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ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

一束

 
 
【一束】
 
 
やせさらばえてあかるむ異性は
ねみだれたそのすがたが
ほかよりもやや長舌とみえた
 
かしおぺいあからつきおとされて
ぱんたぐらふがぺしゃりつぶれ
いっときであるためうごくようで
あれもまたいくつかのレギオン
 
はりがねのものはめくりうる
じゃばらめくゆめすらそうだろう
 
かえりみる眼で肉をふやすと
一束まるごと洗浄されるが
あばらのままに鍵はかかっている
 
 

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2021年05月30日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

森林

 
 
【森林】
 
 
さぎりがたちこめると
あのひとがまたきたとおもう
つつまれて、みなきえ
あのひととかよう者にもなる
 
えんちょくだけがうすくうかぶ
たずねてゆけば数はおおすぎ
ゆききのはてに崇高を得られても
 
もっぱら霧うあれら棒には
くようをいたすものとてない
 
ところどころ筒がさきこぼれる
樹の水道と似たせかいへ縮み
さらにあゆんでなかを刳る
 
 

2021年05月26日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

事件

 
 
【事件】
 
 
いきるかぎりかたらぬ気概で
ばしょへおさまってみたものの
 
なみだをながす頰のおとも
いずみのようにきかれてしまった
しじまにまもりぬかれなかった
 
へびがながさでできていることを
ただの傾向とさげすまれて
ひっそり巻くあみめがほどかれる
にしきの情感でいたかったのに
 
しゅんかんまっしろにもえたのだ
けれどべきべき叫んだ屋根裏のほうが
光束が割りこんでむごたらしかった
 
 

2021年05月23日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

両腕

 
 
【両腕】
 
 
いくぶん対称であることに
なぐさめられるとはいえ
 
みぞおちのまえへ手を組むまで
うでは両肩に根差すだけの
それぞれだったのかもしれない
 
くちのようなひとつにさえなれずに
キイを左右がたたきあう日つづき
くちなわだったもともとが
なまぐさく身をよじりこんぱいして
 
そらとおくかけられたなわへと
ぶらさがるほそい腕をつうじ
おもみはきらきら吊られようとする
 
 

2021年05月21日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

清原果耶頌

 
 
ネットフリックスで、見逃していた藤井道人監督『デイアンドナイト』を観た。海浜の風力発電機が林立する風景をはじめとした秋田の風土感、善悪の選択不可能性を捉えようと青臭く軋む脚本、企画・原案を兼ねた主演・阿部進之介の存在感など、驚くべき美点が満載の映画だったが、やっぱり清原果耶が鮮烈で、また彼女に恋をしてしまった。
  
で、以下は簡単な清原果耶メモ。
  
ロングで捉えられた最初では、21世紀生まれの少女の、弱含みの寂寥感に動悸を覚える。ただしその段階の彼女はまだ普遍性の域にある。カメラが近づき、役柄と感情と場面が展開されだすと、やがてその特異性に魅了されてゆくことになる。彼女の顔は大体においてその前髪による隠蔽感が高い。鼻筋は太く、鼻梁が高い。その鼻に顔の中心線が占領されて、両眼間の間隔も広く見える。独特の鼻は、クヒオ大佐を演じた堺雅人を想わせる。なのにどういうか、ファッショナブルなのだ。
  
とりわけ眼の表情の微差が存在本質として蓄積されてくる。悲哀、憂愁、聡明、いたずらっぽさ、涼しさ、ユーモア、真摯……顔のタブララサにこれだけ豊かな情緒を重ね書きできる女優は稀有だろう。彼女はパランプセストを顔にもつ多重体だが、それはみつめた末におずおずと現れてくる。これこそが彼女の特異性だ。彼女はほかの誰よりも遅れて役柄になり、しかもかたどられた推移が美的に分岐し、要約不能の状態となって、観客を溜息に包み込む。清原果耶は遅効的な時間そのものなのだ。最も記憶本質に近く、記憶されるべき女優。しかもその時間の線型性を裏打ちしているのが声の良さだった。この作品では別名義で野田洋次郎の作った主題歌も唄っているが、そのかぼそく、かつ芳醇な少女性の声も夢のようだった。
  
