黒沢清・予兆
【黒沢清監督『予兆 散歩する侵略者 劇場版』】
黒沢清監督『散歩する侵略者』の製作主体WOWOWが、黒沢監督へWOWOW放映用にそのスピンオフドラマの演出を依頼した。全五話(未見)。「劇団イキウメ」の前川知大の同題戯曲が発想源なのはおなじようだが、脚本は、今度は高橋洋(黒沢監督と共同)。宇宙人が人間のからだに当該者の記憶を温存させたまま入り、人間社会を調査、人間特有の「概念」を収集し人間が「全滅」にふさわしいかどうかを上部に報告する世界観はおなじだが、今回の高橋脚本の「翻案の自由度」がどこまでかというのは、原作未読、原舞台未見なので詳らかにしない。
いずれにせよ、ホラー色が強烈で過剰な高橋脚本により、オリジナル映画版『散歩する侵略者』のもっていた、多ジャンル横断性(その結果としての「恐怖」の未発動)という特質が、スピンオフ版『予兆 散歩する侵略者 劇場版』(以下『予兆』)からは消えた(「歩行」をはじめとした身体論の主題も)。映画とおなじ芦澤明子の撮影であっても、散漫的構図すら戦略としていたオリジナル版のあかるい画面が、スピンオフ版では暗色が跋扈し、構図が集中性を増大させ、結果、「恐怖」がまた主軸へ復帰することになった。あるいはオリジナル版の宇宙人・松田龍平の飄々としてつかみがたい雰囲気が、スピンオフ版の宇宙人・東出昌大のサイコパス的な「予兆」感に置換された点も、印象の改変におおきく寄与している(以上が、じつは下記の上映で判明してゆく)。
このスピンオフドラマは、ファンの要望により、140分の劇場版として再編集され、二週間限定公開されることになる。黒沢監督の劇場映画としては長尺だが、ドラマ全五話分の尺数がどのていど削られたかは現状のネット資料では不明。とうぜん多くのディテールが削られているとおもう。高橋脚本なのに「すっきり」しているのは多くの細部が編集で放棄されたためではないか。
たとえばヒロイン夏帆の仕事先の同僚・中村映里子は「概念」を抽出吸引された廃絶体として夏帆に「事後」発見されるだけだ。俄かに陰謀者の様相をつよめた中村が、新任外科医・真壁司郎「にして」宇宙人の東出昌大に一体何の「概念」を抜かれたのか、そこにどんなハニートラップの蹉跌があったのか、存在していただろうその詳細が欠落している(抜かれた概念=感情はおそらく「嫉妬」だとおもうが)。あるいはいやに中国的な職場環境の縫製工場の工場長を「ガイド」にしていた、その妻にして侵略者の渡辺真起子は、周囲の人間をすべてなぎ倒す大がかりな「概念抜き」をおこないつつ颯爽と画面を闊歩するのだが、大杉漣をはじめとする厚労省の面々が彼女を捕獲したのかどうかもはっきりとしない。
映画『予兆』は、前述のように映画『散歩する侵略者』と世界観を共有しているため、設定理解に齟齬を生じない。『散歩する侵略者』は「侵略者の身体侵入」「人間社会に向けての概念収集」といった奇抜な着想に理解を及ぼすため、黒沢監督がおそらく嫌う演劇的な人物間の会話応酬が必然化され、それに原作舞台どおりの喜劇性を、ホラーの血の滴をたらしつつ胚胎させることで退屈の難局を乗り切った。今回は一気呵成にホラーへ邁進できる。その端緒を担うのが、夏帆の職場で欠勤をしだした若い同僚・岸井ゆきのの扮する「浅川みゆき」だった。
『予兆』の物語と画面の運動は、「当該によって当該以外をしるす」アレゴリーのそれだ。その第一の果実は、誤誘導をしるすことによる、映画自体の陰謀感の醸成といえるだろう。岸井は夏帆に訴える。自分の家族が、それぞれ外見は従前どおりなのに、「幽霊」のように現実感がないと。第一の予想は、岸井が通常人で、その家族が身体に侵入をゆるした宇宙人に堕した存在だ、というものだろう。前作からの帰結だ。その発言は、夏帆のマンションの一室でおこなわれる。その渦中に染谷将太ふんする夫「辰雄」が帰宅する。染谷の挙動そのものもその前から胡散臭いかあるいは後ろめたいといえるものなのだが、玄関先の染谷を視た岸井はほとんど恐慌にちかいありさまで怯える。染谷が寝室に姿を消すと、やっとのようすで「(染谷にたいして)なにもかんじないのか」と夏帆に岸井がいう。すると染谷もまた、すでに宇宙人に身体侵略されているという擬制が成立するだろう。
