阻喪
【阻喪】
あるいはけむりとか線とか
あれがそんざいかと
おもえるものが阻喪をさそう
ついふりかえったとき
塩柱となったあのひとも
そんざいにこがれすぎれば
みかえりに何かみえてしまうと
なごりおしくも、つたえた
たったひとつの地上のときに
ぞくさないれんぞくがあり
それらはゆらぎをおのれして
ひとつの場にみちたりていない
みずでさえみずを
のみつづけるように
みずからをすじにして
ああロトの妻にも
なまえのないままだ
皮膚
【皮膚】
うすいのに皮膚は脳とおなじで
かんがえがみえがたく走り
それじたいでないようにひろがる
とりいれをむかえては桃み梨み
ちがうはだとまざりあおうとして
そこに全裸や体位まで兆すのだから
なみだのなかのように皺んでゆくのは
からだからはなれていつもさみしい
かんがえのはだざわりをまとめ
だまって皮膚をたてようとするおりも
みさきで沖をのぞむけはいとなり
身のあかしにはクロッキーがたりない
いちまい二枚さんまいと
かぞえられるかんがえのかなしさは
雁行にさも似てとおくにつらなり
わたしたち汀線があるだけの
なんとひどい日没なのだろうか
広瀬奈々子監督・編集・撮影『つつんで、ひらいて』
装幀家・菊地信義をめぐるドキュメンタリー『つつんで、ひらいて』は独特の感触をもっていた。長体をかけたり微妙な縮小をかけたりした明朝体文字をツメツメにし、配置をコンピュータ画面に作り上げる助手の女性もたしかに別部屋にいるのだが、銀座の一角にあるらしいその菊地さんの静かな作業場の、菊地さん自身の作業机は、鋏、方眼紙、糊などしか置かれていない、手作業のためだけのシンプルすぎるものだった。そこで菊地さん自身がコピーした文字をたとえば斜めツメツメに切り貼りし、書名文字を方眼紙に配置してゆく、いわば手作業が丸透けの過程を、カメラは寡黙に写し取ってゆくだけだ。そうして菊地装幀本の、あのルックの基礎ができあがる(とりわけ本のデザイン自体を書名文字の構成のみから導きたいという詩書特有の問題に、菊地は鋭敏だ)。菊地は束見本に暫定案の手作りカバーをかならず「つつむ」。そして本の中味の現出の度合いを確認するように、それを「ひらく」。むろん装幀家は、本の中味の物質感、それを外化する媒介者なので、装幀家の存在論というのはそもそも難しい。無限に多様化する作者の外側で、媒介性そのものを存在感にすることは、個性の主張であるとともに、無個性や不在性によって個性神話そのものを失調させる二重性まで帯びざるを得ないだろう。ドキュメンタリー『つつんで、ひらいて』の独特の感触とは、その二重性が丸透けになっている即物性から生じている。ぼくも96年に出した単著2冊目の『野島伸司というメディア』が装幀=菊地信義なのだが、編集者と違い、作者は装幀家と会う機会があまりないもので、菊地信義の仕事現場に初めて接し、菊地さんの著書『装幀談義』『樹の花にて』の滋味とはまるでちがう、「底なし自体に底がある」ような、名状しがたい何かをおぼえたのだった。映画には一応、発端と終了の節目が設けられている。ブランショ『文学空間』の駒井哲郎の装幀に衝撃を受け装幀家を目指した菊地が、ブランショの大著『終わりなき対話』全長版の装幀を「いま」手がけ、ブランショの目指した「作者性の剥落」を、装幀の側からなぞるときに、何かブランショを手がける必然のように、表紙カバーと本体のあいだに透視の二重性が起こり、同時にオビが脱落してゆく過程が捉えられるのだ。これにも「二重性が丸透けになっている」と感慨をおぼえたのだが、この感慨は決して菊地信義自身を対象化する助けにはならない。二重性が解消されないまま残る二重性内自体の距離感は、菊地信義のなす行間そのものとおなじく、言語化不能のものだからだ。ためしに菊地信義は静謐かと問うてみればよい。