テレビドラマでは『透明なゆりかご』に瞠目した。だから発見は人より遅れたかもしれない。『俺の話は長い』での生田斗真などに対する涼しい演技アンサンブルの音楽性に恋をした。重厚なドラマでは存在全体が傷口になりながらも、その隙間から希望を遠望させる。日常的で巧まないドラマでは、身体の周囲という領域に視聴者を目覚めさせる。
    
『おかえりモネ』、見ようかなあ。朝ドラは『あまちゃん』以外は見たことがないのだけど
  

(ネットフリックスで立て続けに、やっぱり清原果耶目当てで川村泰祐監督『愛唄・約束のナクヒト』を観てしまう。相愛の若い男女がなんと相互に癌で余命幾許もないながら、命を惜しまず太く短く恋の1日を生きてみせるという、あられもないティーンズギャル向けの難病物・泣かせ映画で、テイもなく泣かされてしまったのは、ぼくがユルくなっているためか、清原果耶演じる白血病の少女詩人「伊藤凪」の詩が俗っぽくてそれなりに上出来だからか。相手役の横浜流星は病気設定とはいえ顔色悪すぎかも。一瞬のスキンヘッドが衝撃的な清原果耶さんの、からだの細部のふっくらとした曲線、いいなあ。しかしある意味、伊藤凪はティーンズの間では有名詩人にランクインするだろう。臨終シーンの相互の割愛はナイスチョイス)
 
 

2021年05月18日 日記 トラックバック(0) コメント(0)

今泉力哉・街の上で

 
 
今泉力哉、やっぱりめちゃくちゃ面白いや。ただし、その面白さを具体的に語るのはすごく至難だったりする。劇中、人と人との関わりの日常性がまず巧まずに差し出された上で、その展開に常軌から少し外れる小さな綻びや間があったりする。そこが観察者側のくすくす笑いの微妙なポイントになるのだが、実はそういったポイントが作中に数知れず、映画を観ながらにして、ディテールの素晴らしさがすでに記憶容量を超え、繰り返すが、映画を観ながらにして、この映画を再見したいという、ありえない欲望に悶々とさせられたりすることにもなる。観ながらにして再見したいと思ったのは、下北沢を徹底的に舞台にした(魚喃キリコの『南瓜とマヨネーズ』の記憶とも二重写しとなった)この今泉力哉監督『街の上で』の前では、サブカル固有名詞が乱発された坂元裕二脚本、土井裕泰監督の『花束みたいな恋をした』があった、今年は。
 
冒頭、若葉竜也の青が恋人だった穂志もえかの雪に浮気された上に、理不尽にも別れを切り出され、さらにしかもその浮気相手の名前を絶対に言いたくないの一点張りで、それに対して青が雪とは「絶対に別れない」と宣言、このときに雪がその対応策を語る流れとなるが、二人の応酬が常識から外れているし、雪の示す最終的な対応策の内容自体がこれまた異様だったりする。どういうか、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれているような「収まらない」感じ。そうして受けた奇異な感触は、それらの1秒後にはすべて笑いに転化している。人間の滑稽さを軸足にしてしか、人間愛はありえないという真っ当な言い方もありうるが、人間二人を包んでさざなみを描いている空気そのものが可笑しいと語ったほうが実はいいのかもしれない。
 
惹かれたディテールを語り出すとめちゃくちゃ長い書き物になってしまうので、割り算で割ったときの余りがボロボロこぼれて嬉しくなったシーンをいくつか書きとどめておくことにする。ライブハウスでマヒトゥ・ザ・ピーポーの弾き語りを見た後、青=若葉竜也が、ロビーで見知らぬ別の女の客(カレン)にタバコを所望され、青がない、と返事をおずおずすると、女が逆方向の見知らぬ男客にタバコを「2本」所望、その男が2本を「メンソールだけど」と女に差し出すと、一本を自ら咥え、もう一本を青に渡すが、女が友だちに気づきその場を離れ、マッチもライターもズボンのポケットに入れていないタバコを咥えたままの青がその場に立ち尽くしている。これも割り算の余り。
 