これらが誤誘導だという点は、そのあと、さほど離れていないシーンのいくつかでわかる。夏帆が付き添った病院での心療内科医・安井順平から「家族」の概念が欠落してしまった精神欠陥状態にあると岸井の病態が語られる。『散歩する侵略者』で「家族」の概念を松田龍平から抽出採取されたのは前田敦子だったが、前田はその直後、出奔行動をとるから、「家族の概念を喪失したまま家族とともにいる恐怖」を味わっていない。その意味で、映画『予兆』は映画『散歩する侵略者』に「裏側」から肉薄する、寄生的で気味悪い立脚をもっている。
また染谷は岸井の診断医とおなじ病院の臨床工学士だが、東出扮する新任の外科医にほしいままあやつられるなかで、彼が東出に人間社会を案内し、「概念」の奪取相手を使嗾する、道義的に問題ある「ガイド」だということが判明する。宇宙人に侵略された身体とともに、「ガイド」も気味がわるいという視座は映画『散歩する侵略者』にはなかった。すくなくとも松田龍平から「ガイド」を任命された長澤まさみには、人間社会における害虫性=亜「宇宙人」性という負の符牒がまつわりついていなかった。
これらをオリジナル版にあった設定の精密化とよぶことが最初できるが、事態はそれだけにとどまらない。そこででてくるのがアレゴリーの付帯作用としての誤誘導、(機械的)誤作動で、これらが「ストーリー語り」以外の映像面にもわたっている点が『予兆』の価値をあきらかにしている。
開巻ショットは夏帆の帰宅だ。彼女のすがたをとらえるうち、そのロングの眼下に川床を石板加工された川がみえる。だれもが『神田川淫乱戦争』の真の主役だった「川」を想起するだろう。ただしそれはおなじ黒沢清作品という点だけを共通項にもった誤作動にすぎない。川幅はより狭いし、郊外色もましている。
映画に特権的に侵入してくるのは、半透明の布状のものが奥行きを遮蔽しつつ、ゆらめくさまざまな詳細だ。黒沢ファンなら「半透明のビニール幕」が犯罪生起の場の符牒なのを周知している。ところが今回はエドワード・ヤン『恐怖分子』的な白いカーテンとして最初現れ、ベランダの洗濯干し物と「布」の物質性により前後左右に過剰に交響する。それ自体を日常文脈に回収されながら、同時にカーテンの向こうに見え隠れしている染谷将太の姿を曖昧化=不気味化させる。カーテンに代表される布は境界性を自己組織する。「その向こう」の強調により、「こちら側」の遅延を反照する疎外装置なのだ。ところが風にふかれると、それ自体がゆれて官能化する。「むこう」をエロスの領域へと置換させてしまうことになる。結局、それらは綜合されると、「それ自体の欠落」へと翻ってゆくしかないものだ。
シーンを飛ばそう。ふたたび岸井の病状を訊ねるために、心療内科医・安井順平の前に夏帆がいる。ふたりの周囲にはクリーム色の「布」の幕が、プライバシー保護のため、めぐらされている。ところが医師の話が徐々に恐怖の色を帯びてくると、とつぜん看護師の女性が幕を大きな音を立てて引いてしまう。その向こうにはベッドがあり、岸井が就眠しているはずなのだが、数名いるほかの女性看護師たちが「いわくありげに」掃除動作などの作業をつづけている。あきらかにアレゴリーの呼吸がある。ところが「当該を当該以外によってしるす」アレゴリーの本質は、ラカン→デリダ的な視座を経由すると、語られるべき「ほかのなにか」の「なにもなさ」へと縮減されてゆく。「痕跡」になろうと自体を減少させてゆく時空の惑乱が映像的アレゴリーなのだ。結果、看護師たちの様相は日常文脈の手前で、ドゥルーズ的にいえば結晶化するだけだ。気配のいやらしさだけがのこる。
さらにシーンを飛ばすとどうなるか。布がやはり降臨する。今度は黒沢映画にお馴染みの空洞感のつよい倉庫が舞台。そこで夏帆と東出の対決が予定されている。ふたりは初対面の段階から霊感を相互におぼえた。「他とちがうなにか」を相互に感知したのだ。その後は対峙しあいつつ、記憶をたどってみると、もつれあうように「なぜか至近にいる」物語上の強制がくりかえされている。あるいはそうならないときには「すれちがいメロドラマ」のような無念感がつきまとう。だからこの透明な布の手前に置かれた芦澤のカメラが、布の「こちら」にいるだろう東出を追う、向こうの夏帆をとらえるときに、「最接近」の期待が起こっている。
