メモ42
42
みなもがうつくしいかどうか迷う日もあり
鞍上からろうぜきをみわたしつづけた
ふたつがもつれ、あらく息をはいて途切れ
もろともかわしあう青で荒んでゆくのに
からだ停めるままうごかされていった
メモ41
41
わかれのときならゆうぐれがただが
わかれどころはきっと中洲だろう
足場のわるさがたたずみをよわらせ
あかる河口をおのずとみやるおり
順序のうまれることがわかれとなる
メモ40
40
みられる愛がもっとも緊迫するのは
うれいにより中断とかよう一瞬だ
しぐさがくらくとどこおるのではなく
そんざいがかたみのなかにきえはて
あわれさとなっていたくりかえしにも
劫のからだがはためく帆をたてかえ
あたりに無量の海をたたえるのだ
メモ39
39
しずかな馬がとなりの馬に似てしまうのは
ましてや牡と牝にもそれが起こるのは
こしかたのようにあわくさみしいことだ
やがては二頭立てとなって早駆けさり
あいだにのちのあわれみをつらぬくのか
メモ38
38
用心してなにかをはこぶときには
はこばれているそのものへと
あわれやひとがなりかわってしまう
みずや花やざんこくな親書など
無関心をたもち風景をたもち
やがてきえてゆくそんな移動では
とおく仮の世もはこばれている
メモ37
37
火ではないもののかぎりに
ほぼすべてがおさまるならば
めのまえの火もぐうぜんで
はるのきざしをこえたきざし
かたちないきよらかさでゆらぎ
ひとみなを涕へとたてかえる
メモ36
36
あこがれとおく雲をだきしめれば
かいなの骨がむごく砕けちると
うたびとはいにしえ唄ったが
ほんとうになにかをみおろせば
眼こそが頭蓋ふかく折られるのだ
地中にも橋が埋葬されている
うごかないひとらを鉱石にして
メモ35
35
みることのうながす同化によって
うつくしさにもともとある咎が
まぢかにつままれているとおもえ
小ぶりのまま鼻はとがっていた
かおのまなかに突起のあることが
動物にたいしてのようになつかしく
この同化までも嗅がれているのだ
詩の顔、詩のからだ
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目次
Ⅰ 詩書月評2016
幽体化する音韻
女になること、女であること
告げんとしつつたわむ言葉は
韮・霙鍋・あけび・いしもち・ゼリーの音色
瞬間の王は死んでいない
女性詩の色価
老耄という方法
アレゴリー、あつめること
流麗感の発露、隠された齟齬
幽邃ということ
詩の「たりなさ」、詩の「生き物」化
本流はなく、亜種だけがある
Ⅱ 詩の顔、詩のからだ
承認願望
ライト・ヴァース
羞恥
翻訳不能性
自転車的
自画像
自己放牧
放心
放心への上書き
再読誘惑性
朦朧
メモ:改行詩を読むさいの目安
Ⅲ 補遺と2017年詩集
あたらしい感情
裸形への解体――瀬戸夏子について
端折るひと、神尾和寿
今年の収穫アンケート――二〇一七年度
隠れているわたし――鏡順子『耳を寄せるときこえる音』
偽りの自走――マーサ・ナカムラ『狸の匣』
アルゴリズム的コラージュ――鈴木一平『灰と家』
文からの偏差――井坂洋子から川田絢音へ
※ Ⅰは「現代詩手帖」2016年度の連載、Ⅱは2017年3月を中心にしたネット発表エッセイ、Ⅲは雑誌発表文章とネット発表文章の混成
版元=思潮社、四六判366頁、3800円+税、装幀=奥定泰之、編集=出本喬巳
以下、みじかい「あとがき」を転載――
二〇一六年に「現代詩手帖」で連載した詩書月評に、フェイスブックでつづった「詩を書くことについて」のエッセイをくわえ、さらに詩書月評の補遺と翌年度の詩集評などももりこんだ、三部構成の全体となった。文章の選定と、編集には、思潮社編集部の出本喬巳さんのお世話になった。すばらしい装幀によって本を実体化してくださった奥定泰之さんとともに、ていねいなお仕事に感謝します。詩論的にはそれまでの『換喩詩学』『詩と減喩』でかんがえたことの展開と延長が中心となっているが、詩書月評という条件のもと、さらに幅広い詩の対象化が実現されることともなった。詩のフィールドのほんとうの多様性がつたわればさいわいだ。
