吉田良子・惑星のかけら ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

吉田良子・惑星のかけらのページです。

吉田良子・惑星のかけら

 
 
冒頭、若い女の子が歌を唄い空き地の原っぱで踊っている。その次、大通りに出て(明治通りだ)、丸井のビルなど「渋谷」が遠望できるショットで、すでにこの映画の主題がはっきりする。遠望の渋谷、近傍の渋谷、夜の渋谷、何も無さの渋谷、人の行き過ぎる渋谷、店のなかの渋谷…皮膚への距離感の異なるさまざまな渋谷が、ひとのからだをどう包み、どうその背後へと擦過してゆくか――そういう身体と渋谷の関係がカットごとに「積分」され、新鮮な領域性をあたえられる傑作こそが吉田良子『惑星のかけら』なのだった。

だから渋谷を行き過ぎることだけを描いた庵野秀明『ラブ&ポップ』や、渋谷が革命への導火線になるかどうかを問うた豊田利晃『ポルノスター』など、往年の「渋谷映画」の「線形性」とはポジジョンがちがう。唯一、いま公開中の松江哲明『トーキョードリフター』での渋谷パートの、観る者の皮膚に刻印をあたえる実在的作用が、『惑星のかけら』と共通している。
 
自分の空疎を埋めてほしい、という柳英里紗は、ゆく男を次々に誘う。男に都合の良いファンタジー造型かと捉えると(男に引き連れられて入ったラブホで、自分の両手によって自分の両乳首を隠しつづける彼女の仕種の素晴らしさ)、まずは彷徨の頻度と量によって、ファンタジー=空想を超えられる実在性があたえられ、映画の空気が「奇妙」になる。

このとき同じような頻度と量で渋谷を彷徨している男、渋川清彦(KEE)と「同調」が起こる(シーンバック効果)。渋川は勤め帰り、男と奔放なデートを繰り返す河井青葉をストーカー的に追っている。つまり追われている河井も、頻度高く、量の多い渋谷彷徨を重ねていて、結局、「同調」は柳―渋川―河井の三軸で起こっている把握ともなる。

脚本も手がけた吉田の語り口が絶品だ。衝突によって渋川と柳を出会わせ、河井の追尾という渋川の行動動機を理解させたうえで、「ナルコレプシー」(嗜眠症)によって渋川の「特性」がさらに上乗せされる。急に眼前で眠りこけてしまった者をどうするか。放置するのか、見守るのか。そのことですでに「愛」が問われるのだから、『惑星のかけら』での渋川は、「物体」になったときにひとの誠意をよりわける「分離機」でもある。そして柳がついに誠意の側にいつづけること(このときに彼女の不思議な方向感知能力も関わる)で、柳の愛(の奇蹟)の度合の高さも伝わってくる。

けれども70分強の作品時間のなかで、展開の先読みはいつもできず、観客は意外性に打たれながら、円山町、東急本店通り、公園通り、道玄坂、さらにはそれらのもっと遠くの「外れ」など、渋谷の夜の空気を、人物たちのからだがドキュメンタルにどう揺らすのかを、ただ固唾を飲み、ときに笑いながらも見守るしかない。
 
追尾の執着を負いながらも、ナルコレプシーの宿痾をもつ者。そういう渋川と同行する若い女、柳。そうなったとき「ふたり」のとるべき身体ポジションが自然に多様性として展覧されるようになる。作品は男女の相互身体のポジジョン変化をそれ自体スリリングに形成しつづけ、そのことによって「時間」まで生みだす圧倒性のなかにあった。

列挙すれば、放置的監視(眠りこけた渋川を離れてみながら、腰をおろしている)、同行(渋川と柳の身体バランスは非対称的対称性を感じさせて見事だ)、代理監視(路上で男と接吻抱擁する河井のようすを、それをみたくない渋川のために小声で実況中継してみせる)、庇護(眠りに落ちた渋川を腰をおろして胸に抱きかかえる)……といった調子だ。つまり相互凝視、相互の意志的抱擁のみを欠いた男女の行動・仕種が流麗に点綴されてゆく。

やがて映画はあってはならない構図をとる。「河井-(を追う)渋川-(を追う)柳」の総体が縦構図で一挙にしめされ、二軸への分断によって三軸を捉えていた映画の慎ましい文法が、ついに三軸「同時性」へと禁忌を破られたのだった。構図的な「風雲、急」。

このとき軸の中央の渋川が眠りに倒れ、河井(このときまでに彼女は観客の予想を超えた、「みられることのニンフォマニア」だと判明している)がそのからだを放置、柳こそが庇護を加えることで――つまり、この映画らしく仕種選択の分離作用によって――以後の映画の帰趨が決定される(いや、決定されない――ラストの数分もまた、観客が唖然とするように意外な、つまり実在的な展開だったのだった)。

空間に「空き地」のあることと、ひとの心に隙間のあることとの「空間的」ひとしさが、まさに空間の具体的提示によって描かれた映画だった。渋川の配役に風間志織映画への意識があるだろうが、風間『せかいのおわり』に頻出した「穴」が、ここでは「空き地」の冒頭と終盤近くの間歇登場(とその予感の連打)に変貌しているといえるかもしれない。

聴かれているかもしれないと意識しながら、眠る渋川を胸に抱き、自分の心の空き地の来歴を語る痛ましい柳。渋川とキスを繰り返す光にあふれた初体験シーン(録音設計が素晴らしい)で、柳に、河井の役名ではなく柳自身の役名「カズキ」が呼ばれるまで柳の「痛ましさ」はつづき、主題的には若い女の「承認願望」が描かれているともいえる。

けれども柳の顔がシチュエーション、角度、夜の濃さによって、「具体的に」音楽のように、そのありようを変えてゆく点で、実際、痛ましさはすでに克服されていたのだった。渋谷に流れる夜の空気よりも、さらに音楽的な「可変性」をもつ柳英里紗の顔――それがこの実質をつかみがたい『惑星のかけら』の魅力のうちの最大のものだったろう。「少女映画=ガーリー・ムーヴィー」のようにおもえて、実際、主役の座を射止めているのは、空気や時間といった抽象的な手触りしかのこらない、はかないものなのだった。

その枠組のなか、最後、自己壊滅の予感をあたえて渋川が109奥に消え、最後にみえる柳の顔も、「物質のように」歩道橋上で疲弊していた。これらの選択もまた見事だった。
 
  

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2011年12月17日 日記 トラックバック(0) コメント(1)

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2012年01月05日 編集












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