瀬々敬久監督『最低。』
【瀬々敬久監督『最低。』】
音楽的な類推でいえば、時制シャッフルにより過激な語りをくりかえしていたころの瀬々敬久の映画は、前衛的なコラージュ音楽のようだともいえた。この系列は時制間に矛盾の出る『トーキョー×エロティカ』でひとつの頂点を迎える。そのあとは多元的な楽章の細部に、他の楽章との連絡項をもつ、複数的ではあっても調性のとれた交響楽のような映画へと移る。その頂点がいわずとしれた『ヘヴンズストーリー』だ。映画『最低。』は『ヘヴンズストーリー』系列に入るだろう。
見事な文体と評判のAV女優・紗倉まなによる、四人のAV女優を主体にした連作短篇を、瀬々と脚本の小川智子(風間志織監督『火星のカノン』など)は、ひとつの時間軸へ融合し、三人の女性の描写が交互してゆく一大並行モンタージュ形式に変えた。ほとんど全篇が並行モンタージュ。時間の分割という点では時制シャッフルと同様だが、いわばべつべつの三人のかなしみがひとつに交響してゆく音楽性=調性に演出の眼目がある。
子供づくりさえも眼中にない何事にも無関心な夫(忍成修吾)に活を入れるためなのか実直な普段の生活からはかんがえられないAV出演を決意する34歳の主婦・美穂(森口彩乃)。家庭にうちとけず釧路から専門学校に入るため上京したが、なんとなく始めたAV女優の仕事が人気を得て、仕事がつづいている彩乃(佐々木心音)。奔放な母親(高岡早紀)に放置され、祖母(根岸季衣)に育てられ絵画の才能で自立を志しながら、帰郷したその母親が元AV女優だったという周囲の暴露に傷つく港町の女子高生・あやこ(山田愛奈)。
三者が一堂に会するシーンはないが、森口と佐々木は、AVのマネージャーとして斉藤陽一郎を共有し、オーディション(契約)に来て所在なくビルの窓から眼下の都内を遠望する森口に、そこからの高層ビルの眺めは(釧路)湿原の枯れ木の林立と似ているとある女優がいったと、佐々木の話をする。作中、あやこの父親はずっと判明していなかったが、彼女が森口の父親の死の床に訪れ、それで森口とその姉(江口のりこ)と父親を共有していたとわかる。これらが原作にあるエピソードなのかは詳らかにしない。通夜準備に疲れた森口と、半分血がつながり、それでも出会ったばかりの山田が、並んで縁先の廊下に仰臥するうつくしいくだりがあって、それが広瀬すずを組み入れた是枝裕和『海街ダイアリー』の一局面をおもわせる。時間=人物の分割が二次的な交響性を導くという点では、作品はAVを素材にしていてもたとえば川端康成『古都』の古典性などを想起させる。森口彩乃は『東京暮色』の田中絹代をふくんでいる。佐々木靖之撮影の画面はやわらかく、それじたいが女性的だ。
主要三者では森口彩乃の役柄がおもしろいとおもった(佐々木心音とつきあいだすようになる森岡龍の、輪廻をもとにした「人間何回目」の話も瀬々的でおもしろいが)。彼女は意識混濁状態で入院する父親の面倒を姉・江口のりこと交代でみていて、自堕落な江口は、清潔で実直な森口を崇敬している。ところが実際の家庭では、もうすぐ自分は35歳を迎える、だから子づくりを、と夫・忍成修吾にせがむが、夫は多忙を根拠に真率なことばを返さない。その夫が自分の知らぬ間に、ひそかにAV視聴をしているのに気づいている(忍成のオナニスト傾向は作品のクライマックスにも念押しされる)。それらの意趣返しというのだろうか、オナニストのネタへと自らを頽落させようというのだろうか、彼女はそれで風情からは大きな落差のあるAV出演を決意するのだ。
三人の主役女性たちは、それぞれの受難を迎える。学校で母親が元・AV女優だと暴露された山田。AV撮影中に意識を失った佐々木。それよりもさらに高い悲劇性をもったのが森口で、彼女は初めてのAV出演中になんと父親の死を遠隔地で迎えるのだ。姉の江口が泣きながら父親の亡骸にとりすがっている。その姉らと一泊の旅行をすると、森口は忍成に偽っていた。翌日分も撮影はのこしていたが、ほぼ必要な撮影を終えていたので、深夜、森口は実家へとタクシーを飛ばす。このとき嘘が露見していたはずなのに、なぜかだれも、どこへ行っていたのかを訊ねない。通夜準備が前夜分をほぼ終了した段階で、森口は荷物をとりにゆくのに同行してほしいと夫に頼む。それで家に帰った直後、唐突に交接を所望する。面食らう夫に反駁の余地をあたえない。オナニー姿をみせてくれ、という夫の依頼にもこたえる。それでからだを交わしおえたのち、彼女は自分が今日、AVに出演していたと告白する。意外性の連鎖する成り行きだ。
この流れにある「心理」とはなんだろうか。脱出願望と自罰の葛藤だとおもう。自分にたいするなつかしさをうしなう危機にたいし、罪を自身にぬりつけることで、なつかしさをあやうく確保するような営み。いっけん自己保持の危機にあえいでいるかにみえた森口は、危機定着によって自分の崇高化さえおこなっているのではないか。それがほかのヒロインたち――佐々木心音と山田愛奈にも「分流」する。気づきにくいが、それが基本的には静謐な映画『最低。』のしるす大きな運動だとおもえた。
森口彩乃のルックスが印象的だ。憂いをふくんだ美貌で、とても34歳という役柄にはみえないが、裸を露出するシーンでは年齢の翳りも窺える。その意味では中間的なヒロインだ。黒髪に苦労の重さがあり、しかも黒が似合う。裸でいるときよりも、前述したように、血の半分つながった山田と縁先の廊下で並んで仰臥するときの、黒いセーターの胸のふくらみに魅了される。中間的ということは、本質的に、なにをかんがえているかの明示がないということでもある。父親の見舞い、AV出演、通夜への準備、夫への誘惑、それら多くの場面で彼女は「戸惑い」と「決断」を攪拌し、身体と心情の中間状態をつくりあげる。それは奥行きであり、観客の関与を阻み、なにか高尚な空気感を揺曳させている。それでこそ「AVに出ることがどんなことか」が謎化されるといっていい。
一般論でいえば、DVDからネットへの拡散によって、AV出演はモデルにとって単発化し、その出演料もダンピング、盛期の一作100万円から10万円ていどに低落したといわれている。目先のカネほしさならともかく、貧困打開のための逆転打にAV出演はならない。それを前提にしてか、出演をつうじて純粋な性的快楽を得、自己危機を打開するとか、最もうつくしい時期の自分を、最も人間的な映像でのこすためだとかいろいろ弥縫もいわれる。それらにつき、映画『最低。』は、前言したように、罪を自分に刻印することで自分を逆転的に清潔化する動機を、AV出演におもいえがいているのではないか。その凛とはりつめた感触が、何よりも通夜当日の午前、自分と半分血がつながり、父親の絵の趣味を着実に継いでいる妹・山田愛奈を実家に迎えた森口彩乃の態度に現れている。最も心情理解のむずかしい部分に、ほんとうの心情が伏在している――それが映画『最低。』の構造だ。つまりAV出演は「最低。」であって「最低。」ではないことになる。その意味的交響性が紗倉まなの原作から得られたのかどうか、確認しなくてはならないだろう。
――角川シネマ新宿、池袋シネマ・ロサなどで公開中。札幌はディノスシネマズ札幌で来年1月6日に公開。
ヘヴンズストーリー
瀬々敬久『ヘヴンズストーリー』をたぶん八年ぶりくらいに観返した。八年前はアテネフランセでの公開前上映会に行って、そのあとユーロスペースでの公開に行けず、その後の定期上映にも北海道に居住地が移ったため縁がもてず、とうとう実現されたDVD化により、ようやくDVD鑑賞となった次第だった(アテネ定期上映での壇上トークにも誘われたのだが、道内にいてタイミングが合わなかった)。
自分のことになるが、八年前の上映時は体調がわるく、四時間二〇分の上映でからだが硬直してしまったのをおぼえている。その結果いだいた感想は――瀬々はピンク映画であれば1テーマ1作品の枠組で簡勁に映画をつくりあげてきたが、この作品はピンク映画の演出機会が減ったためある種の蓄積肥大を起こし、一本のなかに数本の映画がはいっている、その状態がくるしい――というものだった。今回、観直してみて、その悠揚迫らぬ堂々たる組成におどろいた。自分のほうが不明だったのだ。
未成年者に自分の妻子をころされ、犯人に極刑を、とつよく主張した山口県光市の被害者家族の夫(父親)の事件が映画の最初の発想源になっている。映画での父親は長谷川朝晴(大好きな俳優だ)、犯人が釈放されたのちにかならずころす、だから無期懲役をむしろ望まないと昂然と取材カメラの前で言い放つ。自分の両親と姉を殺されていたが犯人が死んだため復讐対象が存在しない少女・寉岡萌希(ただしこの時点では子役)がTV画面の長谷川を偶像視する。これが天秤でいえば片方の腕。
もう片方は後半(休憩後の第二部というべきもの)に顕在化する。当該犯人が釈放後の社会復帰をひそかに果たす。忍成修吾がこれを好演。酒鬼薔薇=「その後の少年A」ともいうべき立場だが、映画はちがう。彼は獄中にいたときの手紙のやりとりから若年性アルツハイマーで認知能力を失う過程にいた人形作家の山崎ハコの養子になる(すこし万田邦敏『接吻』=宅間守をおもわせる)。それで社会復帰後は認知能力を失ったハコの介護をしいられる、くるしい不如意のなかにいる。いつしか復讐の念がきえ、菜葉菜と幸福な家庭を営んでいた長谷川に、寉岡が復讐を全うしてほしいと要請する――これが260分にわたる物語の主軸だが、実際はこの天秤の両腕を、警官であやしい金稼ぎをする村上淳がふくざつに刺繍する。それで短い字数ではとても要約不能な物語の全体となる(ここではそれを詳述しない)。
もちろん上の書き方は誤っている。作品は計九章にやわらかく分割された全体をもつが、その中盤まではそれまで語られたこととは無関係に――つまりジャンプカット的にあらたな章が開始され、やがて章のなかに現れるどれかの人物に、それまでの章の人物との「運命の結び目」がゆるやかに「判明」してゆく手順がとられる。あるいは「場所」が間歇をはさんでとつぜんつながることにもなる(佐藤浩市-村上淳のシチュエーション=北国の廃鉱集合団地が、忍成と山崎ハコの道行きの地として召喚されるなど)。これらは音楽でいう一種のメインテーマ回帰だ。誰と(異系列の)誰が出会うのか、それでこれほど動悸をおぼえさせる映画はなかなかない。いずれにせよ綜合性にたいし理解はたえず間接的にすすむ。その「判明」がにぶい襲撃をつねに加算していって、作品の悠々たるテンポに観客はもってゆかれ、作品の「時間性」にやわらかく支配されることになる。同時にいつしか、題名中の「ヘヴン」に、監督の瀬々、脚本の佐藤有記が何を仕込んでいるのかを付帯的にかんがえるようにもなる。
瀬々は『終わらないセックス』などの回転性のように、仏教的な極楽観の印象がつよい。ところがこの映画の死後や永遠は、極楽的ともヘヴン的とも同時にいえるものなのではないか。「運命の結び目」が現れると、運命上の「対立」が一旦はあらわになる。ところがなにか強力な抽象化や蒸留や発酵が起こり、対立二項は相殺され両者がきえ、両者をむすぶ天秤だけがのこる気色となるのだ。その天秤こそがやわらかく充満し、この世の出会いにつねに作用しつづける――これが『ヘヴンズストーリー』の「ヘヴン=上方」なのではないか。「ヘヴン」といわれれば稲川方人の詩集『2000光年のコノテーション』、そのブルーな、アメリカの果ての、なにもない、しかもなおアメリカの映像が香っているあの「ヘヴン」をおもう向きが多いとおもうが、いったんは忍成修吾の科白により、「雲上の炭鉱」に築かれるべき約束の地を類推させたヘヴンは、いわば入不二基義的な「運命の結び目」、それだけの、しかも量感があって透明な模様へとさらに変貌してゆくのだ。なにかをあらしめるための潜勢力そのものが天上化されているといってよい(それを、のぎすみこが指さす)。だから最終章で「すでに死んだ者」「自らの過去」が画面の現在に混入してゆくことにもなる。その演出は少々感傷的だが。
物語の語り口よりも「運命の結び目」のほうが衝撃的に顕在化する映画にはエドワード・ヤンの『恐怖分子』があった。四時間超えの悠々たるリズムと時間性により、世界の肌理そのものに迫る映画にはおなじくヤンの『クーリンチェ少年殺人事件』があった。瀬々はこの「運命の結び目」を悠々とえがく『ヘヴンズストーリー』において、それらを自分なりに合体しようとしたのではないか。ヤンの俳優たちが役柄を超えた「ただの存在」として画面に現れたようなことは、『ヘヴンズストーリー』の俳優たちにも多く起こっている。髪型の変化ひとつとっても俳優たちに「時間」の澱の累積があるのだ。
