユミ扮)のほか、これまで言及しなかったが、妹とはぐれてしまった老婆、さらにはホームレスの男もいた(すべてが弱者で構成されている)。そうして彼らは一旦合流する。ところが高校野球の選手ヨンクグは、さらに離れた車輛にいる同級生の恋人ジニとの再合流を希望している。ケータイでのやりとりからすると、その車輛に大量の正常者が籠城しているらしい。そうして第二の移動がはじまるのだが、名手ヨン・サンホ監督はおなじ手をつかわない。ただし移動=突破は静謐にという鉄則はおなじだ。トンネルの恩寵を借りることなく、彼らは座席上部左右の網棚部分を、それぞれ息をころして匍匐前進した。移動者に「弱者」をふくんでいるだけに緊張感がたかまる。
 
大量正常者のいるその車輛に辿りついたかとおもった途端、彼らは正常者たちから手ひどいしっぺ返しを受ける。ネクタイ等で固定され開閉を不可能にされた扉。それごしに感染の疑いのある者は入れない、と宣告をうけるのだ。背後から迫るゾンビたち。正常者vs正常者の、扉を開ける・開けないの攻防がある。そこには暗喩はないだろうが、「本当の敵は内部に存在する」という教訓はある。車掌の補助を受け、正常者たち全体のオルグに成功しているのが、卑劣さの印象が申し分ないバス会社の重役ヨンソクだった。演じるのがあのホン・サンス監督『豚が井戸に落ちた日』のキム・ウィソン(『豚が井戸に落ちた日』はエドワード・ヤン監督『恐怖分子』に匹敵するパズル型のノワール映画だが、いつまでたってもDVD化がならない)。
 
この直前に、画面の魅力をさらっていた屈強な男サンファによる自己犠牲的な死の選択がある。身を挺してひとり扉のまえでのゾンビとの闘いをえらんだのだ。作品を貫通する利他と友愛の原理。以後、この自己犠牲は催涙を目的とするこの作品でつづいてゆくし、合流直前だった老婆姉妹も、それぞれが諦念により別のかたちで「自殺」をおこなう。「肉体」の突出をエネルギッシュにえがく本作は、感情によってなされる死への傾斜容易性ともセットだった(自殺多発国の韓国をかんがえてもいい)。みんな死ぬ。すなわちゾンビになる。車輛最後尾に正常者たちがソグたちを放逐したのち、不正と偏見のまかりとおったその車輛を、姉の死を見届けた老婆の妹が、ゾンビたちに解放する。(のちにわかるのだが)ごくわずかの「例外」(トイレに立てこもった)だけをのこし「正常者」たちはゾンビの餌食になり、壊滅した。合流なった高校生カップルのうち少女のジニのほうもゾンビに腕を噛まれ、ゆっくりとゾンビ化してゆく。振り払って逃げようとすればそれも可能だったのに、少年ヨングクは脱力する彼女を腕で支えている。ジニの瞳が一瞬にして白濁、彼女はヨングクに牙を剥く。そうなるのをヨングクは知っていた。つまりそれは心中の亜種だった。
 
映画というメディアには「操車場」の夢がある。最も映画的な場としてそこがえらばれるのだ(イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』にはみごとな操車場シーンがあった)。プサンに近づいてきて突然、当該KTXが前進不能となった。線路を倒壊した別の車輛が塞ぎ、一帯が廃車輛の「巣」となっている。つまり車輛の多さからしてそこは操車場に死がかぶせられているのだ。倒れている車輛により、KTXから脱出したソグたちにはわずかな隙間の脱出口しかのこされていない。斥候に出るソグ。のこった娘スアン、妊婦ソンギョン、ホームレスの男は車輛の底部を抜けようとするが、のしかかる車輛の窓内からはゾンビたちがひしめき、攻撃対象に自らを届かせようとして窓ガラスを猛烈な力で叩いている。サスペンス。ふと気づく。車輛内部を中央通路から捉える縦構図を駆使したこの映画は、車輛外部を横から撮ることを同時に欲望していた。それは何度かあったが、完全な恐怖演出として実現できる機会を待ち構えていたのだ。それがこの場面で実現された。
 
