うしろから
【うしろから】
けしきはひとに正対などしていない
それらはうしろすがたのままだ
だからせまるときに愉悦となるし
かどをまがればそのかどごとに
あかるさがまされてゆくのだろう
あせばんだうなじにおくれげが
ながれるかたちのままへばりついて
ひっきょうひとのうしろすがたも
それだけになろうとほそまってゆく
けれどうしろからちかづき追いこせば
みしらぬおのれのうしろすがたが
ぶざまにさらされてしまうのだ
なにごともうしろからだと悪はいう
不意をつくということではない
しらぬもののためしらぬものとなる
献杯のつなぎにあこがれるだけだ
奥山大史・僕はイエス様が嫌い
【奥山大史監督『僕はイエス様が嫌い』】
無神論なりの敬虔、という宗教的主題がある。このテーマに子供の無表情が適合するのは、ロッセリーニの『ドイツ零年』でも思い当たるだろう。冬は雪深い僻地での小学校の木造校舎、紺のブレザーの小学生の制服、キリスト教教育と校舎に付設されたパイプオルガン付きのクラシックな礼拝堂、およそそんな道具立てのなかへ東京から小学校高学年の男児が転校してきて、当初クラスに馴染めず孤独をかこつというのが発端だ。廊下を奥行で捉える縦構図、階段の踊り場の窓の強調、渡り廊下、鶏の飼育小屋。学校表象がそのように静謐に自足するのに呼応するように、終盤に斜め構図が使われる以外は堅調なフィックスが多用される。たった二箇所の衝撃的映像のほかは、音も聖歌オルガンをふくめ静かだ。ネタバレにかかる要所はいくつかあるが、それだと何も書けないので、ふたつだけ開陳する。転校してきた主人公男児はサッカーの上手い同級生と親友同士となるが、彼は交通事故に遭う。それと小指大のイエスがたびたび主人公の前に現れる。聖書の上、回転するターンテーブルのLP盤の上、紙相撲の土俵の上など、遊戯的空間の上を選んで現れるイエスが何の寓意だかは判然としない。救済なのかどうかはともかく、イエスは無神論なりの敬虔のために、あるアクションの被作用域に落ちてしまうのだ。具体的にどうなのかは書けないが、リズムに予期的な変調がある。主人公の親友の怪我状態の進展を知ろうとする観客に、教室の様子が無前提の静態として二度現れ、意味のシンコペーションが起きる。作品は事実をあたえるが、意味の深層をあたえない。それで本作は映画のアレゴリーとなるが、それが小人のイエスの範疇を超越しているのが鍵だ。鍵穴はふたつ。主人公のことばのなかに、流星群を親友と連れ立って深夜観に行き、見えなかったのに見えた振りをして興じたと示されるが、そのいとなみが不敬虔で可罰的かというのが第一。ふたつめは障子に指穴を開ける行為が天国を見ることにつながるのかという設問。これらは解けないように、ねじれの位相に置かれている。監督はこれが長篇デビューの奥山大史。なんと大学在学中に本作を撮りあげ、サンセバスチャン国際映画祭で最優秀新人監督賞を史上最年少で受けた。 問題は奥山監督が、脚本、撮影、編集も兼ねていたということ。八面六臂の活躍を強調したいのではない。これらを兼ねることでいわば映像素材が自家薬籠中になりきったはずなのだ。だから監督は無関心な風情ながら血脈までもっている映像を、子供の無表情を中心に「親密」に織りあげた。それで非親密と親密が相互連絡したのではないか。作品の主題、無神論なりの敬虔、とはこの点に関わっている。そう気づいて事後的に感動が走った。そうして礼拝堂内のショットが当初均一方向からの引きだったのがそのうちどう変化したのかもおもいだした。それは構造変化的で、主体的に祭壇に上がることがどんなことかを最終組織した。無関心の証左というべく、佐伯日菜子が彼女だと視認できないまま作中で重要な役柄を演じている。ラスト、監督の着想を簡略に伝えるテロップに泣けた。7月28日、札幌シアターキノにて鑑賞
おんなのかお
【おんなのかお】
おんなのかおがなぜ
おんなのかおにみえるのか
それをかんがえるのがすきだ
まなざしの向きや
まゆのかたちによるのか