それは季節と場所をまたがり、俳優群が章ごとに局在化するため一年半の長丁場にわたった撮影条件とも関連している。なんとカメラマンは、鍋島淳裕、斉藤幸一、花村也寸志の三人共同名義だった。拘束期間が長すぎてスタッフを一定化できない現場で、集中を切らせることのなかった瀬々はさぞや孤独をしいられたとおもう。結果、子役にちかい出演者の表情に「成長」さえ刻まれることにもなった。手持ちでゆれる映像、それをこまかくつなぐことで刻まれる、世界の現れの不安定な複数性。全体のpaleな色調。「鳥」はアニメイトまでされて映画の空=ヘヴンを飛ぶ。百鬼どんどろ=岡本芳一の導入による、映画の「部分」の、キメラ的寓意化もある。それをみて泣く山崎ハコは、『女と男のいる舗道』のアンナ・カリーナのようだ。
瀬々ファンとしてはなによりも「犯罪」を主軸に置いた十八番のつくりになっているのがうれしい。犯罪の渦中・事後、それにたいし瀬々の想像力が発動したとき、「時間の孤独」(これはゴダール的なものだ)が発現され、それが詩的な昇華と同時に散文的に重たい不恰好をも湛えるのだ。これが瀬々映画の最大の特質だ。終盤の長谷川と忍成の対峙と展開に、身体的な感動をおぼえない観客はいないだろう。それと、これまた十八番、風景の召喚力。瀬々映画では「廃墟」「疎外された風景=棄景」はトレードマークだが、そこに「霧」(『すけべてんこもり』)、海=水(『HYSTERIC』)、集合住宅などがさらにここで接続する。江口のりこの住むアパートと、その外延などには息を飲んだ。それと高架電線にも。「風景論の作家」と瀬々はいわれ、筆者自身もそう語ってきたが、注意すべきはそれが松田政男の提示した範疇におさまらない点だ。とりあえず隣接ジャンルとしての写真をかんがえてみればいい。「PROVOKE」派の写真家から佐内正史まで、瀬々の美意識は長い線分をえがき、写真を超えようとしている(江口のりこの出産シーンは、大橋仁的でもあったが)。
ところで瀬々の映画美学校での教え子で、瀬々『ユダ』から瀬々の共同脚本家となった佐藤有記は、この『ヘヴンズストーリー』で大輪の花を咲かせた2010年ののち、ネット上のフィルモグラフィにその記録が現れない。これはなぜなのだろうか。
瀬々敬久・8年越しの花嫁
【瀬々敬久監督『8年越しの花嫁・奇跡の実話』】
いわゆる商業映画を撮るときの瀬々敬久監督の念願は、「どこまで透明になるか」ということではないか。YouTube映像や番組「奇跡体験!アンビリーバボー」、さらには書籍化でも話題となった、卵巣腫瘍によって生じた抗体により脳に異変をきたし記憶障害をのこした花嫁と、「記憶」問題を克服、ついに彼女との結婚を果たした花婿の「実話」をえがくにあたり、瀬々監督が中心に置いたのは、説話のリズムをどのように組織するかだった。「泣ける」と評判のこの映画では、終盤の音楽的な情動が、みごとな透明性を発現している。
岡山・小豆島での実話を、そのまま当地で撮る。瀬々監督とかつては霊的兄弟といわれるほどのコンビネーションを発揮したカメラマンの斉藤幸一は、この作品では地霊(ガイスト)の揺曳などに頓着しない。絶景主義も瀬々-斉藤コンビにはもともとない。観終わって、景観として印象にのこったのが、主演カップル、佐藤健と土屋太鳳が初めて親密に接近する、アーケード街の先の、夜の市電停留所くらいしかないという徹底ぶりだ。居酒屋での合コンの席でつまらなさそうに打ち解けずにいる佐藤を、とおい席から見ていた土屋が、一次会が果てたあと、合コンに出ている義務を果たせと詰め寄り、佐藤が腹痛をおして臨席していたと告白、土屋が平謝りし、いったん離れてからも腹痛軽減のための携帯カイロを渡す(しかも佐藤の乗った市電を走って追う)、今時の恋愛発端とはおもえないシーンだった。
ふたりは婚約する。夜の高台。土屋のしている指輪をみせて、と佐藤がいったんその指輪を抜き取り、返すときに婚約指輪にすりかえるトリックに土屋がなかなか気づかず、彼女のリアクションに生じるヘンな間がかえって生々しいなど、ふたりの交情成立過程にも見どころがあるが、映画に流動の芯がはいるのは、ふたりで行った愉しいはずの婚前旅行(それらは滝など景勝地の映像として佐藤の手許に写真化されている)を土屋演ずる麻衣がいっさい憶えていないと恐慌をきたし、やがては佐藤ふんする尚志と病院に向かう途中で深甚な頭痛にのたうちまわる急転直下部分からだ。コンテンポラリーダンスの才能でも知られる土屋の痙攣動作の迫力もすさまじいが、やがて入院して昏睡状態がつづくくだりでの顔の変型とむくみが、いわゆる「やつし」の域を超え、直視できないほど凄惨なリアリズムとして迫ってくるとき、とりあえずこの作品が「顔の映画」として配剤されている、という理解が生じる。顔が変型からやがて土屋が入院529日目に目覚め、もとの美的秩序を恢復するまでが、律儀な日付テロップと相まって、無調から調性へといったように、音楽的な彎曲をなすのだった。
恋人の異変にも臆することなく一途に看病と見守り、温かい身体接触で励ます佐藤の姿は単調と映りかねないが、そのあたりは実話に基づいているだけなのだろう。ゼロ年代の純愛のあかしとしてケータイ電話、自撮りなどが駆使され、佐藤は土屋と自分の姿、あるいは自分だけの日常、「クルマいじりが趣味でクルマいじりを仕事にした」生での同僚との交情などをいわば短い映像日誌として、意識恢復をみない段階での土屋のケータイに動画メールしつづける(これがのちの伏線となる)。
一途だった佐藤にドラマ上の試練があたえられる。土屋が意識恢復したのち家族(母が薬師丸ひろ子、父が杉本哲太)などの記憶も取り戻されるが、佐藤の記憶が再形成にいたらない。土屋は「学習」により、伝え聞いた佐藤とのエピソードを不自然に身体装着しようと奮闘している。1555日目にようやく土屋が退院にいたるまえ、意識恢復が見込めない段階でも、婚約者にすぎず「家族」の共同体責任をおわない佐藤は、土屋のそばにいさせてほしいと懇願、職務をやりくりし、遠隔地での見舞いに日々駆けつけていたが、意識を戻しても佐藤の記憶だけが土屋に戻らない。換言すれば、馴染みない「他者」が婚約者の特権で眼前にいつづけ、愛が伝承されてもその自覚のない土屋には違和感と苦衷があるはずだ。それを土屋の表情から汲みとり、とうとう佐藤は別れを土屋とその家族に切りだす。このときの存在の翳りが佐藤の存在を一気にうつくしいものにかえる。黙ったまま佇み、やがて消える者へ――この変転もまた音楽的な彎曲といえる。
土屋と別れ小豆島に仕事場を替え、クルマの修理作業に精をだしながら隠遁生活をみずからに課していた佐藤にたいし、土屋じしんは衰えた歩行機能を恢復させようと懸命なリハビリテーションに努めていた(彼女の美的秩序はすでにその顔に復活している)。このとき「部分的」な記憶の恩寵が到来する。「なぜか」街なかの結婚式場の、階段によってしつらえられたロマンチックなエントランスに車椅子の彼女はふと心ひかれる。そのようすを中村ゆり演ずる黒スーツ姿のウェディング・プランナーがみとめ、病気からの復帰を祝う。自らを知っている、自分では知らない他者。いわぱ佐藤を純粋化した存在。このとき土屋の意識の戻らない状態でも佐藤と土屋の出会った日付に、当初の予定を繰り返すように佐藤が毎年、結婚式の予約を入れていた事実を知る。
この日づけこそが土屋が開けずに手許に残していたケータイを開くための四桁数値のはずだった。そう直観した彼女がその数値を入力すると、「かつて」点綴的にしめされていた佐藤の映像日誌送付の様相が「いま」「そこに」続々と復活してくる。映像の波状攻撃。記憶とよばれるものが映像との近似値をどうしようもなくもっていること、それじたいが非親和であってもその連鎖性に親密感のあること、それはひとを「襲い」すらすること――実際は映像哲学に属するそれらが、ドラマのなかに哲学性を誇示することなく配剤されている。観客はこのあたりで涙腺を刺戟されつつ画面の推移を、息をのんで見守るしかない。
車椅子を操る不如意な状態の土屋が、単身、岡山からの乗船での小豆島行を決意する。父親・杉本哲太の心配をよそに、かつて佐藤に「あなたは家族ではない(だから娘の悲劇を共同体成員として真に受け入れることはできない)」と冷徹に言い放った薬師丸ひろ子が、「単身で行くことに意義がある」と語りきったとき、それもまた音楽的変転といえるだろう(悔悛の場面にも似て泣けるのだ)。ついに小豆島にたどりついた土屋は、公園で地元の子供たちのためにブランコを直していた佐藤を気づかれずに遠望する。佐藤が気づかないまでの間。車椅子で空間の空白にいる土屋は、遠景でとらえられるからこそその孤独がうつくしい。やがて佐藤が気づく。駆け寄ろうとすると、それを土屋が制止、自分から近づくといい、やがて佐藤の至近にたどりつくと、今度は佐藤が歩いてごらん、と試練をあたえ、彼女を車椅子から抱きかかえる。全身抱擁にちかい恰好。それで気づく。手やゆびの接触までに描写をとどめられていたカップルの身体相は、ここにいたり、全身化=全面化したのだと。これもまた音楽的増幅といえるものだ。
この音楽的増幅はドラマにおける「記憶の主題」を変成・補強させる。あなたとの愛の記憶がもどらないのなら、「愛のない」タブララサ状態から「愛しなおす」矛盾こそを自らへの倫理とする――抽象化すればそのような意味を生むことばを土屋は語りきる。それで記憶以外のものがあふれだすようになる。むろん泣けるのだが、記憶はそれじたいが全開ではない、逆にすべて閉じられたままのときは近似値として日々の積み重ねに、記憶と同等の「同一化」の恩寵を転位させるしかない、という考察さえかたられているのだ。ひとつがないことで、「ほか」があふれる。ふたりはとうとう結婚の誓いを「立て直す」。
直後、映画タイトル「8年越しの花嫁」がそのままテロップされ、一気にジャンプカットで結婚式映像に移る「タイミング」こそが、音楽性が音楽性をもって観客を泣かす透明な機能を負っているとわかる。このとき結婚式の演出を仕切っているはずの中村ゆりのプランナーが控えめにスタッフとして臨席している。観客は確信する。「8年」の時間は結果的には変転の連続だったが、無変化の定点が同時に刻まれていて、その極点こそが中村ゆりだったと。定点が人間のかたちをし、しかも傍観者の役割でいる世上の事実にこそ、最も泣かされた。「実話」売りをしているかのような本作にはそんな立体構造があったのだが、むろんそれには脚本の岡田恵和の貢献もおおきいだろう。
――12月20日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞。大量に詰めかけていた女性客が途中からハンカチを握りしめ、目を泣きはらしているのを横目でみて、瀬々監督の勝利を確認した。ほかの「実話」映画のロマンティシズムとことなり、本作はすべて「ありえる映像」で峻厳に構成されている。
鈴木一平・灰と家
【鈴木一平『灰と家』】
鈴木一平は想像力の区分ではコラージュ型の詩作者だ。通常、コラージュは外在領域から収集されたものの選択、配置換え、一堂化、美術化といった方法を透視させるが、彼のばあいはそうではない。ありうべき自己組成をコラージュによって別の組成へと内在的に変貌させ、ときにそれが脱臼にまでおよぶ過激さを呈する。しかもその過激さが静謐にかんじられることが彼の得難い個性なのだとおもう。かたわらで、そうした自己変貌をくみこむ詩作に、冷徹なアルゴリズムが介入している感触もある。だからそのコラージュ≒モンタージュは「編集」というもうひとつの字義に合致するだろう。
一九九一年、宮城県生。実家の立地にもよるのだろうが、自然景物がよく詩の細部に登場するのは、彼の成熟(老成)した句眼も経由されているためだ。個性は多元的。彼の第一詩集『灰と家』(いぬのせなか座)は二〇一七年度、諸家からの讃辞をあつめたが、これらのことがほぼ指摘されていない点におどろく。「見開き単位」を一篇掲載の基準とし、そこに縦書き、横書きの変化を顕在化させる詩集レイアウトも、鈴木一平の詩法のふくざつさと同期している。
鈴木一平は「同時に」、減喩詩、俳句、日記記述(小説の亜種)、実験詩の達人で、それらの優位性からなにが選択されるかが、各詩篇の方法的錯綜、詩的内在の材料となる。抽象的な指摘を控え、具体に就いてゆこう。詩篇「岸辺の木」の、縦組みになっている前半二聯分を引く。論議のため、詩行冒頭に数字をふる点、ご了承ねがいたい――
1 引っ越した町の、うす青い空の日差しで
2 水面をとりもどす雲に、細かく映ったとおくの小屋は
3 遅れてやってくる
4 木の高さで枝がゆれたあと、すこし遅れた時間にも
5 なじむよう、ここに届くまでの時間をまねて
6 雲のうしろを抜けたあと
7 目の高さまで届けられた木が、話しかけてくる
8 さっき川べりの土手にはこんで、乾かしたはずの木陰が
9 また落ちていて、木の高さほどの日だまりに
10 かど部屋の、山茶花のなかに
11 あらわれる野を横切る雲が、景色は
12 しずかに厚くなる、いまは見えないところまで
13 目の高さを乗せた木は
14 それが倒れこむ土砂の影だったと気づく