最後の脱出への導きは、先述のとおり、主要人物によって乗り継がれた進行中のディーゼル先頭部が請け合う。だれが自己犠牲で死ぬのか。終始絶望的なこの映画の最後に希望が灯るのか。それはしるさない。ただ一点、進行するディーゼルに追いすがるゾンビたちの描写の凄絶さには言及しておこう。ゾンビ一体がディーゼル後部につかまり、そのゾンビにさらに別のゾンビがつかまり、さらにゾンビが…というように数珠つなぎ状態となる。それを進行するディーゼルがひきずってゆくのだ。猛烈なスピード。彼らの下は線路と、そこに敷き詰められた石。観客の痛覚が刺戟され、進展が「肉体性」でみちる。この「肉体」の酷使が韓国映画の符牒だ。技術的な側面をかんがえざるをえない。おそらくゾンビたちがひきずられてゆく線路と石砂利は、プロジェクション・マッピングとCG合成によっている。それなのに方法が見分けられないほど抜群の臨場感が達成され、無惨さが「痛い」のだ。身体の自在性のために特殊技術が貢献するのではなく、肉体の無惨さを強調するためにそれが駆使される、この非ハリウッド的な逆説に「力」を感知するのはとうぜんだろう。
 
――九月十二日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。雨で肌寒い平日昼間の鑑賞だったので観客は多くなかったが、ほぼすべてが若い女性の友達どうしというのにびっくりした。常識でははかりきれない情報感度があるのだろう。脱帽。
 
 

2017年09月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ふぇあうぇる

 
 
【ふぇあうぇる】
 
 
であいがそのままわかれとなる
雑踏をゆきあうとはおおよそ
そんなくるしみをともなっていて
ならであいのないわかれだけ
かきものでかんがえるしかない
わかれそのものへちかづくために
腋や股間やりょうあしのはこび
みずからのからだの分岐を
けしきへととけあわせてゆき
あらかじめなにもないという途端
なにかあることもわかれに似る
ひとつの文字にあるひとつの線が
かこうとするなにかにさきがけ
なみさながらおもいをみだす
そうもくのうけみをよしとして
かたちのさまがわりでつながれた
えいぞうのあれごりーをむしろ
手にみたし眼にみたしてゆくのだ
ひとのあふれる場がその名を冠した
駅でありそこに付設されている
百貨店であるさっぽろのさみしさ
なだかいとおりはすべてすたれ
交叉点にもいかがわしさがきえて
ひとらはほそい線すらつづけきれず
みずからをふうけいの破線にする
わくらばのうつりゆきをおもわしめ
からだにあるにがいくうげきが
よぎることにまでてりはえるとき
わかれるあいてがみずからになって
ほんとうのわかれがいろでいえば
おうごんにうつろいだすだろう
ひとたびすらうまれなかったとは
どのくちのかたるどのからだなのか
けれどたしかにそこにあったとは
ひとのどんなこがねのからだなのか
こいうたがあいてをおもうかぎり
それがどれほどであいをうたっても
わかれがそこへ反性でにじみだし
すでにくちもみずからわかれている
ただひと文字とつぎの文字でさえ
なきわかれをしるすそのことが
ひとのかたりでありからだであり
あることのひからないこがねだろう
あきあかねがこの頬をさってゆき
きりきずでわかれの顔もふえる
 
 

2017年09月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

ハリーの災難

 
 
ヤボ用で研究室待機のなか読んだ松本圭二の小説が異様に面白かった。松本圭二セレクション第8巻で3篇収録。『さらばボヘミアン』も『タランチュラ』も絶品だったが、より自己現実要素から虚構へと傾斜した最後の『ハリーの災難』が、その分類不能性によって突出している。複雑な構成。なんの解決もない物語。主役も「現実的沈滞」「不穏」「過去の傷痕」というしかない。蛇を喰った祟りの青臭さがフィルムのいきもの性と連絡し、そこに大量の蝦蛄が降臨する。こうしるすと意味不明だろうが、そのような大和屋竺的なアレゴリーの衝突が作品のいのちなのだ。題名からはヒッチコックの引用をおもうかもしれないが、主人公の名が梁井(ハリイ)だという脱力的駄洒落。むろん「女難」描写は連続する。「地震小説」の傍流でもある。破格の進展のなか入れ子状態で地獄が口を開く。関東大震災のまえ女にして映画館の映写技師を目指した「お七」の物語。その情感と怪奇と犯罪性が出鱈目だ。冥府のなかから発掘された溝口健二の無声映画じゃなかろうかと錯視したほどだ。速読をうながす軽い小説文体なのだが、ラスト、松本圭二らしい「詩」的修辞が少量ながらも暴力的に混入してくる。拍手喝采となった。「すばる」2012年6月号初出。松本圭二を詩人とさだめ、これまで未読だったのが恥しい。映画性と詩が小説によって生きられている。蓮實さんの『伯爵夫人』はこれに対抗したんじゃないか。
 