このとき黒沢=芦澤のつくりあげる画像は、布に投影された夏帆の影の黒い、しかも連続的な変型だ。強度的に見事というしかない。変型はマニエリスム的だし、黒すぎる影の大きすぎる点が、ドイツ表現派からフィルムノワール、あるいはヴァル・リュートンの召喚なのはいうまでもない。ところがそうしたいわゆる「映画史的記憶」が、その過剰により、ほぼ自動的=機械的な誤作動まで付帯させる点が見逃されてはならない。
確認しよう。東出の捕捉に漕ぎつけた厚労省の係官たちは、なにもない中央に、東出を車椅子に坐らせたまま拘束具で括りつけ、身体自由を奪っている。周囲のもろもろの人間は、「概念抽出」の影響を逃れるため彼から一定距離を保ち、全体で円陣をおもわせる陣形をつくっている。見事な映画的光景だ。この段階で、ラング『M』でのクライマックスのペーター・ローレ、フラー『ホワイトドッグ』で円形の檻に入れられ、やがては射殺にいたる白犬などの姿もおもいうかぶが(それらは糾弾対象の位置であり、カフカの「断食芸人」の本質的な位置だ)、やはり「悪」が去勢され半残骸となりながらなおも実効力をも分泌させるデミ『羊たちの沈黙』のレクターの髣髴度がもっともつよい。むろん身体拘束具は、黒沢自身の『ダゲレオタイプの女』のダゲレオタイプ撮影時とも連絡している。
いま綴った部分に『羊たちの沈黙』のある点がいわば勇み足だ。結果、倉庫のシーンにもどると、布を辿りながら暗いなかをあるく夏帆の足取りが、『羊たち』でバッファロー・ビルのアジトに潜入したジョディ・フォスターさながら、リアリズムに反してまるで視界を失った者のように頼りなげになってゆく逸脱が起こる(視界は暗いが、『羊たち』のようには可視性を奪われていない)。もっとしっかりと歩けるはずなのだ。じつは展開は笑ってほしいと願っているのではないか。ただしコメディとの混淆は、先にしるした車椅子に拘束した東出を遠巻きに「みな」が囲む一連で、大杉漣が拡声器のハウリングでしどろもどろになりながらなんとか地声で東出によびかける際の、滑稽と臆病がわずかに滲む口吻と仕種にしかない。
クライマックスに用意された別の倉庫、染谷と夏帆の「夫婦連合軍」が東出に姑息な罠をかけるシーンで、黒沢映画の符牒「機械」が登場する。このときの誤作動が念に入っている。「持ち場をいったん離れる東出」にまず役柄に要求される聡明さが欠けている。夫婦は姑息にも歯車に細工をし、東出が再接近してきたときに、「なぜか」結束されて高く吊るされている鉄の延べ板の支えを狂わそうとしている。ところがその陰謀が作動しない。裏事情を感知した東出が高笑いする。高笑いすると、実は支えが斜めになり、鉄板の束が下の東出を直撃、致死的なダメージをあたえる。これなどは、「誤作動の連続喜劇」と呼ぶべきものだが、効果が過剰かつ強烈すぎて、笑えない。そこまでもふくめて誤作動とよぶべきものなのではないか。
映像上の誤作動・誤誘導にたいし、物語上の誤作動という点なら、この作品で「誰が悪人か」がかんがえられるべきかもしれない。あらかじめしるしておくと、夏帆には一切悪がまつわらない。振り返っておもえば、すでに東出と「世界の終わり」の片棒をかついでいた染谷は、夏帆とほぼ以下のやりとりをする。染谷「あした世界が終わると決まったらどうする?」/夏帆「いつもどおりでいるしかない」。染谷「世界の終わりを許されて生き延びる数人に選ばれたい?」/夏帆「数人なら選ばれたいとおもわない」。このやりとりから夏帆の倫理性の高さがつたわってくる。内面の伏在がうつくしいヒロインは黒沢映画ではこの夏帆がはじめてではないか。成瀬巳喜男『杏っ子』の香川京子のようだ。空間の境界性、あるいはダメ夫として木村功と染谷将太が共通する点が大きいのかもしれないが。
