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田中眞澄追悼 ENGINE EYE 阿部嘉昭のブログ

田中眞澄追悼のページです。

田中眞澄追悼

 
日本映画史家の田中眞澄さんが亡くなられた。先月29日、新宿紀伊國屋ホールでの澤登翠さんのリサイタルと忘年会の後、帰宅、施錠後に、玄関で崩れた本に埋もれて亡くなっていたことが、31日夜、弟さんと警察が部屋に入り、わかったという。郡淳一郎君から連絡があった。北海道の同郷ということもあり、亡くなり方には草森紳一さんをおもわせるものがある(大学もおなじ慶應義塾)。

田中さんとぼくとは、フィルムアート社の「映画読本」シリーズで、「成瀬巳喜男」「森雅之」を共同編集した仲。というよりも、つきあいは、ぼくがキネ旬に入って早々からあり、「筋金入りの年長の書き手」としてずっと畏敬してきた。資料の博捜、そのうえでの判断。消失した作品が、「当時」どのような評価を受け、それが通時性をもつか否かを慎重に考察しながら、実際は「人脈」によって、映画内世界が、その「外部」が、どのように拡がっていたのかをいつも原稿が示していた点で、映画本体とともに世上の「歴史」を彼は書いてきた。つまり一映画にたいしての単一視点ではなかった。だからのち大学研究者に拡がっていったメディア論的映画史家の嚆矢もなしたが、たとえばベンヤミンやクレイリーを援用するタイプでもなかった。青山学院短期大学に奉職していたとはいえ本気の民間学者だった。往年のリブロポートから出ていた「シリーズ民間学者」に推したいようなタイプのひとだった。

田中さんは小津安二郎の研究家としての認知が高いだろうが(そこに著作が集中している――なかでも『全日記 小津安二郎』の、執念にみちた編纂が忘れられない)、たとえば90年代初頭当時、往年ATG公開されたスコリモフスキーの『早春』を観ていて、それを抜群の記憶力で語ることでぼくを羨望させたり、日活ロマンポルノの鑑賞体験も豊富だったりと、多くのひとが田中さんにあまりイメージしないことを、ときに茶目っ気もまじえて匂わすところが人間的な魅力だった。どこかにルンペンプロレタリアートへの憧れがいつもあって、それが既存の、大学を牙城にした映画史研究家や、「おたく」的な映画評論家と齟齬をきたし、その原稿も暗色に詰屈することがあった(そういえば、最期まで原稿用紙への鉛筆書きが守られたはずだ)。

田中さんは古書古雑誌蒐集派ではなく国会図書館派だった。雑誌にまだ原稿を書いていないころは、映画を観ていないときは国会図書館に籠り、貸し出しリクエストして、転記などのディスクワークをつづけていただろう。やりかたは、たぶんこうだ。年度を「縦に」追いながら、戦前の一般新聞、文芸誌をふくむ一般雑誌、映画雑誌を同時に「横に」読んで、そのなかから実際は歴史とメディア性の拡がりを捉えていた(その作業から構築される雑知識が、彼の知られざる魅力だった)。だから一本の映画にどう焦点を合わすのかの作業も実際は多義性を経由していて、「観てない(観られない)映画を、資料を鵜呑みに判断する」という評は、まったく田中さんの本質に届いていない。

むろん映画鑑賞機会をものすごく大切にした。「フィルムセンター最多有料鑑賞者」という巷の評価も間違っていないだろう。そうして「雌伏」をつづけていた田中さんが、生誕90年を契機にした何回目かの小津ブームで、一挙に小津研究の中心的な書き手になった。学識はあるが、学者的無味乾燥のない名文。当時流行のテマティスム構造批評にも接近しない。「事実」と「映画」の痛烈で同時に人間味ある「関係」を、自分のためにではなく、あるいは読者のためにではなく、ただ「歴史」のためだけに展覧する――それが田中さんの律儀さだった。

実際は内田吐夢論を単行本で書きたいと願っていらした。小津については周辺人脈が刈り出し尽くされ、発言も蓄積され尽くしていて(それは第一に田中さんがまとめたものだ)、既存文献の捌きと、ビデオの反復鑑賞で、何らかのことができてしまう気楽さがある。そうでないもの――そして自分の好むケンカイさと侠骨の入ったひととして(そして当然、途轍もない傑作を脈絡なく寡作する作家として)内田吐夢に情熱をそそいでいたのだとおもう。じつは内田には「自伝本」があって、それがまったく当てにならない。薄いし恬淡だし、日活多摩川の人脈も、満映の人脈も、戦後の人脈も、当然、謎にみちた「作家動機」もつかめない。「だから」田中さんは内田に肉薄したかったはずだ。

