メモ3
3
感情がないということはできない
それが古朴な楽曲のひみつだろうが
網目が脈打ちいまだにいきている
枯葉をかくすゆきは手へとれば
おととしてこなごなになってしまう
前方にたいしてひとりあるように
うすぐらく両頬だけがてらされ
かおのきえる同盟はつづいている
メモ2
2
おまえの手などもみじ葉だったが
やがてはやわらかいながらも
しろくほねばっておおきくなり
くうきをつかみがちになった
あいする者へののぞみはにじみ
つたいのぼれとつたえられる
その手でかおをくらくおおって
みずからへの登攀を泣くのだ
文からの偏差
以前の予告どおり、「現代詩手帖」の今号に井坂洋子さんと川田絢音さんを中心にして詩作原理を考察した「文からの偏差」が掲載されています。詩論が並ぶこの号の誌面はなかなか壮観で、とりわけ宗近真一郎さんの評論がぼくに何度もふれていて、うれしかった。高塚謙太郎さんの評論の後半(次号掲載)にはぼくも登場するのかな。待たないで待とう。それと佐藤雄一さん作成のチャートには杉本徹さんが入っているけど、参入に基本的な年齢制限があるのだろうか。一見、詩壇的で、ぼくのおもう詩作地図とはだいぶちがうなあ。中堅の女性の詩作者への言及こそが要諦じゃないだろうか
メモ1
1
ふとわたしがみえてしまった
林のなか、屋根のうえだ
雲間からおうごんがそそぎ
とおくあるおさないからだも
ミツバチや記憶の的となる
娘の結婚
【娘の結婚】
1月8日、テレビ東京系で放映された2時間ドラマ『娘の結婚』が信じられないくらい傑作だった。娘が9歳のときに連れ合いを亡くし、以後、男手ひとつで娘が25歳になるまで手塩にかけてきた父親。そこに娘の結婚の話題がもちあがる。父親は中井貴一、几帳面で家事に長け、ダンディズムももつ百貨店人事部勤務の、いわば理想形。娘は波瑠、出版社勤務だが、才媛というよりもショートヘアもあって、あどけない中学生の表情をする。ふたりの住む古風な日本家屋のなかではトレーナーやソフトジーンズ姿の下半身が自由でのびやかで、その自然なエロチシズムを一挙手一投足から感知できる。波瑠が久方ぶりに役柄に嵌まり、中井貴一ともども代表作といえるドラマとなった。
中井貴一という小津安二郎の匂いのする俳優が起用され、日本家屋が主舞台で、やもめの父親が娘を婚家先に送り出す――そう、設定はとりわけ小津『晩春』に似て、しかも小津の小道具「水枕」などがふと顔を出す(小津『東京物語』の冒頭を参照)。ところが成瀬巳喜男的な空間の切りかたを撮影は連打して、たとえば二間つづきの畳敷きの居間を全景でとらえつつ、廊下から縁先へ遠望する縦構図に、その構図そのもので感動にいたらせたりする。
びっくりしたのは、年末の時節、中井が要らない溜まりものの「断捨離」を手前でしていて(このとき彼の記憶になかった奇妙な手紙がみつかっている)、遅く起きだした波瑠が中井十八番のハヤシライスを所望、それを食べるうち「レシピを教えて」といって、いよいよ家を出て結婚に踏み切る覚悟があると中井に確信させ、それとなく波瑠に問うと、波瑠がなにもこたえず近寄ってきて結局はふたりで、波瑠が小学校のとき紙コップでつくった糸電話で遊んでしまう場面。中井はだれかと話す娘のケータイ電話の「よそゆきの声」、あるいは娘がこっそりと物干し竿にかけている臙脂色の「勝負下着」から娘に恋人ができたことを確信していた前段があったから、波瑠の画面奥行きからの接近は複雑な意味をはらみうるはずなのに、それが「ただの運動」「運動そのものの運動」としてしか発露しない清潔さに、ほとんど泣きそうになってしまった。
