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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

メモ123

 
 
123
 
やがてばらばらにわかれゆくときの
ひとらのうごきのかがやきとはなにか
それはかつてあったアゴラでおこり
四囲のひろがりが幾輪にもなって
まらるめのながめで水紋がおさまる
はちすひとつのめぐりだとかたられた
 
 

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2018年07月31日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ122

 
 
122
 
馬上が家となりすみかはせまいが
ゆかせればさきの草場さえ家だ
ぼろのころもを帆のようにたてる
 
 

2018年07月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ121

 
 
121
 
あれこれ歩行補助具をゆめみるようになり
どの地上がとおくうつされたそらなのか
足なえたちがたくまれた錫のなにかをおし
錫鳴きして円屋根を二重のさまでわたる
なつとひとのそこにさかさのけはいあって
めまいのなかをつかれがきらきらあるく
 
 

2018年07月27日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ120

 
 
120
 
こどもが球形をかんじるはじめが
ちかづく母親のめだまだろうが
みずからみちるあじさい玉ならば
あおい盲目のあふれなのだった
すべて剪られ転がるさまにであい
みるばちあたりで痴れ者になりつつ
棄教のあたらしさをもふるえ聴く
 
 

2018年07月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ119

 
 
119
 
どこをさまよっても丈ひくい草の花ばかり
木の花のない北十八条あたりはさびしい
らいらっくを誇る心はさるすべりをうえず
紫微とよばれるべきひろがりがかなしむ
戸口からなつかしい官女のあらわれぬ朝に
路上の長椅子は草花のふたりをひきこみ
椅子のさまがくうきのラーゲになってゆく
 
 

2018年07月24日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ118

 
 
118
 
夕日負いおのが影まですくいつつ
くらうことなどできたのちは
ゆくしかないこの黄泉のふくろへ
ゆうがおの坂もみたしいれた
旅装にてとおす、とおのれ恃んで
 
 

2018年07月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ117

 
 
117
 
だれかと家電話で語らっていたむかしは
遠浅へおきさられた気がしたものだ
凪ぎつづきの責めでふいにしろくなり
ひとを不如意棒のまま堰くしかなかった
 
 

2018年07月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ116

 
 
116
 
ひとのからだなど分割できないが
できそうになるもとに曲線がからみ
かたちの内省とみえてうつくしい
それはあなたではなくたとえば時で
とおさとおもえるへだてもあって
おわらぬなかばはつながりにきえる
 
 

2018年07月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ115

 
 
115
 
せなかだけみてそのものとわかるほど
こべつはふぜいにふかくしみこんで
場でみわけるやなぎとひとはちがうが
いちど僧帽筋の語をおもいだすと
だれでもない帽子のせなかもうごいて
前をさりゆくふわふわが天金となる
 
 

2018年07月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

昼顔

 
 
今日、永田耕衣のことをちょっと書いて、ふとおもいだしたのが、さきごろTV放映され録画でみた西谷弘監督の映画『昼顔』。クライマックス、北野先生(斎藤工)に死なれ(実際はまだ籍を抜けなかった嫉妬深い妻=伊藤歩に殺された恰好)、絶望のきわみにある紗和=上戸彩が轢死覚悟で深夜、最寄り駅=三浜のホーム下の線路に、ぼろぼろになって崩れるシーンがある。いつしか彼女が仰臥の姿勢となり、頭上にみえている銀河に手を伸ばす。それが彼女の主観ショットで捉えられる。このとき永田耕衣《てのひらというばけものや天の川》の解析画面がとつぜん到来する。また彼女の前方はるかには線路の青信号があり、それがまたたき、死んだ螢のような紗和へかすかなひかりを投げかける。このときは耕衣《死螢に照らしをかける螢かな》の図式がとつぜん浮上する。なんという符合だっただろう。
 
