金砂
【金砂】
きのぼりをしているのはわたしの眼だ
いちやはげしいあめかぜであれはてると
ぬれがきいろいじゅうたんをおおって
ちりしくということがいちょうのもとで
すぎさり対いまのおそろしさをおびた
けれどもこのまなざしはえだを這い
のこり葉のすくなさをふとすずしがって
とうとつにかたちのあらわれるさまを
とどのつまりせかいがはだかでなる
おとのようなものだ爾余たっぷりだと
くずれながれた蜜までも飲みほした
あいしつくすのならからだとからだは
ぶつからずにむしろくずれをふくみあう
もののさきがあるとする写生の極意も
あいてをえがきだすおのが全身によって
そのまなかにみちたりた緩衝をつくり
やがておもりあうさわりがきのうの
あめにもましてすじをたくわえてゆく
ちりはてたいちょうさながらひとを
一本、二本とほんすうでかぞえて
木をかくす森のそこここへあるきさぐり
つかれをながさにおきかえてゆくのだ
わたしらはひよわだからこすれていると
ふゆまえにしてゆきのあえぎがもれる
たましいに似たものを天秤へかけて
つりあいをなす体位のやわらかさから
うごきがはなれられないぜつぼうもある
まなこにきのうまであったあざやかな黄も
こがれてあいてをみやるうちうしなわれ
線がはりがねめいてからむ巣とかわる
さしいれるがひきだすへとつよさをえて
はらわたをはだ以上にもつれさせては
かんがえなしのきよらかさでころしあう
木々にとどまっていたのはてのひらだった
みずからによりよわくなるかぜをつかみ
ゆうがたの濃さをささえていたものだ
きえることのすきなわたしらもそれにならい
てのひらからであいをはじめようとしたが
五感がきのぼりするのをとめようもなく
ふゆまえにおこるけだるい揮発のひとときが
かみのけの倍数ではかれないながさへまぎれた
わたしらのいだきあいが幹にもなっていた
いちょうのゆがんだすがたがまぼろしだから
捷路のきえてゆくほんとうのひろがりには
いろではなくおとこそしみてゆくのだし
眼をとじればおのずと耳もこめかみに立つ
おのれをきこうとさみしいおとをもらす
わたしらといちょうのどちらが楽器なのか
いずれにせよ根ゆきがおおいつくすから
きたのおちばのたかれゆくすべはなく
あれもこぼれた金砂だとながくなげかう
メモ10月26日
【メモ】
唄うのではなく、書くことを始原とした現在の詩作においては、「文」を反契機に詩が出現するのを手許に待たなければならない。もちろん文の説明性、小説的な時空の連続性(換喩性)は、息をする詩では息によってこわれてゆく(息をしない詩が調整意識だけでだらしなく散文を分かち書きするのだ)。それをみちびく要因は「飛躍」「省略」「音韻化」などとまずかんがえられがちだが、よりふかい欠性が脱論理や多義や決定不能性をよびこみ、語ならびの空隙が容積をつくり、その容積をまえに読みが畏れをいだいて遅延化し、さらにその遅延によって読みすすむ内心の声が静寂化してゆくこともある。語彙のやわらかさはそのしずかさを推進する。
喩法はあるのか。どこをさがしても暗喩がみとめられないその「詩になったもの」では、消去の痕跡そのものがひとつの実体として読者の声のなかに読まれるほかなく、その「ないもの」の結節を減喩とよぶことができるだろう。むしろそれは痕跡の不能なのだ。喩がみとめられないのだから、ただ書かれたものを「ただ読む」密着が生じ、詩は身体らしきものをたどる直接体験へと変貌してゆく。顔はない。
減喩を煩雑な技巧と誤ってはならない。「それ以外」が「それ」のなかに包含されたその単純な形式が、読むことの隔時的交響性を単純にあかしするだけのはずだ。ことは詩の救済にかかわっている。「それ以外」が「それ」に隣接することで本脈がきえ、たえず別脈が現れる換喩の本質は、すべてが「中途」だということだろう。その換喩の延長にこそ減喩が置かれる。度外視されてはならない点だ。そこでは渦中と事後が分離できなくなり、語の分散が語の綜合を使嗾しながら、どこかに穴をみることになる。空間的にいっても時間的にいっても、なにか得体のしれないものがゆれている。それは脱論理や結像不能性に似ている。これが読まれるのだから、換喩どうよう減喩で書かれた詩は要約ができない。むろん要約不能性こそが「生」の別語だし、詩の物質化をみちびくものだ。詩の細部では、足りないのにすべてが的中している。それがはじまり、それがおわる。
