メモ22
22
次第の用例はひろすぎるとおそれつつ
ひとものの謎めいた次第をみおさめると
雪上で夜空のおおきくまわることが
さえたきらぼしからゆっくりとわかり
次第といえないけものがおくまっていた
メモ21
21
滝のもんだいは制止が効かず
ひくきをながれるべき水が
いきなり大奈落へと抛られる
おわりをつづけたということだ
あの切り立ちは尖端だったが
たしかに八月の髪としてみえた
メモ20
20
あるいはすでにはじまっていると
手のなさけなさをわらうことができ
なにごとかあわくとりにがそうとして
影絵がうごくのをしたからみあげる
空のやわらかいくぼみをさぐりあてず
えがきとしぐさの隔絶がはじまれば
くらいくずれに手もかようのみだ
メモ19
19
あぶらとかおりとこまかな肌理
またはかすかなかわきの気配により
くるみの木はそこだけの森として
ゆるやかに頭上でたしかめられ
おくれを全うするため実をおとす
その時間へとあみこまれてゆく
メモ18
18
相対性をかんじさせるものはいつもうすい
たとえばこいびとの背たけなどがそれで
とくべつなながさならしろさとしてうごく
まなこもしくは遠望をあらしていっては
朝をみかえる身のひねりがおのれへの
破邪のちからとなり浪のまえにおさまる
メモ17
17
くちでするゆううつのひびきに
ゆっくりさせるさそいがあり
停滞とちがうはずだとはげます
みんなとおくからやってきたのだ
あおめく髪をゆうらりゆらす
森のありあけをくもり眼にみて
しきさいくずれるうごきさえ
いろがらをいろとはさだめない
メモ16
16
神がかったゆるしにもつながるのだから
あきらめや疲れをわるいとおもっていない
それらのなさはありえないとかんじていると
あきらめや疲れのうつくしくあるひとの
からだのさずけから声のなかの声がながれ
(そんなあふれがゆるしなのだろうか)
方向のなさこそひとのやどりだとわかった
メモ15
15
皮膚のくずれる日は影に身を置き
あこがれる空のひかりを防いだ
木造へもたれ蝉のとしよりとなる
わたしのみいらをひびかせれば
半音のずれがみなぎりをくぼませ
緒のなくなったながさでゆらめいた
吉田恵輔・犬猿
【吉田恵輔監督・脚本『犬猿』】
初期作品の評判は聞き及んでいるが、吉田恵輔監督作はまだ『銀の匙』『ヒメアノ~ル』しか観ていない。それでもその二作で話法のあざやかさに魅了されてきた。ビルドゥングスロマンにおける進展80%と暗転20%を快調にえがいた『銀の匙』の幸福な出来にも驚愕したが、古谷実の同題原作コミックを大胆に「つまみ」、原作にないラストへの展開で動悸させ、それをも作品の「暴力」表象とした『ヒメアノ~ル』には本当に腰を抜かした。いずれも語りが黄金期ハリウッド映画のように速い。
とりわけすばらしいのはシーンの飛躍のしかただろう。断絶的なのに親和的なのだ。もっともそれは映画の秘蹟のひとつとしてかぞえられることだ。映画における最小単位の空間飛躍はたぶん切り返しだが、それは飛躍がちかさと手を結ぶ「空間の馴致」としてまず現れる。ならば並行モンタージュはどうか。そこではひとつのシーン単位と、それとは場所をたがえる別のシーン単位が、「時間的に」隣りあいつつ織りあわされてゆく。結果、えがかれている隔絶は、同時に脱-隔絶になるという映画的ねじれを起こすのだ。
現在上映中の吉田恵輔監督『犬猿』では基本的に、新井浩文—窪田正孝の兄弟描写(その舞台は窪田の住むアパートの一室が中心となる)、それとニッチェ江上敬子と筧美和子の姉妹描写(その舞台は納期と価格ダンピングにあえぐ下請けの印刷町工場とその隣の自宅が中心となる)とが「並行」関係となるが、この「並行」は過激に「同調」して並行分離を解消しつつ、同時に「並行性」をこれでもかと際立たせる。並行性の二様を点滅させるのだ。この出し入れに説話の革新性のすべてがあるのだから、映画『犬猿』の時間表象はずいぶん数学的ともいえるだろう。
説話効率の高さが、人物描写における性格伝達効率の高さと表裏なのは無論だ。この両輪がなければ軸がゆれ物語は安定的に驀進しない。自転車の走行を想像すればわかることだ。たとえば新井演ずる卓司。冒頭、弟・和成が町のチンピラにボディをこすったと駐車場であらぬイチャモンをつけられる。むろん恐喝目的だ。ところがその兄が卓司だと気づき、チンピラたちはビビり、なかったことにしてくれと懇願する。金庫強奪未遂の罪で服役していた兄は刑期を終え出所、とりあえずは弟・和成のアパートに数日間いさせてくれと待ち構えている。そのあと弟を引き連れキャバレーで年増相手に狼藉を働き、店員の注意を機に態度を豹変、金庫強奪計画を警察に密告したのはおまえ(キャバレーの支配人)だろうと凄み、用心棒格の屈強男ともどもボコボコにする。すべては新井ふんする卓司の凶悪ぶりの「格付け」だ。その後も新井は弟の留守にデリヘリ嬢を呼び出すなど狼藉のし放題だった。それを首筋にタトゥーを露見させながら、特有の「鷹の眼」=四白眼で新井が殺気たっぷりに演ずるのだから、新井の強烈なキャラは一挙に定着される。