さて上記の問いかけをする染谷が、工員のうち若すぎる岸井ゆきのが自分としっくり来ないという理由だけで、宇宙人に支配された妻・渡辺真起子の「概念奪取先」に指定してしまった工場長・中村まこと同様、「悪人」なのだった。しかも彼は東出の概念奪取先を、自分の人生上、私怨をいだいていた個々人に次々指定してゆく。犠牲者は染谷によって選定され、「執行」だけを人間界の事情を知らない東出が「代理」した。この代理行為には不透明性がある。つまり、催眠術により自覚なき殺人を連続転移させた『CURE』の萩原聖人の、「代理のためだけの代理」の至高性とはほど遠いのだった(自分からは銃殺や死体処理をしない『クリーピー』の香川照之も最終的には「代理のためだけの代理」という至高性の構築に敗北してしまう――ただしそれは「失敗」ではない――否、失敗は、入り込んだ家の母親を焦れて銃殺してしまう箇所に現出していた)。
これまで書き記したもろもろからいえば、『予兆』はあらゆる黒沢清の既存作の続篇性を帯びているが(脚本・高橋洋はこの点で批評力を発揮しているはずだ)、もちろん直接は『散歩する侵略者』の続篇――スピンオフであるにすぎない。むろん続篇は、『悪魔のいけにえ』でも『エイリアン』でもそうだが、複数化し、大量化し、喜劇化し、自己嘲笑的となる。それで個対個だった「宇宙人による概念の抜き取り」が、ここでは距離を介在して無方向に拡大することとなる。「急に力を得た」という信憑のひくい註釈つきで。結果、工員や病院にいる人々をなぎたおして闊歩する渡辺真起子や東出昌大が描かれることになるが、その様相の至純さ、勇壮はもちろん高橋の仕込んだ大量化の誤作動だとおもわれる。壮麗さの裏に笑いの悪意が潜んでいるのだ。
「予兆」とは、「やがて」起こる何事かを「すでに」しるしているシミのようなものだと一般にはかんがえられているだろう。ところがこうしるしてみてわかることだが、そこでは「やがて」と「すでに」が錯綜していて、じつはその時間錯誤によって時間のなかには「見えないもの」なのではないか。アナクロニズムは無方向性まで結果する。それで映画『予兆』はさきに存在していた映画『散歩する侵略者』にたいし相互に予兆となろうとする提案までおこなうのだ。まずは宇宙人侵略物の手本、シーゲル『ボディ・スナッチャー 恐怖の街』のような閉域サスペンス、それと誰が宇宙人に支配されたかの真偽サスペンスをあらかじめ空中瓦解させてしまう。
さらに終幕に向けて、『予兆』は『散歩する侵略者』と同等のディテールに雪崩れこみ、どちらがどちらの予兆だったのかを審問不能にする。つまり「世界の終わり」から逃げるために、主役夫婦がクルマであてどなく逃走するくだりがそれだ。黒沢演出はそこで、クルマをスタジオに置き、スクリーンプロセスでレアウィンドウの向こうに「角度ちがい」の曇天をはりめぐらせる、いかがわしいフロントガラス越しショットの人工性を用意する。あるいは人間から抜き去る「概念」は、最初は「家庭」だったが、それが「プライド」になり「死の恐怖」になりと変化してゆくうち、最後に概念「愛」を抜き去ることができるかどうかの主題が到来し、それが定座となる点でも両方は共通している。
『散歩する侵略者』ではすさまじい夕光を、長澤まさみが世界の終わりの開始と捉えた勘違いがうつくしかった。『予兆』ではそれは勘違いではなく実在化する。大地の重力が変化したために降る、ものすごい雨がそれだ。一旦おなじ軌道に乗ってオリジナルから分岐するこの点は聡明だ。とはいえ『散歩する侵略者』は当初、松田=長澤パートと、長谷川博己パートが相互に足をくりだす歩行状態(並行モンタージュ)を駆使していた。一見、組成がふくざつにみえるが、そうではない。対して『予兆』は並行モンタージュをほぼ整理し、夏帆の見聞(主観対象)が枝状に拡がってゆく単純さに復帰したようにみえる。だがそうみえて、物語や人物の出し入れ、とりわけ「すれちがい」までふくむ夏帆と東出の関係性がふくざつで筋の要約がむずかしい。この点に物語自体の陰謀性が発露している。
くりかえそう。アレゴリーとは、当該性によって当該性以外をつたえるねじれのことだった。えがかれていないはずなのに現れている「何ものか」を予兆といってもいいだろう。ただし予兆とは気配であって、意味ではない。無にちかいからだ。そうして映画『予兆』における「描かれていつつ意識化されない」何ものかを指摘することができる。それこそが、夏帆―東出間の「愛」だった。誤誘導の結果だ。染谷と夏帆の夫婦愛が主軸と誤解してはならない。染谷は罪障が刻印され痛みつづける自分の腕を、殉教の道具として愛しているのみなのだ。テッド・チャンの「地獄とは神の不在のことなり」のように。