詩書月評は字数が限定的で、地の文が十全にひろげられず、この補填もあって「詩を書くことについて」のエッセイを書きだしたとおもうが、読まれるとおり、いつしか綜合的な主題として、詩における「顔とからだ」の相剋が浮上していった。これが品詞論に対応している。その前提のもとに、第三パートの多くも書かれているのだが、鏡順子論以降最後の四篇では、さらに「詩と文の関係考察」がそこに交錯していった。これはよわまっている詩を不毛な「分類」からときはなつ、救済措置だとおもう。そのような「うごき」こそが、この評論集の本質なのではないか――自分ではそうかんじている。
メモ34
34
声からはこだまをとりされないし
声が二重というのもあきらかだから
ひとのからだにはゆうれい以上に
うつろなどをおもうべきなのだろう
色ごとでほそく声をだすときのみ
たましいよりとおく色聴がもつれる
レノンのバラードふたつ
休日なので、ジョン・レノンのマイナーバラードをふたつ(試訳)。
【アイル・ビー・バック】
傷つけられれば
すぐに逃げだし
またおずおず戻るのがぼくだった
別れをつげてもそうだった
好きになるということは
相手なしにはいられないこと
そう信じきること
傷つけるより善いやりかたがあるとは
わかってくれなかった
いまからぼくは自分をさらけだす
良い子をよそおうのをやめて
期待してはいた
気づいてくれるだろうと
逃げだしても追いかけてくれるだろうと
いっさいなかったけど
出てゆくしかない
離れたくはなくとも
それでもまた戻るのだろうか
【ビコーズ】
地球がまわっているから
ぼくにも灯がともされる
地球がまわっているから…
けれども吹く風がとてもつよいと
ぼくは放心しつくす
吹く風がとてもつよいと…
愛する感情の由来は旧いのに
それはあたらしく生きなおす
愛する感情は隔てないはずなのに
たったひとりをほしがる
ああ晴れた空が刺すように青すぎて
わけもなく泣けてしまう
晴れた空が刺すように青すぎて…
メモ33
33
くしけずりの丘をさまよい
髪でする思いをうすめた
うつりゆきに揮発をもつこと
ひとしさにこそ均しいこと
手よ手よものさしのように打つ
にくしみなどなにもなくて
にているものがみつからない
メモ32
32
わかりにくいたましいのなす詩作は
アレゴリーに循環を病みがちだが
そのひとよりもただちいさいだけで
幼年にしたしんだこびとがひそみ
せりあげる不器用のかなしさにより
みぎわすらわからないことがある
メモ31
31
いつどのようにゆうぐれかを
ゆうぐれそのものに問うと
あまたのとおくがひかりだす
けはいをからだに返されて
旅へきえるあわさもおぼえた
「層」10号
ぼくの所属する北海道大学大学院文学研究科、映像・表現文化論講座の機関誌「層」、その10号ができあがりました。ぼくは2000年以降のエモーショナルな日本映画の金字塔のひとつ、万田邦敏監督の『接吻』(2008)、とりわけそのヒロイン・小池栄子の「顔」を分析する「孤立する顔」という論文を、計26頁にわたって展開しています。本文では映画の細部の分析をおこない、厖大な註記では、分析と現代思想の思弁的な文章とをスパークさせています。本文→註、と二度読みできるアプローチで、そこに現状の映画研究への批判をこめてもいます。
10号の「層」は講座外部からのおもしろい論文が目白押しなのですが、次号からは講座内部を主体とする方向へとシフトチェンジするかもしれません。それはそれでいい。ともあれ、百花繚乱タイプの「層」はこの10号が最後になるでしょう。ぜひご一読を。大書店で注文可能です。発行はゆまに書房。
近況
航思社による『松本圭二セレクション』シリーズの刊行もいよいよ終盤に入ってきて、今回は大分量の松本詩集『アストロノート』が、第四巻『青猫以後』、第五巻『アストロノート』、第六巻『電波詩集』、それら三分冊となって同時刊行された。真打登場、という感じ。お馴染みの栞については、敬称略でしるすと、第五巻では松本の盟友・井土紀州が自らの青年期の様相を松本にからめて書き、第六巻では中原昌也がふわふわとすてきになにごとかを(笑)書いている。で、第四巻の栞ではぼくが寄稿している。
