メモ141
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かたほおへやわらかなひかりをうけ
なげかけたまどをみつめたはずだ
わからずおいかけたゆめの日にもう
とげられていたんだろう、祝福は
野田順子・ただし、物体の大きさは無視できるものとする
野田順子『ただし、物体の大きさは無視できるものとする』(モノクローム・プロジェクト)。物理設問の条件補足のようなタイトルだが、学童期の教室や放課後や家庭を中心に、「いまはないこと」にまつわる回想詩というべきものがならんでいる。一見の素朴な枠組に、残酷や奇想がミニマルに清潔に盛られ、それが物語性をしずかに脈動させ、最後の一行まで注視をしいるのが、この詩作者の特徴だ。よって語り口は視線のいそがない並歩をみちびく。言語派ではないが、たくみな措辞が数多くある。物語性はあるが譚詩的ではなく、それゆえ主体や回想をまるごと消去させてしまう終局の荒業が利く。詩作の根底にたえず逆説が横たわっている。さみしさ。それにしても学童期の回想はなぜ読みをやわらかく馴化させるのか。そのやわらかさがやさしい逆落としまで付帯させるのか。さくらももこ訃報の翌日、家のポストにこの詩集がはいっていたのもなにかの因縁だろう。月食を主題にした詩篇「宿題」で、月のように後ろ姿が常に等距離を保ってうごく、正体の定かではない学童ドッペルゲンガーが出現してくる。むろん恐怖の対象だが、それがわずかに郷愁をも放つのがすばらしい。主体とかならず出会わないこと――ブニュエルがコクトーとの待ち合わせを流産させてしまった体験回想にあったし、黒沢清『ニンゲン合格』で階段を終点にした縦構図の左右を、タイミングをたがえて西島秀俊と役所広司が出入りし「つづける」寓意劇の場面にもあった。公園遊具という無生物が主体となった詩篇もある。カフカ「橋」などが参照されているかもしれない。
詩集ふたつ
最近はいろいろ困憊していたが、さっきみつけた寸暇に詩集ふたつを読んだ。「男の詩」、という不穏なことをかんがえた。出たため息をうつくしいのではないかと自覚した。自分が女である気がしない。
さとう三千魚『貨幣について』(書肆山田)。マルクス主義的な題名だが、深層にはそれもあるかもしれない。生活雑記と日々の決算=金額提示が、かぎりなく単純なことばでつづられてゆく。日記体。生きる日々のほそい束。詩篇をまたがる反復にもってゆかれる。日をまたぐ同一性こそが真実だということだ。雑記でからだが定位されるのはなぜか。さまよいがあるためだろう。
松岡政則『あるくことば』(書肆侃侃房)。さまざまな、あるく。成熟したおとこのからだがアジアをあるいている。身体を処世することは、ゆく土地に散り散りになることだ。喰い、見て、声帯はからだの奥へ置く。《わたしは絶望が足りないのか。/それとも不埒が足りないのか。》。いや、両方とも足りている。それでも問うことが足りず、そこが清潔だ。だから問があるきだす。
メモ140
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往々にしてライジイアの怪は
うかつなひとみなをおそう
あいした翌朝のしとねに
すみいろの麦生があらわれ
とおい馥郁のゆれるばかりだ
メモ139
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浜の砂が模様を崩してこすれるこえと
浪のなかを砂のさかまくおとが唱和して
こまかさはながれ痴れるのみの目睫に
亜漏刻の亜限界をひとときだけひろげた
メモ138
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そうだどこでもない場所などいつでも
たがいを遠見すればあいだにできる
なかごろにはたとえば裸木をおき
ながくすくないはしごもたてかけよう
かないろのくやみがのぼれるように
メモ137
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いずれの日に冥府へ移されても
簞笥は簞笥のままであるのか
つかれきったうすぎぬをまとい