むろん吉田演出はひと色のみを塗らずに、人物を立体的に結像させる点に特長がある。まずは疎外。新井は脱法ドラッグと知らずに「ダイエット薬品」を扱い、急激に羽振りが良くなる。住む家もクルマも一級品を手に入れる。やがて腰のわるい実家の父親に高価な電動マッサージ椅子を贈与するが、その父親が弟・和成の買ってくれた角度調整のこまかい安価な座椅子のほうに馴染み、やんわりとマッサージ椅子を拒絶するのに淋しさを垣間みせる。それはエンジンのかかりにくいボロ自動車に甘んじている弟に、中古ながらシャンとしたクルマをプレゼントしようとしたときもおなじだ。長年の信頼喪失は、カネの力では恢復できないのだ。その新井がラブホにいるシーンではやはりヘンな年増が連れであることから、彼の性になんらかの趣向偏差のあることが窺われるし、やがて江上敬子との数少ないシーンで、じつは彼が「やさしい」(それも通常の「やさしさ」ではない)と伝わってきて、役得をこっそりと複雑に結実させる。
兄弟葛藤という作品の最大主題にかんしては、終盤、新井が首筋を斬られ傷を手でおさえやっと失血死をまぬかれる危機に陥るが、帰宅した弟はそれを一旦放置、未必の故意で兄を死にいたらせようとする。だが悔悛、ケータイで救急車を呼び、救急車内で号泣して兄へ己の非を詫びる。このとき新井はふたりが幼年だった往時の記憶(それは子役をつかったフラッシュバックとして画柄でも説明される)を主体的に導きながら、(どこへでもついてくる)「おまえは、子どものころ、おれのことが好きだったんだ」と窪田に確認をせまる。身体と記憶の同体性。それは嫌悪にさえ先験される点でもはや宿命にちかい。同様のことは印刷屋の姉妹、江上扮する由利亜、筧扮する真子にも起こる。
ニッチェの江上敬子が往年の藤山直美をおもわせ、しかも爆笑をみちびく。丸顔、肥満体、中年の坂に差し掛かろうとする、前髪を後ろにひっつめた眼鏡姿の彼女は、病身の父親に代わり自らが差配する町の印刷工場にやってくる印刷会社の営業担当にしてイケメン(それでもどこかが冴えない)和成に懸想している。思いは「ひそかに」という範疇を超え、周囲全般に漏れ出ているのだが、そうした純情は彼女の男性経験のなさを問わず語りしている。窪田のもちだす無慈悲なダンピング依頼(強制)にも従業員の残業等で応じてみせる彼女にはむろん大盤振る舞いを梃子に得恋をのぞむ底意があるのだが、旨い焼肉レストランの話をしても「焼肉は好きだが」「一緒の会食は遠慮したい」窪田の巧みな応答により、外されまくる。この応酬のリズムにすでに笑いが起こる(あるいは窪田のプレゼントした赤い菊をあしらった手ぬぐいから赤い菊の花ことばをネットで調べた江上はその好結果に有頂天となり、「踊る」——このときは不恰好さが可愛いサイトギャグが披露される)。
クライアントの理不尽により色校のし直しをしいることになって、ついに窪田は富士急ハイランドでの江上との「デート」に同意する。江上の「垢抜けなさすぎる」野暮ったいプリティ勝負服は、おばさんの攪乱としかみえないから、それ自体が笑え、デート中のでこぼこしたディスコミュニケーションもまた笑えるのだが、じつは窪田はその後江上のルックスの良い妹・筧と相愛になり、彼女とも富士急ハイランドがデート場所となる。若い恋人どうしとして釣り合いのとれたふたりのあかるい振る舞い。こうして一旦の窪田—江上のデートはのちに偏差をさらにしるすことになり、一粒の笑いが「倍」美味しい笑いとなる効率化まで招来されるのだった。
むろん吉田恵輔のオリジナル脚本は、松竹喜劇的「純情」に江上敬子を塗り込めない。窪田と筧の一見の相愛成立のあと江上は嫉妬によりストーカーじみてくるのだが、それ以前に彼女がどのように仕事ができ、聡明かが描出される。パソコンで経理をおこないつつ従業員全体を差配し、印刷発注の対外交渉も一手にするほか、病父のまめまめしい世話、さらには親戚がきたときの熱燗のつけかた、それに料理自慢で、弁当はおろか、あまりものでチャーハンをつくればライスをあざやかにフライパン上で回すこともできる。彼女が「下手」なのはおのれのルックス、それに恋愛でしかない。このふくみがあって、彼女が絶望のため終盤みずからにくだした自裁決意が立体化されるといっていい。
