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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

犯す女・愚者の群れ

 
 
城定秀夫は本当にすごい。まだ日本映画専門チャンネルに加入して日が浅いが、オンエアされる城定監督のピンク映画のどれもが粒揃いで、日々讃嘆の念がつよくなる。今日の未明はクロックワークスが製作した(つまり非ピンクの)クライムエロチックムービー『犯す女・愚者の群れ』(2019)がオンエアされて鑑賞、感動の渦に飲み込まれた。殺人犯の女が逃走中クルマに轢かれて死ぬ。運転者が埋葬のため運搬しようとしたところ、実は生きていて、女の頼みで男のアパート部屋に匿うという発端。そのうちに二人のあいだに愛が育まれるというありがちな話のようだが、主役男女の心理変転が説得的で、そのあとも二転三転する意表を突いた展開が続き、ストーリーテリングの妙にまず心を奪われてゆく。社会の下層者がリアルに掴まれていることも貢献しているだろう。ラストはとんでもない次元に作劇が飛躍してゆく。ノワールな雰囲気のなかに牧歌的な中間状態が数多く配剤される均衡も素晴らしい。ヒロインはキャリアの長いAV女優の浜崎真緒。その彼女が催涙的なほど可憐に撮られている。彼女の顔を捉えるショットはどんな角度であれ胸に迫ってくるのだ。劈頭のショットから押入れの中に姿を現すショットまで顔をどう撮るかの見本のような映画だった。その意味でこの作品は30年代のハリウッドクラシックと血脈を通じている
 
 

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2021年02月25日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

愚行録

 
 
ポーランド国立映画学校出身の石川慶監督による貫井徳郎原作の映画化『愚行録』(2017)は、石川慶という国際派監督の誕生を告げる画期的な作品だった。同じくポーランド国立映画学校の出身カメラマン、ピオトル・ニエミイスキの捉える、殺伐とした分譲地、あるいは高架が奥行に見える商店街の光景などでも、即時に意表を突いた非日本感性的な風景が現出する。銀残し的なグレーにくすんだ風景については、この作品の公開当時、熱狂的で素晴らしい評をネットに公表した荻野洋一がキェシロフスキ『殺人に関する短いフィルム』などとの類縁性を綴っているが、ドラマ構造からして、イーストウッドの『ミスティック・リバー』のトム・スターンの仕事もおもうべきかもしれない。同作のティム・ロビンスを本作の白昼夢のなかにいるような満島ひかりに見立てると、その兄の、基本的に表情を殺し、激情が発露する顔が隠される妻夫木聡が、ショーン・ペンとケヴィン・ベーコンの合体ともなる。『ミスティック・リバー』の、3=2+2+1、という不条理な数式(最後の+は-の間違いだった)は、本作では、2は常にバラバラな2のまま。それで崩壊感覚が終始継続する、加算記号のない不毛な羅列となる。その土台のもと妻夫木聡をめぐる案件Aと案件Bがバラバラのはずだったのに、それが一致しだす。このときのサスペンスが明示的演出ではなく、いわば奥行次元にゆれることが本作の真骨頂なのだろう。
 
拘置所面会室のガラス敷居越しに兄・妻夫木。彼と語りつつ「秘密」を共有していることを喜ぶ収容者の満島ひかり。それら兄妹の位置関係の分断によって、すでに暗に2が表象されている。満島は育児放棄をして、栄養失調からその娘を現在、集中治療状態に追い込み、裁判を控えている(その子どもの父親がだれかがのちに謎解きの主題のひとつになる)。妻夫木は週刊誌記者で、一家殺人事件の真相を事件発生一年後に追跡取材している。動機の捜査、知人の掘り起こし。死んだ夫(小出恵介)関係者と死んだ妻(松本若菜)関係者へのバラバラの対面取材が続く。画面上、犠牲者となったこの小出・松本夫婦は一体化されない。唯一例外の画面が、殺人者が明かされつつある段階で、その過去時制の殺人者がみる主観画面。そのときにも小出恵介がロングに位置していて、彼が彼とほぼ同定できない。
 
出だし、やや混雑しだしたバスの座席に座る妻夫木が、街のお節介な正義派オヤジから、通路に立つ、体の弱そうな老女に席を譲れと干渉され、席を立ったあと、その正義派にいかなる意趣返しをしたかで観客は一挙に掴まれる。開巻劈頭から正義に対する歪みが定位される驚愕(この冒頭シーンはラストシーンと逆さまに照応する)。これは、妻夫木の取材対象、眞島秀和(小出恵介の同僚だった)の述懐によっても連続的に補強される。いわば尻軽な女性社員・松本まりかを偏狭なホモソーシャル意識からいかに懲罰したかの歪んだ英雄物語がしるされてゆくのだ。
 