 

2017年09月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

天の川銀河発電所

 
 
山田航の編んだあたらしい短歌のアンソロジー『桜前線開架宣言』は多方面に評判をとったが、そのむこうを張り佐藤文香が「俳句版」として編んだのが、『天の川銀河発電所』。俳句の現状への俯瞰をみちびく労作なのはまちがいないが、いまの短歌のあたらしさが「口語」「些末性」「あるある」「親和性」などの現象面で一望できるのにたいし、もともと圧縮・飛躍をもとにした非歌唱系の文芸=俳句では、冗長な口語は相性がわるいし、あたらしさも些末性の審級に終始するようにみえてしまう。それでなのか、『桜前線―』では短歌のあたらしい才能にかかわる遠近法が読後形成できたのにたいし、『天の川―』ではそれが麻のようにみだれる。
 
べつだん編者の責任でなく、もともとあたらしい文芸だった俳句にあたらしさをさらにかさねる矛盾が原理的に露呈してしまうのではないか。口語短歌は語彙語調文法に戦後短歌からの断絶があるが、一九六八年以降生の俳句作者たちには戦後俳句からの明瞭な離反がないようにおもえる。基本的に俳句は辞の流露ではなく詞の配剤で、そこに俳句の俳句性が自己規定されるしかないためだ。あるいはいちじるしい破壊傾向を生きる俳句作者がこのアンソロジーからはぶかれているのかもしれない。ともあれ、『天の川―』ではかつてぼくが熱狂したような永田耕衣、赤尾兜子、中村苑子、安井浩司たちのような突出がない。そういう才能から「減喩」をたちあげてほしいのに叶わなかった。それが「平準」をしるす現在時の特質なのかもしれない。もちろん佐藤文香の慧眼選択をつうじ名句だと唸ったものも数多い。備忘も兼ね、いくつかをかんたんに列記しておく。
 
《名が鳥を仏法僧にして発たす》 福田若之
 
《蛭泳ぐ自在に蛭を司り》 生駒大祐
 
《重力に色を抜かれて藤枯るる》 北大路翼
 
《耳打ちの蛇左右から「マチュピチュ」と》 黒岩徳将
 
《我も汝も秋冷のもの汝を抱く》 藤田哲史
 
《つぶりたる瞼のずれや冬芒》 藤井あかり
 
《瀑布までからだを運ぶからだかな》 五島高資
 
《いつ逢へば河いつ逢へば天の川》 田中亜美
 
《水吸うて水の上なる桜かな》 曾根隆
 
《背きあふうつつの百合と玻璃の百合》 大塚凱
 
《白日傘二青年入り天の如し》 関悦史
 
《宙に書く文字透明に神の留守》 日隈恵里
 

 
田中の一句については、星合を軸にした文中の解釈をとらない。現世での邂逅と、死後における逢いとの、離反と融合をにがく言い捨てているとおもう。関の一句は、阿部青蛙《かたつむり踏まれしのちは天の如し》を想起すると陰惨美も湧き出るだろう。
 
それにしても虫眼鏡を繙読にさんざん使用した。花眼には試練をあたえる一書だった。
 
 

2017年09月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

三島有紀子・幼な子われらに生まれ

 
 
【三島有紀子監督『幼な子われらに生まれ』】
 
開巻後ほどなくして、血縁上「分離」と「無縁の融合」とをしるす、ふくざつな家庭状況がみえてくる。郊外の瀟洒な一戸建から商社に通勤する、中年の主人公・信=浅野忠信を中心に、映画での叙述順ではなく、役柄の人生の時系列で、「事態」をまずまとめてしまおう。むろん本作では「判明順序」がすばらしいのはいうまでもないが。
 