水橋文美枝の脚本は一点の無駄もない。小道具の配剤も「食」を基軸にして見事。ハヤシライスは前言したが、中井が手ずから漬けるぬか漬け、おおみそか中井が用意している几帳面で和風のおせちのお重、つくろうとして波瑠が風邪で高熱だったために実現しなかった年越しそば(波瑠の熱をはかろうと中井がその額に手を置くときのなつかしさとエロチシズムの揺曳=波瑠の表情の「子供帰り」)、風邪看病のための土鍋の白がゆ、アイスクリーム、さらには往年の「元カノ」原田美枝子と中井が共にする中華風の辛味しゃぶしゃぶ鍋など、食が連打される。そのなかで中井が自分用と娘用の弁当のためスーパーで買う二切れの鮭パックに最後、強烈な印象があたえられる。中井がいつもどおり二切れ入りを買おうとして、もう娘が結婚してそばにはいないことに気づき、おのれの錯誤が寂寥と分離不能と気づき、かみ殺すように男泣きするシーンがあるためだ(それまで間接的に、娘・波瑠と相手の満島真之介の結婚式は『晩春』どうよう抑制的に語られていて、中井は娘の結婚にウルウルはきたが泣かなかったと典雅な口調ながら豪語していたのだった)。
見合い結婚ではなく恋愛結婚の現代にむけた『晩春』。中井にとって娘から切り出された満島は旧知だった。いま住む古風な日本家屋のまえ中井一家には妻・奥貫薫も生存していて、集合住宅に住んでいたのだが、その隣人夫婦の息子(自分の娘より二歳上)が満島だった。印刷会社勤務の彼とは仕事のつながりで偶然再会したという。中井の憂慮は、結婚相手としての満島ではなく、満島の母(波瑠にとってのやがての姑となる)キムラ緑子だった。トラブルメイカーの風聞がまつわり、集合住宅のとあるママ友がキムラによって自殺に追い込まれたという醜聞さえあったのだった。それを質しに中井が松島の実家を訪れると応対したのは父・光石研。その真率なことばから、中井の一家と光石の一家が往年ほんとうに打ち解けあった温かい仲だったという記憶が蘇る。キムラ不在のまま光石の家を辞去した中井を、寸時のタイミングのズレで帰宅したキムラが走って追いかけてくる。そのキムラの疾走そのもの(これも縦構図)が先の波瑠同様すばらしい(仕種の良さでは満島が結婚許可を中井にもらうための、座布団を外しての正座しなおしも見事だったが)。
波瑠・満島の結婚式の詳細をズレつきでエンドロールやその直前に写真のみで散らす語りの抑制もニクいが(段田安則がそこでいい味を出す)、作品の中心時制を、年末から大みそかの時期にさだめた選択も抜群だった。波瑠が年末進行の多忙期にあたるのをいいことに、相手の母親のトラブルメイカーの風聞にゆれる中井は、なかなか相手に会おうとしない。そこに師走の空気がゆれている。それが大みそかの夜、波瑠が風邪で高熱を出し、病床を居間にしつらえなおしたことで、「年度」どころかそれまでのふたりの記憶が引き締まってくる。とはいえ、波瑠が提案して語りだしたふたりの話柄は他愛ないものばかり。それがかえって泣かせる。TVなどつけられていないふたりの遠景から「火の用心」の拍子木、やがては除夜の鐘がちいさくひびく。魚喃キリコなら「大みそかに風邪をひく」とドラマが名づけられたかもしれない。
前田英樹がかつて小津映画にしるしたのは、ひとがそこですごした空間には、物質的な記憶が重畳的にやどるということだった(それを保坂和志が『カンバセイション・ピース』で増幅させた)。このドラマにはそうしたものが各所であふれているのだが、小津は『晩春』の終景でそれを原節子のいた二階の部屋の夜の鏡としてくらく結晶化させた。ところがこの『娘の結婚』は、それを各シーンに「散乱」させることで、真の――無意識の結晶としたのだった。映画的叡智をさらに叡智をもって継承するこれほどのドラマにはそうそうお目にかかれるものではない。
それにしても、強圧がなく、受け身から新鮮な気配を発する波瑠の演技力が特筆される。ものすごく現代的なルックスであり、同時に古風でもあるルックス。たとえば往年の司葉子がなそうとしてなせなかった存在感がそこにあるのではないか。あるいはヘンな言い方だが、波瑠は中井貴一よりも佐田啓二に似ていた。