栞原稿というものは限定的な字数のなかに、筆者が著者とのエピソードを具体的に、しかもかるくながして書く、というのが趨勢のようだ。『松本圭二セレクション』でも第二巻『詩集工都』で佐々木敦が、第三巻『詩篇アマータイム』で稲川方人が、第七巻『詩人調査』で金井美恵子が、第八巻『さらばボヘミヤン』で七里圭が、それぞれその流儀で書いてきたとおもう。ただぼくじしんは松本とのエピソードが稀薄なので(ないことはないが)、決意して栞原稿は「論」として舵を切った。題して、「書き捨てて、残光に「域」をつくる」。時間と女はおなじだというインチキな擬制のもとに、松本の娘「カーハ」に焦点を当て、時間的な松本論をでっちあげたのだった。ギャグ付き詩人論。松本じしんのすばらしい『アストロノート』とともに、これも読んでいただければ
近況
本日3月11日(日曜)の朝日新聞・読書欄の「売れてる本」コーナーに、ぼくの書いた眉村卓『妻に捧げた1778話』(新潮選書)の評が載っています。2004年初版の本ですが、さきごろ「アメトーーク!」でカズレーサーが「15年ぶりに泣けた」と絶賛して、ふたたび売れはじめました。末期がんで余命一年余と宣告された妻にじかに読ませるため、日課的にショートショートを書く著名SF作家。作家は五年ちかく経って、とうとうその妻を見とる。こう書くと「涙活」本みたいにおもえるかもしれませんが、最初の読者である妻を「徐々に」失ってゆく「作家の生理」こそが読める本なのです(ぼくはその点で江藤淳を類推しました)。そのなかで、実際に妻に捧げられた、珠玉のショートショートも数多く収録されています。
『妻に捧げた1778話』というと、これを原作に草彅剛、竹内結子主演、星護監督で映画化された『僕と妻の1778の物語』をおもいだすひともいるかもしれませんが、あの映画とはまったくこの本はちがいます。だいいちあの映画は主演コンビの興行的な年齢要請によって「老年」「作家的老熟」「普遍化」といったテーマが欠落しているし、なによりも夫=眉村卓を社会生活不能な天真爛漫児童におとしめ、全体を「メルヘン」に矮小化、引用されるショートショートのほとんどもその映像化に着ぐるみなどをつかえる児童SFに絞っていて、「作家の生理」への肉薄がなにもないのです。とりわけ「最終回」の原稿執筆にさいし眉村役の草彅にエア・ライティングの動作をさせた失点がおおきかった。この点を新聞原稿では書けなかったので、追記しておきます。
土曜日の北海道新聞夕刊のぼくの連載サブカルコラムでは、高橋洋さんについて三題噺を展開しました――具体的には、刊行されたばかりのシナリオ集『地獄は実在する』、2月の東京公開を皮切りに順次全国公開されている『霊的ボルシェヴィキ』(ただし映像を実際にみることができず、言及は雑誌「シナリオ」掲載の台本によった)、4月にDVD発売される傑作『旧支配者のキャロル』について、です。
メモ30
30
夏のサンダルがすきでおもうのだ
飛行の夢がおとめごのかかとに
しろく模様もなくたたまれていて
空が跛行で傷つけられるとする文は
オヴィディウスのどこにあるのか
メモ29
29
みずからへしりぞきそうなあの雪雲から
なぜこんなにさみしい雨がつくられたのか
面のようにふろうとしてもただ音となり
うえへ戻ろうとするひとすじの糸にもなり
みあげる眼まで埴にひらく穴へとかえた
メモ28
28
春がちかづき傘をさすというのは
手のなすこの世へのよろこびだ
おのれをかくすことがささえとなり
頭上に家さながら緩衝をつくって
みずからあるかず傘のあるくような
こころどおさがなつかしいのだ
齊藤工blank13
【齊藤工監督『blank13』】