これらは偶然にしても、西谷弘監督の力量はいつでもすごい。ショットの存在論といったものにつうじていて、その呼吸、対象の表情を捉える距離と構図、ショット同士の関係性がすべて適確なのだ。空間が人物とともに躍動する。エドワード・ヤンの複雑な長回しに匹敵する、カッティングの一連もあった。北野先生の姿を三浜の講演会で三年ぶりに確かめた紗和が、三浜の螢生息地に行きたいという北野先生の壇上発言を頼りにそこへ赴くが空振り、帰途のバスで路上にいる北野先生を見つけ、窓をあけ、声をはりあげて名をよぶ。北野先生も気づき、バスを走って追う。以下はバスを下車し、捷径選択しようとしてその先回りの疾走が画面の縦横を切ってゆく上戸彩の身体と、ヒッチハイクして最初のバス停に降りてゆきまよう斎藤工の身体の、変化と段階を重ねる複雑なカット交錯となる。それでメロドラマの法則どおり、ギリギリふたりの邂逅がむごたらしく流産する経緯が定着されてゆく。このときの空間上の人体による線の生成が幾何学的な奇蹟というべきものにまで昇華されていたのだった。これは永く記憶にのこる場面だろう。
 
むろん主婦の観客のためには、「不倫は合わない」という託宣がおこなわれなければならない。それで脚本の井上由美子は伊藤歩に傷を加算させ狂気ちかくまで陥れたが、誤算だったかもしれない。近松が参照されるだけでよかったのだ。北野先生と紗和は「世間」から糾弾され「晒され」、経済的に混迷し、まさにこのふたりのあいだでこそ、心中が企図され、それが片方のみの死に結実すればよかったのではないか。伊藤歩があくどすぎて、どこか現実感が稀薄になった点が惜しまれる。「バスにどう乗るか」という主題は見事だったし、指輪のゆくえに百葉箱が選ばれ、それが待ち望んでいた紗和にではなく初出の子供たちのあいだでプレゼントされる作劇の残酷も鮮明だったが、ドラマのトータル設計に過誤があったとおもう。
 
 

2018年07月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

1968

 
 
こないだの道新の土曜夕刊、ぼくの連載コラムが載った。四方田犬彦さんが中心になって編んだ筑摩書房の「1968」シリーズ、1『文化』、2『文学』、3『漫画』の全巻終結を見据えた、紹介と論評。おおまかに1はジャンル別に論者が解説をおこなう体裁だが、2、3はレアアイテムもふくめた意欲的なアンソロジーになっていて、こういう試みにたいして「何々が入っていない」などとイチャモンをつけるのも、はしたない。だいいち論評するこちらもその内容豊富な3巻細目に圧され、「目次批評」になってしまわないよう強弱と緩急をしいられた。
 
68年は世界的にはビートルズ、ゴダールが文化アイコンの最大値だったが、3巻の四方田さん以外の編者・中条省平が暗示するように、ヴァルター・ベンヤミンの文業全貌が徐々に明らかになり、翻訳が各国で盛んになった点がおおきいかもしれない。「暴力批判論」でいえば、国家が叛乱者を弾圧し死刑に処す「神話的暴力」がクローズアップされ、その「神話的暴力」を打ち砕く「神的暴力」として「ことば」に期待があつめられた。このときにランボー、ロートレアモン、シュルレアリスム、そしてシュルレアリスムの周縁者としてアントナン・アルトーやシャルル・フーリエなどが脚光を浴びる。花田清輝の集団創作論などに領導されすでに大島渚中心の「創造社」などのあった日本の68年は、同時に現在よりももっと翻訳文化の磁力圏にあって、そのもとで、ことばと映像の変革が推進されていた。
 
政治(革命)的言語と芸術的言語の相剋または綜合、それはドキュメンタリスムとシュルレアリスムの並立といってもよく、多くの前衛芸術・前衛言語がこの融合圏を周回した。運動上、吉本隆明の影響がつよかった68年は、芸術理念上はいまだ花田清輝の影響がつよかったのだ。それとおおきな問題は、表現者同士の「同時性」にたいする皮膚感覚のするどさ、くわえて、マイナーがメジャーとなる転覆があたりまえだったことだろう。テーゼ別にみよう。前者の核心は、1巻中「演劇」を担当した西堂行人が書きつけた《別個に立って、共に撃つ》にある。後者ならば2巻に初期著作の「名所」、そのシュルレアリスティックで音感抜群、転倒的アジテーションが抜粋コラージュされた平岡正明が、晩年、名文家となって大成したあとなおも繰り返していたテーゼ《少数派が多数派を解放する》をおもった。中国文化革命のテーゼ《造反有理》は全的適用ができない。全共闘の標語《孤立を求めて、連帯を恐れず》は現在でも全適用が可能だが、これはフランスでは失敗に帰したジガ・ヴェルトフ集団、さらにはドゥルーズ=ガタリの共同作業にとりあえず結実してゆく。
 