屍人荘の殺人
本日の朝日新聞読書欄「売れてる本」コーナーに、ぼくの書いた今村昌弘『屍人荘の殺人』の紹介=書評が載っています。本格ミステリの新人にあたえられる鮎川哲也賞を受けたほか、その後も「このミステリーがすごい!」(宝島社)、「週刊文春ベスト10」(文藝春秋)、「本格ミステリベスト10」(原書房)の三冠を獲得した「いわくつき」の傑作。さきごろの年末年始の読書用にとさらに売れ行きをのばした由だ。
ご存知のようにこの本、ネタバレ厳禁物件だ。本格ミステリの枠組を、ある超常現象が包囲するのだが、その現象をたとえ×××と伏字にしても驚愕を重んじる読者にはネタバレを結果するという、神経質で物騒な対象なのだった。いわば周辺を付帯的に説明するだけで、紹介では読書意欲を掻き立てなければならない。しかもネット上にはすでに、得意満面な書評・感想も陸続していて、それらとの内容重複も避けなければならない…。書きにくいといったら、なんの。
ま、それらの難関をクリアして、ミステリにつよいとはいえないぼくが、記事を書いた。女房いわく、よくこれだけ縛りのある条件で、わかりやすく、そそる原稿を仕上げたと。朝日の文化部周辺も、書評を読むと、現物を読みたくてたまらなくなると。自分としては低回飛行をしいられたつもりだったが、うれしい反応が囲んだ。ぜひ読まれたし。
原稿は数字「2」をつきつけて、原初的なテマティスム構造批評を展開している。最近こういう文章がなかったから、朝日のひとたちにも目新しかったのか。字数制限もあって書けなかったけど、「2」の最大要素は、今村昌弘の文章が、可読性と衒学性との「2」を融合している点だろう。既存映画ジャンル論との連関もあって、それを担当する人物「重光充」の存在も得難いが、ほんとうは作者自身がメタレベルで作品の位置を「説明」するから、この手のものに慣れない読者も読解誘導されてしまう点が最も売れ行きに貢献しているはずだ。
もうひとつ。昨日の北海道新聞夕刊「サブカルの海」では瀬々敬久監督の話題につき、三題噺で書いた。以前にここで書いた『7年越しの花嫁』『最低。』『ヘヴンズストーリー』についての論考を「綜合」したもの。内容が気になるひとは、それらを(再)参照してください。
賀状原稿
一月ももう中旬にはいり、賀状のやりとりもないとおもうので、本年の賀状原稿を公開。例のごとく、屏風型の夫婦付け合いで、詠者のしめしは名前の最初の文字からとっている。
をみな添ふ白身づくしのふゆの鮨 嘉
海聴きし日もうすくとほくに 律
東風吹くやえのころ二匹肝ふたつ 律
鼻うごめかし李下にて不精す 嘉
発句は愛人女性=「女(をみな)」を率い、馴染みの店で鮨をつまむ色男を洒落こんでひきだした。「白身」が「をみな」に映り、その色白をただよわす。すなわち鰈や鯛などだけの示唆ではない。ただし「白身づくし」には数にかぎりがある。それだけしか喰わないのであれば、老齢により、男がすでに健啖でなくなったさみしさまでにおわす。
脇は、そういう男が青春回顧のきもちをもつだろうと混ぜかえす。海は鮨の縁語めくが、男の暮らしが海辺から町へ移ったことをふくむかもしれない。ただしこの脇句、連携から外し、それじたいをとりだすと、大正少女的な感慨がただよってくる。そのズレが付の眼目。
第三句はその海(うみべ)の季節を、発句の「ふゆ」から東風(こち)吹く春へと見立て替えた。この形式による付け合いを賀状にしるすのなら、賀状の条件からいって季節を冬から春へとすすめるのが道理だろう。戌年にちなみ、その浜に「えのころ」(江戸期までの犬の古語、やがて「いぬころ」に転訛した)を配した。犬が二匹いれば肝もふたつあるという「いわずもがな」がふてぶてしく差しだされるのが俳味。音調からいって肝は「きも」ではなく「くわん」と訓ませたい。むろん犬の「なかみ」をかんがえるのは、亀がそうであるようにグロテスクでもある。ただし犬は寄り添っていると捉えられよう。それで夫婦和合への転轍が窺え、発句の色欲が叱正される。