立体化といえば胸のおおきい「かわいこちゃん」役として抽象的に点景化される惧れのあった筧美和子の妹・真子が奥行きをともなって造形されているのにも感心した。彼女は芸能プロダクションの末席に在籍し、女優を目指しているものの、頭の悪さも手伝ってか、グラビア仕事に甘んじている。仲介者に枕営業はするわ(その舞台となったラブホで前述の新井浩文と鉢合わせる)、やがては「着エロ」ビデオモデルとなる危うい仕事が発覚するわで、実際は薹の立ち始めたモデル仕事も下降傾斜するばかりだ。仕事があまり入らず実家の印刷工場で給料をもらって手伝いもするが、パソコン経理をはじめ仕事はできないし家事も姉のようにできない。
海外ロケを想定、「聞くだけ」のスピードラーニングで英会話習熟に励んでいるが、外国人からの電話にたじたじ、高校大学で英語を学んだだけの姉に流暢な挨拶英会話を好対照で披露されることになる。ルックスが半端に良いだけ、あとは「空っぽ」の女の寂寥と自信喪失、しかもルックスが芳しくない姉に理不尽な嫉妬を抱いているという、むずかしい役柄を筧はきちんと「生きている」。彼女は昔からむなしく姉のもちものをほしがった。つまり姉の懸想する窪田を、かわいこちゃんぶりで籠絡したのにも、出し抜きや懲罰の意図があったとクライマックスで、彼女は泣きながら告白する。
人物造形を語りすぎてしまった(窪田正孝の役柄の複雑さについてはぜひ劇場で実地検分を)。あらためて確認すると、物語の進展のうえでは新井・窪田の兄弟、それと江上・筧の姉妹が並行配置されながら、江上のデート願望と、そのさや当てとしての筧との相愛成立をつうじて、シーンの並行性を窪田が刺繍してゆく恰好となる。並行性のつよい同調は喜劇的に起こる。肉弾戦といってよい兄弟/姉妹の喧嘩では「兄」「姉」「弟」「妹」がスローモーションでそれぞれ交差的に織りあわされる。その後、新井への救急車要請、手首を切った江上への筧の救急車要請により、弟/妹の救急車内での慚愧の大泣き、幼年時の兄弟姉妹の子役をつかったフラッシュバックも交差し、並行性が並行性のまま親和的に爆発する(これがやはり交差爆発する、しかも打ってかわって皮肉なラストシーンへの伏線となる)。ややもすれば図式的な展開のはずなのに、そうかんじさせないのは、主要人物、新井・窪田・江上・筧の「立体化」「人間化」「相似化」が並行モンタージュの対置性を緩衝させ、説話速度が衝突そのものを溶融させるためだ。みごとというしかない。
むろんそこにサスペンスが生ずる。つまり新井が対置される並行モンタージュの員数である筧、江上と独自に出会う交差配列を観客が自然に待ち構えざるをえないのだった。じつはそこに本作の聡明さが結晶する。四人が一堂に会するシーンは無媒介に前置され、それが基礎となった。焼肉レストランデートに窪田を見え見えで誘う姉・江上に惻隠の情をしめしたのか妹も自分も同行するというヘンな前提をちらつかせ、結局、窪田は姉妹を前に焼肉レストランにいる。江上は無粋にも仕事の話を不器用に窪田に語りつづけ、筧はタレント気取りでステーキをインスタグラムのためケータイに収めている。そこにたまたまアパートのドア鍵を隠し場所に忘れられた新井が、店の前での手渡しという事前約束を破ってじかに乱入、三人の迷惑もかえりみず同席を買って出て、みずからの乱暴さで場を独占しだす。ところがそれは期待値のない全員集合にすぎない。その後に前言のように枕営業をする筧と、ラブホで新井は鉢合わせとなる。これも唐突さによって出会いの期待値が事前流産する。つまり眼目は、「新井と江上が」「それぞれだけで」「どう出会うかに」集中してくる。そのシーン(ふたつ用意される)こそが、じつは本作の白眉を形成するのだ。
この部分をネタバレ防止として記述を控えよう。ヒントだけ単語でしるす。「居残り」「チャーハン」「セクハラ」「提案」「ベビーラーメン」「試食」「同意」。それと「病院」「目覚め」「謝罪」。このふたつのシーンはとりわけ、交情の単位と色彩付与がこまかい。それもあって(しかも新井のヘンな性的嗜好もえがかれていたのだから)、この上映時間103分で驀進する映画の終末のあとには、新井と江上の相愛成立をだれもが幻視してしまうのではないか。不在性を「ふくみ=潜勢」としてこうして抱えもつ本作は、その意味でも聡明なのだった。それで予感する。撮影中に吉田は無駄なショットを撮っていないだろうと。それはハワード・ホークスの形式であり、成瀬巳喜男の形式だ。ここまでを引き寄せて、映画ファンは吉田恵輔監督の虜となるのだ。
——2月19日、ユナイテッドシネマ札幌にて鑑賞。
メモ14
14
遊侠と嫌悪とがからだをさいなむ
あおじろさのいっときは去った
おなじ属からあふれかえってくる
おんなたちのてりはえたあらわれは