詩はどうか。日本では「60年代詩」と「68年詩」との弁別という特殊な課題がある。学生の叛乱を原資にした詩歌は、ぼくのかんがえでは金字塔が達成されていない。政治的言語と芸術的言語との美的綜合は、たとえば岡井隆の短歌にあったが、『朝狩』(64)『眼底紀行』(67)の刊行年が68年からは外れている。その岡井隆は70年に失踪してしまう。これは岡林信康の失踪、パウル・ツェランの自死などとも並行する現象かもしれない。俳句の加藤郁乎などを先例として目的地のない言語破壊を凄絶に目した「68年詩」もまた、多くは破壊の対象が最終的に自己へとむかうしかなかった。帷子耀、芝山幹郎の「騒騒」同人は詩作を断ったし、最も自己破壊的だった山本陽子はやがてその自閉のむこうに忘却されていった。
 
じつは俳句では加藤郁乎から永田耕衣への覇権移行があったとみる。日本的な事態といえるだろう。「棒状のぶきみさ」「それ自体」「禅機」「土俗」「哄笑」などが前面化されたが、それらを裏打ちしていたのが土方巽の「肉体」と「怪文」だった。吉岡実はやがてその傾きに同調してゆく。老齢に達しつつあったものの強靭さがこの動勢を補助している。それでは、ひ弱だった若い詩作者はどうだったか。連接、連辞のぶきみさにより、アイコン結晶に脱臼をしいた平出隆の「花嫁」シリーズが68年の直後に躍り出る。これに、喪失の抒情につらぬかれた稲川方人の初期詩篇がくわわる。だから68年詩も四方田犬彦のいう小説とおなじく68年体験をほんとうは潜航・間歇させることになったが、現れたそれらはもはや70年代詩とよばれるしかなかった。それが歴史だろう。こうして現象的な「68年詩人」が「気風の持続を負わなかった」錯誤として、郷愁の領野に定着される。
 
もっと喪失を日常的な身体の違和となした純粋70年代詩もあるだろう。68年アヴァンギャルドの対抗現象ともいえる四畳半フォークと連接するもの。のちの松下育男の登場は画期的だった。マンガでいうなら安部慎一の位置にあるが、ただし筑豊弁を押し出した安部は、中上健次的なものの「気弱い結晶分解」の側面もあった。彼も自己破壊をしいられた。そういえば松下育男も後年、断筆の時期がながかった。早熟はなぜ夭折を回路にしようとするのだろうか。
 
以上が、68年に10歳だったぼくの、後知恵による地図だ。むろん10歳当時は兄の影響で内外のポップソングにあかるかったもののザッパやジミヘンの体験がまだない。早川義夫のジャックスは、アルバムはいまひとつだが、そのライヴ音源が68年的だと知るのものちのことだ。すでに親しんでいたマンガはどうか。つげ義春「ねじ式」は無意識へとふかくしずめられたが、高校のバリケード闘争をマンガにした真崎・守の『共犯幻想』でさえ遠望の視野にあった。ただしそれらこそが自分のエロス衝動の最初の指標となった。「肉体」がアルトー/土方巽のような脱器官性として意識されるまでにはのちにまだ二十年ちかくを要する。写真ですら、立木義浩がこのみだった自分が「PROVOKE」を中心に「風景=肉体」の整理をおこなうのに時間がかかった。以下、永田耕衣から二句。
 
河骨や天女を破りたる如し
 
河骨や天女に器官ある如し
 
〔※そういえば68年的な技法としてあったのが、エディティング=コラージュだったかもしれない。文中にゴダール、ビートルズ(≒ジョン・レノン)、ザッパ、つげ義春の名を掲げたが(さらにマンガには佐々木マキ、林静一もいた)、コラージュ性があるかないかがたとえば詩における68年の「気風の持続」を見極める基準となるかもしれない。帷子耀にはコラージュ意識がたしかにあった。いっぽう俳句はエディティングを内包するから非連続が永田耕衣のように必然的に68年的となるばあいがある。現今の詩はどうか。連打力か直叙が趨勢だろう。その趨勢のもとでコラージュは内向沈潜する。けれどもそれがかすかにでもなければ音韻性と、きしみが演じられない。このことが詩を見分ける手立てとなるのではないか。〕
 