当初の出会いでの運命性、対峙の連続、さらにはすれちがい――これらのリズムにより、じつは東出―夏帆ふたりのあいだこそが情動化してくる。事実ふたりの身体はふれあう。ところが概念を盗み去るための対象の額への指の接触は、電撃的不能となって、東出を襲う。針ネズミの逆説。これこそが、東出が意識していないが「愛の感触」なのだ。東出は夏帆の例外性、優秀さによって、人類破滅ののちに生存させて残しておく「サンプル」として夏帆を意識するが、出会いの感動を自分の表情が浮かべていても、そこに愛着の激しさが伴われていることを自覚できていない。ふたりは相互に意味のちがう貴種なのだ。そして意味がちがうことで「流離」している。だとするなら、ふたりが同道すれば、「貴種流離」が完成することになる。むろん東出のすがたをまとった宇宙人は折口信夫や『トリスタンとイゾルデ』など知るよしもないだろうが。
東出昌大は身長189センチ、日本映画界では高身長の異物にちかい(黒沢『地獄の警備員』の松重豊よりも)。それで彼は黒沢『クリーピー』において高身長俳優の西島秀俊を「喰い」、結果、その懲罰だったのか破滅の演技を割愛され、すでに映画の半ばすぎで出番をなくした。キャストバリューからいえば不当なことだろう。だから今回、再登板となった。彼は黒沢のフィルモグラフィでは「潜っていた」ことになる。再浮上時に強調されたのが、たぶん眼だったのだとおもう(それは『桐島、部活やめるってよ』がおそらく最初に発見したものだ)。
切れ長の澄んだ瞳には、いつでも落涙寸前の哀しみが湛えられている。ただしその清澄は同時に恐怖演技にも親和する。だから彼はサイコパス的な風情を湛えるのだし、人間から「概念」を抜き取るそれぞれのくだりに鳥肌を立たせる。怖い。けれどももういちど戻ると、とりわけ眼の下の涙袋部分にある悲哀の蓄積が一種刺青にちかい強度をもっている。そしてそれとまったく同様効果の涙袋をもつのが夏帆の倦怠の眼なのだった。ふたりの同質の眼がみつめあうことは、恋愛表象の誤作動であり、相互恐怖の真正作動でもある。総じていえば、この葛藤が「恋愛的」なのだった。最後、夏帆のとった行動に東出が納得するのは、謎そのものを慈悲と捉えたからだろう。彼はなにか巨大なものに直面していた。同時に、『勝手にしやがれ』ラストのベルモンドのように犬死の散文性をもうべなっている。そのシーンのうつくしさは、うつくしさによって恋愛的なのだ。
まえに『散歩する侵略者』をレビューしたときには、新進女優・恒松祐里のカンフー的身体能力の高さと速度と意外性、あるいは宇宙人に入られたがゆえの自己身体毀損の悲劇性を讃美した。美しい施策は、どんなに彼女が高い打点の蹴りを追っ手に入れても、スカートのなかがみえない点だった。じつは『予兆』では愛される者のように東出に突き飛ばされた夏帆が派手に転倒する。そのとき一瞬、夏帆のスカートの中があられもなく露呈する。これはなにか。冗談のようだが、これもまた「誤作動」だ。恒松と夏帆の待遇のちがいはなにを意味しているのか。ただの偏差にすぎないだろう。宇宙人にからだをうばわれて心をなくした女子高生と、自分の愛の方向性と例外的な能力を知らぬ「人間の女」との偏差。これはおなじアンナ・カリーナによる、『女と男のいる舗道』と『気狂いピエロ』との偏差にも似ている。
――11月14日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。
花の街三番
【「花の街」三番】
たぶん小学校中学年のクラス合唱課題として、江間章子作詞「花の街」にはじめて接した。中学校でも唄わされた。あまったるい歌。しかもそれは、胸のなかが飽和する息づまりによって「泣ける」歌だとすぐに体感された。不機嫌さが常だったので警戒した。しかも(後知恵でいえば)三木露風作詞「赤とんぼ」に代表されるような、とおりのいい抒情ともなにかちがう。