尻のあつみに流行などあるものの
恋のすべてを不易としてちかづけた
吉田大八・羊の木
【吉田大八監督『羊の木』】
講談社のコミック雑誌「イーブニング」に連載、現在は全五巻の単行本として完結している山上たつひこ原作、いがらしみきお作画の『羊の木』はつとに傑作のほまれがたかいが、不勉強の至りで、未読のままだった(山上『光る風』といがらし『Sink』に熱狂した経験のある自分としては超恥ずかしい)。その長大で枝葉末節に富む原作マンガをエッセンスだけ継承して大胆に換骨奪胎したというのが吉田大八監督の映画『羊の木』らしい(脚本は『クヒオ大佐』以来の香川まさひと——脚本成立にあたっては監督にして旧友の吉田と熾烈な応酬があったという)。
殺人を犯し服役していた囚人たちに、刑務所の経費節減と地方への人口流入のため、特例措置として早期出所、十年間の当地居住義務を課し(これが保護観察に当たる)、当地での社会復帰へとみちびくという国家の秘密プロジェクト(としるすと大袈裟だが)=フィクションが前提となる。映画では小規模ながら計六人の老若男女の服役囚が順に登場(登場人物が結集してくるさまは『七人の侍』に似ている)、それを「普通の」市役所職員が秘密でケアする成り行きとなる。もっとも登場者は相互を知らず、生業をあてがわれてのちは個々しずかに土地へ溶け込むことだけが期待されている。住民にも元殺人犯という履歴は秘密にされている。それがやがてある部分で瓦解してゆく、というのがいわば物語の大枠だ。
想像だが、刑務所服役者は「神」と間近に、もしくは「神」とともに生活している。自分の犯した罪に覚醒し、敬虔になるというのではない。施設の殺風景さ、いかめしさには、不可視のパノプティコンがひそみ、獄中の「同僚」がいても、孤独にさいなまれ、孤独が膚接することで自己表皮の下に「神」を模様のように蔓延させるのだ。「六人」のひとり、市川実日子が演ずる清美は、女子刑務所ではどんなにいがみあった服役者同士でも深夜になれば子ども会いたさ・夫会いたさですすり泣きが同調的にひびきあうと語る。「神」は空間に降りている。六人のひとり田中泯ふんする元ヤクザの「大野」には左の額から左の口の端にかけての余人を黙らせる刃傷痕がある。それもまた「神」の足跡といえるかもしれない。あるいは当地=魚深で理髪店の徒弟となる水澤紳吾ふんする福元は客の坊主刈りのやりかたから即座に店主の中村有志に、刑務所での理髪師免許取得を見抜かれる。身に着いた技術にも「神」が模様化されているのだった。
おどろくべき「顔の映画」だった。黒沢清監督との名コンビでも知られる芦澤明子の撮影は、複雑でもしかすると言語化すらできない俳優の内心を、生きた表情の揺曳として、「うつくしく」捕獲しつくす。すべてが俳優ではなく存在となる。そうすることで映画『羊の木』の人的構造といったものがみえてくる。イエスという人間にして神性をたずさえた者に仕え、みずからの卑劣さに反省をしいられ、イエスの昇天後その教えを伝播させようとした使徒たちが福音(書)の祖型だとすれば、この映画は服役時代の「神」を六人の使徒たちがどう解決するかを、孤独な相互離反状態で身をもってしるした希望の福音なのではないか。そのとき六人の偏差が、顔としてどう表れるかが作品の眼目となるのはとうぜんだろう。
庶民的なクリーニング業店主・安藤玉恵のもとで働く田中泯の風情については前述した。神に貫通された彼は寡黙さのもと、自らの風貌と老年の貫禄を怖がる顧客たちにただ耐えるが、やがては出自を告白する(彼は対立する暴力団の組長をワイアーで絞殺していた)。けれども告白を得たことで安藤が田中を「赦す」。結果、田中は服役時代の「神」と永遠共生する生の資格を得たといえる。それは水澤もおなじだ。彼は酒癖がわるく、勢いで自分と折り合いの悪い上司の喉をナイフで掻き切っていた。アル中の彼のフラッシュバック=大狼藉は作中、祭の最中の大テント内で描出されるが、じつは店主の中村有志も刑務所出身、理容師資格もそこで得た共通性をもち、暗示的ながらもこの映画が終わったあとの時制で、店主ともども刑務所時代からずっとつづいてゆく神との共存をわかちあうと予想される。
六人のうちのふたりの女性。優香ふんする理江子はかつて夫との性愛で快楽のための首絞めをもとめられ、勢いあまって相手を絞殺してしまった、阿部定まがいの愛の殉教徒のような経歴だった。彼女は魚深市では介護士となり老人たちの世話をするうちまたもや愛に殉教する。市役所職員として六人をケアするのは錦戸亮ふんする月末だが、こともあろうにその月末の父親・北見敏之と年齢差を超えた恋に落ちてしまうのだ。赤すぎる口紅、どこか古い母性を感じさせるメイクもあるが、豊満な胸元、北見との煽情的すぎるディープキス、歯磨き運動の背中から密着してのサポートにクラクラした。アラフォーになった優香が自分のもつ物質性に開眼している。それを「神」の基準で語りなおすとどうなるか。「神」は刑務所内部にいながら、同時に「愛」の徹底へと二分化されている。だから作品の六人中最も楽天的な元服役囚にみえる彼女は「神」の二重性に囲まれ窒息化する絶望状態を能動的に生きている感触となる。