答は「静謐でもあり」「騒々しくもある」という二重性を保ったままで、答の有意性などもてないだろう。こうした事態こそが菊地信義なのだとおもった。三年間にわたり菊地を至近距離に収めた監督・編集・撮影の広瀬奈々子の手柄は、菊地の弟子筋の若い装幀家・水戸部功のみならず、書籍編集者、印刷・製本関係者なども肉薄対象とし、菊地の「語り得なさ」そのものを着実に立体化した点だろう。菊地は、自分の仕事「装幀」は動詞で表せば、創造する、ではなく、拵〔こさ〕える、だと言う。手偏に「存」のこの字は、「手が存在し」「手で存える」といった手中心の極小世界=ブリコラージュを直ちに聯想させつつ、同時に深さのない作為をも印象させるという意味で、やはり多重的だ。無を作り出す手捌きは、この「拵」の字にある。あるいはこのドキュメンタリーは、己れを語り得ない、と知る者の「己れ」に近づこうとしている点で、すでに歩み=paがブランショの負荷さながら多重的だと言って良いかもしれない。作品を観て、このドキュメンタリーの魅力と、それに相反するような「語り得なさ」は何だろうと考えるうち、そんな結論に達した。ほかにも優れた装幀家は数多くいるが、自分の語り得なさがこれほど深甚なのは菊地だけかもしれない。それなのに彼は流暢なのだ。しかも虚言者ではない。詩書関係者のなかで知り合いが多く出てきたのも嬉しかった。書肆山田の鈴木一民、大泉史世さん、思潮社の高木真史さん。稲川方人さんも出てきて、詩集『聖-歌章』が元々は菊地さんの装幀だったのだが、その装幀案はカバーに部分的にカバーを重ねるもので、書店流通に問題が出て、稲川さんの自装に変わったと初めて知った。稲川バージョンと菊地さんの幻のバージョンが並んで捉えられる画柄こそ、「二重性が可能性と不可能性に、透明のまま分岐する」このドキュメンタリーの主題を揺曳させていた。本作は今秋、渋谷シアター・イメージフォーラムほか全国順次ロードショーされる。8月23日、東京渋谷の映画美学校試写室にて鑑賞
下村幸子・人生をしまう時間
【下村幸子監督・撮影『人生をしまう時間〔とき〕』
わたしは幸か不幸か肉親の死をこれまで見取ったことがなく、現実の死や死に顔や死体への免疫がない。だから在宅の終末期医療の実際を多様なケースから追っていき、死の隠蔽をおこなわなかった下村幸子監督・撮影のこのNHKエンタープライズのドキュメンタリー『人生をしまう時間〔とき〕』に深甚な衝撃を受けた。ほとんどボカシを使わないこの作品は、医師の往診に繰り返し同行してゆくのだが、老齢の裸体、死の兆候を撮ることまでも、着実に撮影対象、その家族から同意を得ていて、ドキュメンタリーの金科玉条=「密着」の基本を成し遂げているのだ。終末期医療を在宅で受けている人びとは、その病状や減退に普遍的な共通性があるにせよ、家庭状況、家族構成、経済状態が千差万別で、その多様性は家庭空間の多様性と相即している。しかも医師と治療対象者、あるいは家族とのやりとりがユーモラスかつ適確に抜かれることで、次第に治療対象者に対して、おそらく「人間的」と言っていい「同調」までもが形成されてゆくのだ。やたらと明るい、しかも自嘲で人を笑わせる85歳の老女、103歳になっても少女的貞淑を忘れない美老女、子宮頚がんが悪化して痛みに苦しむ52歳の女性、盲目の娘を案じる死の兆候の著しい百日柿の生る家の84歳の老人--忘れがたい人びとは目白押しで、しかも彼らは年齢とともに実名までテロップされる。なぜか。映像に捉えられることは、すなわち列聖なのだ。作中、マザー・テレサの「死を待つ人々の家」の様相がわずかに点綴されるが、無名性の死から有名性の死への昇格を映像は敬虔に意図していると言ってもいい。注意をもって作品を振り返るなら、作品は徐々に組成を変化させている。