同語反復が多い点から貞久秀紀の詩が、了解が遅延し、書かれてあることの時間経緯に注意がおよび、把握にかならず遡及行為がはいる点からは江代充の詩が、おもわれてしまう。精確の魔により再帰性が冗語感をともなって現出しているのではないかと。叙述が基準となるだけで、文字として現れていない世界観との交錯、干渉がないのだから、詩中に暗喩がないといえる。欠落があるようにもおもえ、その穴をめぐって読みがゆれる。それで減喩詩のたたずまいまでかんじるのだが、仔細に行をたどりなおせば、語やフレーズが自己内で交換されているのではないかというそれじたい正当な読み筋が生じてくる。
1行目「うす青い空の日差し」の「うす青い」が「空」に懸かるのか「日差し」に懸かるのか不分明な点が実際は不穏なのだが、雲が厚いか、薄明時刻なのかどちらかだとあいまいに情景がイメージされ、とりあえずは書かれだしたものが了解されてしまうだろう。しずかな異変をつげるのは、それ以降だ。
2行目「水面をとりもどす雲」が躓きの石となる。雨気をはらんだ雲ということかもしれないが、ひとは雲に「面」を感覚しない。それは不定形だし、表面を欠いた奥行きであることが多い。それで「雲が水面をとりもどす」では周到に意味形成が排除されることになる。その他、2行目を分解的に読めば、以下のような意味の関係項が畳まれていることがわかる。「日差しにより雲が水面をとりもどす」「雲にとおくの小屋(の像)が映っている」「その小屋の映りは、(なにかに)遅れて現れている(隠れているわたし、そのあゆみにだろうか)」。これら自体はうつくしい把握やイメージ提示に一見おもえるが、すべて物理法則、気象法則から外れているために、読者はイメージに脱イメージを、意味に脱意味を「同時に」つかまされて、読みが確定できない中途性のなかに置かれる。
やがて関係項がおかしく、それらが読みの可能性のなかで是正されれば一連が可読的になるだろうという判断がうまれる。「映る」のは「雲に」ではなく「水面に」だ、「うす青い」のは日差しではなく雲だ、ととらえなおされるようなもろもろだ。それで鈴木の詩的記述は内部入れ替えによって、その1行目から3行目までがたとえばこう書き直されるだろう。
《〔よわい〕日差しによってうす青い雲のした、引っ越した町があり/〔風が落ち着き〕〔ながれがゆるやかになって〕〔川の〕水面に/雲が〔ぼんやりと〕映る〔その気づきへと〕/〔わたしのあゆみが〕遅れてやってくる/〔目路にはいってくるのは〕〔わたしのむかう〕とおくの小屋だが/〔それはとおくあり、角度もちがうので〕〔川面には映らない〕》。
掲出した詩篇を確認していただければわかるだろうが、鈴木一平の詩行は音韻が抜群に良い。しかし意味が脱臼する。しかも読者は音韻の信憑によって補正をおこない、ありうべき理路を予感する。そうなって、詩が「音韻」「脱臼」「補正された理路」を同時に読まれることになってしまう。あるいは単純な読解ではなく「読解可能性」を再帰的に読解することへみちびかれる。ひとつとは複数のことだ――そんな信念が鈴木一平にはあるのではないか。
4行目から7行目。つかめないのは「木の高さで枝がゆれる」「時間にもなじむ」「時間をまねて」「雲のうしろを抜けた」などの措辞だろう。それらが物理法則に合致しているのか反しているのかさえ自明ではない。たとえば「木の高さで」の限定は精確性の付与のようにおもえながら、むしろ具体的なありようを混乱させてしまう。「木の高さ」「目の高さ」、「時間になじむ」「時間をまねる」が対比されているようにおもえる。「まねる」は江代充や高木敏次がその驚異的な用法を定着した動詞だ。また「目の高さ」は通常は地平線、水平線などにたいしてもちいられる。これらを綜合的に勘案し、さきと同様に正当な理路を再編すると、どうなるだろうか。冗長をおそれずにやってみよう。綴られることは記述の穴のまわりをたよりなげに周回する、減喩にたいする態度となってゆく――
《〔木がその全体でゆれるのなら〕〔木は〕木の高さで枝がゆれる、/〔そう形容できるが、〕〔枝の高さが木の高さとそのまま認知できるかはわからず〕/ゆれたあと〔風がおさまって〕〔その場所にわたしは〕遅れてやってきて/〔それまでのあゆみを〕〔いまのあゆみと〕なじむよう/ここに届くまでの時間をまねて/〔自分のぜんたいを時間とかわらないものにすると〕/〔浮遊をえたのか〕〔ひとつの離魂となったわたしは〕雲のうしろに抜け/そのあと〔浮上したわたしの〕目の高さ、〔地平に先端をしるす〕木が、話しかけてくる/〔そうおもうのは〕〔時間になじみ〕〔時間をまねる〕〔わたしの遅れが奏効したからで〕/〔いつしか親しみやすく、木の高さと目の高さもおなじになった〕》。
聯がかわって8行目から12行目の途中まで。しずかだが不穏な意味脱臼をしるしている措辞(関係)をまず摘出してゆく。「木陰を土手にはこぶ」「木陰をかわかす」「かど部屋の(なかにある)山茶花」「山茶花のなかにあらわれる野」。これら了解不能性と同時に、すでにみた一聯中の語句との照応が起こり(「水面」→「川べり」、「とおくの小屋」→「かど部屋」)、詩世界が収束にむかう気配もある。
《〔わたしも雨にうたれ〕〔ぬれたほか自分のいた木陰のくらさを〕〔おのがからだにのこしていたのだが〕/〔それを〕さっき川べりの土手にはこんで、〔からだにのこっている〕木陰を乾かしたはずだったが/木陰は〔わたしをはなれ〕まだ土手に落ちていて/〔それが反映の法則なのだろうか〕日だまりは〔眼下のみならずとおくへものび〕/〔想像かもしれないが〕〔めざすとおくの小屋の〕かど部屋の〔窓にも庭の〕山茶花が映り/〔とおくというものを入れ子するように〕/〔山茶花の蘂に〕野趣のあらわれるいっぽうで/〔その背後には〕雲が横切り/景色はしずかに厚くなる、》。
場所にたいするからだのさみしさが揺曳しているのは事実だ。だが、詩篇はそうした抒情の枠に安閑とおさまる決着をきらう。12行目の途中から最終14行目にぶっきらぼうに難読性がころがっている。奇妙なのは「目の高さを乗せた木」「木が倒れこむ」「それ〔の指示対象〕」「木は土砂の影だった」など。ここからは理路への補正にかかわる自信が喪失してゆく。どう読むかゆれるどころか、わからなさで途方にくれるというにちかい。渡りかかった舟なので、とりあえず試行を完遂させる。
《目の高さ、〔地平線のとおさを〕乗せて〔とおくにある〕木は/いまは見えないところ〔にあるといってよく〕/それ〔自身のたかさをうしない〕倒れこむ〔ようにおもえたとするなら〕/〔もともと木とは〕〔くずれる〕土砂の影〔にひとしい〕/〔そうわたしも〕気づくのだが、〔思いの材料となった土砂は〕〔さっきの川べりの土手にあった〕》。
鈴木一平が一筋縄ではゆかない、これを立証するだけでこれだけの字数をついやしてしまう。ほかのすばらしい収録詩篇でもそれはかわらない。配置替えという要素を除いても、上記が論脈を補ったように、鈴木一平の詩的組成はあきらかに「足りない」。彼もまた、「すくなさ」を書いているのだ。それでは詩集の中枢を形成する「日記 1991.7―2016.7」はどうか。これも日誌的記述に俳句が複合されただけ、日誌と俳句をべつべつにとらえれば済むという「一筋縄」で対処することができない。俳句が達意なほか、日記と俳句もふくざつに反映しあう。それらはやはりコラージュの切片で、反映の実験がおこなわれているとよく、抒情性に法悦しても素朴な読みが峻拒される。
しかも日記的記述も可読性がたかいようにおもわれながら、その存続を脱臼する機能が仕込まれている。ひとつは掌篇小説的な意外性の展開が事実以上の作為をときにかんじさせることだ。カフカ的におもしろいパートが多々ある。「三浦さん」との交情を中心に時系列で加算されていった外見をもつ青春の日々の記載も、その死の到来で頂点を迎えるが、九一頁、《駅前を歩いていると、横断歩道の向こうに三浦さんがいた。》の記述を不意にぶつけられる。「幽霊」なのか。もしかすると時系列編集とおもわれた日記的記載の連鎖に、時間軸のくるったコラージュ=編集が介在しているのではないか。一切を素朴に読みすぎたのではないか。
日記の副題部分は日付で、前述のように「1991.7―2016.7」となっている。これも奇異だ。学籍中の鈴木の日常を綴ったと括られる日記的列挙、その起点が鈴木の生年にまで遡行しているのだ(なお、日記の創造的活用は江代充『黒球』に先例がある――そこでは日付が予想不能に錯綜する章展開がある)。とりあえず俳句と日記的記載の「反映」を、俳句+日記のいくつかから拾ってゆく。詩集レイアウトでは大きめの字の俳句の「傘」のしたに日記が収まっているがその体裁の再現は無理なので、「俳句」→「日記」と、横にひろげるように空間翻訳する。ただしキリがないので、例証は五つに限定する。このキリのなさはなにか――詩集『灰の家』には細部があるが、静謐ながら全体が歪像にのっていて、形式ではなく内実の全体を名指すことができないのだ。これを、全体=「全体の不可能」と換言してもいい。
日暮れかと薄く牡丹に帰る人
母親から写真が送られてくる。狸が、家の庭に咲いている花のにおいを嗅いでいる写真。むかし、裏山にある離れでありじごくを捕まえていると、花の繁みのあいだから、鹿があらわれた。鹿はこちらをじっと見たまま動かなかったが、ふいに、跳ねるように逃げていった。
掲出句は自己破砕の寸前だ。それでもある生き方をにじませている。薔薇とはちがう牡丹の東洋的な威容とはなやかさは日中ではつよすぎる。それが「日暮れ」になると弱体化し、それで牡丹(の牡丹的稠密に)人は「帰る」ことができる。それには日々を循環づける「日暮れ」、その時刻の認証と体感が必須なのだ。仮定により、うごく。仮定によって「帰る」。かんじられる「生き方」とはそのようなものだろう。中七あたまの「薄く」の斡旋に動悸する。
俳句には「花に隣すること」のしずかな昂奮が底流している。母親がケータイで添付メールした写真ではその当事者が狸になり、それを契機に実家での記憶がさらによみがえってくる。蜂や蝶の昆虫ではなく、動物が花を嗅ぐ生々しさ。花は性器化される。花の繁みのあいだにかつてみた鹿もよみがえる。それは対峙のあと消えていったが、自他を介在する花こそが緊張要素だった。出現の本当とは、「花に隣すること」なのではないか。俳句と日記的記述を複合すると、照応要素として現れるのはこのような直観だろう。
人来れば頭〔こうべ〕を少し上げる柿
会社を出て、家の前まで来て、鍵をなくしたことに気がつく。定期入れの内側のスリットに家の鍵を入れているので、定期入れを取り出すたびに、落とさないように注意している。大家にはだまって鍵を替えたので、お願いできず、いくら探しても見つからないので、前にいっしょに住んでいた人を呼ぶ。部屋に入ると、いつも鍵を入れている木の器に、鍵が入っていておどろく。
日記記載は鍵の紛失、解決にいたったその帰趨についてだが、論理的には奇妙だ。扉は施錠されていて、その扉のなかの世界に、鍵はのこったままだったと語られている。定期入れのスリットから落ちたのだろう、とそれらしい前提がしめされ、しかも鍵は無断でかえられたため大家の開錠その他がありえないという。「前にいっしょに住んでいた人」が曲者だ。こう書かれると、男性のルームシェア・パートナーよりも、恋人で、かつて同棲していた女性が想起されてしまう。その「彼女」だけが鍵のトリックを実行できる位置にいるのだが、記載はそれを問わない。ただ「彼女」のふくみが立体性をおびて日記中に揺曳している。
順序が逆になったが、俳句のほうはどうか。自分の迂闊さを告白すると、ぼくは鈴木を、当初、詩篇等に現れる「熊」「鹿」「雪」などのディテールから北海道を故郷にもつ、と誤解していた(前述のように出身は宮城県だった)。ちなみに柿は本土が北限地で、道内には柿の植生がない。だから句中の柿はフェイクで、それが日記的記載と「照応」しているのではないかと邪推したのだ。その条件がないと、日記主体のアパートを、久しぶりにかつての恋人が来訪したのを、大家が植えた庭木の柿、その実が歓迎したというだけの照応となる。だがはたしてそうか。
日記中に書かれていることからかつての恋人への疑念がうすくにじんでくる。このうすいにじみが、ひとの来訪にあたっての柿の応接態度にもある。それらはともに「事実」ではなく、「そうおもえる」ことの現れにすぎない。それにしても句の初五「人来れば」の「来る」のふしぎさ。「行く」の別離感にたいし、「来る」はいつも再訪の様相をおびて、しかも目的地が「自分の場所」になるのだ。その「来る」をしたのは、はたして元・恋人だろうか。うしなわれたとおもった「鍵」こそがそれをしたのではないのか。
降りる駅に乗る足渡り鳥の声