小出、眞島が早稲田を思わせる稲大(いなだい)出身と語られる一方で、小出の妻の松本若菜のほうは慶応を思わせる文応(ぶんおう)出身。こちらのほうは付属からのエスカレータ進学者と大学時の新規入学者のあいだに格差というよりもっと大きい階級差、カーストがあるとされ、階級上位者に美人ぶりによって自然に馴染む新規入学者として、松本若菜が存在している。大人しく、一見優雅に思われる彼女の笑顔に、ゾッとするような冷酷が隠されている。この松本の振舞いは、彼女と同様の大学からの新規の女子入学者の行動を混乱に陥れる。この作品の悪意は、表面の近さではなく、常に奥行に鈍くくぐもっている点に注意が要る。
 
『ミスティック・リバー』の最大の見所は、娘殺しを確信したショーン・ペンによるティム・ロビンスの処刑と、ケヴィン・ベーコンによる真犯人究明が並行モンタージュで描かれるときの運命論の軋みだろう。ラストタイムミニッツレスキューと正反対の、しかも同様にサスペンスフルなパラレルモンタージュは、時間の救済性ではなく、自壊性を劇的に画面に刻印した。バラバラの2を志向する『愚行録』でも並行モンタージュに近づく詳細があるが、それが不全性をかたどる点に映画の新規性が賭けられている。妻夫木は松本若菜のカースト上昇欲望の傍観者だった臼田あさ美を取材する。そして学生当時、その臼田と恋人で、松本と二股交際した中村倫也にも関連取材をする。やがて自分たちの往時を語る臼田、中村のようすが短くカットバックされることで、並行性が出現する。それはやがて真実判明の段階で起こるだろう満島ひかりと妻夫木聡の姿の悪夢のような並行モンタージュの前哨となるべきだったが、その実現は半分成就され、半分は不全という印象になる。代わりに精神鑑定中の満島ひかりがカウンセラー平田満の不在の際に、架空非在の誰かに向かって、自らを語る圧倒的なモノローグシーンに換喩的にズレてゆくのだ。
 
この映画はミステリとしては謎解きの構造が弱いという指摘を受けるだろう。人物の行動ではなく、物語自体が代行的越権的に謎解きをおこなってしまうこと、さらには一家殺人事件の真相を知るのが弁護士の濱田マリではなく主に観客だけになってしまう作品構造も問題視されるかもしれない。しかも殺人を犯した者に報いが来ない中間態のまま作品が終わる気配が濃厚でもある(『ミスティック・リバー』も同様に中間態で終わるが、そこに真相が川から全世界へ浸潤してくる圧倒的な動勢を付帯させていた)。ディテールの重層性がふたつの作品では違う。『蜜蜂と遠雷』でもそうだったが、石川慶は原作小説への態度が恬淡で、そのエッセンスを限定的に捉え、そこに映画性を代置嵌入させる傾きがつよい(本作の脚本は石川慶自身ではなく、山下敦弘映画で知られる向井康介)。原作の全体性と、映画の全体性を拮抗させるのではなく、原作を刈り込むことで、映画の独自的な形象を作り上げるといっていい。おそらくそれで貫井原作にあったミステリ性が減殺された。だが代わりに出現したものがある。『ミスティック・リバー』に存在した完璧な悪意の並行モンタージュを、兆候として不完全に奥行化する果敢な意欲がそれだった。これが本作の「映画のアレゴリー」の本質。その空隙地帯に、忘れがたい満島ひかりのモノローグが白く浸潤してきたのだ。顔が映っているのに空舞台のように錯視されたその一連の異様さに、鳥肌を立てぬ者はいないだろう。
 
 

2021年02月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

赤司琴梨『個室』


 
 