おのれを透かしてはいないか
メモ136
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疾くちりはてたという謂がなじまず
ゆっくり去ったとおぼえかえると
ちかづいてくるような去りわざすら
聯想がむかうほうの林からあって
百もひとしれず十以下になったのか
メモ135
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ひそかにひとを希望にするひとは
布に織られて布をも希望にする
やわらかくきぬずれするしたぎは
ただ音のよさからのみ履かれ
繊維のほうが再帰よりすぐれる
ほぐれだすそのみずからによって
メモ134
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その顔のそのかけがえのなさが
恩寵と同時にぜつぼうなのだ
いっときは天漢のろうぜきと似て
かざされた手でかくされてゆく
メモ133
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あなたの左があなたの右とゆくことで
あるきがしずかにきらきらしている
どうしてことの左右が気がかりなのか
まふたつはけしてそれぞれではなく
まなかの半分性のみあらわにするためだ
それが宥められ、事後のゆめがうつる
雑感2018.08.12
【雑感2018.08.12】
・蛸がその足の何本までを食べても蛸といわれるかが認識の脅威だろう。じっさい俳句は「自分の足を食べていて」、その状態に詩は憧れなければならない。結果、俳句が現今の詩に先んじて獲得したものは――詩がまるはだかの骨格で組織されてもいいとだけあかしする、構造の無名性だ。このことによって俳句では語の使用価値がたかい。
・「片言」を切れ字によって脱文法的に構造化した俳句にたいし、列挙をさけぶ喧噪から逃れた段階の詩は、絶望的な道具、「構文」を用いるしかない。付加が約束されている構文に減殺をもちこもうとして、詩はあることに気づく。書きながら遅滞を、迂路を、変容を、形容節や接続詞の抹殺を組み入れると、理路がうしなわれ、自己読解に想像が介入せざるをえなくなるが、このとき文脈上の語と語が、なぜ遠さのままに「近く」なるのかと。詩の定位は時空間上の惑乱と区別がならないのか。これはアウラの問題でもある。たぶん喩(直喩/暗喩)は通常構文の文彩概念として適応され、通常構文の詩性を顕揚するだけで、詩では「減喩」をいうしかない――最後の本質としては。詩と、一般にいわれる「詩らしさ」とは絶対的にことなり、その判別に有効なのが単純だが短さだったりする。
・みじかいものは頻度を要求する。ところが俳句作者は詩型の円満自足に守られていて、みじかいものを俳句以外でたえず志向する者の、書き出しと書き終わりの頻繁さ、その充実には恬淡だ。現実体験をしずかに破砕して「部分」として提出する。そうした「部分」の到来の、点滅リズムのほうに、間-詩篇的な換喩の実体がある。私は換喩と日記的部分性の親和をかつて強調したはずだ。
・私が点火したあとの換喩論議では、換喩/暗喩の二分が「総体」へは無効だと示唆されている。見逃されているのは、換喩が内在則としてあり、しかもそれが不足と手をむすぶときに減喩成立の潜勢があること、したがって「途中=中途」は逃れゆくものとして真の把握がならないこと、さらには――隣接域への横ずれによって渦中が自体性をうしなうことに自体性が賭けられているという、詩の逆説的な、あるいはエロティックな組成上の問題だろう。実例は数多くある。実作をたえず振り返るべきだ。
・朗誦の伝承性が壊滅してから、詩は自家朗読を期待されるようになり、これが紙上を読んで詩を実感した一定の詩作者(それは歴史的存在だ)に脅威をもたらしている。このときに朗誦に馴染む叙法上の恥ずかしさが再認されたのではないか。繋辞をもちいる単純な暗喩構文、頓呼法、一定の約物からにじみだす抒情記号性、過度な反復、過度な構造性、ねばつく口語語尾、あまえ、演劇的なサタイア――これらが一旦の遺物となって、それで「書けない」を書けないままに「書いてしまった」へ反転するための留意項目が変わった。おそらくそこに散文性はふくまれないだろう。内在的な破壊とは無縁だからだ。もちろん例外は多々あるが。
