メモ60
メモ59
59
もつことを添える、といいかえて
枝たばを身の脇にかかえている
この枝にはわたしこそが副いつつ
縦ひとすじはほそく恋いあまる
メモ58
58
おとめごのからだがやがて瓢箪形になり
おもうことのすなどけいがみたされてゆく
みているのだ瞳があまいわくらばなのも
たったひとつをふたつへひびかせていると
メモ57
57
このちいささは速さではないかと
蝶などを手にのせおもうことがある
おぼろな犀におちた気さえして
うれいだしたところへつげられた
ものの裏切りが大小の聖ルカとなる
定まらなさの一頭がみえていると
メモ56
56
ふかく山をもちいるものを杣といい
山にひそみあるものは仙というが
ときにより杣のうごきを仙がつつみ
芽を食むさますら女々しくさせる
髪も眼もわかみどりにみな染まって
くぼむ息だけ食へつながってゆく
メモ55
55
水にかかわるしごとをしているが
そのことをあかしせよといわれ
川床に足を置きかたちをつくった
からだが水と見分けなくなるまでの
さみしさをそらからみてもらった
瀬々敬久・友罪
【瀬々敬久監督・脚本『友罪』】
そうか、去年は「酒鬼薔薇聖斗」による神戸連続児童殺傷事件の20周年だったんだ…。「犯罪」と「少年」と「地域」、それぞれへの意識を崩壊させたこの事件は、猟奇的な着眼などを超えて、なにか致命的な楔を、日本の精神風土に打ち込んだ。当事者を超える当事者性。この内包と外延の同時性によって、たとえ「少年A」がその後どのように往年の自身を述懐しようとも、それすら僭越と映る特異点を、国民の記憶のなかに形成した。滅多にない禁域といえる。
少年にして連続殺人を犯した者は、捕まれば匿名性の庇護を受け、更生作業を経て、やがて社会へ放生される。予想されるのは罪意識の支配から、その者は生の着地点を見いだせないまま、無重力状態で彷徨をくりかえす、ということだろう。ひとの現在は過去の蓄積を土台にしながら、「しかも」現在と過去は絶縁されている。そうした「モデル」に虚構のカメラを向けると、「映っている」そのことが顕在と内出血、それら双方の様相を混濁させるのではないか。この把握は映画的欲望の一種だ。たとえばありえないことだが――ポン・ジュノの『殺人の追憶』の続篇で、カメラが「犯人」を定着したら、どうなるだろう、などと。
瀬々敬久監督『友罪』は「少年A」の17年後の現在として、瑛太を配剤する(彼の過去の犯罪実態は映画中表現されるが、実際の神戸連続児童殺傷事件とは手法、土地の選択などで絶妙なアナロジーをしるされる)。瑛太は瀬々監督自身の『64』での活躍もあったが、ここで共通するのは大森立嗣監督『光』での「存在論的」な好演だろう。瑛太は主に町工場の同期見習い入社の生田斗真の主観によって観察される。その生田にも過去のトラウマがある。自分の逃避によって親友の自殺を導いた悔恨が支配していて、それが一旦は評価されていた週刊誌ライターの職までなげうたせたのだ。生田がいう、失った親友の面影が瑛太にある、と。瑛太は訊ねる、ぼくが死んだら哀しいかと。哀しいと応える生田。その存在肯定により、当初、同僚の誰とも交情をしめさなかった瑛太が親密化してくる。
ところが瑛太の凄さは、他の俳優が「説明されること」を辞さないのにたいし、「カメラとカットによる説明」が「説明」そのものを超出して、その存在の輪郭にそれじたいの余白をのこしてしまうことだ。瑛太は偶然知り合った夏帆と付き合う仲になるが、夏帆のストーカー忍成修吾に無抵抗のまま二度殴られ続ける。寮をおなじくする先輩同僚の奥野瑛太にも同様だ。捨身〔しゃしん〕意識があらわなのだが、それが精神性ではなく物質的鈍さのみを発散しつづける徹底。つまり本当の捨身だ。いろんな属性も現れる。カラオケではレパートリーがない。ところが人口に膾炙したアニソンなら唄える。デッサン能力が抜群。発語はつねにもどかしい。死にたがっている。それでも「生きたい」(生存続の本能から身体が離れられない)と述懐する。彼が最終的にみせる表情が奇怪だ。涕泣直前(困惑)と笑い、それらの二極をゆっくりと往還する、自体性を欠いた表情筋運動を長きにわたり刻印するのだ。