俳優・斎藤工(クリエイター時の名義は「齊藤工」)が折り紙つきのシネフィルだというのは、その活動や自宅披露からよく知られた事実だろう(実際すでに短篇映画を撮っている)。その齊藤工が初の長篇映画を監督するとなれば、「映画知」を充満させたマニア受けする作品を撮るにちがいない――そう予想するひとも多いはずだ。けれどもちがった。『blank13』は普遍性を終始手放さず、しかも「清澄+少しの可笑しさ=焦点の正しさ」という図式を堅守している。画面のひかりがとりわけ清澄だ。終幕、一篇がもう終わる流れとなり、実際にあっさり終わる鮮やかさ。事前確認していなかったのだが、上映時間は70分にすぎなかった。このとき、なんとシャープな傑作なのだろうとふるえもきた。
贅言を要しない映画だ。作品は前半後半の二部構成。前半では弔問客を迎え入れる葬儀開始の様相に、13年間の「空白」前の故人への回想が以下のように織り込まれる。ギャンブルで借金を負う父親リリー・フランキーを軸に、金融屋の暴力的な取り立てに怯える妻・神野三鈴、幼い兄弟。兄が長じて斎藤工、弟が長じて高橋一生となる。貧しい文化住宅での暮らしだ。兄弟の性格偏差、その暗示が適確だ。年長であることでより世間常識や格差に目覚めた兄は、父を反面教師として勉学に打ち込み、おのれの不遇を遮断しようとする。弟のほうはまだ無邪気で、とりわけ父とは野球好きでつながっていて、父親に甲子園に連れていってもらったよろこびを学校で作文して褒められ、しかも父とするキャッチボールやバッティングフォームの確定では、父親からのたしかな実践指導もともなっている。
その父親が借金苦に耐え切れず、家族を捨てて単独失踪するはこびとなるのだが、取り立て屋の窓外からの怒号に、カレーの匂いをたてながら、明かりもつけず黙々と「居留守食事」をしていた一家(カレーの設定が抜群)は、取り立て屋の暴言暴行がおさまったのち、ふと転調の気配を迎える。煙草を買ってくる、と言うリリー。それを肯う神野。第六感が働いたのか、「お父さん、帰ってくるよね?」と母に確かめる弟。ところがリリーは卓上にまだ煙草が入っているハイライトと百円ライターをのこしていて、それで彼の失踪意志を観客は確認「させられてしまう」。科白のかわりに小道具があれば、映画はことば以外でさらに雄弁に語ることができるという好例だ(このハイライトはのちにも神野によって活用される)。
回想は現在シーンの細部を契機に開始されることが多いとはいえ、大袈裟ではなく恬淡かつ無媒介な転回であろうとする。その呼吸の良さに唸った。回想から現在時へ復帰する逆の場合も、するっと戻っている。回想が連打されるときの間歇的な時制加算も、枕ショット的な挿入を挟まずに淡々と進展してゆく。「時間の語り口」が熟達している。
借金返済のために神野がしいられる苦難。それが「夜の仕事のための出勤準備光景」→「自転車をつかっての新聞配達」→「息子たちとの内職」と連鎖される。あきらかにブレッソン『やさしい女』的なそっけなさだが、いったん提示されたそれらは運命的にシャッフルされる。「新聞配達時の坂道降下での自動車との衝突」→「配達の遅れを気にして運転手からの病院行き提案を固辞」→「ふたたび夜の仕事への出勤準備光景」→「それまでみえてなかった事故ダメージが露呈する(顔の左側に傷跡と打撲痕、唇にも黒く痛ましい腫れ)」→「その唇に母親は痛みを堪えて口紅を塗ろうとする」。つまり最終的に定着されるのは、中年の坂に達した魅力の乏しい唇の、惨禍の物質性なのだった。
ただし映画を観ていて、ずっと意識したのはブレッソンではなくクリント・イーストウッドだった。俳優が監督して俳優を撮る――このときに「俳優内在主義」が正義のように機能する点から共通項がうかびあがるのだ。俳優それぞれが適材適所なのはいうまでもない。それどころかかならず「役得」をあたえ、たとえそれが惨めな役柄でも悪役でも「出演(その身体性)がみられてよかった」という印象を観客に刻むのだ。乱暴な取り立て屋だった波岡一喜でさえ、リリーの葬儀に来て、なかには入らずに玄関口で死者に手を合わせさせる徹底ぶり。
齊藤の演出は、俳優の空気をその身体を起源に定着することに眼目がある。だから、長回しを多用、台本どおりの科白発声ではなく、自分のことばでの言い直しを奨励する。結果、構文としては不正確な科白がみちることになるが、それが長回しの持続性と相まって、俳優の生理をつたえることになる。