 

2018年07月17日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ114

 
114
 
ピンクにぬられた家屋から数歩出たとき
ぬまのようにしめった声の複数がぼくらだ
音の知恵はみしらぬ生にあふれていると
ジェイム・ロビーがつれそってかたるので
弱気と謙抑によりむくわれぬこともある
くびられゆくうたがあわれだといらえした
 

2018年07月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ113

 
 
113
 
レダが白鳥につつまれたときは
なにが侵入しているのかわからず
しろとやわらかさと厭な臭いで
あたまが身とわかれるようおぼえ
かえって増殖をよろこんだが
そのいじましさこそめでられた
 
 

2018年07月14日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ112

 
 
112
 
面積なかばに貶められているとおもえ
するどいかたちゆえかなつもみあたらぬ
三角形とはおそらくすがたですらなく
ゆめのゆめなるをいなむ抹消因子だろう
ものごとのきらきらする未然のような
 
 

2018年07月13日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ111

 
 
111
 
たいくつのさまがほおづえより
ねころがりへとかわってゆき
かたゐのおびる心身かんけいも
ドーナツから棒にふかまっているが
ふとしもながさすらあけはなれて
もはやひとやかなたが打てない
 
 

2018年07月12日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ110

 
 
110
 
やがて樹木がおのれをみおろすと
かざあしもないのにこもれびがゆれ
けむりもあくがれいづるようだが
まがごとのなかなど恋に似るのみだ
 
 

2018年07月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ109

 
 
109
 
ひとがくるしみ柱を背負うのも
そのかんけいがひと柱だから
けはいまでたてられようとして
ファサードがみえるんだベイビイ
みせあうとはそんなむかいかた
ひとみの奥もたてものになること
からだと柱だけで部屋はできる
 
 

2018年07月10日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ108+大木潤子・私の知らない歌

 
 
108
 
きえない紋中紋がむねに
しかもふたつまでありつづけ
余韻もただようからなのか
おんがくだけにあるあいだが
かぎりのこととしるされ
けれど中途すべてはひらく
 

 
大木潤子さんの新詩集『私の知らない歌』は、五百頁になんなんとする大著といっけん捉えられるが、右頁の白、左頁のすくない語=すくない詩行をつうじた「改丁」法則によって、おどろくべき高速で読了させられてしまう。パラパラマンガをめくるような自らの手のうごきは、いわば身体そのものに詩世界の混淆白化〔アルベド〕を浸透させてゆく。それは晦冥詩における詩語の黒化〔ネグレド〕の対蹠にある効果となり、詩の基底材がつくりあげるうすさへの陶酔をまねかずにおかない。そうして「ここ」の現前性ではなく、「どこ」の非場所性が最少のなかでゆたかな攪乱因子となるのだ。
 
そのときたとえば改丁で仕切られた《空/無》のような単位が、「空」、「無」の時空並列なのか「空無」の語分解なのかで認識のブレが生ずる。この一瞬のたゆたいが、むしろ「空」「無」にそれぞれの凝視をもたらして語の物質的復帰をみちびき、高速が滞留に反転するともいえる。となると書かれているのは、速度=時間にまつわる二重性なのであって、高速は思考内では微速の分解としてたえず差戻しを反復させていることになる。思考=感覚は、それでいわば贅沢をあじわう。
 
つけくわえるなら、こうした遡行性の伏在こそが中和を実質づける中性性の本体なのでないか。もちろん男性性のアノニムは女性性ではなく中性性で、その機微につうじているからこそ大木さんの詩が爽快なのだといえるし、男性性と女性性の加算などありえず、中性性の単独こそがあるのだから、もともとアノニムという着眼そのものが反動的なのだとも大木さんは知るはずだ。もっというと、男性性を詩から抹消しようとして付帯的に女性性も抹消されるから、中性性が単独に開示されるということなのだ。
 