かおはあたたかいみなもだし
そのひみつも草書もゆれる
かおのまえでかおとして
ちりぢりになっているもの
かがやきをあつめる
うつくしいごみのようななにかが
ひろがりもせずさだまっている
にぶさは一瞬のあさい奥にある
フローラじたいうめつくしではなく
しずかな深度とつげられて
くち、はな
ゆっくりわらうかおのうごきに
わらいいがいがさざなみだち
ひとつ通過であるべき表情へと
石が落ちたのもおぼえている
今泉力哉・愛がなんだ
今泉力哉監督『愛がなんだ』の凄さをどう称えたらいいだろう。まず映画表現に必要なのが人物の行動と表情の精度だとして、そうした精度を身に帯びすぎる映画が無償性特有の虚しさで決然と輝くと言えばいいのか。ともあれ原作の角田光代の小説が、恋する人物たちの視線連鎖、男の子の性格的な冷たさ、満たされない恋愛感情の切なさからして魚喃キリコの短篇マンガ連作「日曜日に風邪をひく」を勝手に書き継いだとも言え、今泉力哉はさらにその映像化にあたり、大根仁と三浦大輔の『恋の渦』に見られたドキュン系のバカ中心の、恋愛上の利己主義の可笑的な醜さ、さらには俳優に充てがわれた日常的な科白から俳優造型全体を実在性に向け完全に膨らませてゆく濱口竜介『ハッピーアワー』的な精緻化を加算して、この『愛がなんだ』を形容不能のリアルに仕立て上げたとはとりあえず結論できそうだ。むろんリアルは居心地が悪い。例えばヒロインの位置にいるテルコ=岸井ゆきのは、結婚式の二次会で懇意になった「手がキレイで」ちょっとクールなイケメン(内実は二流の出版社内デザイナー)、マモル=成田凌にゾッコンで、マモルからの身勝手な呼び出しに仕事も上の空で飢えまくっているのだが、自分を好きだという兆候を一切見せない相手に対し、表面上はさりげなさを装いきれていると信じている。この視野狭窄的な自己盲信が現代の用語で言えば「イタい」のは確かだ。得体の知れない下心がどう足掻いても相手に露見しているためだ。うっすらと現れているのは「さみしさ」「計算高さ」という、どうしようもない怪物。岸井ゆきのの完璧な演技はそのイタさがどのような発語と動作の分節によっているかを観客にひたすら観察させてゆく。なぜ同調ではなく観察がこのような緻密さで過程化、緊張化され連続してゆくのか。岸井ゆきのに普遍的な可愛さと同世代女性の抜群の転写力があって、同時にそこに、ゾッとさせるような愚かしさ、献身の悲劇性、砂を噛むように虚しい自己誘導性、自己判断の不作為、敗北主義の糊塗など、非難に値する数えきれない「負性」が裏打ちされているから、観客の眼が純度ではなく「混在性」に向け釘付けになり、「度合い」に関わる確実な解答が場面ごとの偏差として与えられるからだろう。問題は「ある、ある」的な認知の快さを超え、度を過ぎた精度が一旦「不気味の谷」を形成し、それを超えたあとで観客自身の自己懲罰まで起きてしまう点なのではないか。観客は客観的な観察をしていると自己過信しながら、冷静さを自らに振りまくことで却って自己懲罰に至る。岸井ゆきのの場面ごとの度合いの違いが、観客と岸井ゆきのの度合いの違いと等しいためだ。その意味で岸井ゆきのは実在であると同時に、人間全般の虚偽にまで架橋を施す正体不明の媒質なのだとも言える。映画『愛がなんだ』の凄まじさは、この実在性と媒質性の不可分が、テルコ=岸井ゆきの、マモル=成田凌のみならず、葉子=深川麻衣、ナカハラ=若葉竜也、すみれ=江口のりこなど、すべての主要人物たちに行き渡っている点で、結果、以上の人物群が順列組み合わせ的に同一場面にいることや、そこでの視線の交わし合い、あるいは交わさないことすべてが、高度なアフォーダンス的充実と疲弊をもたらす点だろう。あまりにもリアルが多過ぎて、やがて観客の注意力が決壊していくと、作品は杉並区あたりの中央線沿線から世田谷区あたりの小田急沿線までの夜の空気の実在性、コンビニ前のありきたりな空間のかけがえのなさ、飲み会で周囲に打ち解けずにいる無聊の実質、アタマの悪い人間のする好意執着のあからさまな露呈、反撥を感じたことが相手への興味の契機になってしまうことなど、「この世のアタマの悪い真実」を本当に適切な映像と音響によって代位させていくから、息を抜くいとまもなく魅了がひたすら、拷問のように連続してゆく。