古澤健監督『いずれあなたが知る話』『キラー・テナント』
古澤健が監督する映画では、案件=「物語素」が過激に複数化し、ドラマ線が混濁するパターンがあるようだ。『いずれあなたが知る話』では、暗い引きこもり青年がアパートの隣室にいる美しい母娘(電気を停められるなど深甚な生活苦にある)にたいしストーカー行為と盗撮をくりかえす「隣人ホラー」としての体裁をまずは表す。ところが隣人の母のほうに、デリヘル落ち、AV出演強要、隣人の五歳の娘のほうには老婆ふたりによる拉致まがいの限定的で反復的な連れ去りが生じ、ドラマ成員の座標軸が乱れてくる。犯罪性の高い諸々のディテールにはたしかに蠱惑があり、同時に、古澤監督の映画美学校での卒業制作『怯える』での卑劣な犯罪者・鈴木卓爾に起こるまさかの感情移入のように、観客が処理不能になる心理崩壊まで付帯してくる。この映画的に複雑な混迷に対して、光明を象るのはショットなのだ。アパート隣室の娘が行方不明になり、半狂乱になった母親が近隣に出て走り回る。その姿のフォローが、空き地を介して通りを挟み、対象との距離が徐々にひろがってゆく大迫力のドリーショットに収められるとき、ドラマ上の混濁とは次元のちがう透明な残酷が画面時間を襲う。
混濁の世界は、住人が併存するアパート空間の集合性に適する。古澤的世界にアパートが登場すれば、その時点で傑出が保証されるようなものだ。『キラー・テナント』は家賃を払わず、自室を売春の提供スペースに貸し、しかもなおその売春従事の女と摩訶不思議な共生をする、頽廃的・無頼、侘しく脱力的な無産者の男を主軸にしているが、新規参入者をふくめたアパート住人も大家も不埒な悪のバイタリティに満ち、ストーリーの混乱に拍車をかけてくる。濡れ場がそれなりにあるのだからピンク映画の資格を作品は満たしているが、混乱を突き抜ける光明が突如生じて、濡れ場の描写なのにピンク映画から果敢に逸脱する名場面もある。男女がアパート室内でまぐわう場面で、性交動作のまま、それぞれがカメラ目線になり、唄いだすミュージカルシーン(念の入ったことに歌詞もテロップで出る)。観客はなににたいして爆笑するのか。たぶん古澤のいたずらにたいしてではない。突破力、あかるさといった、映画の見た目の底に伏在している不逞な透明さにたいしてだろう。本作ではアパートの共有アプローチ(広場状)に作為的に置かれた姿見も、やがてさまざまな映画的効果を発現する。
この2作も、5/12—6/2、下北沢トリウッドのイベント〈なんてこった異次元映画セレクション〉で上映される(後者はU-NEXTでも現在配信中)。これらは、北川景子、深田恭子、高良健吾を擁した古澤のかつてのメジャー映画、『ルームメイト』の後半の怒濤のすごさをも髣髴とさせるが、余禄が加わっている。くりかえすが、それこそが「アパート」だった。それらのアパートはありようがちがうが、それぞれがロケーション探索でえらばれている。
古澤健監督『見たものの記録』
【古澤健監督『見たものの記録』】
「自主映画」では原理的な撮り方がなされる。結果、映画の通常原理が覆されることもある。観客のアイデンティティが深甚にゆらぐ。こういう条件の映画こそ傑作とよぶべきであって、5/12—6/2、下北沢トリウッドのイベント〈なんてこった異次元映画セレクション〉で上映される古澤健監督の自主映画の新作『見たものの記録』にはふかく感銘してしまった。古澤監督の労により配信でみせていただいたことに感謝します。