おそるべき「2021年3月 早稲田大学卒業予定」だ。インカレポエトリのひとり、赤司琴梨さんが第一詩集『個室』(七月堂)をまとめた。身体異変や排泄などに伴う不気味なイメージはみな孤独に軋んでいる。改行系の詩篇では、理路の狂いや文脈の切断もあって、簡単な語彙なのに注意が要るし、空間認識がシンコペーションになる箇所もある。反復があればそれも尋常でなく、立ち止まったり、咀嚼をしいられたりする。概して、詩篇群の背後に想定される書記主体が身体的に危うく、その危うさがかえって愛着を引き寄せるのを感じる。若い女性の、分光器経由の日常展覧という見切りをやすやすと超えるのは、改行の行尻の清潔な進展力が、上記諸要因により、遅滞化ももたらすためだ。穏やかな読速に自然に導いてゆく天性は、実際は詩の顕現の二重性と緻密に表裏している。つまり、書記主体の個性が、書記自体のひそかな特異性によって凌駕されている刻々が、時間に内在する喪失と連絡し、粛然とするのだ。「白樺の森」「寝室」「飛行機」「さなぎ」「砂丘」「ドライブ」など全篇引用したい佳篇に事欠かないが、「過眠」の二箇所だけ抜いてみる。二箇所めは末尾。しかしそうしてみると、全体が微妙に有機的につながっていて、細部剥離に馴染まない峻厳さに貫かれていると気づく。この組成こそ、この作者の才能のあかしだろう。

 
夜明けごろ
寝付けないので駅に行くと
ホームの反対側では
帰ったはずの男が
起きろよお起きろよお
とよろめき続けているのを見た
健康な方の体は
直立不動で快速列車の風を感じ
不健康な方の体は
横たわって頭皮の痒みに苦しむ
 

 
血の混じったふけを
爪の間から取り除いて
次に男が部屋に来たとき
この睡眠を
食い破ってくれなければ
さもなければ
と考えながら
寝返りを打つたび
わたしはまた
いなくなる
 
 

2021年02月19日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

蜜蜂と遠雷

 
 
映画化不能といわれた恩田陸のベストセラー同題小説を新鋭・石川慶が監督した(脚本と編集も)『蜜蜂と遠雷』(2019)は、幾何学的とも形容できる緻密な構成と単位加算で一面、冷徹さを誇りながら、語らない人物たちの言外からゆたかな情感があふれだす。シャープなのにやわらかい、得難い組成。冷静と熱狂。ポーランドで映画を学んだ石川監督の盟友ピオトル・ニエシイスキのキャメラとの協働ぶりも奇蹟的だ(Bカメは芦澤明子)。だがこの映画で何が起こっているのかをいうのはとても難しい。
 
作品舞台は「芳ヶ江国際ピアノコンクール」の開催されている音楽ホール内にほぼ絞られる。しかも一次予選、二次予選、本選が規律的に描かれるだけだ。一次予選ではピアノ演奏の描写が割愛され、四人の主要人物に付帯的に焦点が当てられてゆく。七年前、天才ピアノ少女と謳われながらコンクールの壇上から逃走したわずか20歳にしての挫折者・松岡茉優。民間で研鑽を積みピアノ演奏に向け素朴で情感あふれるアプローチをする、出場年齢上限の松坂桃李。松岡と幼馴染ながら海外で英才教育を受け、華々しい雰囲気で19歳ながらすでに一般ファンも摑んでいる森崎ウィン。家族とともに流浪生活を続け、鍵盤模型だけでピアノに向きあってきた天真爛漫でいかにも神童めいた(演奏の姿も破天荒な)まだ16歳の鈴鹿央士(新人)。人物たちのことばは僅少だが映像は雄弁で、とりわけ、松岡と松坂の演奏時には、回想が侵入してくる。あるいは四人の人物間のそれぞれの会話により、ピアノアプローチに関わる何かの情報も補足される。象徴的なタイトルの意味さえわかる。世界音楽=ムジカ・ムンディ。もともと世界は音楽にあふれている。水平線のうえの遠雷はその可視化状態だ(あるいは繰り返される雨だれも)。蜜蜂たる音楽家は音楽の蜜をあつめ、ひとの耳にとどけ、ひとの心をふるわせる選ばれた媒介者だった。
 