清美にふんする市川実日子が、作品にアレゴリー変転をもたらす第一要因だった。彼女は恋人のアル中DVに耐え兼ね、衝動的に殺してしまった過去をもつ。なんでもなく内気で凡庸な女が刑務所暮らしをしてその身体に刻まれるのは快癒できない「世間との偏差」だろう。彼女が魚深市で就いた仕事が環境美化のための清掃スタッフだったが、仕事も要領を得ず、その静謐な風情に「流罪」「流謫」の色彩をくわえ聖性を漂わす。彼女はたぶん服役後、魚深に来てこそ、「神とともにいるようになった」。彼女がおこなうのは、清掃の裏で副産物として出現する小動物の「埋葬」だ。
この作品は「択一」にかかわるアレゴリーが中心となるが、それを最初に作中に刻むのは彼女だ。彼女は二尾の魚(むろん古代ではキリストの象徴だ)を買い、一尾を焼き魚として食用に付す。もう一尾、未調理の魚はそのまま住居の脇の土のなかに埋葬し、「二つ」を別様に分離するのだ。もっともそのように意義付けされた埋葬はこれだけで、彼女は清掃作業のたびにみつける小動物の死骸をその後は単純に埋葬しつづける。
あるとき彼女は樹木に食用・羊毛獲得用の「羊の実」の生る「羊の木」の絵(それは古い缶詰の蓋だ)を浜辺の清掃時に拾い、それを自宅玄関の裏側に飾って護符にしている。樹木は果実を生らす。けれどもときたま動物を生らす。二者択一ではあるのだが、後者は欲望や夢の領域にあることを、彼女が知らぬはずがない。ところが幼稚園児の前で轢死した亀を埋葬した彼女は、亀は死んでいない、その証拠に埋められたこの土から樹木が生え、亀は蘇ると託宣する。植物と動物の順序が逆転されても、植物と動物の輪廻=円環図式が温存されているのだから、彼女にはシャーマニックな位相が宿りつづけることになる。択一はやがて次元が上位化されれば円環につうじる——そう彼女は予感しているのではないか。それにしても市川実日子ほどそばかすが抒情的な女優はいない。これも「神」のこまかい瘢痕だろう。神は分布なのだ。それは秋の花園に似ている。
六人のうちただひとり悪相を露呈させている北村一輝ふんする杉山は、暴行傷害致死の罪状をもつ。釣り船屋で働きだしたものの趣味のカメラを手放さず、やがては六人のひとり、松田龍平ふんする宮腰を自分と同様の来訪者だと見抜く。彼だけが、たどり着いた者どうしの連絡を画策できる狡猾さをもちあわせている。なぜか。彼は市川実日子どうように服役中に「神」と同化できず(市川は前述のように服役後に同化した)、服役前の状態の倨傲、軽蔑を温存させているのだ。六人はいずれも地域民にとっては約分不能な他者の側面をもたざるをえないが、北村演ずる杉山は、服役者の更生不能性という、砂を噛むような一側面の現実をつきつける。神がいないことの殺伐がその身に集約されているが、彼はやがて罰を受けるだろう。
最後に説明ののこった松田龍平ふんする宮腰が、六人をべつべつに世話する錦戸亮ふんする市役所職員・月末とともに作品の肝となる。松田特有の無表情・無重力はこの作品では邪気のない親密性ともからみあい、月末=錦戸と、ほぼ「友だち」の交流をしるしづけることになる。宮腰の就いた仕事は宅配業者。「ブラック」な勤務状態にも(最初は)音をあげずにいるようにもみえる。ところが彼だけがほかの五人とちがい、「神」との遠近法が形成されない。彼は神に膚接されていないし、北村一輝のように神に反逆もしていない。となると彼自身が神なのではないかという悪い予感がしてくる。髪型はちがうし、髭もないが、イエスの色彩が漂う。
誰もが彼に惹かれるというわけではないが、彼はあっさり錦戸の想う昔のバンド仲間・文〔あや〕をものにしてしまう。『テオレマ』のテレンス・スタンプみたいだ。彼自身がアレゴリーのように二重化されている。だから何気ない生存に殉教の香りがする——表面的には、その無表情・無体温に「温順」がすこし加わってみえるだけなのだが。芦澤明子撮影という同条件もあり、松田は『散歩する侵略者』での面影をも漂わせてみえる。