信には大学時代のつきあいから結婚に発展した女性・友佳=寺島しのぶがいたが、離婚した。娘・沙織=鎌田らい樹(映画の現在時では小六)をさずかってはいたのだが。のちに描写されるが、沙織以前にも友佳が妊娠していたことがあり、深夜帰宅を繰り返す大学勤務の彼女はアカデミックポスト昇進に急で、夫に無断で子どもを堕胎してしまっていた。家庭や人生にたいする価値観のちがいが亀裂の理由だった。のち、浅野は二人の娘(姉・薫=南沙良=映画の現在時は小六、妹・恵理子=新井美羽=同、保育園児)をもつ奈苗=田中麗奈と再婚する。信は精一杯、血のつながらない継子たちにたいしても温順な父であろうとしている(そのため家庭中心に勤務態度をかえている)。これものちの回想シーンでわかるが、奈苗は前夫・沢田=宮藤官九郎のギャンブル、女遊び、さらにDVに耐えかね、ぼろぼろになって離婚していたのだった。いっぽう現在の友佳は、おなじ大学教員の夫と再婚、安定的な家庭を、信となした沙織も加え、いとなんでいる。
 
荒井晴彦の脚本を、撮影・大塚亮(大森立嗣監督作品のカメラマンなどを歴任)とともに映像のふくらみにかえていった監督・三島有紀子(『繕い裁つ人』という大傑作のある点はもっと重要視されていい)は、描写細部すべてに「意図」をめぐらせている。たとえば冒頭場面は、離婚調停の結果、三か月に一度、実娘との再会をゆるされる信が沙織と赴いた遊園地の、パステル調に色分けされた舗装地面。そこを人らの足が往来し、カメラの手持ち移動ののち信と沙織の足をとらえると、彼らの上体にティルトアップされる。あるいは信のマイホームは山の中腹斜面が開発された新興地にあり、彼は大規模な斜行エレベータに乗り、しかも高架歩道を経由して、清潔だが書割のような自宅に帰る。娘たちへの土産のケーキを携えて。信と地面の関係性をかんがえてみると、どこかその足が完全に現実に着地せず、夢のなかを浮遊しているようにみえるのは、三島監督がえらびぬいた配剤なのだった。
 
二家族の融合が大団円になるのかと予想しつつ(原作である重松清の同題小説は未読)、最初、「この作品に乗れない」という危惧が起こったのは、田中麗奈扮する現在の妻・奈苗の造型からだった。家庭依存、幸福依存、家族自慢を体現する自己中心的な専業主婦の彼女は、ふわふわと速いうわついた発語を家庭内でくりかえす凡庸な女にしかみえない。ところがそれも「配剤」だった。前述したように「それ以前の家庭」が回想されると、酷暑の夜、アパートを舞台にした彼女への陰惨なDVがしるされる。だから彼女は痛ましくも「人生の奪回」に臨んでいるのだとわかる。
 
家庭優先で仕事に不熱心だった信は勤め先の営業不振にさいし関連会社の配送倉庫へ「出向」を命じられる。あきらかに向かない仕事を強要する会社からのリストラ政策だ。彼はその事実を当初、妻に秘匿する。倉庫は宏大で番号別に細かく棚に「番地」がついており、おおきな荷台を転がしながら、コンピュータ接続された発信機の指示どおりに注文商品を積んでゆかなければならないが、勝手通じぬ彼は契約社員よりも作業効率がひくい。はじめて「現実」をあるく設定がこのように舞い込むと、それは無惨な疎外態をしるすのだった。これも「配剤」。ともあれ奈苗の「前提」と、信の現在時の仕事のリアルな非人間性、これらが拍車となって、作品にみるみるひき込まれていったのだった。
 
いくつかの「場所」を便宜上しるしていったが、むろん作品が描写する空間は、信と奈苗がいとなむ、ありきたりに清潔化された家庭が中心となる。ほとんど規格的区分と仕切りしか見いだせない非・映画的な空間内に、三島は境界と固有地とを積極的に見いだす。信がストレスをおさめるために煙草を吸うベランダよりもさらに重要となるのが、子供部屋と家族空間の仕切り=ドアで、さらにはその子供部屋の側面に置かれた二段ベッド、しかも姉・薫の寝床のある上部だった。具体的にしるさないが、子供部屋の入口を意味の中心にした、悲痛な名場面がのちにある。
 