「矩形」が作中にみちあふれていると気づく。鏡、額縁、窓、扉の開口部、写真パネル、音楽ホール全体の外景、〔松坂桃李の実家の障子〕…むろん矩形連鎖の集約的結晶体がピアノの鍵盤だろう。それらはクラシック音楽のもつ息詰まる規律性とも関わっている。ピアノを弾く俳優たちもその規律のなかにいる。それぞれの役柄の個性に合わせた演奏がプロのピアノ演奏家によってなされ、それをプレスコにし、おそらくはそのプロの演奏家の指や全身の動作が俳優によって再生産されているのだ。監督石川慶のアプローチは当初、伝統的かと映る。俳優たちが演奏するピアノ前の全身をマスターショットとして提示したのちは、顔(俳優)と指(演奏家による吹き替え)に分断するカットが繰り返されるとおもわせるのだ。ところが指の寄り画からティルトアップして俳優の顔が写るとき俳優演技に衝撃的な信憑が灯る。演奏シーンの個々のフレーミングに動悸に値する驚愕があたえられてゆく。同時に、映画の単位はフレームだという原理の確認が起こるのだ。ピアノ奏者を「演ずる」俳優は実際に高度に音楽化されている。カット個々に真/偽が明滅し、それが細かく縫合されている。そうして撮影の苦心が垣間みえるはずなのに、演奏における「音の力」によって真/偽すらもが脱分節化へ導かれてゆく。そう、この映画の「音楽」は「溶融」を是としている。
 
二次予選では、宮沢賢治『春と修羅』からインスパイアされたピアノ独奏曲が課題となる。しかも課題では、作曲されている本体部分に長いカデンツァ(技巧的な即興)を足して演奏を終えよという条件が付される。本体→カデンツァは「移行」を身体化しろということ。松坂桃李は岩手在住も手伝ってか、『春と修羅』の最高の情感は「永訣の朝」中の瀕死の病床のトシが兄・賢治に向けた(あめゆじゆとてちてけんじや)=「雨雪を取って来てちょうだい」だと見抜く。この詩篇細部もまた、身体の切なく運命的な移行要請なのだから、カデンツァを添えよという命題と同調するだろう。
 
松岡はもともと幼少期、母親とのピアノ連弾により、「世界音楽」と即興的に同調する歓びをあたえられていた。彼女は松坂のカデンツァ演奏の一節を聴き(そこがたぶん「あめゆじゆ…」の情感を「作曲」培養したものだ)、自分のカデンツァ即興の着想を摑む。実際に鍵盤に指を置いて確認したい。ところが音楽ホールの練習場がふさがっている。それで松坂の紹介する楽器工場に赴き、そこの古めかしいピアノで着想を確認しようとすると、「神童」鈴鹿が闖入する。鈴鹿もおなじく松坂のカデンツァから何かのインスパイアを得たのだ。ところが窓の向こうには満月。自然にふたりは月を主題にした連弾に入る。ドビュッシー「月の光」→ハロルド・アーレン「イッツ・オンリー・ア・ペーパー・ムーン」→ベートーベン「月光」。それぞれの曲間に即興があふれる。もともと松坂のカデンツァが自分たちのカデンツァの着想に「伝播」した。そして連弾はふたつならぶ身体(そこではからだが触れ合っているし、ときには腕が交錯する)そのものが伝播の実体化ともいえる。
 
松岡が二次予選で、『春と修羅』+カデンツァに挑むくだりが素晴らしい。壇上のピアノに近づくようすは舞台袖から前進移動で捉えられ、とうとう正装ドレスの背中の開きをカメラが注視する。そこでボディが黒光りするグランドピアノが楽器であると同時に幻惑的な鏡体でもあることが導かれる。鍵盤蓋の裏には「事実」に反し、ふたりぶんの手が映る。いまの松岡茉優の鏡像ではないのは確かだ。カットが重ねられると、ピアノの屋根の裏に幼女時代の松岡と、その母親の連弾する姿が映っている。画角を緻密に調整した合成にすぎないが、それでピアノが時間そのものの溶融契機になる驚異がしるされる。
 
本選で、ピアノ協奏曲が課題となり、オーケストラの指揮者に鹿賀丈史が登場するに及び別の感動が生ずる。ピアニストと指揮棒間の安易な伝播を拒む倨傲な完璧主義者。本選に残った松岡、森崎、鈴鹿は試練の渦中に入る。詳細は記さないが、俳優たち、とりわけ演奏中の松岡が鹿賀のほうをみやる横目が、真摯で瞬間的なのが、ショートボブの側髪のゆれ、エクスタシーとまごう表情の激しさと相俟って観客を泣かせるだろう。横目は基本的に狡猾を印象させるが、激しさのなかの速い横目は「表情の危機」のなかで救助を訴えるひかりのように半分溺れてみえるのだ。ところがそれが同調と確認と信頼の信号だと意味的に是正される。松岡茉優の眼はそれができる。ショートボブの乱れ、ほつれも素晴らしい。「性」はそうした極点に刻印されている。
 