聖画アレゴリーでは使徒の精密描写が必須となる——よって以上の解題があったのだが、すぐれた映画ならばそれがドライヤーの映画のように、あるいは黒沢清の映画のように、「運動アレゴリー」へと昇華しなければならない。その運動要素としてこの作品に猖獗するのが「数値」だった。数値はみやすい。まず魚深市にたどりつく元殺人犯の総数6。錦戸と同僚・細田善彦との2。優香と錦戸の父・北見との相愛成立による2と、それに困惑する息子・錦戸を加えた疑似的な関係の3。文=木村文乃の帰郷を機に錦戸が復活させるバンド員数の3(エレキギターが木村、ベースが錦戸、それにドラムスが松尾諭で、がらんどうの倉庫を練習場所に、三人のはじき出すぶっといノイズ音がなかなか良い)。3は即座に危うくなる。バンド練習に興味をもった松田龍平が練習を見学、員数は4になるが、その松田と木村が恋仲になって2が分離摘出されてしまう。それでも松田には錦戸との「友だち」の雰囲気がのこっていて2はほかにあるし(ふたりが相互の寝顔を順にみるうつくしい展開をおもいだそう)、北村一輝が松田龍平に悪の共同を使嗾するときにも怪しげな関係性の2が露呈してしまう。どうも作品の中心数値は2のようなのだ。
2は択一をそそのかす不安定な数値のはずだが、作品はそれを一方では救済する。田中泯の経歴が露呈したとき安藤玉恵はそれを赦し、2は存続する。同様の事態は、水澤紳吾、中村有志にもある。ところが2を安定性のなかに捉えようとする常識にたいし、真相に向けた反逆をおこなうのが松田龍平の宮腰なのだった。彼は恩讐の彼方からやってきた(少年時代に松田が犯した殺人の仇をとろうとする父親の)深水三章との2を認めない。悪を使嗾する北村一輝との2をもみとめない。その否認はほとんど自走的にみえる。そこから神性と凶悪、あるいは親密性と他者性を分離できない松田龍平の真のおそろしさ、不可解さが揺曳しだす。ただ2が安直に1に帰着するのにも彼は居心地の悪さをかんじているにちがいない。それで松田は神聖な択一を自らに降臨させようとして、その場に錦戸を引き込むことになる。つまり松田の命題は「2が正しく1になる方法」をめぐっていたとおぼしい。
利用されるのが作中のもうひとつの神、しかも土偶をおもわせる土俗的な土地の神「のろろ」だった。魚深には神話伝承がある。漁業で往年栄えていた魚深は海の邪神「のろろ」(「どろろ」と「のろい」を掛け合わせたような名だ)に悩まされていたが、やがてこれを調伏、漁の守護神として祀りあげた。ところが年に一度の祭では岸壁におわす「のろろ」像は人身御供を要求する。それで崖からふたりの若者が飛び込み、うちひとりを死なすという。二者択一の本源はそこにあった。本源に飛び込もうとすること、それが犠牲に関わることはイエスの磔刑にもつうじる。その本源への二者の飛び込み、その相手を松田は錦戸に見いだすのだ。その帰趨がどうなったのかはネタバレに属するので、しるすことができないが。ただし「のろろ」神じたいが祭の練り歩きの際その周囲の行列者たちすらみてはならない不可視性を体現しているのは特筆にあたいする。
これまで吉田大八作品で最も撮影が創意的だったのは『桐島、部活やめるってよ』だったとおもう。同時制を視点別に語りかえることで高校内部のスクールカースト状況をつづりだした同作は、高校の空間そのものがカースト状に連続組成されていて、それを視点ごとに抒情的にえぐりだした。その果てに「屋上」を最終召喚し、すべてを無カースト状態へと溶融せしめたのだった。『羊の木』はどうか。聖画アレゴリーとして開始された時間が、運動アレゴリーへと転進してゆくときの脱臼感がすべてかもしれない。運動形態は序破急。それで終盤ちかくになり、人身とクルマとの残酷な衝突が起こり、前述した松田龍平と錦戸亮との崖を舞台にしたクライマックスが起こる。ところが運動アレゴリーとは、そのものが映画のまぼろしではないのか。結果、予感的に観客の眼に灼きつくのが、海全体を前景にとらえたときの水平線上の蜃気楼となる(魚深市のロケーション撮影は魚津でおこなわれたのだ)。
けれどもこの作品で最もその表情に魅せられたのは錦戸亮のそれだった。戸惑いとつくり笑いでゆれながら、場面ごとに、あるいは場面内の時間ごとにニュアンスを変えてゆく、生きた表情。彼だけが本当に六人の他者を眼前にしてゆれている。選択された受動態とは、それが強固なら能動態になるということだ。あるいは「中動態」。そのなかで彼は松田龍平という神を否んだ。というか真の理解に達しないまま、なにかの奥行きだけを感知した。このときの彼の顔はたぶん鶏鳴までにイエスを三度否んだペテロに似ているはずだ。彼は嫉妬から、聖なる「友だち」の宮腰=松田が、自分の懸想する文=木村と恋仲となったと伝えられて、木村に松田の殺人服役の前史を暴露した。あるいは自分の父・北見に、優香の殺人服役の前史を漏らした。上司からの口止めをかんがえれば、これらのときの彼の顔はユダに似ているはずだ。