瑛太が確立したものは、換言すれば「中間性」だろう。罪意識の身体的残存は、ひとのからだを廃墟化するというより、熾烈に中間化する――瑛太は自分の身体を媒介に、そう洞察したのではないか。中間性の「うすさ」に深甚さが同居するとき、存在は結像可能なのかという命題が到来する。その点で瑛太はたぶんその役柄の少年時の像とともに、シリアルキラーの属性を継続させているといえる。この点に気づかなくてはならない。
監督瀬々敬久はそのような不可能的可能態として瑛太を作中に開放している。むろん「少年Aのその後」は瀬々の犯罪叙事詩大作『ヘヴンズ ストーリー』では上述の忍成修吾が哀しい疎外態として担った。『ヘヴンズ ストーリー』は空や廃墟や草原や海に向けられたゆれるロングショットから、アレゴリーを探り当てる。遠景人物は当事者性を超え、意味把握不能の普遍を「リズム」として反復するのだ。そうした『ヘヴンズ ストーリー』的な土台を近景化し、「説明」をほどこした叙述的(つまり詩的でない)映画が、この『友罪』だろう。俳優のバストショットが頻出し、それらはすべて感情を湛え、存在自体がストーリー文脈によって説明されてしまう。
過去にあった犯罪あるいは悔恨によって、存在が息絶え絶えになっているのは瑛太だけではない。生田斗真については前述した。自分の息子が犯した殺人によって一家を「解散」、いまはタクシー運転手を実直に勤めあげる佐藤浩市もいる(それで当初、佐藤が瑛太の実父ではないかとサスペンスが生ずる――ただし息子の犯罪が自動車の無謀運転により児童を三人死なせたと落着するにおよびサスペンスが解かれる――佐藤はドラマの中心人物たちを二度運ぶ――はじめは生田の元恋人にして週刊誌編集者の山本美月を、生田たちの近隣地で起こった児童殺人事件の現場へと――つぎが疲労困憊のあまり工場の機械作業で自分の指を切断してしまった生田を病院へと)。あるいは瀬々『最低。』よろしく実家いやさに上京して忍成の毒牙にかかり、AV出演に導かれたあと、それをネタにつきまとわれている夏帆も、近過去が凄絶なトラウマとなっている。つまり過去的災禍に窒息している人物たちが配剤されすぎていて、映画は「説明重畳」によりシャープさを減殺させているのだった。この弱点が抒情性をこのむ瀬々ならではのラストシーンへと接続されてゆく。
大作『64』で大量の有名俳優を捌ききった瀬々は本作でも同様の豪華なキャスティングで映画の進展を差配している。改めて俳優名をしるそう。生田斗真、瑛太、夏帆、小市慢太郎、坂井真紀、村上淳●、西田尚美、片岡礼子、大西信満、宇野祥平、渡辺真起子、光石研、忍成修吾●、矢島健一、青木崇高、古舘寛治、山本美月、富田靖子、佐藤浩市●。三つの●が『ヘヴンズ ストーリー』とのキャスティング共通項だが、効果は絶大だ。『ヘヴンズ ストーリー』のパズルピースの組み換えによって新たに生じた画柄が『友罪』ともいえるからだ。鍋島淳裕のカメラはすばらしい。『ヘヴンズ ストーリー』とは対象は異なるが、埼玉と設定される風景の「棄景性」(丸田祥三)をみごとに展開しているのだ。とりわけ町工場と工員寮の描写に唸った。鉤型の工員寮の二階から一階の共有スペースの縁先を俯瞰するポジションが卓越していた。
佐藤浩市のシチュエーションを切れば、映画はより先鋭化され、説明から、説明を超えたアレゴリー(つまりなぞらえられるBが不明のまま二重化された感触のあるAの現前が起こる)に到達したかもしれない。不気味なものを面前にしたとき、鏡像関係のなにが試されるのか、ということだ。葛藤だけが現象するのでは足りないだろう。シンクロが、記憶の混乱が、評価軸の揺動が、バラバラの手足のようになければならないのだ。佐藤浩市を中心とする一族群像を薬丸岳の原作から離れ、終始傍らに置くことで、たしかに映画は点在感をましている。だがほんとうの散乱の源泉は、さほど明示されないが、瑛太の役柄が少年期におかした殺人、その死体が分離されたことにあるだろう。ところがその瑛太が長じて、工場事故で指を切断した生田の、その指を皆が動顛する現場から拾いあげ、氷水を入れたビニール袋に入れ、生田の指の再接続に貢献したのだ。バラバラの回収。つまりここでは、イシスとオシリスが二重焼きにされている。なにかの循環法則のように。