矩形が満載されていると書いた。ピアノ演奏を「演ずる」俳優たちの指はたとえそれが振り上げられても、演奏終了までは鍵盤の矩形重畳に縛られる。演奏家として画面に存在しなければならない彼らは被虐的なまでの重圧のなかにいる。ところが矩形が存在しない場面がある。冒頭の雨だれ。雨中の馬のまぼろし(『アメリカン・スナイパー』の一場面をおもいだした)。閑暇を得て演奏者たちがゆく砂浜。渚から遠望される水平線上の遠雷。さらには、一旦本選からの逃亡を企て、地下駐車場を急ぐ松岡茉優がみた、出口を塞ぐようにある(水の落下に晒された)グランドピアノの遠景。それらどこにも矩形要素のない画がすべてムジカ・ムンディの分泌の場所としてある。反ピアノ的な源泉。作劇的には松岡が最もムジカ・ムンディに親和的だ。その松岡が実母の死、コンクール逃亡後から「今」までの七年間、何をしていたのか、ピアノとどう向き合っていたのかが作中、一切語られない。それは、ムジカ・ムンディの本質が「空白」であることと関わっているだろう。
 
 

2021年02月16日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

花束みたいな恋をした



普遍的な同齢学生男女の出会いを描けば恋愛映画だし、別れを描けばそれも恋愛映画となる。ところが出会いと別れ双方を等分に精密に描くとそれは、運命論映画、時間論映画となる。ふだんあまり意識しなかったそんな真理を土井裕泰監督『花束みたいな恋をした』でふたたび思い知らされた。どんなシーンもすべて振り返ればありきたりなのに、すべてが不可逆性を帯びて見える。崇高な張り詰めが事後証明される。この映画の終結に涙する若い女性が多いのは思い当たる自分の人生があるのかもしれないが、厳粛になる、というのが正しい鑑賞後の感慨ではないか。主役男女、菅田将暉と有村架純の2015年から2020年までの物語。高い偏差値でサブカル好きの二人がことごとく嗜好が同じと気づき、自分たちが似ていると感動するのが恋の発端だった。穂村弘、長嶋有、市川春子、「たべるのがおそい」、小川洋子、クーリンチェ少年殺人事件、エトセトラ、エトセトラ… それにしてもSMAP消滅はこの世代の不如意に大きな影を落としたのだなあ。
 
 
脚本は坂元裕二。ぼくはもともと坂元脚本が大好きで、それはトリビアに対するアフォリズムにどうでもいいのに膝を打つような真理が籠められているためで、しかもそうしたアフォリズムが作品に散乱しながら、ドラマが意外性も含めきちんと進んでゆくから凄いのだ。そこにリアルな社会批評性すら上乗りする。しかも俳優に着実な芝居どころを作る。ユーモアもある。今回の坂元裕二はなぜ若い男女が恋仲になり、それがやがて破局するか、そこに大学卒業後のダンピングと勤め先の価値体系と多忙とすれ違いがどう関わるかをするどく剔抉している。とりわけ犠牲感のつよい菅田将暉が哀しい。だから相手の有村架純も哀しい。ところが脚本が坂元だから、ディテールはありきたりのまま、その細部性の精度までもがキラキラしているのだ。固有名詞の数知れなさは何か作品の切迫に拍車をかける。それと、この映画は入不二基義の運命論哲学と高く親和している。偶然と必然に見分けのない物語はすべてそうなのだが。
 
 
真夜中の甲州街道の押しボタン式横断歩道での初キスシーンが胸を打つ。だが別れの決定打となる夜のファミレスシーンがさらにすごい。そこで清原果耶が登場し、菅田有村二人が涙にくれることになる。冒頭に書いたが、その別れが出会いの現実性に遡行し、反復という要素を巻き込んで、作劇が運命論化することになったのだ。ところがオイディプス王ではなく、誰もが経験する範囲内でそれが起こるのに注意。かつて夫婦で千歳烏山にすんでいたから、京王沿線舞台のこの映画がとても胸に迫った。その場所にいること、が主題でもあったので、なおさらだ。土井裕泰監督は着実に勘所を押さえながら、しかもスピードの弛まない素晴らしい演出を、場所の指標提出とともにおこなっている。半分くらいの場所がわかった。地理的緻密。満席がうなずける傑作だった。主役男女のナレーションが時差を伴って相次ぎ出現するのは、『君の名は。』のナレーション唱和への批判が籠められているかもしれない。
  
  
建国記念日、札幌シネマフロンティア14時45分の回を鑑賞。口コミ動員のみならず、リピーターも押し寄せているという
 
 

2021年02月11日 日記 トラックバック(0) コメント(0)