テロップにより間接的・事後的に叙述されていた治療対象者の死が徐々に直截的に描かれるようになり、終盤は死に顔の実際の連打となる。死にゆく者の肌の異様な美的緊張は、最近の劇映画ではミヒャエル・ハネケ『愛、アムール』のエマニュエル・リヴァにあったが、わたしは死にゆく者の肌と、瘦せ衰えて露わになった骨格に厳粛な崇敬を抱かざるを得なかった。その上で、死がもたらす不可逆性にわななくような 衝動を覚えたのだった。作中、最後に捉えられる死は、先に記した百日柿の生る家の老人だった。その老人のために盲目の娘が作ったうどんが「世界一哀しいうどん」なのは間違いない。しかもその老人は徐々に呼吸の弱まってゆく緩慢な死を迎えつつあり、盲目の娘は父親の喉に手をやって、喉仏のわずかな上下運動の停止=死の瞬間を、添い寝する自らのからだに刻印しようとしている。盲目だからこそ死は触覚上の事件として転位されるのだが、相互の身体の近さが愛着的であり、哀切なのだ。映画は慎ましくその瞬間を家屋の外から待機している。おそらくケータイを通じての発声なのだろう、盲目の娘の、少女のような声での実況中継が響いてくる。そうして「停まりました」の発語。やがて再びカメラが家屋に入る。盲目の娘の顔は晴れ晴れとし、父親、親戚、医療従事者への感謝しか語らない。自らの手によった死亡時刻の記録者が実の娘だったことを医師が寿ぐ。泣かない者はいないだろう。いつか庭に匂い出した百日柿の実が、それがまるで世界自体であるかのように余韻を放っている。老人は高所恐怖症の医師のために自ら梯子を操って、去年のように柿をもいであげることを約束していたのだった。それが残った。医師のことを書くのを忘れていた。埼玉県新座あたりにある堀の内病院で在宅の終末期医療に従事する医師ふたりに焦点が当てられる。ひとりは80歳の小堀鴎一郎。東大の名外科医として活躍ののち、終末期医療に関わり始めた彼は知る人ぞ知る森鴎外の孫で、患者にユーモアを忘れない人格者だ。彼の叡智は不必要に過度なケアをせず、死の法則を絶えず冷静に見通していること。自らが80歳の老人だという再帰性が、このドキュメンタリーの普遍性を微妙に強化させている。もうひとりの医師は国際医療機関で働いてきた博愛のひと、56歳の堀越洋一。宗教性と連絡する彼の真摯な働き方にも感銘を受けた。ともあれこの作品は終盤での死に顔の連打に打ちのめされる。打ちのめされた上で、人間の死の普遍の相への還元が起こり、最終的には終末期在宅ケアの意義を感じさせる多重構造をもっている。それゆえに話題になるだろう。8月21日、東京渋谷の映画美学校試写室で鑑賞。9月21日より東京渋谷のシアター・イメージフォーラムでロードショー公開ののち、全国で順次公開される。
瀬々敬久・楽園
【瀬々敬久監督・脚本『楽園』】
瀬々敬久が吉田修一『犯罪小説集』の全4篇中から2篇「青田Y字路」「万屋善次郎」をピックアップしてひとつにつないだ。短篇集を原作にしたこのような処理は瀬々の既存作では『最低。』とおなじだが、今回は対象化した2篇につきともに長野の「限界集落」を共通の地盤とさせることで、風景論的疎外を軸に地霊の作家、瀬々の面目が躍如する傑作となった。犯罪と土地の不即不離を宿命的に描きながら、それを超える地霊の存在まで暗示する、ピンク映画時代からの瀬々映画の十八番が現出したということだ。それぞれの短篇は時空的に独立しているはずだが、瀬々の脚色はふたつの短篇に跨る傍観者として紡〔つむぎ〕=杉咲花という薄倖な少女を設定、それをブリッジにしたのみならず、連接にかならず生じるはずの空隙を瀬々的想像力でみごとに充填させもした。「万屋善次郎」の主役・善次郎=佐藤浩市の飼う牝シェパード「レオ」を、佐藤浩市の領分から杉咲花の領分へとラスト、移動させ、分離をさらに回収したのだ。このときの犬の移動の素晴らしさ。