それと立ち位置の指定の適確さ。いちばん得をしたのが高橋一生だろう。癌で余命三か月と知らせの入った父親の見舞いに行くか、それで久々に文化住宅の実家で家族会議がひらかれる。議題のわりにうちとけたようすだが、母と息子ふたりが必要最低限にしか会ってないことが間接的につたわり、兄の斎藤工が母親への生活費補助を義務的にきちんと履行しているだけの「よそよそしさ」も滲んで、失踪した父がいかに一家に傷をあたえたかがその居住まいの隙間から実感されてくる。このとき神野と斎藤の距離よりも離れて、窓辺にぽつんといる高橋の位置取りが、世界への「居所のなさ」として胸を打つ。
高橋の対象との距離化は、恋人・松岡茉優の意見を容れ、父親を見舞いに行き、病院の屋上で「旧交を温めようとして」「ぎこちなくうまくゆかず」「煙草のやりとりだけをする」ときの高橋の父親にたいする空間的距離の置きかた(彼は煙草のやりとりで一旦は父親の至近に来ても即座に巧みに離れる)で完成される。このときの円満にいたらない空気の伝達のためにこそ、長回しが使用されたのだった。
この映画は「火葬」の何たるかを辞書的定義でつたえる字幕から開始される。そういえばイーストウッドの傑作『許されざる者』は巻頭巻末ふたつの字幕によって作中時間全体を挟み込んだ。巻頭がウィリアム・マニーと妻の出会いの経緯とふたりの生活の伝達。巻末が異様な暴力の発達により敵一味を殲滅したのちのマニーとその一族の顛末の叙述。このふたつの字幕は作品全体の昂奮とは別地点で、それよりもふかい圧縮を介されて観客を泣かせたものだ。『blank13』の冒頭字幕は、火葬の実相をただ客観的につたえるというだけで、たとえばパリの売春の実相を語るゴダール『女と男のいる舗道』での「説明」にちかい。ところがその火葬の実相が黒味のうえの白抜き文字でつたえられたあと、棺桶と亡骸を燃やす火勢調節の裏舞台が映し出され、焔が導入されると、生の痕跡が炎上することの散文的な物質性がわきあがってくる。
死者は他人のために炎えるのではない。おのれの範囲で、おのれ自身を厳正に炎えるのだ(これが作品の終幕にも転写される)。もしかするとここには、『湯を沸かすほどの熱い愛』の出鱈目な結末への批判があるのではないか。死者宮沢りえと死者リリー・フランキー。焔によって生前がむなしいほどに、しかも感涙すらなく厳粛に立体化されるのは、あきらかに後者のほうだろう。
このことが作品後半にかかわっている。実際に坊主の読経がはじまり、乏しい会葬者がぱらばらに隙間をあけて座る葬儀が開始されている。ぐうぜんおなじ「松田家」の豪華な葬儀が空間隣接して挙行されていて、その対照性が奏効している(こちらにも脚本はのち、相応のオチを用意する)。好きでもない者の葬儀に気乗りしないで立ち会う、斎藤工、高橋一生の兄弟にたいし、坊主が越権で死者の思い出を列席者に語るよう促し、トップを切った佐藤二朗が調子に乗って司会役へ自然と昇格するあたりから異調が兆してゆく。
老齢で足元も危うい緒本順吉、モノトーンの衣裳なのをいいことに喫茶店のコスチュームで葬儀に立ち寄った伊藤沙莉、正体不明な村上淳、存在それじたいからもどかしさとヴァルネラビリティを誘発する神戸浩、侘しい女装、観ようによっては黒でドレッシーにキメた川瀬陽太、眼帯をして暗くヤバい自閉を放散する大水洋介、突然乱入してきて焼香の礼儀もしらないくっきー…。以上、順不同だが、列席者の故人にまつわる述懐は、みな不器用で要領を得ず、しかもそこから個人への愛着があふれだして、その意外な成り行きに喪主兄弟は内心、驚愕をしいられることになる。
話柄はみなショボい。リリーが生前、カラオケで声域が合わないのにテレサ・テンの「つぐない」を歌いたがったこと。包みに入れた紙屑が野球のボールに変わるマジックを習いたがっていたこと。友人にカネを持ち逃げされたオカマをかくまい、その病気の母親の面倒もみたこと。スポーツ紙のエロコラムを律儀にスクラップしていて、それが尊敬にあたいしたこと。息子の書いた往年の作文を宝物のように抱えつづけていたこと。霊感商法と知りながら、50万円もする数珠の購入費を出してやったこと。