田中さんには単発の内田吐夢論はあるが、それは字数的に一事象の史的考察といったものに照準が合わされていた。織物でいえば、「糸」のようなものだ。そういった糸それぞれを織機で織り合わせ、構えの大きい吐夢論を仕上げてゆく時間と契機ができなかったのが惜しい。

ひととひとがどう交通して、「作品史」が成立してゆくのか――真面目にいうなら田中さんの視界はそこに展けていて、じつは映画を取り巻く上部構造も下部構造も知っていたひとだった。出自は左翼系かアナーキスト系だという感触をもたせるが、そこは例のごとく韜晦する。それでも柏木隆法さんの『千本組始末記』(そこではヤクザと映画人と材木屋とアナーキストが戦前の京都・千本を舞台に錯綜する)が出たときは「先を越されました」と心中、悔しがっているようすが窺えた。小川紳介が好きで、「集会」の一員だったことがあるのではないか。あるいは三流エロ系の出版物に、高尚な文言を書いていたこともあるという「伝説」をみな知っていたし、明治文学のあれこれにも博識だった。たぶん筑摩などの「明治文学全集」は読了どころか三読四読しているとおもう。いちど広津柳浪かなにかの話が出たとき、田中さんの語る「細部」がぜんぜんわからなかったこともあった。

「交通」が田中さんの興味だったことは、田中さんが自分のライフワークと目していたものに「上野駅」論があった点でも傍証されるだろう。どのような内容かはわからない(聞いておけばよかった)。ただし明治鉄道史から始まって、石川啄木の「ふるさとの訛なつかし」、東京芸大生の青春、下谷万年町のスラム、兵隊列車、闇市(アメ横)の勃興、やがては集団就職期にいたるまでを多くの有名無名のひとたちが右往左往し、駅前旅館がどう繁盛し、吉原へとどのように人力車が駆け抜け、不忍池のほとりをどのように恋人たちが同道したか、あるいは上野駅の地下がどうなっていたか、また「浮浪児」がどのようにたむろして、たとえばそこで石川淳がどのような出会いをしたかが、創造力豊かな活劇として、それでも田中さんらしい慎重な考証性をつらぬいて、書かれたかもしれない。田中さん特有の博覧と稠密さから、どうしても堀切直人の「浅草」四部作、その「上野駅」版を聯想してしまう。

最後に田中さんと会ったのは、内藤誠さんの『明日泣く』公開と『偏屈系映画図鑑』出版を祝うパーティだった。その前、『マイ・バック・ページ』の試写のあとは、南新宿の裏のほうで飲んだ。どちらのときも、微妙に話が噛み合わなかった。たぶんそれは、90年代に映画の仕事をした者同士が、間隔を置いて久闊を叙すとき、ひとしなみに起こる事象だろう。「われわれ」が悪いのではなく、「映画」の状態がどの局面でも悪化し、しかも「情熱」への算段では人生に応じた角度差がかならず生じているということなのだ。もっと喋っておくべきだった。

――いまはただ、合掌
 
 

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2012年01月01日 日記 トラックバック(0) コメント(10)

田中さんの訃報を本日.日経紙で知り驚きました。検索をして此処に辿り着きました。
田中さんとは個人的な付き合いがありました。田中さん宅の電話が時々長く話し中になるので、訊いてみたら本の山が崩れて受話器を飛ばしてしまうのだそうです。3/11震災の際に下敷きになりませんでしたかと半ば冗談で話した事もあります。それが.直接の原因ではないと思います。田中さんはクラシック音楽にも精通されており、昨秋の音楽評論家宇野功芳氏の傘寿記念演奏会に私が招待して来なかったので不思議に思っていたら、当日、急に体調が悪く来られなくなったと言っておられました。その後、演奏会などにお誘いしても<多忙を理由に断られる事が多く、今思うと体調が悪かったようです。
内田吐夢論を単行本iする意志があったのは存じませんでしたが、田中さんは俳優の伊吹吾郎さんと中学生の時に同級生で、幼馴染みの伊吹さんが内田吐夢に見いだされ直に謦咳に接していた事を羨ましいと言っておられましたね。
暮れに最後に話したおり、みすずの「ふるほん行脚」は連載100回を記念に続編を出すとされていましたが、予定通り出版される事を願います。合掌

