夜景
【夜景】
ゆうぞらを捕ろうと投網をはなち
気にながれている斜めの質を
すうせんでくだりおりてはあかし
うつりとひるがえりをにせてみせる
かげなすむくどりのおおきむれが
もとの椋を欠く痛みをひろげた
数のあらわれはあらわれたとたん
すでにして虚数やごみなどをふくみ
しんでいるすらとんでいたのだ
しねば数にくわえられるとみえて
二乗しないとなまえもいわれないし
ふけつさゆえにやむのも恥しいことだ
ろうぜきをつくし飛沫ちらして
ひろばはまだあると燥ぐよふけは
うるさいか、否、くろいだけだろう
じぶんへと王冠のとどくことが
のうてんを髪をつめたくしている
かれらむくどりだ、さみしくもまた
物見
【物見】
おもなものはすごもりではなく
さくら、ひととよばれており
おとないひとつなくして
日の風にはさらせなかった
それが延期のように魔物めき
ふくらみつくすのもこわかった
たずねあってなだめうる
たれしれぬ一角があるのだ
マスクはそれぞれのわたしにつげた
仮面にこそおとずれるようにと
手の揮発をみがくひとをくりかえし
すけてしまった手もむすばず
ならんでみあげることだけ
これほどにしたものみはなく
時差でしねるような気がしたが
上と下あるゆえの聯想だろう
あまのいわふねからはじまったのだから
まんかいのひろがりに碇泊をおもい
とどまっているさだめをながめる
その残像で、ゆさんをしつくす
飛沫
【飛沫】
天のゆうがおのもと
いしだたみのとおくを
ゆうれいがあるくのをみなでみた
ばるこんからみなでみながら
まどごとにわかれだち
くるった祝婚をうたいあげた
だっていまわしいものにさえも
王冠あるふかしぎが詩ではないか
あの二重の、あのかすれは
もとはさみしいつみとがだった
はいることとにじむことが
そくざにも似てしまったのだろう
集合アパートたるゆえんは
まむかいからみたまどの乱立
それらが図形をしていると
ひとごとのオペラがつたえあい
くれなずむふきあげとなる
とてもちいさくなった水のつぶが
その最小によりくろくきらめき
点から点へちからをまとう
うたごえの喉はまなこだからみている
からだがひろく裂けたそこで
くずれさせる舌のおのれをみている
単位
【単位】
ゆるやかに愛がきんじられた
足のうちがわをぶつけあう
あやうく組手にもなりそうな
あいさつがこれからの単位なのだ
はなれあってたつべしといわれ
ならぶとちがうかたちになる
ならぶがもうわからなくさえなる
最後尾がむしろ先頭という
そんな法則がきのうあったのに
みあげてつくるひろがりも
すきまだらけにかわってゆく
聖なる図柄とはこれではないか
かぞえれば川と似るかもしれない
ポー川のはなしをしたなら
あどりあのうみへゆきつくのが
くちびるのとしつきなので
じかんどうしがとけるように
いたりあのじんるいはつづいた
くちづけではなかったはずだ
こかったのにさみしかったもの
単位がそうではなくなると
出生にかかわらぬすきまが、そこ
ぼんやりとあかりだしている
休閑
【休閑】
うすずみのようにうごいて
文字でないけはいが
戸口から戸口へながれた
かぼそい橋をふとくこえる
でみずをものらへつげにきた
はるでもある、いきおいは
うすずみもてひがしではじまる
こもりつくしてみごもる鬱
老いを懲するこうした乱麻は
しぐさまでようなきものにするが
手首からまず息をぬきだして
はだかのこずえこずえに
ゆきげをのぞむひとみをすかす
ほどかれたからだの墨汁は
それでもかたむく身をけすよう
おのれへかえらねばならない
いたりあにくるしみをおぼえる
かつてはそこで黒シャツをまとった