共通するのは「共苦」と「義侠心」、それと後先の計算の立たない「無定見」「無償」という点だろうか。映画は前半最後にそれまで語られたことの「記憶」を自らフラッシュ反芻して、とりわけ子役をふくめた高橋一生=コウジの受苦を複雑に結晶化していたが(その編集は見事だった)、「受苦」と「共苦」の根本的な方向性のちがいを、会葬者たちは問わず語りにえぐりつくした恰好となる。斎藤工、とりわけ高橋一生に迫るものがあったのは当然だろう。
もんだいは、それら会葬者の語りの多くが、台本の科白から離れる即興性により、不恰好ながらに、いや、不恰好ゆえに、ごつごつした真情をつたえたことで、これこそが俳優主義のこの映画での独創だったのではないか。つまりイーストウッド『ハドソン川の奇跡』終幕の、機長-副機長-女性調査員によるフランク・キャプラ的に鮮やかな決定性をもつ科白のやりとりを禁欲したのだった。なぜか。
説明するのはむずかしい。ともあれ、さんざん家族に迷惑をかけた死者が意外や善人ならではの共感誘発性をもっていたという暴露性から作劇は微妙に外れたい。それは以下のような哲学に拠っている。たとえば「今年の牡丹は(いつでも)よい牡丹」という言い方があるが、「今日の死者は(いつでも)よい死者」というこの世の擬制を信頼しきること。その擬制のために、かぼそくひよわなリリー・フランキーのおもかげが、会葬者たちのボロさが、そして高橋一生のもどかしい返礼と、喪主挨拶を抜け出して葬儀場ちかくにうずくまる斎藤工のすがたのさみしさが動員されたのだ。胸がうずいた。死ぬことが哲学されているのだ。
伊藤沙莉の不意の登場にもうれしくなった。遺族席にいた松岡茉優と連動して、少し前のテレ東の深夜モキュメンタリー『その「おこだわり」、私にもくれよ!!』を想起せざるをえないためだ。斎藤工は本人役で、その番組に映画鑑賞環境に「こだわる」達人=変人として、松岡・伊藤の訪問を受けていた。この一班から推し量れるとおり、この作品の映画的「適材適所」「素材主義」には俳優・斎藤工の映画知のみならず、実際の人脈も活用されている。おなじことが原作のはしもとこうじ、脚本の西条みつとしにもいえる。どちらも新進の放送作家で、たぶんお笑いの分野に興味のある斎藤と、つきあいがあったとおぼしい。
――3月7日、ディノスシネマズ札幌にて9時55分の回を鑑賞。高橋一生ファンだろう中年女性が大挙押しかけていた。
メモ27
27
一日おんがくに身をあずけ
詩魂がすみゆくどころか
水さながら皺んでしまうと
井戸掘りで地下川にぶちあて
しずむひろばをおもいだし
かたむきのおわりとした
メモ26
26
ゆれやはためきがすこしくわわれば
ひとや樹はそれじしんからかわり
けむりだす細部をまじえてゆく
在ることがとおく明かされないままの
ひとや樹こそかたちのゆめのようだ
メモ25
25
あけの湖にひとり舟を漕ぐひとや
ダウジングしながらさまようひとが
うしろへ櫂を掻いてすすんだり
ふりこのゆれを地面になげかける
そんなとまどいからうつくしかった
とおさよわさで残心の束をなくす
ありかままのほのおにもみえた
和田秀樹・私は絶対許さない
【和田秀樹監督『私は絶対許さない』】
和田秀樹監督『私は絶対許さない』は、観る者を掴んで離さない夢魔的な力をもっている。十五歳の元旦、雪国の田舎の五人の青年たちに残酷きわまりない執拗さで拉致レイプされた女子中学生が、レイプの事実を見て見ぬままに親や学友から穢れ者として疎んじられ、地元ヤクザとの援助交際ののち、それで貯めたカネを元手に東京の大学へ進学、整形手術を施して美女へ昇格し、一見紳士然としたエリートに囲われるようになりながらやがて転落、鬱病肥満化に陥るが、一念発起してシェイプアップののち離婚して看護師兼SM嬢に再浮上するという――波瀾万丈「すぎる」女の性的一代記だった。振幅が類型的ともみえるが、原作は自伝、つまりこの「過剰」は「実話」に基づいているという。それに見合って撮影設計も異常だ。ヒロインの主観(POV)を模した手持ちショットのほとんどがフィルターをかけられてボカされ、はげしくうごき、視覚上、過激な混乱をやみくもに継続させる。