春は三句つながりという要請を受け、第四句はその犬たちの春のようすをべつの場所へ飛ばす。李(スモモ)の咲き乱れる畑。そこであるじへの熱誠ではなく、本性怠惰な犬が李花の芳香に鼻をうごめかすのみで、不精を決めこんでいると見立て替える。詠者の力まない性格が出ている。むろん「李下」の斡旋には、李の実を盗んだとうたがわれぬよう頭上の冠をうごかさないという故事「李下に冠を正さず」が反響している。短歌は第五句が八音で終わるのを嫌い、それに倣えば「李下に不精す」のほうが音韻として良いのだが、印刷屋が七七(短句)を二字下にしやすいよう、文字数から「李下にて」が選択された。それで第三句の江戸調にたいする漢文読み下し調が強化された。八音破調の瑕はのこったかもしれない。
――以上、なくもがなの註記でした。
石川寛・ペタル ダンス
【石川寛監督・脚本・編集『ペタル ダンス』】
2012年春に札幌へ来てから、上映環境の変化によって、映画の見逃しがたしかに多くなった。映画そのものは授業の必要もあってDVDをつうじ依然多くみているつもりなのだが。そんなわけで、ときどき見逃したものを遅れてDVDでチェックしたりする。そのなかで圧倒的にすばらしいとおもえるものが最近あった。2013年4月に東京で公開された石川寛監督の『ペタル ダンス』がそれだ。『tokyo sora.』から注目していた監督の、いまのところの最新作で、宮﨑あおい、安藤サクラ、忽那汐里、さらに吹石一恵が、冬の津軽半島西岸を舞台にやがて捉えられてゆく、ミニマルロードムーヴィーといったおもむきだ。
銀と蒼白をとかしたような、淡い、全体の色彩設計。石川寛監督の特質は、大胆にも空、さらには海といった空漠そのものを背景にして人物を捉え(トリュフォーが回避したことだ)、その身体の輪郭に孤独と色香をみごとにただよわすことだ。人物はうごくから構図は刻刻と変化する。それぞれの瞬刻がうつくしいままつながってゆく。労働が決まった屋敷前の斜面を移動するホーボーたちのさみしいうつくしさをしずかに動態化させた『天国の日々』のネストール・アルメンドロスのようだし、写真美学への意識でいえば、初期のジム・ジャームッシュからの影響もかんじられる。
しかも『ペタル ダンス』では「風そのものはみえる」というのが主題だ。矢崎仁司は『風たちの午後』で風そのものはみえない(誰も風を見た者はいない)とマニフェストしたが、たとえば日向寺太郎は『誰がために』で風の不如意な可視化を主題とした。『ペタル ダンス』でも宮﨑あおいの示唆によって「とある木」のそばに、安藤サクラ同乗、忽那汐里運転のクルマが停められる。津軽半島ちかく。木は冬枯れのすがたで、年中の強風により激しく傾斜したままそれでも息づいている。そのさみしさは、「風のすがた」をそのまま自らのすがたとして固定されたことによっていて、あ、となった。
「かたち」の発見が監督の主眼にある。なんでもない詳細が忘れられなくなるのだ。忽那の勤めていた高橋努店長の立地の悪い、ファサードがガラス張りのブティックが、店長の突然の失踪により閉店する。同僚の後藤まりこが、勤めていた記念を、衣服がもちだされほぼがらんどうとなった店内から拝借する。腹部までの女性トルソが引き出され、それが不完全な人形として、店を去る後藤の自転車に括りつけられる。去ってゆく後藤の後ろ姿を見送る忽那。そのときの後藤、自転車、トルソのつくりあげる「かたち」は、確信はないけれど、やがて夢によみがえってきそうな気がする。