やがて眼路にあふれた枝垂れを
なみだであらいきよめ映しなおす
みてに掃かれぬ、この休閑のなかに
瀬々敬久・悪党
瀬々敬久監督の、2019年のWOWOW連続ドラマ『悪党』をDVDで観た。全6話、トータル300分強の長丁場だ。瀬々のWOWOW長篇ドラマといえば、すでに2014年の傑作『罪人の嘘』があり、ほぼ映画と同じ形式で撮り進められるこの枠にたいし瀬々はとても相性が良い。単一カメラでカッティングを考え、繊細な照明効果のもとじっくり加算的に撮影がなされているのだ。撮影はともに斉藤幸一。ピンク映画時代は60分の枠組でいかに犯罪をアレゴリー化するかが瀬々映画の着眼点だった。しかも物語性に寄与しないこともある濡れ場を定期的に組み込む必要まである。結果、瀬々はドゥルーズとは違うかたちの時間イメージを創出、それで錬磨されたのが時制の過激なシャッフルだった。代表作『ヘヴンズ ストーリー』で様相が変わる。長篇の巨大感のなかで、張り巡らせた伏線が連絡することで動的な模様をつくり、そこで時間を追っての邂逅再会を劇の極点にしてゆく神話的な語りが登場したのだ。この形式こそがWOWOW連続ドラマでフルに活かされるのだから、瀬々論は黒沢清論以上にWOWOW連続ドラマを閑却できなくもなった。『悪党』はジャンルでいえば探偵もので、副題が「加害者追跡調査」なのだから、主題的には『ヘヴンズ ストーリー』や『友愛』と共通すると予感できるだろう。実際『悪党』の原作は『友愛』と同じく薬丸岳の小説に仰いでいる。罪に対する真の贖いが何かという思想的アプローチがそれぞれにあり、しかも角度の変わった、生々しい悪人正機説がそれぞれ出来する点に映画的な妙味もある。錯綜する物語なので詳しく内容には立ち入らないが、特筆すべきは、罪の赦免の試練に直面させられる元警官、現探偵の主人公が東出昌大だという点だろう。その長身によって推移する映像の里程標ともなる東出。その顔貌は、悲哀を湛えた瞳、酷薄に見える鼻梁と上顎下顎の尖りが印象的だが、顔全体に名状し難い調和があって、結果、動物的に美しい点は誰も否めないだろう。モデル出身俳優として画期的と思うし、東出が東出でしかないこと、さらにはミステリアスな役柄が加齢と共にさらに舞い込むという予想からやがてアラン・ドロンに似たポジションを獲得するのではないかと期待していた。ところが唐田えりかとの醜聞があって、演技が一本調子、口跡が棒読みという批判が、揶揄者から数多く出てきた。つまり画面への映えと、振幅のある演技の全体設計、さらにはアンサンブルへの自然体といった動物的な側面が度外視されるままになっているのだった。東出は女性からの拒否によって再生不能と囁かれているが、このドラマでの達成はそれでいいのかと問いかける。このまま消えるにはあまりに惜しい逸材ではないか。相手役、これまた長身の新川優愛との画面内での収まりの良さはどうだろう。ともに仕種が日本人離れしてきれいなのだ。きれい、でおもいだした。重厚ばかりが言われ、映画の女性性をどう扱っているかほぼ好意的に分析されていない瀬々監督だが、このドラマではたとえば山口紗弥加の表情が慚愧で微分化するようすに息を飲ませる瞬間があった。蓮佛美沙子、板谷由夏、烏丸せつこなど総じて女優の顔が良く、それぞれが体現する感情が違ってもいる。標題となる悪党たちはどうだったか。青柳翔という俳優を初めて発見した。そして波岡一喜は憐れさによってたぶん極楽往生を遂げた。三浦誠己、山中崇となす三悪人のうち、最後に具体化される波岡は、悪と聖性、さらには極楽の許容限度自体を、顔貌内の線分で表現しきったのだった。