一旦別れたことがどのようになし崩しになるか、会いたい人に会うために第三者を利用することがどんなに卑劣か、それらが人間をどのように頽落させていくかは、もはや恋愛ドラマの主題ではなく、哲学的な問題提起にまでなっている。結論的に言えば、時間と人に分節は設けられないのだ。動物園のゾウの皮膚が作中捉えられるが、叡智を印象付けるそれは、同時に生物的なおぞましさ、アブジェクションから離れることができない。作品は終盤、人物の相互性が悲劇臭なく、それでいて八方塞がりになってゆく傾斜を描く。このとき、主要人物の役柄名がエンドクレジットの予告の呼吸で間歇的に挿入されだすのだが、それで観客は映画がどう終わるかを固唾を飲んで待ち構えるようになる。何が問題で何が解決かは掴み難いのだが、ともあれ解決を待ち構えると、見事に解決かどうか掴み難い解決がまさに現実のように到来する。しかもそこにシニシズムの気配は一切なく、言語化できない現実肯定だけが出現するから、結局観客は、自分が感動したという判断をするしかない。いや、そう判断した途端に、観客は自らの身体が異様に充実している事実に出くわすはずなのだ。即時性と遅効性の弁別も定かならぬまま一本の映画を退屈せずに観ていたこと、しかもその映画に視覚的聴覚的底上げが一切なかったことに改めて驚きながら、映画『愛がなんだ』が何を撃ったのかを名指せないままでもいるだろう。「愛がなんだ」はテルコがナカハラっちを夜のコンビニ前で叱責するくだりに確かにあった言葉なのだが、初見でその叱責の実質と方向性を思い返せる客はいないのではないか。冷静に全てを観察したと思わせた本作の細部が判断を超える外部性を湛えていた点は想起されるべきだろう。7月18日、札幌シアターキノにて鑑賞
阿部はりか・暁闇
【阿部はりか監督『暁闇』】
ギターとコンピュータをつかい、風のような、波動のような、透明感あふれるプログレ・インプロヴィセーション音楽をつくり、自らのサイトに楽曲をアップしている少年・コウ。家庭に母親はなく、彼に弁当代を渡す失意の父親だけがいて、そこに家庭内のやりとりもない。その父親は、クラスメイトには秘密なのだろうが、じつはコウの通う中学で教師をしており、持ち前の「声の小ささ」から授業中にもかかわらず男子生徒の攻撃対象になっている。そのようすを目の当たりにしてコウは怒りもしない。コウには熱心に言いよってくる同級の女子もいるが、やがてからだを交わすことになっても、コウの心は鬱々と晴れない。
前髪パッツン、つややかな黒髪ロン毛で神秘的な美貌をもつユウカは、両親が出ていったのか、その家庭内はゴミの荒れ放題で、生活費を稼ぐためか渋谷を根城に援助交際を繰り返している。クラスメイトはそれを知らない。誰彼構わず、ともにラブホに入るのを厭わないが、自活に逞しい雰囲気はない。現に彼女は、ベッドを共にする相手に、「首を絞めてほしい」と懇願を繰り返している。性的欲望のためではなく、たんに「死にたい」のだ。ユウカはコウの父親を偶然、援助交際の客にする。コウの父親は教員でありながら自分の生徒と同世代の女子の胸にその泣き顔を押し付ける、道義的にまず許されない振舞いをする。
小柄でふくよかながら、透明な顔立ちをもつサキは、「声が極端に小さい」。幸福に導かれそうなルックスなのに、そうならないのは、冷厳で、感情の振幅のおおきい父親の暴政に萎縮しているためだ。父親は娘サキを管理下に置こうとするが、夏休みに入り塾の忙しくなる時期にサキは言いつけにこっそり逆らい、三浦綾子の古い文庫本を次々に耽読している。内向的な性格。父母が不和なのに、その母親が頼りにならないのは、たぶん母親も父親の暴政の支配下に置かれているためだろう。すべてが好転しない点は目にみえている。サキの腕にリストカット痕があった。