團伊玖磨作曲のピアノ伴奏が蛇腹のかたちにひらく。ひらいたものがそのまま散乱する。そうしてカラフルな景物がもつれあいながらながれてゆく。まきこまれる。「風のリボン」になる。からだにおもさがなくなる。どこをとおっているのか、目標をみいだせないのに、その「みいだせなさ」のなかへ唄うからだが拉し去られてしまう。粉ごなになる。このことが「泣かれる」。
「春の讃歌=祝言」という了解だけのある、不定形な万物の移動、「あふれ」。一番は「谷と風」。二番は「海と街」。ところが対置されたものが、たがいの像を消しさえもする。壮麗な相殺、それこそがおおきな照応のあかしだというように。
ふりかえると全般に、歌詞の措辞が不全で、隻句がじつに不安定に散らされている。児戯とさえおもえる。その状態に、すきまをかんじ、あやうくブレスをおこなったのだろうか。まだ幼年時に属することなので、よくはおぼえていない。別べつのものこそがすきまをつくりだし、そのすきまが帯電して、「みちること」がはかなく成就される。ひとのさだめのようにもおもわれた。そうしたいっさいが「輪になって」、円環をなしていると、歌詞はかすかにいいさだめていた。讃歌の裏側に諦念がはりつめている。
ふと、この歌を唄う同級女子の横顔をみやる。顔や顔がももいろに、なおかつすきまだらけに上気している。みんな北山修がすきだった。縁語をマーケティングで自動的にちりばめる安直さを批判できないでいた。恐怖をも分泌する「花の街」は、それからずっと離れていた。フォークル、サトウハチロー作詞の「悲しくてやりきれない」の真正なメランコリーとどうように、離れていた。
ついには暮色にしずんでゆく三番のくらさに、こころをしぼられた。七色の消滅こそが暮色=色彩だという逆転。詐術により、「一人さびしく/泣いていた」のは自分だと、男女かまわず納得させられてしまう。その冒頭二行が後年になり、詩学的な戦慄をにぶく開陳していると、やっと気づいた。
すみれ色してた窓で
泣いていたよ 街の角で
誤記ではないかとすら疑いがおこる。助詞「で」の重複が瑕になっているのだから。だが江間章子は確信的だったはずだ。最初の「窓で」は次の行へわたり、「窓で/泣いていたよ」の構文をつくる。「で」は単純な主体位置の指示とうけとれる。主体はみた(みおろした)。街の角「で」泣いていた、ほとんど幽霊とおもえる、アノニムなだれかを。それは主体の脱出可能性として位置している。
位置関係が加算される。窓からみおろすと、街の角がみえると。そうなると主体(たぶんこども)は所在なく街のゆうぐれをみおろす孤独のなかにいることになる。「泣いていた」は主体と客体に共有され、相互性が消されて一体化へと導かれる。どうじに「泣いていた」は、日本の詩法でいえば掛詞の該当箇所よろしく二重化されている。そうした判断をうながすために、行末ふたつでの「で」の重複が図られているはずだ。これは助詞の重複が発展をみちびいた稀有な例ではないだろうか。
詩学的な問題ならこうだ。重複は最初に逼塞を用意する。逼塞は空間上うすさに親和する。ところがうすさにはゆいいつ救済の契機がある。うすさにより、合体や溶融が起こることがそれだ。そうして「すみれ色」のなかで、主体がみおろす客体に、同一化が生じ、孤独が孤独のまま異相化してしまう。同一のふたりが、なおかつ同一のままふたりである様相が、深刻で異常なのだとかんがえる。
窓が、主体と客体とがサンドイッチとして挟む「具」になっている。一見はそうだ。それは内と外のあいだに挿しこまれるものだからだ。だが本当をいえば、サンドイッチ機能をもつのは窓のほうだろう。窓はおのれじしんを透明さによって挟みこんで、そのうすさのなかに、内にいる者と外にいる者を、本質的な同在として繰り入れ、さらにその推移すべてをみえなくさせているのではないか。その「みえなさ」と、減喩的な「足りなさ」の双方が、この三番の冒頭二行にある。壊れている措辞は真実のなにかを欠落のなかに胚胎する――「花の街」はそうした恐怖の達成なのだった。
メモ11月9日
【改行詩を読むさいの目安】
・修辞、主題、語彙が個性的か
・長すぎる(行数が多すぎる)ことはないか
・独善を避けているか
・モチベーションは現実体験から生じているか
・語彙偏愛、または誇らしげな語彙展覧を卒業しているか