石川監督の「法則」では身体の輪郭は音楽のようにゆれなければならない。構図はまず、鳥取砂丘を舞台に寓意的な写真を撮りつづけた植田正治のように「配剤される」。ところがそれが「映画」として動態化されるためには、さらに「輪郭のゆれ」が加算されなければならない。このときに活用されるのがこの映画では女性の髪なのだった。風間俊介との冒頭から宮﨑あおいの髪はゆたかで、それが風にゆれている。風はそこでも媒介物をつうじ可視化されるが、髪は頬にかかり、宮﨑の丸顔の輪郭を消している。やがて場面がずっと経過してから、宮﨑の正面性にも風が吹き、髪が後ろになびいて、丸くかわいい童顔が露呈してゆく。『害虫』などの初期作品以後、宮﨑がこれほどかわいい映画は稀有なのではないだろうか。
かわいいといえば、愛玩動物との類縁をおもわせる忽那汐里もそうで(このひとの存在はどこかそれじたいが寓意的だ)、ところが宮﨑のロングボブとはちがい、ひたいを露呈したそのロングヘアの髪型は、やはり風により、黒いほのおのようにゆれる。偏差がある。宮﨑の髪のやわらかい軽さにたいし、忽那の髪のうごきは、やや重く、「黒い」のだ(うごきが黒いというのはヘンだけれども)。
それらのものはうごきであって、バンヴェニストふうにいえば、解釈項をもたない「範列それじたい」というべきものだ。「意味以前」が揺曳する、ぎりぎり「単位」であるもの。音楽にみちあふれている要素ともいえる。そういうものが「花びらの舞い」を含意する『ペタル ダンス』には淡く充満していて(「淡い充満」とは気絶的ななにかではないだろうか)、言語化不能性の多さ、しかもそれが感覚的にうつくしいことに、たいがいの観客は戸惑うのではないだろうか。それで感慨をもらす。映画そのものが「少ない」、何もないことそのものが執拗に映っている、と。ところがかたちやうごきの「範列」は作中にみちあふれているのだから、この映画を稀薄ということはできないだろう。
とうぜん、方法としてのミニマリズムが想起される。絵画や写真、やがては音楽に適用されたその方法は、映画に転位させるとつぎのようになる――あらゆる局面で「少ないもの」が手をむすびあえばよいのだと。「少ないもの」、それは物語、人物、構図要素、科白、カット数、上映時間などだ。ところが少なさは充満形をなして実際はそれじたい「多い」のだから、空隙に稠密をみるような逆転が起こり、決定不能性が積極的な容積をつくりだすようになる。しかもことは映画なのだから、物語の抽出還元ではなく、ただ「みること」だけが現れの少なさのなかに組織されてゆく。たとえば、静止的ショットのなかで唯一うごくもの。それで空をとおくよぎるグライダーの機影への注視が起こる。それを白昼の流れ星のように祷りの対象にすることは、ちいさな心中の飽満、その不如意と連絡するだろう。作中、宮﨑あおいと忽那汐里はそうした精神傾斜をともにもつことで、同類となる。
ネット上の感想を見ると、雰囲気が良いだけで、内実はスカスカとする3点評価が連続している。「少なさの多さ」「物語以外」を見ていない、たんなる物語還元者たちの述懐にすぎない。少女の生成とは、少なさが多いことからはじまるとドゥルーズは語ったのではなかったか。稀薄性と多包蔵性、この二項の革命的な攪乱。それを石川寛は20代後半の「女子」の風情にもあてはめたのだ。世界観がフェミニンというしかない。しかも出てくる女たちに、みなブルージーンズが似合っているのだから、そのフェミニンなやさしさは手近でもある。