掲出詩篇は、この『私の知らない歌』の読後に、ふと書きつけたもの。詩集評を詩にしたということではない。現れなかったものへの同調までもが起動しているためだ。具体的な詩集評については他日を期したい。
 
 

2018年07月08日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

黒沢清と前川裕

 
 
【黒沢清と前川裕】
 
わけあって、前川裕のミステリ巨篇『クリーピー』をいまごろ読んだ。いわずとしれた黒沢清の映画『クリーピー』の原作。第15回日本ミステリー文学大賞新人賞を受けているとおり、これはたいした傑作だった。
 
黒沢清は原作から三分の一程度の情報を抜き取って、別建ての折り紙をつくったにひとしい。「なりすまし殺人鬼」が隣家にいたら、という設定は継承されているが、原作の全体を視野に入れ二時間程度の作品をつくると、省略と飛躍をしいられ、解読不能になるとかんがえたはずで、これは適切な措置だった。おそらくレイモンド・チャンドラー原作、ハワード・ホークス監督、ウィリアム・フォークナー脚本の、「解読不能で」「それゆえに外連味たっぷりの」『三つ数えろ』の故事が念頭にあっただろう。ああいう映画は、いまはつくりえない。
 
黒沢清は結果、ショット――とりわけそれが孕む根源的な隣接性に拘泥した。「隣人恐怖」を主題とする原作を扱ううえでの選択だ。或るショットで或る対象が映るのは、カメラと対象がちかいことを前提としている。遠望ですら画面では平面性へとおしこめられ、近傍化してしまう。あるいはショット同士が場所を飛躍させるばあいでも、そのふたつの場所のはらむ時間ひいては空間はちかさを現象させてしまう。黒沢清はそこに罠をかけ、「クリーピー」(薄気味悪さ)をさまざまに分光させた。「虚構」が熟慮されている。
 
本来性から離れてしつらえ替えられた空間は、遠望を無意味に活性化させれば近傍の焦点化不能へとゆきついてしまう(西島秀俊の働く大学の空間)。一旦の近傍化はたえずフェイクを付帯させているのに、その点が問われない不思議(川口春奈の現在住むアパートがやがて二階の一室だと判明すること)。近傍が主題にのぼりつめると、そこに不躾に類似という主題まで割り込むこと(一家失踪事件のあった〔かつて川口の住んだ〕日野の住宅のもつ近隣関係と、現在の稲城市にある西島の住む家のもつ近隣関係の、突然のアナロジー)。近傍性は密着性にもつうじるから、映画の死体処理では布団収納用のビニール袋(巨大なジプロックのようなもの)と業務用掃除機が使用され、その内部を真空化され、視覚性は半可視的に死体の皮膚に密着するビニール袋を通じて実現される。ゴダールが『小さな兵隊』『気狂いピエロ』で尋問対象の顔に布を掛け、顔を大量の流水で密封状態にし、窒息恐怖を演出したのに似ている。
 
ただし眼前にある近傍は、言語化できないという意味では、けっして実体性をもたない。日野の住宅の門扉部分が敷地から突き出ていること、西島の真隣の家が道路から奥まっていて、その門扉部分と隣りあう家屋部分が奇妙なことの理由は、そのように美術部がアレンジしたというだけで、実体的な理由をともなわない。もっとも異常なのは、恐怖の源泉である香川照之。香川は近傍性のなかへゆっくりと現れてくるが、会話の応酬に、論理の噛み合わなさ、脱臼を分泌させ、それで話し相手をやがて支配してゆく。そこではリズムのシンコペーションが、脱論理の論理となるのだが、このシンコペーションこそを、近傍性のなかで最も実体化できないものとよぶべきだろう。現前と「別のもの」の正体なき同時性はカフカ的なアレゴリーの本質だ。むろん香川照之の現前の違和感の前段には、黒沢清『CURE』の萩原聖人が存在していた。香川は近傍を、近傍性によって破壊していたのだ。「クリーピー」の感触はそこからもっとも生じた。
 