もちろん「犬」が『HYSTERIC』以来の瀬々映画の「希望」のエンブレムなのはいうまでもない。『64』以降、瀬々の演出は「重厚」という評価を受けることが多いが、今回はドローンショットをつないでゆく空間演出のスケール感、Y字路という空間のもつ決定性、実際の限界集落をロケ地にしたゆえのゾッとさせるリアリティ、さまざまな人物造型をストーリー進展のなかで無理なく登場させる語り口の成熟が圧倒的といえるかもしれない。もう「断絶」のラディカリズムを瀬々が用いることはない。「青田Y字路」のほうは12年前、学童女児が変質者の仕業によるのだろうか下校時に行方不明になり、彼女と最後に別れた紡がひとり無事だったことで旧弊な限界集落から嫉視の負荷がかかる。12年後、紡は、職業・出自・住まいの卑賤視によって地元で浮く青年・綾野剛といわば弱者的連帯もあって淡い交情をしるすことになるのだが、おなじような少女失踪事件がさらに生じた際(この「反復」は『64』の主題だった)、その綾野が唐突に村人たちから嫌疑の対象になってしまう。この「一気呵成の転落」は「万屋善次郎」のほうの佐藤浩市にも生ずる。集落のうえのほうで孤塁を守りながら養蜂をいとなんでいた来訪者・佐藤浩市も、養蜂事業による地域起こしの提案をフライングとみなされ、一挙に村八分の苦境に立たされてしまうのだ。先に「語り口」と書いたが、たぶん瀬々の脚色が重点に置いたのは、この転落のもつ映画性だろうとおもう。どちらも驚くような速さだった。それをどう俳優演出と連動させるかに、この『楽園』の傑出性もあった。杉咲花は「行方不明になった同級生の手前、自分が幸福になってはいけないという自制」をあてがわれ、綾野剛は徹底的な弱さ・臆病さ・真摯さに固められ、佐藤浩市にはこれまでの彼のキャリアのなかで最高に濃度の高い疲弊が施されるのだ。それぞれの俳優は一言でいえば「哀しく」、これこそが彼らの美しさに直結してゆく。男優たちは犯罪主体となって、むごたらしく破滅を迎え、杉咲のみにラスト、「追憶と希望」という、相反する二概念が託されることになる。それが抽象すれば、本作の構造、「映画のアレゴリー」だった。哀しみとアレゴリーの関係は、ベンヤミンやゴダールの世界布置に似ている。「青田Y字路」は設定から窺えるようにポン・ジュノ『殺人の追憶』をおもわせ、その細部を召喚したような演出もある。瀬々はなぜポン・ジュノが韓国を撮れるように日本の映画作家が日本を撮れないのかに歯噛みする数少ない作家だろう。ただそれだけではない。たとえば行方不明になった女児を深夜、村人たちが川浚いして捜索するときにはチャールズ・ロートン『狩人の夜』を倍加したような夢幻的な美しさを画面は湛えるし、祭で横笛を吹く杉咲花の瞳が祭で荒々しくゆれる篝火の反映を受けるときは水性と火性との超越的な融合がしるされたりするのだ。佐藤浩市にはさらに奇妙なものが配分される。ひとつはこれまた淡い交情関係にあった片岡礼子との温泉混浴シーン、もうひとつは衣料店やデザイナーが使う「トルソー」が養蜂業を営む佐藤の家の前庭でハッとさせるような「幻想」を展開することだ。瀬々は物語を描きつつ、このようにして映画画面に楔を打つ。ともあれ風景があり、土地があり、犯罪がある――そう銘打ったときにはとうぜん次に「人」が用意されるだろう。それを実は瀬々はアレゴリカルに配分しているのだ。やがて作品の最重要人物に焦点が合わされる。それが、孫娘が行方不明になったことで、その友達・紡に強圧をあたえつづけた因業の老人・柄本明だった。誤謬を生ききった柄本に、最も哀しみが深いとみとるとき、作品が逆転の回路をも秘めていたと気づくことになる。もちろんタイトル「楽園」と「限界集落」の反語的同一視にもそれが貫通している。8月20日、東京飯田橋の角川試写室にて鑑賞。本作は10月18日より全国ロードショー公開される。