仕事おわりに、喫茶店で本を読む。家で飼っていたねこが死んだと、母親から電話がくる。高校生のとき、父親が消防署の駐車場で拾ってきた。夏に帰省したときは、ほとんどなにも食べなくなって、がりがりに痩せていた。柱に体をかたむけて、ずり落ちながら横になった。電車をおりて、ホームを歩いていると、窓にちいさなヒビが入った車両を見つける。よく見ると、頭を窓に押しつけて寝ていた人のつむじだった。
句にある歩廊は渡り鳥の声がする点から、作者の生地に所在しているのかもしれない。句は車輛に下車するひと、乗車するひとの交錯を主題にしていて(乗車するひとは足だけの換喩性でとらえられる)、それが日記中の「ねこの死」の反映をうけると、死ぬひと、うまれることのこの世での交錯へと拡大する。それを、移動を本質とした渡り鳥、その声が荘厳している気色。しかも下車・乗車では前者が先行する。しなければならない。となればひと=ものの死のあとに、べつのものの次なる生誕が訪れるのがこの世の法則なのだ。とはいえそれらは円滑につながれる。このことの提示のために、句切れをもうろうにする「渡り/鳥」の句跨りが動員されている。
日記中では、動作が転移する。衰弱したねこは、作者の帰省中、平衡感覚のよわまるからだを柱にあずけたが、そこから滑るような横臥をしいられた。句の「駅」を反映されて日記記述も東京のどこかの歩廊へとジャンプ・カットされるが、ねこのあわれをさそう動きは、車中の座席にすわり、反り返って後頭部を背後の窓にあずけ、ふかくねむるひとの「ずり落ちない」姿勢に転位する。ただし頭頂ちかくがつよく窓を圧迫して毛髪がよじれ地肌がひろがっている。それを日記主体は最初、ガラス側に生じた「ヒビ」とみたが、論理がそれをねむるひとの「つむじ」と訂正した。ところがねこの死は「ヒビ」なのだ。だとすれば車輛の昇降、その交錯も時間軸上にヒビをつくるのではないか。照応はこのように領域拡大をしてゆく。
眠る目を指で開けば冬の井戸
マクドナルドでコーヒーを飲みながら、三時間ほど本を読んでいると、三浦さんがやってくる。三浦さんとビールを飲む。小さい頃は見た夢を一日中おぼえていて、夢のなかで自分が取った行動を反省したり、あたらしい細部をおもいだしたりできたのに、さいきんは夢を見ても一瞬で忘れてしまうと話をすると、三浦さんが、酒を飲んで寝るから、夢のなかでも酔っぱらっているんじゃないか、といった。
日記部では、夢をみること、それを記憶していることにかかわる見解が、三浦さんとのやりとりをつうじて綴られている。「コーヒー」「ビール」「酒」というふうに液体の連接がある。やがて寝酒が夢の生じる部分に就眠中浸潤してきて、夢それじたいの酩酊が、寝る者に意識や記憶をあたえないのではないかという「三浦さん」の冗談ともつかぬ物言いが結論となる。このとき就眠と夢の関係が、中心に不可能を刻印された入れ子となるだろう。
俳句のほうは「眠る目」が一見、斡旋の失敗におもえる。「閉じる目」としたほうが穏当だろう。そうでないと、就寝中の他者の瞼をこじ開けたら、みえた目に冬の井戸を聯想した、というような異様な誤読をまねきかねない。むろん「存在の感触として」ひらいてはいてもねむっているような「自分の目」を自ら指でこじあけると、冬の井戸がみえ、自分の目も冬の井戸だった、という句内の「照応」が眼目になっている。入れ子の奥にある「井戸水」が、夢を展開させる基底材として、日記記述の「酒」と照応するのだ。ひとは内側をもつ。夢がその証左だ。世界も内側をもつ。井戸がその兆候だろう。だから冬にも内側がある。
稲刈れば身の透きとおる夕べかな
高校の同級生の家の稲刈りを手伝う。大学の授業について聞かれて、今年はほとんど出席していない、年間で八単位取れればいいほうだと答えて、怒られる。夜、酒を飲む。布団の代わりに鹿の着ぐるみを着て寝る。翌朝、ちかくで火事があり、そこに住んでいた人が行方不明になる。
句は永田耕衣《夢の世に葱を作りて寂しさよ》ほどのおおきい句格と一見おもえる。鈴木の作句の古典性とは、切れ字使用が多いことだ。ところが淡さ、はるかさ、抒情の印象をあたえる措辞「身の透きとおる」が、対置された日記文により、ふくざつな干渉をうける。
おそらく宮城の農村では、田植え講があるように稲刈り講というべきものもあるのかもしれない。手伝い作業が無事終わり、高校の同級生の家での祝宴酒席となる。そのさいバイトと詩作に明け暮れ、学業がおろそかになっている日記主体が叱られた。善意と常識からの諫め、それは友だちの父親によってなされたのではないか。ところが日記主体にとっておそらくその生き方は「市隠」の状態を提示しているのだ。
それは具体性に転位する。一泊のさい、借り受けた柔らかく温かい素材の鹿の着ぐるみをパジャマ、寝袋代わりに身に帯びる。顔だけくりぬかれ、あとは全身をつなぎで包まれているそのありようもまた「市隠」といえる。知力を磨くために市中に隠れている侠者は世にいるものだ。だが、「隠れ」はそれだけではない。ニュース報道では失火した家の行方不明者を、いまは「連絡がとれないでいます」といい、焼死のむごいイメージを払拭させるのが通例になっているが、身元確認手前のその状態もまた「市隠」といえる。句中の「身の透きとおる」には、すがすがしくほこらしい達成途上性以上に、「市隠」の様相のふくざつさが「逆反映」されることになる。それは永田耕衣的な名句性を、自身が矮小化してゆく反動をもおもわせる。鈴木一平は「したり顔」の単調ではなく、自壊をアルゴリズムに組みこんでいるのだ。
先に書いたが、魅力的なディテールに即してゆくとキリがない。このキリのなさが詩集『灰と家』の再読誘惑性を組織する。読んでも読んでも足らぬもの。逃げ水のようにその全体があるのだった。
マーサ・ナカムラ『狸の匣』
【マーサ・ナカムラ『狸の匣』】
『哲学の余白に』のジャック・デリダは、隠喩=暗喩を、偽りの生産装置(単位)として敵視する。とりわけそれは哲学的言説にあってはならないものだと。デリダが俎上にのせるのは、A is B構文中のbe動詞、つまり繋辞だ。AとBとのひとしさをしめすこの構文は、実際は論証ではなく類似の直観によっている。直観だから恣意的だし、同一性ではなく近似値の誤差もつくる。ひいては類似関係のAとBが干渉しあい、まざりあって奇怪なキマイラを生むし、接合面に隙間の生じることもあるだろう。ひっきょう繋辞構文による暗喩の連続は、世界を、幻影や近似値にあふれかえった非実体にかえてしまう。言語が思考を害した惨禍がみられるだけになる。そこでは個々の存在よりも接合のほうが優勢的になるのだ。
認知言語学の理論書が詩学の定立に役立たないというのはほぼ常識に属するだろうが、そこにはかならず比喩の分析があり、換喩におされているとはいえ暗喩考察のための例文もある。認知言語学のまずしさはこの例文の凡庸さ、みじかさに負っていて、それは暗喩分析のばあいも変わらない。たとえば「彼女は薔薇だ」。これを「彼女は薔薇のようだ」に較べ「ようだ」の直喩提示が隠れているから暗喩だとし、「彼女」と「薔薇」の類似性が示唆されたとするだけで、認知言語学はほぼ議論を終了させてしまう。これを必要な措辞を脱落させ、短絡させた不全な文とはとらえないし、精確さ、ひいてはうつくしさを欠いた圧縮的短躯ともみない。西欧語ではともかく、日本語では表現が陳腐すぎて、詩どころか歌詞にもみられない用例だろう。こういう生きていない例文を厚顔に提示してしまうのが多く認知言語学の弱点なのはまちがいない。
もうすこし詩らしい例文で、偽りの生産装置=暗喩をかんがえてみよう。大手拓次の一節から引く。《あなたは ひかりのなかに さうらうとしてよろめく花、》。ここでは「あなた」と「花」に繋辞の等号が懸けられたかにみえるが、実際はそうではない。「あなた」は「花」だけではなく、「蹌踉」にかかわる憔悴相、「よろめく」にかかわる弱い動作停止、それらにも同時に似ており、しかも表記上のひらがなのやわらかさにも、「、」の息もれにも複合的に類似している。ということは、「あなた」の正体とは多様なものに類似線をのばす「自体の非完結性」であって、書き手は「花との一致」ではなく、むしろ「他との一致をみない、それじたいとの一致」のほうにこころをうごかされている気色となる。
しかも一字空白にはさまれた「ひかりのなかに」は、あなたの所在場所をしめすのか、花の所在場所をしめすのか、さらには「あなた」と「花」がともに「ひかりのなかに」いるのか、判断を終始留保させる。「ひかりのなかに」は場所を架橋させる機能をおびながら、関係項の場所をむしろ不在化させてしまうといっていい。結果、この詩句で印象にのこるのは、「あなた」でも「花」でもなく、「さうろう」「よろめく」となぜかむすびついてしまう「ひかり」の憔悴相ということになるのではないか。「一致」をめざす認知言語学ではなく、微差を見とおす詩学ならば、以上のような読みの手順をとるだろう。それでも詩の実作者は大手拓次のこのフレーズに、あまやかであっても「偽り」をみる。「あなた」と「花」の同在化は、反映のような距離をふくまないためだ。
A is Bの繋辞構文は論文や箴言には散見されるだろうが、詩では、とくに日本語の詩では、あまりもちいられない。自己規定や対象規定として「わたしは」「あなたは」を主語に、属性を付与し、情熱の質の限定をおこなう事例が目立つだけだ。暗喩派の典型とみなされているだろう鮎川信夫にしても、ためしに『現代詩文庫9 鮎川信夫詩集』をひもといてさえ、デリダの知見とはことなり、詩篇フレーズから繋辞構文を採取することがほぼできない。「彼女は薔薇だ」的な修辞の陳腐さから離れることで、もともと詩の組成が発想されているのだ。むしろ暗喩は「意味」形成上の迂回性、フレーズが意味それ自体から離れようとするたわみとして多元的に現象しつづけている。「直接言わない」のは短縮形をとる繋辞構文だけではなく、さまざまな構文の型だということだ。それらも暗喩に属する。鮎川のばあいはこれに翻訳文体がからんでいる。ただしデリダのいうように暗喩が純粋な存在提示ではなく、そこにない何ものかとの結合を軸にした偽りの生産であって、書く主体がそうした目くらましに参与的だという事実は変わらない。鮎川というか当時の詩法がそれに自覚的でないだけだろう。
鮎川よりもさらに暗喩型の詩作者だった谷川雁ならば、偽る悪意がよりつよいためだろう、繋辞構文の変型がすこしあるが、それらが無惨なのが逆に注目にあたいする。詩篇「毛沢東」の達成度とはほどとおいフレーズが奇妙に目立つのだ。色欲の世界大の膨張により、色欲じたいを属性変えさせてしまう詩篇「色好み」では、《おお きみたちの黒い毛であるおれ》のフレーズがある。「おれはきみたちの黒い毛である」が倒置・体言化され、それが「おお」の間投詞で括られ、悪辣美学を駆使する雁からすれば「毛」も「陰毛」ではないかと、いろいろ見極めがうまれてゆくが、ここでの繋辞構文がつくりあげる近似値がもともと魅惑的ではないために、行儀悪さを意図したフレーズ自体のいやらしい突出力だけが澱としてのこってしまう。それは、偽りの生産装置としての暗喩を、その虚偽性ゆえにこのみ、そこに習癖的に語調の強意や断定をもちこむ雁の倒錯によるものだろう。すべてが自発参与的なのだ。
詩篇「破船」中の《網をうて 燃える波がおれだ》、詩篇「世界をよこせ」中の《青空から煉瓦がふるとき/ほしがるものだけが岩石隊長だ》などの「おさない」繋辞構文も、その寸詰まり感ゆえにこのまない。これら自発性を消し、文そのものが作者をどこかへ放逐し、類似性だったものを隣接性におきかえ、空間化をおこなうのが換喩だった。暗喩の主体は作者だが、換喩の主体は文――そういうことだ。文がフレーズを「まちがいのように」喚起する。暗喩に隠れていた類似物もろもろの領域が、換喩では隣接連続体として時空展開につながれて「明示」され、詩行はひらきつづける扇をおもわすような運動体へと組成をかえられてゆく。そこでは偽りではなく、現れの一回性だけがその都度あって、真偽の問題からすべてが解放される。このとき構文が変わることで意味もかわる。「である」から解放されれば、たとえば「おれはきみたちの黒い毛」のあとに「に挟まれて在る」「をもやす」などを容れ、詩句から慨嘆を消すかわりに、ぶっきらぼうに存在をしるし、動詞終止形だけをしめすこともできる。その意味で谷川雁の比喩のすばらしさは換喩的に詩句内の連続性がひろがってゆく以下のようなフレーズにあるだろう――《ばくちに負けたすがすがしい顔でおれは/歩道の奥 爆発する冷たい水を飲んでいる》(「破産の月に」部分)。ここには膠着がない。
類似と同一との弁別を無効化する繋辞構文にたいし、真理のための同一ではなく、領域化のための類似のほうが本来的で、そこに詩学を賭けるという手段が一方ではあるだろう。A is Aの同語反復的虚妄を避けるそのことだけに、詩の先験があるとするかんがえ。西洋詩に底流しているのはこれだろうし、とりわけそこに直観の閃光をもちこむのがシュルレアリスムだ。だからシュルレアリスムを生きた瀧口修造の詩にも必然的に繋辞構文が多い。「偽り」を偽りのまま価値化する手立てといえるが、効果に驚愕をともなうか否かに「実験」が傾注されてゆく。A is BのBが形容詞か形容動詞ならば繋辞機能が不全だが、その段階でも瀧口詩にはハッとするフレーズがある。詩篇名を明示せず、フレーズだけをぬいてみよう。
