fc2ブログ

ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

ホットギミック ガールミーツボーイ

 
 
山戸結希が少女性を礼賛する脱分節的(たとえば劇伴音楽が垂れ流しになる)で魅惑的な怪作を連続させているのは知られているだろう。山戸は少女美学の組織者であり、レスビアンやペデラリストとまで妄想させる少女映画の熱狂的な祭司のようにも思える。そうしたビザールな土台からエモーションが爆発したとき最も脅威的=驚異的で天才的な作品を成就させる。『溺れるナイフ』がそうだったし、この『ホットギミック ガールミーツボーイ』もそうだ。『ホットギミック  ガールミーツボーイ』は、ロケ撮影の景観に海の自然美を湛えていた『溺れるナイフ』とは違い、モノレールのゆりかもめ、東京湾岸=お台場近くの高層巨大マンション、ならびに109が見える渋谷中心部の、「線」の幾何学形が美的に錯綜するポストモダン的、近未来的な都市部を主要舞台に置いている。
 
強調されるのが高層ビルを建設中のクレーン群の形状的鋭角の反復。この景観のなかで少女(女子高生)の恋愛感性もたしかにエッジをきらめかせるが、作品の鍵語は「バカ」であり、自己把握ができないか、モタモタした自己更新をしいられる恋愛感性の、空隙をもったゆえの存在論的な強度、肯定性にむしろ価値シフトがおこなわれ、結果、複数性によって錯綜に至った恋愛劇が、ヒロインの外側では新しい感受性の充満的エモーションとなってしまう。観客は映画の内側と外側を、ということは身体の外側と内側を、正しく見るのだ。さらにこれを身体的に微視するとどうなるか。尖りと鈍さ、それぞれを同在させる矛盾のなかで、少女の換喩的細部の明滅、あるいは生物的な鼓動が起こり、この点でこそヒロインを演じた乃木坂46(近々グループを卒業するらしい)堀未央奈の未成熟な肢体が魅惑化されることになる(ちなみにぼくが乃木坂でいちばん好きなのは生田絵梨花)。単純にいえば、性的に奥手で、自己決定ができない、処女性の繭にくるまれた内的な女子なのだが、その可愛らしさにヒリヒリとした感触が伴うのが新機軸なのだった。愚かだが選択の刻々は確かにあり、その性質付与によってキスシーンのいくつかが痛ましさと微笑ましさを生成する。
 
堀未央奈には三つの理不尽で偏奇な愛が干渉する。幼馴染で今は人気モデルとなった学校の憧れの同級生、理由不明のサディスムでヒロインに命令を下し続けるIQの高そうなこれまた同級生、さらにはヒロインに愛情を注いでいるように見える血の繋がらない兄、それぞれを板垣瑞生、清水尋也、間宮祥太朗が演ずる。三つの愛には共通点がある。ヒロインへの庇護がヒロインへの支配と区別がつかず、彼らの衝動的な愛も自己同定性を欠いていることだ。3という数の、あるいはそれらが波状攻撃を見せるというありようの、動態的な過密性が物語の前提にあって、少女性の擁護が即時に凌辱危機に様変わりする過剰分節がそこに付帯する。罠ともまごう展開。増村保造的なエモーションの歪み。
 
説明性を廃し、発語の音声がのべたらにつながる編集は、カッティングが異様に速く、垂れ流される劇伴音楽と相俟う。しかも画柄に現れる線の多数的幾何学性は、編集による時間軸上の単位加算の幾何学性とリンクし、過密と充満を延々形成して、休まる暇もない。「一気呵成」が冒頭から終幕まで延々継続するのだ。だからエモーションはすでに外因として指摘できるのだが、そこにエモーショナルなストーリーの形成(観客の理解は常に一拍遅れて起こるのではないか)、俳優たちの微細な表情と肢体も具体化されているので、細部に同期する観客の耳目は、疲弊なく推移に集中させられるだろう。この誰も見たこともないような時空と身体の組成こそが山戸印なのだが、比喩としては、ゴダールやエドワード・ヤンが撮ったような壁ドン(胸キュン)映画という妙な称賛も起こるのではないか。いまだにポストモダンが標語となってしまう気配だ。
 
速さの叡智と高偏差値のなか、2人物間に会話が飛び交う際の撮影と編集の方法論が展覧的というほどに多彩で、たとえばゆりかもめの駅ホームで会話をしながら動き回る堀未央奈の動きは反重力的な舞踏性すら匂わせ、『午後の網目』のあのマヤ・デレンを思ったほどだ。ほかにも名シーンが数多くある。堀未央奈がケータイでの画像通話の相手、板垣瑞生の甘言に乗ってケータイカメラに自分の裸身を見せるときのバレ隠しの素早いフレーミング変化、フローリングのゆかにココアがこぼれたときの液体の痕跡の拡大などは、これまたゴダール的、エドワード・ヤン的ではないか。
 