他者の空
【他者の空】
ここが落ちていた場所だと
あるときかたられるなら
天上からの垂直落下を
ごくしぜんにおそれるものだ
たとえのこっているものが
よわいかけらでしかなく
それがうつせみのすがたでも
墜落ひとつを連接とおもうなら
地上が天上とひとしくなる
この足はひかりをえらび
しかもエトワールだけをふむ
自死のたやすさにそうして
こころよわい詩はふるえるが
たかいまどからの投射角
ひゆではなく、ぬけがらがとび
天上を否み返す空もはじまる
フー・ボー『象は静かに座っている』
【フー・ボー監督・脚本・編集『象は静かに座っている』】
発端が結末になり、結末が発端になる――このふたつの運動をこれほど哀切に連鎖させる映画などほかに存在しないだろう。大陸中国の第七世代というべきなのか、フー・ボー(胡波)監督による234分の衝撃作『象は静かに座っている』がそれだ。ケータイ盗難をめぐる校内の諍いで同級生を結果的に死に追いやってしまう少年ブー、学校の副主任との浮気をしるす煽情的な映像がネットに拡散されてしまう少女リン、人妻を寝取っている渦中そこに踏み込まれた夫(彼の友人でもある)に投身自殺されてしまう地元のイケメン不良ユー・チェン、手狭な居住空間から駆逐され、しいられそうになる介護ホーム行きを愛犬の世話の必要から拒んでいたのに、その愛犬が大型犬に食い殺されてしまう老人ジン。最初バラバラに提示され、やがて上述した事態に至るこの四つの軸は、次第にそれぞれの尾を噛みあうようなウロボロス的関連性を付与されてゆっくり世界を拡張させてゆく。道具のひとつがビリアードのキュー。それぞれにはある一瞬に衝撃的な事実が直撃するのに、身体的な痛覚がそこに減殺されているように感じるのは、たえず結末を発端に噛み変える「時間」が静かに、流暢に作品を流れ続けるためだろう。人物たちは時間の一部なのだ。貧困感、不潔感、疎外性にみちた「集合住宅の一階ではない高層の気配」が冒頭連続して窓外に感じられると、それがそのまま人物たちの前提的な稀薄性に結びついてゆく。手持ちの長回しは意図的に対象に寄りすぎて近視眼的な構図をつくり、やがてカメラがわずかに回り込んで、いったん発端として唐突に捉えた空間に、ショットの結末を施してゆく。素晴らしい。ショットはおよそそうした単純な連続なのだが、そこから建造物の暗い石材性が浮かびあがり、疎外的風景の変哲のない詩情が浮かびあがり、貧困に喘ぐ人物たちの瞬間的な美までもが浮かびあがってくるのだ。とりわけこの大作を観終わって何度も記憶に蘇ってくるのは、この監督の符牒ともいえるだろう一画面内のピントの外れた細部の多さと、設定される光の少なさによる物理的な画面の暗さへの偏愛、さらには二、三人の人物をどのように画面に収めるかについて発揮される異様にヴァリエーションに富んだ構図意識の才能だろう。科白や呼吸や動作の生々しさももちろん作品での記憶に値する要素だが、幾何学性にも昇華されよう人物「構図」の適確性から記憶が離れることができないのだ。寓話的な設定はただひとつ。人物たちが示し合わせたわけでもないのに、こぞって満州里の動物園の檻内に静かに座り続けている一頭の象を見たがっているということ。作品は四人の主要人物たちに壊滅的な打撃を与えたのち、うち三人をついにその満州里にいざなおうとする。ここで科白上でも結末と発端が噛みあう本作の主題が露呈する。老人ジンが言うのだ、ここではない場所を望んで脱出を試みても辿り着く場所はやはり以前とおなじ、しかしそれでも異なりをもとめ現状脱出を図らずにはいられない云々と。ウロボロスは「おなじもの」の帰着にしか貢献しないようにみえて、個々のウロボロスが差異を連鎖形成させるといえばいいのだろうか。ともあれこの作品に窺える「希望」はこうしてかくも峻厳で辛辣なのだった。