《アフロディテノ夏ノ変化ハ/細菌学的デアル》。不完全繋辞構文だが、認知言語学のいうような、類似の内包はない。夏の季節の到来を感知して、外界が「細菌のように」ふくざつに繁殖しながら、「愛」〔※アフロディテはギリシャの愛の女神〕の様相がふかまっていることがつたわってくる。しかもアフロディテの裸体を微視的にながめたエロスまで揺曳する。ここから少女から大人への変化が、「細菌の殖え」として黒々とおぼえられないだろうか。
Bが名詞形だったばあいには、デリダの直観のように、詩想は自由度をやや蚕食され、膠着する。《ヨリ凄艶ナモノソレハ天国ノ園芸術ノ公開デアル》。それでも「天国」の植物的組成がみえ、そこにエロス的好尚物としての禁忌がくわわる。《小麦の石の乳房は鯖の女優の鏡である》。これはイメージどうしが侵食しあって、あまり魅力がない。瀧口は「鯖」になにか特異な思い入れがあるのかもしれないが、一般的には青光りと顔により、女性性にまつわらせるにはグロテスクだろう。《星は遠い椅子である》。これはきれいだ。遠さが価値化されるほか、星にだれかが正体を知らさぬまま坐るイメージのはるかな奥行きをもおもわせ、峻厳な孤独がつたわってくる。《養魚器のなかの紋章は燃える大草原である》。水中と草原、湿潤と燃焼といった矛盾撞着のなかにたしかに紋章がみえ、それが魚になる(ちなみに魚はイエスの象徴として多用された)。むろん「である」を離れれば、瀧口詩はさらに解放される。その達成として以下のフレーズをあげたい――《蝋の国の天災を、彼女の仄かな髭が物語る》。両性具有の天国性が仄見え、かつはそのこと自体が天災化されている。しかも全体に象牙色のイメージをかんじる。蝋はもえたのだろうか。とうぜんここでは何に分類できるかわからないとはいえ喩的な修辞があり、しかも偽りか否かを問題視するのも無意味となる。哲学はともかく、詩に偽りの概念をもちこむことじたいが錯誤だったかもしれない。
――というわけで、いささかながい前置きがおわった。これらはマーサ・ナカムラの詩集『狸の匣』(思潮社、二〇一七年)の画期性を語るための前段だった。まだ二〇代の彼女のもくろみの第一は、暗喩によらない偽りの復権だろう。それは「小さ神」の多く出没する柳田民俗学的な散文空間のなかに、最初は逸脱的散文として顔をだす。綿密に編集構成された詩集、その初期段階ではたしかに飛躍的な詩的フレーズではなく、文の内容が、漫才でいえばツッコミを誘発するボケの色彩をもち、可笑性もあるのだが、そうした文が文脈に侵入する仕方が自走的、空間展開的で、これが換喩の機能と似通っている。それが次段階では偽りが美になろうとして、偽りそのものを内在的に偽って詩化する「換喩の換喩」(ズレのズレ)が複合してくる。こうした複層的な建築性があるから(それでもそれは作者の操作力によって閉じられているのではなく、読者側のゆっくりとした参入にむけてひらかれている)、マーサ・ナカムラが現在的なのだ。換喩/暗喩の領地獲得など、ナカムラは詩作の前提から無効化している。とはいえ「段階変化」を画策するため、ナカムラの詩に「散文」が前提されること、この点が気になる。川田絢音のような、散文内部・散文構造の自己脱落が、そのまま「みじかさの詩」となるような超越性がないのだ。
冒頭詩篇「犬のフーツク」をみよう。その一聯・二聯――
疎開先が決まったのは、一九四四年の六月だったと思う。
埼玉県秩父郡の小鹿野村への疎開希望を問う回覧板が届き、私が覗いたときに
は、すでに「吉田」の欄に鉛筆の丸印があった。
私は初めて汽車に乗った。
受け入れ先の寺の前に一列に並んで、三年生の吉田みどりです、と名前を告げ
たとき、中年の女性(住職の妻か、近所の方だと思う)が大柄な筆を生き物の
如くうごかして、「吉田という名字、縦に書くと「喜」という漢字に似てるね」
と言ってくれたのが大変嬉しかった。
戦前の「時間と具体性」を提示されて、作者マーサ・ナカムラの年齢をかんがえれば、この自叙の形式による穏やかな散文体は、「小説の書き出し」という判断に落ち着くしかない。そう読めばいいものを、詩作経験者たちの好事家的な読みはおそらくそうしない。「疎開先」「一九四四年」「回覧板」といった時代色ある小道具を仕掛けだとかんじてわらい、「マーサ・ナカムラ」という謎めいた筆名をもつ作者の詩中の自称「吉田みどり」のネーミングの地味な絶妙さに膝を打ち、「吉田」を縦書きすると「喜」にみえる、の詳細には、圧縮による錯視という詩法上の実験が自己言及的に仕込まれているのではないかと緊張へみちびかれる。ただし散文の枠にまもられた時空変転・叙述変転のおだやかさは紛れもなく、「三年生」(尋常小学校三年でいいのか)女児のもつ素直さにすこしゆれそうになる。
三聯は二聯の舞台となった「鳳林寺」、その周囲の地勢説明でやはり小説体。そうした堅牢な穏やかさを踏まえて、四聯を読みだすと、叙述が自走して逸脱を犯す渦中に読者が置かれる。ここでの正しい応接は「わらうこと」ではないかとおもう。それまでの語調に騙された失点回復は、笑いによってのみなされるためだ。ただし、逸脱は内容面に集中し、叙述の形式が「詩的に」みだれるわけではない。その四聯――
山に繋がる木々の間で、寺の方を見ている緑色の爺さんがいる。
初めて見つけたのは、外に出られない雨の日で、随分小さいお爺さんだなあと
眺めていた。
彼は漬け物石くらいの高さしかないようだ。
身じろぎせず、にこにこと笑いながら木々と草の間から見ている。
寺の硝子戸の中にいるときには見えるのに、近づいていくと消えてしまう。
見失ってしまうのだろうと言って、友だちを硝子戸の中で見張らせて、走って
向かっていったこともあったが、やはり見えなくなってしまった。
「下、下」と友だちが合図しているのは見えたが、遠く離れた友だちの顔がの
っぺらぼうになっていた。
一寸法師やコロボックルなどに匹敵する「小さ神」の登場。緑色、つまり昆虫色をした老爺がそれだ。近づくと消える詳細は、『となりのトトロ』で妹・メイが家の庭の敷地にトトロの親子をみて、つかまえようと追ったときの部分透明化まで想像させるが、わらえるのは「漬け物石くらいの高さ」。楕円球体のそれは、用途がさだめられているため、長辺ではなく置かれたときの厚みの短辺で高さをしるされる宿命にあると思いがおよんで、笑いそうにはならないだろうか。穏やかにみえた「私」は活発で利発な社交家でもあるのか疎開直後に友だちをつくっている点が自然に付帯され、ちいさな「緑爺」のやさしい怪異は友だちにも飛び火してその顔を「のっぺらぼう」に化けさせている。これを怪異の重畳とみるか、「筆の勢い」によって生じたちいさな比喩とみるかで、読者は吟味をしいられることになる。この一篇に仕込まれているのは「物語」に内在する比喩論なのではないか。
しかもここからがズレの連続となる。物語素が換喩的にズレるのだ。そうして対象がべつのものに移動する。一種の――第一段階の内挿だ。描写の細部にも、「嘘だろう」とツッコミたい軽い驚愕、前提解除、転覆がにじんでくる。読者は内心でツッコミを入れることで詩に参与する。これはすごく「かわいい」ことなのではないだろうか。一読、表面の童話性にからげられそうになるが、作品参与のありかたが読者自身の子ども時代を召喚するのだ。それでも作者はハンドル切りによって読者をちいさくゆらす。そのちいささが絶妙なのだった。五聯――
犬のフーツクは、小さいお爺さんを探しているときに見つけた。
木々の暗い隙間に、あぐらをかいて座っている、茶色に黒いぶちのある犬が見
えた。
「いち、に、さん、し……」
フーツクは、獣で作った押し花を、指を折り曲げて、器用に数える。
「押し花」は、私の手くらいの大きさで、狸や犬や熊などが、固く眼をつぶっ
て紙のような薄さになっていた。
対象移動されて出現した「フーツク」の命名者が誰で、しかもそのいい加減な名にどんな由来があるのか。フーツクはあぐら座りが寓話的でかわいいが、「茶色に黒いぶち」の犬はおそらく誰も見たことがないだろう。そんな純血種はいないし、雑種にも存在しない。そのフーツクが肉球のしばりによって指が自在にひらかない前脚先端ではなく、ほぼ人間の手をもち、しかもものを数える知能を有していると叙述によって付帯的に理解されると、犬と書かれた当初がなにかの比喩ではなかったかと読みがゆらいでくる。しかも栞用なのか「押し花」は花ではなく、獣でつくられ、それが成立するためには狸・犬・熊などがヒナギクていどにちいさく縮小されていなければならず、フーツクの手許がそれほど詳細にみえる「私」の立脚地にも保証があたえられていない。仲良くなって隣に座った、その一文が「脱落」しているとかんがえるのが妥当だろうが、「犬」の語でいったん現れた寓意性が、その後の「狸」「犬」「熊」の寓意性により、「紙のような薄さ」に変異させられている点が重要だ。内挿は既知性への関数モデルの導入だが、「薄さ」をモデルに加味していることにはふかい洞察があるのではないか。いずれにせよ、「偽り」とも名指されよう転覆がそれまでの聯よりも頻繁化する。じつはしずかな加速へとむかうこうしたリズム変転こそが、この詩篇の本当の内実ではないのか。五聯、内挿の質が変化する――
たくさんの本を持っていたフーツクは、タイの昔話を翻訳したものだという絵
本を見せてくれた。
「……帰郷すると、家に誰もいなくなっていた。近所に住む幼馴染みの男が現
れて、「ドアを閉めた方がいい」と言って、私の周りの部屋の扉を閉めていっ
た。火を起こすと、我が家の火の神様である老婆が、家族の写真を見せてくれ
た。私が十歳にも満たないときに撮影したものである。私以外の家族みんなは、
頭に黄緑色の帽子をのせていた。帽子には、草の芽に似た模様が入っている。
先程ドアを閉めにきた男も、黄緑色の帽子をのせていた。黄緑色の帽子をのせ
ている者は、流行病で、みな亡くなったのだ。写真の中で、私ひとり黄色の帽
子をのせていた。帽子の中央には、「◎」の印があった……」
私はこの絵本がとても好きで、よくフーツクに読んでもらった。
この聯の問題は、家だかどこかに多くの本を架蔵しているフーツク→タイの昔話を翻訳した絵本→その中身、というふうに入れ子が進展してゆきながら、その中身も故郷再訪と、老婆のみせてくれた写真のもつ生のうえでの神秘的意味、とさらに内在化してゆく「目くるめき」にまずある。しかも「 」の内容にはやはりたんなる譚ではなく、関数が内挿されている。写真中、黄緑色の帽子を頭にのせた家族はみな流行病で死に、黄色の帽子をのせた私だけが生き残った。私の帽子には◎の印があった――そう語られ、色の黄、あるいは◎が生存の条件(あるいは◎は生存者マークとして事後的につけられたのかもしれない)と「因果法則」がしるされていると一見とらえられるが、その法則を破り、黄緑色の帽子をかぶりながら生存した者が「写真の内側と同時に外側にいて」「しかもそれが絵本の内側である老婆の家にみちびいた幼馴染の男」と設定されているのだ。「例外」なのだが、内挿の材料にはなっている、この不思議な位置どり。しかもナカムラは記述を迷彩化させるためか、あえて冗長に絵本の中身では舌を噛みそうなくらい「黄緑色」「帽子」を反復させている。
おそろしい効果が付帯する。絵本のなかで生存にいたった写真内の「私」は、この詩篇の主体「私」と「十歳にも満たない」という年齢設定により、同一ではないかという錯視にみちびかれるのだ。内部性をきわめるため内部にむかってゆくとそれが外部性に反転する(これは内破だ)クラインの壺的空間。散文性を仕込んだ叙述を貫通しているのは数学的な悪意といえるだろう。この二重性により「偽り」がいわば機械生産のように現象されているのだ。物語、叙述内容、詩法はちがうが藤井貞和のかつてのアルゴリズム的名篇「神の子犬」をおもった。写真をみせた老婆と写真のなかの生存少女、あるいは詩篇の主体「吉田みどり」との関係にもわからないが何かが匂っている、と立ち位置をかえ「言い換える」こともできる。
記述が長くなりすぎているので、つづく最終聯は簡単に「要約」する(ここまで読まれたかたは、詩篇「犬のフーツク」が、かたちは散文でも紛れもない詩だと確信してできているはずだ――詩の特質は要約しようとすると本体よりも長くなる逆説にあるが、便宜上あえて暴挙をおこなう)。緑小爺の姿は失われ、私は犬のフーツクとなんのためか杉の根もとの土を掘る(この掘ることは別の詩篇「発見」にひかりを投げる)。地下世界に星界が現れるように「星」についての会話が始まるのだが、だれの発話によるかわからない。