孤立を凝縮したようなこの中学生男女三人の様子それぞれが最初、ぶっきらぼうなシーンバックの連続で描かれ、いましるした判明が徐々にスケッチされてゆく。シーンバックが予定する効果が「照応」だという点は熟知されている。それで孤独が累乗化され普遍化される。しかもたとえばユウカの家庭内放置、あるいは援助交際を、無音の1ショットで非説明的に提示してしまう演出の描写効率に戦慄が走る。ブレッソン『バルダザール、どこに行く』にもつうじるこの異様な圧縮力があるからこそ、映画全体の上映時間も1時間を切ってしまうのだ。ストーリーには、出会い、終焉、絶望からの打開の予感と、実質的な要素を三人分それぞれ盛られているのに、一瞬のクライマックスのほかすべての描写があっけなく、観客は「いま見えたこと」を事後的に物語へと再構成するよう導かれてゆく。そのなかで中学三年生役の男女三人のたたずまいがストーリーを超えて滲む、余白効果に遭遇するのだ。すべての場面は換喩的な「部分化」を彫琢されており、それが換喩的隣接性を超え、言語化しにくい位相を決定づけてゆく。
三人の出会いは以下の経緯によった。あるときラブホの部屋窓をあけて、ユウカは少し離れた場所に聳えるビルの屋上、そこにある要塞というか現代美術めいたオブジェ建造物に印象を奪われる。ユウカとサキはクラスメイトだが、元々は内気なサキの、周囲を拒絶する雰囲気により、交渉や対話がなかった。それがたまたま目にしたスマホ画面から自分たちがおなじ音楽サイトを愛聴していることを知り、ユウカのほうからサキに積極的に近づいてゆく。きっかけはその音楽サイトにアップされていた音楽が一挙にすべて削除されたことだった。代わりにというように、プロフィール写真に、例のビルの上の不思議な建物が入れられていた。その建物の場所を私は知っている、一緒に行こう、そうすればなぜ音楽がすべて削除されたかわかるかもしれない、とユウカはサキを渋谷に誘う。ここから映画『暁闇』は少年少女たちの想念に潜む「場所と時間」の映画という相貌をさらにつよめてゆくことになる。中学三年の男女それぞれの「存在」は、彼らの共にする「場所と時間」と関連付けられることで、画面に定着されながら、同時に自立性をうしない、その「跡地」に言語化不能性が揺曳することになるといえばいいのか。
当該のビルは、後に「廃ビル」と形容されることになるのだが、渋谷百軒店から円山のラブホ街方向に抜ける細い傾斜路地の途中にあると設定されている(70年代後半、この界隈の空き地に赤テントを張って状況劇場の上演があった)。屋上が出入り自由だという追加的設定もむろん現実的ではない。階段を辿り屋上へ出ると、そこは四囲を建物一階分くらいの窓付き防護壁に守られているが、のこされている脚立をつかい高みに身を置けば、そこから眼下の渋谷周辺が一望できる。夕方、夜。日のかけがえのない一回性を帯びた空気の流れが、その高さにしてこそあらわになる。90年代の屋上を、開放感にあふれながら、空の下に閉じ込められた実は幽閉空間としたのは宮台真司だが、やがて墜落死の忌避から多くの屋上は封印され、あずかり知らぬ位相に置かれてしまう。そうした「抽象的な屋上」が映画の「現実に現れる」。階段から屋上に辿りついたところの脇には壁のくぼみがあり、それはやがてサキの読書を庇護する場所にもなるだろう。ともあれ、ユウカとサキがその屋上に辿りつくと、そこにコウがすでにいて、彼女たちはその少年が音楽サイトの運営者だと一瞬にして理解する。驚愕するのは、それぞれ「絶望」に苛まれているのに、彼・彼女らは自分たちの苦衷語りはおろか、自己紹介すら交換しないことだ。彼らが選択するのは、「ほぼ無言で場所を共有する」、そのことだけ。黙契こそがもとめられていた。