べつだん特殊な事例を示唆しているわけではない。八〇年代の江代充の詩や、近年の川田絢音の詩には「減喩」それじたいがみられる。近接する詩篇は他のすぐれた詩作者にも数多くある。すくなさが要件なのは一目瞭然だが、「文」をどのように反契機にするかで、偏差もみられる。これらの偏差こそが詩のゆたかさなのだ。くりかえし読まれる詩を追究し、みずからが愛着し、しかも可読性を厳格にすると、この型の詩がうまれるのではないか。可読性だけの詩とはなりたちがちがうが、苛烈というわけでもない。くりかえすが、ことばが信じられ、すくなさが進展のうえに「自由に」書かれ、付帯的に音韻が意味をくるむだけだ。むろん現代的な散文詩の饒舌は、多音だし、反契機にすべき文や口語をそのまま契機にした不自由を病んで、同列に置くことができない。饒舌体の詩からすれば減喩詩が定型詩にみえるかもしれないが、自由度の審級がちがうのだから、むろんそれは迷妄だ。
――以上、減喩にかかわり、それまで書かれたものを瞥見することなく、ただの怠惰と思いつきでかかれた低能な文章をフェイスブックで眼にしたので、要点を流し書きしてみた。
針
【針】
短針のないとけいのまるさへ
愛の上手なひとにいざなわれた
うえはらひろみトリオライヴ
ゆびのかこいをたてものにして
しろやくろへはわせるはやさ
おとをはじくのでなく、つかむ
そのせつなにすべてこぼれてゆく
きのうやあしたなどにじまず
いまだけのすすみがあらわれて
まばたきも秒でなくなるから
ことがらのまるさへ沿うように
めいもくがまなざしを蔽って
回転でわけられたなにかが
かたちにちかくきらめいてゆく
からだひとつを耳にしきった
かおのないふか秋のあいしかた
口外できずにたもってきたものだ
めしいが刻をこがねにするのを
からだのうらに貼りつくして
そんざいの関節へむかいだすと
きしんでいるのもあしぶみでなく
むしろ詩というものの機械だと
よろこびがことばのふちちかくで
切羽つまるそれがながれだった
うえはらひろみジョイライヴ
おおくひとは生々しい針をわすれ
うつろいを短針ごとにならべて
やさいやさかなでただみたし
そのさみしさだけをあわれんで
あれはだれによるゆうやけなどと
せかいをひとがちにいう愚をおかす
といかけることがまちがっている
しつもんとは棒のようなもので
こたえのひろがりをつきさすだけ
おととともにすべてうごかしたなら
しつもん以上のものが胸あたりを
きんの箔さながらに圧搾しおえ
おとのひとのあふれをなげうたれて
うすさふかさの一致がしるされる
うえはらひろみきんいろライヴ
みたりであることのとおいはるか
くだものをそれぞれもちかえながら
いろみをだしてゆくたくみさで
からだにあるあけびやくりやすすき
かおの梨までがおわってゆくのを
針のうごきのゆれるうらがわに
おぼえつづけて、そこへかさなる
ゼノンたち
【ゼノンたち】
この世にあまたある血のいろの蒲柳は
わたしらののぞみがゆらしている
線をよわくするためのみちびきだが
まるで手まねきにおもえてしまい
じしんがていもなくまねかれてゆく
いつだつとは橋をえらびあやまること
かわもそのものをわたるしくじりもあり
からだひとつがくうき渦とかわって
みずゆくあるきがただ尾をひいてゆく
このときにものさびしい文字をつづった
うごきまるごとなにかの運筆をして
身は数語ほどの幅でのこりながら
おちてきた天へのかえしをおこない
足下のみずが蒲柳のようにゆれた
いつかみなのこいねがった詩だったが
そういうものがつづかない日もある
エレア派のすえとしていうのだが
さきゆきにこそあるべきものがもう
こころにうすくみちているこのことが
みずわたるあるきでのひけつだと
とおつおやはそのかみにうそぶいた
かたあしのおちるまえにもうひとつを
くりかえしうすいもののうえへのせ
おちるのをさけてゆく逃げ口上が
ときやへただりをことこまかにわけ
そこにアキレスや矢のまぼろしをよぶ
もののゆきかいのきれいなさまは
かんがえのうちの交易をいろどって
よくぼうは何ひとつつかもうとしない
だがほんのすこしの塩のゆきわたる
汽水のおおきひろがりがせかいだ
だれであろうともだれかにすぎない
血の背理をしらぬものらのかなしさが
ふくろのようにふくれあがった足を
やがてむすばれる虹にすべらせて
きょくげいがひどい勲功におとされる
いえぬちをあるくおんなたちならば
ものしずかにゆきかうだけだろう
あたまのつかいかたがからだのそれに
伴奏されていないおとのなかでは
エレア派の定規すらもののながさから
じたいを測られるさかしまにくもる
わたしらの自体はおさまりをしらない
たとえばみぎうでだけのびてしまい
それを棒のようにふたつの腿ではさんで
きてれつなすがたで居ねむりつづけ
ひととみられないゆうべがはずかしい
それでものびきったそのみぎうでが
ひとをまもるてだすけとなったときは
あたえられたもののふくみをかんがえる
ひとみをしいられたエレア派のさきに
ひととしてあざとい血のいろをした
ひよわくもろい蒲柳がゆれていて
なにゆえ病むか問いかけもはじまる
ろてき
【ろてき】
とうにしんでしまったせんだつの
ゆめをみるととてもやるせなく