『ペタル ダンス』でも物語の骨子をいうことはできる。大学卒業後、宮﨑あおい、安藤サクラと6年間音信を断っていた元同級生の吹石一恵がとおく津軽の海で入水自殺に失敗し、当地に入院している。彼女を励起しなければならない。それで宮﨑と安藤は見舞いを決意する。もうひとつ物語要素がある。図書館に勤務する宮﨑は、自殺にまつわる本を借りた来館者の忽那汐里の印象がのこっていた(忽那はとつぜん自分の前からすがたを消した韓英恵が自殺したのではないかと気になっている)。その忽那を偶然、駅のホームで見かける。入構する電車に飛び込む気配。咄嗟に飛びついてホームの縁から引きはがすはずみに、宮﨑は指を剥離骨折してしまう(忽那が付き添った病院でそれが判明する)。吹石の見舞いには、安藤サクラの前夫・安藤政信の所有するボロ外車が使用されるはずだったが、運転者の予定が宮﨑だった(安藤サクラは免許をもっていない)。ところが宮﨑は骨折した指に軸木が沿っているのでハンドルがもてず、いきさつ上、失職直後で閑暇のある忽那が運転を代行することになった――。物語の骨子は「ただこれだけ」、あとは吹石の登場以後もふくめ、女たちの不如意で「足りない」ことばのやりとりが、彼女たちの風景内のたたずまいを付帯させ、追われるのみだったといっていい。
ちなみにいえば、忽那は入構する急行列車に飛び込もうとしたのではない。彼女は学生時代、走り幅跳びの選手だった。そのときの名残で、前方を意識したときスタート姿勢をとってしまうのだ――そう彼女は、宮﨑の手当てが終わった病院からの同道帰途で語る。この語りだすタイミングの遅れがすばらしい。しかも「はじまり」が「停止」を内包する姿勢が存在し、しかもそれは他人にとっては「はじまり」にしかみえない、というのは、この作品の女たちのすがた全体ともかかわっている。
宮﨑は骨折した指に軸木を沿わせた手をひらき、その「かたち」を気に入り、手を前にかざし、なにかを濾過するようにして風景の変貌を愉しんでいる。彼女には風間俊介との恋の進展の予感もある。安藤サクラは相変わらず存在感と演技巧者ぶりが分離できない。倦怠があり、やさしさをしめすことそのものへの恥じらいがあり、どんな場所でもそこに身を置くときの居心地の悪さを分泌している。だから風来坊のように風景のなかで身をずらし、それがかわいいのだ。同時に、相手の科白を反復しながら遅い納得をみずからにみちびく発語のありようから、石川監督が女優たちにアドリブを奨励した経緯がつたわってくる。忽那は宮﨑たち同級生のなかでどんなときでも部外者だが、一歩退いて当事者たちのもどかしい動向に意を払っている。眼と耳が積極的に駆動しつつ、全身が消極性を手放なさいその風情がうつくしい。場所にどう立つかの見本を、彼女はしめし、それで賢者になっているのだ。
この忽那からとくにわかる。「あること」と「ないこと」の交響が作中にしるされているのだと。むろんさきに物語を抽出したように、主題は「自殺」をめぐっている。自殺が完遂されれば「ないこと」にすりかわる存在が、そのまえに「あること」をどうしようもなく把持している――ならば「あること」と「ないこと」は時間を圧縮するまえにあらかじめ交響しているはずだと。そう、それがこの作品の伝達事項なのではないか。
指を骨折した宮﨑のみならず、女優たちの「手」に眼がゆく。髪が意味以前の範列だとすれば、手は意味以前ながら意味に漸近する単位なのだ。それは髪よりもさらに存在している。あるいはクルマが津軽に向かって進行するときフロントガラス越しの仰角気味のカメラから、電線が空を背景に、交錯しつつ通り過ぎるのが捉えられる。そう、「手」と「電線」、それから女たちの不如意、そのさみしいうつくしさによって、さらには少なさをつうじて、作品はあきらかに魚喃キリコの世界と通底している。さきごろ観た魚喃原作の映画ではそのヒロインがまったく魚喃的ではなかったが、この『ペタル ダンス』での女たちの――とりわけ忽那汐里の魚喃的風情はどうだろう。世界は透明なのに、電線で濾過され、その入れ子性の最終内部が自己再帰的に眺める自らの「手」になる――その自己再帰性が基準となった世界構造に、そもそも不可能性がわだかまっているというのが魚喃マンガの哲学だとすると、石川寛のこの映画もいったんそれに寄り添う。