信の家庭に不響をもたらしたのは、妻・奈苗が繊細さを欠く自己中心的なよろこびで、連れ子たちに自分の妊娠をうちあけたことだった。これに、思春期に入ろうとして、人生や妊娠の仕組みを理解しだしていた連れ子のうちの姉・薫が反撥してゆく。赤の他人なのに父親を演じている信を「きもちわるい」といい、さらには「実の父親に会いたい、そのもとで暮らしたい」と挑発し、ついには子ども部屋の扉を施錠可能にしてほしいと要求を増長させる。これが「よくある」家庭不和の描写にならないのはなぜか――
 
まずは同齢の娘(しかも名前は韻を踏む手前まで似通っている)――信の実娘・沙織と、奈苗の実娘・薫とに外観上の「偏差」が仕込まれている点に気づく。鼻筋が遠慮がちにとおり小鼻も華奢な沙織=鎌田らい樹は、心情発語を抒情的に増幅伝播できる典型的な「少女類型」だ。たいして、邪険さや倦怠や絶望を刻むまなざしと相俟って、ときに鼻筋のふとさに不穏な意志をひめうる薫=南沙良は、たとえばその沈黙や表情に注視を導く「映画類型」だ。どちらもすばらしいのだが(くわえてまだ邪気のない恵理子=新井美羽も)、作品は冷徹な類型学に負っている。沙織と薫の偏差は、アカデミシャンを母にもつ娘と、一介のロウアークラスの女を母にもつ娘、それら出自のちがいを残酷に反映している。
 
むろん「顔」でいえば無彩色の衣服をほとんど作中でまとう信=浅野忠信のうつくしさもおおきくかかわっている。しかもそのうつくしさは自己抑制に長けながらも神経質に人間の関係性に疲弊する者の、「二重性」と離れられないでいる。彼は作品二箇所でとうとう感情を爆発させる。一度目は前妻・友佳が無断で子どもを堕胎したと判明した回想シーンで。いまひとつは、姉のほうの継子・薫の反抗がすでに自分の修復能力、折衝能力を超えていると悟った彼が、とうとう「妊娠中の子を堕ろせ」「離婚する」「きみたちの生活費は完全に支援する」と具体性をともなって妻へ切り出すときだ(むろん観客は配送倉庫に出向され、やがては転職をしいられるだろう信の現実をかんがえるから、信の申し出が退路を断たれた不安定なものだととらえる)。この具体性が、作品の終盤のなりゆきに「どうなるのか」とサスペンス感覚をもたらす。
 
まえの父親(沢田=宮藤官九郎)とちがい、うつくしい父親をもってしまった薫はたぶん苦境に陥ったはずだ。新しい父親=他者を性的に意識しだし、それが彼女の初潮開始時期と相俟って自己の身体化に反映する。息苦しい。それは現在の継父への恋というのではなく、美醜の偏差、真摯さや人工性の偏差(実父はゾっとするような現実逃避型で無頼な暴力をほどこす「弱い」怪物だった)が配剤されるなかに自分の世界内位置があると知った、一種の哲学的な認識だっただろう。
 
なぜそこまでおもうのかというと、撮影方法が関連しているのだった。撮影はときに大胆な長回しをおこなう。たとえば信と薫の場面では(実父に会いたいという薫の申し出にたいし信が紳士的に見解を述べるなりゆきが最初だ)、カメラは薫の上体をとらえ、多く信をフレーム外の声に限定してしまう。「反応」への観察をみちびきながら、しかもそれが自然化されて「芝居」から離れてゆくのが驚異だ。それはただの「反応」というしかないのだ(たとえば二段ベッドの上にいる薫、その顔がやがて掛布に覆われて不可視状態になるように、「反応」は相手の刻々の発語からの因果関係として組織されない)。これが三島監督の組織したミザンセーヌなのだった。
 