前川裕の小説『クリーピー』は、映画の恐怖感覚を追求してきた黒沢清の達成に較べ、さほどクリーピーではない。ただし映画では省略された設定がじつは複雑をきわめ、えがかれる逸話が近傍性のなかに無媒介にひしめいて、その一種の汗牛充棟ぶりがクリーピーではある。大事なのは以下のことだ。映画では正体が終始わからなかった香川照之の役柄(本名)がついに判明すること、映画では殺されたと判明したのちは捨て置かれた東出昌大の役柄が、その死後にさえ幾度も小説空間に去来すること、その離婚した妻と、隣家の「娘」(澪)が「十年後」に設定された小説の最終章で悲劇的なうつくしさを発揮すること。つまり映画で端折られた部分が、小説の魅力の根幹になる逆説的な構造が、小説を確認すると浮上してくるのだった。
 
ミステリ小説だから、物語の骨子となる部分はネタバレとなるので書けない。なので以下は抽象的にしるしてみよう。小説『クリーピー』は映画人を近傍視野に入れている。ロマン・ポランスキーと、ルイス・ブニュエル(それにほんのすこしのアントニオーニ)。小説が映画とは別につくりあげる人脈は、映画の東出昌大の係累がひとつ、西島秀俊の教え子がもうひとつだが、どちらも近傍性を組織させながら、そのつながり具合が不如意さに貶められている。東出の係累はどれをとっても「血が充分につながっていない」。西島の教え子は教え子なのに恋の予感を印象させすぎる。
 
ただし小説の最終章のすばらしさは、悪=犯罪と、悲劇=感情の崇高さとが、ありえない(つまり小説的な)近傍関係をむすんでしまう点だろう。そうなると作法が変わる。つまり「真意確認」「事実確認」「罪障追及」のすべてがその近傍領域、つまり「黙契」へとすりかわり、このとき人物同士のやりとりが涙目をおびてくるのだ。「ずれとして表される近傍」――このすりかわりはメトニミー的だが、それがうつくしさとかなしみを混淆させる。わすれがたい模様をつくる。だから小説と映画では近傍性把握がことなるのだ。ともあれ前川裕の『クリーピー』はストーリーの意外性にくわえ、このことでも至上の傑作となった。

そういえば前川裕の文章は「顔」の描写にすぐれている。けっしてバルザック的ではなく、またその反対の三島由紀夫的でもない。顔の描写は近傍性を前提すると部位別列挙となるはずだが、そうなれば全体性が混乱する。そこで「類似」がつかわれ、近傍性が一旦抹消される。ところがその類似が驚愕と恐怖をよぶと、ふたたび近傍性が実体次元の外側に復活する。この機微を知り尽くしたうえで、前川は少年性をもつ美少女の顔を結晶化させ、「同時に」映画では香川の演じた役柄の顔を脱結晶化させた。映画の香川照之は(とうぜん監督の黒沢清も)そうした原作の力に意識的だった。つまり黒沢清が香川の役柄をけっきょく正体不明にしたのは、前川の描写の質をかんがえたためでもあるだろう。
 
 

2018年07月07日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

メモ107

 
 
107
 
瀧として龍はむごく吊られ
ひとときとしておなじでない
さだまらぬからだをゆがめ
しぶきをくわえたみずからで
いぐるしくもありつづけた
 
 

2018年07月05日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ106

 
 
106
 
このオオカミが牝だと気づいたことは
かんがえられないおぞけをまねいた
オオカミすべて牡でまっとうされるのに
時のウロボロスはべつの同音をかなで
あと脚のあいだに扁桃がきずついていた
 
 

2018年07月04日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ105

 
 
105
 
そのかみのほおづえのつきかたなど
ぼうようとしておぼえておらず
うでとかたと顔でつくりどりした
かんがえのすりぬける楕円ひらいて
たまさかおなじかまえをなしても
おもかげへのエポケーはふるえ
かがみのうらにてかささぎが鳴く
 
 

2018年07月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ104

 
 
104
 
いよいよやなぎがしだれて
じめんを掻きそめるなつ
そのかすれたおとでめざめた
さみしいぞ他力がゆれを
ふたえする柳枝さながらの
かなたまかせがいたいぞ
 
 

2018年07月02日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

メモ103

 
 
103
 
ならんでいるのはうつくしい
なにごとでもなにものでも
この世というたったひとつを
わけあいつつひとしく負うのは
すくなさのためによいことだ
 
 

2018年07月01日 日記 トラックバック(0) コメント(0)