結末と発端が――発端と結末が一致すること、なんとそれはフー・ボー監督の実人生の次元にまで転位されてしまう。彼はこの処女作『象は静かに眠っている』を完成したあと、29歳の若さで夭折してしまうのだ。自殺なのだが、詳細はネット記事ではよくわからない。ともあれ処女作=遺作という「発端と結末の一致」がこうして現実として突きつけられる。四時間近くの大作をみごと完成させたとはいえ、この一瞬の映画的彗星の通過に息を飲まないものはいないだろう。本作は去年の東京フィルメックスで『牯嶺街少年殺人事件』以来の傑作として絶賛を集めた。本年11月、シアター・イメージフォーラムその他で公開される。8月16日、東京・市ヶ谷のシネアーツ試写室にて鑑賞。
幌南小学校前
【幌南小学校前】
ろめん電車じゃない
にているなにかだ
よるに、乳色のまさつ域を
くりひろげてゆくのは
せんろのはなたばを車輪が
まわりながらしだいてゆくのも
とよひらにとおく花火が
さくのとはことなり
ひくくことなりがつながるのだ
まちがしんやであるために
すきとおる客ぜんたいののち
ひとつの巨きな靴がのこること
かりの世がしられずにうごきだし
三歩だけ巨人に履かれてまがる
きえる
ろめん電車じゃないだろう
今泉力哉・アイネクライネナハトムジーク
今泉力哉監督の新作『アイネクライネナハトムジーク』は、人物の顔と身体と諸表情の息詰まる観察をしい、カサヴェテス的な奇蹟の強度に達した『愛がなんだ』とは対照的だ。流麗なシーン展開によって伏線だらけのストーリーを綴る、商業映画の普遍要件をみたす賢明な一本なのだ。両者はまるで感触がちがう。本作では様々な俳優の身体と顔は、了解性のなかに収まり、『愛がなんだ』的な「了解することの戦慄、白熱」を手放したようにみえるが、やはりそこに尋常でないものがある。時間表象がそれに当たるだろう。蓋然性(偶然の現実化がありうるとおもわせること)、反復、回帰ーーそれらについてのカードがじつに高頻度で切られ、ついに差異が再帰になる瞬間を観客に待望させるという意味で、作品全体が時間自体を救済させる磁場にもなっているのだ。女性が落としたハンカチを男性が拾うといった「運命的な出会い」と、「あのとき意識しないで出会ったことが事後的に素晴らしかったと感じる、のちの想起」、それらの相克が(気恥ずかしくも)本編の主題となるのだが、それらがやがて無差異の溶融状態へと昇華されてゆくのだった。原作は伊坂幸太郎の恋愛小説の短篇連作で、複雑な人物構成を脚本の鈴木謙一がよく捌いた。映画全体は、前半の現在、後半の「その10年後」の二部構成になっていて、前半に印象を与えた人物が後半どうなっているか、「徐々に」カードが表返ってゆく、そのゆったりとした呼吸が見事だった。キャストの中心はドラマ『僕のいた時間』の名コンビ、三浦春馬と多部未華子だが、三浦の大学時代の友人で、二人の子供を授かり暖かくフランクな夫婦生活を営む矢本悠馬、森絵梨佳、彼らの生活圏といっけん無関係とおもえる周囲に、行き遅れの美容師、貫地谷しほりと、その美容室の顧客MEGUMI、さらにMEGUMIの実弟役で、頻繁な電話の会話だけによって貫地谷と恋仲になってゆく「謎のジム職の男」、さらに関係があっても、妻に突然逃げられて心身を崩す三浦の上司・原田泰造などが独立的に配される。最初の「遅延」は逆転のパンチで日本初のヘビー級ボクシングの王者になった当の英雄こそが自分の電話相手だったとようやく気づく貫地谷に配分されるが、遅延を最も生きるのは10年にもわたって結婚を成就させない三浦・多部のカップルと、10年後についに世界戦再挑戦となるボクサー役・成田瑛基だろう。そうした布陣に、子供だった女児が10年後、恒松祐里と八木優希になり、その同窓生たちと家族の描写も加算されてゆく。複雑な物語の全体は書かずに、反復されることのみをまず拾いだしてみよう。