「いったん」としるしたのはなぜか。作品のクライマックス。病院で海がみたいと語った吹石の望みによって、見舞いの翌日、四人は津軽西岸の冬の海に向かう。雪まじりの荒涼たる風景。それぞれがそのなかを不定形にゆきかう。やがてさらに吹石はいう。入水を企てた場所に行ってみたいと。自己再帰性と時間偏差の交錯。その場所は浜から孤絶に突き出した埠頭だった。さきに海だけがあるその景観は、メカス『ロストロストロスト』の最終場面とも連絡する。四人がそろって、しかもバラバラに埠頭のうえに位置するようすが縦構図でとらえられる。その配置、うごきのうつくしさ。しかも「そろって」「バラバラに」の同時性が得難い。
このとき冬の曇天で黒びかりする海面が捉えられる。それは強風で微細にうごいている。海面の自己再帰性が揺動によって自己再帰的に充満する、光景の圧倒的なゆたかさ。単位が単位でなくなるようにそれじたいをざわめいているのだ。そのものが非-自殺的というしかないこうした「世界の現れ」があって、それこそが彼女たちに隣接している。海面はもう「かたち」ではなく、範列の無限の自己展開にすりかわっている。そのことに彼女たちが気づいていないようすが、せつないのだった。泣きそうになった。
書き落としていたが、ここぞという間隙に響いてくる菅野よう子の音楽、その溶解力もすばらしかった。間隙が溶けることで世界は空間的に連続し、よって時間も連続するのではないか。音楽は、範列を組織しながら、同時に間隙を高度に再組織するのもいうまでもない。そうなったとき時間の本質が、連続性から隔時性にさえすりかわる。ベルクソンからレヴィナスへと読みうつるときのように。付言すれば、吹石一恵の演じていたもの、それは隔時性そのものだった。
寓意性がつよく、わすれられないくだりがひとつある。津軽の海浜公園の休憩所の木の机を囲み、青森のどこかの町の文房具店で買った鉛筆を四人それぞれがもって、風に飛ばされそうな紙の四隅を、拾った石で固定して、みなすわり、筆記に挌闘している。女たちの髪が風でやわらかにゆれ、みだれている。宮﨑の提案。「おもいついた単語=目にみえるもの」を連想ゲームのように百個、紙上に連打して。みなその作業が終わる。また宮﨑の示唆。そうしたら最後に出てきた三つの単語を織り込んでひとつの絵にして。今度はそれぞれが作画と格闘する。最後の三つの単語も報告しあう。たとえば忽那のばあいは「三角」「女子」「蛇」。彼女の手許には、三角の涙をながす、蛇のように首のながい、ロングボブの女子の顔が描かれている。失踪した友人の面影=悲哀がそこにあるのだろうが、西岡兄妹(妹の千晶)のような硬質な装飾性もかんじられる。おそらく忽那自身の作画だろう。絵はみな完成する。なにかの判じだとおもい、それでどうなるの、と質問が出る。宮﨑はわらってこたえる。「それだけ」。カットは変転するが、みな怪訝な面持ちになったとおもう。
この逸話で、体験の綜合は、百の体験のうち最後の三つによってなされ、のこりの九十七など無意識のうちに秘匿されてしまうことが語られているのではないか。この秘匿こそがひとのゆたかさなのだが、ぎりぎりひねりだした最後の三つだけが、痩せた詩句のようにとりつくのだから、ひとは有限を生きるしかない。有限は、じっさいは順番性によってひとをとりかこむのだ。もちろんそれはこの物語結節のはっきりせず、ぜんたいが淡いだけの『ペタル ダンス』が、ひとの感覚にどのようにのこるか、そんなメタレベルの自註でもあるだろう。みたものをみたと言え、といわれ、最後の三つだけを尊重するのは、有限者が体験の綜合そのものを賭に付すことにちかく、その埒外には映画『ペタル ダンス』もない、と言い切られているのではないか。