・一行目にツカミ(≒天啓)がみとめられるか
・最終行に、時空をまたがる余韻があるか
・展開に、意味形成と音楽性の双方がたもたれているか
・行の「ばらけ」が換喩性特有の、カードをひらくかたちになっているか
・イメージと脱イメージに交互性があるか
・ゆっくり読まれるための配慮があるか
・描写力はあるか
・助詞の意図的誤用などがあるか
・ぞっとさせるか、あるいは驚かせるか
・脱落による文法破壊があるか
・語調から尊大さやしたり顔が除去され、透明な中間性をひろげる方策がとられているか
・アフォリズムからは距離がとられているか
・自然にもとづく景物が入り込んでいるか
・和音または漢音の語彙が集中組織されることで音韻が高められているか
・頭韻はあるか
・暗喩構造の高圧性を回避しているか
・繋辞構文の使用が抑制されているか
・体言止め多用を忌避しているか
・構文は複文中心か
・無用な主語がはぶかれ、「詞」ではなく「辞」中心の組成になっているか
・一行の字数(音数)に、ばらつきが保持されているか
・冗語・迂言・反復がある場合それが意図的か
・散文を文節単位でのみ改行する「隠れた散文性」=弛緩から、詩が離れているか
・各行の行頭にひらがなが多いか
・意味的な文節を除外することで引き緊まりを確保、読解にゆらぎをあたえているか
・聯間一行空白がある場合モンタージュ的効果がかんがえられているか
・学殖への耽溺を自制しているか
・哲学があるか、あたらしい感情・認識があるか
・生活をうたいながら「自慢」を禁欲できているか
・飛躍のパターン化が確実に憎悪されているか
・不連続性が連続のなかに溶け込んでいるか
・約物、疑問符などの使用ができるだけ避けられているか
・展覧される事物に趣味的偏向のないよう詩篇間に「分散」がおこなわれているか
・助詞の重複が避けられているか
・事物が「ある」ことへの操作や容喙が不当とかんがえられているか
・かなしさや恥かしさがつたわっているか
・うつくしさや謎などで再読誘惑性が図られているか
・事物と身体はともども存在しているか
・詩論的もしくは詩史論的な詩か
・定型性の自己目的化に、否がつきつけられているか
・作者の顔が削除されているか
・「現在」がしるされているか
・伝達力があることで詩篇の自立性が確保されているか
カニエ・ナハ『IC』
ことばの分散は、ことばの綜合を希求する。断層をふくみこんだ「タイトル+詩篇」の現れのなかで、そこにあるすべてのことば=細部が、それぞれのことば=細部と反響しあい、ひとつの全体に向かおうとする気配をかんじさせる。ところが一読後、即座に再読をこころみても、最終的に読まれるものがやはり断層でしかない――むしろそうした逆説におおのくことが、そのまま詩の繙読体験になってしまうのだ。
カニエ・ナハの私家詩集『IC』は多くの私家詩集、たとえば望月遊馬の『水門』がそうだったように、詩集全体で自己組成の「すくなさ」を提出しようとしている。詩集でありながら「半詩集」を体現しようとする「停止」の状態こそが、積極的に読まれるものだ。とりわけ冒頭部分の連作が興味をひいた。句跨りもしくは破調をふくむ短歌一首がそのまま詩篇タイトルとなり、詩篇本体はみじかい散文体として起こる。タイトル→本体は導入ではなく、断絶を介在させた対置として出現していて、さらに詩篇本体すら断絶によって分解可能となっている。
年度の収穫としてまずかぞえなければならない鈴木一平『灰と家』の中心部では俳句と日記体の散文記述が対置される枠組がつづいた。そこではわかさに彩られた生活をめぐる日記体記述が読みすすめられ、ときに時空を錯誤させる換喩構造まで露呈される。このことが刺戟的だったが、同時に俳句そのものの出来の安定にも眼を瞠らされ、結果、読みがいわば散種的な分散をしいられた。カニエ『IC』の冒頭連作では、タイトルをなす短歌は、瀬戸夏子の達成に影響されたのか「短歌外」を志向していて、しかも瀬戸短歌よりも愛着性がうすい。ところがそうした事態を、開始される散文詩体=本文がつくりなしている「分散」が救抜してゆくので、やはり鈴木一平どうようの眩暈が起こる。連作の冒頭なら――
私は私を降りるガラス窓の向こうの声をさえぎって雨