遠くを眺望できる。俯瞰の特権を得られる。高さと静寂を混淆できる。地上とはちがう空気に包まれうる。誰にも邪魔されない秘かな解放区に身を置ける。より稀薄になれる。話しあう必要すらなく、ただ花火に興じればいい――それらを実現するその屋上が果たしてドラマ現実として定位されていたかには検討が必要だし、じじつ作品のラストでその空間の実在性に疑義を導くようなユウカと彼女のクラスメイトのやりとりもある。たとえば夜間の屋上では廃ビルなので光源がないはずなのに、屋上空間がぼんやりと明るんでいるのだ。そこから眼下の渋谷が見えたとしても、その光景が現実かどうかさえ曖昧だ。
あるとき――屋上にはコウとサキがいる(ユウカがいない)。コウはサキが夏休みの季節なのに長袖の服を着ている不自然をさりげなく問い、「さわりたい」という。目的語を欠いた不思議な構文。サキはコウのほうに近づき、その眼前で袖をまくってみせる。再び現れたリストカット痕。それをコウは愛撫し、「ザラザラしている」という。官能性に名状不能のブレーキがかかるこのやりとりが素晴らしい。自分の秘密をはじめて他人にさらしたサキがコウに抱きつくと、その肩越し、眼路やや低くラブホテルの一室がみえる。窓が開かれ、ユウカがみえる。ユウカがビルの屋上を見上げたかつての視線の「逆」が到来するのだ。サキの関心に気づき、コウも視線を「同調」させると、ラブホの窓から顔を出す人物が変わる。自分の父親だ。このときの視線形成の「逆」と「同調」がこの作品の哲学的骨子だ。この点の哲学的な説明は長くなるので省く。コウはサキを連れ、その一室からユウカを救出しようと猛然と地上を駆け出す。カットバックされると、ユウカはコウの父親に「首を絞めて」と懇願し、それを無気力ゆえか絶望ゆえか、コウの父親は実行しようとしている。どうなるのか。
何重にも張り巡らされた「ドラマ作為」によりクライマックスがそうして訪れようとしている。人物たちはそれに実は居心地が悪いのではないか。行為主体ではなく「存在の余韻」として、作品に残してほしいという訴えを聞いたような気がした。これでこそ作品が終われるというのは果たして正しいのか。ところが最も「存在の余韻」を形成するのは、幾度も観客を魅了した屋上空間だろう。作品に先験的だったのは、コウのつくったとして口実を与えられたLOWPOPLTD.の音楽と、たぶんロケハンで見つけられた不思議な屋上空間だった。どちらも現実的でない。そこに孤立三様のドラマを注入することで、叙述上の換喩が「位相」をつくりあげたことになる。点景が、物語ではなく空間配置=非連続を徹する。この製作発想が、現在的で鋭敏だった。それで女の子たちが揺曳状態で定着された。とりわけ若い女性観客は、この作品の余白に多くのものを視るだろう。
監督(脚本、編集も)は東京芸術大学卒業、現在24歳の新鋭、阿部はりか。山戸結希を継ぐ世代だろう。少女的崇高をふたたび水平性に再編成しつつ同時に列聖をおこなおうとする困難な試みに成功している。コウ、ユウカ、サキにそれぞれ青木柚、中尾有伽、越後はる香。コウの父親には、そういう役柄にうってつけの水橋研二が扮している。7月20日、渋谷ユーロスペースのレイトショーを皮切りに全国順次公開される。
ワーズ
【ワーズ】
手ぐちがうすいのか
いなほから金剛のつぶを
そぎおとすまねができない
まないたのうえには
とうめいにゆれるわたしの
花あかりのような反映があり
ことばの庖丁がおどる
からだはひとつの
空中といえるかもしれない
頭上に作り棚をこしらえ
おかれるなにかを
あるきだして待ちはじめる
ふりかえってきみの窓を截り
はきおろした息もてみがく
まどのうちらに星がみえ
背後にさえ星があれば
やがてたかさはおろか
前後もおわりだろう
白石和彌・凪待ち