「歩道橋、跨線橋という空間の召喚」「同棲相手の女に男が逃げられること」「ファミリーレストランで客の注文した料理が、魚料理と肉料理のあいだで取り違えられること」「少女への中年男性の怒気にたいし、第三者が、当該少女の父親がそのスジの怖い大物だと嘘の暗示をすること」「路上ミュージシャンのギター弾き語りを立ち止まって見る男女に深い紐帯が生じること」などがそれらだが、夜のシーンの登場自体が反復のリズムを形成しているというメタ的な認知にまで事態はおよんでゆくだろう。夜、仙台駅前からバスに乗った多部未華子を追う三浦春馬の異様な疾走は、ゼロ年代初頭の東宝感動路線の古い定番でいただけないが、現在とその10年後で繰り返される夜の仙台駅前の歩道橋上の雑踏音、ギター弾き語りの歌声、ビル壁面の巨大ビジョンからのボクシング中継音が織りなす音と空間の多元性、あるいは三浦が矢本悠馬と結婚式に行く途中の夜の路上で工事渋滞に巻き込まれ、そのとき最初の出会いで失職中だった多部が似合わないヘルメット姿で交通警備誘導をしている「やつし」の様相が画面に最初に捉えられたときの映画性は、さすがに『愛がなんだ』で数々の素晴らしい夜間戸外シーンを連打した今泉力哉の演出だとおもわせる。『愛がなんだ』で捉えられたのは会話ではなく、生態だが、『アイネクライネナハトムジーク』は物語映画だから、会話が「普通に」綴られる。しかしそれではエモーションをもたらすアクションが足りない。遊離したのが三浦がバスを追う疾走シーンだったが、ボクシングの世界戦が挿入され、とりわけ10年後のそれの結果が叙述の飛躍により最初は全貌を現さない点に、現実的な時間考察が感じられた。時間の正体とは遅延なのだ。そして何よりも恒松祐里。この若手女優はやはり黒沢清『散歩する侵略者』で見せたとおりの奇蹟的なアクション主体だった(『凪待ち』も素晴らしかった)。自転車を走らすだけで、仙台駅地下駐輪場を大股で歩くだけで、画面を運動性によって電撃的に躍動させるのだ。いっぽう英雄的行為に一言「好きだ」を蛇足的に言い足して遁走したのち仙台駅前の歩道橋でストリートミュージシャンの演奏を呆然と聴いているクラスメイト萩原利久の周囲を回り込む恒松の歩調はエレガントな少女性に富んで、彼女は「静」の動きでも観客を陶然とさせるのだ。こういう細部が伏線だったり、伏線の結果だったり、時間論的に独立していたりの差異をかたどるから、映画の進展に複雑な魅惑が伴ってゆく。繰り返そう。蓋然性と反復と回帰予感により時間を多重化させることで、時間自体を救済するのが本作の眼目だった。じつはその紋中紋ともいえるやりとりが本作の会話にある。成立背景は記さないが、三浦春馬と多部未華子のあいだで交わされる「ただいま」「おかえり」「おかえり」「ただいま」がそれだ。反復の交差配列になっているそれは、小津『東京物語』での笠智衆の反復発語「癒るよ、癒る、癒るさ」の語尾変化の感動的ニュアンスとも匹敵するだろう。ここに泣けた。反復とは予想に反し、遅延を駆逐するのだ。しかも科白の構成要素は相米『台風クラブ』で中学生男児が「ただいま」「おかえり」を執拗にくりかえしながらドアを蹴る凶暴な名シーンともおなじだった(むろんそこに、張元と篠崎誠の映画題名も盛り込まれている)。商業映画だと侮ってはならない深い細部がこの作品にはこうして見え隠れしている。なお仙台駅前の歩道橋でギター弾き語りを十年一日のごとくおこなって、時間に伏在する無時間性を感動的にあかすストリートミュージシャンは斉藤和義似のこだまたいちが演じている。再帰が主題の本作では当然その名曲は斉藤和義によって書かれていて、それはエンディングロール音楽へと昇華されてゆく。8月5日、狸小路プラザ2.5の札幌試写にて鑑賞。9月20日より全国ロードショー公開される。