「説明」次元では以上のようになるのだが、実際の生田の事故の場面で、瑛太は上のようなことばに回収される演技などしていない。中間性の指摘でも感じられただろうが、回収されることを拒む演技を瑛太は貫徹している。瑛太が生田の事故に気づき、切断されたその指を拾いあげるまでどんな「バラバラな」表情を連続させたのかは、劇場でぜひ確認してほしい。もっとも感銘したディテールだった。
――5月25日より全国ロードショー(4月20日、プラザ2.5の札幌試写にて鑑賞)。書き落としたが、夏帆の顔や肩の物質性をとらえるアップショット(そのきわみは自室ドア前の瑛太とのキスシーン)がすべてすばらしかった。
メモ54
54
おんなごとに髪のあらいかたがことなり
おもいやればただひとつのふろばさえ
ひとのよのうたせ湯とすることもできる
うずくまりつつにおいであふれ滝髪は
すがたよりふきつに外の面をかくす
メモ53
53
うつろとみえるなにもないみなもに
うきくさがけはいするのはいつごろか
あつまりがただ気重にうかびゆれて
智のおもいそだてるゆううつさながら
とおいちりめんをおもわしめるのは
メモ52
52
まよなかの窓からきたともだちは
夢にあらわれたといっていいだろう
乞われてわかしたちいさなふろで
からだあることをかなしむまにまに
しろい通り魔もはだへとぬりあう
ちりの世にたまのかがやき散るまで
メモ51
51
おうなから釣をうけとるとき
にぶい残響がてのひらへおりた
さみしいはずれの駄菓子屋
十円からひかれた穴あき五円が
あがなった飴と対をなして
のどかに両の手を病むことを
かえるさのはこびにてかくした
メモ50
50
大木をみあげると声をあげてしまうのは
ことばが組ではなかったころのことを
おおきさそのものがよみがえらすためだ
おそるべきかたちはふくざつで野蛮で
抱きとめるまなこをくらい眼窩にもどし
すぎたるさまをとめどなくふりゆらす
メモ49
49
わたしのわるい癖はあたまをはずし
肩のうえへたかくかかげることだ
いなみをもちあげるこのしぐさから
ふきぬける風がくろいともいえて
ふたつある優位すら野にとおくある
メモ48
48
鮮らしいことばのながれをめぐり
わたしらのあたまは積荷となる
文節のわたりが花の名にもきこえ
圧縮か圧延かわからぬかたちで
はるに鋳出す仮の世の息があおむ
メモ47
47
十二月の大工ヨセフは身重の連れが
ぶどうのようにかがやくのをながめた
記載からきえたあとは慰安がおどるのを
仲間の石工たちと日々ほそくみつめて
しるしする柱頭へまるみをのこした
メモ46
46
天与アリとよそおうこと
詩のものらがかさねるのは
わざおぎのおぞましさだ
ねくびまでもうつろへいれ
ゆれるためのゆれをして
殺人者の記憶法
【ウォン・シニョン監督『殺人者の記憶法』】
今年1月末にシネマート新宿で公開され、それを受けて札幌ではディノスシネマズで公開されたウォン・シニョン監督『殺人者の記憶法』は、上映があっという間に終わり、残念なことに見逃してしまった。イ・チャンドン監督『ペパーミント・キャンディー』のあの主演者=ソル・ギョングが主演、しかもアルツハイマーにかかった連続殺人鬼の「記憶の不安」を描く(なんという「アイデア」だ)、というチラシを見て、どうしても観たかったフィルム・ノワール臭ぷんぷんの映画。これを仕事の関係から観る必要があり、配給会社のご厚意で、たったいまDVD鑑賞をすることができた。以下はメモ。
まあ、多くの韓国映画は、「俳優の表情」「カッティングによる説明」「音楽」「物語量と物語反転」「トラウマ」などが過剰なのだが、これら過剰を鬱陶しいとおもうと、特有の「ガッツ」までおもしろがれなくなる。グッドセンスなど二の次なのだ。そうした泥臭いお国柄のうえに、フィルム・ノワールが開花したのがこの『殺人者の記憶法』なのだから、とうぜんフィルム・ノワールの要件=「一人称ナレーション」「フラッシュバック」「前提の解除」「ストーリーの迷宮性」なども鈴なりとなる。練達のフィルム・ノワール・ファンまでめまいを起こしそうな怪作なのだった。