話は瞬く星と瞬かない星の差異についてで、星は遠く夜空に穿たれた窓、生まれる前の子どもたちが場所を入れ替わって順繰りにこちらをみるときは星は瞬いてみえるが、瞬かない星はたったひとりとおくの窓辺から現世を見つめつづける子どもがいて、その瞳もまばたきしていない、といった内容だが、けっきょく星と眼の弁別まで失わせる魔術性をもっている。
その後フーツクは自分で掘った穴に入り、消える。消えることでカフカの寓話的短篇「巣穴」の「モグラかどうかもわからない」「しかしモグラ的な主体」と接続されてゆく。とうぜん読者は「犬」という形容がフーツクにいつからつかなくなったかを遡行的に確認する。それは「緑色の帽子」を頭にのせるように、初出の一箇所にしかついていない。ツッコミたくて笑い、その寓話性に堪能させられながら、詩篇「犬のフーツク」は偽りの叙述法にアルゴリズム=内挿の測量法、解体をとりいれた、その定義不能性ゆえに詩としかよぶことのできないもの、なおかつ「実際にしずかな詩的昂揚のあるもの」と認識されてゆく。知能のたかい名人芸である点はいうまでもない。しかも詩をとりまいていた神経質な「偽り」の問題に、暗喩圏とはまったくべつのところからメスが入ったのだ。
つづく収録詩篇「柳田國男の死」も、「犬のフーツク」と比肩しうる傑作詩篇だが、詳細な分析は割愛する。ここでも読者はやさしくゆらされる。ゆれは、詩にえがかれている場の意味の把握と、時制の弁別によって起こされる。そして例のごとく動物を中心に寓話的な配剤にみちる。しかも「犬のフーツク」で禁じられていた詩行の改行連鎖が、繊細な余白・余韻を放つようになる。ナカムラは書法も自在なのだ。「蛍になってもどる(死者の再臨)」「蛍が撮影した映画」「映画のなかの座敷牢幻想(むろん柳田が実生活において蔵のなかで勉強していた事実もある)」「映写機とフィルムの動物化」「青森の天狗松が植生の景物なのか「九州小倉の無法松」のような人物なのか結局判断できないこと」「瓶」「フィルムがなくなっても白光を投影していた映写機によってあいだにある瓶中の「あかく きいろ」の液体が金青に変色しながら、エクランに灰色部分が残存していることから柳田の骨壺の実在が予想され、この幻燈会=マジックランタンサイクルが柳田的存在による柳田への法事となっていること」「「次の幻燈は十年後です」の神様の言葉から、いまが七回忌で次が十七回忌と予想されること」などが、記述の偽りを解除した中身としてわかってゆく。回想部分で突然出現した主体「私」の回想内容は不明瞭で矛盾感覚にとんでいるが、一箇所、「膣に投函」という逸脱には驚愕を禁じ得ない。
詩篇「おおみそかに映画をみる」の夜の樹間の幻想性もすばらしいが、池の底にひらける池という視座にたぐいまれな感動をおぼえる詩篇「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」も、詩の立脚点そのものが展開の入れ替わりもあってはっきりせず、その幻惑力がすばらしい。「立方体状に氷の張った鯉」にみられるイメージの偽り、あるいは片言。支倉隆子のすばらしい短詩「麩」(『魅惑』、思潮社、一九九〇年)ととおく交響しているような気もする。支倉「麩」を全篇引用したのち、マーサ・ナカムラの詩篇の後半を引いて終わろう。どちらにも解説は付さない。
【麩】
支倉隆子
湿地帯の
水面から
ほぉいほぉいと水蒸気がのぼりつづける。春の。
昼に。
死んだばかりのひとが
麩をちぎっては水に投げている。
【許須野鯉之餌遣り】(後半)
マーサ・ナカムラ
美しい男が、立方体状に氷の張った鯉を釣り上げたという池を見物しに行った。
見つめていたら、青空が池に沈んでいく。
一層、辺りは暗く濁っていく。
暗闇と水中が同化していく。
見ると、池の底には、本物の池が沈んでいたのである。
そこらは無数の鯉が棲んでおり、ありとあらゆる罪の形を丸い麩にして食べて
しまうと見物客は言っている。
江戸時代の人、いつの時代の人か分からない人、もちろん虫や犬に至るまで、
鯉に餌をやりに訪れている。
「許須野鯉之餌遣り(ゆるすのこいのえさやり)」という立て看板がある。
地上では若い頃の身体に似せて化粧をする。
水の底では、何もかも終わりがない。
池の近くの公園では、老婆が若い頃の姿のまま、恋人とブランコに乗って永遠に
遊んでいた。
鯉は、口元に寄せる麩にひたすら口を動かし続けている。
神尾和寿・アオキ
【神尾和寿『アオキ』】
このあいだの木曜日(11月30日)は、北大一年生にむけて神尾和寿『アオキ』(編集工房ノア、二〇一六年)の授業をした。以下に備忘を兼ね、その概要をしるしておく。だがそのまえに――
神尾の詩はとうぜんライトヴァースに分類されるだろう。ライトヴァースの本義はW・H・オーデンによれば「俗謡」(そこにあてつけやペーソスが付帯する)だが、その組成法則どおり神尾詩もみじかく、可読性がたかい。独特のやわらかさがあるし、詩発想がびっくりするほど斬新で、「自由詩」という一般呼称、その真価にもみごとに適合する。ところがみえざる博覧強記主義者でもあるし、なによりもするどい逆説とふかい哲学を内包していて、一筋縄ではゆかない。
ライトヴァースと哲学性のとりあわせならば現在ではまず大橋政人をおもうひとが多いかもしれないが、大橋が時間や変化の渦中をみつめる繊細な動体視力を詩篇のどこかで発揮するのにたいし、神尾は「大雑把に」なりゆきを端折る。残酷な端折りの天才。この点ユーモラスで狷介な歴史哲学者のおもむきがあって、その時間性記述はぞんざいなほどに飛び飛び〔※飛躍的/点滅的/可笑的〕といえるかもしれない。童話や俚諺的なものにもみうけられるが、神尾の仕込んだ個性的な詩法であることはいうまでもない。まずは傑作ぞろいの神尾『七福神通り――歴史上の人物――』(思潮社、二〇〇三年)から、一篇引用しよう。この詩集では漢字で通常書かれるだろう固有名がぞんざいにカタカナ表記をされ、可笑効果をたかめている。
【接触】(全篇)
師匠の影を
踏まないように ソラは常に数十メートルの距離を保ってお供をし続けていたので
平泉を巡って
ソラの視線は 師匠の尻に当たっていた
艱難辛苦の旅のなかで 色欲が高じたとき
その尻はむっちりしたものとして現れた
食欲に襲われたときには
南国の西瓜かと 思われた
大垣に到ってから 「旅に病んだ」師匠を床擦れから救おうと
小ぶりのその尻に初めて直接触れてみて
別れを知った
間接的に「師匠」として語られるのが松尾芭蕉、「ソラ」が芭蕉と奥の細道、みちのくを同道した河合曾良なのは瞭然としているが、ふたりが衆道の念者と若衆の間柄だったと噂されているのも了解済みだろう。「三歩下がって師の影を踏まず」というが、神尾は曾良の芭蕉への恋着を「数十メートル」(ここで尺貫法ではなく現代の計量法がぞんざいにつかわれているのも可笑しい)と拡大的に想像することで、ふたりの仲をプラトニックに神格化している。このときあっただろう路上の「距離」がむしろ曾良の懸想にさらなる贈与をおこなったとするのが神尾の眼目だ。
ちかさにとおさの混合するものがベンヤミンの定義するアウラだが、隠密的脚力をもってとおく先行する「師匠」の後姿、その《尻はむっちりしたものとして現れた》。とおい距離は男を女にし、嵌入可能なものにする。あるいは逆に人間から性差をうばい、嵌入不可能なものにする。さらには「艱難辛苦」やひもじさは、若衆にあるべき性的突破口「尻」を念者のほうへ移行させる攪乱をおこなう。いずれにせよ神格化された色欲の正体はあいまいで、だからそれが食欲にも接合され、尻は旨そうな西瓜に滑稽にも化けるが、それらはみなおのれの物欲しさの変型にすぎない。
芭蕉と曾良の旅の大団円。そこにのちの辞世句の暗示をすることで、神尾の想像は、旅の終焉地=大垣を、芭蕉の生の終焉地=御堂筋と混ぜ、そこで曾良が床擦れのきびしい師の(背中から)尻をさすったと逸脱をおかす。同時にこれは史実の「端折り」だ。するとその尻は欲望の肥大から解かれて「現実のように」「小ぶり」で、そこに肉の死相が現れていたとむごい結末を迎える。ところが、このむごい結末こそが懸恋の本当の対象だったという逆転的発見まで滲ませている。つまり詩篇は「奥の細道」を背景にしながら、欲望の段階的変遷、その宿命を達観していることになる。こうしるせば深遠なことが、語調の脱力的な印象(とりわけ「尻」「むっちり」「西瓜」)により笑いへ転化され、しかも詩行の長さの不統一すら視覚的な可笑しさを助長してしまう。その意味でこれは「みじかいのに」「なんでもある」詩篇なのだった。
●
『アオキ』という人を喰ったタイトルの詩集は、もしかしたらそれが植物的景観から採られた正当な題名ではないかと、本をひらくまえ、うっすらと期待する読者がいるかもしれないが、その期待も冒頭詩篇のタイトルが「アオキさん」と知ってあえなく瓦解する。たとえばこれは『近藤』みたいな詩集名だったのだ。しかも神尾お得意の、カタカナによる漢字の縮減まで付帯している。詩集は、タイトルが余白ある前頁の左下にしるされ、頁をめくった見開きに詩篇本体が収まる――その反復法則が遵守されている。意表をつくそんなレイアウトが可能なためにも、詩篇はごく短いもので統一されている。その「アオキさん」(全篇)――
【アオキさん】
アオキさんが
まだ来ない
イノウエさんなら
三年前から来ている
ドラム缶にまたがってたばこを吸っている
旨そうだ
イヌのウエダ君と
サルのエグチ君に声をかければ
けんかの最中だ かみつかれてひっかかれて
すごく痛いのかもしれない
アオキさんだけが いつになっても
来ない
はじまらない
冒頭二行《アオキさんが/まだ来ない》は、井坂洋子の出世作「朝礼」の自由間接話法《安田さん まだ来てない/中橋さんも》ととおく交響しているかもしれない。すると詩篇の前提している場が「朝礼」かと構えたくなるが、なにか同窓会のような、旧知のバラバラ順繰りの集まりをかんがえるのが常道だろう。するとつづく《イノウエさんなら/三年前から来ている》が、場にあたえられるべき論理的まとまりを壊滅させてしまう。これはどこの場で、なんの集まりなのかが皆目わからなくなるのだ。しかも場は屋内ではなく、外、しかも記憶の空間かもしれない。なぜならドラム缶が「ころがっていたのは」、往年の、戦後未開発のままのこっていた「原っぱ」にふさわしい景観だからだ。井坂の人名が「安田」「中橋」と実在的信憑がたかいのにたいし、神尾「アオキさん」の人名は恣意的出鱈目かもしれない。なぜなら登場順に再転記すると、「アオキ」「イノウエ」「ウエダ」「エグチ」と律儀、機械的に、アイウエ(オ)順で一音ずつ代表されているためだ。俗諺「犬猿の仲」が、「イヌのウエダ君」と「サルのエグチ君」という措辞に分け振られているのも機械的だが、それらの機械性は安直な処理、ぞんざいをおもわせる。それでこの詩篇が軽快なナンセンス詩かというと――
読者は詩があるかぎり詩想が伏在しているという擬制から離れることができない。ならば「いつになっても/来ない」詩の主人公、「アオキさん」に過大な役割を負わせてしまうことになる。何者かの「不在」が、場の真相を、会合の真相を確定する。これは単純な真実だ。昭和天皇の不在が平成を確定したし、大谷くんの不在が来年度のファイターズを性格づけする。ということは集団や時代は、不在者の確認により、後ろ向き、遡行的に規定される奥行きから離れられず、その法則下では不在性こそがむしろ実在性だという逆転やゆらぎまで起こることになる。不在がみえるのは人と人のあいだで、あいだはむしろ「それは―かつて―あった」で充満しているのだ。喪失にみちたバルト的写真論はやがて「あいだ」こそを現像してゆくだろう。ところで詩篇「アオキさん」の眼目は、「なにについて詩がつくられているか」その大前提が一切判明せずに、「不在」と「未発」が人称のようにただ実質化されていて、それでも詩篇が詩篇たる要件がみたされる逆転にある。
詩集『アオキ』には冒頭詩篇「アオキさん」ととおく交響するような詩篇「ゴクラク、ゴクラク」が収録されている。これも全篇引用してみる。
【ゴクラク、ゴクラク】
極楽には誰だって行けるのだって という
わけで
ぼくもきみたちも
よだれを垂らして
この蓮の池のほとりにて膝を突き合わせているのに
あいつひとりだけがいない
何かにつけて平均的な
あいつだったのに
なぜか と
そこで理由を尋ねてしまうようでは
極楽では
やっていけません
「という/わけで」が行跨りにみえるかもしれないが、「という」を掛詞の重複部分ととった。その古典的詩法に、「極楽」「蓮の池」の仏教語彙が宥和している。しかも《極楽には誰だって行ける》は、極楽の絶対的許容度をしめす親鸞の「善人なおもて往生す、いわんや悪人をや」の悪人正機説を即座に聯想させるが、たとえばジャン・ジュネにも、悪行のさなかに神の視線のちかさを体感し、よって神からの孤独を癒すため悪を意図的に敢行しているという言明がその小説群のどこかにあったはずだ。とりあえず「アオキさん」と比較すれば、場は死んでから善行を積んだ者の行く極楽に定められ、そこに「あいつ」だけが不在だ、という感慨が描かれていることになる。