いえでまっているといわれながら
そのいえにさえたどりつけずに
さみしいかわべりをゆきまよった
おわりをみすえてじさつするときが
ひとへのほんとうの時刻だろう
それでもよのなかはすがたをして
昨日の尾へ今日のくちが噛むような
ながれゆくそらをながめていると
ときにとりかえのきかぬ断絶もなく
のびるつんだおさないはるが
いちょうをみあげるけさの秋へ
くうどうのからだをつがいに
つながっているとなみだぐんだ
ひとつがべつのひとつと照りあうと
ときがいきているからだまでもち
井戸汲みをするものがいまもいると
まぼろしにみだれることがある
みずのおもたさであえぐかいなの
そこにじさつがしたたっていた
それよりもしごとしごとのあいまに
しずかな背景のあるなつかしさを
ひとの世のあしぶえさながらに
なにかのしらべとみつめたりした
だんだんに人死がすきとおって
たいりょうの死の実相がみえだす
そうもくそれぞれにゆがみもあって
せかいはかたちからささえられた
蘆笛とはくちをひらくひとらが
ことばのなさをうたううつむきだ
列あるかぎりそこにゆびさせる
しんがりがおわりをはじらっている
ひとはそうしてみえざるをえず
やがてはせんだつになってゆくのだ
なんじのしぬのがわれのゆくこと
わたしはわたしのとうといありかを
ひとによりさまざまにじさつされ
ひとつ身のよすぎで減少にあまんじ
うれえることばでただくくられ
かなしくてとてもみちたりている
ろうそくをわたされて身をふきけす
いやましにくらくするしごとにも
ありうべきひかりのさだめなのだと
かなしくてとてもみちたりている
旅の呼吸
【旅の呼吸】
いつもおくれて車内にあらわれた
とびらがとうにしまってからだった
にくたいがそんなだとしるものが
あらわれにかげをかかげたぶんだけ
とびらにもうまく寄りそうことができ
おたるへむかう海が頬でもあふれた
ひかるかげんでかたほうとなって
ゆくさきのほかなにもかんがえないと
かんがえない身がいわば中途化して
通過してゆくものへとけていった
だれかれの中途までひかりみちるのが
はめごろしにまもられた車輛だから
せかいは筒が筒をぬけるようすをして
めいもくするだけで栓がはずれる
こまかなあわがあたまをつつむなら
ぞんがい王冠がひとの世におおい
のこされた身ひとつがくうかんでは
あなにみえてしまうおわりだから
とりにがしたひとをはなれたままに
あつくあわれみつくそうともおもった
こせつでさみしい聖画のことわりだ
ついにたどりつくほまれとかかわれず
ゆききだけでひと世をおえたのなら
なにも足し算などなかったゆくたてが
どれほどつつましくみえるだろうか
どころかゆききにさえわずかにおくれ
ゆききそのものをなかせてしまった
がっこうがえりのふたえのみちを
ひとさながらおもいだしているのだ
たいせつなものとはバスをのりついだ
窓外をさむいふるびらがながれたが
ちまちまくりかえしたのりつぎが
たびのきれいな関節だったこともある
いまではいきるための関節をなくし
はこばれてゆくほうがかなめとなって
かばねめき、こころのなかが水漬く
きえたひとのかわりにみずがあり
おたる運河はそのさだめにすぎない
往相ではじまったもののすべてに
あらかじめ還相のあるだろうことを
おくれるにくたいがさぐりあて
ふくらんだりちぢんだりしていた
支度
【支度】
やがてみずからを架けるものを
せおいながらもあるかされる
そんなすくせになけてしまうが
おもいかえしてみれば樹は
みなそのことをかたちにして
なおあるかないだけなのだった
げっせまねはそうしてみえた
ぜいたくが眼にあるのでないが
まぶかくあお木をながめつつ
木椅子にしずむひとはきれいで
ひたいとあたまなら木製の
ほしでまるくつつまれている
かたわらへにぎりあう手を
はなしてひらけばもくめがあり
てばなしたものがてのひらに
うつくしく転写されている
かくのごとくおもむろに
いかだなどになってゆくが
どこをながれるでもない
ものの恍惚が部位をわけて
からだのひとかたまりが
えだわかれする不安のうち
花の部分をおしえへさしだし
わたしらのゆれうごきに
風のとおさをくらくひゆした
かたさがやわらかいというため
たましいのてがたい柔弱を
さききえる花ばなの反語だと
つたえたことさえあった
かなしい歌はこうきこえる
きんもくせいの北限はどこだ
ここらではかおったことがなく
あお木の葉のあるちいささを
せおってあるくすがたのみ
ひとにもさがすしだいとなる
しあわせに似るすぎゆきが
ながめるものをゆたかにして
こつこつとあたるようなハグを
くりかえしてはつかれてゆき
やがて抱擁が打ち綿で包まれる
みずからのみえなさの奥に
みえていたみずからを架ける
はずかしいからだがウディ
そうおもいひとの世をしぬのだ