Facebookペースト ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

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〔※午前中、Facebookに書いた記事をペーストしておきます〕



森田芳光の死去は昨日、試写でたまたま会った瀬々敬久とも話題にしたけど、なにか感慨が微妙だなあ。川島雄三の後継者という感覚で80年代までは接していたけど、たぶん「ジャンル」遵守ではなく「ジャンル」連接のほうに意識が向かったためにその後は緊張をなくしていったという印象。『家族ゲーム』の傑作性は、「空間」の過重化が同時に空疎に向かうという点で『貸間あり』『しとやかな獣』に似ているとおもうけど、その後の森田映画の傑作は別の局面に現れた。『それから』はガラスが点在する空間での「つよい声​」と「よわい声」の対決と帰趨という音響設計的主題(録音・橋本文雄)が見事だった。それと『39』がその時期の森田作品のなか​で例外的に緊密で、そこでは画面色彩設計に緻密な意識が払われていた。実際はスタッフワークの監督だった。でも企画は森田さんの「才人」ぶりを擽るようなものが多かった。あ、やはり川島雄三に似ていたか…



ああ、それと『(ハル)』があった。まだデビュー間もない深津絵里が、ラスト、はにかんだような挨拶をした。あれは仕種をみつめる映画だった、パソコン映画というより



昨日は映画美学校の建物で試写の三連荘。一本めは廣木隆一監督『RIVER』(来年三月、ユーロスペースほか順次公開)だった。​かつて侯孝賢『珈琲時光』では、お茶の水・聖橋下、神田川のうえ、総武線、中央線、丸の内線が発展的に交錯する三本の架橋で、それぞれの電車が行き交い、その運動自体が映画の素晴らしい大団円になったものだが、あの場所が夜、川面から「見上げられ」、そこにヘンリー・マンシーニの「ムーン・リヴァー」のアコースティック伴奏によるカバー(meg)が流れてくるこの映画のラストに陶然としてしまった。ぼくはいつも「場所」に発情してしまう。事件​のあった秋葉原と東日本大震災の被災地を「水」で結ぶとき、つな​がらないものの通底性が何か不可知論と情緒の混ざり合った「厚み​」を知覚させてくる。そう、セーヌ川、浴槽、プールと、つながらない水を通底させたときクルーゾー『悪魔のような女』の「心臓にわるい」サスペンスが生じたものだが、いま「水をつなげること」は無力感に希望を慎ましく加算することのようにおもえる



しかし主人公がさまよう映画が多い。松江哲明『トーキョードリフター』、吉田良子『惑星のかけら』…廣木『RIVER』では秋葉原事件で死んだ恋人の「かけら」をもと​めて秋葉原をさまようヒロイン蓮仏美沙子が連続的に捉えられる(冒頭、駅から中央通りに出るまでをワンショット​の移動撮影でヒロインを10分ちかく追い続けたのは松江『ライブテープ』が念頭にある?)。古事記の時代なら猿​田彦のように「さまよい」はその軌跡(踏み固め)によって足下に続々と国土を形成することだった。いまはちがう。人物の彷徨を追えば、風景と人物はその相関性のなかから積分をつうじて空間を帯状に拡張してゆくのは当然だが​(この見事な事例が園子温『紀子の食卓』前半だった)、ところが移動そのものは人物にとって生産的かつ親和的でない。つまり「傷」「痕跡」「追跡不能」という問題系にすべてが反転してしまう。そのことを誰しもが知っていて、そこから通有的な情緒が湧出するのだとおもう



『RIVER』における移動哲学は、メイド喫茶のあやしげな店長・田口トモロヲが語る。いい演技だった。それと秋葉原の表通りではない風景細部がみつめられている。柄本時生の出てくる場面での中央通りをみおろせるビル屋上や、小林ユウキチの拠点となっている高架下と地下道の混ざったような場所。こうした風景への感受性により、津波により水だらけとなった被災地の三月あたりの映像が捉えられてい​った。被災地の浸水状況をこれほど鮮烈につたえた映像はぼくには初めてだった。ずっと無言のまま彷徨し物語を形​成しないヒロインに声をかけるのは中村麻美。「写真をとらせてくれないかな?」。廣木さんの傑作『ガールフレンド』で河井青葉に最初にかけた山田キヌヲの科白と同じ。ここで配役と関係において、廣木-吉田良子-風間志織のラインもできる。廣木さん、やっばりフェミニンだ。それでたまに、こちらがとろけてしまう(笑)