状況を整理しよう。若い頃に連続殺人鬼だった現在50がらみの男がアルツハイマーを患いはじめる。往年の殺人の記憶は薄れかかってきているが、不快なものにたいする突発的な殺人衝動ならのこっている(詩の教室の設定が秀逸)。その自覚もある。彼が唯一溺愛するのは男手ひとつで育ててきた愛娘。しかしやがて娘だと認知できなくなると、彼女まで殺してしまうかもしれない。この怯えが、作品開始時の基調となる。
黒沢清の映画がよくおこなうように――あるいは『羊たちの沈黙』もそうだったように、この映画、要素がひとつ多い。連続殺人鬼がじつはもうひとりいて、それがやがて娘の恋人の座におさまるのだった。表向きは警官のその男と主人公は、互いの正体を、直観と発見を活かして即座に見抜くが、主人公がアルツハイマーなのでこの対立構図も不安定にゆれつづける。「憶えていること」「いないこと」が無方向に点滅し場所を入れ替えるためだ。結果、映画における「過去の叙述」が覆りだすなど作品の信憑がぐらつき、また娘の恋人も記憶の誤作動を陰謀的に主人公へ仕掛けつづけることになる。何が本当かわからず、その不安定さによって逆に画面の細部の魅力を増す――それがフィルム・ノワール一般だとすれば、この映画は主人公の記憶にかけられた負荷とアレゴリーによって(良いことかどうかはわからないが)もともと過剰なフィルム・ノワールをさらに過剰化しているのだった。
ともあれ「記憶」と「連続殺人」が鍵なのだから、設定はちがうが着想は黒沢清『CURE』的だ。じっさい黒沢映画的なロケーション、建物構造も頻出し、まるで『CURE』の細部パーツを入れ替え、別の全体パズルを仕上げたら、この映画になるような気がするほどだ。主演ソル・ギョングは『ペパーミント・キャンディー』のときは井川耕一郎くんに似ていたが、その後は「カメレオン俳優」の異名どおりに大杉漣に似ているなどともいわれた。この映画ではその長髪時は、役所広司の骨格に内野聖陽の目鼻を乗せたみたいだ。ただ役所広司をおもうのは、黒沢作品との類同のためだろう。ちなみに、娘の恋人役キム・ナムギルはロングで見ると、星野源をおもう。娘キム・ソリョンは恒松祐里かなあ。
むろん影響源は黒沢清だけではない。主人公ソル・ギョングは日記がわりに眼前の認知、それと自己行動を、娘の言いつけでたえず日記的にテープ録音していて、これはブレッソン『白夜』からの由来だろう(このテープ録音内容が「物を言う」とき、この作品の暗い視覚性以上に、ハイセンスな衝撃が走った)。クライマックスでは主人公と娘の恋人の肉弾的な死闘があるが、そのエモーションの質はアルドリッチ『北国の帝王』のリー・マーヴィンとアーネスト・ボーグナインの衝突によく似ている。最後には「怪物とは何か」という、ニーチェ/バタイユ/トビー・フーバー/黒沢清的な哲学が図太く中心化される。このてんこ盛りの映画は、カルト化するしかないだろう。その証拠にネット上の評価も、大絶賛から大批判まで両極的だった。もうじきDVD発売日も決定するのではないか。
メモ45
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楽、という字のようにとおく
つばさをひろげている鳥があり
いち羽が数羽にもひとしいそんな
あふれでるしめしをかんじる
音楽がとまらなくおぼえるのは
ふたしかなものを島のそらはるか
その身に聴きおよぶゆえだろう
メモ44
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紐のようにながさになりたいかたちは
むすばれれば狭霧をただよわすのだ
あたまのどこかでそんなおくつきがあり
ひとはみずからをかなしみつつ約す
日のおわりには扼すとまでいいかえて
かんがえそれだけの象形がつぶれる
メモ43
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ヴァイオリンケースをあけたせつな
棺桶をあばいたおそれが走るのは
胴のくびれにうつくしいおんなを見
ニスのかがやきに不死を嗅ぐためだと
f字孔の対称がつげていなかったか
それでこの肩にもおなじ孔が穿たれる