極楽に行けない理由はふたつある。ひとつは、まだ死んでいないこと。もうひとつは親鸞には離反するが、悪行をくりかえしたために地獄に堕ちる事例だ。この詩のばあいは後者。ところが「何かにつけて平均的」という、リスクヘッジ的な意味では利発で善とみなされることが地獄堕ちの理由になっているのではないかと詩は間接的に示唆する。平均的収入、平均的学歴、平均的出自、平均的容姿、平均的幸福――自分の属性すべてを平準化させこの世にとけこむことは、「この世を能くかんじる」最大の手立てではないか。ところがその同調を、極楽の主権者がきらう。なにかの突出があるためにいびつになっている人間のかわいさこそを善としているようなのだ。むろん同調圧力というネット社会の通弊がいわれる。一方では「共苦」という最大限の同調が感情の倫理性にもなる。となると形式の同調はダメ、同調による深浅の無効化なら善といった、判断哲学が拓けてくることになる。
いずれにせよ、白黒のあきらかな区別ではなく、「いびつ/平滑」により昇天者が弁別される極楽は、善悪の区別いっさいの無化を、現在の文脈でさらに機能化したものといえるのではないか。ところがその事実を極楽じたいに審問してしまうと、極楽がそのまま瓦解してしまう。極楽とは逆説なのだ。ところが逆説そのものに「おまえは逆説か」と問うと、「おまえ」か「逆説」が破砕されてしまう。そのかんがえのもと掲出部分の最終三行がつづられている――詩篇「ゴクラク、ゴクラク」はそのような読み筋を啓発する。恐ろしい詩だ――そうかんじるまえに、しかし詩篇はそんな真剣な極楽説そのものを一笑にふしている。「よだれを垂らしながら」「やっていけません」の語調はそれに貢献しているし、まるで禿げ頭に手ぬぐいを乗せた温泉内の爺やストリッパーのご開陳に満悦するおやじのような詩篇タイトル「ゴクラク、ゴクラク」が真剣化に歯止めをかけているのだった。
平準化一色の者が極楽に行けないという着眼と交錯する詩篇には「祝福」もある。これも全篇引用――
【祝福】
おめでとう
ありがとう
税金を全部
費やして
花火を打ち上げます
あらゆる因縁も打ち上げます
となると 今後
地上に残存するのは
正直な
わたしたちだけになりますね
すがすがしくも感じられますが
よく考えてみれば
恐いことですよね
書き出し「おめでとう/ありがとう」に唖然とする。こんな簡単な語彙を並べ脚韻効果をつくりあげる詩の「自由」にこれまで出逢ったおぼえがないためだ。しかもそれは人心の伝播、そのうつくしいひろがりをもよびよせる。「花火を打ち上げます」は比喩か。たとえ「風呂敷をひろげる」「喇叭を吹く」同様の、誇張をあらわす慣用比喩だとしても、じっさいの花火がみえてしまうのが詩だ。地縁血縁、前世、善悪の解除不能な宿命的つながり、世代を超えてまで現象する誘発関係を「因縁」というが、「あらゆる因縁を打ち上げます」からは地上性の悪縁を空に飛散させる一大昇華の光景がうかびあがる。結果、すべての悪を脱色漂白消毒されて、「地上に残存するのは/正直な/わたしたちだけに」なる。これが恐い――つまり浄化まえの悪渾沌であってほしい、これこそが「祝福」に値すると、「わたしたち」主体的判断が祈念していることになる。それでこの「祝福」とさきの「ゴクラク、ゴクラク」が同等の善悪観をもっていると気づく。ところが一瞬ここで結像した「花火」は、神尾的世界観では危ないものなのだった。「過去形」(全篇)を引く。
【過去形】
ものごとが起こる瞬間に
そのことを同時に語るのは 無理だろう
夏の河原に
仲良しの みんなが仕事のあとに集まって
花火を見上げる
弾けると
もう
思い出か
帰りの満員電車のなかで
痴漢行為に走ったのも
思い出か
軽快にふるまった中指と人差し指の先端を見詰める
君の声が出ない
すかさず
長い睫毛
その次の次の 花火
冒頭《ものごとが起こる瞬間に/そのことを同時に語るのは 無理だろう》は実況行為の本質的不可能を語っている。「わずかな遅れ」は判断や描写の必然で、しかも光ですらその届きのあいだに対象からのわずかな遅延をしるしづけるのだ。たとえば感覚上、映画が残像という遅延と溶融の産物だとすると、花火見物はどうなのだろうか。それが高感度カメラの撮影後に微速度上映されたとする。すると空中をゆっくり移動する火花と、それがわずかにしるすひかりの尾が、分離と融合の範囲をどのようにして多数化されてゆくのか、わるいこの頭では想像すらつかない。夜空のそうした光景が地上の過去性をつよく照射するだけだ。「地上とは思い出ならずや」という稲垣足穂の永遠の慨嘆はここに似合うのではないか。いずれにせよ現在は過去を不断に漏出することで、それ自体を対象化できない脱―当該性をおびているという感覚崩壊が到来する。
だから痴漢行為の現在性も、間接的・隔絶的な過去性をおびる。相手のよわい部分に、ひとは現在的にさわることができないのだ。詩中二箇所の「思い出か」には、無責任な感慨と、永遠の慨嘆、このふたつがとけあっている。「さわれないことをさわっている」「さわっていることがさわれない」、このふたつによって痴漢行為はその現在性が過去化し不可能化するのだし、だからこそスリ行為にふさわしい「中指と人差し指」の使用(ブレッソンや黒木『スリ』、ちばてつや『モサ』等を参照)が痴漢行為に「間違って」混在し、しかもその指ふたつが主体にとって幽体離脱的に疎遠にさえなるのだ。
一見、体言止め連打の衝迫をともなった最終五行が道義的に残酷だ。痴漢被害の恐怖をおぼえる対象を舌なめずりして活写しているようにみえるからだ。それでもそれは、それまでの詩脈から「過去性の溶融による不可能化」という罰をうけている。じつは実体化がないのだ。「次の次の」というからには、1「花火」、2「痴漢行為」、3「ながい睫毛(の恐怖にさいなまれた苦悶のふるえ)」という順番がかぞえられているのだろう。ところが人間の部位の、そのような不可能性にとんだ尖端のふるえを「花火」とみなすことには、自己感覚の行き届かなさへの逆説的な「祝福」がともなっている。おそろしいことが描かれながら、ものすごくうつくしい、とかんじるのはそのためだ。
ところでまさか神尾を読者が痴漢常習者ととらえることはないだろう。他の詩篇のもつ哲学性・宗教性がそれをゆるさないからだ。ここでは「痴漢行為」は先行する花火の過去性を、人間(の女性)に適用したもので、感覚論的な実験ととらえるべきものではないか。引用はしないが、感覚の脱自明性への讃歌は集中もっとも泣ける詩篇「ものの見方」に揺曳しているし、悪辣が引きに向けたフレーミング落ちで緩和化する例は「映画」を扱った「すっぱだか」にある。するとたぶん、「過去形」はそうした「フレーミング落ち」が欠落しているだけなのだ。逆転がないことに逆転がある。そうすると、「道具が用途を規定されている」という固定的世界観から、「用途の加算から道具の自明性がきえる」という逆転をみちびいた、笑えてうつくしい詩篇「楽器の色々」にも移行することができる。最後にこれを全篇引用しよう。
【楽器の色々】
老婆の顔面を強打することから
マンドリンの用法が
広がった
前世紀の初頭から
さみしがり屋さんは
ベッドのなかに チェロを持ち込んでいる
やがては
色とりどりのカスタネットが
上空から ばら撒かれることも
あるだろう
拾ってなくてもよし
拾って
タンスの奥にしまっておいて
六十年後に
自分と一緒に焼き上げてみるのも また
よし
用途が出鱈目に付加されることで、道具=楽器の自明性がきえてゆく。マンドリンは兇器となり(打撃対象が「老婆の顔面」と具体化されるのが可笑しい)、しかも書かれていないが、そうなった途端、ただの壊れた何かへと堕ち、すべての役目を終了させる。「さみしがり屋さん」と結合させたチェロはダッチワイフのように同床を目的とした性的愛玩道具となる。女性的なくびれがあるからだし、もともと弾かれるときにそれは奏者の腿に支えられるという猥褻が介在している。
マンドリン、チェロそれぞれに、博覧強記の神尾ならではのふくみが仕込まれているだろう。マンドリンはクラブに入り、その演奏に惑溺した萩原朔太郎。大正の風物、西洋楽器の日本的抒情化の典型だ。つまりトレモロで鈴虫のような声を鳴かせ、集団で嫋々と演奏されて完結をみるそれは、ブルーグラスやブルースのフラットマンドリンのような打楽器的ストロークへの発想転換が当時ならなかった。それを憤るから神尾は、それを、老婆をうちのめす別の意味の「打楽器」として妄想したのだ。
ならばチェロにはシュルレアリスト、マン・レイのキキをモデルにした「アングルのバイオリン」が示唆されているのではないか。ターバン帽をかぶって坐るキキがわずかに横顔をみせ、たぶん胸許を布で覆いながら、全裸のエロチックな背中を、カメラをまえに露呈している。尻の割れ目がわずかにみえる。肥り気味だが、左右体側のシンメトリックなくびれがうつくしい。バイオリンのボディには共鳴のためにf字孔が左右対称に穿たれているが、キキの裸の背中にも腰のうえあたり、左右対称にf字孔が加筆され、キキとバイオリン属の類同性が表明されている。バイオリン属は、小→大の順にバイオリン、ビオラ、チェロ、コントラバスとなるが、坐るキキの裸の背中、その実際の「おおきさ」はチェロの領域に属するものだろう。もし神尾「楽器の色々」の「チェロ」がマン・レイの「アングルのバイオリン」を意識しているとすると、シュルレアリストたちの一見革命的とみえた自動記述などの営為、至高点などの思想も、「さみしがり屋」の迷妄と括られていることになる(あ、マン・レイをいうまえに、宮沢賢治の「セロ弾きのゴーシュ」があった)。
すると満を持して現れる三番目の楽器、カスタネットにはさきのふたつの弦楽器同様に詩的な出自があるのだろうか。まず順序を飛ばし、最後から三行目の「六十年後」からみる。とうぜんそこでは関西俳壇の不敵な中心だった永田耕衣の、よくかんがえると意味が不定の減喩的名吟《少年や六十年後の春の如し》が聯想されてくるだろう。となると、「カスタネット」には関西に居住して、前衛短歌の首魁だった塚本邦雄の初期作(初句七音、しかも句跨りの装飾的抒情歌)《象牙のカスタネットに彫りし花文字の マリオ 父の名 ゆくさき知れず》がおもわれるのではないだろうか。西洋的ロマンの断片を志向するこの歌は、たぶん「ゆくさき知れず」までの全体を枕詞とする、短歌の名詞化の実験作だろう。うごきよりもイメージをこのむ塚本の癖が出ている。
カスタネットはいまでなら、宮崎駿『もののけ姫』の「コダマ」をおもわせる。ところが神尾の詩ではそれは、空から恩寵のように降るのだ――飢えた戦後の日本人のために進駐軍がばらまいた食糧物資のように。乾きにあえぐ者らへの慈雨のように。しかも塚本や宮崎の「象牙色」「白」を超えた「色とりどり」で。夢の大団円のようにおもえるが、生はつづき、カスタネットがタンスの奥にしまわれることもある。ところがひとが少年に先祖返りし、翁童化する「六十年後」、カスタネットは柩に副葬され、屍体となった自らとともに焼かれ、本当の大団円がやってくる。夢は現象しない。その者とともに死に、残像として揺曳するだけだ。神尾は破天荒な改行が見事なのだが、途中で「拾わなくてもよし」と綴られた「よし」が、最後、改行を挟む「また/よし」と法則を変えられて終わる。「よし」がそのままに詩行変遷の祝言となることで、肯定性があふれるのだ。
繊細を装った厚顔が現在の詩作に横行している。神尾の多くの詩は逆だ。ユーモアの不遜な厚顔を装いながら、そこから哲学の繊細へとむかう入口がもうけられている。詩のテクスト論が有効なのは、むろん現在流行の詩作趨勢ではなく、神尾のように、援軍のない詩篇のほうだ。神尾をたんにライトヴァースの作者ととらえると大損をするだろう。
鏡順子・耳を寄せるときこえる音
【鏡順子『耳を寄せるときこえる音』】
鏡順子が生前刊行した詩集は、彼女の二七歳の誕生日の発行日付をもつ『卵のなかは、夜』(詩学社、八一年)だけだった。その後、詩作者・佐々木安美との同棲、結婚、さらには子育てを綴った、さほど多くない詩篇が未刊のままにのこされ、そのまま二〇一六年に彼女は他界した。詩集を編む気がなかったのだろうが、佐々木が遺稿詩篇を精査、みずからの関わる栗売社からまとめた。詩集は小ぶりで瀟洒な、しかも生のさなかにあって諦観と不安と沈黙がにじんでくる負の電荷をおびた傑作となり、『耳を寄せるときこえる音』と名づけられた。八〇年代中期後期の作品群とおぼしい。ゆたかさにとどいていないつつましい暮らしぶりが基調にあるが、「倦怠を感覚する者」の透視力・清聴力が全篇、こわいようにゆきわたっている。襟を正さざるをえないちいさな衝迫力があるのだ。