POVの中心化という意味では、ロバート・モンゴメリーのフィルムノワール『湖中の女』のように狂的だが、ときたまヒロインが幽体離脱位置に可視化され、性的放埓に陥る自身を客観的に見下ろす設定も間歇挿入される。こうした撮影方法の変転に、賢明なリズム化=情動化まで実現されているのだ。カメラが人物の主体位置から俳優自身の部位を見る自己再帰ショットは魚喃キリコがマンガで大成したものだが、この映画ではその悲哀を、露悪もつけくわえて継承している。それでも五人の男の名を連祷呪詞のように繰り返すナレーションの「呪い」などによって、画面のすべてに共感ポイントを見いだせない。エドワード・ヤン中期のような非親密性の徹底といえる。そう、人物のだれにも共振できないおそるべき空疎へと抛りこまれるのだ。それでも催眠術に罹ったように進展に魅入られてゆくのだから、ある巨匠の名を想起せざるをえない――石井輝男。映画を観ることと熱に浮かされることが等価となる限定域がこのようにあるのだ。むろん精神分析の名のもとに、還元主義的にトラウマの魔力を口外したくてうずうずしているこの映画を、好きといったらたちまち変態あつかいされてしまうだろう。それでもいろいろな方法で撮影にかけらける「強圧」、その効力の吟味のため、映画ファンはこの映画を、細部の悪趣味まですべて鳥肌をたてて検証しなければならない。撮影は高間賢治。黒沢久子の脚本も白眉なのではないか。中高時代のヒロインを西川可奈子、長じて整形手術後美人化した姿を平塚千瑛が演じているが、一役二人という「分岐」そのものも「映画の狂気」=「高橋洋的な魔」に膚接しているとわかる。ことばの正しい意味でアングラ=ビザールだが、カメオ出演的な登用もふくめ脇役は豪華だった。列記すれば、佐野史郎、隆大介、美保純、友川カズキ、白川和子、吉澤健、三上寛、川瀬陽太、東てる美、児島美ゆき、南美希子など。4月7日よりテアトル新宿ほかで公開される。
森泉岳土『報いは報い、罰は罰』
書いた詩を、いかに速度をおとして読んでもらうか、日ごろあれこれと腐心していると、やはり森泉岳土〔たけひと〕のマンガ、その方法論にうたれてしまう。宏壮な洋館、その空間性そのものを恐怖の源泉とする彼のゴシックホラー『報いは報い、罰は罰』もまた、いつもどおりの森泉の流儀で、割り箸か爪楊枝の先に墨汁をつけ、その滲みによって、線が微細にゆれてえがかれる。硬いのにやわらかい物質的反撥。舞台となる邸内の建築調度のうっとりするほどの美的細部性、語り口の飛躍、ネームの間歇がまずジョナサン・クレイリー的な「注意」を勃発させる。それだけではない。スパッタリングなのか、グレーの諧調もこまかく差異をもうけられ、濃くなるほどに稠密性・粘着性を増し、ついには真闇に至る。眼はそれらの重さへ釘付けになりながら、率先したマゾヒズムによってそこから「ゆっくり」恐怖をあじわいつくそうとする――眼が画をしぼりとろうとする。いがらしみきおの圧倒的ホラー『Sink』やJホラー映画の秀作群にもあった事態だが、森泉『報いは報い、罰は罰』では「わずかに見えて」「意味を視認できないもの」がコマ割上の空間的了解を破壊、さらに暗さへと連携してゆく破調が画期的だ。一種の混乱だが、この混乱によっても画面の解読が「延びる」。ゆっくりとした解読へのみちびきがこれほど完璧な天才はいないだろう。物語ぜんたいは伝統的なクローズドサークル+ハウンテッドハウスものに分類できるが、ヒロインに眠りの反復をしい叙述の不安定化をみちびいたこと、さらには最も怖いのが子どもとおもわせたコクトー=三島的逆転にすばらしい新味がある。
メモ24
24
卵殻のなかみのようなせまさをもって
岩にとじこめられ喘いだことがある
うまれだそうとするこころそのものが
身をともなうのがとてもはずかしく
はるよ春よと岩がくだけちっても
あらわれはめぐりと境すらなかった
メモ23
23
わたしは気づかなくてよいのだった
ひなたのかおりのするくつしたを
かずかずにおもてがえしては
いつかうすさと表裏のざんこくへ
ひとさながらそまってゆくのに