この映画には一筋縄でいかないところが数多くある。「タイムスリップ」「異次元移動」「それが長続きせずの一分前の世界への遡行」「その無限の繰り返し」「媒介となるブリーフ」など奇想を集中させ、古澤の郡山の洋品店の実家(廃業後)を舞台に、古澤自身の撮影と自写を繰り込んで始まった冒頭は、どう見積もっても、チープな感触の「私」映画にすぎない。それが、この古澤の発想をもとに、女子たち(何人いるのかが問題となる)がスタッフとして集められ、じっさい自主映画製作が進行してゆくとき、女子たちのようすを「いま誰が撮っているのか」という原理的な問題が浮上してくる。
すばらしいのが、彼女たちに干渉する古澤はほとんど常軌を逸しているとしかみえず、しかもその存在感が稀薄で、可視性の閾を消えかかったり再登場したりしてゆく点だ。このことに関わってギミック的な効果を発するのがディゾルヴで、不穏なノイズめいて使用されだしたその技法は、やがて深甚な恐怖と不条理へと接近してゆく。こうなって観客は、自分の観ている作品の「ジャンル」が不安定に移行している「この刻々」に動悸をおぼえざるをえなくなる。かつての古澤の友人宅(これも廃屋)、その玄関の楕円鏡の恐怖喚起力。何よりもひとり夜の留守居をする1スタッフ(彼女はストーカーに悩んでいる)を襲った「惨劇」が、具体的に起こったのか否かを、鑑賞の座標軸を狂わされた観客はいうことができない。ドラマ的なこの極点に、やがて古澤自身が介入してゆき、ともあれここがこの「映画を作る映画」のツボだったと(ほぼ事後認証的に)結論が出そうになる。
とはいえ、作品は女子たちの存在や仕種を伝える、現実的かつガーリーな「女の子映画」としても規定でき、とりわけ終盤幾つかの「象徴的大団円」の連鎖は、スケールがちがうにしても『8 1/2』のようですらある。古澤組参加の女子は暫時ふえ、5人として最終的に定着したと納得した途端、最終シーンで6人となり、古澤不在のまま、という印象で、雲と布をめぐる路上や公園での象徴劇を敢行する(このときに魔術めいた「マスク美人」化が起こる)。これを撮影しているのは蓋然的に古澤だが、最後に現れている最終的なひとりに弁別がつくのか。その彼女こそが、それまで古澤と女子たちの場面を撮影していたのではないか。観客はそうしてエンドクレジットに目を凝らすことになる。そして驚く。
ともあれ撮られることのなかった映画、その事実が映画として撮られてしまっている逆説、という点では、この映画は『軽蔑』『ことの次第』と倨傲な眷属関係を形成している。その倨傲もすばらしい。
軒廊
【軒廊】
へやよりろうかがすきだった
をさなかたゐのころおもいだす
ものごとのあいだにみせられ
おとなをつなぐ軒廊にもかくれた
ついにいりあいへまつろわず
帽ではなくいばらをかぶる
くさきのはてだとなのりつつ
それゆえねむりながらも媾った
ひとに酔ったかたくりのはな
うたのつづりで軒廊はつづいた
永劫中途、じつづきはある
あの世あの世の駅ゆくごとく
竪琴
【竪琴】
あのたてごとのうちがわ
うちがわはすけてみえると
あなたはとわれずにかたった
分布それじたいではなくて
なにものかのまえみごろとなり
あれはひそかにもぬれている
がくじんのひざへおかれるべく
はるの音更をながれるはると
そとのよをつまびいてみるなら
うたゆるがしにまだらゆれ
べつの日あなたはどんな身で
あのとうめいをはこびうるのか
旅居
【旅居】
背嚢をおろすひとしきり
つばさまでもがもげてゆく
さだめしぐさがむごたらしい
荷はいつもみあげる連星と
身をこめてしんじてきたのに
網膜にくろいミモザがゆれ
かくしがはじまってゆく
二をことほいでいたことと
荷とつばさの対も似ない
最低限あるからだの左右を
うれいおびるいちまいとして
ひとへつつむ旅居かなしく