白石和彌監督の『凪待ち』、香取慎吾の新境地を拓いたことですでに傑作の誉れが高いが、白石監督の宿願が見えた気がした。彼は内田吐夢になりたいのだ。内田吐夢といえば主役を過酷な運命の偶然に置いて、魔=デーモンを描く主題の一貫性があるが、例えば『飢餓海峡』でデーモンそのものだった三國連太郎よりも、『浪花の恋の物語』、飛脚問屋の婿養子候補として番頭を実直にこなす木石の中村錦之助が新町芸者の有馬稲子と電撃的な恋に落ち、田舎大尽の東野英治郎の向こうを張り、勘気のあまり公金の封印切りをおこなうくだりのほうに『飢餓海峡』の三國連太郎よりもさらにデーモンをかんじた。むろん有馬稲子を横に従えて錦之助の立ち上がりとともに視野を上昇させてゆくカメラに、下→上というデーモン特有の方向性があるし、錦之助の顔が憤怒、自棄、自嘲、勝利感、悲哀、哄笑兆候などで、まさに秒単位の表情移行をかたどる点もそのままデモーニッシュだが、何よりも「魔」は、怪物の描写よりも、普通の者が運気の決定的、不可逆的な転落を迎えるときにこそ、映像に気味悪く実体化されるのではないか。『凪待ち』の香取が、同棲相手の西田尚美を強姦殺人で失い、持ち前の酒癖と賭博依存を激しく点火され、勤め先の印刷所で受けた泥棒嫌疑を皮切りに、ついに真心によるリリー・フランキーのカネ、あるいは香取とともにカリブ旅行するためにカリブ海の島嶼写真集に西田が隠していた臍繰りをノミ屋での競輪賭博でともども蕩尽してしまうとき、デーモンは香取を苛烈に渦巻く。その瞬間はディテールが違うが、『浪花の恋の物語』の錦之助の封印切りを髣髴させるものだった。カネの流れの冷徹さ。そう綴ればブレッソンの『ラルジャン』が思われるだろうが、おなじ要素は『浪花の恋の物語』にも、そしてこの『凪待ち』にもあった。内田吐夢を連想したのはほかでもない、『飢餓海峡』の三國連太郎と、ボディビルで鍛え体重100キロ超えと言われる本作の香取慎吾が、怪物的で悲哀に溢れる巨漢という点で相同だからだ。特に義父ともいうべき漁師の吉澤健、養女ともいうべき『散歩する侵略者』の恒松祐里に左右を抱えられ、石巻の寂れた商店街を男泣きの香取が歩くとき、身体の巨漢性がそのまま哀しかった。素晴らしい俳優だ。SMAP最年少だけあって、香取にはまだ幼い口跡がのこるが、博打と酒で顔色を悪くしたやさぐれぶりを意欲的に体現、やがて暴力主体となるときには奔馬性の衰運に見合って映像にさらなる戦慄をもたらす。それが恒松祐里の美しさ、吉澤健の元来の顔の悲哀ぶりと好対をなす。ノミ屋の競輪中継のための数々の受像機を香取が粉砕するときの「魔」の顕現の素晴らしさ。しかも、ネタバレになるから書かないが、作中には運命の節目が五つ程度用意されていて、それぞれが形を変えてデモーニッシュだったのだ。さすがは加藤正人の脚本というべきだろう。内田吐夢は作中のどこかでクレーンを使ったり、実験的な映像効果を狙ったりのデモーニッシュな撮影を必ずおこなうが、白石監督の極め付けはエンドロール映像にあった。震災7年後が強調される本作にあって、ピアノ、自転車、瓦礫などで堆く埋まっている、夢幻的に美しい海底廃墟が暗い光の中で捉えられるのだ。そういえば不祥事で石巻にいられなくなった香取が借金返済のため福島で除染の仕事を決意する惨いくだりもある。といろいろ書いたが、香取の転落劇に終始するように見えたこの作品は、単純にそこには着地しない。ひとすじのかけがえのない光明が走るのだが、それを端的に示唆するのは、西田尚美の前夫にして恒松祐里の実父役の音尾琢真ではないか。彼は幾らギャンブル依存で短気で酒癖が悪くても「いいところ」があったから、かつて西田尚美は香取に惹かれたんだという。香取はその事実提示に激昂する。このときに既聴感が走った。魔に終始したイーストウッド『許されざる者』でも、作品全体を包み込んでいた巻頭巻末の字幕に光明が滲んでいた。そのことと音尾琢真の科白は似ていた。7月5日、札幌シネマフロンティアにて鑑賞
聡明
【聡明】
夜風わたる地平にあれば
それは星をとどめる媒となる
ほのかにくらい何かなのだ
それのうごきは無縫で
へんげしつつみだれ
みずからの的ではなく
はるかにむかう対手との
あいだをあたえようとする
ゆびでふれようとしても
ゆびをまわる蜜をてらすのみ
ひらくことも反ることも
やみくもに知るさえなべて
きざみあるカイロスではなく
くろのすをよびよせるから
つめたく正中線へ水がおりる
にくたいのよさ、さとさ
あんなものになけるなんて