相原実貴の原作マンガ自体に一元化不能の、価値ある錯綜があるのだろうが、終盤、堀未央奈と清水尋也が歪んだ相愛を、バカの有用性によって克服し、そこに翌日を単位にした身近な時間論を樹立しあうときの、運動状態の切り返しと台詞構築は、文体的には最果タヒの詩と似ていて、それがさらに最果タヒ的な、ロングの闇空をクレーン群が刺す景観抒情とも同調する。この得難い複合も原作由来なのか、映画を実体化した山戸結希独自のしるしなのか、いずれ原作に当たって確かめてみなければならない。
 
それにしても山戸結希はマンガの映画化が得手だ。叙述の速度が奏効している。ならば速度がなければ映画化不能だろう『バナナブレッドのプディング』も撮ってくれないかなあ
 
 

スポンサーサイト



2021年01月16日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

賀状原稿2021

恭喜發財     辛丑元旦
  
  
屠蘇にひそむ味醂の甘みうつくしき  律
井戸うすき世をゆるゝわかみづ  嘉
ユークリッド詣蝸牛天牛きりとつて  嘉
そらうつる田のやうなてのひら  律
  

  
正月も7日を過ぎたので、今年の賀状原稿を公開。上のように、例年相変わらずの夫婦の付け合いを綴った。この形式にずっとしているのは、夫婦間の「挨拶」がそのまま賀状送付者への挨拶につながる一方、当方もいちおう詩を書くものとして、短い文面に機微を盛り込み、鑑賞可能なものをひとに贈与する責務を負うとかんがえるためだ。
  
ふたりの付け合いなので、長句→短句の割り振りは古式に則りABBAの順となる。季節柄発句を新春にし、第四句あたりで春の気配を目論むのが筋かな、となんとなくおもう。気をつけるのは、忌句をしるさないこと。かつて賀状で短詩を披露していたわが友人は、忌句を大胆に織り込んでいたが、言霊主義者には顰蹙を買っていたのではないか(わたしは愉しんだが)。
  
妻の発句「屠蘇にひそむ」は軽い。妻は酒飲みではないが、屠蘇ていどなら唇を濡らせる。伝統的な屠蘇は日本酒と味醂を調合し、甘くする。その甘みが、自らにとって「うつくし」と述懐され、どこかそこに少女的な抒情もたゆたう。「うつくしき」は連体形終止。これが短歌に多いことからも抒情性が強化されている。発句上句の「屠蘇にひそむ」の一音超過はたゆたいを助長しているだろうが、これが第三句上句の大超過音数をのちに喚起する。
  
わたしの脇句は、発句にある「屠蘇」=正月の甘露を、「わかみづ=若水」にずらした。若水は年の始めに井戸より汲む水。飲んで身を引き締める。ただしもう井戸を使う家は少ない。それで多少無理な修辞ながら、「井戸うすき世」と綴った。その井戸水の総体をおもい、世を渉る気配をひそめた。「井戸うすき」は「移動好き」と同音。そこには移動がままならなかった旧年へのおもいがある。
  
それを展開してのわたしの第三句。上句「ユークリッド詣〔もうで〕」はほとんど現代詩の修辞。しかも九音と、大幅な音数超過となった。上句九音でわたしがおもいだすのは、加藤郁乎の大好きな前衛句《遺書にして艶文、王位継承その他無し》。「詣」一語に空間移動を挿し込んでいる。幾何学的なかたちを空間、とりわけ「空」から抜き取る小旅を詠み込んだつもりで、そのことで正月空間からの、第三句なりの転調をしるしている。抜き取った幾何学形は、蝸牛〔かたつむり、まいまい〕の殻の螺旋と、天牛〔カミキリムシ〕の触角だった。「蝸牛」「天牛」ともに中国の呼称だが、このふたつになぜ「牛」の字が用いられるのかは前々からの興味。むろんはじまった丑年に呼応している。
  
妻の第四句は、第三句の「そら」の気配を受けて自分のてのひらをみつめる。あっさりした直喩構造で、水を張った田がてのひらに似ているとしるすのみ。「水田」は夏の季語として明治以後確定したようだが、空の反映のある水田なら、まだ稲ののびていない春だろう。それで、第四句で春という賀状付け合いの要請にこたえられた。第三句「きりとつて」にある手指の伏在が、てのひらの実在に変貌する発想のシンプルさが命。
  
ということで、今年の賀状付け合いは、皮肉の応酬をわずかにふくませるいつもの手法から離れた。時世を顧慮、すこしでも面倒を厭ったかたちだ。全体に微風の抜ける感触があって、気に入っている。

2021年01月09日 日記 トラックバック(0) コメント(0)