ふりかえると生前刊行の『卵のなかは、夜』には、少女詩集の印象があった。みずからを稀薄にしたい希求が底流にあり、それでも愛への依存や脱出衝動がみずみずしい措辞で語られるためだ。のちの『耳を寄せると―』収録詩篇と較べると、まだことばのはこびが乾ききっておらず、叙述が削りきれていない憾みものこる。集中「ひとのかたちを」という印象鮮明な詩篇がある。その書き出し――《ひとのかたちを脱ぐ//わたしは/世界から/はなれていったわけではなく/はじめから/遠かったのだ//ひとのかたちを脱ぐと/わたしは/どこにもいなくなる》。掲出部で気づくのは、構文の主格部「わたしは」が残存し、そこに自己記述欲求が窺える点だろう(意味的には自己抹消が主題だが)。この書法を『耳を寄せると―』収録詩篇段階で彼女は封印した。自罰的営為、といえるほどに。
「少女詩集」と括られる点で、『卵のなかは、夜』はさほど個性的な詩集ではない。男性もふくめ、だれもが「少女」へと機械的に生成されてゆくからだ。自他をふくむ文明の問題といえるだろう。けれども「わたしは」という構文の主格部を峻厳に削ぐことも個性化を約束しない。もちろんそれは責任をあいまいにする日本語の特性だし、主部の脱落により、いわば「世界の自発」として主体を囲繞してくるさまざまな事象は、能動と受動のあいだの中動態を適度にたちあげるだけだ。わたしの事前にすら時空が連続していることは日本語的所与にすぎない。『耳を―』時点の鏡順子は、たぶんこのことをするどく意識していた。ことばをかえていえば、個性化とは脱個性化の潜勢としてしか発現しない、だから主体は「とりあえず」自己消去をくりかえされなければならない、と。その意味で『耳を寄せるときこえる音』は通常の説明的な「文」からの偏差そのものを加算の単位にしている。そこから方法論的な詩集のたたずまいがしずかに結像してくる。まず一篇全体を引こう。
【大和メリヤスマンション】
一階は
メリヤス工場だときいている
青い上衣を着た人たちが
出入りしている正面には
受付らしいものがあり
二階へ行く階段は
わきへまわっていかないと見えない
五階まであります と
周旋人が言う
横手の壁には
つかわれていない金属扉が
そのままになっていて
ミシンをかける音が
低く きこえている
わたしたちは二階の
二番目の部屋にはいる
なにもない台所に
あかりをつける
階下では
かっぽう着をつけたおばさんたちが
背中あわせに並んで
ミシンを踏んでいる
排水口やガス器のことなど
周旋人が説明するのをききながら
決めかねて
こうしている間も
縫いあげられていく たくさんの
メリヤス肌着のことを
考えていた
小説の「描写」につうじるような状況提示が、「感情」を叙述しない非・小説的な、乾いた文体でそっけなく綴られている(この指摘に二重性があるのに注意)。ゆっくりと――つまり「遅延」をともない「環界の自発」として判明してゆくのは、「わたしたち」が不動産屋の案内で、貸間物件を検分している状況だが、導入される個物はわびしいくらいに輝きを欠いている。「メリヤス工場」「青い上衣」「金属扉」「かっぽう着」「背中あわせ」「排水口」(「排水口」は佐々木「さるやんまだ」の景物でもあった)。メリヤス工場があるのだから立地は工業区域だろうし、「わきへまわって」階段をのぼってからでないと住居部に至れない、エレベーターのない不便は、物件の安価を約束しているだろうし、しかも一階の工場の真上の二階という条件も、騒音被害を予想させる。廊下や室内など屋内空間のうすぐらさもつたわってくる。それら悪条件をのまざるをえないほど、これからともに暮らしはじめるだろう「わたしたち」は貧しく、あるいはその貧しさを着衣の様相などから不動産屋に読みこまれた経緯が間接的につたわってくるのだ。せつない。この「間接的につたわる」存在の質が、詩篇の背後で粉飾とは無縁な凄みを湛えているし、多弁でないことの価値も精確に測られている。「みずからにかんしては口を噤む」、それは処世上の金言だろう。
作中、唯一ある主体主部は、四聯冒頭の「わたしたち」だ。そうなると、一聯の「きいている」にはぶかれている主体も「わたしたち」なのだろうか。詩篇をただちに読み返すと、じつはここで考えがぶれる。日本語構文の通例のように、はぶかれているのは「わたし」という公算のほうがやはりたかいからだ。すると、ここで「わたし」「わたしたち」の痛ましい乖離が主題として伏在しているのではないかという読み筋がうまれる。なにしろ詩篇は「傷」を負っている。一聯一行目、わずか三文字しかない「一階は」は、削ぎ落としのあとの残骸のような隻句にすぎず、なにかゾッとさせる空白感をあらかじめ病んでいたのだった。
四聯後半が肝だろう。改めて転記すると、《階下では/かっぽう着をつけたおばさんたちが/背中あわせに並んで/ミシンを踏んでいる》。一聯は「周旋人」からの伝聞だし、三聯の「金属扉」も閉鎖中だし、周旋人が一階の工場部分のようすを訪問者たちに開示した具体記述すらないのだから、いま掲出した箇所は主体=「隠れている」わたしの、「予想」ととりうるべきものだろう。つまり床下からはげしくかさなってひびくミシン音が、聴覚を超え「様相」を具体化したのだ。それにしては「かっぽう着」、あるいは工場空間の手狭さをしめす「背中あわせに」の措辞が生々しい。ともあれ、たとえば掲出部ののちを「そう思った」と括りこむ作法が乱暴に脱落することで、想像の「間接性」が、現実の「直接性」と奇怪に溶融する逸脱がしずかに遂げられている。おそらくはつつましい「わたしたち」と同等につつましく工場労働にいそしんでいるだろう中年女性たちに「わたし」が同期し、そこでは自他、聴覚視覚、想像現実の境界が破砕されている。字面ではみえない強度をひそめて。ただしそれは「わたしたち」ではなく、「聴くひと=わたし」固有の領分にしか存在しない事柄なのだ。一回つづられる「わたしたち」は物件確認の当事者がカップルだと告げるが、隠れている「わたし」からみたその「相手」の描写が、残酷といえるほどに一切削がれていることにも気づかされる。
最終聯の「メリヤス肌着」は、おばさんたちのミシンにより縫われる多数性として詩空間に現出している。肌着の具体性とともに、「重畳するもののなだれる白」が「考え」られているのだが、この「考えていた」は結像性寸前を撫でながら、同時に「放心」をも指示している。だから「わたし」と「わたしたち」の乖離が仕込まれている感触になる。不動産屋に案内された、「マンション」とは名ばかりの貸間を、「相手」と相談して借りるか借りないか、その成り行きが放棄され、「判断渦中」での思慮と放心の複合、その結果としての判断対象からの離脱がうかびあがる。そうさせている動因はおそらく「生の倦怠」だろう。それは「相手」の存在をも勘定に入れたものととれる。「出発」をしるしづける主題に降下している「停止」という汚点のようなもの。読者はおぼろげにそれを感知する。気味悪いものを掴む。同時に、「考えていた」主体の普遍的なはかなさをうべなう。単純な措辞しかないのに、なんとひびきのゆたかな詩篇だろう。つづく詩篇も全篇引用してみる。
【婚姻届】
道路をはなれて
草の道をいく
マーケットからは遠のいている
丈の高い草の向こうでは
作業着がいくつかうごいている
話し声もきこえる
風の方に顔を向けたまま歩く
古い電柱が積まれている
町名が
ついたままのものもあり
番地を読みながら
ひとつをまたいでいく
小型トラックが
作業の人たちをのせて
走っていくのが見える
あの道をいけば
市役所の前を通って
やがて日光街道に出る
見ている方角が
まぶしくなってくる
ふくらはぎに
たくさん傷がついている
詩篇タイトルと詩篇本体のスパークがある。つまりタイトルが欠落すると、詩篇は十全に意味化しない。この点は後述するとして、一見なんの変哲もなく自明性をもっているとみえる措辞に脱自明性が潜勢している点が、読みにあたって落とされてはならないだろう。そのまえにいうべきは、幹線道路の歩道を外れて「草の道をいく」、みえない主体=「わたし」の消極的な迂路選択、あるいは無駄のよろこびだろう。いずれにせよ目的にむけての非効率のほうに生のかがやきと厚みがあるとする哲学がここに伏在している。
またもや景物がわびしさをつくりあげる。「作業服」そのものを主語にした二聯中の構文は、換喩の見本といえるものだ。「丈高い草」、不法投棄か正規保管かわからぬが、おそらくは川ちかくの草っぱらに積まれた用済みの木製電柱群。時代は電柱が木製からコンクリート製に移行している渦中だったのだろう。「マーケット」はスーパーや郊外ショッピングモールではないだろう。往年の商店街によくあった、ひとつのおおきな屋内にさまざまな商売が櫛比している雑然とした空間。「市場」とよばれた商業中心地だが、とき が八〇年代ならスーパーの進出時期が完了しているので、わびしい褪色をしるしていたはずだ。地名的な明示が一箇所ある。「日光街道」。それで主体のさまよっている場所が、なんとなくだが、北千住あたりの荒川ちかくという気もしてくる。八〇年代のその付近は、まだ開発漏れを起こして辺境感がつよかったのではないかと余計な想像がたちあがってくる。
最初の読みの要点は、二聯にある「作業服」と五聯にある「作業の人たち」がおなじかとかんがえることだ。もちろん散文を基盤に、叙述の削ぎ落としによって詩が組成されているのだから、詩中にその解答をあたえるフックはない。だから読者は参与的な選択をおこなう。それでもし「おなじ」とすると――主体は相当の長い時間(つまり作業員が作業中から作業を終了するまでの時間)、草っぱらを円周をえがくように彷徨していたのではないかという判断が生ずる。なぜそうなったのか。おそらくは逡巡のためだ。ここで詩篇タイトルが機能する。つまり夫の就労中、ひとりで「市役所」へ「婚姻届」を出す使命をおびた主体が、要件を果たすべき場所へ足をなかなか向けない。この「たゆたい」こそが、「感情」をしるさない詩篇に底流していて、またもや「共同生活開始の渦中」で、主体は「生の倦怠」に浸潤されているのではないかと戦慄が走ってくる。
先に掲出した詩篇でも――あるいはどの詩篇でもそうだが、鏡順子のすばらしさはそうした戦慄が顕示的ではなく、ちいさくくぐもっている点だろう。感情語彙の脱落とあわせ、彼女の詩を駆動させているのは、「書かなくてもいいが、使命により、詩発想に遅延して書いてしまう」恥じらいだと感じられる。倦怠もまたこれみよがしではない。だから最終聯、「見ている方角が/まぶしくなってくる」と倦怠とはべつのものが詩に混色してくる。それでも受容性だけを据える鏡の詩法では、それは具体的な見聞の挿入にすぎず、喩的付与、喩的多様化からは外れているはずだ。「まぶしくなってくる」がなにかの予兆の性質までおびるとすれば、それは詩篇のどの「位置」でそれが書かれたか、位置の機能性だけの問題だろう。とりあえずそれは祝言の手前で書かれ、しかもそのあとが「ふくらはぎに/たくさん傷がついている」と逆転的に収められる。これも暗喩ではなく、草っぱらをさまよった果ての事実ととらえたい。そのほうが衝迫力にとむためだ。概して暗喩的読解は、衝迫体験の軽減を内包しているものだ。弱い読みともいえる。
書かれてあるものを、書かれてないものがおおう。あるいは下支えをする。さらには、無表情のしずけさのなかに、攪乱作用がひそむ。それは詩句の現前から誇らしげな決定性を奪う分岐可能性ともいえ、これを寓喩と分類する向きもあるだろうが、鏡順子の詩は、文の説明性の縮減により、詩句の脱・当該性へといたっている点が重要だ。その後にそれが宿命的な「当該性」となる。みとめなければならないのはこの順番だろう。そうでないと、「削除」という峻厳な実質をもつ詩行の呼吸が、ものたりなさをただよわせる「欠落態」に貶められてしまう。試行的に書かれようとした生活上体験上の詩想が、削減を経て詩篇として定着される。このとき書かれようとしていた当のものが、詩想ではなく削減そのものだという二次化が生ずる。このことで詩篇細部の具体性が恩寵となり照応しあう。むろんこれは分厚い布を重ね着する重々しい暗喩では生じない事柄だ。この指摘は集中すべての詩篇に妥当する。分析をはぶくが、本詩集は好詩篇が満載されている。
それにしても先の「電柱」ではないが、照応しだす景物は、鏡順子のするどい選択眼により実体化されている。八〇年代を知るものはとうぜんそこに過去の符牒をみる。ところが彼女のたとえば「倦怠」は現在と同時に、過去にも未来にもむけられる無時間的なものだ。だから景物の過去性がゆらぐ。『耳を寄せるときこえる音』はノスタルジックに過去を指標する機能ではなく、普遍の「現在」だけを清潔にさだめつづける、時間を超えたあらわれとして遇されるべきだろう。