そのペテロ=ユダの決定的な顔が、あいまいにうごく中間性、しかもどこか愛着をよぶ顔としてとらえられているのが、吉田大八=撮影・芦澤明子の現在的な勝利をしるしているのではないか。この作品は「択一」というアレゴリーをめぐり、ペテロ=ユダから、不可能なキリストたちをみつめた福音(報告)だったということができる。しかし報告者に単調な苦悩はない。表情が生きているからだ。それは終盤、口パク状態で木村文乃が語る無音の「ラーメン」を、錦戸が「ラーメン」と読解できる「表情への信頼」とも表裏している。
択一のアレゴリー——「真の択一とはどんな決定性なのか」が機能するということは、人的関係ではだれもが2を出発点してしまうことと相即している。となればつよい余韻を放つのは「羊の木」とともにいる市川実日子だろう。彼女だけが1の清貧を通貫させていた。この作品、市川実日子を主体にすれば聖者映画に変貌する。松田龍平を主体にすればアレゴリーと殉教の映画、錦戸亮を主体にすればペテロ=ユダ映画になるように。もうひとつ、いうべきはこの作品には希望が漂っているという点だ。択一はすべてを「二分の一」にする熾烈な運動、暴力的な攪拌だ。ところが一部の動勢をのぞき静的な本作では、基数6は最終的には半数の3にならず4がのこってしまう。なぜこんなあいまいな演算なのか。こうかんがえよう——たとえば動物はそれぞれが整数だから半分にできる(村上昭夫の詩篇「ねずみ」のように)。ところが人間は無理数だから、実際は除算が困難なのだ——と。
——2月16日、ディノスシネマズ札幌にて鑑賞。
メモ13
13
とぶうちに舌が百まであつまって
モズのさけびはするどいのだろうか
くらい多数もとびのなかをとび
あふれる切り傷をなげすてて
ものがたりのずらしもかくやと
くるいのない大気をくるりさせた
メモ12
12
きれいなひとのまえをすぎゆく
それだけでこちらもきれいになる
しんくろするわずかなさみしさ
まことではちぎらないとおもいつつ
いちゑがいちゑのなかみをゆらす
メモ11
11
みぞれがかわきかるくなるあいだ
否むひとみが蕾のようにみえること
白のみのしじまにておもいだした
あなたが浪うつ木と木をぬけてゆき
うしろすがたも焼け跡となること
メモ10
10
あきらめたほうがうまく話せる
枯葉のようにかるくかなしく
かおを尻尾にかえてゆらすのだ
やがて犬のまえのつねとして
みえなくなる夕陽だと語り
薄明のあぶらへと去ってゆく
メモ9
9
えんぽうのわずかあかるんでいる
空の底をみあげるような冒涜を
なぜ女性的なものへおこなうのか
視に牽かれるままくずれてゆく
音とつうじる絮がはなれるのみで
きえごとのやわらかさものみな
みてはならぬ施術中にあるだろう
メモ8
8
きれいな星置からきれいな銭函へと
なまえの海岸線をたどってみたい
分布をおさえれば層までひびきだす
おびの鍵盤にゆくおもいがあふれ
ここから星の有明、その音もふめる
メモ7
7
しずかなしぐさをしてならびあい
それぞれがたがいの反復であるとき
ひとを林の音楽がとおく奏でる
木管にこめられているかたちの奏鳴
かおにあるいきた穴をつうじても
からだにある恥の穴をはためかせても
さみしい頭蓋がおなじ頭蓋とならぶ
メモ6
6
男女の交媾と馬群の黄金の疾走を
くらく二重露光した動画をみた
どこかへゆくことそれはあらかじめ
ひとの双対のくみあわせにうまれ
ゆれる四肢じたいが遊牧されている
メモ5
5
はなれる者らはそれぞれが天秤皿となって
夜の虚空のどこかで支点を賭に付すのだ
均衡はその支点により張られみなぎり
かえってたがいの皿をけしてしまう
星間が星よりも可視的なまちのさみしさ
はるか坂のうえへあるかなきかをみきわめ
おちるように街路樹ものぼりつめてゆく
嵩文彦+草森紳一
札幌在住、嵩〔だけ〕文彦さんから、信じられないプレゼントをいただいた。往年の嵩さんの詩画集『明日の王』(一九八二、NDA画廊、片山健版画)に、草森紳一が解説を付したかたちの新刊『「明日の王」詩と詩論』(未知谷)が送られてきたのだった。嵩『明日の王』だけでも古書サイトに出れば数十万円もするだろう稀覯本なのに、それに草森さんの詳細な解説文がカプリングされているとは。メルヴィル「バートルビー」にアガンベンの解説が寄り添っている本のようだ。
故・草森紳一のその原稿は、厖大にのこされた蔵書と遺品整理のなかで、長年のパートナーだった東海晴美さんがみつけた。草森さんは嵩さんとは帯広柏葉高校の同窓、そのよしみで、個人プレゼントのつもりもあったのか、とりあえずは発表の当てなく詩集評をつづったものらしい(この未定稿の執筆時期は九〇年代前半とみられる)。原著のすくなさ瀟洒さにたいし、例のごとく草森さんが厖大なことばをついやしている。