あるいは、美大系の女子大生、町子(萩原みのり)に青が古着屋で働く間暇に読書している姿の良さを見初められ、映画出演を依頼されるが、極度のあがり症で、古書店の店員・田辺(古川琴音)を古着屋に引き入れてその読書姿のリハーサルをしてもうまく姿が軟化できず、見かねた田辺が代わりに青の持っていた赤いカバーの書籍『金沢の女の子』を拝借して試しに読書ポーズをとってみるとぴったりハマるのだが、その田辺のポーズも物語の必要性からして余りとしか言いようがない。
 
あるいは映画の撮影本番、テイクを重ねても読書ポーズの提示に失敗しつづけた青がなぜか「あした撮休」の中間慰労会にいて「余り」気味に居心地の悪さを強いられていると、衣裳スタッフの「城定」イハ=中田青渚に助け舟を出され、やがては出演者控え室と見えていたが実はイハの自宅マンションだったその部屋で恋バナが始まり、青がいまだに雪への執着が解けない苦衷を語った後に、ひょんなことから青にとっては雪が初めての女で、つまりそのときには童貞で、雪の満足を導けず、AVを見て勉強して、と言われ、実際勉強に励もうとすると出演しているモデルが常に意に沿わず、それでフーゾクで体験を構築しようとして、で、そのときのフーゾクのお姉さんのやさしいみちびきに、雪よりももしかすると好意を抱いたかもしれないと思った後日、ラーメン屋・珉亭でそのお姉さん(村上由規乃)とぐうぜん出くわして、ふと目が合って微笑を交わしたなどと青はイハに語ったはずなのだが、そのときの珉亭を舞台にした、村上の半身がこちらを振り返る一瞬のインサートショットがやっぱり豊か極まりない余りなのだった。
 
余りといえば、ゲスト出演し、俳優経験者の記号を振りまくことで一件落着だったはずの成田凌の、その後の設定がすべて贅沢で笑える余りだし、朝の路上で俳優4者による疑心暗鬼と大人げない言い合いという非常に奇妙なクライマックスに出現する自転車もその後の役割付与からして余りだし、あるいは、イハの住まいにいるとき、イハが映画に使う白布を確かめたいからと青に言い、お茶のコップが並ぶテーブルの上に、青に片方の端を持ってもらって白布を拡げたとき、その白布自体がレフ板効果を持ってイハの顔を明かりさせたのだが、そのショットの崇高な美しさもドラマのストーリーのどこにも帰属しない点で、これまた却って忘れられなくなる余りなのだった。
 
総じていえば、映画の全体はそういった余りに溢れ返って、作品構造の脱中心性をしるしづけ、しかも作中のすべての偶有性の感触がどう設計されているかを考えさせ、結局、今泉演出の緻密さ、それと共同脚本の大橋裕之の企みの斬新さに、観ながらにして、掴まれまくることになる。これは、観たことのない映画だ。各シーンの連結が一見弱く、しかもそこに現実的な伏線が張られ、その回収の手わざそのものに下北沢というか世界そのものがなつかしく現れるという点では、そう、前例のない映画なのだ。それでいて角度は異なるとはいえ、映画とはディテールだけだという宣言性では、この『街の上で』はおなじ今泉の奇蹟的傑作『愛がなんだ』を方法論的にもスタッフ的にも俳優的にも継いでいた。
 
この映画で眼が眩む理由は他にもある。主たる4女優すべてが良いのだ。まさにそれは過剰に属することだった。ところが、先程記したように、メンソールタバコの女も、珉亭にいた回想のフーゾクのお姉さんも、さらにいうなら恋人の告白用の服選びに意に添わぬ助言をする女も、魚喃キリコ聖地詣の当事者と案内者の女たちもともに良いのだ。なんという、余りに満ち溢れた映画だったのだろう。幸福にならずにはいられない。
 
5月2日、札幌狸小路のサツゲキにて鑑賞
 
 

2021年05月03日 日記 トラックバック(0) コメント(0)