ここから矩形の水槽のガラスの三面が見えていて、二匹泳いでいるはずの金魚が、場所によって、四匹に見えたり六匹に見えたりする。ときに頭と頭とが重なり合って、頭のない、ふたつの尾ひれをもったひとつの生きものになったりする。「気づかずに、偶然、あなたの前の席に座ってしまって、けれどしばらくあなたの声だと気づかなかったの。外国映画の日本語の吹き替えみたいに、別のひとの声のようだった。」
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タイトル部分が短歌と気づくためには、最初の「私」を「わたくし」、即座につづく二度目の「私」を「わたし」と訓むひつようがあるかもしれない。その短歌であらわされたタイトルと詩篇本体に断層があり、同時に詩篇本体が、水槽中の金魚のみえかたと、その後の「 」で括られた女性の発話内容によってさらに区分されるのが即座にわかる。読みは綜合へとうながされる。「透明な遮蔽物の物質的実在」「それによる遮蔽物内の像の怪物的変容」「数の増殖」といったことがらが、「 」部分でしるされる「実在者の眼前性」「遮蔽物の感知」「声の印象の変容」へと接続される。ところが骨子は「 」内として発話される述懐の前提が、どんな位置関係なのかついに判明しない「抹消」自体にある。この抹消こそが、タイトルとしてしるされた短歌へとやがて遡行してゆく。タイトル=短歌も情景と条件を読者に伝授することがついにない。「短歌+散文詩」のかたちをとる冒頭部分の連作から、今度はその終結部をとりだしてみよう――
眠るのは朝までしむだふりをするんだよ、といって二度寝をする子
私がおわった子供は、耳が聞こえないように、見える人を羨ましがって、何もしなかったので、まだ生まれていない。音のないテレビで、口をいっぱいにして、何かを話していた私が、何を言っているのか、分からなかった。石は寝ているふりをしていた。
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直前の「短歌+散文詩」のパーツから、掲出歌中の奇怪な修辞「しむだ」が「死んだ」の幼児語だと判明している。つづく散文詩本体は、助詞の誤用をふくめ連辞の論理構造が破砕されていて、ばらまかれたパズルピースが全体をつくりあげることはないだろう。ところが「子」(歌中にあり、詩中にある)と「私」は接着されようとしてなおも分離する「運動」を、これほど短い措辞のなかでふくざつにくりひろげる。接着の動因が、五感の遮断と就眠だといったん理解しようとすると、「子」が二度寝によって「石=死」を具現している奇妙な日常もせりあがってくる構造なのだ。けれど構造はそう見切られた途端、決定不能性によりさらにゆれてゆく。まるでゆれることが感覚や生のあかしであるかのように。
書記効果が、書かれているその渦中に多元的なゆらぎを胚胎してゆく。そんな手つきをかんじる。内容よりもゆらぎのほうが先んじて書かれているのではないか。ゆらぎは詩集『IC』の構成そのものにもおよびはじめる。「短歌(タイトル)+散文詩」の連作のあとは、「短歌(タイトル)+改行詩(最初は縦書き、のちに横書き)」にすりかわり、その後は詩篇本体が欠落して、短歌だけが無音の交響として紙面に間歇連鎖してゆく。なんとそれで詩集全体が満尾してしまう。短歌(タイトル)では《どの穴も塞がなくては。あなたが石をコヂ起こすので》のように第三句五音が欠落する大胆な破調が生じるいっぽうで、主題としての「映画」が「内容」に断続的に出来し、通奏性が維持されたりもする(「どうぶつが…」に描かれた映画館のすばらしさ)。「双方であること」はあらゆる局面で多元的に展開されている。それで小冊子なのに、「すくなさ」に「多さ」が錯視されることになる。
みごとな構成だ。周知のようにカニエ・ナハは詩集を最近立て続けに上梓しているが、どれもがことなる野心をもっている。カニエを絶好調とおもうのは、それらが「ことなりつつも」多元的才気の展覧ではなく、「すくなさ」のつつましい変奏となっている点だ。それで減喩の方法論がヴァリエーションを実現している。このことが現在的詩作の指針となるだろう。