映画史的な了解からいうと、このような俳優、とりわけ子役演出は、綿密なリハーサルを介しての一発撮りから招来される。一発撮りと限定するのは、テイクをかさねることで生じる馴化がみとめられないためだ。とうぜんジョン・カサヴェテス演出(とりわけ「家庭」を限定空間にするという意味ではたとえば『ラヴ・ストリームス』)との類縁性が意識されてゆく(しかも是枝裕和『誰も知らない』ほどの不当な強圧性は感知できない)。じっさい子役の登場するシーン(しかもそれはすべて順撮りだった)では撮影前に、リハーサルではなく「エチュード」がくりかえされたという。つまりある着眼が意図され、設定を自然化できるまで実在化の練習をくりかえすうち、演技プランのみならず科白までも変更が許容されるということだろう(作品には荒井晴彦脚本作の符牒、つまり世代意識と批評性とルサンチマンによる因果律が脱色されているが、その印象は三島監督の演出方法と相即している――人物の実在性が荒井的記号性を「食った」のだ)。
 
カサヴェテス『ラヴ・ストリームス』は、長回しを駆使、ときに本番撮影と、リハーサルの撮影とをカッティングでからませたとおもわれるが、ジーナ・ローランズとジョン・カサヴェテスは長回しで「実在性」をふくらませながらも、その実在性が奇矯さ・滑稽さと離反しない映画性にまで押しあげられてゆく。このときにパーティの開催連打、動物の跳梁といった「家屋の誤使用」、空間演出の斬新さも付帯されてゆく。カサヴェテス・メソッドは「リアル」と「アンリアル」が融解した果ての「リアル」の提示にあるのだ。『幼な子われらに生まれ』の三島有紀子監督は、演出の精度は瞭然だが、この点に到達できたのだろうか。
 
まずはストーリーラインが意想外に進展してゆく点を確認して(重松清の原作、あるいは荒井晴彦の脚本が見事だ)――「配剤」が意想外-性をさらに付帯的にまきこんでゆく点がおもいだされなければならない。信は自分の家族を、あるいはもしかすると自分の人生までも「つぎはぎ」だらけと自嘲するが、配剤の意想外はこうした人材上の「つぎはぎ」をむしろ価値化する。意想外がアンリアル、価値化がリアルだということだ。
 
継子・薫との仲が険悪となった段階で、帰宅途中の信が斜行エレベータに乗ろうとした途端、脇の階段に坐って自分を待ち構えていた実娘・沙織に出会う。観客は大学教員である彼女の育ての親がすでに余命幾許もない癌に臥していることを知らされているが、沙織はこのことにかかわる「感慨」をまとめきれず、自分の是非を実父・信に問いに来たのだった。「少女類型」らしい彼女に宛てられた場面とおもうと、ちがう。彼女は意想外をここから連打してゆく。まず実父でないから、その予定されている死に肉親喪失不安の実感がない。このとき彼女のケータイが鳴る。母親からの連絡で、その育ての父が危篤に陥ったのだ(と事後的にわかる)。
 
いきさつ上、その継父のもとに、実父の信が沙織を大至急、届けなければならない。あたりは豪雨となる。ところが駐車場に赴くと、妻・奈苗が娘のうち妹のほうの恵理子を塾にクルマで送り出そうとしている寸前だった。それで意想外の――信(運転者)、奈苗(助手席)、沙織/恵理子(後部座席、法的には義理の姉妹)という同乗者が組織される。沙織は継父を亡くす不安にはちきれそうなばかりに、眼路を大雨のふる夜の窓外におよばせている。それにたいし年齢柄「このお姉ちゃんだれ?」と無邪気に訊く恵理子。運転席から信が「恵理子のともだちだよ」と取り繕うが、やがてしつこくつづく恵理子の邪気のなさ、無辜に苛立ちをおぼえだした沙織が、自分はあなたの血のつながらない姉だ、とわずかな示唆をおこなう。混乱する恵理子。このとき当初見込まれた沙織の人格的誠実に、「意想外」が取り込まれ、緊張度がたかまる。
 
とうとう大雨のなかクルマは病院エントランスにたどりつく。沙織が実母・友佳と瀕死の継父のいる病室へと飛び出してゆく。このとき奈苗が「意想外」に出る。クルマを停めたあとどうしていいかわからない気色だった信に、あなたも病室に行くべきだと敵に塩を送るような意見をいうのだった。元妻と実娘の励起のために。信もそのことばを受けて飛び出してゆくと、またも「意想外」。廊下を先行した沙織が勢いをなくし蹌踉とあゆんでいる。その手を取り、信は病室へと導いた。やがてむすばれた手が離れ、ついに沙織は瀕死の継父の病床に打伏し、号泣をはじめる。彼女は無縁者の死を、肉親の死として了解したのだ。もともとその場にいる根拠の薄弱な信は、ロング縦構図の奥行きで、病室の扉を閉め、丁寧に辞去するすがたをとらえられる。その「消え」自体がうつくしい(病室の廊下――娘の手をとってなかへ入るという詳細は、その後、奈苗の分娩完了時に、信と薫のあいだで反復される)。
 