昨日の試写二本めは真利子哲也監督『NINIFUNI』。ゴダー​ル『ベトナムから遠く離れて』『ヒア&ゼア』が「ふたつの場所」の(不可能な)映画だったこと、あるいは廣木『RIVER』が秋葉原/東日本大震災被災地の「ふたつの場所」の映画だったことからすると、この『NINIFUNI』では「2」の概念が鷲掴みにさ​れ同時的に並列される暴力が起こる。こういうことだ。現在の「2」は同時性のなかに置かれると「癒合」を果たすかのように錯覚されるが、実際は「無縁」のままに捨て置かれ、その無縁性そのものが概念的癒合を倒錯的に印象させ、そこからさらに「傷」へと遡行​する想像力も生起する。真利子作品特有の暴力性の間合いがあってこそ、そういう主題が浮上してくる点が銘記されなければならない。茨城近辺の風景疎外をドキュメンタルな移動撮影で捉えた前半と、後半、アイドルグループのPV撮影場面の軋むような「癒合なき癒合」。このとき物語上、カメラが置かれるのが不可能な場所から、あたかも死者の視野に似たものが遠望され、深甚な恐怖が走る。これらをつないだものこそが岡太地『屋根の上の赤い女』に出ていた山中崇の「問題放置」だっ​た。あるいは映像の質感の面では、実写映像と、ビデオの記録映像(さらにはぶっきらぼうな黒味の字幕場面)の「摩擦」が起こる、この映画はどこかに作品論を書こうとおもっているので、これ以上は詳述しない。ちなみに真利子監督はもう『イエローキッド』を観たときから、日本映画の今後を担う中心的才能、と見定めていた。『NINIFUNI』は今年夏、テアトル新宿でレイト公開されたときに見逃していたが、二月にユーロスペースで公開されます



試写のあと真利子監督と話す。昨日は「爆音上映」で、音が大きくないかを気にしていらした。茨城あたりのモータリゼーションの虚無性をつたえるために、あの音量は必要ですよ、とぼくはいった



あ、奇妙な題名『NINIFUNI』についてはチラシに​以下の簡略な説明があります。【ににふに】:2つであって2つでないもの(仏教用語より)。「而二不二」と書く​らしい。世界の根本的な分節性が、「融即」によってゆたかに撹乱される、ということでしょう



昨日の試写三本目は井川耕一郎監督『糸の切れた凧、渡辺護が語る渡辺護』。ピンク映画界の神話的巨匠、渡辺護監督へのインタビュー映画で、全10部のうちの第一部二時間強が昨日、上映された(​何という「向こう見ず」な企画だろう--笑)。昨日の段階では渡辺監督のピンク映画デビューまでが追われていったが、俳優から芸​能世界に入った監督の出自が、現在の彼の映画の「口立て」演出に​結実しているとよくわかった(しかもその場面が爆笑を喚起させた)。渡辺監督の画面センスと彼の絵画的才能のリンク、彼のヤクザ性と融通無碍な変容性の照応など、作家論の肝となる部分がさりげなく抜群の語り口でしめされている。井川耕一郎の姿は一瞬、渡辺​護の現在の撮影現場にある鏡から捉えられる。自らの対象同化と異物性顕示、その両方がそこに籠められていたのではないか。監督の手許にのこされた撮影台本(映画の現物はもう消失している)からの、井川くんの検証力に唸った。井川くんは『伊藤大輔』など、映像論的映像エッセイ、という点では吉田喜重さんと双璧。いずれは渡辺映画の「画面引用」によって、井川的、異様な映像論も展開されてゆく予感がある。全10部全体が観たい
   
 

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2011年12月22日 日記 トラックバック(0) コメント(0)












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