この「まぼろしの原稿」発見のニュースは北海道新聞にも掲載され話題となった。草森さんの詩論といえば、往年の「現代詩手帖」に掲載され未刊行状態がつづき、死後にようやく刊行された『李賀 垂翅の客』があるが、現代詩への言及としては、部分的に長谷川龍生を論じながら虎の書誌をつくりあげた『だが、虎は見える』くらいが存在しているだけだった。もっとも博覧強記の草森さんの書きものにはいつも詩性が底流しているし、だからこそ高校時代のクラスメイト嵩さんとの交流も不意に勃発したのだろう。
もともと嵩さんの詩業については東京にいた時分から古本屋でぽつぽつ拾っていた。長ったらしい詩集タイトルと、詩集のうつくしいつくり(片山健装丁のものもあった)に惹かれ、手に取ったのが癖となったとおぼしいが、郷愁とエロチシズムと奇妙さのにじむその詩作そのものにもとうぜん惹かれていた。ぼくが道新で連載しているサブカルコラムのビートルズ武道館コンサート五〇周年記念の記事に草森さんの名をこっそり潜ませたのが機縁にもなったのだろう、嵩さんは金石稔さん、細田傳造さんなどとの飲み会に参加された。ぼくの草森紳一好きはある方面には有名だろうが、「草森とは同級生だった」と、老人不良のなかにあってひとり紳士然とした嵩さんにいわれてびっくりした。ふたつの尊敬する名前がつながった瞬間だった(たぶん嵩さんの名前は厖大な草森著作のどこかにあったはずだが、迂闊なぼくは記憶にのこせないでいたのだ)。
嵩さんは、現在、北海道の同人による「「奥の細道」別冊」で大活躍中だ。復活した詩作のほか、ずっと傾注している、断絶を提示する綺想俳句でも創造が旺盛だ。それに丁寧な考証をかさねた文学エッセイがさらに割り込む。老年の理想的な三位一体。医療の場を退いて優雅な閑暇ができているのだろう。その嵩さん、ものすごい刊行頻度の「「奥の細道」別冊」だけでは発表の場がなくなったのだろう、同様の三種をおさめる個人誌「麓 ROKU」の刊行にも踏み切られた。ついさきごろのことだ。慶賀(札幌在住詩人といえば、岩木誠一郎さんも、さきごろ日常に題をとった静謐で敬虔な名詩集『余白の夜』を思潮社から出された)。
今日はレポート採点のため研究室へ出勤。合間に、嵩さんからのプレゼント、『「明日の王」詩と詩論』を読む。
びーぐる時評
季刊「びーぐる」38号(特集=追悼・藤富保男)、その詩書時評に、敬愛する倉田比羽子さんが、ぼくの詩集『橋が言う』について書いてくださった。思索の分光器により内容が乱反射するような幻惑的な書法。そこにあるふくみをどうとらえるかで、集中をしいられた。さすがだとおもう。書かれてあるものの現下性、それから出来する脱全貌性こそが減喩の駆動力だ、とする倉田さんのご指摘は達見だ。しかもそれが祈祷性に変貌するのがぼくの詩の特質だとみておられるようだ。つまり、排中律と同時に、「ないこと」、その箇所が希求のしるしとなる欠落結節の法則とでもいおうか。これは潜勢力にかかわるアガンベンのかんがえに似ているのではないか。「隔絶が膚接している」。ぼくはもしかすると信仰者にちかいのかもしれない。以下、倉田さんを引用――
〔…〕「近接」的視点とは、モチーフをあえて持たない詩のありようを指すのではないかと、阿部嘉昭『橋が言う』(ミッドナイトプレス)に感じた。警句のようなことば綴りは、事象、物象を対象化せず、観察-内在化でつめよる、つめよる、時間を俯瞰しないことが守られている。とすればそれは触手の感覚に支えられていることであり、作者のいう「減喩」のことばの真意とは、そのことに通じるのではないだろうかと考える。その瞬間時間がながれる、風が吹きぬける、文字となった情景がただ立ちあがるだけだ。そのとき作者が持たざるをえない書くことの意欲のようなことの色気がそぎ落とされるはずなのだ、と勝手に読んだ。だからわかったような口ぶりで描写してはいけないのだ、人はなにごとも全貌など見えない生きものなのである。ただこうした一詩「八行」に形式づけたのは、なんらかの徴候からきているのか、あるいはことばの方向づけからくるリズム感覚がひそんでいるのか、どうか。〔※詩篇「空葬」全文引用〕。〔※詩篇「呪物」全文引用〕。――ああなにか、なんと人間の起源と終わりはものがなしいものかと知らされる。これはいや、祈りではないのか。
メモ4
4
あたえた事物はもうおぼえていないが
上澄みにあったひかりのくぐもりならば
こんなぼろめくからだにのこっていて
ひっきょうそれもわたしの衣服といえた
くらいまくらべで埃まみれのらんぷが
あたえたひとのようにともることがあり
自体がいくつか忘却をあまく惑わせた