この作品の法則では反復は治癒の内実として組織されている。「意想外」の反復と同時に、「ふさわしくないその場から辞去するすがた」が、今度は宮藤官九郎演じる沢田に反復されるのだ。前段の説明から。実父・沢田との再会を切望主張する娘・薫の要求を継父・信は実行に移した(その前に信から沢田への折衝がふたつある――ひとつは沢田が現在、給食作業員として働く自衛隊基地の金網フェンスの前で、もうひとつは沢田がカネをふやそうとする競艇場内で――流れ板前というより崩れ板前の末路といった風情の沢田は、奈苗のなにが厭だったのかを問わず語りするが、それはたぶん信の腑へとリアルに落ちただろう)。作品の進展のなかで強度をもったのは、むろん前述した回想のDVシーンだった。赤子で泣きやまなかった恵理子、妻だった奈苗、そして沢田で構成されるその回想に危うく収まった幼年の薫は小学校低学年とおぼしい。「実父に会いたいというが、実父の背徳と暴力と情けなさの記憶」を彼女はもっているのかがサスペンスとなる。「ここではないどこかへ行きたい」という一見の希望は、「そんな場所は存在しない」という絶望にも裏打ちされているのではないか。
 
信はとある日曜、とうとう育ての娘・薫を、実父・沢田のもとに送り出す。薫ひとりだ。再会を期された場所は府中にあるデパートの屋上。ここから「意想外」が起こる。奈苗が、娘の出発からだいぶ時間が経過したが、薫と沢田の再会を確かめに行こうといいだすのだった。ここからは「意想外」の連続。府中のデパートにたどりつくと、奈苗は、デパートに入るのは信と恵理子だけでいい、自分は車中で待つ、という。信と恵理子が屋上に行くと、所在なげに沢田「だけ」がベンチに座っていて、薫が来訪を断念した事実が判明する(彼女には父のなした母親へのDVの幼年記憶がやはりのこっていたのだ)。「このおじちゃん、誰」の問いに、またしても「恵理子のともだちだよ」とおなじ答が反復される。
 
とりあえず沢田と話をするために、恵理子を幼年用のゴーカートに送り出す。沢田の気弱な述懐。幼年の薫がガチャガチャを好んだのだけをおぼえている。妹の恵理子のほうは顔もおもいだせなかったと。そこは薫不在でも沢田と恵理子という実の親子の再会をも意味していたのだ。ゴーカートは百円の料金投入で運転可能となる仕掛けだったが、百円分が切れると、恵理子は追加を催促しはじめる。咄嗟に小銭を出せない真に、沢田が百円を渡す。まるでガチャガチャをまえにした幼年の薫を、そのまま連続させるように。さらに信には、用意していた薫への土産を託す。ごわごわしたおおきな紙袋。小六ってどのくらいおとなびているかわからなかった。この土産は子どもじみていたかもしれない。小六ってどのくらいの背丈なんだろう。信はたまたまデパートにいた女の子たちをしめし、あのくらいですよ、とこたえる。あんなにおおきいんだ、といったときの坂口に、なにか透明な無力感めいたものがある。それによってそのまえまでの坂口の悪びれや威嚇性がすべて脱色された。そのなりゆきも「意想外」だった。
 
デパート屋上、その場の意味が恵理子にはむろんわからないし、薫が不在ではその場の「意義」もない。ところが映画的には、惨めさのなかにはじめて悔悛とわずかな郷愁をただよわせ、しかも自分の信念まで気弱に漏らす、所在無げな沢田=宮藤官九郎の風情に重大な意義がある。曇り日の昼、貧しい遊具のならぶデパート屋上をとらえる穏当なカメラワークにとって、主眼となるのは無為の空気の転写だ。そこを幼児・恵理子のあやつるゴーカートがたよりなげに走る。うごきと対象の多元性。それは沢田、ひいては信の心情の多元性と相即している。映画は途轍もない真実をあっさりと告げる。「多元性のなかにあるものは、それ自身が真実で、だからこそ救抜される」と。これが終盤の信、薫へ救済のひかりをあたえるのだ。だからこの映画は「父親たるべき者が父親へと自己生成する話」に括りきれない。もっと存在の本質に肉薄している。
 