2012年01月04日 T.S URL 編集

コメントありがとうございます。
伊吹吾郎さんのことは初耳でした。

ぼくはロック小僧なので
田中さんのクラシック好きには応えられませんでした。
一度、天満敦子さんのリサイタル
(江東区の市民会館みたいなところ)に
誘われて、行ったことがあります。
それと文楽をご一緒したこともありました。

多趣味。ただし食い物(酒の肴)にかんしては
田中さんはあまり食べず、
いつも注文するのが
道産子ならではのじゃがバターでしたね。

安い飲み屋がどこかがいつもアタマに入っていました。
下北沢の駅のすぐそばに、
狭くて安い飲み屋があって
そこでは十回くらい飲んだかもしれません。
やがて区画整理で消えてしまった店です
 

2012年01月04日 阿部嘉昭 URL 編集

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2012年01月04日 編集

T.S.さんへ

問題がないとおもい、
T.S.さんにお伝えするのはこの方法しかないので
あえてこの欄に公言いたしますが
キネ旬『忠次旅日記』特集の際、
田中さんの澤蘭子インタビューの
編集記者とはぼくです。

そうですか、田中さんはあのときのテープに
固執してられましたか。

いま、本棚のカセットテープ置き場を探しましたが
みつかりませんでした。
じつは当時のインタビューテープは
ほとんど整理してしまっているのです。

これから初詣に出かけたあと
もういちど探してみます。
みつかりましたら、
この欄でもういちどお知らせします。

2012年01月05日 阿部嘉昭 URL 編集

阿部嘉昭様

私の連絡先として、メルアドを提示したので非公開としました。メルアド判りましたでしょうか? レスした文面自体は公開しても良いものです。安部さんの経歴にキネ旬の記者とありましたので、もしやと思い敢えて澤蘭子さんのことを書いたのです。澤蘭子さんの生前に、田中さんは、音楽関係者は澤さんに取材しておくべきだと雑誌に訴えておりましたが、怠慢な事に誰も接近しませんでした。テープが残っていれば貴重な証言なので期待しています。
昨夜、澤登翠さんのお弟子さんの片岡一郎さんから電話がありました。亡くなられたと見られる当夜の忘年会に同席したそうですが、田中さんはふだん通りで健康に異常は感じられなかったとのこと、遺族が念のため警察に検死を依頼したので、その結果が出るまでマスコミへの発表は控えていたそうです。「お別れ会」については、片岡さんには未だあるかどうか判らないそうです。
私の今年の初夢に黒澤明が出てきて、彼と幻の映画、完全版「白痴」について話しました?!そういえば田中さんが黒澤監督にインタビュー出来ていたら完全版「白痴」にあった筈の幻のシーンについて訊くつもりだったそうです。 
ところで、行方不明とされている黒澤明の完全版「白痴」の映画フィルムは現在、某有名映画関係者が秘匿しているという噂を御存じでしょうか?田中さんなりに関係者に裏を取られており、その噂はどうやら真実らしいと語られておりました。それなら、雑誌に記事を書いて世間に告発してみたら如何と私が言ったら、田中さんは、そういうスキャンダラスな事は私の分野ではないと拒否されました。
風見章子さんに取材する事が出来たら、彼女が立ち会った桑野通子の臨終について詳しく訊いてみたいとも言われておりましたが実現出来たのでしょうか?
田中さんは、手書き原稿に拘れていたそうですが、携帯をお持ちだったのにメイルもネットも利用しないし、FAXさえも使用されてなかったご様子、それで連絡に困った事がありますが、それらが如何にも「アナログ」な田中さんだったらしいと思います。

2012年01月05日 T.S URL 編集

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2012年01月11日 編集

つい先日田中真澄氏が地元の釧路出身とは知らず恥ずかしい思いです。国際啄木学会の会員で高瀬といいます。まだなりたての若輩です。
啄木と関係もあり、体調崩すまでは大逆事件の研究者「千本組始末記」の作者柏木隆法さんと、手紙のやり取り兼近状報告かねての日記をもらっていたのももう遠くなりました。
用件は地元で啄木の立ち読み頻繁だったと伝わる書店について調べて書いたのですが、目立ちたくない話題にされたくないとの遺族の意向でメモだけ取らせて貰いましたが、作成中の系図の中に濁っていますがマスズミとあり、娘様の名前が一致しており、お子さんのところが次男とだけあありました。現状ではなんとも決断できませんが、お父様の名前は武桜様となっておりました。
ご存知の方おられたらプライバシーの問題もあり、教授いただける方おりましたら助かります。

2022年01月13日 高瀬優直 URL 編集

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2022年01月13日 編集

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2022年02月17日 編集

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2023年07月27日 編集












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