・作品与件上、「足りていない」はひとつの驚異だが、「それでもなお自足している」はさらなる衝撃だろう。秀句はむろんそれを実現している。このときのことをおもいだすと、なにもない語間に眼を凝らし、たとえば助詞機能にゲシュタルト崩壊がまつわった失調がうかびあがってくる。書かれている明示以外に何もなく、明示が自己循環しかもたらさないこと(排中律)、そこに精密な読みによる解釈の面倒な多義性をむすびつけようとすると、(融即の)言語哲学まで出来してしまう。詩学は害されているのか、あるいは害をもふくむことがすでに現在の詩学なのか。
・政治意識とともに暗喩は、書き手の優位性、あるいは誤謬の点滅子で、あらゆる書き物に遍在している。それは渦中の動態をじつは鈍らせる。四足動物のおもたい尻尾にすぎず、食べるためのおのれの足ではないためだ。いっぽう換喩は書き手の気散じ、さらには無力の徴候として、書かれるもののうごきのなかをかすめつつ、さらにみずからの動因ともなる。だから換喩は実際には非実態にちかい操作子で、その時空の横ずれ的な拡張にのみ、救済可能性が喚起される。
・ところで徴候的に書くとはなにか。詩においては、書き手のよわさを読者に分有してもらうことだろう(そのような詩を愛してきた)。自己記号も署名性もそこできえる。ところが消しすぎると減喩というさらなる非実態が、発語の自殺行為として機能しだす。これは優位性とは無縁だが、凄みには馴染むものだ。言語への畏怖といってもいい。換喩と減喩とを潜勢的な「対」ととらえない、暗喩/換喩二元論には、もう興味がなくなってしまった。優位性とよわさは生産的な対をなさないだろう。
メモ132
132
なみだ塩をかすみ打ち野菜を泣かす
すくなくしぼりややうつむいて
めぐるもののはてを口へみたすと
きえるあらかたがきえにあらわれる
メモ131
131
ながれうごけば生きているとみえる
とうめいな水は底知れぬ仮象だが
あたえるためにはふところをやぶり
おのれとして汲むのだ、星の井戸では
メモ130
130
からだに寝台をひそめているけだものは
かたい屋根のうえでもみちてねむれる
みずからのわずかにみずからをのせ
しずかな葦舟が銀漢にとどまりつづける
メモ129
129
いつのまにか弟子となったユダは
いつのまにかのあいまいを生き
いわしぐもにさえ悪衣をみあげた
起こされてみたらあれ野がかがみで
おのれがうまく映らなかっただけ
くぎりないことのにぶいひろがりは
説法のゆめやくるしさと背理した
メモ128
128
みわたすことをしたからなのだろうか
肩にみだれる夜風はとてもながい
丈をもつ身も末ひろになっているのだ
そこまではわたしというへだてすら
いつかゆくひとのむこうとなって
ここからの巾がひとつ無魂をつかむ
メモ127
127
わすれてくれるからへびやむかでをこのむ
這いゆくながさがすくなさにもみえて
苦よもぎの世ではおぼえている途中だけが
ほそくきえあうたがいのすがたとなる
メモ126
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眼路つきるはてしに稲いねのみのる
おくふかいこの世をながめにきた
いまだしのことわりを物見しようと
メモ125
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レヴィナス、つたうべきかんがえをおび
ふかいみどりの裏でかくれかまえると
おなじうする円を似た辞がおくまり
すきまがおなじをことならせないよう
くすりらしく配剤されたくらい故意だと
みずから知って呑みこみをおのれした
メモ124
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ほそいもののいくつかがとおくにあって
うすこがねにかがやくから時は疲れる
あれらははしご、すくなさをあらわして
ひかりが多すぎるほど使われる過ちを
じんがいの通過になおもおきかえた廉で
ヤコブのすえのまなこみな冥くくぼみ
あかされぬ詩がゆめみの痣となりはてる