「ふさわしくないその場をしずかに辞去する動作」は、今度はデパート屋上の沢田に反復される。しずかな「消え」。ところがさきの病室での信にたいするショットをカメラは反復しない。屋上の出口扉にむかう沢田に、送り出す気色、しかも躊躇からやや遅れて信が画面手前から同行すると、沢田があっさり扉のほうに折れる。まだ屋上でゴーカートに興じている恵理子をもつ信をのこして。ちいさいけれど、躊躇のない沢田の方向変更の潔さがすごくかなしい。カメラはそれらを横に視野を移動させてとらえたのだった。
 
信と継娘・薫の軋轢が作品のしめす最終局面でどうなったのかは言及しない。多元性をもつ者は、その多元性ゆえにあらかじめ救済のひかりにつつまれる、とだけしるしておこう。この点にかんしては、信の現在の妻・奈苗にも作用されていた。彼女は妊娠中毒症を克服しての出産により救われるだけではなかった。ほんの一瞬の、ある一場面が救済をなしたのだ。
 
もともと信が同情以外に連れ子をもつ奈苗に惹かれた理由がずっと進展に稀薄だった。それが――奈苗が薫の反抗に疲弊しきっていたとき、帰宅で最寄の駅に戻ってきた夫・信をケータイで呼び出した、とおぼしい。「おぼしい」というのは、次のジャンプカットでカラオケボックスのガラス扉ごしに、怒りをぶつけるようにロック色のつよいJポップをパンキッシュに唄いあげる妻をみて、信の顔が、幸福そのものといった喜色でいろどられるのを観客が目撃、事態が判明するためだ。「家庭依存症」と要約されがちな奈苗にも感情の奔放な多元性があった。映画はそれまで描かなかったが、それがたぶん出会いのときに生活階層がちがっても信が奈苗に惹かれた理由だった。そのことを一瞬の大技(たった1シーン)で映画がしめした。撮影中、創意的に科白やシーンを変更したと伝えられる三島有紀子監督だが、この奈苗のカラオケのすがたが、もともと荒井晴彦の脚本に存在していたかどうかを知りたい。
 
――九月六日、札幌シアターキノにて鑑賞。本作のモントリオール映画祭での審査員特別賞受賞が前日に報じられたためか、客席は映画好きの中高年女性一人客を中心に、補助席まで埋まる満員だった。
 
 

2017年09月07日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

皮膚の心

 
 
【皮膚の心】
 
 
はんそでのころもをうばわれ
ひふ、だけとなってぼうぜんと
けしきのなかをながれている
ぼさつの掌紋によってまるめられ
かたちづくられうすく鞣された
このまはだかのけいばつのひふは
市電ぞいのあさのひかりをすい
かげのひややかさと日のぬくみから
やけどめくものをむごく負わされ
しずかにもえておのれをゆかしめた
ぎんにひかるすすきがうつむき
はなはぎがはやくもしだれかかり
うつむきとしだれのおおい秋は
ゆくごとに紋をひふへはなつのだが
いれずみがつかのまできえるのは
しろあじさいをまよこへみての
おのれおののくゆえつにつうじる
しらぬてのひらでほのおをつつまれ
おもいださないものはいつでも
寸刻へそんざいをしずめつつ
ときからのえにしをたたれるが
しらぬてのひらでほのおをつつまれ
これはいかなるこぼしなのだろう
むらさきにぼけるアトピーはないが
こころの白癬がひふのつちとなり
ふたつみつきたなさをあらそうので
あかはだかはふくすうをおぼえる
ふくすうはおもいでのげんりだから
やはりひふをつうじてみずからが
あぶりだしのようにずるくかしこく
紙としておもいだされているのだ
このひふにすこしをあたえたい
それがなにかの愛の役にたったかを
こころがものうくあみだすことで
すくなさが域をまるめるのをみたい
きんもくせいのかおりのおよぶ
なまめくはだかのなだらかさ
身にも坂いくつかがしのばれて
おおさすくなさをかわきひとつで
おのれきえゆくまでひとしくさせる
 
 

2017年09月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)